「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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まだ「対米従属」を続けるのか?
対談『転換期の日本へ』を読んで

安原和雄
 対談『転換期の日本へ』の著者が日本の読者に語りかけるものは何か。それは<まだ「対米従属」を続けるのか?>である。この核心をつく問いかけから逃げるわけにはゆかない。今後も「対米従属」を続けることになれば、日本はどうなるのか。
 その一つは、沖縄の軍備を増強し、日米による中国封じ込め策の要塞とする動きが強まることである。もう一つは、安倍首相の唱える「積極的平和主義」とは、日本に平和をもたらすのかである。それは米国が要求すれば、日本も積極的に参戦することにほかならない。言い換えれば「積極的平和主義」は戦争を志向するまやかしの平和主義である。(2014年6月10日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

本書『転換期の日本へ』(NHK出版新書、2014年1月刊=明田川融、吉永ふさ子 訳)の副タイトルは<「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か> ― となっている。
著者は以下の2人である。
*ジョン・W・ダワー=1938年生まれ、マサチューセッツ工科大学名誉教授。著書「吉田茂とその時代」(中公文庫)、「敗北を抱きしめて」(岩波書店)など。
*ガバン・マコーマック=1937年生まれ、オーストラリア国立大学名誉教授。著書「空虚な楽園ー戦後日本の再検討」(みすず書房)、「属国ー米国の抱擁とアジアでの孤立」(凱風社)など。

本書の要点を以下に紹介し、それぞれに<安原の感想>を述べる。
(1)協力か、軍事化か
尖閣(釣魚)諸島をめぐる(2012年の)出来事は、世論というものが、どんなに容易に煽り立てられるものであるかを見せつけた。日本、中国、台湾のどの国であれ、自分だけが正当に尖閣諸島の領有権を持つという主張をしている限り、東シナ海が「平和と協力、そして友愛の海」に変わることはないだろう。日本の、そして世界のメディアも、中国が「ますます了見が狭くて、虎視眈々と自分の国の国益だけを狙う、国家主義の権化(ごんげ)」になっていると非難する。尖閣諸島や南シナ海での係争は、中国の世界に向けた「挑戦」だと捉えられる一方で、日本政府の非妥協的、好戦的論調について触れられることは余りない。そのような中、沖縄の軍備を増強し、日米による中国封じ込め策の要塞とするべく着々と行動する。

<安原の感想>中国封じ込め策の要塞
ここで見逃せないのは「日本、世界のメディアが中国を非難しながら、その一方で、日本政府の非妥協的、好戦的論調に触れられることは余りない。沖縄の軍備を増強し、日米による中国封じ込め策の要塞へと行動する」という指摘である。日米による中国封じ込め策の要塞、という認識は適切と言えるのではないか。自分の真の意図を曖昧にみせるために相手を非難する手口は常套手段でもある。しかし真実を伝えるべきメディアの姿勢としては決して望ましいことではない。むしろ邪道である。

(2)真の「戦後レジームからの脱却」
2013年、日本政府は国境の島々の「防衛」に焦点を置くと発表した。このことから島民は、本土攻撃をできるだけ引き延ばすため、沖縄が米軍の上陸と攻撃の矢面に立つことを強いられた1945年4月に何が起こったかを思い出す。
現代日本には、沖縄のように県民が結束して、「ノー」を突きつけた前例はない。地元の意思を無視し、日米政府の合意だからと、新たな米運基地建設を押しつけようとする動きを、県民は1996年以来拒否し続けてきた。民主的憲法の原則を大事にするより、米国の軍事的、経済的戦略を最優先させる政府に対する沖縄県民の抵抗は実に根強く、したたかなものである。
「沖縄問題」解決のための努力は、なによりもまず、大浦湾を埋め立て辺野古に新基地を建設する計画を白紙に戻し、米国と再交渉すること、そして「沖縄の基地負担軽減」を具体的に目に見えるかたちで沖縄県民に示すことから始まる。また、なによりも戦後日本政府が踏襲してきた米国依存の精神を捨て、政府も国民も自立することが必要であろう。安倍晋三首相とは違ったかたちの「戦後レジームからの脱却」と「日本を取り戻す」努力が市民の責務である。

<安原の感想>「日本を取り戻す」努力を
上述末尾の<米国依存の精神を捨て、政府も国民も自立することが必要であり、安倍首相とは異質の「戦後レジームからの脱却」と「日本を取り戻す」努力が市民の責務>という指摘は適切である。これを実現するためには反安倍路線に徹する努力が不可欠である。言い換えれば右傾化路線を進める安倍路線をどう転換させるかである。安倍首相自身が自己反省して転換するだろうか。その可能性は皆無に等しい。全国レベルの反安倍勢力の結集を図り、安倍政権を崩壊させる以外に妙案は考えられない。

(3)「積極的平和主義」の国の「平和隊」
安倍首相は2013年9月国連総会出席のため、訪米し、演説した。積極的平和主義を掲げ、世界の安全保障に貢献する決意を語った。この「積極的平和主義」は好ましい印象を与える。期待感を起こさせる。しかし安倍首相は集団的自衛権の行使、国家安全保障会議の設置に強い意欲を示し、安倍政権下での11年ぶりの防衛予算増額に言及し、米国の要求するような、米軍と肩を並べて戦争に参加する国へと踏み出したことを宣言したのだった。安倍式「積極的平和主義」とは、米国が要求すれば、日本も積極的に参戦することであった。
安倍首相が日本を「積極的平和主義の国」として、世界に売り込む姿を目の当たりにして、日本国憲法の平和条項を擁護したい人々が、苦々しく思うのは当然である。基地負担軽減の言葉とは裏腹に「軍事第一」「基地第一」主義を押しつけられてきた沖縄では、その思いはさらに強烈であろう。
ジョージ・オーウェル著『1984年』の中に、真理省が「戦争は平和である」と述べた有名な文言があるが、安倍首相が「積極的平和主義」に続いて、次は自衛隊を「平和隊」と改称する日も遠くないだろう。

<安原の感想>積極的平和主義のまやかし
安倍首相の唱える「積極的平和主義」とは何を意味しているのか。一見「積極的反戦主義」とも受け取られやすいが、実は決してそうではない。その正反対である。「米国が要求すれば、日本も積極的に参戦する」という意味である。「平和主義」の看板を掲げながら、その実「積極的戦争主義」を指しているのだから、言葉の使い方が乱暴すぎる。上述末尾の<安倍首相が「積極的平和主義」に続いて、次は自衛隊を「平和隊」と改称する日も遠くないだろう>という懸念は的確というべきだろう。


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こどもの日に改めて「平和」を考える
安倍政権の集団的自衛権を批判する

安原和雄
5月5日は「こどもの日」である。この機会に「日本国憲法と平和」というテーマで考え、提言したい。未来の成人である、今のこどもたちのためにこそ、平和憲法は、守り、生かしていかなければならない。そこで憲法記念日に論ずべき「平和と集団的自衛権」というテーマをあえて「こどもの日」に掲載する。
安倍政権は集団的自衛権の名の下に、横柄な思い上がりともいえる姿勢で戦争を志向しつつあるように見受けられる。私はその昔、小学生のころ、あの大東亜戦争、米軍による本土空襲、広島・長崎への原爆投下による惨劇を目の当たりにした体験者(1935年=昭和10年=広島県生まれ)の一人である。軍事力行使を軽々に弄(もてあそ)ぶかのような振る舞いを許すわけにはいかない。(2014年5月5日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

2014年5月3日の憲法記念日に大手紙社説は、安倍政権が目指す集団的自衛権と平和についてどのように論じたか。まず大手5紙社説の見出しは以下の通り。
*朝日新聞=安倍政権と憲法 平和主義の要を壊すな
*毎日新聞=集団的自衛権 改憲せず行使はできぬ
*讀賣新聞=集団的自衛権で抑止力高めよ 解釈変更は立憲主義に反しない
*日本経済新聞=集団的自衛権めぐるジレンマ解消を
*東京新聞=9条と怪人二十面相 憲法を考える
(注)東京新聞社説の見出し「9条と怪人二十面相」という発想はいささか懲りすぎで、いかがなものか。遊び心が少し過剰とはいえないか。

 以下、各紙社説の大意を紹介し、それぞれに安原のコメントをつける。
(1)朝日社説の大意
 安倍首相は、今年は違うやり方で、再び憲法に手をつけようとしている。条文はいじらない。かわりに9条の解釈を変更する閣議決定によって、「行使できない」としてきた集団的自衛権を使えるようにするという。これだと国会の議決さえ必要ない。仮に集団的自衛権の行使を認めれば、どんなに必要最小限だといっても、これまでの政策から百八十度の転換となる。
 真っ先に目につくのは国会の無力だ。論争によって問題点を明らかにし、世論を喚起する。この役割が果たせていない。対立する政党の質問にまともに答えようとしない首相。それを許してしまう野党の弱さは、目を覆うばかりだ。
 安倍首相は国家安全保障会議を発足させた。だが議事録は公開されず、特定秘密保護法によって自衛隊を動かす政策決定過程は闇に閉ざされそうだ。集団的自衛権の行使をどうしても認めたいというのならば、とるべき道はひとつしかない。そのための憲法改正案を示し、衆参両院の3分の2の賛成と国民投票での過半数の承認を得ることだ。

<安原のコメント> 安倍政権のファシズム的体質
 「集団的自衛権の行使」について末尾の「憲法改正案を示し、衆参両院の3分の2の賛成と国民投票での過半数の承認を得ることだ」という朝日の主張は誤解されそうだ。しかし憲法改悪をそそのかしていると受け止めるのは正しくない。むしろその逆で、多くの国民の意志、希望を無視する安倍政権への反論、警告と受け止めたい。集団的自衛権の行使を閣議決定によっていとも簡単に容認することは、安倍政権のファシズム的体質を露骨に示している。この一点を厳しく凝視するときである。

(2)毎日社説の大意
 憲法9条によって、日本は戦争を忌避し、軍事に抑制的に向き合う平和主義の国、というイメージを国際社会に浸透させてきた。一方、日米安保条約は、巨大な基地と補給拠点を米国に提供することと引き換えに、外国からの侵略を防ぐ役割を果たしてきた。9条の理念を、安保のリアリズムが補う。一見矛盾する二つの微妙な均衡の上に、日本の国際信用と安全がある。軽々しく崩してはならぬ、「国のかたち」である。
 安倍政権は。その憲法9条が禁じている集団的自衛権の行使を、政府の解釈を変えることで可能にする、という。条件をつけた「限定容認」であれば、憲法9条の枠は超えないだろうという理屈だ。
 集団的自衛権とは本来、他国の要請で他国を守るため、自衛隊が出て行くことである。私たちはこれまでの社説で、解釈改憲は問題が多すぎるとして、反対し、限定容認論は、実際には歯止めがきかない「まやかし」と主張してきた。それでも集団的自衛権の行使が必要だというなら安倍政権は正々堂々と憲法改正を提起してはどうか。

<安原のコメント>「平和への性根」が試されるとき
 毎日社説は次のように補足している。「集団的自衛権さえ行使できれば、抑止力が高まり平和が維持される、と解釈改憲に走るのは、憲法という国家の体系を軽んじた、政治の暴走である」と。この「政治の暴走」という認識は適切である。一方、末尾の「集団的自衛権の行使が必要だというなら安倍政権は正々堂々と憲法改正を提起してはどうか」という呼びかけも刺激的だ。「悪党集団」ともいうべき安倍政権によって、主権者・国民一人ひとりの「平和への性根」が試されつつあることを深く自覚したい。

(3)讀賣社説の大意
 米国の力が相対的に低下する中、北朝鮮は核兵器や弾道ミサイルの開発を継続し、中国は急速に軍備を増強して、海洋進出を図っている。領土・領海・領空と国民の生命、財産を守るため、防衛力を整備し、米国との同盟関係を強化することが急務である。安倍政権が集団的自衛権の憲法解釈見直しに取り組んでいるのもこうした目的意識からであり、高く評価したい。憲法改正には時間を要する以上、政府の解釈変更と国会による自衛隊法などの改正で対応するのが現実的な判断だ。集団的自衛権は「国際法上、保有するが、憲法上、行使できない」とする内閣法制局の従来の憲法解釈は国際的には全く通用しない。
 集団的自衛権の行使容認は自国への「急迫不正」の侵害を要件としないため、「米国に追随し、地球の裏側まで戦争に参加する道を開く」との批判がある。だが、これも根拠のない扇動である。集団的自衛権の解釈変更は、戦争に加担するのではなく、戦争を未然に防ぐ抑止力を高めることにこそ主眼がある。

<安原のコメント>安倍政権を激励する社説
 ジャーナリズムの存在価値は、政治・経済・社会のありようを左右する政権を批判し、苦言を含めて提言することにある。ところが讀賣社説はこれと一八〇度異なり、むしろ政権と同じ視点から政権を激励し、一方、国民に向かってお説教を繰り返している。讀賣のこの姿勢はすでに久しいが、讀賣としては「言論、思想の自由」のひとつのあり方と心得ているのだろう。反論を浴びてこそ、自分なりの意見も鍛えられることに着目すれば、讀賣の存在は反面教師としての役割をご親切にも演じてくれているのだろう。

(4)日経社説の大意
 集団的自衛権に関する現在の政府見解の見直しを進めるにあたり、ジレンマがある。その解消に動くことが求められている。その一つは「安倍首相のジレンマ」。集団的自衛権の解釈変更は安倍首相が前面に出てくれば出てくるほど、抵抗が大きくなるという政治の現実がある。このジレンマを解消するには公明党の理解を得ることが何より必要になる。さらに「改憲のジレンマ」もある。もし政府解釈の変更によって集団的自衛権の行使に風穴をあけると、首相が掲げる改憲が差しせまった問題ではなくなり、むしろ遠のくという皮肉な結果をもたらす可能性をひめているためだ。
 戦後政治をふり返ると、自衛隊の存在、日米安保条約のあり方、そして集団的自衛権の解釈と、憲法9条が常に争点となり、その攻防がひとつの軸になってきた。もし、ここで集団的自衛権の問題に一応の方向が定まれば、憲法論議は新たな段階に入っていく。

<安原のコメント>「集団的自衛権」突進の時代へ
 日経もかなり以前から保守政党内閣の支持に傾斜した社説を掲げてきた。末尾の「ここで集団的自衛権の問題に一応の方向が定まれば、憲法論議は新たな段階に入っていく」とは何を指しているのか。私なりの読み方では、平和の衣(ころも)を脱ぎ捨てて、戦争という名の衣に着替える、という意味だろう。そこで今後の憲法論議は従来の「平和と反戦」ではなく、「集団的自衛権と軍事力行使」へと質的に大変化をして突進していく。だからこそ日経社説は「国民よ、覚悟はいいか」と問いかけているのだ。

(5)東京社説の大意
 憲法九条が破壊されるのに国民が無関心であってはならない。解釈改憲も集団的自衛権も難しい言葉だ。でも「お国」を守ることが個別的自衛権なら、他国を防衛するのが集団的自衛権だろう。平和憲法の核心は九条二項(戦力の不保持と交戦権の否認)にある。日本は近代戦を遂行する戦力を持ってはいけない。ドイツの哲学者カントも「永遠平和のために」の中で「常備軍は全廃されなければならない」と訴えた。なぜなら常備軍は、ほかの諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからだ。中国や北朝鮮の脅威がさかんに唱えられているが、もちろん個別自衛権が使える。
 でも他国防衛など、憲法から読み取るのは、無理筋なのだ。集団的自衛権行使を封じることこそ、九条の命脈と言っても過言ではない。でも政権はこの無理筋を閣議決定するつもりだ。米国は日本が手下になってくれるので、「歓迎」する。自衛隊が海外へ出れば、死者も出る。平和憲法がそんな事態が起きないように枠をはめているのに、一政権がそれを取り払ってしまうというのだ。ここは踏みとどまるべきだ。

<安原のコメント>平和憲法の核心は九条
 「平和憲法の核心は九条」という東京新聞社説の指摘は正しい。まさに今こそ力説すべき「九条」である。ところが安倍政権はこの核心条項が気に入らない。しかし気に入らないからといって、子どもが玩具箱から投げ捨てるような気分で、破壊していいことにはならない。九条は今さら力説するまでもなく、「世界の宝」である。著作「永遠の平和のために」の哲学者カントが今生存していれば、最大級の賛辞を捧げるだろう。そういう歴史的「宝」を安倍政権は投げ捨てようとしている。驚くべき幼稚さである。


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防潮堤建設に異論唱える首相夫人
あの原発大惨事から丸3年を経て

安原和雄
 ユニークな首相夫人が登場してきた。東日本大震災の被災地で政府が進める防潮堤建設プランに異論を唱えているのだ。世に言う「夫唱婦随」に堂々と反旗を振りかざしているのだから世の関心をかき立てずには置かない。巨費を投じ、とかく税金の浪費、無駄に走る土建業に真っ向から挑戦する形となった。
 首相夫人の言い分には十分な理がある。あの原発大惨事から丸3年を経たいま、夫人に軍配が上がる結果となれば、今後の国家予算の使い方、土建業のあり方が質的に改善されるきっかけになるかも知れない。そうなることを期待したい。今後の推移に目が離せない。(2014年3月13日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

毎日新聞(2014年3月12日付)に興味深い記事が載っている。見出しを紹介すると、次のようである。
見直し訴える首相夫人
防潮堤 町の魅力消す
「若者の意見も聞いて」


安倍晋三首相の妻、昭恵さん(51)が毎日新聞のインタビューに応じ、東日本大震災の被災地で政府が進める防潮堤建設計画になぜ異論を唱えるかを語っている。彼女の真意はどこにあるのか。一問一答(要旨)を紹介する。

問い:なぜ防潮堤建設計画の見直しを主張されているのか。
答え:昨年6月ごろから急に気になり始め、地元でフォーラムを開催したりしてきた。いろいろ調べてみると、完全に安全でもないし、あまりに巨大な物は、何の基準によるのか分からない。生態系を崩し海の見えない魅力のない町になるという意味ではマイナス面が大きい。必要以上の物を造るべきではないし、すごくお金がかかる。
問い:建設を進める宮城県の村井知事と先月意見交換したそうですね。
答え:反対運動をするつもりはなく、良い復興をしてもらいたいと伝えたかったが、平行線だった。知事は「目の前で人が亡くなり、涙を流している人をたくさん見た。二度とこういう思いを県民にしてもらいたくない」と防潮堤の必要性を主張された。私は「必ずしも皆が賛成ではないし、安全な町がつくれても魅力がなくなって若い人が出ていったら、何のための防潮堤か。若い人たちの意見も聞いてほしい」と言った。

問い:震災直後、防潮堤建設を求める声は聞きましたか。
答え:私は聞いたことがない。個々の被災者で「造ってください」という人は本当にいたのかと思う。住民合意が十分でない中で、建設計画だけが進められていったのではないか。県側も、全部県の予算でやってくださいと言ったら造らないと思う。何が一番大事かというのが、造ってもらうために見えなくなっているところもあるのではないか。原発も一緒だ。建設反対の人たちがいても、過疎の町だと原発に付随していいこともあるので、結局受け入れてしまう。
問い:地元住民の要望よりも、国から言われたものを受ける形になっていると?
答え:先日伺った愛知県岡崎市立北中学校の子どもたちは宮城県石巻市立湊中学校と交流していて、「何が必要ですか」と聞き、地元の人たちの協力で80万円を集め、部活動のいろいろな道具をそろえた。微々たるお金だが、その学校にとってはすごく大事なもので、おかげで部活動が続けられると。それを聞いて8000億円とも1兆円ともいわれる防潮堤建設費と比べてしまった。政治家の女房を何年もやりながら、そういうことに気づいていなかったが、防潮堤問題でスイッチが入ってしまった。

問い:復興と今後どう関わっていきますか。
答え:被災地復興だけではなく、多様性のある社会を目指すべきだと思う。どの地域にも「小さい東京」をつくるのではなく、それぞれの良さを生かした地域づくりをする。ここにしかないものが何か一つあると、人が集まってくる。農業もその一つで、興味を持つ若い人たちもたくさんいる。主人が(首相を)を何年やるか分からないが、辞めたら私も農業しながら生活できたらいい。震災をきっかけにボランティアに目覚めた人たちが助け合っていけたらと思う。

<安原の感想>首相夫人の優れた見識
 防潮堤を残すか、残さないかは、考えようによっては巨大なテーマとも言える。なぜならそれぞれ個人の趣味、考え方、生き方に関(かか)わるだけでなく、日本国のありようにも深く関わっているからである。それを承知の上で首相夫人は「防潮堤」に否を唱えている。連れ合いの男性が一国の宰相であるにもかかわらず、それに安易に同調しないところは、並みの見識ではない。図太い神経の持ち主の鬼女というべかも知れない。優れた見識と評価したい。
 しかし誤解を避けるために指摘する必要があるのは、決して頑迷な神経の持ち主ではない。むしろ柔軟な発想の持ち主である。上述の「多様性のある社会を目指すべきだ」という発言にそれが表れている。多様性と頑迷とは相反するからである。ただ注意を要するのは「多様性ある社会」とは、「それぞれの良さを生かした地域づくり」であり、ただ違っていればそれで十分、というわけではない。われわれ個人一人ひとりの生き方に応用すれば、単に他者と違っているだけでなく、それぞれの個性を生かす生き方を大切にする姿勢といえようか。この世に生をうけたからにはいのちを大切に育(はぐく)んでいく営み、いいかえれば人生と寿命を全うしていくことは当然の権利であり、同時に義務ともいえよう。


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「人間中心の国づくり」めざして
2014年元旦社説を批評する

安原和雄
 大手紙の元旦社説のキーワードとして、民主主義、日本浮上、長期の国家戦略、人間中心の国づくり、などを挙げることができる。これらのキーワードは「強い国」志向にこだわる安倍首相の姿勢と果たしてつながるのか。率直に言えば、首相の鈍感さはもはや限界に来ているのではないか。その一つが靖国参拝である。さらにアベノミクスという名の景気対策も、二千万人にも及ぶ非正規労働者らには無縁である。賃上げや消費の増大にはつながらないからだ。
 東京新聞社説は「人間が救われる国、社会へ転換させなければならない」との趣旨を指摘している。これは人間の存在そのものが否定されかねない地獄のような現状への告発ともいえる。われら日本人が喜びと共に「未来への希望」を語り合えるのはいつの日なのか。(2014年1月3日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

まず大手5紙の2014年元旦社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞=政治と市民 にぎやかな民主主義に
*毎日新聞=民主主義という木 枝葉を豊かに茂らそう
*讀賣新聞=日本浮上へ総力を結集せよ 「経済」と「中国」に万全の備えを
*日本経済新聞=飛躍の条件伸ばす 変わる世界に長期の国家戦略を
*東京新聞=人間中心の国づくりへ 年のはじめに考える

なお1月3日付5紙の社説見出しを参考までに書き留める。
*朝日新聞=「1強政治と憲法」 「法の支配」を揺るがすな
*毎日新聞=文化栄える国へ 自由な社会あってこそ
*讀賣新聞=(上向く世界経済) 本格再生へ「分水嶺」の1年だ 先進国と新興国にくすぶる不安
*日本経済新聞=飛躍の条件<創る> 産業社会をモデルチェンジする
*東京新聞=障害を共に乗り越える 年のはじめに考える

以下、各紙元旦社説の要点を紹介し、それぞれに安原のコメントをつける。
▽朝日新聞社説
行政府は膨大な情報を独占し、統治の主導権を握ろうとする。その結果、多くの国民が「選挙でそんなことを頼んだ覚えはない」という政策が進む。消費増税に踏み込んだ民主党政権、脱原発に後ろ向きの現政権にそう感じた人もいるだろう。議論が割れる政策を採るなら、政治は市民と対話しなければならない。
いずれも投票日だけの「有権者」ではなく、日常的に「主権者」としてふるまうことを再評価する考え方ともいえる。そんな活動はもうあちこちに広がっている。新聞やテレビが十分に伝えていないだけだと批判をいただきそうだ。確かに、メディアの視線は選挙や政党に偏りがちだ。私たち論説委員も視野を広げる必要を痛感する。

<安原のコメント>自己批判する論説委員
にぎやかな民主主義に育てていくためにはまずなによりも新聞社の論説委員自身の自己批判から出直す必要があるとも読めるユニークな社説である。ひとむかしも前の論説委員なら自己批判とは無縁であった。大上段に振りかぶった論説が主流となっていたような印象が強いが、それに比べると昨今の論説委員の物腰は激変といえる。皮肉を言いたいのではい。謙虚であることは無論大切なことである。しかし謙虚さは読者や市民に対して必要であるが、政財官界の権力の座にある群像に向かっては無用であるだろう。この姿勢を曖昧にすることは疑問である。

▽毎日新聞社説
「統治する側」が自分たちの「正義」に同調する人を味方とし、政府の政策に同意できない人を、反対派のレッテルを貼って排除するようなら、そんな国は一見「強い国」に見えて、実はもろくて弱い、やせ細った国だ。全体が一時の熱にうかされ、一方向に急流のように動き始めたとき、いったん立ち止まって、国の行く末を考える、落ち着きのある社会。それをつくるには、幹しかない木ではなく、豊かに枝葉を茂らせた木を、みんなで育てるしかない。
その枝葉のひとつひとつに、私たちもなりたい、と思う。「排除と狭量」ではなく、「自由と寛容」が、この国の民主主義をぶあつく、強くすると信じているからだ。

<安原のコメント>良識ある筆致の効果は?
一読しての印象では工夫を凝らした社説である。良識ある筆致ともいえる。しかしその良識なるものが、批判の対象である安倍首相という人物にどこまで通用するのか、その肝心なところが今ひとつ合点がいかない。勝手な想像で恐縮だが、この社説については論説委員の間でも異論があったのではないか。もし異論がなかったとすれば、活気を失った論説陣という印象が否めない。
社説の締めくくりである次の指摘には同感である。<「排除と狭量」ではなく、「自由と寛容」が、この国の民主主義をぶあつく、強くすると信じている>と。

▽讀賣新聞社説
デフレの海で溺れている日本を救い出し上昇気流に乗せなければならない。それには安倍政権が政治の安定を維持し、首相の経済政策「アベノミクス」が成功を収めることが不可欠である。当面は、財政再建より経済成長を優先して日本経済を再生させ、税収を増やす道を選ぶべきだ。
対外的にはアジア太平洋地域の安定が望ましい。日中両国の外交・防衛当局者による対話を重ねつつ、日米同盟の機能を高めることで、軍事的緊張を和らげねばならない。今年も「経済」と「中国」が焦点となろう。この内外のテーマに正面から立ち向かわずに、日本が浮上することはない。

<安原のコメント>讀賣らしく日米同盟強化で一貫
讀賣新聞はかなり以前から保守政権を支える役割を担ってきた。特に安倍政権の発足と共に熱の入れようも高まっている。特に今2014年元旦の社説は1ページの3分の2のスペースを占める超大型となって、異様な雰囲気をただよわせている。
その大型社説に盛り込まれている主張は、まず安倍首相の経済政策「アベノミクス」賛美論に始まり、対外政策では日米同盟の機能強化論で一貫している。讀賣社説は「日米同盟の機能を高めることで、軍事的緊張を和らげねばならない」と指摘しているが、軍事同盟の強化はむしろ緊張激化を誘発する恐れがある。軍事的に威勢がよすぎるのは危険というほかないだろう。

▽日本経済新聞社説
世界の変化の最たるものは、世の中に影響力を及ぼす地域が米欧からアジアへと移行、その傾向に拍車がかかっていることだ。地球規模でものごとがうごいていくグローバル化によるものだが、百年単位の長期サイクルで考えると、別に驚くに値しない。「アジアへの回帰」そのものだからだ。
国際社会の構造変革が進んでいるのである。その中心をなすのは、膨張する中国だ。軍事、経済などのハードパワーの増大を背景に、世界の力の均衡がゆらぎかねないところまで来つつある。米国で内向きのベクトルが働いているとすればなおさらだ。日本として、日米同盟というハードと、日本の文化と価値観というソフトのふたつの力をうまく使い分けるスマートパワーで、中国と向き合っていくしかない。

<安原のコメント>日本はスマートパワーを発揮できるか
一読後の印象は、なかなか示唆に富む社説といえる。「地球規模のグローバル化」と「百年単位の長期サイクル」で考えると、「アジアへの回帰」が顕著だというのだ。「アジアへの回帰」とは、中国を主役とする国際社会の構造変革の進行にほかならない。それに拍車をかけているのが「内向きの米国」の動向である。
以上のような「地球規模の大変化」という新潮流のなかで日本の果たすべき役割は何か。
ここに「日米同盟というハード」と「日本の文化と価値観というソフト」をうまく使い分ける「スマートパワー」なるものが登場してくる。しかし軍事中心の従来型日米同盟に執着する限り、有効なスマートパワーを果たして発揮できるだろうか。

▽東京新聞社説
強い国志向の日本を世界はどうみているか。昨年暮れの安倍首相の靖国参拝への反応が象徴的。中国、韓国が激しく非難したのはもちろん、ロシア、欧州連合(EU)、同盟国の米国までが「失望した」と異例の声明発表で応じた。戦後積み上げてきた平和国家日本への「尊敬と高い評価」は崩れかかっているようだ。
アベノミクスも綱渡りだ。異次元の金融緩和と景気対策は大企業を潤わせているものの、賃上げや消費には回っていない。つかの間の繁栄から奈落への脅(おび)えがつきまとう。すでに雇用全体の四割の二千万人が非正規雇用、若き作家たちの新プロレタリア文学が職場の過酷さを描いている。人間が救われる国、社会へ転換させなければならない。
何が人を生きさせるのか。ナチスの強制収容所で極限生活を体験した心理学者フランクルが「夜と霧」(みすず書房)で報告するのは、未来への希望であった。

<安原のコメント>「未来への希望」は期待できるか
「強い国」志向にこだわる安倍首相の鈍感さはもはや限界に来ているのではないか。その一つが昨年暮れの靖国参拝である。これには同盟国であるはずの米国が「失望した」と声明したほどだ。アベノミクスという名の景気対策も大企業は歓迎できても、二千万人にも及ぶ非正規労働者らには無縁である。賃上げや消費の増大にはつながらないからだ。上述の東京新聞社説は「人間が救われる国、社会へ転換させなければならない」との趣旨を指摘している。これは人間の存在そのものが否定されつつあるという日本の地獄のような現状への告発といえる。日本版「ナチスの強制収容所」から脱出して「未来への希望」を語り合えるのはいつの日なのか。


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悪法・秘密保護法案を批判する
メディアは国家権力と対峙せよ

安原和雄
 特定秘密保護法案は稀に見る悪法というほかない。その悪法が11月26日夜の衆院本会議で可決された。前日の25日、福島で開かれた地方公聴会では首長や学者ら7人が同法案に意見を述べたが、賛成の声はないどころか、「一番大切なのは情報公開だ」と力説する人もいた。たしかに民主主義の土台は情報公開である。
 ところが安倍政権は情報公開に背を向けている。このことは安倍政権が民主主義そのものを否定し、同時に新聞、放送などメディアの自由な報道を拒否することにつながる。メディアは国家権力と正面から対峙するときである。メディアの存在価値そのものが問われつつあるのだ。(2013年12月2日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

大手紙社説は安倍政権の特定秘密保護法案をどう論じたか、11月27日付社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞=民意おそれぬ力の採決
*毎日新聞=民主主義の土台壊すな
(毎日新聞は翌28日付社説でも「秘密保護法案 参院審議を問う 2院制の意義を示せ」と論じた)
*讀賣新聞=指定対象絞り「原則公開」確実に 参院で文書管理の論議を深めよ
*日本経済新聞=秘密保護法案の採決強行は許されない
*東京新聞=国民軽視の強行突破だ 

以上の5紙社説のうち朝日、毎日、日経、東京の4紙は明快な反対、批判論で一貫しているが、讀賣社説はいささか異質である。次のように述べている。

 一部の野党がこの法案を「国民の目と耳、口をふさぐ」「国家の情報を統制し、日米同盟への批判を封じ込める」と声高に非難しているが、これは的外れである。(中略)安全保障のための機密保全と、「知る権利」のバランスをどうとっていくか。この問題も参院で掘り下げるべきテーマだろう。

 以上のような讀賣社説の核心は<機密保全と「知る権利」のバランスをどうとるか>にある。一見もっともらしいが、このようなバランス重視の姿勢は、「知る権利」を重視する姿勢とは異質である。「バランスをとる」と言いながら、現実には「機密保全」重視に流れやすいだろう。国家権力に都合のいいバランス論とはいえないか。

 さて讀賣社説以外の反対、批判論はどういう趣旨なのか。以下、その骨子を紹介し、安原の<コメント>をつける。

(1)朝日新聞社説=驚くべき採決強行
数の力におごった権力の暴走としかいいようがない。民主主義や基本的人権に対する安倍政権の姿勢に、重大な疑問符がつく事態である。
報道機関に限らず、法律家、憲法や歴史の研究者、多くの市民団体がその危うさを指摘している。法案の内容が広く知られるにつれ反対の世論が強まるなかでのことだ。
ましてや、おとといの福島市での公聴会で意見を述べた7人全員から、反対の訴えを聞いたばかりではないか。
そんな民意をあっさりと踏みにじり、慎重審議求める野党の声もかえりみない驚くべき採決強行である。
論戦の舞台は、参院に移る。決して成立させてはならない法案である。

<コメント> 安倍政権は暴力集団なのか
「決して成立させてはならない法案」という朝日社説の断定である。権力批判への「遠慮」とか、「ほどほどに」という姿勢はみじんもうかがえない。社説の筆者は「怒り心頭に発して」という気分になっているらしい。だから「権力の暴走」、「重大な疑問符」、「民意をふみにじり」、「驚くべき採決強行」など通常の社説では使わないような過激な表現が多用されている。暴力集団・安倍政権というイメージが浮かび上がってくる。

(2)毎日新聞社説=民主主義の土台を壊す
あぜんとする強行劇だった。衆院国家安全保障特別委員会で特定秘密保護法案が採決された場に安倍晋三首相の姿はなかった。首相がいる場で強行する姿を国民に見せてはまずいと、退席後のタイミングを与党が選んだという。
審議入りからわずか20日目。秘密の範囲があいまいなままで、国会や司法のチェックも及ばない。情報公開のルールは後回しだ。
「知る権利」に対する十分な保障がなく、秘密をチェックする仕組みが確立していないなど疑問はふくらむ。
参院では一度立ち止まり、法案の問題点を徹底的に議論した上で危うさを国民に示すべきだ。民主主義の土台を壊すようなこの法案の成立には反対する。

<コメント> 首相退席後に強行採決
 「あぜんとする強行劇だった」とは何が起こったのか。特定秘密保護法案の強行採決のとき、安倍首相の姿は議場になかった。首相退席後のタイミングをわざわざ選んで採決を強行したというから、前代未聞の所業といえる。猿知恵(こざかしい知恵)と言っては、当の猿様に叱られそうな気がする。「民主主義の土台を壊すようなこの法案の成立には反対」と断定する毎日社説は、至極当然の主張と言うほかないだろう。

(3)日経新聞社説=国民の不信感は解消されない
この法案には、国民の「知る権利」を損なう危うさがある。徹底した見直しに向けて議論を続けるべきだ。
法案では防衛、外交、スパイ活動、テロの4分野で、特に秘匿する必要があるものを各省大臣が特定秘密に指定する。秘密を漏らした公務員には最長で懲役10年の刑が科せられる。本紙の世論調査でも秘密保護法案については「反対」が50%、「賛成」の26%を上回った。「懸念はない」と答えたのはわずか6%にすぎない。このような状態で、法案をそのまま通してしまって本当にいいのか。
異例の事態といっていい。国民の抱く疑念や不信感はまったく解消されていない。政府・与党もここは立ち止まって、もう一度考え直してみるべきだ。

<コメント> 骨抜きにされる「知る権利」
 なぜ特定秘密保護法案に反対しなければならないのか。国民の「知る権利」を損(そこ)なうことになるからである。ただメディアが多用する「損なう危うさ」という認識、表現では不十分である。なぜなら安倍政権は、民主主義国家における国民の基本的権利としての「知る権利」を特定秘密保護法制定で骨抜きにしようとしているからである。「知る権利」を守り、活かしていくためには安倍政権と対峙しなければならない。

(4)東京新聞社説=公権力が市民活動を監視
さまざまな危うさが指摘される秘密保護法案であるため、世論調査でも「慎重審議」を求める意見が60%台から80%台を占めていた。
もっと議論して、廃案に持ち込んでほしい。とくに憲法の観点から疑念を持たれている点を重視すべきだ。国民主権、基本的人権、平和主義の三大原則から逸脱していることだ。
いわゆる「沖縄密約」や「核密約」などの問題は本来、活発に議論されるべき国政上の大テーマである。これに類似した情報が特定秘密に指定されると、国民は主権者として判断が下せない。国会議員といえども秘密の壁に阻まれてしまう。どれだけの議員が、この深刻さを理解しているか。
反原発運動など、さまざまな市民活動の領域まで、公権力が監視する心配も濃厚だ。行政権だけが強くなる性質を持つ法案である、あらためて反対表明をする。

<コメント> 許せぬ「独裁国家」への改悪
安倍政権が目指しているのは、「民主国家」から「独裁国家」への改悪という荒療治である。その独裁国家としての日本の未来図は、日米安保体制の維持、原発再稼働、集団的自衛権発動による軍事力行使、多数の非正規労働者と低賃金の維持、社会的弱者の切り捨てなど。もちろんこれらの改悪路線を許すことはできない。とはいえこの改悪路線を阻むのは容易ではない。反「安倍政権」統一戦線をどこまで結成できるかにかかっている。


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東海村・村長の脱原発論を読んで
今こそ「脱成長の社会」に向けて

安原和雄
 これまで何度も脱経済成長論に言及してきたが、またもや脱成長論に思いを馳せねばならない。しかもその脱成長論は脱原発と一心同体である。脱原発のための脱成長論と言い直すこともできる。経済成長のためには原発推進も不可欠とみるのが原発推進派の言い分だが、この主張は「亡国・ニッポン」への道につながっている。だからこそ亡国への道を回避するためには脱原発という選択肢以外は考えにくい。
 小泉純一郎元首相が最近「原発ゼロ」を提唱して話題を呼んでいる。その目指すところは「亡国・ニッポン」への危機をいかに乗り越えるかであるに違いない。肝心なことは「原発ゼロ」実現のためには「脱成長」をも覚悟することである。(2013年11月18日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 村上達也、神保哲生共著『東海村・村長の「脱原発」論』(集英社新書、2013年8月刊)は、日本におけるこれまでの原発依存症を克服して、脱原発の新しい進路を模索するには不可欠の力作である。
 著者の村上達也(むらかみ たつや)氏は、1943年東海村生まれ。東海村村長(2013年9月退任。)、「脱原発をめざす首長会議」世話人として活躍。神保哲生(じんぼう てつお)氏は、1961年東京都生まれ、コロンビア大学ジャーナリズム大学院修士課程修了のジャーナリスト。なお村上氏の肩書は11月の現在すでに「前村長」となっているが、著作を発表した8月の時点では現職の町長だったので、主見出しは「東海村・村長の脱原発論を読んで」となっている。

『東海村・村長の「脱原発」論』から「脱原発」に関する主張の要点を以下、紹介する。

(1)「科学的精神」の欠如という日本の病
 問題の根本にあるのは何かと問われれば、我々日本人は科学というものについての根源的な知識、あるいは哲学、科学的な精神がないんじゃないか。ギリシャ文明だとか、中世のヨーロッパでは科学が宗教の中から出てきた。宗教と対峙しながら科学が生まれてきた。それがルネッサンスで大きく花開いて、科学的な精神が17~18世紀の合理主義につながり、産業革命があって、社会が発展してきた。
 そういう根っこがあるヨーロッパと違って、我々日本人は科学を自分で思考せずに、完成品として受容した。朝日新聞論説委員だった笠信太郎が言っていた「切り花論」に等しい。日本は西洋の技術を導入して、やみくもに資本主義的な発展を目指してきた。原発もまったく同じ構造で導入されたところに、失敗の原因があった。

(2)持続できる地域社会をつくっていこう
 東海村は2011年から2020年までの10年間の第5次総合計画を決めた。その理念は「村民の叡智(えいち)が生きるまちづくり― 今と未来を生きる全ての命あるもののために」ときわめて高い。基本目標として次の三つを掲げた。
*未来を拓(ひら)く=過去に学び、現在を考え、未来を拓くことのできる叡智の伝承・創造を目指す。
*多様な選択=一人ひとりが尊重され、多様な選択が可能な社会を村民の叡智を活かし、村民主体で創造していく。
*自然といのちの調和=自然といのちの調和と循環を重視し、多様な叡智を結集して新たな創造する活力あるまちを目指す。
 ここでは「カネ」のことや「地域経済の発展」は、言っていない。これを策定するとき、村民や職員に呼びかけたことはひとつだけだった。「持続できる地域社会をつくっていこう」と。原発では地域社会を持続的に支えられないことははっきりしていたわけだから。

(3)経済成長神話の反省を
 今、反省しなければならないのは、経済成長神話なんですよ。成長、成長ということで、高いところを目指して上へ上へと遮二無二歩いてきた結果が、今の惨憺たる日本社会の状況でしょう。
 働く人の三分の一が非正規労働者という社会がつくられて、そのうえに労働契約法も改悪して、首切りしやすくするとか、そういうまさに資本主義的な論理で、どんどん人間の存在というものが、低められ、小さくされてきている。盛んに言われるグローバル化という動きについても、これはおかしい。我々を幸せにしないものなのにわざわざ乗り遅れないようにする必要があるのかと疑問に思う。
 原発依存、つまり化け物に依存するような社会から脱却して、人間性を回復すべきだろう。しかし脱成長社会に転換することは、たとえば経団連で威張っているおじさん達にとっては、自分の育ててきた産業とそれを通じて得た権力の否定を意味する。そこに原発と同じようなムラ、たとえば経団連ムラがあって、同じように言論の自由もなかったりする。

(4)大変不気味で恐ろしい空気が覆っている
 今、日本には暗い雲が立ちこめていると強く感じている。原発が再び、国家の経済、国家の利益、国家の威信を守るための「国策」― これは戦時中の言葉だが― といつの間にか位置づけられ、地域住民の声が届かない中央で物事が決められて、推進に傾いた議論が行われている。
 しかも不都合な情報を出さず、事故の検証も不十分なままで周辺住民の意思を問うプロセスも経ずに、原発を再稼働させようとする権力の姿勢に、なぜか全国民的な異議の声が上がっていない。大変不気味で、恐ろしい空気が日本を覆っている。

(5)国民の生命こそ何物にも代えがたい
 言いたいことはシンプルだ。人の命は、何物にも代えがたい。原発政策がはらむ住民軽視の姿勢は、すなわち人命軽視の姿勢にほかならない。原発は経済効率がいいとか、安全保障上の意義があるという人もいるだろう。だが、国家のプライドも、産業界の利益も、国民の生命の上にあってはならない。そのことを私たちは戦前の歴史で学んだはずだ。
住民の命を直接に預かる自治体の長こそ、そのことを強く訴えるべきではないか。
 自治体の声が国の政策をも動かせるようになったとき、この国のあり方は大きく変わるのではないか。その強い思いが、私に脱原発を公言させてきた。人命軽視のこの日本の腐りきった社会との戦いに、これまで以上に深く真剣に関わっていく所存である。

<安原の感想> 原発「即ゼロ」に踏み切るとき
 小泉純一郎元首相は、11月12日、日本記者クラブで会見し、安倍首相に「原発即時ゼロ」の方針を打ち出すよう力説した。朝日新聞(11月13日付)によると、小泉氏の発言内容は以下のようである。
*原発ゼロの時期について「即ゼロがいい」と明言した。原発再稼働については「再稼働するとまた核のごみも増えていく」と反対の立場を鮮明にした。核燃料サイクル政策について「どうせ将来やめるんだったら今やめた方がいい」と中止を求めた。
*原発をめぐる今の政治状況について「野党は全部原発ゼロに賛成だ。自民党の賛否は半々だと思っている。首相が決断すれば反対論者も黙る」と強調し、「結局、首相の判断力、洞察力の問題だ」と安倍首相の決断を求めた。

 以上の正当な小泉発言について安倍首相及びその周辺は無視する姿勢である。菅義偉官房長官が12日の記者会見で改めて原発を活用する政策を続ける考えを示したことからも、「小泉発言無視」は明らかである。しかし私(安原)は小泉発言に賛成であり、原発の「即ゼロ」に踏み切るときだと考える。なぜなら原発によって経済成長を図ろうとするのは危険であり、望ましい政策とは言えないからである。

 経済成長は人間にたとえれば、身長が伸びて、体重が増えることを意味する。身長が伸びて体重が増えても、人間として心身ともに立派であるとは限らない。同様に経済成長が進むとしても、たしかに経済の量的規模はふくらむが、その経済が質的に立派であるとは言えない。だから上質の経済を創造するためには経済の質的転換が不可欠となる。
 焦点の原子力発電は、これまでの原発事故の惨状が明示しているようにいのち・自然・人間との共存は不可能であり、上質の経済とは相容れない。だからもはや脱原発を目指す以外の選択肢はあり得ない。にもかかわらず原発推進にこだわる者たちは、自らの錯覚に気づかず、いのち・自然・人間を粗末に扱う無神経な群像というほかないだろう。


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「忍耐と我慢」は今も続いている
21世紀版映画「おしん」を観て

安原和雄
最近(2013年10月下旬)、21世紀版映画「おしん」を観る機会があった。どこにこれほどの涙が隠れていたのかと思えるほど涙が止まらなかった。私にとって30年前の連続テレビドラマ「おしん」物語には断ちがたい想い出がある。「忍耐と我慢のシンボル」ともうたわれたこのドラマは、当時も涙なしには観ることができなかった。
 今指摘すべきことは、「おしん」は単なる昔話ではなく、現在進行形の「忍耐と我慢」の物語にほかならない。世に言う多数の非正規労働者の存在は見逃せない。非正規労働者に限らない。必要にして正当な自己主張もままならぬサラリーマン、労働者が多すぎるのではないか。いつになったら、この望ましくない非正常な現実から抜け出せるのか。(2013年11月1日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 NHK連続テレビ小説「おしん」は、1983年(昭和58年)4月4日から1984年(昭和59年)3月31日まで放映された。全国に「おしんブーム」を巻き起こし、前代未聞の平均視聴率52.6%、最高視聴率62.9%を記録した。国内に限らず、現在までに世界68の国と地域でも放映された。
 「おしん」に関する当時の毎日新聞社説(昭和59年=1984年4月1日付、つまり「おしん」が終わった日の翌日。筆者は現役の論説委員だった私・安原)を紹介する。その見出しは<いつまで「おしん」なのか>である。当時他紙の社説は「おしん」問題をほとんど論じなかったように記憶している。その意味では「おしん」問題をわざわざ論じた社説は、当時としてはひと味異なった性質のものだった。

▽ 当時の毎日新聞社説<いつまで「おしん」なのか>

 社説の大要は以下の通り。

 人気テレビドラマ「おしん」が終わった。何度も頬をぬらした人たちにとっても、このドラマはそのうち忘却のかなたへと消えていくことになるのだろう。しかし忍耐と我慢のシンボルとさえいわれた「おしん」は本当にドラマの世界での主役でしかなかったのだろうか。
 身近な生活を見回してみても、心なごむ話は意外に少ない。昭和58(1983)年末現在の貯蓄・負債動向調査によると、サラリーマン世帯のうち住宅・土地の負債をかかえている世帯が34.0%と初めて3分の1を超えた。国民生活実態調査によると、所得格差は広がる一方であり、しかも生活実感として「大変苦しい」と「やや苦しい」を合わせて38.6%の世帯が家計の苦しさを訴えている。妻の3分の1は「家計の補助、維持」を理由にパートなどで稼ぐのに精を出している。住宅ローンの負担にあえぎながら、ついついサラ金に手を出し、自殺にまで追い込まれるケースも珍しくない。

 最近次々と発表された政府の公式統計や調査からうかがうことのできる私たちの生活の素顔がこれである。たしか、国民のほとんどが中流意識を身につけ、暖衣飽食に首まで浸っていると喧(けん)伝する向きもあったが、これはいったいどこでどうすれ違いを起こしたのだろうか。
 税金など非消費支出がふえつづけ、消費生活の足を引っ張っているのは、いうまでもなく、所得減税を見送り、サラリーマンにとって実質増税となっているためである。昨年暮れの総選挙で中曽根政権が公約した1兆円減税も、酒税など間接税の増税と抱き合わせで帳消しとなったことはいまさら指摘するまでもない。

 財界首脳が「我慢の哲学」を国民に説くのに大いに活用したのがおしんブームであった。そこには春闘による賃上げをできるだけ抑制しようという意図が働いている。収入が増えず、それでいて、その収入に占める税負担など非消費支出がふえれば、否応なしに私たちが「おしん」の生活をしいられることは小学生でもわかる単純な算術の問題である。「おしん」を拡大再生産していくメカニズムが定着してしまったのか。
 ドラマ「おしん」は終わっても、現実のおしんが日本列島のあちこちで、きょうも頑張っていることを忘れないでもらいたい。

▽ 21世紀版「おしん物語」を終わらせるには

 30年前の当時の毎日新聞社説は次のように締めくくっている。<ドラマ「おしん」は終わっても、現実のおしんが日本列島のあちこちで、きょうも頑張っていることを忘れないでもらいたい>と。
 この指摘は21世紀の現在もなおほぼそのまま当てはまるのではないか。周知のように働く人達のうち4割近い非正規労働者が低賃金など不適正な労働条件を強いられている。まさに現代版「おしん物語」というほかないだろう。

 特に安倍政権の登場とともに「大資本優遇、労働者冷遇」の傾向が強まっている。言い換えれば、安倍政権は今、「おしんの拡大再生産」に熱心であり、励んでいるのである。21世紀版「おしん物語」を打破するためには何が必要か。「労働者の団結と反撃」という古典的でありながらパワーあふれる戦法に学び、実践する以外に妙手はない。つまり「労働者諸君、立ち上がれ」の一言に尽きる。
 ところが現状は独りで閉じこもって悩んでいる働き手、サラリーマンが多いように想うが、いかがだろうか。これでは現代版「おしん」にさようなら! を告げるのはむずかしいだろう。


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「わるいやつら、わるい政治」を告発
貧困と格差を解消する政治めざして

安原和雄
 善人もいれば悪人もいる。双方が混在しているのがこの世の常でもあるだろう。しかし日本という国の政治、経済、社会に大きな影響力を行使する政権の座に、仮にも悪人が居座っているとしたら、「現実はそんなものだ」と笑って済ますことができるだろうか。国民1人ひとりは血もあれば、ときに涙も流すいのちある存在である。
「わるいやつら、わるい政治」に寛容であるわけには参らない。告発していくことが求められる。そのための重要な視点が「貧困と格差を解消する政治」をどう育んでいくかではないだろうか。(2013年9月29日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 宇都宮健児(注)著『わるいやつら』(集英社新書・2013年9月刊)が話題を呼んでいる。
(注)宇都宮氏は弁護士で、1946年愛媛県生まれ。日弁連多重債務対策本部長代行、全国ヤミ金融対策会議代表幹事、オウム真理教犯罪被害者支援機構理事長、反貧困ネットワーク代表、「年越し派遣村」名誉村長、日弁連会長などを努める。この経歴からも分かるように異色の弁護士として知られる。

 その異色振りは本書のつぎのような目次からもうかがえる。
序 章 私は、なぜ「わるいやつら」と闘うのか
第一章 サラ金からヤミ金まで
第二章 新型詐欺のバリエーション
第三章 整理屋と提携弁護士
第四章 跋扈する貧困ビジネス
第五章 「わるいやつら」を生み出す「わるい政治」 
おわりに

 以下、その要点を紹介する。

(1)年収200万円未満が1000万人、貯蓄ゼロ世帯26% 
 1990年代以降、貧困と格差が広がり、特に非正規労働者が激増した。2013年時点で、年収200万円未満の人が1000万人を超え、非正規労働者は2000万人を突破して全労働者の38.2%、すなわち3人に1人以上が非正規労働者になっているという現実がある。
 また金融広報中央委員会の統計によれば、1980年代は全世帯のうち「貯蓄ゼロ世帯」が5%前後だったのが、1990年代は10%前後となり、現在は26%を超えている。つまり4世帯に1世帯は貯蓄ゼロだ。年金だけでは生活できない高齢者も急増している。
 このような状況下では借金を整理しただけでは生活を再建することはできない。一度は借金から逃れられても、新たな生活資金を得る必要に迫られて、再び悪質なヤミ金に狙われてしまう。こういうケースが続出するようになった。

(2)労働者よりもトヨタ自動車社長の税負担が低い
 高額所得者の税負担は、相対的に低い。そのことが非常に問題である。元大蔵官僚が書いた『税金は金持ちから取れ』という本に次のような驚くべきことが書いてある。
トヨタ自動車社長の2010年の年収3億4000万円のうち、所得税、住民税、社会保険料の負担率は20.7%で、一方、同じ2010年の給与所得者の平均年収は約430万円で、その負担率は34.6%である。年収430万円の労働者の方が、年収3億4000万円のトヨタ自動車社長よりも税負担が高い。
 なぜそうなるのか。同社長の収入のうち、3分の2は持ち株の配当金だからだ。この配当金にかかる税金は、所得税と住民税を合わせて一律10%にすぎない。小泉政権のときに「証券優遇制度」がつくられ、10%しか払わなくていいことになった。このため普通の給与所得者よりも大企業社長の方が負担率が低くなるというわけだ。そういう事実を私たちはあまり知らされていない。それが問題だ。

(3)横行する貧困ビジネスと日米の違い
 貧困と格差が広がる中で、生活困窮者、貧困当事者の窮状と無知につけ込んで利益を上げる「貧困ビジネス」も広がっている。このような貧困ビジネスを根絶するには、厳しく取り締まるとともに、それらを規制する立法の強化などが必要となる。
 しかし悪質商法・詐欺的商法の取り締まり・摘発は主として警察だけに任されているのが現状だが、取り締まりを警察だけに任せておくのは、限界にきている。
 米国には警察のほかに、詐欺的商法などを監視している行政組織として連邦取引委員会(FTC)があり、疑いのある業者に対し、業務内容の開示命令や詐欺的商法の差止命令を出すことができる。さらに訴訟手続きにより悪質業者から回収した金銭を被害者に配当することができる。
 日本では悪質商法・詐欺的商法によって蓄えを騙し取られた被害者は、泣き寝入りしたくなければ、原則として自己負担で弁護士に依頼し、被害回復を行わなくてはならない。同じような被害にあっても、米国と日本とではずいぶんと置かれた状況が違っている。

(4)憲法に書かれていることが現実化していない
 いま政治課題として「護憲か改憲か」というテーマが俎上(そじょう)にのぼっている。ただ憲法については少し違った角度から考えたい。護憲や改憲を言う前に、そもそも今の憲法の条文に書かれていることが現実化されていないのではないか。
 例えば生活保護とは、憲法25条の「生存権の保障」を具体化した制度だが、その制度を受けるべき人のうち、8割が受けていない。
 学校では憲法で掲げた権利を実現するための具体的な方法を教えていない。ただ「憲法を守れ」と言うだけでは憲法の中身は実現できない。
 憲法28条は「労働者の団結権と団体交渉権その他団体行動権」を規定している。しかし労働組合のつくりかたや団体交渉のやり方を具体的に教える教育はなされていない。だからいくら「労働者には権利がある」と言ってもそれだけでは役に立たない。

 問われているのは「護憲」という理念ではなく、憲法が保障している基本的人権を「現実化」「具体化」するような運動が行われているかどうかである。率直に言って、市民運動の世界にも、理念が先走っている人が多い気がする。大事なことは理念よりも具体的な実践である。具体的実践のひとつが「政治参加」ということなのだ。
 より根本的には、「貧困と格差の広がりを解消する政治」こそが求められているのだ。

<安原の感想> 安倍政治は「貧困と格差の拡大」を転換できるのか

 「貧困と格差」を解消するためには何が求められるのか。ここではまず朝日新聞社説(2013年9月24日付)「賃金デフレの根を絶て」の要点を紹介する。

 政府と経営者団体、労働団体の代表からなる政労使会議がスタートした。来年4月の消費税増税までに賃上げ機運を盛り上げ、経済全体の好循環を促すのが安倍政権の狙いだ。
 首相は今年の春闘で財界に賃上げを要請し、一部の企業が反応した。今度は春闘の仕込みの段階から働きかける。賃上げがアベノミクスの成否を左右すると思い定めているようだ。

 業績は改善しているが、賃金は上がらず、企業は内部留保をため込む。ここに政府が割り込み、空気を変えられれば意味があろう。
 好業績企業からは賃上げ容認論も出始めた。ただ賃金デフレは根深い構造を持っている。しっかり斬り込まなければ、働く人々は将来に明るい展望は持てない。(中略)経団連は人件費削減の「横並び」に余念がないが、そこに安住する危うさを自覚しなければならない。

 以上の社説は目配りが利いている。まず注目したいのは「首相は賃上げがアベノミクスの成否を左右すると思い定めている」という指摘である。本来のアベノミクスは賃上げにはむしろ背を向けていた。それが賃上げのすすめに転換してきたのであれば、歓迎できるが、安倍首相の本音はどうか。
 一方、社説は財界主流派の経団連にも注文を付けている。<経団連は人件費削減の「横並び」に余念がないが、そこに安住する危うさを自覚しなければならない>と。要するに社説は、賃上げ容認に転換せよ、と言いたいのだ。
 私(安原)は賃上げ容認は重要だと考える。非正規労働者が労働者の約35%にものぼって、低賃金を強いられている現状は、生活無視にとどまらず、人権侵害の残酷物語というほかない。日本経済の発展にとってもむしろマイナスである。「貧困と格差の拡大」からの大転換こそが日本経済の正常な発展のためには不可欠であることを強調したい。


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村に米軍事基地があったらどうする?
座談会<15歳と語る沖縄>を読んで

安原和雄
 政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が4月28日、東京都内で開かれ、安倍首相は「未来へ向かって希望と決意を新たに」と述べた。一方、沖縄では政府式典に抗議する「屈辱の日」大会が開かれた。いうまでもなく沖縄では広大な米軍事基地が今なお沖縄県民の自由と権利を奪い、日常生活に苦難を強いているからである。
 この苦難からの脱出口はどこにあるのか。座談会<15歳と語る沖縄>が問いかけている「基地をなくすにはどうしたらいいのか」に正面から答えることである。それは、日米安保の呪縛から自らを解放すること、いいかえれば日米安保体制に終止符を打つこと以外に妙策はない。(2013年4月29日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 朝日新聞(2013年4月19日付)オピニオン欄掲載の座談会<15歳と語る沖縄ー「しょうがない」っていう大人にはならない>を読んで、米軍基地問題を改めて考える。この座談会はライター・知念ウシさん(那覇市生まれ、本土と沖縄の関係を問う運動をしている)、哲学者・高橋哲哉さん(福島県生まれ、震災後の著書「犠牲のシステムー福島・沖縄」で国策のために一部が犠牲になる現状を批判)と中学生たちとの意見交換である。中学生は奈良県山添村立中学校の3年生たちで、修学旅行で沖縄を訪ねて、沖縄戦や米軍基地問題に大きな関心を抱いている。

(一)座談会でのやりとり

 その内容(要旨)は以下の通り。
*自分の問題として考える
<高橋哲哉>:みなさんの村が沖縄と同じ状況になったら、と想像してほしい。近くに巨大な米軍基地があるとか、米兵がたくさん周りにいるという状況です。みなさん、どう感じますか。遠い沖縄の問題ではなく、自分の問題として考えてみてください。
 みなさんは沖縄に関心がないわけじゃない。多くの日本人も、実は関心がある。でも、関心がある沖縄と、関心がない沖縄がある。これはどういうことなんだろうか。無関心って何だと思いますか。
<中学3年A>:いまの日本は、考えてはいるけれど自分から言い出したり動いたりするのはいや、という人が多いと思う。沖縄の基地問題だって「あかんと思うけど、よくわかんないからええわ」みたいな。
<中学3年B>:好きなことにはすごく関心があるけど、難しいことは理解できない、だから無関心になっていくんじゃないでしょうか。
<中学3年C>:大半の人と違う意見を言ったら、浮いた存在になってしまう。日本人は、みんなと一緒がいい、そういう意識が強いという印象があります。基地は元からあるからしょうがないとか、国が決めたことだからしょうがないとかいうのは、やっぱりある。でも私はそういう大人にならないようにしようって思いました。

*自分自身に気づくこと
<知念ウシ>:そんな大人になりたくないというの、すごくうれしい。気になるのは、みなさんから「難しい」「わからない」という言葉が出ること。全部知って、初めて意見が言えるとか行動できるということではないと思う。「これっておかしい」だけでいい。
 おかしい、ショックだ、悲しい、逃げたくなった。まずそういう自分自身に気づく。そこから考える。伝える。
<中学3年B>:知念さんに質問があります。どうして米軍基地反対運動をするようになったのですか。
<知念ウシ>:どうして? みなさん、もし沖縄に生まれたらどう育ったか、想像してみてください。私は、基地は生まれた時からあって、当たり前に思っていた。反対運動をするようになったのは自分が子どもを持ってからです。
 私たちの先祖も苦労させられたのに、次の世代、後輩たちにまでこんな苦労、難儀が当たり前のように引き継がれるのはおかしいと思った。
<中学3年D>:沖縄は独立するのが一番いいと思いますか。
<知念ウシ>:一番いいとは思っていません。私が目指しているのは、安全に暮らせて、こんな世の中を作りたいと思ったら、沖縄のみんなで議論して決めて実現できる、誰も抑圧しない、抑圧されない社会です。その手段として独立ははあるかもしれない。でも沖縄が独立して幸せになるには日本も変わらないと。

*「日本人としての責任」とは
<中学3年E>:高橋さんに質問です。(ある対談記事の中で)「本土に基地を持って帰ることが日本人としての責任」と語っています。何に対しての責任ですか。
<高橋哲哉>:沖縄に米軍基地があれだけ集中して、しかも何十年と続いているのは、基本的には日本人がやってきた結果です。沖縄で戦争したことも、米国が施政権を持ったことも。日本に主権が戻った後も沖縄の基地負担率は上がった。つまり日本人が選択して、沖縄の人たちに押し付けてきた。だから日本人として、責任をとらなければいけない。そういう意味です。
<中学3年B>:問題は沖縄の米軍基地じゃないですか。移設しても、移した先の人たちはまた同じ問題を抱えるから、根本的な解決にはならない。基地をなくすにはどうしたらいいのか、どうすれば問題を解決できますか。
<知念ウシ>:解決したい、そのためにはどうしたらいいのか知りたい、という気持ちはすごくうれしい。何か特別のことではなく、日常生活の中で、おかしいと思ったことは家族や友人や周りに話す。それをみなさんが今いるところで続けていってほしい。考えながら動き、動きながら考える。そういう大人になってほしい。

(二)<安原の感想> 「諸悪の根源」としての日米安保

「沖縄の米軍基地をなくすにはどうしたらいいのか、どうすれば問題を解決できますか」。中学3年Bのこの質問は適切である。これに対し知念さんはつぎのように答えている。
「沖縄が独立して幸せになるには日本も変わらないと」、「おかしいと思ったことは家族や友人に話す。(中略)考えながら動き、動きながら考える。そういう大人になってほしい」と。
 この回答ではどうもすっきりしない。答えになっていない。具体的にどう変わればいいのかが分からない。不思議なのは、なぜ「諸悪の根源」として日米安保があることに触れようとしないのか、である。日米安保から目を反(そ)らすことは、真実に耳を塞(ふさ)ぐことを意味する。

 ここで日米安保体制(=旧安保条約を改定した現行日米安保条約の正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」、1960年6月23日発効)の概要を紹介したい。

(1)日米安保体制は軍事同盟と経済同盟の2本立て
*日米の軍事同盟
 軍事同盟は安保条約3条「自衛力の維持発展」、5条「共同防衛」、6条「基地の許与」などから規定されている。1996年の日米首脳会談で合意した「日米安保共同宣言―21世紀に向けての同盟」で「地球規模の日米協力」をうたった。「安保の再定義」といわれるもので、解釈改憲と同様に条文は何一つ変更しないで、日米安保の対象区域が従来の「極東」から新たに「世界」に広がった。
 この点を認識しなければ、最近、なぜ日本の自衛隊が世界各地へ自由に出動しているのか、その背景が理解できない。
*日米の経済同盟
 経済同盟は安保条約2条「経済的協力の促進」で規定されている。2条では「自由な諸制度を強化する」「両国の国際経済政策における食い違いを除く」「経済的協力を促進する」などを規定しており、新自由主義(市場原理主義)を実行する裏付けとなっている。
1980年代から日米で始まり、特に21世紀に入り、顕著になった失業、格差、貧困、人権無視をもたらす新自由主義路線から転換し、内需主導型経済の再生に取り組まない限り、日米両国経済の正常化はあり得ない。

(2)「対等の日米新時代」へ向けて
*日米安保の終了は可能
 今注目すべきは、日米安保条約は、国民多数の意思で一方的に終了させることができることである。10条(条約の終了)に「この条約が10年間効力を存続させた後は、いずれの締約国も終了させる意思を相手国に通告でき、その後1年で終了する」と定めているからである。この条項を活用して日米安保を終了させて、新たに日米平和友好条約への転換を促すときである。
 安倍首相にみる異常な対米従属振りから脱するためには、日米安保の呪縛から自らを自由に解放することが必要条件である。これは反米を意味しない。むしろ「対等の日米新時代」構築への大きな歴史的一歩を意味するだろう。


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4月8日の花まつりに想うこと
二一世紀の「天上天下唯我独尊」

安原和雄
お釈迦様の誕生を祝う4月8日の恒例の花まつりが今年も巡ってきた。例年のこととはいえ、考えてみるべきことは、やはり釈迦の宣言として知られる「天上天下唯我独尊」に込められた意味合いであり、肝心なことはそれを実践していくことである。実践を伴わないただの知識で満足するのでは、お釈迦様も喜ばないだろう。
 では21世紀の今、どう実践していくのが望ましいのか。それは「この世に生きるものは皆それぞれの価値があり、尊い」という釈迦の教えに学びながら、自分なりに「世のため人のため」に尽くす利他主義に努めることではないか。損得重視の自利・自己中心にこだわるのでは、しょせん心は晴れない。(2013年4月6日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 お釈迦様は今から約2500年前の4月8日、インドの北方ルンビニの花園で誕生された。この誕生を「花まつり」の名で各地で祝うのが恒例の行事となっている。浅草寺(せんそうじ=所在地・東京都台東区浅草)発行の月刊誌『浅草寺』(2013年4月号)は、貫首・清水谷 孝尚(しみずたに こうしょう)氏の<「仏性(ぶっしょう)への目覚め~「花まつり」にあたって~>と題する一文を掲載している。その大意を以下に紹介する。

 お釈迦様は生まれて間もなく、「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)、つまり「この世に生きるものには皆それぞれの価値があり、尊い」と宣言された。
 このお話は永い間多くの人々によって語りつがれているだけに意味の深いものである。それはお釈迦様のご一代にわたる教えが、この宣言の中にこめられているからである。すなわちわれわれが本来持っている「仏(ほとけ)に成ることができる」という性質、つまり「仏性」(ぶっしょう)を自覚させるためのものといわれているからである。間違っても「自分だけが尊い」などと誤って理解してはならない。
 むしろ仏に成るべき性質を与えられながら、自分は果たして「仏への道」を歩んでいるだろうかと反省することが、このお釈迦様の宣言におこたえすることになるのではないか。自己の内面を見つめて人間としての自覚を深めるのがお釈迦様の教えであるからだ。「花まつり」はこのような重要な意味をもった仏教行事と受け止めていきたい。

 とはいえわれわれは、この本来持っている「仏性」に気付かずに日々を重ねてしまう。『法華経』(「妙法蓮華経」の略。大乗仏教の最も重要な教典のひとつ)の次の喩(たと)え話は、このことを巧みに言いあらわしている。それはある人がいて、親友の家を訪ね、酒に酔って眠ってしまった。親友は公用で外出するため、寝ている友人のために高価な宝石を、彼の衣服の裏に縫いつけてあげてから出掛けた。その彼は目を覚まして旅に出たが、旅費も底を尽き、大変苦労した。しかし少しでも得るものがあれば、それで十分だと考えていた。
 ところが偶然、親友に出合い、生活に困っていることを訴えた。すると親友はあきれて、君が安楽に暮らせるように宝石を与えておいたのに、君はそれを知らずに憂い悩んでいるとは、なんと愚かなことだ。その宝石を生活に必要な物と換えなさい、と言ったというお話しである。

 この酔った人とは私たち迷える者であり、親友とは仏様、そして宝石はわれわれが仏様から与えられている「仏性」なのだ。この話は今いかに愚かでも、いつの日か宝石に気づくことができるという可能性を指しており、仏性の在り方を示すものである。

 道歌(どうか=道徳的な教えをわかりやすく詠み込んだ和歌)につぎの一首がある。
 もとよりも 仏とおなじ 我ながら
 なにとてかくは 迷いぬるらん

 人間は本来、仏になれる性質を持っているはずが、どうしてこのように心の迷いに悩まされているのであろうか、と深い反省に立っての歌である。
お釈迦様が右手で天を指差しているのは、仏への道を歩み、少しでも近付こうと願う心をあらわすものであり、左手で地を指差しているのは、足許の現実をしっかりみつめ、日々善行を一つ一つ確実に行っていくことの大切さを示すものである。いいかえれば「願い」と「行い」による生活をいうものであり、これを実践することこそ「天上天下唯我独尊」の精神ではないだろうか。
 「花まつり」をよき縁として自己の「仏性」に目覚め、それによって「世のため人のため」に尽くすような立派な人間となるべく、日々自己内省につとめたい。

<安原の感想>利他主義の「幸せの大道」選択を
 年に一度の「花まつり」(4月8日)がめぐってきた。子どものころ、田舎のお寺さんで甘茶をいただいた記憶が鮮明に残っている。その意味合いまでは理解がなく、子ども心にただ甘茶欲しさにお寺さんへ駆けつけたのではなかったか。
 大事なことは、お釈迦様の宣言として知られる「天上天下唯我独尊」の含蓄を21世紀の今、どう理解し、実践していくかであるだろう。意見の分かれるところは後段の「唯我独尊」で、二つの解釈がある。

 一つは「ひとりよがりのうぬぼれ、自分勝手」あるいは「世間において私が最も勝れたものである」という意。しかしこれは少数説で、ここでは上述の貫首・清水谷孝尚氏のもう一つの説を採りたい。すなわち少しでも「世のため人のため」に尽くすような生き方である。いいかえれば利他主義の実践である。
 とはいえこの利他主義がなかなかの難物である。「言うは易く、行うは難し」である。人間の欲が災いとなるからである。とかく自分さえ良ければよいという自利主義、自己中心の誘惑に駆られやすい。しかしこれは目先、得(とく)をしたような気分にはなっても後味(あとあじ)が悪い。利他主義の実践こそが「こころ晴(は)れ晴(ば)れ」となる。自利主義の「損得という迷路」に足を取られるよりも、利他主義の「幸せの大道」を選択したい。


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「皆のため」という大欲に生きること
いただいた恩を返してバランスをとる

安原和雄
 2013年3月は、私にとって満78歳の誕生月である。気がついてみれば、この高齢に辿り着いているわけで、ここまで生きのびてきたのかという感慨も湧いてくる。最近、年齢相応に脚にしびれを感じるが、幸い歩行困難というほどではない。これからなお10年、いや20年程度は生き抜いてみようという意欲も捨てがたい。
だからといって私利私欲に囚われていると、生きることの充実感は遠のいてゆくに違いない。これまでいただいた多くの恩を返してバランスをとること、さらに自分中心の「小欲」でなく、「皆のため」、「社会のため」という「大欲」に生きることはできないか。(2013年3月3日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 以下は日本経営道協会代表・市川覚峯氏(注)の著作『仏道を歩む』からの紹介である。
(注)市川覚峯(いちかわかくほう)氏は長野県生まれ。44歳の時より「日本人の美しい心の復興」への志を立て、比叡山、高野山などで千二百日の修行を重ねた。下山後、「心と道の経営」の活動を推進している。著書に『いのち輝かせて生きる』、『修行千二百日』など多数。

(1)何のために働いているのか ― 衣食のためか、名利(めいり=名誉と利益)のためなのか

 人々は忙しく血眼になって、朝早くから夜遅くまで働いているが、いったい何のために働いているのであろうか。
 美しい衣装を身に着け、おいしいものを味わい、住み心地のいい家に住むためであろうか。車に乗って、東へ西へと駆け回るのは名誉を得たいからか、利益のためなのか。
 そうした忙しい、心が亡びた日々の中で人間としての尊厳を見出し得るであろうか。己の名利のみに心を労する者に真の歓喜は望めない。

 時には立ち止まり、人としての生き方を見つめ、自分は何のために、何を実現しようとして働いているのか、自己の生きる目的とは何か、人はどう生きたらいいのか、社会の中にどう関(かか)わるべきか、考え見つめ直すべきである。

<安原の感想> 仏道の脱皮・成長を期待したい
 「あなたは何のために働いているのか」と正面から問いかけられたら、即答に戸惑う人も多いに違いない。失業者、非正規労働者が、労働力人口の3割以上にも脹らんでいる現状ではこの質問はいささか酷かも知れない。働く意欲も能力もありながら働く機会から排除されている人が多いこの時代をどう改革していくか。
 仏道も従来型のお説教にとどまっているだけでは心に訴えることができるだろうか。改革を目指す仏道へと脱皮・成長していくことが期待される。

(2)多くの人の恩に報いるため人世のために尽くそう ― いただいた恩を返してバランスをとるため人を幸せにしよう 

 私たちは今日までいろいろな人の恩を受けて生きてきている。
生んでくれ、育ててきてくれた父母の恩。
いろいろなことを教えてくださった先生や人生の師である方から受けた恩。
また、共にはげまし、学び、向上しあった友人、仲間たちの恩。
自分を導き引き上げてくださった先輩や上役たちの恩、など限りない「おかげ」の力をもって今日こうして生き、活動している。

 こうした返しきれない多くの恩に報いるために、多くの人々を幸せに導くよう世のため人のために尽くしていかなくてはならない。そうしないと人生の借りばかり多く残って、バランスが合わないまま死んでいくことになる。

<安原の感想> 恩にどう報いるか
 「恩に報いる」といえば、今どき「なぜ恩なのか」という戸惑いと反論が返ってくるかも知れない。特に若い世代に、そういう批判や無関心が広がっているかもしれない。「恩」という表現に馴染めないのであれば、金銭に換算できない「人生の借り」をお返しすること、と考えればいいのではないか。
 父母や先生などから受けた「恩」、共に励まし合った仲間たちの恩、先輩や上役たちの恩は、金銭では評価できないし、「返しきれない多くの恩」といえるだろう。

(3)自分中心の欲を捨て皆のために尽くす ― 私利私欲を抱いていると、いつまでも幸せになれない

 仏が説法を説かれるのは人々に自分中心的な小さな観念を捨て去らせるためである。「自分が」、「俺が」と我(が)を前面に出し、私利私欲に生きて、その結果、苦しみ迷っている状況からは逃れなさい、と仏は教えている。
 そのためには自分中心の欲=「小欲」でなく、皆のため、社会のためという大きな欲=「大欲」をもち、人世のために生きることである。

 自分の働きかけや活動で世の中が良くなったり、人が幸せになり、他人のよろこぶ姿を見て、自分も幸せになっていくものだ。それこそ真の幸せの道である。

<安原の感想> 「真の幸せの道」とは
 「社会のためという大欲に生きる」ことは、たしかに「真の幸せの道」であるに違いない。ところが現実には目先の私利私欲にこだわり、苦しみ迷う生き方が少なくない。
いつも不思議に思うことがある。私は居住地(東京都内)の私鉄駅ではエスカレーターには乗らないで、階段利用に努めている。しかし階段を歩いて上る人は私以外にはほとんどいない。特に若者たちに警告したい。エスカレーター依存症は、足腰を弱めて、将来の寝た切り予備軍になりかねないよ、と。一人ひとりは楽(らく)をしているつもりだろうが、これでは「社会のために大欲に生きる」姿勢からは遠いとはいえないか。


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デフレ不況脱出のカギは賃上げ
企業内部留保の還元を社員にも

安原 和雄
 信用金庫の経営トップが「デフレ不況脱出のカギは賃上げであり、逆に給与を削減すれば、消費が減り、企業の業績も悪化する」と指摘している。これは大企業経営者たちの「賃上げは、コスト負担増となって経営を圧迫する」という賃金抑制策への反旗というべきだろう。
 どちらに軍配を挙げるべきだろうか。前者の賃上げ是認説に賛成したい。率直に採点すれば、後者の大企業経営者群は怠惰な集団である。これに反し、前者の信用金庫トップこそが勤勉な存在といえる。勤勉な発想は日本経済の再生、発展に貢献できると評価したい。(2013年2月7日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 異色経営者の賃上げのすすめ

 城南信用金庫(本店・東京都品川区)理事長の吉原 毅(つよし)氏は、デフレ不況脱出のカギは所得増、つまり「賃上げ」であり、いいかえれば企業内部留保の還元を社員にも、と指摘している。他方、企業が好む「賃金抑制」は内需を落ち込ませるという現状認識を率直に語っている。異色経営者の「賃上げ説」を「しんぶん赤旗・日曜版 2013年2月3日付」から紹介する。その大要は以下の通り。

 アベノミクスに欠けているのは、賃上げと、雇用の安定のための政策だ。金融緩和で日銀がお金をいくら供給しても、実際に社会の中でお金が回らなければ、景気は良くならない。
一番問題なのは、賃上げのできる企業でさえ、上げていないことだ。利益を上げている企業や内部留保の大きい企業は、そのもうけを社員にも還元すべきだ。そのためにもいま発想の転換が必要だ。本当の競争力を強くするのは、目先の利益を追いかけるコスト削減ではない。

 国内外で価格競争が激しくなり、企業はコストカットのために賃金を抑え、正社員を減らして非正規社員を増やしてきた。
 その結果、国民の購買力が落ちてしまった。雇用の安定がなければ、結婚して子供をつくろうという前向きの意欲も起こらなくなる。少子化もますますひどくなっている。
 各企業は先行きが不透明だから、コスト削減は当然というかもしれない。しかしみんなが給与を削減すれば、消費が減り、日本全体の内需が落ち、企業の業績も悪化する。これが「合成(ごうせい)の誤謬(ごびゅう)」で、大局的観点から見ないと、物事は失敗する。

 消費税増税も反対だ。いま需要が減ってモノが売れないために景気が悪いのに、消費税を上げたらますます需要が落ち込む。
 安さを競うのではなく、他にはない製品・サービスを産み出して、新しい需要をつくることが必要だ。この方向しか日本の生きる道はないと思う。
 いま私たちも(金融機関として)お金を貸すだけでなく、それを使って、こういうことをやりましょうと、ビジネスの提案に相当力を入れている。

 これからは就業斡旋(あっせん)もするつもりだ。城南信金の主催で「よい仕事おこし」フェア第2弾を8月6、7日に東京国際フォーラムで行うが、そこでは求職中の人と中小企業との出合いの場を設ける。
 うちの経営方針は「人を大切にする、思いやりを大切にする」である。長い目で見れば、その方がはるかに企業の発展につながるということは、歴史が示している。

▽ 経営者は<反「合成の誤謬」>を実践する能力を

 吉原理事長は、企業経営者でありながら、私企業の枠を超えて、いわば公共の視点を強調しているところがユニークといえるのではないか。大企業をはじめ、多くの企業が不況を口実にして企業の目先の損得にこだわり、内に閉じこもる傾向が強いのと対照的である。理事長発言の具体例をいくつか挙げてみよう。

(1)賃上げのできる企業でさえ、賃金を上げていないことは問題だ。利益を上げている企業や内部留保の大きい企業は、そのもうけを社員にも還元すべきだ。(利益の還元重視=安原の一言コメント。以下同じ)
(2)各企業は先行きが不透明だから、コスト削減は当然というかもしれない。しかしみんなが給与を削減すれば、消費が減り、日本全体の内需が落ち、企業の業績も悪化する。これが「合成の誤謬(ごびゅう)」で、大局的観点から判断しないと、物事は失敗する。(「合成の誤謬」を超えて)
(3)消費税増税も反対だ。いま需要が減ってモノが売れないために景気が悪いのに、消費税を上げたらますます需要が落ち込む。(消費税増は悪税)
(4)うちの経営方針は「人を大切にする、思いやりを大切にする」である。長い目で見れば、その方がはるかに企業の発展につながる。(人間尊重の経営)

<安原の感想>「合成の誤謬」から脱出して不況克服を!
 ここでは「合成の誤謬」をどう評価すべきかに触れておきたい。吉原理事長は次のように指摘している。
 各企業は先行きが不透明だから、コスト削減は当然というかもしれない。しかしみんなが給与(コスト)を削減すれば、消費が減り、日本全体の内需が落ち、企業の業績も悪化する。これが「合成の誤謬(ごびゅう)」で、大局的観点から見ないと、物事は失敗する、と。

 合成の誤謬とは、企業経営上の個々の現象、行動(例えば不況対策としての賃金の引き下げ)は間違ってはいないように見えても、日本経済全体としては、矛盾(賃金引き下げによる消費の減退、景気の悪化)が深まる、という意味である。
 「合成の誤謬」を避けるためには、給与の削減は好ましくないのである。だからこそ有能な経営者は賃上げを目指して<反「合成の誤謬」>を実践するだけの能力と決断力を身につけなければならない。
 しかし現状ではあえて賃下げを拒否し、賃上げを実践できる経営者は少ない。そのことがかえって不況からの脱出を困難にしている。「合成の誤謬」から脱出し、不況克服を図ろうではないか。「人」、「思いやり」を大切にする「人間尊重の経営」を心掛けるためには企業経営者の広い見識と柔軟な決断力が不可欠である。


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病縁で多くを学び、古希を迎える
人を思いやる心を忘れないでいたい

安原和雄
私(安原)にとって得難い「心の友」、清水秀男さんから新年の心境を綴ったメールが届いた。題して「病縁で学んだ多くのこと」で、三つを挙げている。それは、生かされていることの有り難さ、「当たり前」こそが幸せの原点、残された生をお役に立つべく、―である。
「病縁」とは「歩行困難」という病魔との苦闘を指している。病魔には拒否反応を示すのが普通だが、彼はそれをむしろ「病縁」と前向きに受け止め、そこから「人を思いやる心を忘れないでいたい」という心境に辿り着いた。しかも気づいてみれば古希を迎える。病がのさばり、苦しんでいる人の多い時代である。「病縁」とどう付き合うか、参考にしたい。(2013年1月15日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

「病縁によって多くの学びをさせて頂きました」という清水さんの心境を以下に紹介し、そして末尾に私の感想文を添える。

▽ 古希を迎える大きな節目

竹にも節があるように、人生にも節がある。今年は私にとって、古希を迎える大きな節目の年です。5年前病縁に出会い、4年間は手術の連続でありましたが、幸いにも天のご加護と多くの方々の暖かいご支援と激励のお蔭で、昨年来小康を得て、古希を迎えることが出来ますことは、誠に感慨深いものがあります。

*病縁を通じて学んだこと(その一)=生かされていることの有り難さ
病縁を通じて、多くの学びをさせて頂きました。本当に有難いと思っています。
一つは、多くの方々と物のお蔭で「生」があり、“生かされている”ことの有難さを実感したことです。
 あらためて味わった阪神・淡路震災の記念碑文に書かれた言葉は胸に響きました。

「失ったものも 多かったけれど/大切なことも沢山学んだ/
人は一人では生きていけない/一人の力では生きていけない/
誰かを助け 誰かに助けられ 生きていくものだ/
一人の生命の大きさを/人々の心のあたたかさを/
人を思いやる自分自身の心を 忘れないでいたい」

*病縁を通じて学んだこと(その二)=「当たり前」こそが幸せの原点
二つは、食べたり、排泄したり、歩いたり、坐ったり、寝たり、笑ったり、泣いたり、呼吸したりする「当たり前」と思っていた日常生活は、実は「当たり前ではない」何物にも代え難い素晴らしいものであり幸せの原点であることに、傲慢な私は病によって初めて気がついたことです。
闘病中に深く共鳴・共感した詩があります。
それは、骨肉腫の為に右足を膝から下で切断、後に両肺に悪性腫瘍が転移したために32歳の若さで夭折された内科医の井村和清さんが、亡くなる約一ヶ月前に体験を踏まえ、自分の子供達にも「当たり前の大切さ」が分かる人間になって欲しいという願いをこめて書いた手紙の中の詩です。

 その一節を紹介します。
「こんな素晴らしい事をみんなは何故、/喜ばないのでしょう/あたりまえである事を・・・手が2本あって、足が2本ある/行きたい所へ自分で歩いてゆける/
手を伸ばせば何でもとれる/音が聞こえて声がでる/こんな幸せはあるでしょうか/
しかし誰もそれを喜ばない/あたりまえだと笑って済ます/
食事が食べられる/夜になると、ちゃんと眠れ、/そして又朝が来る/
空気を胸いっぱいに吸える/笑える、泣ける、叫ぶ事もできる/走りまわれる/
みんな、あたりまえのこと/こんな、素晴らしい事を、みんなは決して喜ばない/
そのありがたさを知っているのは/それを無くした人達だけ・・・」

*病縁を通じて学んだこと(その三)=残された生をお役に立つべく
三つは、今・此処に生きていることだけが確かな事実であり、人の一生は今・今・今・・・の連続であること。そして、死は生の延長線上にあるのではなく、死を背負って毎日生きていること。
従って、今・此処の瞬間を完全燃焼させて悔いなく生き切ることの大切さを身に沁みて感じたことです。

「今一度の命なりせば いとおしみ いとおしみつつ 今日を生きなん」

孔子(注)の古希に当たる七十の心境「心の思うままに振舞っても道をはずさなくなった」には程遠いですが、竹の様に如何なる状況にも耐えて“しなう”柔軟心を持ち、せめて「不惑」を目指して、折角頂いた残された生を、少しでもお役に立つべく、一歩一歩大地を踏みしめながら歩み、全うして参りたいと思っています。
本年が、“希望に満ちた安穏な年”であることを祈念いたします。

(注)孔子(こうし・前552~前479)=中国、春秋時代の学者、思想家。諸国を遍歴し、仁の道を説いて回った。後世、儒教の祖として尊敬され、日本の文化にも古くから大きな影響を与えた。弟子がまとめた言行録「論語」が有名。

▽ <安原の感想> 「病を友に」という心境に

清水さんからの新年のメールを読みながら、決して他人事とは思えない心境に浸っていた。実はわたし自身、病とは縁が切れない。縁が深いともいえる。
小学生から中学生の頃、関節リュウマチという病魔にとりつかれた。小学4年生から中学2年生の頃まで毎年冬になると決まって、1か月以上も寝たきりの状態で苦しんだ。両親が病床の枕元で涙に暮れていたのを、つい昨日のことのように思い出す。

病魔をどう追放するか。高校に入学した年の春から病気退治のために取り組んだのが毎朝の冷水摩擦である。父の「お前は身体が弱いから、冷水摩擦で鍛えろ」の一声で、納得し、始めた。当時は水道はなく、戸外の井戸水を汲み上げて使っていた。冬になっても上半身、裸になって励行した。当時は雪もよく降ったが、雪よりも寒風の方が辛かった。寒風に裸身をさらす、そのお陰と信じているが、高校3年間、病気で休むことはなかった。

病魔の方が恐れをなしたかと想いながら、古希も過ぎて、八十路(やそじ)の坂にかかる今、やはり現実は甘くはなかった。脚にしびれを感じるようになったのである。冬の寒い夜には外出を控えるようにしている。腰部脊柱管狭窄症という病名で、杖をつきながら歩いている、同病のご老体がいかに多いことか。私は最近「病と共に」、いやそれ以上に「病を友に」という心境になり始めている。

「病を友に」とはどういう含意か。
一つは若い頃と違って高齢者なのだから、病を無理に排除しようとはしないこと。それにこだわるとかえって苦しみが増すのではないかと思案している。
もう一つ、「人を思いやる心」を大切にすること。清水さんは、病縁を通じて学んだこと=生かされていることの有り難さ、を感じながら、「人を思いやる自分自身の心を忘れないでいたい」と述べている。同感である。
自分一人が頑健であっても周囲の人が病気に苦しんでいれば、決して幸せを味わえないだろう。むしろ苦しみを共有し、相手を思いやることによって、幸せも共有できると考えたい。


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喜寿を迎えてなお過激に生きる
知識、見識よりも胆識をめざして

安原和雄
 喜寿を迎えることができたのはやはり感謝しなければならない。しかし浮かれているわけにも行かない。今後の人生をどう生きるつもりかと問われれば、いのちある限り過激に生きたいと思案している。知識、見識を広くし、深めるのもよいが、あえていえば胆識をめざしたい。
 胆識とは時代の変革にかかわっていく実践を指している。目下最大のテーマはどういう安全保障観を打ち出すかである。横行している軍事的安全保障は混乱と破壊を招くだけであり、それとは異質の真の「平和=非暴力」を築く「いのちの安全保障」を提唱したい。これこそ21世紀版胆識の実践といえよう。(2012年9月25日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 喜寿を迎えて想うこと

(1)知識、見識よりも胆識をめざして
 私(安原)は2012年喜寿(77歳)を迎えた。心したいのは、喜寿と共にどういう生き方に努力するか、である。あえていえば、21世紀を過激に生きることをめざしたい。
 稲盛和夫・日本航空名誉会長は先日、再建後の日航の株式再上場後、NHKのインタビューに答えて「これからの日本に必要なものは蛮勇だ」と語った。大量の人員整理に蛮勇を振るったことなどが胸中に去来したに違いないが、これからの日本の変革のためには、蛮勇よりもむしろ「胆識」(たんしき)の重要性を指摘したい。

 胆識とは聞き慣れない表現だが、ご存知の知識、見識よりも新たに胆識を21世紀という時代が求めているともいえよう。知識、見識に比べて胆識はどう違うのか。単純化して言えば、以下のようである。
*知識=大学生レベルのもの知り
*見識=本質をとらえる、すぐれた判断力。知識を活用し、生かすこと
*胆識=胆力と見識。実行力を伴う見識(デジタル大辞泉による。普通の辞書には載っていない)
 私の理解では、21世紀版胆識は仏教経済思想に支えられた「いのちの安全保障」の実現を求めて模索を続けることにほかならない。

(2)「いのちの安全保障」の特質はなにか。
 「いのちの安全保障」(安原の構想)とは、まず「軍事的安全保障」(軍事力重視の現在の日米安保体制がその具体例)を拒否する。さらに「人間の安全保障」(国連「人間の安全保障委員会」報告書=2003年国連事務総長に提出=人間、経済成長、市場経済の重視など)を超える次元で構想する。新しい「いのちの安全保障」の柱は次の六つである。
1.人間にかぎらず、自然、動植物を含めて、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちを尊重すること。
2.平和=非戦という狭い平和観を超えて、平和=非暴力という広い平和観に立つこと。
3.人間と自然の平和共存権を重視すること。
4.非武装中立の立場を打ち出すこと。
5.平和のための「簡素な経済」をつくる構造変革をすすめること。
6.思想的基盤として仏教経済思想を据えること。

(3)日米安保体制の呪縛から自らを解放するとき
 21世紀を過激に生きるとはなにを意味するのか。あえて一つだけ挙げれば、日米安保体制の呪縛から自らを解放することである。いいかえれば米国離れを促進させることである。これは反米を意味しない。真の意味での日米平和友好関係を新たにつくっていくことにほかならない。
 端的にいえば、日米安保体制はいまや「諸悪の根源」であり、「百害あって一利なし」である。なぜそういえるのか。
*日米安保条約は日本の自衛力増強を明記しており、平和憲法の誇るべき理念(非武装の九条など)と矛盾している。
*安保条約によって日本列島に巨大な在日米軍基地網がつくられており、こうして日本列島が米国の大義なき戦争を自動的に支援する不沈空母としての機能を果たしている。
*日米安保体制を背景に日本は在日米軍基地を許容することによって、米国の海外での大量殺戮に手を貸してきた。

 以上は日米安保体制の素描にすぎない。しかし八つのキーワード ― いのち、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性 ― を尊ぶ仏教経済思想の立場からは日米安保体制はとても容認できない。過激の英訳radical は根源という意味だから、過激に生きることは、呪縛、固定観念、常識にとらわれず、自由な境地になって根源を問い直しながら生きようと精進を重ねることである。これは私なりの「21世紀版ご奉公」のつもりである。もちろん米国の国家権力とそれに追随する僕(しもべ)たちへの奉公ではない。いのちを慈しみ、暴力や貪欲を排し、さらに共生、簡素な暮らし・経済、利他的行動、多様性、持続性を心から願っている人々へのご奉公である。

▽ 古稀を境に考えたこと

(1)座右の銘「老いてますます過激に」
 私は2005年古稀(70歳)を迎えた折に、「できるだけ過激に生きることを心構えとしたい」と題する以下のような一文を書いた。そう考えたのは、ザ・ボディショップ創業者のアニータ・ロディックさん(当時63歳)の座右の銘「老いてますます過激になる」(『朝日新聞』05年11月19日付be版)を目にしたのがきっかけである。以下のような想いは今(2012年現在)もなお変わってはいない。

 ザ・ボディショップは日本も含めて53カ国に店舗があり、世界的に知られる天然化粧品企業である。その経営方針は利益第一主義を排し、動物実験反対、環境保護、人権擁護、従業員の個性尊重であり、創業者の彼女自身が社会活動家でもある。私はこの経営方針に以前から注目し、足利工業大学教員時代に経済学講義で企業の社会的責任というテーマで何度も取り上げた。
 日本の明治時代の財界指導者、渋沢栄一は自ら「論語・算盤」説、つまり企業にとって利益追求よりも企業活動の成果の社会還元こそ重要だという経営方針を実践したことで知られる。ロディックさんは、「おんな渋沢栄一」という印象がある。

(2)「おもしろく」生きた高杉晋作
 過激に生きるとは、どういう生き方なのか。歴史上の人物として例えば幕末の長州藩志士、高杉晋作をあげたい。高杉は29歳という短い生涯だったが、その辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく」である。知友が見守る中で、こう書き遺(のこ)して息絶えたというが、ここには混乱、激動、変革の幕末期を精一杯「おもしろく」生き抜いたという心情がよく表れている。
 この句を21世紀の今日、魅力あるものと思うのは「楽しく」といわずに「おもしろく」という表現を使ったことである。楽しくとおもしろくはどう違うのか。

 「楽しく」は安全地帯に身を置いた保守、受身、消費を連想させる。すでに出来上がっているものを楽しむという発想である。一方、「おもしろく」は危険をも辞さない自由、挑戦、創造のイメージがある。そこにはロマン、志、さらにまだ出来上がっていないものを新たにつくっていく未来志向をうかがわせる。
 高杉がこの違いを意識してあえて「おもしろく」といったかどうかは分からない。しかし幕藩体制という既存の秩序をたたき壊すことに挑戦し、新しい日本を創造するために生きたことは、たしかにおもしろい人生であり、「わが人生に悔いなし」と思ったに違いない。これが過激に生きた人物、すなわち歴史における胆識実践の一例である。


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経済記者が想う「小沢新党」の発足
反消費増税、脱原発の姿勢を評価

安原 和雄
 大手メディアの社説にみる論評では「小沢新党」の評判はすこぶる悪い。まるで仲間から嫌われている非行少年団の旅立ちのような印象を受ける。果たしてそうだろうか。
 小沢新党のめざす政策の二本柱は、反消費増税であり、脱原発である。この政策目標のどこが不可解なのか。この目標をどこまで貫くかどうかという課題は残されているとしても、目標そのものは正当である。長い間、経済記者の一人として、政治、経済を観察してきた体験からして、私はそのように新党発足を評価したい。感情を交えた好き嫌いの判断で採点するのは避けたい。(2012年7月14日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ 新聞社説は小沢新党をどう論じたか

 小沢新党に関する主要4紙の社説の見出しとその大意を紹介し、私(安原)の感想を述べる。
*朝日新聞社説(7月12日付)=小沢新党 ―「人気取り」がにおう
*毎日新聞社説(同上)=小沢新党結成 スローガンだけでは
*読売新聞社説(同上)=小沢新党 大衆迎合の色濃い「生活第一」
*日本経済新聞社説(同上)=有権者と信頼関係を築けるか
 なお東京新聞社説は12~14日付では取り上げていない。

(1)朝日新聞社説は<小沢新党 ―「人気取り」がにおう>という見出しで、次のように指摘している。

 民主党を除名された小沢一郎氏のグループが、新党「国民の生活が第一」を旗揚げした。
 代表に選ばれた小沢氏は、結党大会で「反消費増税」「脱原発」などを訴えた。
 結局、「反消費増税」にしても「脱原発」にしても、まじめな政策論ではなく、単なる人気取りではないのか。

<安原の感想> 政治は「人気取り」ではないのか
 朝日の社説は<「反消費増税」にしても「脱原発」にしても、まじめな政策論ではなく、単なる人気取りではないのか>としているが、これには違和感を抱くほかない。
 なぜ「まじめな政策論ではない」と言いきれるのか。現下の最大の政策テーマであり、消費増税や原発推進に国民の大多数が賛成しているわけでは決してない。
 しかも「単なる人気取り」という指摘も不思議である。政治はしょせん「人気取り」だろう。それは有権者、国民大衆の希望、願い、期待に応えるという意味である。それが民主政治ではないのか。それとも朝日社説は日本国民を責任感の欠落した「愚民」と認識しているのか。

(2)毎日新聞社説は<小沢新党結成 スローガンだけでは>という見出しで、以下のように論じている。

 小沢氏が言う通り、「国民の生活が第一」は政治の要諦だ。「増税前にすべきことがある」との主張も間違っていないし、「自立と共生」を理念とし、国民、地域、国家の主権を確立するとした新党の綱領も妥当な内容だろう。ただし、「反増税と脱原発」のスローガンだけで納得するほど有権者は単純ではない。

<安原の感想> たしかに「有権者は単純ではない」
 小沢氏には多くの点で共感を覚えながらもなお、どこかに欠点がないかとあえて探しているという印象が残る社説である。「有権者は単純ではない」はその通りである。「単純」はしばしば「馬鹿」を暗示する。いうまでもなく有権者はそれとは異質であってほしい。
 しかし政治の主張、スローガンは、大学研究者に多い意味不明の論文ではないのだから、単純、明快でなければならない。「反増税と脱原発」はその典型である。しかしこの単純、明快なスローガンに込められている含意は、地球規模の広がりと新時代の創生を示唆している。だからその価値は限りなく大きい。

(3)読売新聞社説は<小沢新党 大衆迎合の色濃い「生活第一」>と題して、次のように指摘している。

 新党の発足に高揚感は乏しい。何しろ「壊し屋」と称される小沢氏の4度目の新党であり、新鮮味に欠ける。
 国民の生活本位と言うのなら、具体的かつ丁寧に説明してもらいたい。有権者へのアピールを意識して、大衆迎合的なスローガンを唱えるだけでは無責任である。

<安原の感想> 大衆迎合はむしろ歓迎できる
 「新鮮味に欠ける」という指摘は、正しいだろうか。経済記者としての私などは「4度目の新党」という、その「しぶとさ」にむしろ感心する。たしかに「壊し屋」なのだろう。しかし新しく創りもするのだから、同時に「建設家」でもあるのではないか。
 「大衆迎合的なスローガンは無責任」という表現にも違和感が残る。「迎合」とは本来、弱者としての大衆が強者である権力に「気に入るように迎合」するという意味であり、逆に権力が大衆に迎合するのではない。それを承知で、小沢新党が政治を一新して、大衆に「生活第一」で「迎合」するのであれば、それはこれからの民主政治の一つのあり方となるかも知れない。無責任どころか、むしろ歓迎できるのではないか。

(4)日本経済新聞社説は<有権者と信頼関係を築けるか>という見出しで、以下のように論じている。

政党にとって重要なのは政策である。同時に有権者との間に絆がなければならない。新党はそれだけの信頼を築けるだろうか。
 次期衆院選に向けて新党は反増税と反原発を旗印に据える方針だ。
 民主党は抵抗勢力がいなくなり、野田佳彦首相が党内をまとめやすくなった。社会保障と税の一体改革を巡る3党合意で構築した自民、公明両党との枠組みも活用し、「決める政治」を推し進める絶好の機会だ。

<安原の感想> 「決める政治」はそれほど価値があるのか
 この日経社説の主眼は後段の「民主党は抵抗勢力がいなくなり、野田首相が党内をまとめやすくなった」にある。だから<「決める政治」を推し進める絶好の機会だ>が社説の言いたいところだ。各紙社説ともに小沢嫌いに満ちているが、この社説は特に露骨である。
 しかし「決める政治」それ自体は、それほど価値のあることだろうか。問題は何を決めるかである。間違ったことを決めて、それをごり押しされては迷惑するのは国民である。反増税と反原発の小沢抵抗勢力がいなくなった後の民主党のめざすところは、増税と原発の推進である。「決める政治」の中身はこれである。これを歓迎する国民は決して多くはない。これでは民主党の命運も事実上尽きたというほかないだろう。

▽ 新聞にみる「読者の声」が示唆すること

 まず<読者も「民主党は終わった」>と題する東京新聞7月12日付「応答室だより」を紹介しよう。これは読者の声を収録したもので、その大意は以下の通り。

 消費増税法案をめぐり民主党が分裂後、同党に失望してさじを投げる読者の投稿が目立っている。埼玉県越谷市の70代男性は「三年前の政権交代の期待は見事に裏切られた。民主党は事実上終わった。一日も早く『主権在民』の政府誕生を望む」と総括している。
 批判はもっぱら、次の選挙までは上げないと公約したはずの消費増税に、自民、公明両党と組んで政治生命を懸けるという野田首相らに集中。これに反対して新党を結成した小沢元代表グループには期待する意見も届いた。
 一方、民主党分裂を機に政界再編成を求める横浜市の80代男性は、「官僚の振り付けで動く民主、自民、公明党で構成する『官僚翼賛会』と、この党と対極線上に位置する『国益第一義党』に再編すればいい。とりあえずは前者が多数党だが、後者も小沢新党を軸に勢力を増大し政権党に成長してほしい」と記している。

 これに東京新聞読者の「発言」(7月14日付)をつけ加えておきたい。「小沢新党は国会に必要」と題して、次のように指摘している。

 新党を結党した小沢代表の動きに多くのメディアは否定的である。だが、現下の重要課題である消費増税と原発について、国民の声が国政の場に届かない状況にある。そう考えると、反増税、反原発を主張する勢力が国会の場に必要であることは明らかである。その意味でも小沢新党には期待してやまない。
 
 もう一つ、「国民をだまして消費増税とは」(7月13日付朝日新聞の読者「声」)を届けたい。その要旨は次の通り。

 民主党を除名された小沢一郎元代表が11日、新党「国民の生活が第一」を旗揚げし、民主党は分裂した。「国民との約束を守ろう」と主張した人たちが党を離れ、「今は消費増税だ」と主張する人たちが党に残る。何とも不思議だ。税制という国民にも国家にも最重要な政策で政権公約が守られない。これでは何のための選挙だったのかと思う。
 民自公の3党合意は「社会保障は後回しにして、まずは増税を」ということのようだ。増税だけでは国民の反発を招くので、社会保障という隠れみのを使っていたのだ。これでは国民をだまして増税をしたと言わざるをえない。
 小沢新党の旗揚げで参院での消費税法案の行方はどうなるか。現状のままでは「増税成りて信義滅ぶ」という事態となる。

<安原の感想> メディアは健全な批判精神を取り戻すとき
 紹介した「読者の声」は、きわめて健全であると評価したい。これに比べれば上述の各紙社説の質はいささか見劣りするのではないか。一昔前には社説を一読者として読んでみたとき、「なるほど勉強になった。こちらの気づかないことを見事に指摘している」という読後感が残ったものだ。
 ところが現状はどうか。社説執筆者は「勉強不足」、あるいは「偏見、思いこみ」に囚われているのではないか、という印象が消えない。なぜなのか。それは社説執筆者の姿勢、いいかえれば国家権力を含む権力者を批判するのか、それとも読者一般に向かってお説教を垂れるのか、にかかわってくる。有り体にいえば、後者のお説教が多すぎるのだ。
 これではメディアの健全な批判精神の衰微というほかない。今ここで踏みとどまって、健全な批判精神を取り戻さなければ、新聞メディアの存在価値そのものが問われるだろう。


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原爆と原発は人類の過ちである
全廃に向けて猶予は許されない!

安原 和雄
 「反原発」の運動や著作は最近増えてきた。このことは歓迎したいが、どこか物足りない印象も拭えない。なぜなのか。それは「原爆と原発」を一体として捉え、論じなければならないという視点が弱いからだろう。その点、最近の著作『原爆と原発』が「原爆・原発は人類の過ち、全廃に向けて猶予は許されない!」として「共に全廃すべきだ」と力説しているところを大いに買いたい。
 原発推進派の原発への執着ぶりも目に余るが、その執拗さを打破するためにも「共に全廃」という視点が不可欠とは言えないか。(2012年6月5日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 落合栄一郎(注)著『原爆と原発』(2012年5月、鹿砦社・ろくさいしゃ刊)を読んだ。副題に「放射能は生命と相容れない ― 原爆・原発は人類の過ち、全廃に向けて猶予は許されない!」とある。本書の特色は「原爆と原発」を一体として論じているところにある。
(注)落合氏は1936年生まれ、東京大学助教の後、海外へ。カナダ、アメリカの大学などを経て、カナダ・バンクーバー9条の会(日本国憲法9条の理念を生かす会)などに関与。数年来、「持続可能性」、「平和」、「原発」、「文明」の基本問題についてインターネット紙「日刊ベリタ」に寄稿(約200稿)している。

『原爆と原発』の大要を以下、6項目に分けて紹介し、それぞれに<安原の短評>をつける。

(1)化石燃料や原子力は今後1世紀はもたない
化石燃料にしろ、ウランにしろ、その地球上での存在量は有限である。すなわち使えばなくなるし、再生することはできない。それがいつ枯渇するかは、人類の使用速度と存在量に依存するが、遠くない将来になくなることは目に見えている。
現在の経済体制、企業体制としては、なるべく儲かる化石燃料や原子力を使っていたい。しかし長く見積もっても今後1世紀はもたないだろう。このことは、現経済体制の枠組みに取り込まれている人たちには見えないようであるが、自明のことである。

<安原の短評> 意図的盲目症
「化石燃料や原子力は今後1世紀はもたないことは、現体制の枠組みに取り込まれている人たちには見えない」という指摘は的確である。真実を認識すれば、そこに責任を伴うことになる。だから日本のリーダーの多くは、事実(真実)を観ようとはしないのだ。意図的盲目症に陥っている。

(2)核兵器生産を継続する経済効果
冷戦時代の核兵器は抑止効果が主目的であったが、冷戦は一応解消し、ロシアも中国も、経済的には欧米と対立する体制ではない。すなわち政治的には核兵器の必要性は薄らいだ。しかし大国の核兵器の実質的削減は、始まっていない。大きな要因は、核兵器産業への経済効果である。特に大規模兵器は、国家機関が国民の税によって買い取るものであり、国家が安泰であるかぎり、取りはぐれはない。
こうした権益を軍需産業が手放すのを渋るのは当然であろう。現在の新自由主義に毒された市場経済では、金融などを支配する大企業家が政治世界を動かす立場にある場合が多く、例えばアメリカでは大企業、特に金融企業が政治の中枢に食い込んでいる。

<安原の短評>軍需産業の権益
なぜ核兵器の実質的削減が進まないのか。軍需産業がその権益を手放そうとしないからである。その元凶は例の「軍産複合体」の存在である。国民の税金によって軍需産業の権益が保障される限り、戦争勢力としての「軍産複合体」の肥大化はつづく。「軍産複合体」に解体の大鉈(なた)を打ち込むのはいつのことか。

(3)「原子力=悪」のイメージ払拭と原発設置に加速
戦後の日本人には、原爆の恐ろしさの体験から、「原子」の言葉に拒否反応する「原子(または核)アレルギー」なる症候が蔓延していた。そこでアイゼンハワー米大統領は、1953年12月8日(太平洋戦争開戦記念日)に国連で、演説「平和のための原子」を行って、「原子力=悪」のイメージ改善に努めた。
ところがその直後、1954年3月、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験に日本漁船が遭遇し、死の灰をかぶり、船員一人が死亡、日本人の「反原子」感情はかき立てられた。このためアメリカ政府は、「原子力の安全神話」を吹聴した。しかも1973年に始まる「オイルショック」(中東産油国での原油産出制限と石油価格急騰)で危機に瀕した日本では、原子力発電設置が加速された。

<安原の短評>「経済成長」が錦の御旗
原子力は危険だからこそ、その安全神話をことさら吹聴する必要があった。しかも1973年に始まる「オイルショック」が原発推進派にはまたとない追い風となった。「経済成長」が錦の御旗として高く掲げられた。つまりは経済成長のための原発であり、だからこそ原発批判の声はかき消されるように小さくなっていった。

(4)原発はどうしても必要と言えるのか
原発のべネフィット(利益)は、コストよりも大きいだろうか。ベネフィットの価値を決めるのは、代替エネルギーがないこと、原発がなければ日本は生きられないこと ― なのかどうかにかかっている。2011年夏の電力需要ピーク時に、不足の事態が起きる可能性があると、電力会社は主張した。
しかし企業や消費者の努力もあって、全原発のうちわずかに25%ぐらいしか稼働していなかったにもかかわらず余力を残して乗り切った。2012年5月には稼働原発はついにゼロ基になったが、日本中で停電などは起きていない。これでも原発はどうしても必要といえるのか。

<安原の短評>稼働原発はゼロに
原発再稼働に執念を抱く原発推進派は、電力不足を声高に叫び、電気料金値上げまで持ち出している。自制心という正常な神経とは無縁らしい。しかし稼働原発は5月以来目下、ゼロになっているが、停電は起きていない。国民の間にも節電の心構えは広がっている。節電に困るのは国民ではなく、むしろ電力会社ではないのか。

(5)原発廃棄で大多数の国民の生活は
原発廃棄は、電力会社と、その権益に与(あずか)る政治家や「原子力村」に群がる官僚や学者たち、交付金に潤う地元の自治体、それによって雇用を得ている人々にとってのみ不利なだけであろう。
大多数の国民には大した不利益をもたらさないどころか、より安心な生活ができるようになろう。したがって地元の経済・雇用の機会の増大などの施策を充分に施すこと、例えば自然エネルギー開発へカネを注ぐことによって経済活性化、雇用増大を実現することによって、原発廃棄の不利を克服すべきである。

<安原の短評>より安心な生活へ
「原発廃棄は、大多数の国民にはより安心な生活ができるようになる」という指摘は重要である。もちろん原発廃棄のままでよいわけではない。新エネルギー源として再生可能な自然エネルギー(太陽光・熱、風力、地熱、小型水力など)の開発活性化が不可欠である。そのためにこそ知恵と技術力と資金を有効活用したい。

(6)原爆と原発は地球上の生命と相容れない
原発を維持する隠れた理由の一つに、それがいざという場合に核兵器製造に転用できる可能性があることだ。原発は原爆同様、地球上の生命と相容れない上に、人類全体にとって経済的にも、環境の面からも望ましくないし、必要もない。
なるべく早く原爆も原発も地球上から抹殺すべきである。特に日本の場合には、地震その他の天災、施設の老朽化などの理由により、現存原子炉はすべて安全な状態に速やかにもっていく必要がある。

<安原の短評>原爆も原発も全廃へ
「原発は核兵器製造に転用できる可能性がある」という示唆に着目したい。この点は専門家には知られていることだが、日本では「原爆は悪」、しかし「原発は善」という誤解が広がっていた。この誤解を吹き飛ばしたのが「3.11」の原発大惨事である。「原発は原爆同様、地球上の生命と相容れない。だから共に全廃へ」という認識を広く共有したい。


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野坂昭如の「田植え」を読んで
農業を棄てた自分の「今」を想う

安原和雄
 田植えの季節がめぐってきた。野坂昭如の田植え観、さらに農業・製造業論、反原発論はなかなかユニークである。日本は農業を軽視し、棄てたからこそ、製造業も衰退へ向かっているという主張には納得できる。
 私自身、農家の生まれでありながら、田舎での農業を棄てて、東京暮らしを続けている一人である。この選択が間違っていたとは思わない。しかし農業を棄てた、その埋め合わせを、「今」の自分として成し遂げつつあるのかと自問すれば、「さて」と心底揺らぐほかない。(2012年5月25日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 「農を棄て、製造業も衰退」へ

 毎日新聞に連載中の野坂昭如の「七転び八起き」に「田植え」と題した記事(2012年5月12日付)がある。記事の主見出しは「農を棄て、製造業も衰退」である。私自身、農家の生まれで、小中学生の頃、当然のこととして田植えに励んでいた。それだけにこの記事を、我が人生のこれまでの来(こ)し方と重ね合わせて興味深く読んだ。記事の大要を以下、紹介する。

*食いものを粗末にしない、この当たり前
 米づくりは田植えに始まり、稲穂垂れるまで続く。だが個人で出来ることではない。農全般、特に米づくりは集落の力が必要なのだ。水田の造成、管理、収穫の技術は代々伝えられる。田植えにしろ、収穫にしろ、土に拠(よ)って生きる者同士がそれぞれ知恵を出し合い、助け合って生きてきた。共同作業も多い。自然とのつきあい方、食いものについて粗末にしない。このあたり前が農と共にあった。

*都市中心の歪(いびつ)な姿を生んだ農の崩壊
 昭和42年、お上(かみ)は日本に米が余ったと発表。日本人の米離れが言われ、減反政策が始まった。つまり米は作るな、米はいらないということ。この減反政策と生産調整が進むにつれ、農の崩壊が加速していく。戦争に負けて、食糧不足だ、農民は国民のため米を増産せよといわれ、作れば今度は作るなという。農民の気持ちを無視した政策がもてはやされた。農の崩壊は地域の過疎化を招き、都市中心の歪な姿を生んだ。

*製造業の衰退は農業の衰退から
 それでも高度成長の頃は、農を放棄しながら経済大国日本を築いた。今、その経済はどうか。日本の要である製造業にも翳(かげ)りが見えている。ぼくは農業の衰退も無関係ではないと思っている。日本の製造業を支えてきたのは職人気質でもある。農から遠ざかり、手塩にかける技、創意工夫する力の育つ土壌が失われ、知恵の伝承が断たれる。製造業の衰退の危機はこんなところにも原因があるのではないか。

*放射能による作付け制限に消費者こそ危機感を
 東北は日本の米づくりの基盤である。放射性物質による汚染の懸念から作付けが制限されている地域がある。水田は一度でも作付けしないと荒れて使い物にならなくなる。葦(あし)や葛(くず)、猛々(たけだけ)しい雑草のおい繁(しげ)る休耕田、耕作放棄地の姿ほど怖ろしく不気味なものはなかった。本来なら瑞々(みずみず)しい水田の季節に、放射能による作付け制限を、消費者こそ危機感をもって考える必要がある。

▽ <安原の感想> 消費者としての危機感に着目

 田植えの季節である。60年以上も昔のこと、雨の中、蓑(みの)を着て、田植えに取り組む幼い自分の姿が浮かんでくる。小学生の頃から、家で飼っていた牛を使って田んぼを耕すことを父の教えで習い始めた。農家生まれの自分としては、農業を継ぐのは当然のことと思っていた。他の選択は夢にも考えたことはなかった。
 しかし人生は分からない。小学4年生の頃、関節リュウマチという病魔に取りつかれたのだ。医者も「普通は老人病であり、子どもには珍しい」と首を傾げていたが、中学2年まで毎冬、この病に襲われた。医者の次の一言が私の人生行路を大きく変えた。「息子さんには農業は無理だな」と。

 地元の高校へ進学、まず病弱な身体を鍛え直さなければならない。父の勧(すす)めもあり、戸外にあった井戸の水を使って毎朝、冷水摩擦を始めた。当時は冬になると、雪が多かったが、降りしきる雪の中でも上半身裸になって、冷水摩擦は欠かさなかった。
 お陰で高校3年間、病気で休むことはなかった。しかしもはや農業への関心は失っていた。東京の大学へ進む道を選び、このとき私は農家生まれでありながら農業を棄てたのだ。

 今でも年に一度は郷里へ帰省するが、その都度実感する。野坂の上述の指摘、「雑草のおい繁る休耕田、耕作放棄地の姿ほど怖ろしく不気味なものはない」を。この不気味さは、自分の目で観た体験がなければ理解できないだろう。

 何よりも見逃せないのは、次の洞察である。
 一つは「製造業の衰退は農業の衰退から」という認識である。高度成長の過程を経て、これまで「農業の衰退から製造業の興隆・発展へ」というイメージが広がり、常識になっていた。安い農産品は米国など海外から輸入すればよい、という安易な国際分業論である。この結果、食糧の自給率は4割という先進国では例をみないほどの危機的な低水準に落ち込んでいる。
 生命(いのち)の源である農業を軽視するところに製造業(工業)も永続しない。しかも金融(マネー)重視の新自由主義(=市場原理主義)的路線が製造業の衰退に拍車をかけてもいる。

 もう一つは「(原発)放射能による(水田の)作付け制限を、消費者こそ危機感をもって考える必要がある」という指摘である。ここに「消費者」が登場してくることに着目したい。経済用語である消費者は、購買力を持つ日本国民一人ひとりを指している。これに対し農業、製造業は産業別の分業の違いであり、それぞれに国民全員がかかわっているわけではない。
 原発惨事が日本国民全体の生死にかかわっていることは今では「常識」として認識されつつある。しかし「消費者」としての日本国民全体の危機であるという野坂流の視点を打ち出したのは、平凡に見えて、実は優れた認識とはいえないか。消費者だからこそ消費と共に危険な放射性物質を体内に摂取せざるを得ないという運命的危機から逃れられないという含意を汲み取ることが出来る。これは「消費者としての日本国民よ、決起せよ」という野阪節の叫びでもあるだろう。


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今こそ「奴隷」に「さようなら」を
平和憲法施行から65周年を迎えて

安原和雄
2012年5月3日、あの敗戦後の廃墟と混乱の中で施行された現行平和憲法は65年の歳月を重ねた。大手紙の憲法観は乱れ、護憲派、改憲派に分かれている。しかし戦争放棄と共に人権尊重を掲げる優れた憲法理念は、あくまで守り、生かさなければならない。
 特に強調すべきことは、憲法18条(奴隷的拘束からの自由)をどう生かすかである。現下の政治、経済、社会状況は多くの若者や労働者を事実上の奴隷状態に追い込んでいる。これがかつての経済大国ニッポンの成れの果てと言えば、誇張に過ぎるだろうか。今こそ「奴隷状態」に「さようなら」を告げるときである。(2012年5月4日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 2012年5月3日付の大手紙社説は憲法施行65周年を迎えて、どう論じたか。主要5紙社説の見出しを紹介する。
*東京新聞=人間らしく生きるには 憲法記念日に考える
*朝日新聞=憲法記念日に われらの子孫のために
*毎日新聞=統治構造から切り込め 国のかたちを考える ⑤論憲の深化
*読売新聞=憲法記念日 改正論議で国家観が問われる 高まる緊急事態法制の必要性
*日本経済新聞=憲法改正の論議を前に進めよう

 以上の見出しからも察しがつくように、本来の憲法理念をどう生かすかを中心に論じている「理念尊重」派が東京、朝日である。一方、読売と日経は明らかに現行憲法に不満を抱く改憲論に立っている。両派に比べ中立の立場を匂わしながら、「論憲」という名の改憲姿勢であるのが毎日といえよう。
私(安原)自身は、「理念尊重」派に属している。観念的な「理念尊重」ではない。21世紀、特に「3.11」(2011年3月の大震災と原発大惨事)以後の日本再生は、「理念尊重」をどう具体化していくかにかかっている。憲法理念を軽視するようでは日本再生は正道を踏み外すことになるだろう。

▽ 人間らしく生きる ― 憲法25条の生存権

 ここでは「人間らしく生きる」視点を重視する東京新聞社説の大要を以下に紹介する。

 哲学書としては異例の売れ行きをみせている本がある。十九世紀のドイツの哲学者ショーペンハウアーが著した「幸福について」(新潮文庫)だ。次のようにも記されている。
 《幸福の基礎をなすものは、われわれの自然性である。だからわれわれの福祉にとっては健康がいちばん大事で、健康に次いでは生存を維持する手段が大事である》
 生存を維持する手段。まさしく憲法の生存権の規定そのものだ。「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障した第二五条の条文である。

 大震災と原発事故から一年以上も経過した。だが、岩手・宮城のがれき処理が10%程度というありさまは、遅延する復旧・復興の象徴だ。原発事故による放射能汚染は、故郷への帰還の高い壁となり、今なお自然を痛めつけ続けてもいる。
 肉体的な健康ばかりでなく、文化的に生きる。主権者たる国民はそれを求め、国家は保障の義務がある。人間らしく生きる。その当然のことが、危機に瀕(ひん)しているというのに、政治の足取りが重すぎる。
 生存権は、暮らしの前提となる環境を破壊されない権利も含む。当然だ。環境破壊の典型である原発事故を目の当たりにしながら、再稼働へと向かう国は、踏みとどまって考え直すべきなのだ。

 国家の怠慢は被災地に限らない。雇用や福祉、社会保障、文化政策、これらの社会的な課題が立ちいかなくなっていることに気付く。例えば雇用だ。

◆50%超が不安定雇用
 若者の半数が不安定雇用。こんなショッキングな数字が政府の「雇用戦略対話」で明らかになった。二〇一〇年春に大学や専門学校を卒業した学生八十五万人の「その後」を推計した結果だ。
 三年以内に早期離職した者、無職者やアルバイト、さらに中途退学者を加えると、四十万六千人にのぼった。大学院進学者などを除いた母数から計算すると、安定的な職に至らなかった者は52%に達するのだ。高卒だと68%、中卒だと実に89%である。予想以上に深刻なデータになっている。

 労働力調査でも、完全失業者数は三百万人の大台に乗ったままだ。国民生活基礎調査では、一世帯あたりの平均所得は約五百五十万円だが、平均を下回る世帯数が60%を超える。深刻なのは、所得二百万円台という世帯が最も多いことだ。生活保護に頼らざるをえない人も二百万人を突破した。
 とくに内閣府調査で、「自殺したいと思ったことがある」と回答した二十代の若者が、28・4%にも達したのは驚きだ。「生存を維持する手段」が瀬戸際にある。もはや傍観していてはならない。

 一九二九年の「暗黒の木曜日」から起きた世界大恐慌で、米国は何をしたか。三三年に大統領に就任したルーズベルトは、公共事業というよりも、実は大胆な失業救済策を打ち出した。フーバー前政権では「ゼロ」だった失業救済に、三四年会計年度から国の総支出の30%にもあたる巨額な費用を投じたのだ。
 当時、ヨーロッパでも使われていなかった「社会保障」という言葉自体が、このとき法律名として生まれた。「揺りかごから墓場まで」という知られたフレーズも、ルーズベルトがよく口ずさんだ造語だという。

 翻って現代ニッポンはどうか。社会保障と税の一体改革を進めるというが、本音は増税で、社会保障の夢は無策に近い。「若い世代にツケを回さないため」と口にする首相だが、今を生きる若者の苦境さえ救えないのに、未来の安心など誰が信用するというのか。ルーズベルトの社会保障とは、まるで姿も形も異なる。

◆現代人は“奴隷”か
 十八世紀の思想家ルソーは「社会契約論」(岩波文庫)で、当時の英国人を評して、「彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイ(奴隷)となり、無に帰してしまう」と痛烈に書いた。
 二十一世紀の日本人は“奴隷”であってはいけない。人間らしく生きたい。その当然の権利を主張し、実現させて、「幸福の基礎」を築き直そう。

▽ <安原の感想> 脱「奴隷」から日本の再生は始まる

 東京新聞社説の末尾の指摘は「刺激的」であり、かつ「挑発的」でもある。<二十一世紀の日本人は“奴隷”であってはいけない。人間らしく生きたい。その当然の権利を主張し、実現させて、「幸福の基礎」を築き直そう>と。
 憲法18条(奴隷的拘束からの自由)に「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」とある。この憲法の条項をどれだけの人が理解し、脳裏に刻みつけているだろうか。「刺激的」とは、「えっ? そんなことが憲法に書いてあるの」と驚く人が少なくないだろうからだ。一方、「挑発的」とは、黙っていていいのか。変革のために立ち上がれ、と促しているとも理解できるからだ。

 何をどう変革するのか。上記の社説にそのデータが満載である。変革とは、少なくとも以下のような悪しき現実を改善することだ。
・若者の半数が不安定雇用
・完全失業者数は三百万人の大台に乗ったまま
・一世帯あたりの平均所得(約五百五十万円)を下回る世帯数が60%超
・生活保護に頼らざるをえない人も二百万人を突破
・「自殺したいと思ったことがある」二十代の若者が、28・4%にも

 多くの人は今や「豊かさ」よりも「幸せ」を求めて生きている。その幸せを実現させるための第一歩は「自分は奴隷に甘んじているのではないか」と自覚することから始まるにちがいない。つまり脱奴隷への道を見すえることだ。
 そのための必要条件として、脱原発との連携が不可欠であるだろう。考えてみれば、原発推進のための原発複合体(政官財のほか学者、メディアなどが構成メンバー)そのものが民衆・市民を奴隷的拘束状態に閉じ込める装置として機能してきた。当初から反原発の少数派は別にして、原発容認の多数派は、奴隷状態に置かれていることに無自覚であった。
 しかし「3・11」を境に反原発の少数派が多数派に成長した。つまり脱奴隷への道を着実に歩みつつある。もはや逆流はあり得ないだろう。いったん自覚した奴隷が再び無自覚の奴隷へと転落することはあり得ない。ここから日本の再生が始まる。


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「日本」の良さは、こんなにも
対談『日本を、信じる』を読んで

安原 和雄
 瀬戸内寂聴さんとドナルド・キーンさんの対談集『日本を、信じる』は、「読めば元気の出る対談集!」と銘打ってあるだけに含蓄に富む発言、指摘が少なくない。例えば仏教の無常(同じ状態は続かないで変化すること)観である。
 日本人の多くは無常をマイナス志向で捉えやすいが、本来は積極的、肯定的なプラス志向の意味も含んでいる。悲劇をもたらした東日本大震災から復興・再生への変化はプラス志向の具体例である。対談『日本を、信じる』は日本の未来を信じ、その良さを生かそう!という呼びかけにもなっている。(2012年4月15日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 瀬戸内寂聴さん(注1)とドナルド・キーンさん(注2)の対談集『日本を、信じる』(2012年3月・中央公論新社刊)を読んだ。その感想を述べる。
 (注1)瀬戸内さんは1922年徳島県生まれ。東京女子大学卒業。73年中尊寺で得度。92年『花に問え』で谷崎潤一郎賞のほか多数受賞。06年文化勲章受章。他の著書に『現代語訳源氏物語』など多数。
 (注2)キーンさんは1922年ニューヨーク生まれ。コロンビア大学などを経て、53年京都大学大学院に留学。現在日本学士院客員。毎日出版文化賞など受賞多数。08年文化勲章受章。著書に『日本文学史』など多数。2011年の「3.11」大震災後、日本に帰化し、日本人となった。

(一)日本の文化と無常という美学
 二人は『日本を、信じる』で日本の文化、さらに無常という美学について語り合っている。その大意を以下、紹介する。

キーン:日本の文化といえば、まず仏教のことを思います。今の日本人の多くは仏教とは縁のない生活のようですね。お葬式の世話を頼む程度でしょうか。
今の人たちの関心が薄れているとはいえ、日本の場合、仏教の影響の大きさは無視できない。伝統的な美術、音楽、演劇でも仏教は中心的なものだし、お能も、ほとんどの演目のワキ役はお坊さんです。そして日本人の精神の支柱には仏教がある。それなのに海外ではほとんど知られていない。
それにしても、今の日本人が日常的に仏教のことを考えないのは不思議ですね。
瀬戸内:そもそも今の仏教は鎌倉時代、それまでにあった奈良時代の仏教に反対してできた新たな仏教です。当時の新興仏教なんです。新興仏教でも、よければ人の心をとらえ長く残っていく。残っていけば、既成仏教になるわけです。

キーン:今回の東日本大震災を、仏教ではどうとらえるのでしょうか。
瀬戸内:仏教には「無常」という言葉がある。「人はみんな死ぬ」ことを日本人は無常と言います。でも、私は自分流に違う解釈をしている。無常は「常ならず」、つまり同じ状態が続かないということ。
今度のような天災があると、「無常」を死に結びつけて考えがちですが、そうではなく、同じ状態が続かないと考えればいい。平和な時代があっても、長く続くとは限らない。こういう災害や事件が起きるけれど、ずっと泣いてばかりいるかというと、そうではない。少しずつ元気を取り戻して立ち上がっていく。今はどん底かもしれないけれど、いつまでも続くどん底じゃない。無常だから、必ず変わっていく。被災地で皆さんをお見舞いするときも、そう話しているんです。
キーン:おっしゃる通りです。同時に思うのは、「無常 ― 同じ状態は続かない」ことに対し、それを受け止める側の態度もいろいろあるということ。移り変わることを喜ぶ場合もあれば、残念に思う場合もある。変わるのを防ぐにはどうしたらいいかを考えることもある。
例えば古代エジプト人やギリシャ人は、何かをつくるとき、不変性を求めて石を使った。ピラミッドは永遠に残ることを目指している。中国のお寺の多くはレンガ造りです。ところが日本の場合、木を使う。日本人はむしろ変わることを願っている。いつも同じではないことを喜ぶ面がある。
桜はどうしてこれほど日本人に愛されているのでしょうか。美しいからですが、それだけではなく、つかの間の美、三日だけの美しさ、だからです。
花は散り、形あるものは壊れる。まさに無常です。しかしそこに美の在(あ)り処(か)を見出し、それが美学にまで昇華されるのは日本だけではないでしょうか。

瀬戸内:東日本大震災でいえば、津波に流されてしまったものは仕方がないと、悲嘆すると同時に、諦めて笑ってしまおうとするところも日本人にはあるように思います。
キーン:そういう矛盾はあらゆる国にあるでしょうが、日本の場合はとくに強い。つまりものを「守る」「捨てる」「諦める」など、相容(あいい)れないことが一人の人間の中にある。日本では同じ人が神道と仏教、両方を信じている。そして新しいものと古いもの、儚(はかな)いものと永遠につづくもの、全部が日本の中に入っている。結果として、日本の文化は極めて豊かになった。そうでなければ、これほどまでに深い文化にはならなかったでしょう。

<安原の感想> 無常観はやはり真理だ
 仏教の基本思想の一つが「無常」であるが、無常とは何か。お二人の無常観は微妙に異なっている。瀬戸内さんは「同じ状態が続かないこと」、いいかえれば、「変わること」に重点をおいて捉える。例えば戦争から平和へ、不幸から幸せへの変化であり、その逆の変化も真である。これは正統派の無常観といえるだろう。
 これに対し、キーンさんは無常についてそれを受け止める側の態度を重視する。日本人は変化していくことを重視するが、世界のすべての人々がそうだとはいえない。例えば古代エジプト人やギリシャ人は、不変性を求める。石で造ったピラミッドはその具体例で、いつまでも残ることを目指している。つまり変化を好まない。
いずれにしても無常観はやはり真理というべきである。短期間の変化もあれば、想像を絶する長期間に及ぶ変化もある。例えば地球の生命である。何万年先あるいは何億年先かは分からないが、いつかは地球の生命が尽きる時が来るだろう。それ以前に人類は滅亡しているかもしれない。やはり万物の無常=変化は避けがたいと理解したい。

(二)美しい風景を壊さないで
二人の話題は多岐にわたっているが、ここでは壊されていく「日本の美しい風景」を惜しむ対話を紹介する。

キーン:日本は世界の中でもとてもきれいな国です。海も山も美しく、さまざまな花が咲きます。しかし日本人は戦後、森を切り崩して分譲地にしたり、マンションを建てたり、その美しさを自分たちの手で壊している。
瀬戸内:そうそう、ゴルフ場にしたり。
キーン:ゴルフ場は最悪ですね。いつか行った町にゴルフ場があり、芝を整えるために使った除草剤や農薬の毒素が水道水に混じって、大騒ぎになっていました。住民の健康を蝕(むしば)み、不安にさせてまで、ゴルフ場は必要でしょうか。私には理解できない。
それだけではない。景色が素晴らしい場所は、その美しさを護(まも)っていくべきなのに、日本三景の一つ、松島は最悪です。島々が浮かぶ景色はたしかに日本一かもしれないが、観光地化されて俗悪、おそらく日本でいちばん醜いところの一つだと思います。
感激したのは最初のときだけです。『奥の細道』の旅行をしたとき、瑞巌寺(ずいがんじ)に立ち寄り、その荘厳な美に敬服したものです。庭園には紅梅と白梅、二本の立派な梅の木が美しい花を咲かせていました。
その後に訪れたときは、観光地化された町の様子に疲れて、瑞巌寺に逃げたのですが、瑞巌寺に入ると、あちらこちらからガイドのマイクの声が聞こえます。何か冗談でも言っているのか、笑い声がこだまし、響き渡り、我慢できませんでした。
今は高層ビルが建ち、せっかくの景色を台無しにしています。誰がそれを許したのでしょう。日本人の無関心は本当に不思議です。

瀬戸内:戦後、どの町の駅前も同じような景色になりました。違ったところに来た気がしません。フランスにカーンという町があります。列車に乗っていて、ふと降りたくなって、立ち寄ったんです。懐かしい雰囲気のする、とても素敵な町なんですよ。聞くと、そこは戦争中、爆撃でメチャメチャになったのを、昔のままの町に、戻したんですって。ここに八百屋が、あそこに鍛冶屋があった、という風に。だからフランスの田舎町に来たような感じがしたんだと納得した。駅前広場の前に壁があって、そこだけ爆撃されたときの様子を記念に残して、後は昔のまんま。
キーン:日本には古くて風情のある町がたくさん残っています。私は瀬戸内海に面した広島県の鞆(とも)の浦(うら)という港町がとても好きです。古い町並みがそのまま残っていて、その昔、韓国からの使節団が泊まった建物もまだそこにあります。
ところが埋め立てて橋をつくるという話があるそうです。それを聞いて、せっかくの町の美しさが台無しになると思いました。そういう橋があると、大きな工場、施設もできる。それを喜ぶ人たちもいるでしょうが、二度とあの町の美しさは取り戻せない。

瀬戸内:被災した東北の町を、建て直して、どういう町にしていくのか。昔のいい風景はぜひ残しておいてほしいですね。
キーン:その上で、人間が楽しく生活できる町、これまでの町の良さをいかしつつ、今まで以上に安心で住みやすい町づくりのチャンスになればよいと、心から祈っています。

<安原の感想> 経済成長への執着を捨てて、日本再生を!
 「日本三景の一つ、松島は最悪です」という発言は、他人事とは思えない。私にとって松島は半世紀も昔の新婚旅行地である。当時は団体旅行者を案内する光景はなかった。のんびりとぶらぶらしながら自分たち二人で記念写真を撮ったように記臆している。
 鞆の浦という港町で埋め立てて橋を架けることになれば、「二度とあの町の美しさは取り戻せない」という指摘には同感である。私自身、福山市出身で、若い頃、鞆の浦のきれいな砂浜で夏に泳いだ思い出もある。

 お二人の対談は、経済成長へのあからさまな批判的発言はうかがえないが、明らかに反「経済成長」の視点に立っている。経済成長に執着する時代はとっくに終わっているにもかかわらず、今なお経済成長への回帰意識を捨てられない政官財界の心なき群像にこそ、本書『日本を、信じる』を読んでほしい。経済成長への執着を捨てて、脱原発の姿勢で「3.11」後の日本再生を図るときである。


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脱原発後の再生をどう展望するか
大震災、原発惨事から一年を経て

安原 和雄
 東日本大震災、原発惨事から一年が過ぎて、被災地の再生をどう図っていくかが改めて論議の的になっている。単なる復興ではなく、やはり再生への新しい道をどう展望するかが問われている。
 原発廃止はもちろんとして、脱原発後の「身の丈にあう幸せとは何か」を問い続けなければならない。反「新自由主義」の変革モデルをどう築いていくかも重要な課題である。東北全域を再生させる挑戦は、実は二十一世紀版自由民権運動だという認識も芽生えつつある。東北被災地再生の行方が日本列島全体の将来を左右することにもなるだろう。(2012年3月24日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 毎日新聞に連載(3月3日付から17日付まで10回)された「再生への提言」を読んで、その感想を述べたい。

▽登場人物10人とその多面的な提言

 提言の見出しと登場人物10人の氏名、現職、略歴はつぎの通り。提言の見出しからも分かるように多面的な提言となっている。

・現場の泥臭さ生かせ=岡本行夫氏(外交評論家=外務省課長、首相補佐官など歴任)
・社会全体の底上げを=河田恵昭氏(中央防災会議・専門調査会座長=関西大教授、専門は巨大災害)
・指導者は強い姿勢を=石原慎太郎氏(東京都知事=作家、一橋大在学中に芥川賞)
・特区で持続的雇用を=武藤敏郎氏(大和総研理事長・元財務事務次官=日銀副総裁も歴任)
・身の丈にあう幸せを=津島佑子氏(作家=「黄金の夢の歌」で毎日芸術賞)
・全国から人材集めて=小林健氏(三菱商事社長=71年入社、10年6月から現職)
・自発的変革の気概を=ピエール・スイリ氏(ジュネーブ大教授・日本学科長=元日仏会館フランス学長・99~03年)
・東北をもっと知って=渡辺えり氏(劇作家・演出家・女優=1978年「劇団3〇〇」結成)
・生命優先 近代越えよ=オギュスタン・ベルク氏(仏国立社会科学高等研究院教授=元日仏会館フランス学長・84~88年)
・福島の「草の根」に希望=赤坂憲雄氏(「東北学」を提唱する福島県立博物館長=復興構想会議委員を務めた)

 以下では10人の提言から選んで3人の提言(大意)を紹介し、感想を述べたい。

▽「身の丈にあう幸せ」とは何か

津島佑子氏の提言=身の丈にあう幸せを
戦後、多くの日本人はアメリカ文化に新しい自立、自由を感じ、金持ちになることがその手段だと思うようになった。戦前からの権力者たちは自らの戦争責任をあいまいにしたまま、技術立国だの経済成長だのと叫び始めた。私たちもみるみる豊かになる社会や生活にぼんやり満足してきた。その間、原発は「増幅」を続け、揚げ句の果てに福島第一原発事故が起きた。
 これまで反原発の声が力を持つことはなかったが、事故のあと、原発廃止を求める人たちが国境を超え、手をつなぎ始めている。一方で国を担う人たちは経済発展を理由に原発を輸出したがっている。

 原子力産業とは戦後、都市の電力供給のために地方が放射能のリスクを負うという、形を変えた植民地主義の産物だった、と今度の原発事故で知った。そんな原発はもう見捨てなければならない。今も原発を動かしたい人たちは、巨大な古代神にいけにえをささげ続ける神官たちのように見える。そのいけにえは、子共たちの未来なのだ。
 戦争に負けても変わらなかったこの国の価値観と人間の身の丈にあった幸せとは何なのかを可能な限り問い直す責任が、今日本に住む私たちに課せられていると思う。

<安原の感想> 植民地主義の原発は見捨て、幸せを
 「原子力産業とは戦後、都市の電力供給のために地方が放射能のリスクを負うという、形を変えた植民地主義」という指摘には新鮮な響きを感じる。たしかに日本版植民地主義の典型ともいうべき原発は廃止するときである。
 同時に「身の丈にあう幸せとは何か」を問い続けなければならない。それは従来型の技術立国、経済成長主義、原発輸出 ― などという路線とは異質のテーマである。しかも「幸せ」は原発のように押し付けられるものではなく、自らの意志で創っていくものであるに違いない。

▽ 社会を変革させてきたダイナミズムを

ピエール・スイリ氏の提言=自発的変革の気概を
 昨年、私は本紙で「日本では天災が世直しの契機でもあった」と指摘した。あれから1年。私は失望している。大きな復興を契機に、長期停滞の20年を再構築する気概も生まれてくると期待したが、無反応なままであるのに驚いている。
 歴史家の目で見て、今の日本停滞の原因は、積極的に独自の未来モデルを創造してこなかったことにある。

 戦後復興の後に、独自の対策を生み出す機会も十分あったに違いない。その後、新自由主義経済をモデルに取り入れたが、現在それが失敗であったことが分かっているのに、曖昧なままだ。第二次大戦の戦後処理からいつまでも解放されない。対米関係も、沖縄問題が象徴するように従属的な立場しか見えてこない。
 日本には時代の課題に鋭く反応してきた伝統があり、江戸、幕末、明治、大正、戦後まで、自発的な変革のエネルギーが躍動していた。
 それが1980年代ごろから消滅し始めた。各階層の指導者たるべきエリートたちが、社会変革の責任を果たしてこなかったのが原因だ。国家と民衆への裏切りと言ってもおおげさではないだろう。社会を変革させてきたダイナミズムの歴史の片りんを、近い将来に見ることができるだろうか。

<安原の感想> 「新自由主義」後の変革モデルへ
手厳しい批判である。「今の日本停滞の原因は、独自の未来モデルを創造してこなかった」こと、それは「国家と民衆への裏切り」とも断じている。示唆に富んでいるが、「変革の未来モデル」がないという指摘は、「親切な誤解」と受け止めたい。
 反「新自由主義」の変革モデルをめざす独自の提案、構想、運動が日本で広がりつつある。脱原発はいうまでもない。内需主導型経済発展への転換構想、反「核」、反「日米安保体制」、反「沖縄米軍基地」、さらに地球規模で平和(=非暴力)構築をめざす地球救援隊構想(自衛隊の全面改組)などである。

▽ 現代の自由民権運動を求めて

赤坂憲雄氏の提言=福島の「草の根」に希望
 復興の動きはあきれるほど遅い。国や県には将来へのビジョンが乏しいからだ。被災地はそんな国や県を見切り始めている。もはや受け身では何も動かないと、人々は痛みとともに気づいてしまった。
 多くの人々が試行錯誤を繰り返しつつ、草の根レベルから声を上げている。そうした「下」からの動きこそ支援してほしい。

 福島はかつて自由民権運動の土地だった。その記憶は今も生きている。シンポジウムの場などで、誰からともなく「自由民権運動みたい」という声が聞こえてくる。現実が厳しいからこそ人々は現代の自由民権運動を求めている。
 他方、中央の東北への視線は相変わらずだ。原発事故当事者、東京電力の姿が福島ではほとんど見えない。十分に責任を果たしてきたとも思えない。それなのに東電批判の声はとても小さい。
 10万人の「原発難民」を生んだ福島に、原発との共存はありえない。福島県には、30年間で約3000億円の交付金が下りたと聞く。小さな村の除染費用にすら足りない。
 どんなに困難でも、自然エネルギーへの転換しかない。東北全域を自然エネルギーの特区にするような、大胆で将来を見すえた提案がほしい。

<安原の感想> 東北全域を自然エネルギーの特区に
 かつての自由民権運動(明治前期、藩閥政治に反対して国民の自由と権利を要求した政治運動)を連想させるところが見逃せない。福島の人々は痛みとともに多くのことに気づいた。草の根レベル、つまり「下」からの声こそ大切であること、一方、原発事故当事者である東電の存在が福島では見えないし、責任も果たしていないこと、などなど。
 これでは「原発との共存はありえない」は腹の底からの叫びであるに違いない。だから「東北全域を自然エネルギーの特区に」という大胆かつ正当な構想も浮上してきた。そこに東北全域の再生がかかっている。この再生への挑戦が21世紀版自由民権運動である。


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「原発ゼロ」を求めて行動するとき
あの「3.11」を境にして想うこと

安原和雄
あの「3.11」から丸一年となる。どういう想いで迎えたらいいのか。僧侶・瀬戸内寂聴と作家・さだまさしの対談を読んで感じるのは、日本再生のためにはやはり「原発ゼロ」を求めて行動するほかないということだ。
 二人の対談は、日本人はなぜ辛いときに笑うのか、身代わりに命を捧げてくれた犠牲者たちに感謝すること、命や心など目に見えないものこそ大切であること、反対なら声を上げて行動するとき―など望ましい日本人論のすすめともなっている。実はこれは「3.11」を境に本来の日本人の心を今こそ取り戻すとき、という呼びかけでもある。(2012年3月4日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

作家・僧侶の瀬戸内寂聴とシンガーソングライター・作家のさだまさしの対談集『その後とその前』(2012年2月幻冬舎刊)の大意を以下、紹介する。タイトルの「その後とその前」とは、2011年のあの「3.11」(東日本大震災と原発大惨事)後とその前という意。

(1)日本人はなぜ辛いときに笑うのか
さだ:今回被災地を歩いて感じることは、家族をものすごく今改めて意識していますね、皆さん。何も問題がないときは、そんなに家族が大事だなんて思わなかった。だけど、あの後は、やはり家族というものがどれだけ大切かを感じるんでしょうね。
寂聴:そうですね、そうですね。
さだ:もうほとんどの人たちが家族を失ってるんですけども、失ってみて、「ああ、大事にしときゃよかった」と思うんですかね。いるときには腹も立つんでしょうけど、いなくなるとせつないんでしょうねえ。
寂聴:うん
さだ:それで、これは日本人の美徳と思いたいんですけど、辛いときに笑うんですよね。
寂聴:そうそう。
さだ:その笑い顔だけ見たら、彼らは元気って思ってしまうんだけど、それは要するに日本人独特の美徳であって、本当は泣きたいんですよね。
寂聴:そうそうそう。
さだ:僕と同世代の男性が、ふっと(周囲にいた)みんながいなくなったときに、僕の手を握ってポロポロと泣くんですよ。「おふくろを(津波に)持ってかれて、かみさん持ってかれて、孫、持ってかれて」って泣かれると、こっちもね、もう俺だったら耐えられないなと思います。そういう思いの人に、どんな言葉をかけたらいいんでしょう。
寂聴:そうねえ。人間ってやっぱり、自分が味わわないとね、つらいこととか貧乏とか、やっぱりわからないんです。だから想像力がとても大事。だけど想像力だけではわからないものがある。自分がガンにならないと、本当にガンになった人の怖さ、痛さはわからない。
さだ:それはそうですね。おっしゃるとおりですね。
寂聴:自分が火事で全部失わないと、火事でなくなった人の本当の不自由さってわからない。原爆で死んだ人の怖さ、そのあとのつらさなんて、それを味わってないわれわれ、頭では想像できるけど、やっぱりわからない。飢えてる人の気持ちも、自分が飢えなければわからないですよ。

<安原の感想> 目立つ想像力の不足
 「想像力がとても大事。だけど想像力だけではわからないものがある」とは至言である。とはいえ現下の日本ではまず想像力の不足が目立ちすぎる。だから他人様の痛みにあまりにも鈍感になってはいないか。私事で恐縮だが、最近脚のしびれを日夜感じ、杖の助けを借りている。そのお陰(?)で、杖に頼って歩いている人がいかに多いかに気づいた。いささか遅すぎる気づきだが、私自身、「杖を友に」を心掛けたい。

(2)身代わりになる「代受苦」
寂聴:(大震災で)たくさんの人が死にました。なんであの人たちが死ななきゃならないか。亡くなった人はいい人ばっかりなのよね。
さだ:そうそう、本当ですよ。
寂聴:真面目なのね、つつましく生きて、いい人ばっかりで、われわれは悪いこといっぱいしてるのに残ってるじゃないですか。
さだ:おっしゃるとおりです。
寂聴:亡くなった人に対し、どうしたらいいですかっていっぱいお手紙が来るんですよ。「することがわからない」っていうけど、もう、そう思ってあげるだけで、それが供養になってるから。そして、その人たちはあなたの代わりに死んだことを考えて下さいって言うようにしている。
さだ:身代わりになった。
寂聴:そう。「代受苦」(だいじゅく=代わって受ける苦しみ)という言葉があって、人の苦しみを代わってあげようっていうこと。
さだ:身代わりに命を捧げてくれたんだと思えば、感謝が生まれますね。
寂聴:そう。だから知らない人でも、その人が私の命の代わりに死んでくれたと思えば、おろそかにできないからね。

<安原の感想> 「感謝の心」から日本再生へ
「代受苦」を強調した仏教思想家の一人に日蓮がいる。さてこの対談で見逃せないのは「身代わりに命を捧げてくれたんだと思えば、感謝が生まれます」という指摘である。最近の日本社会ではとかく「感謝の心」が薄らいではいないか。大惨事を境に「感謝の心」が広がっていけば、人間同士の絆も深まるだろうし、それが何よりの日本再生へのバネになるのではないだろうか。

(3)目に見えないものを大切にする
さだ:こういう大災害にあうと、人生は失ってしまうものに満ちていることにいやでも気がつく。すると、一番大切なものがはっきりしてくる。例えば人間同士とか友達とか。
寂聴:敗戦で焼かれて何もかもなくした。それで戦後まず亡くしたものを手に入れようとした。家、着る物、道具、みんなお金がないと手に入らない。拝金主義になって、目に見えるものだけが必要で大切になった。目に見えないものを信じない。だから目にみえないものに想像力がなくなった。神や仏、命も心も見えない。だけど目に見えないものこそ、この世の大切なものなの。
さだ:だから、想像する力を何かと引き替えに失っている、きっと。
司会:多分それが便利さとか、物欲だとか。
寂聴:目に見えるものは壊れる。いつかなくなる。目に見えないものはなくならない。お金で買えないものって、目に見えないもの。家、着物、宝石が欲しいってのは目に見えているものでしょう。本当に世の中を動かしていくものは目に見えないものなんですよね。
さだ:心の基準が物質だった。だけど被災者の人も、誰一人宝石類を惜しまない。津波に流されて自分の車がなくなったことを惜しいとは言わない。やっぱり惜しいのは命です。命ってことは人の心。

<安原の感想> 非経済的・非市場的価値こそ大切
 重要な指摘は「目に見えるものは壊れる。いつかなくなる。目に見えないものはなくならないし、この世の大切なもの」である。私の唱える仏教経済学では「目に見えるもの」を経済的・市場的価値、「目に見えないもの」を非経済的・非市場的価値と名づけている。後者の具体例を対談から拾えば、家族、美徳、人間同士、友達、神、仏、命、人の心、想像力などで、いずれもお金を積んでも入手できるわけではない。しかしこれらの価値こそが生きていく上で大切なのである。

(4)「生きるとは行動すること」
司会:みんなが不愉快に思ってるのに黙って我慢していることと、原発でも自分は反対だと言わないという空気は似ている。
さだ:うん、よく似てる。
寂聴:黙っていることは、賛成ってことなんですよ。だから反対だったら、やっぱり言わなきゃいけない。それから行動しなきゃいけないの。行動しないことは賛成ってことなのよ。平塚らいてう(注)は「生きるとは行動すること」と言ってる。「和をもって尊しとなす」は、聖徳太子の十七条憲法の言葉だけれど、それはただ仲良しならいいということではない。その和をもって尊しとする和を作るために、やっぱりちゃんと声を上げなきゃいけないときもあるのよ。
(注)平塚らいてう(1886~1971年)は、評論家、婦人運動家。明治44年(1911)、女性文芸誌「青鞜」を発刊。のち市川房枝、奥むめおらと、女性の地位向上をめざす新婦人協会を結成して婦人参政権運動を行った。自伝「元始、女性は太陽であった」。

さだ:そうですね。何かを正しく恐れることとか、正しく怒ることってすごく難しいことだと思う。つまり原発に対して怒ることも、何をどう怒っていいか分からないからという気がする。「もしかしてあの地震が起きなければ大丈夫だったんじゃないの」という人が半分はいるわけでしょう? (中略)自分で手を挙げるとしたら、どこで手を挙げていいか人の顔色を見るんですよ、日本人って。自分の意見に自信がない程度しか学んでいないから、分からないんでしょうね。

<安原の感想> 「雄弁と行動こそ金」の時代へ
「沈黙は金、雄弁は銀」(西洋のことわざ)というが、このご時世ではこのことわざは時代遅れの感がある。筋の通った雄弁と行動こそ金というべきではないか。今こそ、婦人運動家の先がけ、平塚らいてうの「生きるとは行動すること」の含蓄を噛みしめ、行動したい。たしかに「行動しないことは賛成」にほかならないし、「正しく怒ることって難しい」が、あの「3.11」を境に変化しつつある。「原発ゼロ」を求めるデモなどの行動が日本列島上で日常化しているのだ。日本再生の新しいエネルギーとして大きく育っていくことを期待したい。


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メディアもようやく脱「成長神話」へ
若者たちは「分配の公正」に関心

安原和雄
メディアの一角に脱「成長神話」説が登場してきた。経済成長論に今なおこだわっているメディアの中では、新しい動きの兆しといえるのではないか。一方、最近の若者たちの間には経済成長よりもむしろ「分配の公正」に関心が向かっている。
高度経済成長時代はすでに遠い過去の物語であり、近年は事実上のゼロ成長(経済規模が横ばいに推移)の時代が続いている。しかしメディア多数派に限らず政府、経済界も経済成長論を捨てきれず、野田首相は施政方針演説で経済成長節(ぶし)を力説した。「分配の公正」を重視する若者たちには「時代遅れの首相」と映ってはいないか。(2012年2月15日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽ メディア=もう「成長神話」手放す時

朝日新聞(2012年2月7日付)の「記者有論」に政治部の佐藤徳仁記者が<日本の将来像 もう「成長神話」手放す時>と題して書いている。その趣旨を紹介する。

年始に連載した「エダノミクスVS.マエハラノミクス」を記者2人で執筆した。低成長を受け入れる民主党の枝野幸男経済産業相と、あくまで成長を追う前原誠司政調会長の主張を、大胆に対比させて日本の将来像を探る材料にしたいと考えた。
バブル崩壊後に成人し、厳しい就職戦線を経験した私には、エダノミクスの方が現実感がある。
ネット上では「成長をあきらめれば国は衰退する」という反応が多かった。大阪市の橋下徹市長も自身のツイッターで「新しい暮らしを模索することは必要だと思うが、だからといって製造業の成長を放棄してよいというものではない」。エダノミクスは分が悪かった。

こうした反応は昔もあった。細川内閣も成長を絶対視せず、身の丈に合った社会を目指す「質実国家」を掲げた。考案者の田中秀征元経済企画庁長官によると、閣僚から「経済縮小の容認と受け取られかねない」と反対論が噴出した。
とはいえ、近年の政権が掲げた「成長戦略」は、実現性がほとんどない。「神話」としか思えない。昨年は31年ぶりに輸入が輸出を上回った。輸出主導で高成長めざす従来モデルは崩壊寸前だ。それでもなお「成長戦略」を声高に語る政治家の姿に違和感を抱くバブル後世代は少なくない。

「成長神話」は、景気対策により、膨大な借金を生んだ。将来の「成長」を当て込み、社会保障などの負担も先送りしてきた。そのツケが増税で跳ね返ってくるのは願い下げだ。「人口減少を補うぐらいの成長で十分」とし、製造業中心の輸出型から、医療、介護、農業、教育などの内需型へ産業構造の転換を唱える枝野氏には説得力がある。
「成長神話」を手放して、低成長を前提に政策をつくり、予想以上の成長は「ボーナス」と考える。そんな発想の転換が必要だ。 

▽ 若者たち=「分配の公正」に関心

広井良典千葉大学法経学部教授が最新の月刊誌『世界』(2012年3月号、岩波書店刊)に「ポスト成長時代の社会保障」と題して論文を書いている。その論文の中で経済成長に関する趣旨を以下、紹介する。

私がずっと感じてきたのは、現在の学生ないし若い世代の中には、「望ましい社会」の構想や、そうした価値判断を行うにあたっての哲学、あるいは人間についての探求といったテーマ、ひいてはそれを具現化するための、たとえば社会起業家やソーシャルビジネス、あるいは地域再生やコミュニティ活性化といった話題に対して、強い関心を持つ者が非常に多いということである。
こうした関心の方向は、現代の社会における先駆的な動きとシンクロナイズしているように見える。たとえばブータンの掲げる「GNH(国民総幸福)」をめぐる議論は、昨年秋に同国の国王夫妻が来日したこともあって、話題になった。またフランスのサルコジ大統領の委託を受けて、スティグリッツ(アメリカの経済学者。2001年にノーベル経済学賞受賞)やセン(インドの経済学者。1998年アジア初のノーベル経済学賞受賞)といった経済学者が、2010年に「GDPに代わる指標」に関する報告書を刊行したが、こうしたテーマに関する学生の関心は高く、ゼミでも様々な発表が行われる。

その基本的背景の一つは、従来のように、経済成長あるいはGDPが増加すれば人々は幸せになれるといった単純な時代ではなくなっているという感覚が、若い世代の間で共有されているという時代の状況だろう。
もう一点つけ加えると、社会保障や税の議論で、哲学あるいは原理・原則に関する議論が不可欠なのは、それが「分配の公正」に関するものだからである。高度成長期にはいわば「成長が分配の問題を解決」してくれた。
現在はそのような時代ではない。一定の世代以下では、成長が分配の問題を解決してくれるといった幻想はなくなっているし、また分配の公平や公正といったテーマに関する人々の関心は高まっている。

▽ <安原の感想> 首相は「時代遅れの不健康なおじさん」か

朝日新聞の<「成長神話」手放す時>の筆者が経済記者ではなく政治記者であるところに新鮮味を感じる。大手メディアの経済記者の場合、成長神話から自立できないケースが多い。つまり「経済」といえば、「成長」という思いこみから経済記者の多くは脱却できないようだ。もっとも朝日の<「成長神話」手放す時>も、正確に読み取れば、「低成長」のすすめであり、決して「脱成長」論ではない。それにしても政治記者が<「成長神話」手放す時>という感覚で経済を論じる姿勢には教えられるところが少なくない。

もう一つ、上述の『世界』論文は、最近の若者たちは経済成長に対する幻想を抱いていないことを指摘しており、これまた新鮮な響きがある。いいかえれば<経済成長=豊かさ・幸せ>という等式を信じてはいないというのだ。若者たちの関心は、経済成長よりもむしろ「分配の公正」に向かっている。

さて野田首相の施政方針演説(1月24日)の全文を読み直してみた。私(安原)の関心事は「経済成長」、「再生」という文言がどの程度繰り返し使われているかである。数えてみると経済成長は7回、再生は15回である。
再生は「日本再生元年」、「日本経済の再生」、「福島の再生なくして日本の再生はない」など。一方、経済成長は「我が国が力強い経済成長を実現」、「新成長戦略の実行を加速」などの言い回しで使われている。

再生の文言が多用されているのは、「3.11」後の再生、つまり復元、復活、新たな地域づくりと経済発展が不可欠であることを視野に収めれば、当然のことである。
しかし経済成長は再生とは異質である。経済成長という概念には経済発展すなわち経済・生活の質的発展・充実という意味は含まれてはいない。
プラスの経済成長(国内総生産=GDPでの財とサービスの量的増加)にこだわることは、人間の身体にたとえれば、体重を増やし続けることを意味する。絶えざる体重増加は、しなやかな健康体という望ましいイメージに反するわけで、野田首相の「新成長戦略」は、すなわち「新不健康戦略」を意味するともいえる。これでは「分配の公正」こそ肝心と考える若者たちにとって首相は「時代遅れの不健康なおじさん」と映るのではないか。


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仏教の「共生と慈悲」を重視するとき
競争・格差社会が先鋭化するなかで

安原和雄
 仏教は「共生と慈悲」の重要性を説いてやまない。その共生と慈悲という仏教の基本的な教えが最近、重視されつつある。背景には企業の生き残りをかけた飽くなき私利追求が現代の競争・格差社会を先鋭化させ、生きづらくしているという事情がある。だから「世直し」のために「共生と慈悲」が注目されつつあるのだ。
地球規模のグローバル化路線は「共生と慈悲」と果たして両立するのか。国境を越えた企業の私利追求が眼目なら、両立は難しいだろう。東大が呼びかけた秋入学も大学のグローバル化をめざすものだが、「共生と慈悲」への視点が希薄であれば、期待値は小さい。(2012年1月25日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 以下、浅草寺(東京都台東区浅草)主催の仏教文化講座の一つ、渡辺章悟・東洋大学文学部教授「慈悲は共生社会の原理となりうるか」(小冊子『浅草寺』2011年11、12月号所収)の要旨を紹介する。その上で私(安原)の感想を述べる。

(1)「共生」について
 現在、「共生」は手垢(てあか)がしみついたくらいに多くの場面で使われている。しかしその意味や歴史はどこまで理解されているだろうか。共生とは何か。共生社会とはどのような社会なのか。

*現代社会の対立と不平等の下で
 現代社会では社会の矛盾や倫理の崩壊が顕(あらわ)になっており、その根底には現代社会のさまざまな対立と不平等が錯綜(さくそう)している。そこには対立と調和、つまり富む者と貧しき者、健常者と障害者が共に生きていくという意味での共生、また世代間の共生とか、男女の性による差別と共生などが求められている。

*「自然との共生」が大きなテーマに
 私たちは自然の中で生きているわけだから、その一員としてこの環境世界を守っていかなければならない。環境としての自然が破壊されると、私たち自身も深刻な危機に直面する。これは私たち人間が引き起こした問題が、自身に返ってきているということだから、人間がどういう形で自然と共生していくか、環境問題として大きなテーマになっている。

*競争・格差社会が先鋭化するなかで
 共生がなぜこれほど注目されるようになったのか。地球や地域の環境の悪化、そして今までの価値が必ずしも絶対的ではなくなり、ある意味では崩壊してしまった。したがっていろいろなひとが多様な価値観を持っていて、なかなかうまく生きていくことができない。また競争社会、格差社会がますます先鋭化していく。こういう社会であるからこそ、共生が叫ばれるわけで、つまり失われた共生社会のなかで、共生が求められてきている。

*共生は「縁起(えんぎ)の世界」
 すべてのものが互いに関係を持ちながら存在する結びつきの世界を仏教では「縁起の世界」という。通俗的な「縁起が良い、悪い」の縁起ではなく、例えば「私」そのものが、いろいろな関係性をもって存在している。その依存関係によってのみ存在していることを「縁起」という。
 たとえば今日私が食べた天ぷらそばに、インドネシアの海で獲れたエビが入っていたとする。さらにそば粉は中国、小麦粉はアメリカ、醤油の材料である大豆はブラジルそれぞれの産物であり得るわけで、そういう地球規模の依存関係の連鎖の中で生きていることを指している。

(2)「慈悲」について
 「慈悲」という仏教用語は一般には馴染みが薄い。しかし仏教としては慈悲をきわめて重視する。慈悲とは分かりやすくいえば、他人の苦しみに同情して、これを救済しようとすることであり、慈悲を見失った社会は殺伐とするほかない。慈悲は共生社会のキーワードともいえる。

*一つのいのちの連続として
 「いのち」について普通は、「私」とか「あなた」とか、個体としての生命を意識していて、これを中心に考えている。しかし私たちがここにいるのは、私たちの親、そのまた親と、過去から今、さらに将来へとずっと続いているためだと考えれば、私たちの存在も、一つのいのちの連続としてある。祖先を崇拝するのは、そういう形でいのちをいただいているという考え方が根底にあるからだ。それが連続する個体としての生命にほかならない。

*大きな生命連鎖のなかで
 いのちを大いなる「いのち」として捉えれば、個としての「いのち」ではなく、自分のいのちがさらに大きな生命連鎖のなかで連綿と続いていて、自分と人間だけではないものとの広い結びつきが考えられる。
 「いのち」という存在が縦横に結びついて相互に影響関係を持ちながら存在する、総体としての「大きないのち」である。私たちはそれぞれがいのちの群として、大きな生命のリンクのなかで、一瞬を生きているという気がする。私たちは自分を個人として考えているにすぎないが、同時に、私たち自身は人間として「大いなるいのち」のなかにあるといえる。

*仏教は慈悲を重視する
 いのちの連続を積極的に意識する考え方が仏教のなかにある。それが「慈悲」ではないか。慈悲は一体感や、連続した「いのち」への意識という意味で重要である。「慈」と「悲」はそれぞれ二つの別の言葉で、「慈」は、他者に利益(りやく)や安楽を与えること、「悲」はうめき、哀(あわ)れみという意味だ。つまり慈と悲は、他人の苦しみに同情して、これを救済しようとすることともいえる。

*慈悲は共生社会実現のための力に
 経典『法華経』にも「世間を利益することを共感をもって実践する」とある。このように共に生きて共にそれを感じとっていく、見捨てないとか、触れ合いをつづけるというところが、この慈悲の実践ではないか。慈悲とその基盤にある「共感・共苦」こそ、異なった立場の存在が互いに分かり合い、互いが融和し、協力できる第一歩ではないか。
 仏教の慈悲の思想によって、どういう地域の人、どのような身上であっても、民族、宗教、見解が異なっていても、必ずや共生社会を実現していくための力になると考える。

<安原の感想> 慈悲、共生とグローバル化は両立できるか

(1)いのち軽視と貪欲は「慈悲と共生」とは両立しない
 仏教の説く慈悲と共生は、上述の「大いなるいのち」として「人間と動植物と自然」が存続していくために不可欠の条件となっている。言い換えれば、慈悲と共生を軽視するところにいのちの営みはあり得ない。
 その意味では生存そのものを危険にさらす原子力発電も、「1%の富裕層」に対し「99%の反乱」を誘発させる新自由主義路線(=市場原理主義)も、「慈悲と共生」に背を向けている。
 多国籍企業など大企業、大資本による国境を越えたグローバル化も、めざすところは大衆を犠牲にする飽(あ)くなき私企業利益の追求であり、「慈悲と共生」に反している。「慈悲と共生」に反するどころか、破壊してやまないのが、巨大な軍事力を振りかざす米国流の世界における覇権主義、単独行動主義への固執である。
 いずれも表看板はグローバル化であるが、共通しているのは、いのちの軽視と貪欲そのものの行動であり、「慈悲と共生」とは両立しない。

(2)大学グローバル化の波紋
 さて大学のグローバル化をどう考えるか。最近大きなニュースとして報道された東京大学の秋入学の話題である。
 それによると、東大は、5年後に秋入学へ全面移行する方針を明らかにした。米国など海外の大学は秋入学が主流で、その国際標準に合わせるためである。京都大など旧6帝大に加え、筑波大、東京工業大、一橋大、早稲田大、慶応大の計11校に参加するよう呼びかけて、波紋を巻き起こしている。

 波紋の一つ、現役東大生の反応が興味深い。朝日新聞(1月21日付)によると、賛否相半ばしており、反対意見の「留学する気がない人には関係なく、周りに行きたいという人はあまりいない」が率直なところだろう。
 朝日新聞社説(1月21日付)は「東大の秋入学 学生のための国際化を」という見出しで「留学を増やし、国際感覚を育みたい」と論じた。毎日新聞社説(同日付)も「教育改革のステップに」と題して「グローバル人材を求める経済界も巻き込んで論議は加速しそうだ」と指摘した。つまり秋入学のめざす合い言葉は「大学のグロ-バル化」である。

 大学のグローバル化は、何を意味するのか。多国籍企業など大企業、大資本による国境を越えたグローバル化への人材供給をめざすとすれば、仏教の説く慈悲、共生と果たして両立できるだろうか。
 多様な人的レベルで国際交流を深めることを意味する国際化は歓迎すべきことである。しかし昨今の企業のグローバル化は、飽くなき私利追求が念頭にあり、歓迎に値する国際化とは異質である。慈悲、共生への共感を見失った企業のグローバル化なら、危険な臭いがつきまとう。グローバル化だからといって単純に是認できる時代ではもはやない。


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五木寛之著『下山の思想』を読んで
変革を迫られる「登頂」後の生き方


安原和雄
 『下山の思想』に次の指摘がある。私たちは、すでにこの国が、そして世界が病んでおり、急激に崩壊へと向かいつつあることを肌で感じている。それでいて、知らないふりをして暮らしている、と。この認識は大部分は真実と認めないわけにはゆかない。ではこの現実にどう立ち向かうのか。
 登山にたとえれば、21世紀のこの時代は従来の登山重視の時代から下山重視の時代へと大転換を遂げつつある。だから「登頂」後の下山の時代をどう認識し、どう生きるかが新しいテーマとして登場してきた。言い換えれば、日本人一人ひとりの時代認識と生き方そのものが歴史的変革を迫られているのだ。(2012年1月14日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 『下山の思想』(幻冬舎新書、2011年12月刊)は多くの読者を得ているらしい。毎日新聞(2012年1月4日付)の派手な記事広告には日本史上著名な仏教思想の先達である法然(ほうねん)、親鸞(しんらん)、日蓮(にちれん)、道元(どうげん)など、すべての人々は山を下りた、とある。この指摘自体も興味深いが、私(安原)にとっては同じ記事広告の中の「成長神話の呪縛を捨て、人間と国の新たな姿を示す画期的な思想」という文言に心が動いた。だから読んでみる気になった。
 まず本書の大要を紹介する。その上で感想を述べたい。

(1)なぜ下山に関心をもつのか。
 登頂したあとは、麓(ふもと)をめざして下山する。永遠に続く登山というものはない。この下山こそが本当は登山のもっとも大事な局面である。
 これまで登山行きのオマケのように考えられていた下山のプロセスを、むしろ山に登ることのクライマックスとして見直してみたい。

 登山が山頂を征服する、挑戦する行為だとする考え方は、すでに変わりつつあるのではないか。そしていま、下山の方に登山よりもさらに大きな関心が深まる時代に入ったように思われる。
 安全に、しかも確実に下山する、というだけのことではない。下山のなかに、登山の本質を見いだそうということだ。下山の途中で、登山者は登山の努力と労苦を再評価するだろう。下界を眺める余裕も生まれてくるだろう。自分の一生の来し方、行く末を思う余裕もでてくるだろう。

 その過程は、人間の一生に似てはいないか。壮年期を過ぎた人生を「林住期(りんじゅうき)」とみて、そこから「遊行期(ゆぎょうき)」にいたるプロセスを人間のもっとも人間的な時代と考える。下山は「林住期」から「遊行期」(注)への時期だ。そこに人生のつきせぬ歓(よろこ)びと、ひそかな希望を思う。
 (注)古代インドに人生を次の四つに分ける思想がある。「学生期(がくしょうき)」「家住期(かじゅうき)」「林住期」「遊行期」の四つ。

(2)再生の目標はどこにあるのか
 いま、私たちは未曾有の大災害に見舞われ、呆然としてなすすべがない有様だ。福島原発が直面する現実は、数年で解決されるような問題ではない。しかし私たちは二度の核爆弾の被災のなかからたくましく立ち上がってきた民族である。どんなに深い絶望からも、人は立ちあがらざるをえない。

 しかし、とそこでふと思う。私たちの再生の目標は、どこにあるのか。なにをイメージして復興するのか。それは山頂ではない、という気がする。ふたたび世界の経済大国という頂上をめざすのではなく、実り多い成熟した下山をこそ思い描くべきではないのか。
 戦後、私たちは敗戦の焼け跡の中から、営々と頂上を目指して登り続けた。そして見事に登頂を果たした。頂上をきわめたあとは、下山しなければならない。それが登山というものなのだ。

 下山の時代、ということは、言いかええれば「成熟期」ということではあるまいか。戦後の半世紀は、「成長期」だったと思う。
 私は沈む夕日のなかに、何か大きなもの、明日の希望につながる予感を見る。日はいやいや沈むわけではない。堂々と西の空に沈んでいくのだ。それは意識的に「下山」をめざす立場と似ている。
 そのめざす方向には、これまでと違う新しい希望がある。それは何か。

(3)新しい物差しをもって
 「少年よ、大志を抱け」というクラーク先生の言葉(注)は、私たち世代には耳になじみのある声である。彼の考える「大志」とは、末は博士か大臣か、といった出世主義をめざす生き方ではなかった。神の御前(みまえ)に、それにふさわしい生き方をめざせ、と熱烈なクリスチャンであるクラーク先生は若者たちをはげましたのだろう。
 (注)ウイリアム・スミス・クラーク(1826~1886)は米国の教育家。1876年(明治9年)来日、札幌農学校の初代教頭となり、内村鑑三、新渡戸稲造らの学生に深い感化を及ぼした。離日の際、残した「Boys, be ambitious」(少年よ大志を抱け)は有名。

 大志にもさまざまな目標がある。私たちも大志を抱くべきだ。しかしそれは果たしてどのような国の姿だろうか。経済力ではあるまい。軍事力でもないだろう。国力の物差しはどこにあるのか。
 この国が中国にGDP(=国内総生産)で抜かれるまで、米国に次ぐ世界第二位の経済大国であったことはじつにすごいことだった。しかしそこには相当な無理があった。その証拠が年間3万3、4千人の自殺(注)が十数年も続いていることだろう。
 以前、ブータンを訪れたとき、現地の人から「日本の経済発展に心から敬意を表する。しかしどうしてあれほど自殺者が多いのか」と聞かれて返事に困ったことがある。
 (注)2012年1月10日、警察庁によると、昨年2011年の自殺者数(速報値)は3万513人と14年連続で3万人を超えた。自殺者数は1998年に3万人を突破してから、2003年に過去最高(3万4427人)を記録し、ずっと3万人台で推移している。

 私たちは、新しい社会をめざさなければならない。経済指数とは別の物差しをさがす必要があるだろう。
 節電の運動が普及して、街は暗い。しかし最近ようやく夜の濃(こ)さを再発見したような気がして、節電の街があまり不安ではない。
 このあたりで一休みして、落ち着いて下山のプランを練り直すこともできそうだ。どこへ下山するのか、その先に何があるのか。さまざまに想像すると、かすかな希望の灯が見えてくるような気がする。

(4)第二の敗戦と「下山のとき」を生きる
 いま私たちは戦後最大の試練に見舞われている。原発事故の行方は不明だが、どんなに好意的に見ても、あと半世紀は後遺症は続くだろう。この国は二度目の敗戦を迎えたのではないか。国対国の戦争ではない。
 今回の東日本大震災が、この国の第二の敗戦だと、みな心の底では感じているはずだ。このところメディアは「自粛ムード」から一転して、反「自粛ムード」へと方向転換した。いつまでも頭をたれてばかりはいられない、という考えだろう。復興の第一歩は、全国の消費を活性化することだ、という意見には一理ある。
 活性化することは重要で、それは生きる者たちの責任でもある。しかし同時に、私たちは災害の実態と、その責任を明らかにする義務も負っている。

 時代は「下山のとき」である。登山といえば山に登ることだけを考え勝ちである。しかし下山に失敗すれば、登山は成功とはいえない。急坂を登り、重い荷物を背負って頂上をめざすとき、人は周囲を見回す余裕はない。必死で山頂をめざすことに没頭しているからだ。
 しかし下山の過程は、どこか心に余裕が生まれる。遠くを見はるかすと、海が見えたり、町が見えたりする。足もとに咲く高山植物をカメラで撮ることもある。岩の陰から顔を出す雷鳥(らいちょう)に目をとめるときもある。

 私たちの時代は、すでに下山にさしかかっている。実りある下山の時代を、見事に終えてこそ新しい登山へのチャレンジもあるのだ。
 少子化は進むだろう。輸出型の経済も変わっていくだろう。強国、大国をめざす必要もなくなっていくだろう。ちゃんと下山する覚悟のなかから、新しい展望が開けるのではないか。下山にため息をつくことはないのだ。

<安原の感想>(1) ― 「下山することの価値」に着目
 時代は「下山のとき」、という認識が本書『下山の思想』の出発点であり、ユニークな視点となっている。たしかに著者の五木さんも指摘するように、山に登ることは三つの要素、すなわち山に登ること、山頂をきわめること、さらに下山すること、が切り離しがたくつながっている。ところが下山することの価値はこれまでほとんど無視されてきた。その盲点に着目したのが本書の魅力である。

 この盲点に光を照らすためには次のような「ローマ帝国崩壊」に関する著者の図太い歴史観が支えとなっている。その骨子は以下のようである。

 私たちは歴史について、ある偏(かたよ)った先入観を抱いているようだ。それは時代の変化が、一朝(いっちょう)にしておこるように思っている点である。例えばローマ帝国の崩壊という。ある日、大きな事件がおこって、たちまちにして帝国が滅びたように考える。これは明らかに間違ったうけとり方だ。
 「ローマは一日にしては成らず」という。
 だとすれば、同時に、「ローマは一日にして滅びず」ともいえる。歴史は一夜にして激変はしない。長い時間をかけて変化がきざし、それが進行する、と。

 さらに以下のように説きすすめてもいる。

 下山の時代がはじまった、といったところで、世の中がいっせいに下降しはじめるわけではない。長い時間をかけての下山が進行していくのだ。
 戦後半世紀以上の登山の時代を考えると、下山も同じ時間がかかるだろう。しかし、下山の風は次第にあちこちに吹きはじめている。いつか人々は、はっきりとそのことに気づくようになるはずだ、と。

<安原の感想>(2) ― 脱「経済成長」と脱「軍事力」と
 上述のように「下山の時代」の到来を繰り返し説いている。では下山時代の特質はどのように認識したらよいのか。
 その一つは経済力、軍事力の否定である。例えば次のように指摘している。
・私たちも大志を抱くべきだ。しかしそれは果たしてどのような国の姿だろうか。
・経済力ではあるまい。軍事力でもない。
・私たちはふたたび世界の経済大国という頂上をめざすのではない。
・輸出型の経済も変わっていく。強国、大国をめざす必要もなくなっていく。

 これは「経済力と軍事力」の神話の否定であり、いいかえれば脱「経済成長」と脱「軍事力」を意味し、脱「日米安保体制」にもつながっていく。もともと日米安保は日米間の経済同盟(経済成長と経済協力の同盟)であり、同時に軍事同盟(在日米軍基地を足場とする対外軍事侵攻と日米軍事力の一体化をめざす同盟)である。だから、経済成長や軍事力を否定する以上、やがて脱「日米安保」となるほかない。「経済力と軍事力」の神話の否定はもちろん脱「原子力発電」にもつながっていく。

<安原の感想>(3) ― 夜の濃さの再発見、そして心の余裕を
 もう一つはGDP(経済成長を測るモノやサービスの量を示す概念)では把握できない非経済的、非市場的価値の重視である。例えば以下の指摘に注目したい。
・下山は「林住期」から「遊行期」への時期だ。そこに人生のつきせぬ歓びと、ひそかな希望を思う。
・日は堂々と西の空に沈んでいく。それは意識的に「下山」をめざす立場と似ている。
・(大震災と原発惨事のため)節電の運動が普及して、街は暗い。しかし夜の濃さを再発見したような気がして、節電の街があまり不安ではない。
・下山の過程は、どこか心に余裕が生まれる。遠くを見はるかすと、海が見えたり、町が見えたりする。

 人生のつきせぬ歓び、ひそかな希望、堂々と西の空に沈んでいく日(太陽)、暗い街で夜の濃さの再発見、心の余裕 ― などはいずれも経済成長とは無関係であるが、精神的充実感を味わうのに大切な要素である。経済成長や日米安保への精神的奴隷ともいえる惰性的な生き方から精神の離脱をめざし、「生き生きと生きよう!」というのが「下山の思想」のもう一つの提案と受け止めたい。


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「いのち」と「脱原発」と「幸せ」と
2011年から2012年へつないで

安原和雄
今年(2011年)一年間を特色づけるキーワードとして何を挙げることができるだろうか。やはり「いのち」、「脱原発」、「幸せ」の三つを指摘したい。これまでも毎年交通事故死などで多くの人命が奪われてきたが、今年は「3.11」の大震災と原発惨事のため、死者、行方不明者は1万9000人余にのぼっている。いのち尊重と脱原発は待ったなし、というべきである。
 笑顔が話題をさらったのが、若きブータン国王夫妻の来日で、ブータンの国是である「幸せ」を追求するGNH(国民総幸福)政策も関心を集めた。日本としてこれら三つの課題を今後へどうつないでいくか、2012年の大きな宿題である。(2011年12月24日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽「いのち」と「脱原発」と

朝日新聞(2011年12月12日付夕刊)の以下の見出しの記事(大要)を紹介する。
*いのち見つめ「脱原発」 ― 子供たちのために
  宗教界はこれまで、原発問題に積極的に向き合ってきたとはいえなかった。しかし原発事故後の今、脱原発社会を目指す宣言が相次ぐ。エネルギーや環境、地域経済といった問題とは一線を画す、「いのち」の観点からの呼びかけだ。
 12月1日、全国104の宗派・団体が加盟する「全日本仏教会」(全仏、東京都港区)が仏教会全体に共通する考えとして「<いのち>を脅かす原子力発電への依存を減らす」という宣言文を採択した。戸松義晴・事務総長は「最終的にはすべての原発をなくしていくと、仏教者として訴えたい」と話した。全仏が原発に関して声明を出すのは初めてのことだ。
 それまでにも臨済宗妙心寺派が「将来ある子供たちのために一刻も早く原発依存から脱却し」「仏教で説く<知足>を実践し、持続可能な共生社会を作るために努力する」と宣言し、曹洞宗大本山永平寺(福井県)の僧侶で作る「禅を学ぶ会」が「原発を選ばないという生き方」と題したシンポジウムを開くなど、流れが生まれていた。

 日本カトリック司教団は11月8日、国内の全原発の即時廃止を呼びかけるメッセージを発表した。
 この動きを浄土真宗大谷派法伝寺(兵庫県)の長田浩昭住職は、複雑な思いで見守っている。長田さんは1993年に結成された「原子力行政を問い直す宗教者の会」世話人。会員は現在800人で、多くは長年原発の問題を訴えてきた仏教、神道、キリスト教の宗教者たちだ。福島原発の事故後、「自分たちにもっと力があったら、事故は止められたはずなのに」とみな落ち込んだという。
 会結成のきっかけは、福井県に建設された高速増殖炉「もんじゅ」の試運転開始だった。以来、宗教者の責任として原子力政策の問題点を指摘し、政策の転換を求めてきた。だが宗教界全体では少数派だった。(中略)

 福島の原発事故以来、長田さんには全国の寺や市民団体からの講演依頼が相次いでいる。「原発行政を問い直す宗教者の会」メンバーが原発の町の現実を伝えた2001年発行の『原発総被曝の危機』(遊学社)も10年ぶりに再編集され、出版された。長田さんは「全仏の声明で各教団が動けば、大きな力になる」と期待する。

<安原の感想> 「いのち」と「脱原発」とは相互不可分
 私が提唱する仏教経済学のキーワードとして以下の八つを挙げている。いのち、非暴力(=平和)、知足、簡素、共生、利他、多様性、持続性 ― である。これら八つのキーワードを現実の政治、経済、社会の中でどう生かし、実現していくか、が仏教経済学の目指すところである。

 しかし多くの僧侶を含む仏教者たちは、こういう現代感覚には無頓着とは言えないか。現実の問題に仏教者がどういう打開策を求めていくか。仏教者は自己満足の閉鎖的な思考から卒業してほしい。お布施稼ぎのための葬式仏教に甘んじ、それ以外に知恵を磨こうとしない仏教はもはや存在価値はないといっても過言ではないだろう。
 その意味では上述の脱原発を志向する仏教者たちの行動には敬意を表したい。いのちと脱原発は相互不可分の関係にある。原発に固執する限り、いのちは無視される。いのち尊重のためには脱原発以外の選択肢は考えられない。

▽「幸せ」ってなに?

 幸せをテーマにした新聞投書を紹介する。朝日新聞(2011年12月17日付)「声」欄に掲載された次の見出しの記事である。氏名は省略

*ブータンの「幸福度」に感銘(中学生 15歳 岐阜市)
 新婚のブータン国王夫妻が来日されて話題になった。僕はブータンの国民総幸福(GNH)という考え方に感銘を受けた。
 先進国では国民総生産(GNP)という経済的な豊かさの基準が重視されている。しかしブータンではGNHという独自の基準のもと、国民の幸せを最優先に政治を行っているそうで、国民の9割以上が「幸せ」と考えている。先進国が経済的な豊かさに固執するなか、そんな国の国王が国民に結婚を祝福されている映像に政治の本当の意味を見た気がした。
 経済的な豊かさが直接幸せにはつながらないことに日本人の多くが気づいていると思う。大震災が起こって国や政治への信頼も不安定な今、生産力より幸福感を求めることが国民のための政治になると思う。
 日本のリーダーのみなさんには、ブータンを見習い、国民の、とくに被災地のみなさんの幸福を一番に考えてもらいたい。

<補足> 上記の投書にGNP(=Gross National Product)という経済用語が出てくる。これは数年前まで使われていたが、現在その代わりとして国内総生産(GDP=Gross Domestic Product)が一般に使われていることを指摘しておきたい。なお国民総幸福はGNH=Gross National Happinessである。

<安原の感想> 幸せは自分で創っていくもの 
 中学生の素直な幸福感には「なるほど」と教えられるところが少なくない。豊かさと幸せとを異質のこととして捉えようという、その感覚は素晴らしい。「経済的な豊かさが直接幸せにはつながらないことに日本人の多くが気づいている」という認識も正しい。
 ただあえて指摘すれば、幸福の実現を日本のリーダーに期待するのはどうか。無理ではないだろうか。彼らの幸福感の押しつけではなく、自分にとって、我々にとって「幸せってなに?」と問いかけるところから、幸せは始まる。人から、ましてリーダーから与えられるものではなく、一人ひとりが自分で発見し、創っていくものであるにちがいない。

 大晦日(2011年)のNHK紅白歌合戦に出場する女流歌手、夏川りみが歌う「あすという日が」に次の一節がある。「幸せを信じて・・・」と。つまり幸せは人から与えられるのを待つのではなく、自分で信じて引き寄せるものだという趣旨だろう。

▽ 再生日本の目指すべき三本柱は

 中学生の新聞投書がテーマとして取り上げている「豊かさ」と「幸せ」とは、どう違うのか。通常は次のように理解されている。

 豊かさは「量の概念」で、GDP(国内総生産)で示される。一定期間(例えば1年間)に新たに作られるモノ、サービスの総量(主要項目は個人消費、政府支出、民間投資、輸出など)を指している。一方、幸せは「質の概念」で、GNH(国民総幸福)で示される。
前者のGDPは主要先進国が経済規模や経済成長を測る手段として使っているが、後者のGNHは、ブータンが独自に開発したもので、その国の政治、経済、社会、さらに生活の質を示している。
経済成長を追求し、GDPが増えれば、生産や消費も増えるが、それは資源エネルギーの浪費、自然環境の汚染・破壊につながる。GDPでは自然環境が良質であるか、汚染されているかを測ることはできないが、ブータンのGNHではその測定は可能である。だからGNHは自然環境の汚染・破壊の防止に貢献できる仕組みでもある。

 人間でいえば、GDPは体重という「量」を意味しており、一方GNHは人間力や品格などの「質」を表しているとみることもできる。GDP依存症(注)ともいえる日米欧の大国・先進国よりも、独自のGNHを掲げて、国民の幸せの実現を目指す小国・ブータンの方がはるかに賢明で先進的で、自然環境貢献型でもあると言えよう。
(注)朝日新聞(12月24日付オピニオン面「製造業から見た日本と世界」)は次のように書いた。「世界経済は混迷を深め、日本が果たして成長できるのか怪しくなるばかりだ」と。これは最近のメディアにみるGDP依存症すなわち経済成長依存症の一例である。

 「質」としての幸せを実現するためには、もちろん政治、経済、社会、さらに一人ひとりの生き方をどう変革していくか、その努力と活力が求められる。怠惰、無気力には幸せは近づいては来ないだろう。
 特に指摘したいことは、「いのち尊重」のためには「脱原発」が前提であるように、「幸せ」のためにはいのち尊重と脱原発が不可分の関係にある。つまり「いのち」、「脱原発」、「幸せ」は三位一体式に捉える必要がある。こういう認識と自覚こそが明日からの再生日本を創っていくに違いない。同時に再生日本の目指すべきものが「いのち」、「脱原発」、「幸せ」の三本柱でもあるだろう。多難ではあるが、そこに未来への希望を見出したい。

<参考>ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載した「いのち」、「脱原発」、「幸せ」に関連する記事の一部は次の通り。
*いのち・簡素尊重の循環型社会を ― 連載・やさしい仏教経済学(29)=2011年1月21日掲載
*なぜ原発ゼロを主張しないのか ― 終戦記念日の新聞社説に物申す=同年8月15日掲載
*GDPよりも国民総幸福の追求を ― 来日したブータン国王が残した課題=同年11月25日掲載


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「99%の反乱」集会のスピーチ
真の民主主義と非暴力が合い言葉

安原和雄
「ウオール街を占拠せよ」というあの「99%の反乱」はいまなおアメリカを中心に続いている。月刊誌『世界』が紹介しているニューヨークでの集会のスピーチはなかなかユニークである。いきなり「I LOVE YOU」(みなさんを愛している)で始まり、やがて「私たちは、この地球上で最も強力な経済的・政治的な力にケンカを吹っかけた」と言い放つ。
 しかしこのケンカは暴力の行使ではない。暴力とは正反対で、真の民主主義と非暴力が合い言葉になっている。ケンカの相手は、1980年代以降、貧困・格差・不公正・不平等を広げてきた悪しき新自由主義路線そのものである。このケンカには新しい時代の幕開けを予感させるものがある。(2011年12月3日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 月刊誌『世界』(2011年12月号・岩波書店刊)は、あの「ウオール街を占拠せよ」集会でナオミ・クラインさん(ジャーナリスト、活動家)が行ったスピーチを掲載している。題して「世界で今いちばん重要なこと」。「占拠せよ」集会とその運動の特質を理解するのに有益なスピーチと評価できるので、その要旨を(1)(2)で紹介する。

▽ 世界で今いちばん重要なこと(1) ― 「みなさんを愛している」

 I LOVE YOU(みなさんを愛している)
 私がそう言ったのは、みなさんから「I LOVE YOU」と言い返してもらうためだけではない。人に言ってもらいたいと思うことを、人にも言いなさい、それももっと大きな声で、ということ。

 私が確信をもって言えることは、世の中の1%の人は危機を望んでいるということ。人々がパニックや絶望に陥り、どうしたらいいか誰にもわからない、その時こそ、彼らにとっては自分たちの望む企業優先の政策を強行するまさに絶好のチャンスとなる。教育や社会保障の民営化、公共サービスの削減、企業権力に対する最後の規制の撤廃。これが経済危機のただ中にある今、世界中で起きていることなのだ。
 この企みを阻止できるものがひとつだけある。幸いなことに、それはとても大きなもの ― 99%の人びとだ。その人びとが今まさに、街頭に繰り出し、「ノー」の声を上げている。「お前たちのつくった危機のツケは払わない」と。

 「ウオール街を占拠せよ」の運動と、1999年にシアトルで世界の注目を集めたいわゆる反グローバリズム運動との類似を指摘する人は少なくない。しかしこの二つには重要な違いもある。反グローバリズム運動の標的は、世界貿易機関(WTO)や国際通貨基金(IMF)、G8などの首脳会談で、それは性質上一時的なもので、1週間しか続かない。だから抗議運動もまた一時的なものにすぎない。
 これに対し、「ウオール街を占拠せよ」の標的は固定していて、すぐに消えるものではない。しかもこの運動に期限はない。このことはきわめて重要だ。

 水平的で、真に民主的であることは素晴らしいことだ。この原則は、今後襲ってくる嵐にも耐えられる頑丈な組織や制度を築いていくという大変な仕事とも両立する。
 もうひとつ、この運動の正しい点は非暴力に徹していること。ショーウインドーを壊したり、通りで乱闘を繰り広げたりといった、メディアが大喜びしそうなイメージをいっさい提供していないこと。

 けれども10年の年月を隔てたことによる最大の違いは、1999年に私たちが資本主義と対決したとき、世界経済は好景気の絶頂にあったということ。経済ブームをもたらした規制撤廃には大きな犠牲が払われていることを、私たちは指摘した。労働基準、環境基準は切り下げられ、企業の力が政府より強くなるに従い、民主主義も損なわれた。しかし率直に言って、景気のいいときに強欲に基づく経済システムと闘おうとしても、人びとを説得するのは困難だ。
 10年後の今、もはや豊かな国など地球上から消えてしまった。居るのは沢山の金持ちだけだ。公共の富を略奪し、世界中の自然資源を使い尽くすことによって豊かになった人びとだ。今や経済的な惨事と生態学的な惨事が次々と連続的に起きるのが常態になってしまった。

<安原の感想> 独り一人が変革の担い手 ― 真の民主主義と非暴力が合い言葉
 スピーチはいきなり「I LOVE YOU」で始まった。たしかにユニークといえる。どういう含意なのか。
 同じ『世界』に現地報告「私たちは99%」を書いた大竹秀子さん(豊かな多文化共生とメディアの役割を探る非営利組織「ジパング」代表、ニューヨーク在住)は、次のように指摘している。

 「占拠せよ」の運動には、人を根源に向かわせるものがある。貧困や格差を変えられないのは、それがあってはいけないことと感じられなくなっているからだ。社会を変え、民主主義をあるべき姿に戻すには、まず自分から変わらなければならない。自分が変わり、人を変える。その可能性を見るからこそ、ナオミ・クラインは「アイ・ラブ・ユー」で始まる呼びかけを行った、と。
 「自分が変わり、人を変える」という姿勢に注目したい。参加する独り一人が主役であり、変革の担い手だ、という含意でもあるだろう。しかも真の「水平的な民主主義」と「非暴力」が合い言葉である。
 非暴力は、単に「反戦=平和」を意味するだけではない。いのちを軽視し、奪うもの(人権・福祉の軽視、貧困、失業、交通事故死などの構造的暴力)すべてを拒否し、いのちを生かす政治、経済、社会を創っていくことと理解したい。

 もう一つの真の「水平的な民主主義」とはどういう含意なのか。既存の多数決民主主義とどう異質なのか。以下、大竹さんの解説を手がかりに触れておきたい。
・総会の決議は多数決方式を採らず、全員の賛成を原則とする。51人の賛成が49人の声を消していいとは考えない。
・お互いの差異を認めながら、連帯をうたう。連帯することで1%を圧倒できるという決意表明だ。
・悪者の1%以外は誰も排除しない、全員の平等を認める民主主義に基づいている。

▽ 世界で今いちばん重要なこと(2)― 「あなたのことを気遣っている」

 今回こそ、運動を成功させなければならない。私が言いたいのは、この社会の底に流れている価値観を変えなければならないということだ。まさにこの場所で実現されつつある。私がここで気に入ったプラカードは、「I CARE ABOUT YOU」(あなたのことを気遣っている)だ。互いの視線を避けることを教える文化、「あいつらなんか死んじまえ」と平気で言うような文化にあって、このスローガンは真の意味でラディカルなものだ。

 最後にいくつか言っておきたい。
 重要でないのは次のようなことだ。
・どんな服装をしているか
・拳を振り上げるのか、それともピースサインを作るのか
・より良い世界への夢を、メディアに乗りやすい短いスローガンにして語れるかどうか

 反対に重要なこともいくつかある。
・勇気をもつこと
・道徳的基準をもつこと
・お互いをどう受けとめ、どう接するか

 私たちは、この地球上で最も強力な経済的・政治的な力にいわばケンカを吹っかけたのだ。それは怖いことで、この運動がますます力を付けていけば怖さも増していく。運動の標的をもっと小さなものにしたくなる誘惑に負けないよう、注意を怠らないことだ。
 この運動ではお互いを今後長い年月をかけて共に闘っていく同志と考えようではないか。この素晴らしい運動を、世界でいちばん重要なことだと受けとめようではないか。

<安原の感想> 新自由主義路線の転換を ― 「怖い相手」に異議申し立て
 スピーチは「私たちは、最も強力な経済的・政治的な力にケンカを吹っかけた。それは怖いこと」という認識を披露した。「力のある怖い相手」とは、何者なのか。それは言うまでもなく99%からケンカを吹っかけられている1%の富裕層である。しかしただの大金持ちではない。

 同じ『世界』の座談会「ほんとうの危機はどこにあるか?」(出席者は相沢幸悦・埼玉大学教授、倉都康行・国際金融アナリスト、山口義行・立教大学教授)が「怖い相手」に触れている。それに関連する発言を以下に紹介する。
・アメリカの所得配分構造のゆがみが非常に分かりやすく出ているから、若者が異議を申し立てて騒ぎ始めた。
・アメリカは資産インフレによってごまかし、ごまかしやってきた。それがもう効かないのだから、やはりアメリカという国の体質が劇的に変わらないと、確実に没落する。
・アメリカ型経済モデルが転換点に来ている。
・アメリカは一方で失業者を出しながら、他方で大儲けしている連中がいるという非常に分かりやすい矛盾だ。
・その矛盾はいま起こったのではなく、実はこの100年を見ると、1920年代は現在と全く同じ1%の富裕層と99%の苦しい人たちという構造だ。その矛盾が1928~29年にピークに達して大恐慌が起こり、戦争を含めた変転のあげく、やっと格差が是正され始めたのが1950~60年代だ。1970年代まではかなり平準化が進んでいたのに、80年代からフリードマン主義に始まる逆流が起きて、いままたそれが絶頂期にきている。自律的にこの格差や矛盾を修正するメカニズムは、おそらくない。
・その核心の問題が再噴出して、それに気づいた人たちが社会運動を起こしている。

 この座談会で指摘されている「アメリカ型経済モデル」「フリードマン主義」とは、新自由主義路線(注)を指しており、それが「力のある怖い相手」の実像である。新自由主義は効率追求第一主義の下で弱肉強食、不公正、不平等、多様な格差拡大、自殺者・貧困層増大を構造化させ、1%と99%との対立・矛盾を激化させてきた。だからこの新自由主義路線を根本から転換・是正しない限り、99%の側からの異議申し立ては止むことはないだろう。
 (注)新自由主義とは、市場原理主義と「小さな政府」(福祉や教育にも市場原理の導入を図る)を徹底させようとする新保守主義のこと。主唱者は米シカゴ大学のM・フリードマン(1912~2006年、1976年ノーベル経済学賞受賞)。主として日米英で実施されてきた。日本では中曽根政権時代に始まり、小泉政権時代に顕著になった。現野田政権にも引き継がれている。その意味では自民党政権も民主党政権も本質は変わらない。

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ノーベル平和賞のマータイさん逝く
「モッタイナイ」を国際語に育てる

安原和雄
 ノーベル平和賞受賞者のワンガリ・マータイさんが亡くなった。マータイさんは2005年に初めて来日したとき、日本語の「モッタイナイ」に出会って、感激し、早速地球規模で普及に努め、今では「MOTTAINAI(もったいない)」は国際語にまで育ちつつある。
 私の唱える仏教経済学(思想)のキーワードの一つが「もったいない」で、本来の意味は、モノの価値を無駄にしないように使いこなす、である。だからこの「もったいない」精神は、日常生活の簡素、節約、共生にとどまらず、広く地球環境の保全にまでつながっていく。その自覚を日本人に促したマータイさんの功績は限りなく大きい。(2011年10月1日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 亡くなったワンガリ・マータイさん(注)について世界から悼む声が寄せられた。その一人、オバマ米大統領は06年、実父の故郷、アフリカのケニアを訪問し、マータイさんと一緒に首都ナイロビの公園で植樹したことがある。大統領声明で「世界はこの傑出した女性の特筆すべき生涯をたたえている。自然保護、民主主義、女性への力の付与、貧困撲滅の取り組みに無数の人々から尊敬を勝ち得た」と称賛した。

 (注)マータイさんは1940年ケニア生まれ。71年にケニアのナイロビ大学で生物分析学の博士号を取得、77年から植林と女性の地位向上を目指す草の根運動「グリーンベルト運動」に取り組む。これまでに8万人以上が参加し、4000万本以上を植樹した。 ケニアの国会議員、環境副大臣などを歴任し、04年にノーベル平和賞を受賞した。毎日新聞「MOTTAINAIキャンペーン」の名誉会長、国連平和大使などとして地球規模で活躍した。
 昨2010年2月、被爆地・広島を訪問、原爆慰霊碑に献花、さらに原爆資料館で被爆者の証言に耳を傾け、涙を流して抱き合ったと伝えられる。2011年9月25日深夜(日本時間26日未明)、ケニア・ナイロビの病院で子宮がんのため死去。71歳。

▽ 来日して日本語「モッタイナイ」に出会って

 毎日新聞社説(9月28日付)は、<マータイさん死去 「モッタイナイ」を永遠に>という見出しで哀悼の意を表し、同時にマータイさんの功績を讃(たた)えた。社説の大要は以下のとおり。

 環境分野で初、アフリカ女性としても初のノーベル平和賞を受賞した元ケニア副環境相、ワンガリ・マータイさんが亡くなった。
 受賞後の05年から昨年まで、毎日新聞はマータイさんを5回にわたって日本に招き、「MOTTAINAI(もったいない)」という言葉とその心を世界に広めるキャンペーンも共に繰り広げてきた。この人がいてこその成功だった。
 訃報に接し、心から冥福を祈るとともに、天に向かって「マータイさん、ありがとう!」と言いたい。

 マータイさんは初来日の際、毎日新聞の編集幹部との対談で「もったいない」という日本語を知った。その意味を聞いて即座に「国際語にしよう」と提案したのは、ケニアで「グリーンベルト運動」を推進した実績ゆえだろう。
 これは農村女性に植樹を通じた社会参加を呼びかけたものだが、当時の政権が進めた森林伐採への反対や民主化運動と連動したため、厳しい弾圧も受けた。その過程で、自然の恵みである資源を適切に配分し、大切に使ってこそ、紛争を避けられると考えるようになった。

 この認識が節約、リサイクルなど資源の有効利用につながる「もったいない」の思想と共鳴した。マータイさんはさっそく、米、英など諸国訪問や各国メディアの取材を受ける際、この日本語とその意味を熱心に紹介してくれた。
 後には「もったいない」に込められた深い意味、生きとし生けるものとの共生を喜び、大自然を畏怖(いふ)し感謝する日本古来の感覚も理解していたと、本人を知る人は言う。
 マータイさんと二人三脚のキャンペーンは、もちろん日本国内でも大きな反響を呼んだ。読者の投書が次々に寄せられ、企業や地方自治体の協力も相次いだ。

 いま顧みると、東北地方の呼応ぶりが印象的だ。例えば小中高校生を対象に独自調査を実施した福島県。大都市の若者の間では「もったいない」など死語同然という見方が強いが、福島の調査では10代のほぼ全員が「もったいない」という言葉を知っており、多くは「もったいない」と思う体験もしていた。
 東日本大震災の際、世界を感動させた人々の忍耐と、周辺への思いやり。その根源にある「東北の心」を、マータイさんが元気だったら被災地を自ら訪れ、深く知ろうとしたのではないか。
 毎日新聞は今後も「MOTTAINAI」キャンペーンを続行する。

<安原の感想> 「もったいない」精神が東北から広がる
 上記の社説のつぎの一節に注目したい。<大都市の若者の間では「もったいない」など死語同然という見方が強いが、福島県の独自調査では10代(小中高校生)のほぼ全員が「もったいない」という言葉を知っており、多くは「もったいない」と思う体験もしていた>と。
 「もったいない」に無関心な大都市の多くの若者と違って、理解を示す福島の若者たちの存在は心強い。原発惨事からの再生はもちろん、日本文化の象徴の一つ、「もったいない」精神が生き返り、広がっていくのは「東北から」といえるかもしれない。

▽ 東京新聞コラム「筆洗」から

 東京新聞「筆洗」(9月28日付)はマータイさんの功績を振り返っている。その大要を以下に紹介する

 日本で最も有名なアフリカの女性が亡くなった。荒れ果てた南の大地に三千万本もの木を植え、虐げられていた女性の地位向上に尽くしたケニアのノーベル平和賞受賞者ワンガリ・マータイさんだ。
 MOTTAINAIを合言葉に、環境保護運動を広げたその人の半生は、国家権力との闘いでもあった。強権的な前政権の弾圧を受け何度も投獄されたが、決してくじけなかった。
 国も時代も違うけれど、凜(りん)としたマータイさんの生き方は、足尾銅山の鉱毒問題の解決に奔走し、明治天皇に直訴した田中正造の姿にどこか重なって見える。繰り返し投獄された正造も、民衆と生きることを選んだ人だ。
 <真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さざるべし>。約百年前に正造が残した言葉である(小松裕著『真の文明は人を殺さず』)。
 放射能が山や川を汚し、人が住めない「死の町」を生んだ原発事故に直面する私たちに、この言葉はずしりと重い。震災を経験した今、マータイさんが世界に広めてくれた「もったいない」の意味にも、あらためて気付かされたような気がする。
 はげ山になった足尾は近年、ボランティアの植樹活動も加わり、緑が少しずつよみがえっている。アフリカはどうなのだろう。緑に揺れる大地を想像すると心が弾む。

<安原の感想> マータイさんと田中正造と
 マータイさんと田中正造とを重ね合わせたところが新鮮である。二人は環境保護運動、国家権力との闘い、投獄、さらに民衆と共に、というその生き方が見事に重なり合っている。<真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さざるべし>という田中の言葉は至言というべきである。その含意は自然、地域、さらに人間を含む生きとし生けるもののいのちの尊重である。これも「もったいない」精神の節約、資源の有効活用、いのちの共生と密接な関係にある。
 マータイさんが「おんな田中正造」なら、田中正造は「おとこマータイ」と呼ぶこともできよう。二人は今ごろ天国でにこやかに握手を繰り返しているのではないか。そういう光景が浮かび上がってくる。

▽ 下野新聞の記事 <「もったいない」を心に> から

 「もったいない」を心に ― と題する記事(2005年3月20日付下野新聞)の一部を以下に紹介したい。これは当時足利工業大学(所在地は地方紙・下野新聞と同じ栃木県)で経済学を講じていた私(安原)の署名入り記事である。05年2月に初来日したマータイさんの「もったいない」説を仏教経済学との関連で紹介している。

 仏教経済学は仏教を経済に活かすことをめざす新しい考え方である。仏教のキーワードに知足(ちそく=足るを知ること)がある。これは「もうこれで十分」と考えて、簡素のなかに充実した生き方を求める知恵である。さらに聖徳太子の和の精神、今日風に翻訳すれば、人間と地球・自然・動植物との共生、平和共存を重視することも忘れてはならない。
 仏教経済学は、仏教の知足や共生の知恵を活かしながら、現実の経済社会をどう改革するかを模索する学問ともいえる。身近な例を挙げれば、「もったいない」というモノやいのちを大切にする心を生活や経済のなかで実践することである。これが地球環境の保全にもつながっていく。
 2月に来日したケニアの環境保護活動家でノーベル平和賞受賞者、マータイ女史は「日本文化に根ざした<もったいない>という言葉を世界語にしたい」と繰り返し語った。有難いことに彼女は仏教経済学の伝道者として行脚(あんぎゃ)していただいたことになる。

<安原の感想> 「もったいない」の再定義と仏教経済学
「もったいない」(勿体ない)の本来の意味は、モノの価値を無駄にしないように使いこなす、である。だから使い切らないで捨てるのはもったいない、という感覚である。このように我々日本人の「もったいない」観はややもすれば個人レベルの視点に閉じこめているともいえる。
 ところがマータイさんの場合、視点が一挙に地球規模にまで広がっていく。<MOTTAINAIを世界に広げたい>、<「環境と平和」に向けたメッセージ>、<(地球上の)「いのち」という一つのファミリーの絆>などの視点にそれが表れている。こうして「もったいない」の視点を広げる再定義が進んできた。仏教経済学はこの再定義を高く評価する。マータイさんのお陰であり、深く感謝したい。

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気がついてみればすでに後期高齢者
「覚老」(自覚した老人)をめざして

安原和雄
あわただしく我が人生を生きながらえて来て、ふと気がついてみれば、すでに後期高齢者(75歳以上)の域に脚を踏み入れている。来し方を振り返るのはほどほどにして、ただいま現在の「今」をどう生きるかを考えないわけにはいかない。世に「一病息災」というが、私の身体は最近、「二病息災」(二つの病と共存しながら元気に生きる)という新語を当てはめたい気分である。
「二病」をいたわりながらどう生きるか。人生の大先達から「覚老」(自分の役割を自覚しながら生きる老人)という生き方があるのを学んだ。めざすべきものは覚老で、どこまで実践できるか、今後の大いなる楽しみとしたい。無造作に現世に「さようなら」を告げるわけにはいかなくなった。(2011年9月19日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

総務省が発表した高齢者推計人口(9月15日現在)によると、65歳以上は前年より24万人増えて2980万人、総人口に占める割合は23.3%と、いずれも過去最高を更新した。80歳以上は前年比38万人増の866万人、総人口比6.8%で、ともに過去最高となった。この数字は日本の高齢化がさらに進みつつあることを示している。

▽ 後期高齢者となって仏教書を読み直す

私自身、後期高齢者となった今、20年近くも昔に読んだ仏教関係の著作を読み直している。なぜそういう心境になったのか。「一病息災」(ちょっとした病気のある人の方が身体に注意するので、健康な人よりもかえって長生きするということ)は歓迎できるが、最近どうも「二病」にとりつかれたらしい。後期高齢者にふさわしく(?)、脚のしびれだけでなく、腰痛も時折感じる。外出は少し控えたいという気分でもあり、それが仏教書を再読・自習したいという動機になっている。

「敬老の日」(19日)を目前にして再読した仏教書は、松原泰道氏(注)の著作である。
(注)松原氏は1907年東京生まれ。早稲田大学文学部卒。岐阜・瑞龍寺(ずいりゅうじ)で修行。臨済宗妙心寺派教学部長を経て、「南無の会」会長、坐禅堂・日月庵(にちげつあん)庵主。1989年第23回仏教伝道文化賞を受賞。ベストセラー『般若心経入門』など著書多数。2009年7月肺炎のため死去、101歳。

(1)「覚老」への努力が老人問題解決のカギ
松原著『法句経(ほっくきょう)入門』(1994年初版第19刷発行・祥伝社)はなかなか示唆に富んでいる。人生の四苦(生老病死)の「老苦=老いることの苦悩」について以下のように指摘している。

私(松原)は、若いとき、よく父から「お前、あっという間に60歳になるぞ!」と言われたものだ。しかし私は大して気にせず、のんびりしていた。ところが本当にあっという間に、私は60歳はおろか、70歳も目前だ。あわてて「老い」を真剣に考え悩む。
釈尊の「老は苦なり」を実感している。現代では生活苦や対人関係も老苦の原因である。さらに病・死苦、孤独感が重なる老苦は老人を自殺に追い込む。老人を山野へ棄てた習慣が未開社会にあったことは、伝説で知られる。しかし経済的な効用と能力だけが支配する現在の社会では、今日的「棄老」の傾向を感じる。

東洋大学教授の金岡秀友氏によると、すでに昭和17年に竹田芳衛著『敬老の科学』で「共同社会から功利社会へと世の中が転移しつつあるとき、一番さきに老人の位置がむつかしくなる。したがって老人は、つねに自分でなければできない役割をもつように心がけよ」と忠告しているが、その達見に驚く。
思うに福祉施設の増強とか、養老、敬老の心情を高めるだけでは、現代の老人問題は解決できない。竹田氏のいう自覚的老人 ― 「覚老」を老人自身がめざすことだ。とくに自分の年齢相応に人生の意味を自覚する「覚老」への努力が老人問題解決のカギになる。年齢の数量よりも年齢の密度の問題である。

このことを法句(115番)は次のように詩(うた)う。
たとい百歳の寿(いのち)を得るも、無上の法(おしえ)に会うことなくば、この法に会いし人の、一日の生(しょう)にも及ばざるなり。
<大意> 仏法という真理を探究することがなかったら、百年の長寿も、真理を学ぶ人の一日という短命の価値に及ばない。

私(松原)は「人生は丹精(たんせい)だ」と受け止める。人生ははかないがゆえに、大切にしなければならない。それは花器や茶器が壊れやすいから大事に扱うのに似ている。花器や茶器は、テレビやステレオと違い、新品よりも古さに価値がある。といっても水洩れする花瓶や、さびた茶釜ではだめで、傷つかぬよう、さびぬように手入れと丹精で守りつづけて、年を経た丹精の道具にして、はじめて価値がある。人生もまた同じである。
「仏法に会う」とは、「永遠の青春」ともいうべき柔軟心(じゅうなんしん)を身につけるといってもいい。しかし若いときは、若さと誇りと自信から、老いを学ぶ気が起こらない。私がそうだった。この自己への奢(おご)りが永遠の青春性を蝕(むしば)むことを、このごろ気づいて後悔している。

(2)病気と健康とを和物に和えて
もう一つ、松原著『わたしの般若心経 生死を見すえ、真のやすらぎへ』(1991年初版第1刷発行・祥伝社)の中から「老いと若さ」について紹介する。

老いと若さを比べたり、死と生とを比較すると、目の前が真っ暗になってしまう。いま自分がしている生活や、いま自分が置かれている状態と、他のそれとの優劣を比べあわせるなら、苦悩はいつまでもなくならない。
もしもいま、あなたが病床にあるなら、「健康だったらなあ!」と、幻の健康と比べっこせずに、病気と健康とを和物(あえもの)に和(あ)えてごらんなさい。健康なときには味わえなくて、病気になってはじめてわかる人生の意味・味わいをわからせてもらえる。

私は(戦後)復員したとき肺を結核菌に冒(おか)されていた。栄養失調で身体も衰弱していたので、トイレの往(ゆ)き来(き)は、両手を壁についての伝え歩きだった。終戦直後なので食糧も医薬品も不自由の絶頂で、病気回復などは望むべくもない。といって「死にたい」とも思わない。もちろん生きたいのであるが、生き死には私の力ではどうにもならないのだからと思い、床の中で般若心経などを黙読した。
私はそのとき「生き死にを超えるとは、大いなるもの(私の場合は仏の心)にお任(まか)せすること」だと、合点した。「超える」も「任せる」も、ともに小さな自分にとらわれる執着から脱皮することなのだと、腹の底からうなずくことができた。それが私の調理した生き死にの和物の味である。

<安原の感想> 病との共存を覚悟
ユニークな松原節(ぶし)には今さらながら示唆を受けるところが尽きない。「人生は丹精だ」、「人生ははかないがゆえに、大切にしなければならない」、「病気と健康とを和物(あえもの)に和(あ)えて」などがそれである。特に「和物に和えて」という表現を使って、病気と健康との優劣を比較しないで、病気と健康の双方を受け入れよ、という指摘は含蓄に富んでいる。
誰しも病気はいやで、健康でありたいと二者択一の考え方に囚(とら)われやすい。私自身そうであった。小中学生の頃、当時子どもには珍しいといわれた関節リュウマチにかかり、毎冬寝たきり同然になって、寝床で泣いていた。しかし高校生になった春から健康になりたい一心で毎朝冷水摩擦を始めたら、途端に関節リュウマチも逃げ去った。以来60年冷水摩擦を励行してきたが、今度は後期高齢者としての我が身に病魔が目を付けたらしい。軽い脚のしびれと腰痛が消えない。病との共存を覚悟せざる得ない、そういう心境である。

▽ 今後は「覚老」として何をめざすか

後期高齢者として病との共存は覚悟するとして、問題は覚老として何をめざすのかである。「悠々自適の老後を」という考え方もないではない。しかしこの生き方は中身が今ひとつ不明である。独りよがりの自己満足に堕する可能性もある。「覚老」の精神に沿わないかも知れない。
さてどうするか。やはり及ばずながら「世のため人のため」という利他の心構えは失いたくない。どこまで実践できるかは、今後の課題だが、少なくとも心構えだけは捨てたくない。そのためには仏教経済学(思想)のすすめをおいてほかには考えられない。一般の大学で教えられている現代経済学を批判する視点に立つ仏教経済学は今なお未完であり、広く社会に根づくにはさらに時間と努力を要する。

私(安原)の考える仏教経済学のキーワードとして八つを挙げたい。「八」(漢数字)は末広がりを意味しており、将来へ向かって発展していくという期待をこめて使いたい。しかも八つのキーワードによって仏教思想とのかかわりをより分かりやすく提示することに努める。その場合、現代経済学への根本的批判が原点となっている。
 以下、仏教経済学の八つのキーワードを列挙する。〈 〉内は現代経済学の特質を示す。

*いのち尊重(人間は自然の一員)・・・〈いのち無視(自然を征服・支配・破壊)〉
*非暴力(平和)・・・・・・・・・・・〈暴力(戦争)〉
*知足(欲望の自制、「これで十分」)・・〈貪欲(欲望に執着、「まだ足りない」)〉
*共生(いのちの相互依存)・・・・・・〈孤立(いのちの分断、孤独)〉
*簡素(質素、飾り気がないこと)・・・〈浪費・無駄(虚飾)〉
*利他(慈悲、自利利他円満)・・・・・〈私利(利己主義、自分勝手)〉
*多様性(自然と人間、個性尊重)・・・〈画一性(個性無視、非寛容)〉
*持続性(持続可能な「発展」)・・・・・〈非持続性(持続不可能な「成長」)〉
 補足(1):競争(個性と連帯)・・・・〈競争(弱肉強食、私利追求)〉
 補足(2):貨幣(非貨幣価値も重視)・〈貨幣(貨幣価値のみ視野に)〉

仏教経済学の最大の特色は、いのち尊重(人間に限らず、動植物も含めて生きとし生けるものすべてのいのちの尊重)であり、現代経済学にはこの視点は欠落している。競争については仏教経済学もその重要性を認めるが、個性と連帯を生かす競争をすすめる。一方、現代経済学は弱肉強食をすすめ、個性や連帯を損なう傾向があり、仏教経済学とは異質である。
以上の八つのキーワードからいえることは、仏教経済学に立脚しなければ、地球も世界も日本も救われないだろうという期待がある。このような認識を大切に育んでいくのが覚老としての希望である。

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新聞投書にみる原発惨事と「民の声」
野田内閣が生き残るための必要条件

安原和雄
野田内閣発足後の新聞投書に掲載された原発惨事にかかわる「民(たみ)の声」に耳を傾けると、何が聞こえてくるか。伝わってくるのは被災者たちの悲痛な思いであり、一方、手助けのありようを模索、実践する救援者たちの心遣いである。日本列島上の相互の絆が強まり、日本再生への展望も開けてくるだろう。
しかしどこまでも批判すべきは、「政官財と学・メディアの既得権益共同体」である。脱原発に執拗な抵抗を続けており、その様相は醜悪でさえある。野田内閣が生き残るための必要条件は「民の声」を聞き入れながら、既得権益共同体を解体することで、それ以外の妙手はないだろう。野田内閣にそれが期待できるか。(2011年9月9日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

以下、紹介する新聞投書は朝日新聞「声」と毎日新聞「みんなの広場」で、9月5日から8日までの掲載文である。投書者の氏名はいずれも省略した。

(1)故郷と絆と希望と
*美しい故郷は見捨てられない
=主婦 神奈川県小田原市 43歳(朝日新聞8日付)
福島第一原発事故を受け、福島県双葉町から神奈川県に7歳と2歳の息子、夫と避難している。
首相がまた代わった。しかし私たちや原発の環境は何か変わるのだろうか。新聞には警戒区域の土地を国が買い上げる案などの記事も載る。双葉町はなくなってしまうのか? 私たちはそれを黙って見ているだけでいいの? 福島の風景は何とも美しい。故郷を見捨てることは私にはできない。

*被災地の声聞く大切さ知った
=大学院生 神戸市灘区 27歳(朝日新聞8日付)
宮城県内で実施した東日本大震災の被災者からのヒアリング調査に同行した。とりわけ印象的だったのは、被災者の要望が行政や地元議会にまだまだ理解されていないという嘆きの声だ。現場で当事者の話に耳を傾け、それを周囲に伝え、支援につなげていくことの大切さを痛感した。
震災から半年、社会の関心は薄れつつあるのではないか。被災地から遠く離れた地にあっても、被災地の「声」を聞こうとする姿勢を常に持ち続けたい。

<安原の感想> 絆を結び合う希望を
美しい故郷の町はなくなってしまうのか? 私たちはそれを黙ってみているだけでいいの? ― この無念の思いの深さは体験者でなければ理解できそうにない。私(安原)にはその心境は「首相は代わったが、被災者たちのくやしさは変わらない」とも読みとれる。
だからこそ非体験者である大学院生としては「被災地の声聞く大切さを知った」というほかない。それ以外の対応策は容易には見出せない。ただ体験者と非体験者とが手を取り合い、多様な絆を結び連ねることはできる。そこにささやかな希望を見出したい。
しかしその希望に背を向けるようなデータを一つ紹介したい。東電福島原発事故のため、福島県の12市町村で自治体外での生活を強いられている住民は8月末時点で計10万1931人に上る(毎日新聞9月9日付)。

(2)子供たちの笑顔
*福島の保育園で見た笑顔
=体操教室代表 兵庫県西宮市 62歳(毎日新聞8日付)
福島県を訪れ、歌と人形劇のボランティア公演を行ってきた。南相馬市の保育園では、福島原発事故による避難で休園になっている他の保育園の子どもたちもいてにぎやかだった。歌遊びや人形劇に子どもたちの笑顔が見られ、こちらもうれしい気持ちになった。
公演中、一人の保育士さんが泣いていた。大震災のストレスからか自傷的な行動をする2歳の子どもがこの日は声を出して笑い、歌ってもいたとのこと。皆さんに笑顔の時間が戻るよう祈らずにはいられない。

*首相は福島の子どもを守れ
=主婦 名古屋市天白区 74歳(朝日新聞7日付)
「わたしはふつうの子どもを産めますか?何歳まで生きられますか?」
政府へ福島県の子どもたちが直訴した。子どもからこんな言葉を投げかけられる政府がどこにあるのか。政府の責任は重い。
野田首相に第一に望むことは、子どもたちを一刻も早く安全な場所に避難させること。先日のテレビでは、子どもを抱いた若い母親が「この子は、私よりも長く生きられるでしょうか」と、涙ぐんでいた。なぜ国は子どもが毎日被曝しているのに、有効な手を打たずにいるのか。

<安原の感想> わたしは何歳まで生きられますか?
子どもたちが政府に向かって「何歳まで生きられますか?」と問いつめる光景、さらに若い母親が「この子は私より長生きできますか」と涙ぐむ場面をこれまでイメージしたことがあるだろうか。これは想像の物語ではなく、紛(まぎ)れもない現実の話である。
子どもたちの表情から笑みを奪うような悲惨な現実にもがいている社会、国は世界には沢山ある。しかしその現実に日本が原発惨事とともに直面しようとは、どれだけの日本人が想像できただろうか。悔恨(かいこん)のなかから出直すほかないのか。

(3)脱「経済成長」と脱「原発」と
*「経済成長 誰のため?」に賛成
=無職 大阪府枚方市 80歳(毎日新聞7日付)
毎日新聞「風知草」で、山田記者は「経済成長 誰のため?」として原発リスクと経済成長をはかりにかける愚を指摘し、経済成長に妄執する指導者層を批判した。同感だ。
まだ使える車やテレビなど製品を次々と新型に買い替えさせる構造は、莫大な資源とエネルギーを必要とする。そのエネルギーを支えようと、原発推進の「やらせ」を工夫し、都合のいい専門家を利用し、虚構の「安全神話」が作り上げられてきた。これが経済成長の真の姿だ。もうこれ以上の便利は望まない。

*悪夢見て全原発の即時停止願う
=主婦 神奈川県藤沢市 36歳(毎日新聞6日付)
私が福島第一原発で働いていて、水素爆発を起こした瞬間の夢を見た。悪夢である。この夢を見てすぐにもすべての原発を止めてほしいと思った。原発事故がさも想定外のことのようにいわれるが、これまで数十年で事故は何度もあった。いままで福島のような事故が起きなかったことこそが「奇跡」だったのだ。
経済発展のために1万年先の子孫に放射性物質を押し付けるなんてできない。

*菅降ろしの裏に脱原発反対勢力
=無職 福島県田村市 69歳(毎日新聞5日付)
文芸評論家・加藤典洋氏によると、菅降ろしの本質は菅首相(当時)の人格を攻撃し、「再生エネルギー法」「発送電分離」などの政策を葬り去ろうとすることにあった。原子力発電から自然エネルギー発電への転換で、「脱原発」を実現されては困る政官財の既得権益共同体が首相の政治努力を空洞化させようとしているさまは、戦前の軍部のあり方とうり二つというのだ。
自分たちで選びながら、利権を脅かそうとするトップを降ろそうとする民主党の面々や自民党、官僚のあり方にはあきれるばかりだ。政争に加担するメディアの報道も情けなく、憤りすら感じる。世論調査では国民の7割以上が脱原発賛成である。

<安原の感想> 「政官財の既得権益共同体」解体がカギ
<経済成長のためにこそ、原発推進を!>が原発推進派=「政官財の既得権益共同体」のスローガンであった。だから脱「原発」のためには、まず脱「経済成長」が不可欠となる。「経済成長」という概念は「豊かさ」を意味するとしばしば誤解されているが、正しくはそうではない。身近な例で言えば、経済成長のすすめは、大人になっても自分の体重を限りなく増やして喜ぶような無邪気な発想で、健康を害する負の効果しかない。長寿にマイナスである。真に目指すべき目標は、経済成長ではなく、生活の質的改善である。
日本経済の健康を取り戻し、しなやかな持続性をもたらすためにも経済成長主義の古びた旗を降ろし、同時に「政官財の既得権益共同体」(正確には「政官財と学・メディアの既得権益共同体で、「原子力村」など多様な呼称がある)の解体も避けて通れない。

この歴史的課題の打開を野田内閣にどこまで期待できるか。脱原発ではなく精々減らすだけの「減原発」、「既得権益共同体」の執拗な温存策、さらに減税ではなく消費税上げなどの大衆増税が待っているとすれば、我らが庶民派の忍耐力にも限度があろうというものだ。マンガ風にいえば、ドジョウたちももはやこれまでと「ドジョウ内閣」打倒に立ち上がるかもしれない。

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「ドジョウ内閣」は発足したけれど
新聞社説の批判力を採点する

安原和雄
社説で野田内閣を「ドジョウ内閣」と呼んでいるのは東京新聞である。野田佳彦首相が民主党代表選で自らを地味なドジョウにたとえたことに始まる。詩人相田みつをさんの「どじょうがさ金魚のまねすることねんだよなあ」にちなんだもので、藤村修官房長官までも「ドジョウのように泥にまみれて・・・」と調子を合わせている。
さてそのドジョウ内閣の発足に当たって新聞社説はどう評価し、あるいは批判しているか。新聞読者の声や批評と見比べながら、新聞社説を採点すると、むしろ読者の率直で明快な主張に学ぶことが多く、教えられる。(2011年9月4日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

大手主要紙の社説(9月3日付)は野田新内閣の発足を受けて何を論じたか。以下、5紙社説の主見出しを紹介する。かっこ内は社説の小見出しである。
*朝日新聞=野田新内閣スタート 「合意の政治」への進化を(政治改革の93年組、なじまぬ「対決型」、二重苦の国会で)
*毎日新聞=野田内閣スタート 政治の総力を結集せよ(希望のシグナル送れ、内向きから外向きへ)
*東京新聞=野田内閣スタート ドジョウは働いてこそ(震災・原発で継続性、協調で政治を前に、小渕内閣と類似?)
*日本経済新聞=新内閣は一丸となって課題に取り組め(不毛な対立から脱却を、官僚を活用する発想で)
*読売新聞=野田内閣発足 国難を乗り切る処方箋を示せ 「鳩菅政治」からの決別が急務だ(政官関係の見直しを、「震災」「原発」を迅速に、TPP参加へ動こう)

▽ 党内融和と「合意の政治」はどこまで評価できるか

朝日社説は党内融和のための首相の配慮を高く評価し、しかも<「合意の政治」への進化>を唱えている。その背景に<なじまぬ「対決型」>という朝日新聞としての認識がある。
例えば次のように指摘している。
・イデオロギー対立はとうの昔に終わっている。
・グローバル化や出生率低下、高齢社会の制約から、動員できる政策の幅は狭まり、手段も限られている。
・こんな現実を見据えれば、民主、自民両党の立ち位置に抜きがたい違いがあるようには見えない。折り合える課題はもっと多いはずだ。
・いまこそ、「対決の政治」を「合意の政治」へと進化させる好機なのだ。

一方、朝日新聞の投書欄「声」(9月3日付)に「党内融和より国民に目を向けて」(主婦 千葉市稲毛区 54歳=氏名省略)が載っている。その大要を紹介する。
今回の閣僚人事は各グループに配慮したものに思え、私は落胆した。党役員人事も、小沢一郎氏に近い人物を幹事長に起用するなど「内向き」が目立つ。菅政権のような失敗を恐れ、党内融和ばかりを気にする政権運営では、「国民生活が第一」という政策は実現できない。国民に100%目を向けることができない政党に、「もう一度やらせてみたい」とは思えない。

<安原の感想>「大連立」のすすめか「国民生活第一」か
朝日社説の唱える「合意の政治」は民主、自民両党を中心とする「大連立」のすすめであり、これに比べると読者の「国民生活が第一」(「声」)の主張の方がよほど素直であり、共感できる。
大連立のすすめは何を意図しているのか。政党それぞれの独自の主張には価値がないとでも言いたいのか。そもそも「イデオロギー対立はとうの昔に終わっている」という朝日社説の主張には承服しがたい。イデオロギーを「時代錯誤の思いこみ」とでも受け止めているのか。辞書によればイデオロギーとは「政治、道徳、宗教、哲学、芸術などにおける歴史的、社会的立場に制約された考え方」であり、「一般に思想傾向。特に政治・社会思想」を指している。
混迷深める今こそ日本の現状打開と行く末をめぐって、正しいイデオロギー論争が期待されているのではないか。それとも朝日社説は、かつて言論・思想の自由を奪い、日本国を破滅に追い込んだ軍部のように、もはや「問答無用」とでもいいたいのだろうか。

▽「脱原発」なのか、それとも「減原発」なのか

各紙社説は原発のあり方についてどのように主張しているか。
毎日社説=原発依存を減らし、再生可能エネルギーに転換していく前内閣の方針は踏襲するのが当然である。首相は記者会見で、将来は原発に頼らない社会を目指す考えを明らかにした。そこに至るプロセスについて政権内で議論を加速させ、どんなエネルギー政策を目指すのか、具体的に示していくことが必要だ。
朝日社説=原発新設の道は事実上閉ざされ、原発が減るのはどの党も認めざるを得ない。
読売社説=原発については菅政権のように、見通しのない「脱原発依存」に訴えるだけでは経済も、国民生活も混乱するばかりである。・・・原発の再稼働に向けて努力すべきだ。

一方、毎日新聞の投書欄「みんなの広場」(9月3日付)に「原発に頼らない国造りを」(無職 埼玉県幸手市 63歳=氏名省略)が載っている。その趣旨を紹介する。
原発事故が収束していないのに原発を再稼働させる動きが出ているが、これ以上国民に犠牲を強いていいのかと言いたい。原発は安全どころか、事故が一度起こると、とてつもなく危ないものだということがはっきりした。それでも再稼働させるのは何のためか。
「原発がなければ電力が不足し、電力がなければ日本の経済活動が衰退し、産業の空洞化が進む」。私はこれらの言葉を信じない。だまされてはならない。新内閣には原発に頼らない安全なエネルギーで国造りをしてもらいたい。

<安原の感想> なぜ社説は「脱原発」を明言しないのか
毎日新聞(9月4日付)の全国世論調査結果を紹介する。「原発に依存しないエネルギー政策を打ち出した菅前内閣の方針を、新内閣は引き継ぐべきだと思うか」という問いに対し、回答は次の通り。
*引き継ぐべきだ=64%(全体)、60%(男性)、68%(女性)
*引き継ぐ必要はない=31%(全体)、37%(男性)、25%(女性)
この調査結果から見る限り、脱原発派が過半数を占めている。望ましい健全な意見と評価したい。

ここで念のため指摘しておきたいことがある。世論調査の問いの「原発に依存しない・・・」は「脱原発」を意味している。これと「原発依存減」(毎日社説)、「原発減」(朝日社説)とは意味内容が違うという点である。脱原発は原発をゼロにすることであり、例えばドイツは2022年を目標に完全な脱原発を目指している。一方、「原発依存減」、「原発減」は、原発の数を減らすという意味にすぎない。つまり完全な脱原発とは異質である。
読売社説の「原発再稼働」は論外として、問題は毎日、朝日の両社説がなぜ脱原発に踏み切ることに躊躇(ちゅうちょ)しているのか、である。不可解というべきである。

一方、毎日新聞の投書は「新内閣には原発に頼らない安全なエネルギーで国造りをしてもらいたい」と述べている。ここでの「原発に頼らない」は、投書の趣旨からいえば、明らかに脱原発を意味している。新聞社説よりも投書者の認識の方が的確といえる。

▽ 消費税引き上げをどう捉えるか

消費税引き上げについて新聞社説はどう捉えているか。
日経社説=社会保障と税の一体改革でも消費税増税などの検討作業の先送りは許されない。民主党内には議論そのものを敬遠する空気が漂うが、首相は成長戦略と歳出削減、増税の論議を平行して進める強い指導力が求められる。
東京社説=首相は財務相当時から、2010年代半ばまでの消費税率引き上げに取り組んでおり、この布陣(新財務相や新国家戦略担当相などの人事)も復興増税や消費税増税を確実にするためのシフトなのだろう。(中略)増大する社会保障費や財政規律の確保のため、いずれ消費税増税が避けられないとしても、野放図な歳出構造を放置しては国民の理解は得られない。
毎日社説=財政や社会保障の抜本改革は、誰が政権の座にあろうが避けては通れないテーマである。「国民の耳に痛いこともいう」のが持論の野田首相には、覚悟をもって取り組むことを期待したい。
朝日社説=年金などの社会保障制度は、政権が交代してもくるくる変えられない。その財源の手当ても与野党共通の課題だ。だからこそ与野党が協力して一体改革に取り組んだ方がいい。

一方、東京新聞の読者「発言」欄の「ミラー」(9月3日付)に「首相は国民の声を聞いて」(商店主 群馬県安中市 76歳=氏名省略)が掲載されている。その趣旨は以下のとおり。
代表選の候補者5人を比較すれば、無難な野田氏を選んだといえる。財務相を経験した野田氏だが、国民としては増税だけは避けてもらいたい。それ以前の問題として国会議員や公務員数の削減、報酬・給与の削減こそ先決問題だと思う。
一般庶民が何を考えているか、どうしてもらいたいかに耳を傾けられるか。これができなければ、短命に終わることは間違いないだろう。

<安原の感想> 民(たみ)の声 ― 「増税だけは避けてもらいたい」
「民の声」すなわち「増税だけはノー」に政治が背を向けたら何が起こるか。その答えは「新内閣は短命に終わることは間違いない」である。民の声はこのように率直で単純明快である。新内閣の面々にとっては「内閣発足早々、縁起(えんぎ)でもない」とご不満だろうが、民の声を軽視しない方が身のためであろう。

新聞社説は今や消費税上げを意味する増税論が常識になっているらしい。日経と東京は「消費税増税」と明記しているが、毎日は「国民の耳に痛いこともいう」、朝日社説も「その財源の手当ても与野党共通の課題」という表現にとどめている。しかし毎日、朝日ともに消費税増税を意味していることは明らかである。

このように主要紙が事実上こぞって消費税賛成になびいているからといって、野田内閣は「消費税上げの環境が整いつつある」などと安心しない方が賢明である。なぜなら社説の主張は多くの場合少数意見だからだ。必ずしも「民の声」の代弁とはいえない。
政官財の代弁者であることもしばしばである。「3.11」前まで原発推進派としての役割を担ってきたことは今では常識となっている。社内でも少数派に属する。第一線の現役記者で社説を読んで参考にしたいと考える者は皆無に近い。かつて10年近く論説室に籍を置いていた私(安原)の体験からもそう言える。
野田内閣が泥まみれの「ドジョウ内閣」をあえて目指すのであれば、以上のことを見抜く眼力と実践が不可欠である。本物のドジョウに笑われないように精進を重ねることを祈りたい。

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