「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。あと10年で日本はどこまで幸せをとりもどせるのか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。
「自殺する種子」が食を支配する
大規模近代化農業に未来はない

安原和雄
 「自殺する種子」とはあまり聞き慣れないが、どういう種子かお分かりだろうか。世にも恐ろしい物語といえば、いささか夏の夜の怪談めくが、現実にそういう種子を武器に使って食の世界を支配しようという企みが進行しつつある。「食の安全」が危うくなってすでに久しいが、うっかりしていると、我が「いのち」がさらに危険にさらされるだけではない。いのちの源である「食」と「農」そのものが、その土台から掘り崩されるという到底容認できない現実に取り囲まれることにもなりかねない。
 さてどうするか。一口に言えば、いわゆる大規模近代化農業にもはや未来はないことを察知して脱出口を探索し、変革を進める以外に妙策はない。(09年7月3日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 ここで紹介する安田節子(注)著『自殺する種子 ― アグロバイオ企業が食を支配する』(平凡社新書、09年6月刊)はなかなか読み応えのある作品である。その目次は、つぎの通り。

はじめに ― なぜ種子が自殺するのか
第一章 穀物高値の時代がはじまった ― 変貌する世界の食システム
第二章 鳥インフルエンザは「近代化」がもたらした ― 近代化畜産と経済グローバリズム
第三章 種子で世界の食を支配する ― 遺伝子組み換え技術と巨大アグロバイオ企業
第四章 遺伝子特許戦争が激化する ― 世界企業のバイオテクノロジー戦略
第五章 日本の農業に何が起きているか ― 破綻しつつある近代化農業
第六章 食の未来を展望する ― 脱グローバリズム・脱石油の農業へ 

(注)安田節子さんは、1996年、市民団体「遺伝子組み換え食品はいらない」キャンペーンを立ち上げ、2000年まで事務局長。現在、食政策センター「ビジョン21」を主宰。日本有機農業研究会理事。著書に『消費者のための食品表示の読み方 ― 毎日何を食べているのか』、『遺伝子組み換え食品Q&A』(いずれも岩波ブックレット)、『食べてはいけない遺伝子組み換え食品』(徳間書店)など。

 目次一覧からも分かるように、世界的視野に立って食と農に関する最新の情報が盛り込まれている。全容は割愛して、いくつかの要点に絞って以下に紹介し、私(安原)のコメントを述べる。

▽「自殺種子」の特許技術が世界の食を支配する

 著作の「はじめに」で種子の自殺についてつぎのように書いている。

 種子は、生命を育み、生命を次世代に伝えていくという、生物のもっとも大切な、最も根源的な存在のはずである。その種子が自ら生命を絶ってしまう! これはいったいどういうことなのか。生物の生命にかかわる部分でいま、私たちの想像もつかない大変なことが進行している。
 アグロバイオ(農業関連バイオテクノロジー〔生命工学〕)企業が特許をかけるなどして着々と種子を囲い込み、企業の支配力を強めている。究極の種子支配技術として開発されたのが、自殺種子技術で、この技術を種に施せば、その種から育つ作物に結実する第二世代の種は自殺してしまうのである。次の季節に備えて種を取り置いても、その種は自殺してしまうから、農家は毎年種を買わざるを得なくなる。

この技術の特許を持つ巨大アグロバイオ企業が、世界の種子会社を根こそぎ買収し、今日では種子産業が彼ら一握りのものに寡占化されている。彼らは農家の種採りが企業の大きな損失になっていると考え、それを違法とするべく活動を進めている。

〈安原のコメント〉― 「いのちの源」の支配をたくらむ貪欲の群
本書によると、この自殺種子技術は、米国農務省と綿花種子最大手D&PL社(のちにモンサント社=米国の多国籍バイオ化学メーカー=が買収)が共同開発し、1998年米国特許を取得、さらにデュポン社(電子・情報から農業・食品までも含む米国の多国籍総合メーカー)も、翌年米国特許を取得している。

 著者は「種(生命体)に特許と聞いて、違和感を覚えませんか」と疑問を提起している。同感である。従来は生命体には特許権は認められていなかった。それがバイオテクノロジー(生命工学)の商業化、つまり利益を追求するビジネスとなってから、従来なら非常識とされた企みがまかり通るようになっている。その背後に世界の「食」と「農」を支配しようとする野望が秘められていることは間違いないだろう。
 「カネ」を貪欲に支配してきたマネー資本主義とそれを支えた新自由主義路線は破綻したが、今度は「いのちの源」の支配をたくらむ貪欲の群が動き始めているのだ。目が離せない新段階といえる。

▽豚インフルエンザの発生源は「高密度の養豚場」か

 まだ記憶に生々しいあの豚インフルエンザについてつぎのように書いている。

 2009年4月、メキシコで豚由来のインフルエンザウイルスが分離され、人から人に感染する新型インフルエンザと認定された。豚インフルエンザは本来、人には感染しにくいが、今回は感染しやすくなり、人から人への感染を起こしたのである。
 メキシコの各新聞は、発生源を、世界最大の養豚会社、米国スミスフィールドフード社が経営する高密度の養豚場だと伝えている。最初に発生したとみられているラグロリア村に同社子会社の養豚場があり、ここでは5万6000頭の雌豚から、年間9万頭の豚が生産(08年度)されている。

 この養豚場は、管理が不衛生だとして悪評が高く、住民やジャーナリストたちは、ウイルスがこの養豚場の豚で進化し、その後ウイルスを含む廃棄物(糞や死体)によって汚染された水やハエなどを介して人間に感染したと主張している。
 密飼いから起こるストレスで豚は病気になりやすく、そのため抗生物質など薬剤が日常的に投与され、その結果、抗生物質耐性菌の出現やウイルスの変異が引き起こされる。

〈安原のコメント〉― あの豚インフルエンザ騒動から学ぶこと
日本列島にも上陸したあの豚インフルエンザの背景に何があるのかについてほとんどのメディアは伝えていない。感染者が何人に増えたかという単純な報道に終始した。しかし著者によると、発生源は「世界最大の養豚会社が経営する高密度の養豚場」であり、しかも「その養豚場は管理が不衛生だとして悪評」と指摘している。そう断じていいかどうかはともかく、「高密度の養豚場」に容疑があることは否定できないのだろう。

 このことは日本にとっても決して他人事ではない。著者は「日本の家畜の6割が病気」というショッキングな事実を報告している。「疾病(尿毒症、敗血症、膿毒症、白血病など)や奇形が認められと、屠殺禁止、全部廃棄、内臓など一部廃棄となるが、その頭数は牛、豚ともに屠殺頭数の6割に達する。家畜の多くが病体だという現実はほとんど知られていない」というのだ。日本でも「高密度の生産現場に容疑あり」ということではないのか。これではいつ日本発の新型インフルエンザが発生するか、安心できない。
 著者のつぎの指摘に耳を傾けたい。
 「健康的な質のよいものを少し」という食べ方は、生活習慣病にならない健康を守る食べ方でもある。消費者の意識の変革とその選択が生産現場を変えていく― と。

▽究極のリサイクルシステムの中の近代養鶏 

 本書は日本農業が衰退しつつある現状を多様な側面から描き出している。その典型例が究極のリサイクルシステムの中の近代養鶏である。つぎのように指摘している。

 近代化農業は農薬、化学肥料、飼料、機械、燃料、種子など必要な資材すべてを外部から購入しなければならない。そういう近代化農業の典型が養鶏で、何十万羽という単位の大規模ケージ(鶏舎)飼いが一般的である。
 日本の場合、鶏卵の自給率は95%、鶏肉は69%だが、飼料はほとんど米国からの輸入で、これを勘案すると、自給率は鶏卵9%、鶏肉6%に落ちる。
 現在、米国では致死率の高い新たな鶏白血病ウイルスが急速に広がり、すでに複数の養鶏企業が廃業に追い込まれている。日本にも種鶏の輸入から広がる懸念がある。鳥インフルエンザも世界各地で大混乱を引き起こしている。こうした出来事は反自然の工業的生産に対する自然の逆襲のように思える。

 近代養鶏は、レンダリング(注)という究極のリサイクルシステムを生み出した工業化農業の最たるものである。これ以上の効率化はできないと思われるほどだが、さらにイスラエルでは遺伝子組み換え技術を駆使して、羽のない肉用鶏を作り出した。羽をむしる工程が省けるわけだが、肌むき出しの鶏の写真を見たとき、慄然とした。
 倫理の歯止めを持たないまま、科学技術の商業的利用が進んでいく現状に懸念を覚えざるを得ない。
(注)レンダリング(rendering=廃肉処理)とは、肉以外の食用にならない頭、足、がら、羽毛、さらに病死家畜などをレンダリング工場で煮溶かすなどの処理を加え、それをまた家畜の餌として与える。膨大な肉食の普及とその効率化に伴って、レンダリングは今では不可欠の役割を担っている。

〈安原のコメント〉― 倫理なき工業化農業の行方
 ここで見逃せない著者の指摘は、つぎの2点である。
・反自然の工業的生産に対する自然の逆襲
・倫理の歯止めを持たないまま、科学技術の商業的利用が進んでいく現状に懸念

 工業がいのちを削る産業だとすれば、一方、農業はいのちを育てる産業である。だから工業と農業とは本質的に異質の産業である。ところが今、急速に農業の工業化が進行しつつある。いいかえれば農業自体がいのちを削る産業に急速に変化しつつある。だからこそ農業が自然の逆襲に見舞われ、いのちを育てるという倫理の歯止めが外れてきた。これでは肝心のいのちをだれが守り、育てるのか。工業化農業の堕落というほかないだろう。その堕落とともにいのち軽視の進行に無感覚になって、倫理なき経済社会が広がっていく。世は乱れるほかない。

▽加工食品と巨大なフードマイレージ、増大する食品添加物

 現在、加工食品、冷凍食品、外食食材の原料はほとんどが輸入で、そのため日本は世界一巨大なフードマイレージ(注1)の国となっている。農林水産省の01年の試算では総量で9002億800万トン・キロメートルで、世界で群を抜いて大きく、国民1人当たりでも1位である。世界中からかき集めたさまざまな原料が、多数の中間業者を経て流通し、トレーサビリティ(注2)も困難で、監視も行き届かない。これは昨今の数々の食品汚染事件の大きな背景である。

 加工食品の増大は、食品添加物の多様・増大と軌を一にする。戦後に始まった食品添加物の使用はうなぎのぼりに増大し、現在日本では1人当たり年間約24キログラムも使用されている。添加物の指定数も、約1500品目(化学合成の指定添加物は339品目)もある。
 添加物の摂取は味覚障害、皮膚炎、子どもでは発育の遅れ、胎児への影響さらにイライラの原因でもある。
(注1)フードマイレージは「食料の輸送距離」のことで、食料輸送が環境に与える負荷の大きさを表す指標として使われる。海外の農場や漁場から消費者の食卓まで食料を運ぶ距離に食料の重量を掛け合わせて算出する。
(注2)トレーサビリティとは、英語の「トレース」(Trace:足跡をたどる)と「アビリティ」(Ability:できること)の合成語で、「追跡可能性」の意。

〈安原のコメント〉― 自然環境も健康も守れなくなった農業
自然環境に依存する農業は本来、その営みによって自然環境を守り、いのちの源を提供することによって人間一人ひとりの健康を支えるのがその役割である。しかしこの農業の社会的貢献度(自然環境や健康への貢献度)は極度に低下してきた。
 自然環境に対する負の貢献度は、加工食品の原料を海外からの輸入に依存しているため、フードマイレージが不名誉にも世界一という事実に表れている。自然環境を汚染・破壊しながら、「食」の見かけの多様な豊かさを誇っても、決して自慢できる話ではない。
 一方、加工食品の増大に伴う食品添加物の多用は健康を蝕む要因となっている。こういう農業 ― 加工食品の増大に対し、その未来は期待できるのかと問いかけないわけにはゆかない。

▽自給国家をこそ、日本は目指すべきだ

 農林水産省と現代経済学が主張する日本農業生き残りのシナリオは、「大規模近代化農業こそ」と宣伝カーのようにやかましく聞こえるが、本書はそれに正面から異議を唱えている。つまり「大規模近代化農業に未来はない」という立場である。つぎのように主張している。

*オイルピークと近代化農業の行き詰まり
・米国の大規模企業型農場にとっては、なによりも収量増加が最優先であり、そのため大量の水を使う大規模モノカルチャー(単一作物の栽培)となっている。しかしいまや農業生産に使用できる水資源は減少し、地力は痩せ、遺伝子組み換え作物に対する国際的な逆風にも直面し、米国型近代農業は永続不可能な農業になりつつある。
・そもそも農業には、工業のような大量生産、規格化、効率化はなじまない。工業製品とは違う自然の理(ことわり)が中心にある生命産業である。大規模モノカルチャーは、気象変動が激しくなった昨今、その影響をもろに受けている。
・近代化農業は大型機械、施設栽培、農薬、化学肥料のどれも石油によって成り立っている。人類がオイルピーク(注)を迎えた今、近代化農業の先行きがあやしくなってきた。さらにグローバリゼーションによって拡大してきた食料貿易にも大きな影響を与えている。オイルピークの影響を一番受けるのは、近代化農業と国際フードシステムである。
(注)オイルピークとは、世界の石油生産量が頭打ちになって、減少に向かう事態を指している。世界の1人あたりの石油生産量は1979年にピークを迎え、それ以降減少を続けているという説もある。

*日本の風土に合った農業を
・自給国家をこそ、日本は目指すべきである。幸いにも主食の米は自給を保っている。先祖が営々と築いてくれた田んぼは日本の貴重な資源であり、これを徹底して守るべきである。輸入米の流入を許せば、日本の国土から水田風景が失われてしまう。
・南北に長く、山川が入り組み、高低差がある日本は、大規模単一生産には不利、不向きで、むしろ多品目生産ができる条件に恵まれている。多品目生産のメリットは、気象変動に強く、また価格暴落などのリスク分散もできる。
・農地集積のネックとされる日本田畑の分散も、水害などのリスク分散を考えた祖先の知恵である。平坦で広大な農地を有する大陸型の輸出国農業のものまねではなく、自国の風土に合った農業をこそ、食料生産基盤として維持・保護すべきではないか。

〈安原のコメント〉― 東洋思想の「身土不二」を生かしてこそ
著者の指摘に大筋では賛成である。
 私は農家の生まれで、小学生時代(昭和20年夏の敗戦時は小学5年生)は農業の手伝いが暮らしの中心であった。毎年の梅雨時の田植えには裸足で水田に入って手伝った。当時はわが家で牛を飼っていたので、その牛を農業用水のため池の土手へ連れて行って草を食わせるのが日課でもあった。夏には沢山の蛍が、近くの田んぼを縫って流れる水の澄んだ小川で舞い踊り、小川にはフナやドジョウが泳いでいた。

こういう牧歌的な風景が一変したのは、戦後間もなく撒布され始めた農薬のせいである。やがて小川は三面コンクリートで固められ、澄んだ水は汚水に変わった。蛍も小魚も姿を消した。さらに減反時代を迎えて田んぼに雑草が生い茂る。
 あれから半世紀以上の時を経て、いま近代化農業の行き詰まりに直面している。もちろん工夫努力を重ねて農業再生に取り組んでいる農家も少なくないことは承知している。ただ海外食料と石油に依存する農業(食品加工業なども含む)が生き残ることはむずかしい。

 どうするか。著者も指摘しているように「脱グローバリズム・脱石油の農業へ」の転換を模索する以外に妙手は発見しにくい。その際、考えてみるべきことは、東洋思想の「身土不二」(しんどふに=自分の体と生まれた土地とは一体という意。だから四季に従って土地の生産物の旬のモノを食べること)をどう生かすかである。これは最近強調される「地産地消、旬産旬消」(土地の食べ物で旬のモノを大切にすること)の実践でもある。長い目で見れば、それこそが著者の唱える「自給国家」への道となるのではないか。


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仏教を生かす日本の変革構想
人生の四苦をどこまで癒せるか

安原和雄
私は先日、「仏教を生かす日本変革構想 ― 〈四苦〉緩和への必要条件」と題して講話する機会があった。仏教経済思想の視点に立って日本の政治、経済、社会をどう変革すべきかを述べたもので、変革構想の主な柱は、(1)平和憲法と仏教経済思想、(2)簡素な持続型社会をめざして、(3)非暴力(=平和)の世界を求めて ― である。
 これらの変革構想が多くの人々の努力で実現すれば、「この世に生まれてきてよかったなあー」といえるだけの現世をつくることはできる。だから現状の変革はどうしても必要だが、釈尊が説いた「人生の四苦=生老病死」を変革によってどこまで癒すことができるか、そこが一人ひとりに遺された切実なテーマであることも指摘した。(09年6月28日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 私の講話は、東京・小金井市の高齢者の集い、「クリスタル」(森田萬之助会長)で行った。「クリスタル」は同市公民館主催の「シルバー大学」講座受講者の有志が「親睦と学習・意見交換を通じて自らを高め相互のコミュニケーションを深め合うこと」を目的に1996年に発足した。この学習会は今回の私の講話で230回を数える。

 講話の内容は以下の柱からなっている。
▽仏教経済学の特質 ― 八つの柱と菩薩の精神
▽日本の変革構想(1)― 平和憲法と仏教経済思想
*石橋湛山が憲法9条の平和思想を絶賛
*21世紀版「奴隷解放宣言」が必要
▽日本の変革構想(2)― 簡素な持続型社会をめざして
*経済成長主義よ、さようなら
*病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革
▽日本の変革構想(3)― 非暴力(=平和)の世界を求めて
*自衛隊を非武装の「地球救援隊」(仮称)へ全面改組すること
*地球救援隊構想の概要 ― 非武装・「人道ヘリ」の大量保有を
▽変革プランの実現は人生の「四苦」を癒せるか ?
*「この世に生まれてきてよかったなあー」・・・

▽仏教経済学の特質 ― 八つの柱と菩薩の精神

 まず仏教経済学の特質は以下の諸点である。
・一般の大学経済学部で教えられている現代経済学(新自由主義経済論など)への批判から出発している。
・仏教経済学は信仰に基づくものではなく、真理の追究であり、その実践である。
釈尊(仏教の開祖)は実在の人物であり、神ではない。キリスト教、イスラム教などが絶対神を想定して崇めるのとは本質的に異なる。仏教経済学は仏教思想を応用する実践学で、社会科学の新しい分野を切り開く思想である。
 例えば仏教の説く「縁起論=空観」、すなわち(イ)諸行無常(万物流転=すべてのものは変化し、移り変わること)と(ロ)諸法無我(相互依存=宇宙をはじめ、地球、自然、人間、政治、経済、社会さらに様々な事物などすべては独自に存在しているのではなく、相互依存関係のもとでのみ存在していること)は、信仰ではなく、客観的な真理である。
・既存の現代経済学と違って、教科書が完成しているわけではない。ここでは私(安原)が構想する「仏教経済学・政策論」(骨子)を提示したい。

 仏教経済学の八つの柱(キーワード)はつぎの通り。
一)いのち尊重(人間は自然の一員)
二)非暴力(平和)
三)知足(欲望の自制、「これで十分」)
四)共生(いのちの相互依存)
五)簡素(美、節約、非暴力)
六)利他(慈悲、自利利他円満)
七)持続性(持続可能な「発展」)
八)多様性(多様な自然、人間、社会、文化と個性)

 ここでは八つ(漢数字の八は末広がりを意味しているので、あえて八を使っている)の柱のうちの「いのち尊重」と「利他」に限って若干の説明を加える。
・いのち尊重=現代経済学(いのち尊重という観念はない)とは異質であり、ここが仏教経済学の最大の特色でもある。人間と自然(動植物など)のいのちは平等対等であり、人間だけが特別上位にあるとは考えない。人間は自然の一員ととらえる。
・利他=「世のため人のため」の行動が回り回って自分のためにもなるという思想で、仏教経済学はこの利他主義的人間像を前提にして組み立てる。一方、現代経済学は私利、すなわち自分さえよければいいという利己主義的人間像を想定している。
・仏教経済学のいのち尊重と利他は、非暴力、知足、共生、簡素、持続性、多様性につながっていく。一方、現代経済学はいのち無視、私利重視であり、非暴力ではなく暴力(戦争など多様な暴力)、知足ではなく貪欲、共生ではなく孤立、簡素ではなく浪費、持続性ではなく非持続性、多様性ではなく画一性をそれぞれ特質とする。
(くわしい説明は08年10月13日付のブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載の「仏教経済学と八つのキーワード」=これは「仏教経済学・原論」に相当=を参照)

 仏教思想にも深い理解を示したイギリスの歴史家、アーノルド・J・トインビー(1889〜1975年)は、「21世紀に要請される人間像は、大乗仏教で説く菩薩の精神を持った人間」、つまり「慈悲と利他」を実践する人間だと言っている。

▽日本の変革構想(1)― 平和憲法と仏教経済思想

 21世紀は、地球環境保全を優先する地球環境時代であり、持続型社会、すなわち持続的発展を基調とする社会を創ること、同時に非暴力(=平和)の世界を構築していくこと ― が緊急の課題となっている。
 仏教経済学の視点では、上記の課題を達成するための変革構想は、現下の「貪欲社会」、すなわち「暴力社会」から「非暴力・知足・共生社会」、すなわち「平和社会」へと転換していくこと。そのためには平和憲法に盛り込まれている以下の6項目の理念を生かす変革プランが求められる。

憲法前文の平和的共存権
9条「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」
13条「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」
18条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」
25条「生存権、国の生存権保障義務」
27条「労働の権利・義務、労働条件の基準、児童酷使の禁止」

*石橋湛山が憲法9条の平和思想を絶賛

 特に前文の平和的共存権と9条「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」の平和理念は仏教の平和思想の反映ともいえる。
 1946年3月幣原内閣が「マッカーサー草案」(2月)をもとに練り直し、公表した「憲法改正案要綱」の9条について日蓮宗の仏教者、石橋湛山(注)は、当時つぎのように述べて、9条を絶賛している。

 独立国たるいかなる国もいまだかつて夢想したこともない大胆至極の決定だ。この一条を読んで、痛快きわまりなく感じた。我が国民が「全力を挙げてこの高邁なる目的を達成せんことを誓う」ならもはや日本は敗戦国ではない、栄誉に輝く世界平和の一等国に転ずる。これに勝った痛快事があろうか ― と。
(注)石橋湛山=1884〜1973年。日蓮宗の仏教哲学と欧米の自由主義思想を背骨とするジャーナリストの大先達。1956年12月首相の座につくが、わずか2か月間で、病のため首相の座を去った「悲劇の宰相」として知られる。

 もう一つ、「9条の会」(憲法9条の改悪に反対する自主的な会で、その数は全国ですでに7000を超えている)に多くのお坊さんたちが参加している事実も指摘しておきたい。

*21世紀版「奴隷解放宣言」が必要

 上記の6項目すべてに説明を加えるのは割愛して、ここでは18条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」について説明しておきたい。
 18条全文は「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。また犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」

 本条は「奴隷制または自由意思によらない苦役」を禁止するアメリカ合衆国憲法修正条項をモデルとして制定されたとされる。
 ここでの「奴隷的拘束」(英文ではbondage)とは、「自由な人格を否定する程度に人間の身体的自由を束縛すること」、「苦役」とは、「強制労働のように苦痛を伴う労役」を意味している。
 特に憲法で「奴隷的拘束」という文言を明記したこの条項をどれだけの人が自覚して認識しているだろうか。
 新自由主義経済路線の下では長時間労働、サービス残業で酷使され、一方新自由主義破綻に伴う大不況とともに、大量の解雇者が続出する現状では奴隷同然、人権無視の扱われ方というほかないだろう。サラリーマンの場合、企業内で自由な批判的意見を表明することは歓迎されない現実がある。この18条の含意を玩味して尊重し、「奴隷的拘束からの自由」の精神を身につけなければ、何よりもわが身を守ることができないだろう。日本の現状では21世紀版「奴隷解放宣言」が必要ともいえるのではないか。

▽日本の変革構想(2)― 簡素な持続型社会をめざして

 現代経済学は経済成長主義に今なお執着している。この「成長」には、石油などエネルギーの浪費が必要であり、アメリカのブッシュ前政権が2003年イラク攻撃に踏み込んだ狙いの一つは石油確保であった。
 日本の自民・公明政権が自衛隊によるインド洋での米国艦船などへの給油に執着しているのも、また東アフリカのソマリヤ沖海上へ海賊対策の名の下に海上自衛隊を派兵しているのも、中東石油(日本の石油消費量の9割を依存)の確保につながっている。戦争を肯定し、石油をがぶ飲みするような「貪欲社会」に別れを告げるのが持続型社会とシンプルエコノミー(簡素な経済)をめざす変革プランである。

 具体的な変革プランの主要な柱はつぎの通り。
イ)経済成長主義よ、さようなら
ロ)循環型社会づくり
ハ)自然エネルギー活用型へ
ニ)クルマ社会の構造変革
ホ)ワークシェアリングの導入
ヘ)「食と農」の再生と食料自給率の向上
ト)病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革
 ここではイ)経済成長主義よ、さようなら、ト)病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革 ― に絞って以下に概略紹介する。

*経済成長主義よ、さようなら

 経済成長とは経済の量的拡大を意味しているにすぎない。1960年代までのモノ不足の時代には経済成長も必要であった。また経済成長が必要な発展途上国は多い。しかしわが国のGDP(国内総生産)はすでに約500兆円で、米国(約1000兆円)に次ぐ世界第2の巨大な規模で、成熟経済の域に達している。
 人間でいえば、熟年で、これ以上体重を増やす必要はない。むしろスリムになった方が健康によいし、なによりも人格、智慧を磨くべき熟年である。
 21世紀の日本経済に必要なのは、量的拡大を目指す経済成長主義ではなく、環境も含む生活の質的充実である。
 経済成長を万能と考える時代はとっくに終わり、脱「成長主義」の時代に入っている。にもかかわらず現実には政治家も企業経営者もサラリーマンたちも、その多くが今なお経済成長主義にこだわっている。有り体に言えば、「経済成長=豊かさ」という錯覚の奴隷となっている。

 米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書二〇〇八〜〇九』はつぎのように指摘している。
 時代遅れの教義は「成長が経済の主目標でなくてはならない」ということである。経済成長は自然資本(森林、大気、地下水、淡水、水産資源など自然資源のこと。人工資本=工場、機械、金融などの対概念として使われる)に対する明らかな脅威であるにもかかわらず、依然として基本的な現実的命題である。それは急増する人口と消費主導型の経済が、成長を不可欠なものと考えさせてきたからである。しかし成長(経済の拡大)は必ずしも発展(経済の改善)と一致しない。一九〇〇年から二〇〇〇年までに一人当たりの世界総生産はほぼ五倍に拡大したが、それは人類史上最悪の環境劣化を引き起こし、(中略)大量の貧困を伴った ― と。

*病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革

 政府主導の医療改革は国が負担する医療費の削減が目的で、その結果、患者負担が増大する一方、病人はむしろ増えている。病人を減らし、健康人を増やすためには従来の薬・検査漬けの治療型医療から食事・暮らしのあり方の改善を含む予防型医療への転換が急務である。

 そこで以下の医療・教育・社会改革案を提起したい。
・70歳以上の高齢者の医療費は、原則無料とする。高齢者の前・後期の差別を廃止する。
・健保本人の自己負担は1〜2割に引き下げるが、糖尿病など生活習慣病は、自己責任の原則に立って自己負担を5割に引き上げる。この引き上げには最低2年間の猶予期間をおく。
〈データ〉糖尿病患者は07年現在2210万人。20歳以上では3人に1人の割合となっている。なお遺伝子型の糖尿病に苦しむ人々には自己責任の原則を適用すべきではないので適切な配慮が必要である。

・一年間に一度も医者にかからなかった者には、健康奨励賞として医療保険料の一部返還請求の権利を認める制度を新設する。「健康に努力した者が報われる社会」づくりの一つの柱として位置づける。
・「いのちと食と健康」の密接な相互関連について小学校時代から教育する。
食事の前に「いただきます」を唱えるのがかつては普通だったが、今は少ない。「いただきます」は「動植物のいのちをいただいて、自分のいのちをつないでいる」ことへの感謝の心を表す言葉である。こういう意識が小学生の頃から社会に浸透すれば、いのちを尊重する風潮が広がり、犯罪も減るのではないか。

▽日本の変革構想(3)― 非暴力(=平和)の世界を求めて

 第一回地球サミット(1992年)で採択した「リオ宣言」は「戦争は持続可能な発展を破壊する。平和、発展、環境保全は相互依存的であり、切り離すことはできない」とうたっている。これは地球環境保全のためには平和こそ不可欠であり、軍事力は有害であるという認識を示しているものと読みとることができる。 
このリオ宣言の精神を生かして非暴力(=平和)の世界をつくるうえで日本が貢献するためには何が求められるか。

*自衛隊を非武装の「地球救援隊」(仮称)へ全面改組すること

 私は自衛隊を非武装の「地球救援隊」へ全面改組することを提案したい。
 日米安保=軍事同盟は、憲法の「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」という平和理念と矛盾しているだけではない。日米安保体制を「平和の砦」とみるのは錯覚であり、むしろ平和=非暴力に反する軍事力を盾にした暴力装置というべきである。だから日米安保体制=軍事同盟は解体すべきであり、それこそが平和への道である。
 しかもいのち・自然を尊重し、多様ないのちの共生を希求する仏教思想から導き出される日本の政策選択が自衛隊の全面改組による非武装の「地球救援隊」創設である。このような地球救援隊の意義は何か。

 第一は今日の多様な非軍事的脅威に対応すること。
 脅威をいのち、自然、日常の暮らしへの脅威ととらえれば、主要な脅威は、地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威である。非軍事的脅威は地球温暖化、異常気象、大災害、疾病、貧困、社会的不公正・差別など多様で、これら非軍事的脅威は戦闘機やミサイルによっては防護できないことは指摘するまでもない。もちろん軍事力の直接行使は地球、自然、人命、暮らしへの破壊行為である。
 第二は巨大な浪費である軍事費を平和活用すること。
世界の軍事費は総計年間1兆ドル(約100兆円)超の巨額に上っており、限られた財政資金の配分としては不適切であり、巨大な浪費である。この軍事費のかなりの部分を非軍事的脅威への対策費として平和活用すれば、大きな効果が期待できる。

 以上から今日の地球環境時代には軍事力はもはや有効ではなく、むしろ世界に脅威を与えることによって「百害あって一利なし」である。武力に依存しない対応策、すなわち地球の生命共同体としてのいのちをいかに生かすかを時代が求めているというべきであり、そこから登場してくるのが非武装の地球救援隊構想である。

*地球救援隊構想の概要 ― 非武装・「人道ヘリ」の大量保有を

 地球救援隊構想の概要(理念、目標、達成手段)は次の諸点からなっている。
・地球のいのち・自然を守り、生かすために平和憲法9条の理念(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)を具体化する構想であること。
・地球救援隊の目的は軍事的脅威に対応するものではなく、非軍事的な脅威(大規模災害、感染症などの疾病、不衛生、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援さらに復興・再生をめざすこと。
・活動範囲は内外を問わず、地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な人道的救助・支援の一翼を担うこと。

・自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、教育、訓練などの根本的な質の改革を進めること。
 具体的には兵器類を廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品、建設資材などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠となる。それに備えて非武装の「人道ヘリコプター」を大量保有する。
 特に教育は重要で、利他精神の涵養、人権尊重に重点を置き、「いのち尊重と共生」を軸に据える新しい安全保障を誇りをもって担える人材を育成する。

▽変革プランの実現は人生の「四苦」を癒せるか ?

 釈尊は「人生は苦なり」と説いた。苦とは仏教では「四苦八苦」を指しているが、ここでは四苦〈=生(生まれること)、老、病、死〉について考える。
 念のため指摘すれば、「苦」を「苦しみ」、というよりも「思い通りにはならないこと」と理解する方が分かりやすい。生老病死にしても何一つ思い通りにはならない。例えば自分の意志でこの世に生を享けた者は誰一人存在しない。老病死にしても、拒否したいと思っても、いつの日かは人それぞれであるにしても、必ずわが身に迫ってくる。

問題は仏教経済思想による日本の変革構想が四苦の解決にどの程度貢献できるのかである。結論からいえば、変革構想がそのまま実現したとしても、四苦が全面的に解決できるという性質のものではない。いいかえれば四苦を癒すうえで必要条件ではあるが、決して十分条件にはなりえない。

 変革構想の実現は、私が提唱する仏教経済学の八つのキーワード(いのち尊重、非暴力、知足、共生、簡素、利他、持続性、多様性)の現世における実現を意味する。地球規模で混乱、破壊、殺戮が広がっている現状からみれば、いのち尊重、非暴力がそれなりに定着する未来社会ではそれぞれの人生は安穏、幸せに向けて質的な変化が生じるだろう。
 貪欲(あるいは強欲)な資本主義的市場経済や貪欲な生き方が、2008年秋の世界金融危機、世界大不況の発生による新自由主義路線(私利追求を第一とし、弱肉強食の競争を強要)の破綻を境にして知足、すなわち「足るを知る」経済、生き方に変化し、それが広がっていくことを時代は求めている。
 そういう社会では共生、簡素、持続性、多様性を尊重し、それを経済、日常の暮らしの中に生かしていくことも期待できる。貪欲な私利追求ではなく、利他、すなわち「世のため人のために」をモットーにして生きていく人、利他こそが結局は自分の幸せ、人生の充実感をもたらしてくれると思い直す人も増えてくる。

*「この世に生まれてきてよかったなあー」

こういう世の中になれば、「この世に生まれてきてよかったなあー」と感謝せずにはいられない人が増えることは間違いないだろう。こうして仏教経済学がめざす「現世での幸せ」に大きく歩み寄ることはできる。しかし四苦の生老病死のなかの老病死はどこまでも思い通りにはなりにくい。
それを承知の上でやはり仏教経済思想を生かす変革を進めなければならない。昨今の現世は地獄そのままの様相を呈しているからである。変革に精進を重ねるのが大乗仏教でいうところの利他の実践であり、衆生済度(しゅじょうさいど・人間に限らず、いのちあるもの一切の救済)への努力にほかならない。

 ここで明恵上人(みょうえしょうにん・1173〜1232年、鎌倉時代初期の名僧、京都市の栂尾で高山寺を再興)の臨命終(りんみょうじゅう)説法に触れておきたい。これは今の一瞬一瞬がわが命が終わるときだと思って真剣に生きなさい、という教えである。臨命終に精進を重ねていれば、死も平常心で迎えることができると説いた。


〈ご参考〉今回の仏教経済学講話「仏教を生かす日本変革構想」と昨(08)年10月13日付でブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載されている講話「仏教経済学と八つのキーワード」の下敷きになっているのが、以下の私(安原)の論文である。
*「二十一世紀と仏教経済学と(下)― 仏教を生かす日本変革構想」(駒澤大学仏教経済研究所編『仏教経済研究』第38号、09年5月刊)
*「二十一世紀と仏教経済学と(上)― いのち・非暴力・知足を軸に」(同『仏教経済研究』第37号、08年5月刊)


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21世紀の日本型社会主義とは
あの江田ビジョンから学ぶこと

安原和雄
 今から半世紀近くも昔の話だが、当時日本社会党書記長だった江田三郎氏が提唱した「社会主義の新しいビジョン」と題するいわゆる江田ビジョンが最近、時折話題に上っている。
その背景として、あの新自由主義路線破綻後の資本主義はどうあるべきか、さらには資本主義後の新しい体制として社会主義社会を展望できるのかどうかに関心が持たれつつあるという事情をあげることができる。これは21世紀の日本型社会主義のイメージを模索する新しい潮流ともいえるのではないか。今、あの江田ビジョンから学ぶことは何か。(09年6月19日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽再浮上してきた「江田ビジョン」

 毎日新聞の企画記事「権力の館を歩く― 御厨 貴・東大教授」(09年5月20日付)は「フル回転した江田人脈 東京五輪の年、政権獲得に思いはせ」という見出しで、江田三郎・日本社会党書記長(注)が1962年に唱えた江田ビジョンに言及している。
 江田ビジョンとは、.▲瓮螢の高い生活水準▲熟△療按譴靴深匆駟歉祗1儿颪竜腸饑民主主義て本の平和憲法 ― を掲げた望ましい日本型社会主義のビジョンを指している。
 そのくわしい内容は江田三郎・日本社会党書記長名で「社会主義の新しいビジョン」と題して、毎日新聞社刊『エコノミスト』誌(1962年10月9日号)に掲載された。全文は当時の『エコノミスト』誌の9頁にも及ぶかなりの長文である。

(注)江田三郎(えだ・さぶろう、1907〜77年)。東京商大(現一橋大学)卒、1950年参院議員に当選。1960年の浅沼稲次郎暗殺後、委員長代行に就任、テレビ討論では柔和な語り口が人気を呼んだ。江田ビジョンは1962年の社会党大会で左派から批判される。63年衆議院に転じ、77年社会党を去り、社会市民連合を結成した。江田五月参院議長は長男。

江田ビジョンの要点を以下に紹介しよう。

1 なぜ新しいビジョンが必要か

*心をゆさぶる社会主義を
 私たちの考えている社会主義について長洲一二教授(注)はつぎのように要約されている。「社会主義とは人間の可能性を未来に向かって開花させることだ。人間は歴史のなかで偉大な可能性をきずき上げてきた。(中略)人類史の成果はいま私たちの目の前に巨大な生産力として、(中略)存在する。こんにちの生産力は、本当に人間のために運営されるならば、やがて貧困を地球上から追放する可能性がある。(中略)飢えや抑圧や戦争を追っ払う可能性が、ようやく人間の未来に見えはじめた。社会主義はこの可能性を実現しようとするものだ。
 社会主義が資本主義を批判するのは、資本主義がこの可能性の開花をじゃまするからである。(中略)社会主義は不満分子の陰謀ではない。絶望者の反抗ではない。それは希望ゆえの革新であり、人間の可能性を信ずるゆえの創造である。その顔は未来に向かっている」(月刊社会党1962年9月号)。

 教授の指摘はあまりに当然のことかもしれない。しかし日本の社会主義者の間では、実はこの当たり前のことが忘れられている。党員をふるい立たせ、全国民の心をゆりうごかすような社会主義のビジョンがなければ、いくら組織の拡大・強化を唱えてみても、それだけではみのり少ないものになるだろう。
 (安原注)長洲i一二(ながす・かずじ、1919〜1999年)。当時横浜国立大学教授で、構造改革派の理論家として知られていた。後に神奈川県知事選に出馬し、当選、1975年から20年間5期在任した。

*後進国型のソ連社会主義
 日本で社会主義といえば、人々はすぐにいままでのソ連や中国型の社会を連想する。(中略)少なくともそこでは資本主義にもとづく人間による人間の搾取は一掃されている。だからといって、ソ連や中国の社会主義の建設方式がそのまま私たちのお手本になるわけではない。革命前のロシアや中国は後進国であり、革命方式も、社会主義建設のやり方も、後進国独特の性格をもたざるをえなかった。スターリンの独裁体制と政治的テロルの支配という、社会主義にあってはならないものまで生みだされた。
 そこで私たちとしては、ソ連、中国型とは異なった近代社会における社会主義のイメージを明確にすることが必要になってくる。
 わが党こそ社会主義のビジョンをあきらかにする責任をおわねばならない。

2 未来をきり開く社会主義 ― 人類の到達点と四つの成果

 人類は、何千年の歴史のなかで多くの血を流し、汗を流して貴重な成果をきずきあげてきた。その基礎の上に人間のもつ可能性を最大限に開花させてゆくこと、これが社会主義である。人類がこれまで到達した主な成果として、米国の平均した生活水準の高さ、ソ連の徹底した社会保障、英国の議会制民主主義、日本の平和憲法の四つをあげてみた。

*高いアメリカの生活水準
 第一にアメリカの現在の生活水準は、こんにちこの地上で人間の経験しているもっとも高い生活水準である。乗用車の普及率が二・五人に一台でほとんどの勤労者が自家用車をもっているという社会は、まだアメリカ以外にはない。
 しかしアメリカではその生産力水準にそぐわない社会的不均衡がめだっている。社会保障のいちじるしい立ちおくれ、膨大な富が国防に浪費されるために生ずる学校や病院のいちじるしい不足と都市環境の悪化、教育の機会不均等、スラム街、黒人に対する人種差別、数えあげれば多くの欠陥を指摘できる。
 しかしアメリカの勤労者の賃金水準の高さが、こんにち人類の到達した偉大な成果であることに変わりはない。今日、世界各国の国民がアメリカの生活水準を到達すべき目標と感じていることも間違いない。

*ソ連の徹底した社会保障
 第二にソ連の徹底した社会保障をあげる。
 この国では失業しても病気になっても、年をとって働けなくなっても心配が要らない。国民のすべてが最低の生活を保障されている。
 生産手段の公有とか、搾取の一掃といった社会主義の理論はわからなくても、これはすべての国民がそのまま受けいれうることである。
 かりに民主主義の面でおくれがあるにしても、この地球上で最初に社会主義をうちたて、失業や病気や老年についての社会的不安を一掃したというソ連国民の偉大な事業は否定できない。

*英国の議会制民主主義
 第三に人類の到達した大きな成果として、イギリスの議会制民主主義を考えてみた。
 イギリスの労働者は、獲得した民主主義と福祉国家的水準に一応満足して、さらに社会主義へ向かって前進するという気迫に欠けているといわれる。
 しかしそれにしても、イギリスの国民がつくりあげた議会制民主主義は立派である。普通選挙権、言論・集会・結社の自由、そして国民のすべてが国の政治生活に参加し、自分の欲する政党を政権につけ、欲しない政党を政権から追い払う自由、これはいかなる場合にも否定できない人間の基本的な権利だと思う。

*日本の平和憲法
 人類の到達した偉大な成果のひとつとして日本の「平和憲法」をあげうることは、日本民族の誇りである。
 第二次大戦中に私たちが体験したものは、実に筆舌につくしがたいものであった。国民の多くは家を焼かれ、家族を失った。なによりも痛ましいものは、人類最初の経験である原子爆弾による非人道的な破壊であった。これらの苦しみと悲しみのなかからほとばしり出た人々の願い、二度と戦争はしたくないという国民の悲願、それが憲法九条にほかならない。
 今日、人類は核兵器を廃止し、全面軍縮を実現して平和に生きるか、それとも人類史のおわりを記録しなければならないか、二つに一つしかありえない。このとき、わが憲法第九条は、まさに千金のおもみをもって燦然と輝いている。現在、世界に大きく高まりつつある核実験禁止と全面軍縮の行動は、言葉を換えていえば、憲法九条の規定を世界各国の憲法に書き込ませる運動にほかならない。

3 新しいビジョンをつくろう

*日本にふさわしい社会主義を
 人類のきずきあげた偉大な成果を考えながら、日本の体質にあった、日本にふさわしい社会主義のビジョンをつくりあげてゆきたい。これが私の念願である。
 人類が今日までになしとげた達成に比べると、日本の現実は、憲法第九条を別とすれば、あまりにも貧弱である。この九条でさえ、アメリカの沖縄占領や自衛隊の拡充、核兵器の持ち込みなどの動きによってふみにじられ、おびやかされている。
 たしかに日本の工業生産力は、世界一流のものになってきている。世界レベルの工場,そこに世界最新の機械がすえつけられている。しかし一歩工場の外に出ると、交通事故の不安におののきながら道を歩く。晴天がつづけば、水飢饉におちいり、大雨が降れば、水害に見舞われる。住宅条件はあまりにもひどい。過剰設備になやむ世界一流の大工場と、世界三流、四流の消費生活と貧弱な社会施設、だれが考えてもあまりに極端なアンバランスである。

*豊かな生活を保障する物質的条件
 しかしこの近代的な工業力は、それが合理的に管理され、利用されるなら、すべての日本国民にそうとう豊かな生活を保障する物質的条件となりうるであろう。これは戦前の軽工業中心の工業力ではとうてい期待できない条件であった。ソ連の社会主義のように、消費をきりつめて重工業を建設する必要は、いまの日本にはない。
 労働者の権利の保障も、すべての労働組合が弾圧されていった戦前と比べてはるかに前進したことは事実である。国民は普通選挙権と言論・集会・結社の自由をもち、自分の支持する政党を政権につける権利をもっている。戦前の治安維持法のもとでの選挙とは大変な違いだといわねばならない。
 私たちが日本国民のおかれている現実のなかに、深い苦しみと悩みをみるだけでなく、そこに未来への希望をもみいだすのは、こうした違いのなかに、社会主義へ向かって進むとどめがたい時代の流れ、歴史の歯車の動きを感ずるからである。

▽〈安原の感想〉(1)― 江田ビジョンにかかわった一人として

 この江田論文が『エコノミスト』誌に掲載されるに至った舞台裏をまず紹介したい。当時の江田社会党書記長に原稿を依頼したのは、実は私(安原)である。私は1960(昭和35)年5月地方支局から東京本社社会部に配属になり、警察担当のかたわら「60年安保」すなわち日米安保反対闘争のデモ取材などに右往左往する駆け出し記者であった。
 2年後の62年春、エコノミスト編集部に移って間もない頃、江田ビジョンなるものが浮上してきた。「高い米国の生活水準」などの四本柱は分かっていたが、それ以上のくわしい内容は分からない。

 編集会議で「江田本人に書いて貰おうではないか」という話になって、依頼役を私が引き受け、国会の議員控え室へ出掛けた。江田氏は碁を打ちながら、「ああ、分かった」といって、あっさり承諾してもらえたのにはいささか拍子抜けした。
というのは当時エコノミスト編集部には社会党左派系に食い込んでいたベテラン記者(すでに故人)がいて、その記者が「江田は書かないよ」と私に忠告(?)してくれていたからである。社会党右派系の江田氏の論文を『エコノミスト』誌に載せるのは好ましくないという思惑があったのかも知れない。

 それはさておき、後で分かったことだが、江田氏本人のほか、長洲一二教授、竹中一雄国民経済研究協会主任研究員(後に同協会会長などを歴任)ら当時の構造改革派の面々が月に一回程度集まっては江田ビジョンを練っていた。『エコノミスト』誌掲載の論文「江田ビジョン」を代理執筆したのは、その一人の竹中氏である。

 江田論文が公表されてから、約一か月後の1962年11月開かれた社会党の党大会で「江田ビジョン」が左派からの猛反撃に遭い、書記長を辞任するという展開となった。そのニュースは一面のトップ記事で大きく報道された。駆け出し記者として江田ビジョンにかかわった私にとっては忘れがたい歴史の一断面である。

▽〈安原の感想〉(2) ― 「日本にふさわしい社会主義」と憲法九条、二五条

さて私自身として江田ビジョンを今の時点でどう評価するかに触れないわけにはゆかない。原稿を依頼してから半世紀近い時を経た今、改めて全文を再読してみて、つぎの二点は高く評価したいと考える。
第一は「日本にふさわしい社会主義」という視点である。
第二は日本国平和憲法の九条を高く評価している点である。

 江田ビジョンがソ連型社会主義全体をモデルとして評価しなかったのは先見の明があったといえる。その後、ソ連型社会主義は崩壊し、すでにこの世に存在しないからである。他国の資本主義にせよ、社会主義にせよ、それをそのまま模倣したがるという日本的悪癖は返上したい。米国型の新自由主義路線に追随して、世界中が経済破綻と世界大不況に陥ったのが何よりの教訓である。社会主義も同様である。

 では第一の「日本にふさわしい社会主義」とはどういう社会主義なのか。日本の社会主義を展望するとすれば、それは「日本にふさわしい社会主義」、つまり日本型社会主義以外にはあり得ない。問題は日本型社会主義を今の時点で展望することが可能かどうか、もし可能であれば、具体的にどういうイメージなのか、である。社会主義の決め手として資本(生産手段)の私的所有を社会的所有(あるいは共同所有)へと転換すること、ととらえるのは、従来型の発想で、あまり魅力的とはいえない。土地や一部の産業には適用できても、それ以上ではない。

 私の目下の関心は、従来型の社会主義論よりも、むしろ第二の憲法九条を高く評価している点にある。結論からいえば、先駆的であり、「世界の宝」ともいうべき九条の理念(戦争放棄、非武装、交戦権の否認)を単なる理念にとどめないで、具体化していく必要がある。ソ連、それに今の中国もそうだが、巨大な軍事力を抱え込んだ社会主義国家は壮大な自己矛盾というほかない。社会主義の名に値しない。
 資本主義社会とは、資本の私的利益を最大限尊重する社会であり、一方、社会主義社会とは、社会的利益、すなわち人権、自由、民主主義の尊重さらに地球と自然を土台とする国民生活の質的充実を最大限尊重する社会である。いいかえれば、市民、民衆が主役として責任を持ってつくっていく社会体制である。21世紀の新しい日本型社会主義をそういうイメージでとらえれば、これからの社会主義社会は、憲法九条のほかにもう一つ、二五条(生存権、国の生存権保障義務)を軸に据えた日本型を構想できないだろうか。

 なぜ二五条も軸になるのか。江田ビジョンが描く「米国の高い生活水準」はもはやモデルにはなり得ない。なぜなら米国は所得格差の顕著な拡大によって貧困層が異常に肥大化し、先進国一番の貧困大国に転落しているからである。日本も今では先進国でビリ(米国)から二番目の貧困大国である。日米の経済大国がそろって貧困大国という不名誉な地位に墜(お)ちている。だから国民生活の質的充実を実現していくためには、生存権をどう実のあるものにしていくかが大きな課題となってきた。

▽〈安原の感想〉(3)― 日米安保破棄と九条、二五条の追加条項

 もう一つ、日本型社会主義の前提として日米安保体制の破棄が不可欠である。日米安保は日米間の軍事同盟(安保条約三条=自衛力の維持発展、五条=共同防衛、六条=基地の許与=などで規定)と経済同盟(安保条約二条=日米間の経済的協力の促進=で規定)という二つの同盟の土台となっている。
 しかも見逃せないのは、軍事同盟が憲法九条(非武装など)の理念を空洞化させ、一方、経済同盟が憲法二五条(国民の生存権の保障)の理念を骨抜きにしている点である。従って九条と二五条の理念を名実ともによみがえらせるためには、安保破棄が不可欠である。

日米安保破棄とともに憲法九条と二五条の理念を一段と強化する必要がある。具体案として「持続的発展」(第一回地球サミットが採択した「リオ宣言」の「持続可能な発展=Sustainable Development」)を軸とする憲法追加条項を提案したい。
 これは『新・世界環境保全戦略』(世界自然保護基金などが1991年、国連主催の第一回地球サミットに先立って発表した提言)が「政府は憲法その他、国政の基本となる文書において持続可能な社会の規範を明記すべきである」と憲法条項追加論を提起しているのにヒントを得た。具体案(私案)は次の通り。

*九条に「国及び国民は、世界の平和と持続的発展のために、世界の核を含む大量破壊兵器の廃絶と通常軍事力の顕著な削減または撤廃に向けて努力する」を追加する。
*二五条に「国、企業、各種団体及び国民は生産、流通、消費及び廃棄のすべての経済及び生活の分野において、地球の自然環境と共生できる範囲内で持続的発展に努める」を新たに盛り込む。

 以上のような九条と二五条を軸とする社会主義をイメージするのは、従来の社会主義論からみれば、おそらく異端である。しかし異端を理由に排するのは視野狭窄症である。いうまでもなく社会主義論 ― 社会主義への道と社会主義のイメージと ― は、国ごとに多様であっていいはずであり、また多様でなければ現実性をもたないだろう。

〈ご参考〉:「安原和雄の仏教経済塾」に09年6月8日付で掲載されているつぎの記事は日本型社会主義への模索の現状を報告している。
《「変革のアソシエ」が発足 資本主義体制の克服を目指して》


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批判浴びる日本の「中期目標」
環境不熱心国・日本の汚名返上を

安原和雄
麻生首相が発表した日本の温室効果ガス排出削減に関する中期目標に批判が広がっている。欧州諸国が基準年(1990年)比で20%以上を削減させる中期目標を掲げているのに対し、日本は同年比8%削減といかにも低いからである。経済界の消極的な姿勢の反映であり、このままでは「環境不熱心国・日本」という汚名を着せられることにもなりかねない。そういう汚名をどう返上していくか、そのカギは温室効果ガス排出を大幅に削減し、低炭素社会づくりを急ぐことである。それは新たな機会創出という変革への挑戦でもある。(09年6月13日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽中期目標(90年比)― 日本8%減、ヨーロッパ諸国20%以上減

 麻生首相が6月10日、発表した二酸化炭素(CO2)など温室効果ガスの排出削減の中期目標は以下の通りである。
・2020年までに、日本全体の排出量を05年に比べて15%削減する。
・上記の15%削減は従来基準の1990年比では8%減にとどまる。

 15%削減と8%減という数字の開きはどこから生じるのか。1997年に採択された京都議定書では日本は「08〜12年に90年比で6%減」を約束していた。ところが実際には6%減どころか、約9%の増加となっている。このため基準年を、増えた後の05年に移動させれば、削減幅は見かけでは大きくなる。こういう操作で削減幅を大きく見せているが、他の先進国はどうなっているのか。日本も含めて各国の中期目標(削減幅)、基準年は以下の通り。

日本=15%(基準年2005年)、8%(基準年90年)
米国=14%(同05年)、4%(同90年)
欧州連合(EU)・基準年はいずれもみな90年=20%または30%、ドイツ=40%、イギリス=34%、スウェーデン=30%、フランス=20%、ノルウェー=30%

 以上から分かるように日本の基準年は米国式の05年に同調しており、基準年を90年にとれば日米ともに削減幅は一ケタにとどまり、一方、欧州諸国は20%を超えている。

▽日本政府の中期目標をメディアはどう論じたか

 大手メディアは中期目標についてどう論じたか。まず大手紙社説(6月11日付)の見出しを紹介する。
*日本経済新聞=国際交渉を主導できる中期目標なのか
*朝日新聞=15%削減 低炭素革命の起爆剤に
*毎日新聞=中期削減目標 意志と理念が伝わらぬ
*東京新聞=数値より大切なもの 温暖化対策の中期目標
*読売新聞=CO2中期目標 多難な国際交渉が待っている

一読した印象では日本経済新聞社説が批判・疑問点を指摘しており、一方、読売新聞社説は麻生太郎首相の立場と経済界の考え方を反映させようと努める社説となっていて、対照的である。そこで2つの社説(要点)を以下に紹介する。

〈日本経済新聞〉
 麻生太郎首相が決断した2020年までに温暖化ガスの排出を05年比で15%削減するという中期目標でまず問われるのは論拠である。
 中期目標は排出削減を比較する基準年をこれまで議論されてきた1990年から05年に移し、数値を米欧とそろえてみせている。だが、05年の排出量は欧州が90年比で減っているのに対し日本は約8%増。増加年を基準にして見かけの数値を高め、問題の本質をそらしていないか。

 温暖化防止は将来の子孫に残すべき地球のありようを問うている。科学が予見している地球規模の気候変動と被害を抑える強い意志があるか。それが問題の本質である。目先の利益にとらわれず、将来をにらんで経済や社会を変える。その強い意志を示すのが政治の役割である。
 中期目標からこの強い意志はほとんど見えてこない。欧州連合(EU)は2100年に産業革命以来の温度上昇を2度以下に抑えるとの理念のもと、20年に90年比20%減の目標を掲げている。EUと理念を共有できず、溝は深まったのではないか。

 国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は気温上昇を2〜3度に抑えるには先進国が20年までに排出量を90年比で25〜40%削減する必要があると指摘している。次期枠組み交渉はこれを前提に議論を進めているが、日本の中期目標はそれとの整合性を問われるだろう。

〈読売新聞〉
 大幅な削減には厳しい排出規制が必要だ。それは経済の停滞や国民の負担増につながる。14%の削減でさえ、国内総生産(GDP)を押し下げ、失業者が11万〜19万人増えるという試算がある。
 削減率について、首相が「大きいほど良いという精神論を繰り返すのは、国民に対して無責任だ」と指摘したのは的を射ている。

 忘れてはならないのは、公平性の視点である。首相は、「日本だけが不利になることがないように、国際交渉に全力で取り組む」と語った。
 先進国間で省エネの進展に応じて削減率を割り当てる手法の導入などを訴えていく必要がある。

 大量排出国の中国、インドの参加が、ポスト京都の絶対条件である。しかし、一方で、両国の要求を丸のみして、非現実的な削減率を負うことは避けねばならない。
 日本の国益を維持しつつ、中国、インドを同じ枠組みに引き入れる。極めて難しい交渉となるだろうが、それができなければ、日本が不利な立場に追いやられた京都議定書の繰り返しとなる。

〈安原の感想〉― 目先の小利にこだわる国益論を排す

 焦点は、「気温上昇を産業革命前に比べて2度に抑えるには先進国が20年までに排出量を90年比で25〜40%削減する必要がある」(IPCC報告)という点である。「次期枠組み交渉はこれを前提に議論を進めているが、日本の中期目標はそれとの整合性を問われる」という日経の指摘はもっともである。「90年比8%の削減」という日本案ではとても整合性があるとは考えにくい。

 一方、読売の社説は、このIPCC報告の主張に反論することに主眼があると読める。「大幅な削減には厳しい排出規制が必要だ。それは経済の停滞や国民の負担増につながる」という指摘一つをみても明らかである。
 読売は「日本の国益を維持しつつ、・・・」とも述べている。この国益とは何を意味しているのか。地球温暖化が一段と進行すれば、干ばつ、洪水、海面上昇、食料生産低下など計り知れない、しかも後戻りできない被害、災厄が予想されている。それを回避するためにも、CO2排出を大幅に削減し、低炭素社会づくりを急がねばならない。それは新たな機会創出という変革への挑戦でもある。こういう時代の要請に背を向けて、目先の小利にこだわるような国益論を振りかざしているときではない。

▽国際環境NGOの声明(1)― 麻生首相はヒーローになれない

 国際環境NGOの発言・主張は一般紙ではあまり報道されないので、ここで紹介する。

 その一つ、WWF(世界自然保護基金)ジャパンは6月10日、地球温暖化対策に向けた政府の中期目標に対する声明を発表し、《「05年比15%削減」=「90年比8%削減」ではヒーローになれない!》と指摘している。その要旨は以下の通り。

WWFジャパンは他のNGOと共同で、新聞の意見広告などを通じ、麻生首相に温暖化対策の「ヒーロー」になることを訴えてきた。しかし、この削減目標「90年比8%削減」では、国際市民社会のヒーローには、到底なることはできない。理由は、3つある。

その1)温暖化の影響を最小限に食い止めるためには不十分
 京都議定書の目標は2012年までに90年比「6%削減」であり、2020年までに「8%削減」では、京都議定書以降に明らかになってきた温暖化問題の緊急性に応えているとは言えない。

 京都議定書の「6%削減」については、「森林吸収源による3.8%削減」、「京都メカニズムによる1.6%削減」を計上できるので、実質的には「0.6%削減」でしかなく、そこからすれば進歩という主張も見受けられる。しかし、それは極めて内向きな理屈である。国際公約はあくまで「6%削減」である。それをどのように達成するのかは国内の議論でしかない。議定書採択から12年経った今、「6%削減は厳しい」という言い訳は通用しない。

その2)国際社会の一員としての日本が果たすべき責任を果たしていない
 この目標では、国際社会の一員としての責任を十分に果たしていない。他の先進国の目標に関する意欲にも悪影響を与え、途上国の削減行動への参加意欲も削ぐ可能性がある。そうなれば、日本政府が度々主張している「全ての国々が参加する枠組み」の達成すら危うくなる。

その3)日本を低炭素社会に変革するためには不十分
 この目標では、あくまで現状の延長線上にしか2020年を見ていない。経済危機、人口減少など、日本が転換期に来ていることは確かである。いずれにせよ、日本は今の経済社会構造を変革しなければならない。現状の延長線上におかれた目標では、変革は起きるはずがない。

 日本が誇りにしてきたエネルギー効率も、90年以降は改善が滞っているのは統計から見て明らかである。また国際的にも、70年代以降に確保した優位性は失われつつある。今一度、刺激がなければ、いずれ追い抜かれてしまう。

WWFジャパン 自然保護室気候変動プログラム・グループリーダー 山岸尚之のコメント
 「この中期目標に関するこれまでの議論は、そもそも、何のためにこの目標が必要なのか、という部分が抜けてしまっていた。温暖化対策の費用が高く、いかに難しいかという点は語られたが、温暖化によって、どのような被害が起きるのか、それをどうやって最小限に抑えるのかという観点が希薄だった。特に、日本のように食糧などを海外に頼っている率が高い国にとっては、日本だけでなく、世界全体に対する温暖化の影響をもっと重視すべきだった。京都議定書のホスト国が、次の枠組みへ向けての合意形成にリーダーシップを発揮できないことが残念である」

▽国際環境NGOの声明(2)― 先進国としての責任放棄

もう一つ、FOEJapan(Friends of the Earth Japan)は6月10 日、日本の中期目標の発表に関して《「90 年比ー8%」では先進国としての責任放棄》と題して以下の声明(要旨)を発表した。

 この日本の発表は、京都議定書の次の国際枠組み合意に向けた交渉に大きく水を差すものであり、気候変動の深刻な影響を受ける途上国の人々の怒りを呼ぶものである。日本は、科学の警告に基づき、先進国としての責任を果たす中期目標として、1990 年比25%以上の削減を約束すべきである。
 国際社会は、人類の生存を脅かす危険な温暖化の影響を回避することを目的として次期枠組み交渉を進めている。IPCC の第4次報告書の警告に基づき、先進国には2020年に少なくとも1990 年比25〜40%の削減が求められることは、交渉のベースとなる認識として確認されている。歴史的排出責任および技術力・経済力のある先進国が、率先した削減を約束することが、新興国、途上国を含む新たな枠組み合意のためには不可欠である。

 しかし今回の中期目標検討作業は、この国際社会の常識を恣意的に無視し、経済界の思惑どおりの低い目標が着地点となるように進められた。シナリオ作成は、20 世紀型の産業構造からの変革なしの前提条件のもとに行われたため、選択肢はいずれも低い目標に留まった。京都議定書の次の目標であるにもかかわらず、これより増加、横ばいの選択肢が含まれていたことは、極めて恥ずべきものであり、本来であれば、30%、40%も選択肢に含めるべきであった。
 さらに、産業構造変革なしの前提条件から家庭の負担が強調され、温暖化影響への対策コストや長期的な投資回収を含めずに経済へのマイナス影響が大きいと結論づけられていることで、国民を誤った判断に誘導するものであった。

 今回の中期目標の検討は、国内における省エネ等の対策による化石燃料由来の排出削減等に限り、海外における排出枠購入や森林吸収を含まないとしている。その国内対策分が8%ではあまりに低すぎる。欧州がエネルギー消費に占める再生可能エネルギーの割合を2020 年までに20%に拡大することを明言しているように、国内における削減ポテンシャルへの取組みを最優先し、海外でのオフセット(埋め合わせ)を念頭に置くべきではない。国内対策の先延ばしは低炭素経済へのシフトにおいて、日本が他国に比べ大きく遅れをとることを意味し、日本の将来を担う世代にツケを負わせることになる。

 日本政府は、12 月のコペンハーゲン会合に向けて、中期目標を再検討し、大幅に引き上げるべきである。先進国としての責任を放棄したに等しい「90 年比8%削減」では、日本は「世界の笑いもの」どころか「無責任な嫌われもの」になってしまうであろう。

〈安原の感想〉― 国際感覚からの批判

 2つの声明からは国際環境NGOの面々が切歯扼腕(せっしやくわん)している姿が浮かび上がってくる。日本は「世界の笑いもの」どころか「無責任な嫌われもの」になってしまう ― という表現はその一例にすぎない。NGOのメンバーは、ドイツ・ボンで6月12日まで2週間にわたって開かれた「国連・気候変動に関する会議」の周辺に詰めかけており、会議の雰囲気を身近に感じとることができる位置にいる。
 欧州連合(EU)は、温室効果ガスの削減に積極的であり、特にドイツは「先進国の中の環境先進国」という折紙つきだから、日本とはまるで雰囲気が違うだろう。そこで感じとる「国際感覚」からみれば、日本の中期目標は「我慢できない」、「恥ずかしい」という批判的気分になるのも無理はない。
 しかし勝負はこれからである。環境問題では無視に近い姿勢だったブッシュ前米大統領とは違って、オバマ現米大統領はグリーン・ニューディールを掲げて積極的である。このままでは環境問題で日本が先進国の中で最後尾をもたもたしているということにもなりかねない。そういう「環境不熱心国・日本」という汚名を甘受するわけにはいかない。


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「変革のアソシエ」が発足
資本主義体制の克服を目指して

安原和雄
 「変革のアソシエ」という名の新しい運動体が発足した。掲げるスローガンは「資本主義に対抗し、新しい地平を開く批判的・創造的知性の舫(もやい)を!」、「違いを結ぶ批判と創造の新機軸を構築しよう!」である。このスローガンからも分かるように「変革のアソシエ」は資本主義体制そのものに批判の目を向け、克服していくことを目指している。この資本主義体制の克服を視野に収めている点では従来の反戦反核・平和運動、憲法改悪反対運動、労働運動などとは性格を異にしているところに新鮮さがある。(09年6月8日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽「もう一つの世界への希望を育てること」

 「変革のアソシエ」発足総会が09年6月6日、東京・千代田区神田駿河台の総評会館で開かれ、正式に発足した。共同代表に伊藤誠・東京大学名誉教授、本山美彦・京都大学名誉教授、足立眞理子・お茶の水女子大学准教授ら数名のほか、事務局長に大野和興・農業ジャーナリストがそれぞれ就任した。
 総会では「変革アソシエ」の「呼びかけ文」(後述)と「会則」が採択された。「会則」は会の目的について「現代資本主義がもたらしている格差の拡大、生き甲斐の喪失、生活と労働の破壊、自然と人間の荒廃を深く憂慮し、それに対抗する批判的知性の広範な結集と展開をはかり、もう一つの世界への希望を育てること」と明記している。
 また同会のあり方として「この目的を実現するために会員の平等な自発性を尊重しつつ、会員相互の知的な交流、啓発、連帯のために適切な諸活動を企画し、実行する協働組織として設立される」とうたっている。

 なお同会の事務所所在地は以下の通り。
〒164−0001 東京都中野区中野2−23−1 ニューグリーンビル3F309号
TEL:03(5342)1395 FAX:03(6382)6538

▽「生きていてよかったなあー、という世の中にしたい」

 総会に続いて発足記念講演とシンポジウムが行われた。会場には200人近い現代版「志士」たちが集まった。講演は本山美彦氏による「世界恐慌と危機の真相 ― わたしたちはどこへ向かうのか」で、つぎの柱からなっている。
はじめに ― GM破綻=金融資本主義終焉の象徴
1 現代資本主義の最終局面=証券化 ― 時間搾取システムとその変形
2 金融寡頭制 ― 資本主義精神の消滅
3 ソマリア ― システムからこぼれ落ちた民衆の惨状
4 辺野古新基地協定 ― 結集される沖縄民衆の怒り
おわりに ― 作ろう新しい世界を

 内容の詳しい紹介は割愛して、ここでは「おわりに ― 作ろう新しい世界を」(全文)に限って以下に書き留めておく。

 グローバリズムには、「普遍性強制」が決定的にまといついていた。それは西洋中心史観、最近では米国普遍性史観として人々の心をとらえていた。しかしいまや私たちは、公然と、米国的普遍性を「似而非(えせ)普遍性」、米国的グローバリズムを「虚偽の共同性」として拒否することができるようになった。

 いまでは真の変革を生み出す人々の真の連合を生み出すことができる。「結」(ゆい)の共同作業による「舫」(もやい)の場を作り出すことができる。
 人類は、「アソシエーション社会」の大道を紆余曲折を経ながらも確実に歩んできた。自然と人間、人間と人間、そうした折り合いが世界的に人類史的に実現されようとしている。私たちは、「資本の商品化」がもたらす金融の暴走を十分に経験してきた。いまや労働を人間の元に取り返すことが緊要である。国家と市場は残存させざるを得ないだろう。しかしそれには資本主義を廃棄させるアソシエの介在がなければならない。

 人間には人間の行があり、動物には動物の行がある。植物にも、水土にも行がある。そうした「天地人三才の徳」を会得して、私たちは人間の行として「変革のアソシエ」を推し進めよう。
 生きていてよかったなあー、という世の中にしたい。

 末尾の「生きていてよかったなあー、という世の中にしたい」は配布された講演原稿にはなかったが、その場で講演者がつけ加えたものである。

▽「呼びかけ文」― 資本主義は内部から自己崩壊

 発足総会で採択された「変革のアソシエ」の呼びかけ文(大要)を以下に紹介する。その主見出しは「違いを結ぶ、批判と創造の新機軸を構築しましょう」である。

 社会の至る所でほころびが目立つようになった。一握りの金融資本家が、公の富を私物化し、むさぼり食っている。強欲資本主義の先頭を進むアメリカでは、社会の全資産の半分が、人口比にして100万分の1でしかない、一握りの金満家の手にある。彼らが世界を破壊してしまった。日本も例外ではない。日本の所得格差を基準とする貧困度もOECD諸国の中ではビリから3番目で、アメリカはメキシコに次いでビリから2番目だ。
 社会から倫理性・責任感・安全性・生き甲斐が急速に失われてきた。その大きな要因は、想像を絶する経済格差の存在である。アメリカ型金融資本主義は、現代資本主義の究極の形で、このシステムこそが、私たちの生活と労働を破壊している。

サブプライム問題の深刻化に象徴されているように、金融恐慌の津波が世界を襲っている。資本主義は、内在的な不安定性を深刻なかたちで露呈し、あきらかに外的な力によってではなく、内部から自己崩壊現象を示しているのだ。いまや、ほんとうにスケールの大きな歴史の危機と転機とが共に訪れているのだ。

 それとともに孤独な個人に分断されてストレスを内部にため込みながら、苦しむ人々が増えている。日本では15分に一人が自殺に追い込まれている。なかでも女性へのしわ寄せはこれ以上放置できないほどの過酷なもので、民間企業で生涯働いても、自らの生活を支えるだけの賃金を得る女性は、ごくわずかの人々にすぎない。 
 現実に進行しているのは、私たちが共に生きていくことの絶望的な困難さであり、社会そのものの存立基盤の破壊なのだ。

 さらに地球温暖化、資源枯渇のおそれ、農村や山林の荒廃などから、人間の生存基盤となるべき自然環境破壊も深刻な問題になっている。いまや近代以降の資本主義市場経済の歴史的限界が人間と自然の深刻な荒廃・破壊に示されている。
 にもかかわらず日本ではこの忌まわしい時代に反抗する批判的知性の力が強くなっているとはいえない。新自由主義イデオロギーが猛威を振るったこの30年間で、資本主義体制に批判的に対峙する思想、文化、理論の戦列から多くの人々が離れた。新自由主義の重圧のもとでの労働運動、社会諸運動の内部分裂がそうした情況を生み出した。

 いま必要なことは、社会変革の新しい基軸を早急に構築することである。資本主義に反抗し、新しい地平を開く批判的・創造的知性の舫(もやい)を生み出すことである。違いを結ぶ批判と創造の星座を作り出すことが喫緊に重要なことである。
 世界ではアメリカ流の資源略奪型グローバリズムへの抵抗が強くなり、アメリカの軍事力で圧殺され続けてきた民族の尊厳回復を目指す運動が燃えさかっている。
 アメリカ帝国主義は急速に世界から孤立する様相を深めている。
 日本では戦前には脱亜入欧の近代国家形成がアジア人民の犠牲の上に遮二無二進められた。戦後では日米安保体制の下で、日本の保守層は対米従属を国是としてきた。いまその構造が行き詰まったのだ。私たちはいまこそ、政治的、経済的、文化的に脱アメリカの自治・生活スタイルを構築しなければならない。

 世界に吹き荒れるこうした抵抗の風を、私たちもしっかりと受け止め、もっと大きな風を起こすべく、謙虚な自己反省を忘れずに、批判的・創造的知性を結集すべきである。
 人間の尊厳を踏みにじる労働力商品化の深化に抵抗し、反安保、反改憲、沖縄の解放を目指す従来からの反資本主義運動をもっと大胆に展開すべきである。そうした反資本主義の文化的・知的対抗運動の根底のひとつに、被差別部落民、先住アイヌ民族、琉球民族、在日朝鮮民族・アジア人などの人々の困難な闘いも大切に据えよう。差別と分断は、権力システムから打ち出されたものだが、私たちの心の中にも、差別と分断に呼応する一面もあるのではないか。
 それぞれの違いを意識しつつも、連帯の可能性の絆でお互いが結ばれれば、そこには差別、分断、格差、貧困への強固な抵抗の地場が形成されるだろう。

 こうした可能性の絆、新しい基軸の拡充と構築という営為の上に、農漁村の崩壊・都市における貧困の累積、様々な格差、因習・慣行と無自覚による女性差別、等々を食い止める広範な人々のアソシエが形成されるのだ。
 現在は、危機の頂点である。それは、古代ギリシャの哲人、ヒポクラテスが喝破したクライシスである。究極の危機を迎えたとき、人間は劇的な回復力を発揮する。そうした極限状態がクライシスと呼ばれているものなのだ。
 資本主義そのものを克服し、新しい価値観に基づく新しい時代の創造を目指して、それぞれの生活空間・運動空間で苦闘している現場の知を尊重しつつ、広く世界の批判的知性との交流・協力も大切に、志を新たにさまざまな分野での課題や知的作業を重ねあい、歴史の危機を突破する希望を育みたい。
 こうした私たちの願いに、協力し結集してくださることを心からお願いする。

▽資本主義をどう克服していくのか

 以上の「呼びかけ文」から資本主義の批判と克服に関する指摘、分析の要点を再録すると、以下のようである。

*資本主義は内部崩壊
資本主義は、内在的な不安定性を深刻なかたちで露呈し、あきらかに外的な力によってではなく、内部から自己崩壊現象を示している。

*資本主義市場経済の歴史的限界
人間の生存基盤となるべき自然環境破壊も深刻な問題になっている。いまや近代以降の資本主義市場経済の歴史的限界が人間と自然の深刻な荒廃・破壊に示されている。

*アメリカ帝国主義は世界から孤立
世界ではアメリカ流の資源略奪型グローバリズムへの抵抗が強くなり、アメリカの軍事力で圧殺され続けてきた民族の尊厳回復を目指す運動が燃えさかっている。
アメリカ帝国主義は急速に世界から孤立する様相を深めている。

*日米安保体制の構造的行き詰まり
日米安保体制の下で、日本の保守層は対米従属を国是としてきた。いまその構造が行き詰まった。私たちはいまこそ、政治的、経済的、文化的に脱アメリカの自治・生活スタイルを構築しなければならない。

*資本主義そのものを克服
 資本主義そのものを克服し、新しい価値観に基づく新しい時代の創造を目指して、(中略)志を新たにさまざまな分野での課題や知的作業を重ねあい、歴史の危機を突破する希望を育みたい。

〈安原の感想〉脱「資本主義」と脱「日米安保」と

 記念講演で本山美彦氏は「いまや労働を人間の元に取り返すことが緊要である。国家と市場は残存させざるを得ないだろう。しかしそれには資本主義を廃棄させるアソシエの介在がなければならない」と述べた。
 資本主義廃棄後にも国家と市場は残るという指摘である。それはそうだろう。問題はそういう新しい社会は、旧ソ連型とは異質の社会主義社会なのか、それとも新しいタイプの共同体社会なのか。後者らしいが、その具体的イメージははっきりしないし、今後の課題である。

 一方、上述の「呼びかけ文」の分析、指摘から再録した諸点は傾聴に値する。特に資本主義の内部崩壊、歴史的限界という客観的事実と、日米安保体制の構造的行き詰まりという現実とは日本では表裏一体の関係にあるととらえたい。いいかえれば日米安保体制下の日本資本主義が内部崩壊、歴史的限界に直面しているということではないか。しかもこの新しい歴史的事態はアメリカ帝国主義の世界での孤立によって加速されており、変革の可能性は現実味を帯びてきている。
 日本の目指すべき戦略目標は脱「資本主義」と脱「日米安保」であり、この二つは車の両輪にたとえることができる。
 しかしそれを担うべき主体の弱さは否定できない。呼びかけ文が「日本ではこの忌まわしい時代に反抗する批判的知性の力が強くなっているとはいえない」と指摘している通りであろう。反転攻勢にどう出るか。今後の注目点である。


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GM「国有化」が示唆するもの
脱クルマ社会への模索と実践を

安原和雄
米国最大手の自動車メーカー・GMの経営破綻に伴う「国有化」は大きな波紋を広げている。この経営破綻と国有化が示唆するものは何か。多くの関心は経営再建はどのようにして可能なのかに向けられているが、肝心なことを見逃しているとはいえないか。それはクルマ社会そのものの終わり、いいかえればガソリン大量消費の車依存型時代の終わりの始まりではないか、という視点である。温暖化防止の観点からも、移動手段としてのクルマはもはや時代遅れの感が深い。脱クルマ社会への模索と実践を時代は求めている。(09年6月4日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽大手紙社説はGM国有化をどう論じたか

 大手5紙の社説(6月2日付)が今回のGM(ゼネラル・モーターズ)国有化についてどう論じたかを紹介する。各紙社説の見出しはつぎの通り。

朝日新聞=米GM破綻 クルマ文明変革の機会に 
東京新聞=GM国有化 『緑の社会』に残れるか
毎日新聞=GM国有化 再生への道のりは長い
読売新聞=GM破綻 “売れる車”が再建のカギだ
日本経済新聞=自己変革怠った巨大企業GMの破綻

 私(安原)は朝日の「クルマ文明変革の機会に」と東京の「『緑の社会』に残れるか」という見出しに興味を感じ、どのように新しい視点を打ち出しているのかと期待を抱いて読んだ。しかし両紙ともに見出しのテーマをくわしく論じているわけではない。

 朝日はつぎのように言及しているにすぎない。
 燃費のいい小型車やハイブリッド車、電気自動車などの新製品をいかに開発し、効率的につくるか。その鍵を握るのは、経営陣と働く人々の意識変革だ。日本や欧州の車づくりから謙虚に学び、新しいグリーンな歴史を作るのだという気概を持てるか。突破口はそこにある ― と。
 モデルになるのは「日本や欧州の車づくり」ということらしい。

 一方、東京新聞は以下のように書いている。
 ガソリン大量消費のスタイルは既に終わった。GMはオバマ大統領の「緑の新政策」に沿った脱化石燃料・低炭素化への転換を求められている。
 自動車産業は米国が目指す緑の新政策の重要な一角を占める。新政策は化石燃料の大量消費から脱却し、風力などの新エネルギーに移行する大胆な社会変革だ。GMは大型の多目的スポーツ車などを主力に据えたため、ガソリンが値上がりすると消費者に敬遠され途端に売れ行きが失速した。
 (中略)保護ではなく、自力で環境技術などの魅力を際立たせ、堂々と競争してもらいたい ― と。

ここでも車社会そのもののあり方よりも環境技術の枠内で論じているにすぎない。
他の3紙も、魅力ある売れる車をどうつくるか、GMの経営再建をどう図っていくかに力点を置いて論じている。米国自動車3大メーカーのうちクライスラーに続いて最大手GMの経営破綻、そして国有化の直後だから、そこに焦点を合わせるのはやむを得ないとしても、果たしてそれだけで十分なのだろうか。端的に指摘すれば、車社会そのものが果たして生き残れるのか、と問い直すときではないのか。いいかえれば車依存型社会は、もはや時代遅れではないのか、である。
これに関連して若干気になるのは、毎日社説が「最近は若い人を中心に自動車への興味が薄れている」と指摘している点である。若者の意識変化は何を意味しているのかをもっと論じてほしかった。重要なことは、若者たちは車に乗ること自体をかっこ悪いと感じ始めているのかどうか、である。

▽未来予測 ― 高速道路で自家用車は走っているか

 ここでクルマ社会に関するつぎのような未来予測を紹介したい。
問い:30年後の未来の日本の高速道路で果たして自家用車は走っているだろうか?

答え:なにしろSFの未来予測に属する部分もあるので、正直にいって正解は分からない。しかし可能性を考えてみると、マイカーは恐らく走っていないのではないだろうか。環境破壊とエネルギー浪費型の元凶である自家用車がなお走っているようでは、人間が生存していく基本条件である環境が相当破壊されていることになる。マイカーは健在だが、肝心の人間様が息も絶え絶えという状態では落語のネタにはなっても、様にならない。高速道路を走る車としては高速バスが主体になっている可能性が高い。そのバスもソーラーカーになっているのではないか。

 また日曜日など休祭日には人間がマラソンで汗を流しているかもしれない。あるいは「歩け歩け大会」を緑の豊かな山間地の高速道路のあちこちで盛大に催しているだろう。瀬戸大橋が開通する前日、多くの人々が「翌日からはもはや歩けない」というわけで、一斉に歩いて渡った事実がある。 
 本来は、人間の歩行が禁止されている高速道路だからこそ、そこで歩いたり、走ったりすることは、なによりのレジャーといえるかもしれない。それだけではなく、人間性回復への試みであり、さらに環境保全にとどまらず、破壊された環境を再生させ、新たに創造していく営為であるということになるだろう。

 以上は、実は私(安原)が2000年末に書いた講義用教科書『知足の経済学・再論(上)』(足利工業大学研究誌『東洋文化』第20号、2001年1月刊)の一節で、その時点から30年後といえば、2030年の未来予測である。書いてから8年経た今日、GMの「国有化」、つまり車が売れなくなったという事実を目の前にして、この未来予測は一段と現実味を帯びてきたように感じている。

▽クルマ社会がもたらす悲劇と災厄と非効率

 クルマ社会がどれだけの悲劇と災厄と非効率をもたらしているか、ここで改めて整理しておきたい。

*大量の人命破壊が毎年続く
 交通事故による死亡者はかつて多いときには年間1万7000人に上っていた。最近では減ってはいるが、それでも年間約6000人である。負傷者は毎年100万人を超えている。あの阪神・淡路大震災の犠牲者は6000人を超えた。阪神・淡路大震災級の犠牲者が毎年出ていると考えれば、理解しやすいかも知れない。大震災の死亡者一覧表は、当時新聞等に掲載されたが、交通事故死亡者一覧表も年末にでもまとめてみてはどうか。
 私自身、信号待ちしていた交差点で2、3メートル先で発生した交通事故を目撃した体験がある。被害者は軽傷で済んだが、それ以来事故は他人事ではないと痛感している。

*温暖化など環境の汚染・破壊を進める元凶
 クルマ社会は工場・事業場、航空機などと並んで二酸化炭素(CO2)の排出によって温暖化を進める元凶の一つである。
 しかも温暖化に伴うマイナスの影響は多様であることが見逃せない。温暖化に伴う災害の増加(台風の大型化と頻発、激しい雷雨、豪雨など異常気象による被害の増大)、食料危機(異常気象や病虫害の増加による食料生産の低下と飢饉の増大)、生態系への悪影響(森林の生育・再生能力への悪影響など)、健康への悪影響(熱波の影響による死亡者の急増など)、海面上昇による沿岸地域の水没など。

*自家用乗用車はエネルギー多消費型で非効率
 自家用乗用車(マイカー)は、エネルギー多消費型である。わが国の交通機関別のエネルギー消費比率をみると、ざっと次のようになっている。 
 [旅客輸送=鉄道1、バス2、自家用乗用車6]

 これは旅客輸送では1人を1鼠∩するのに鉄道1に対し、バス2、自家用乗用車6の比率でエネルギー消費を必要とすることを示している。つまり自家用車は鉄道よりも6倍のエネルギーを浪費し、それだけエネルギー消費効率が悪いといえよう。
 もう一つ自家用車は輸送効率が低いこともあげなければならない。つまり道路の占有空間(1人当たり)が大き過ぎる。これは多数の乗客を収容できるバスと比較すれば、明瞭であろう。

 このことはわが国の総合的な交通のあり方として自家用車というエネルギー消費効率、輸送効率ともに悪い車への依存度が高くなった結果、エネルギーを浪費し、CO2を発生させ、環境を破壊していく構造が定着してきたことを意味している。
 もはや今後とも車社会を推進していくことは大いなる疑問といわなければならない。GM破綻と国有化はこのことを示すシグナルと受け止める必要があるのではないか。どう対応したらいいだろうか。

▽マイカー中心から公共交通活性化へ ― 富山市のケース

 対応策の中心テーマは車への依存度をどう低下させていくかである。変革の方向は、今日のマイカー中心社会から鉄道、路面電車、バス、自転車、徒歩への重点的移行が不可欠である。脱クルマ社会づくりへの模索と実践を開始するときである。
ここでは08年7月政府から環境モデル都市に認定された富山市(全国89都市の応募のうち富山市を含む6都市が認定)のケースを紹介しよう。

 富山市のホームページによると、森雅志・富山市長は「環境モデル都市の覚悟」と題する「市長ほっとエッセイ」でつぎのように書いている。

 「環境モデル都市」認定は、モデル都市の二酸化炭素の排出量が少なくて成績が良いというのではなく、将来に向けて二酸化炭素の削減が期待できる都市であるという意味の認定である。
 富山市の現状は決してほめられるような状況にはなく、様々な取り組みによって二酸化炭素排出量の削減を目指さなければならない。特に極端に車に依存している暮らし方を改めることが効果的である。そのために、公共交通を活性化させながらコンパクトなまちづくりを進めることを計画の中心に位置づけたことが評価された。モデル都市に認定されたことによって(中略)しっかりと結果を出すという責任を負う。自動車一辺倒の暮らし方から公共交通も使う暮らし方へ転換し、車の相乗りやエコドライブを心がけるなどの変化が求められている ― と。

市長のエッセイの眼目は2つある。一つは二酸化炭素排出量の削減のためには、極端に車に依存している暮らし方を改めること、もう一つは公共交通を活性化させること、である。

 具体策としては以下のような地域に密着した安心・快適で環境にやさしい公共交通「富山ライトレール」(全国初のLRT=次世代型路面電車)の開業(06年4月)である。
・バリアフリーの低床車両を導入。車椅子やベビーカーでも楽に乗り降りできる。
・地域に密着した公共交通をめざし、新しい停車場の設置、高頻度運行などでサービスを向上させる。
・路面電車は道路混雑の緩和や交通事故の削減、二酸化炭素や窒素化合物の削減などに効果がある環境にやさしい乗り物である。

 もう一つ紹介したいのは、「まいどはや」という名のコミュニティバスの活用である。運賃は1回100円(小学生以上)、午前9時から午後7時まで20分間隔で1日31便運行し、路線バスや市電など既存の交通網に接続しており、通勤、通学、買い物などに手軽な足として利用できるようになっている。
 マイカー依存から脱出するためには、小回りが利いて、使い勝手のいいコミュニティバスは欠かせない必需品である。富山市はそのモデルにもなり得るのではないか。


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よく聴いて、他人様にしてあげる
〈折々のつぶやき〉50

安原和雄
 想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること ― などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は50回目。題して「よく聴いて、他人様にしてあげる」です。(09年5月28日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 毎日新聞「日曜くらぶ」に掲載されているコラム「心のサプリ 一日一粒」(筆者は心療内科医・海原純子さん)は考えさせられる話題が多い。ここでは最近の2つの「サプリ」(要旨)を紹介し、私(安原)の感想を述べたい。

▽意見を聴いてくれなくなった上司

 立場が上になったら ― という見出しの「心のサプリ」(5月10日付)。これはある中小企業での話題である。

 オーナーの友人で、大企業幹部を定年退職したAさんは相談役として、週に1回ほど来社し、その中小企業社員たちとも交流し、「話しやすい好いひと」と評判だった。ところが取締役に就任したとたんに態度が一変した。
 それまでの話しやすさは消え、社員の態度をオーナーに報告したり、会社の利益のためという名目で、仕事や人事までうるさく口出しするようになり、部下の意見に耳を貸さなくなってしまった。

 えらくなったとたん人の話を聴くことができなくなる人は多い。人とのコミュニケーションは、自分一人では生きていけないと思ったときに始まるという。立場が上になると、どうしても「自分ですべてができる」と思ってしまい、そんな無意識のおごりが他者とのコミュニケーションを妨害する。

 立場が上になった時こそ、自分が主張するより相手の話を聴くことが大切なのだが、日本の場合全く逆で、上の人ほど話し、部下ほど聴いてばかりである。こうした組織は会社だけでなく、すべての場でコミュニケーション障害を起こしてしまう。
家庭、会社、学校、自分のまわりのコミュニケーションを見直してほしいものである。アメリカのオバマ路線は聴くことを大切にしている。日本はどうだろう。

▽人にしてもらうことばかり求める女王様症候群

 女王様に「ノー」を ― という見出しの「心のサプリ」(5月17日付)。これは自分の都合しか念頭にない人の話題である。

 向こうから連絡してくるのは、頼みごとがあるときだけ、という人がいる。つまり自分の都合のよい時に連絡してくるだけで、あとは全く音さたがない。Bさんがそうだ。連絡も一方的な依頼で、その後にありがとうとも言わないし、報告もない。

 人間を役に立つ人と役に立たない人に分けていて、役に立つ人としか付き合わない。相手を自分の都合に合わせて振り回し、普段から人にして貰うばかりで、してあげることがない傾向の人。女王様症候群とでもいおうか。
 子供のころから「してもらう環境」に育つと、そうなる率が高まるのだろうか。Bさんの父親は大企業幹部で、夫はマスコミ関係。取り巻きの人たちは、Bさんとかかわることが「役に立つ」と考えているから、Bさんの頼みごとは拒否されないらしい。

 そんな女王様症候群のような人が周囲にいたら、上手にノーと言うのを念頭に置いておくことが不可欠。相手が怒ったり、機嫌を悪くしたりしても、自分が傷つかないことも大切だ。
 それにしても最近気になるのは、人にしてあげるより、人にしてもらうことばかり求める人が多いことである。困ったものである。

▽心を開いて聴くことは、「利他」の実践

 以下は私(安原)の感想である。
 人の意見や心情に耳を傾けてじっくり聴くことがいかにむずかしいかを痛感する昨今である。上に紹介した2つの事例 ― 「意見を聴いてくれなくなった上司」と「人にしてもらうことばかり求める女王様症候群」― とも根っこは同じではないか。自己中心、独り善(よ)がりという同種の根っこをもつ悪癖といえる。
 人の意見を無視して、独断専行に走れば、仕事は速い。しかしそういう仕事にどれだけの価値があるのか。一方、相手の気持ちも迷惑もお構いなく、身勝手な願望を貫けば、たしかに自己満足感を味わうことは間違いない。しかしただそれだけのことにすぎない。自己満足であっても心底からの充実感ではない。他者と分かち合う充足感からはほど遠い。

 こういう人間像は、想うに1980年代後半のあのバブル経済とその崩壊を経て形成され、21世紀初頭の小泉政権時代に顕著になったあの新自由主義路線のなかで大量生産されたのではないか。損得勘定優先、拝金主義に汚染され、いのちよりもカネが大きな顔をするようになった。弱肉強食の非道な論理が横行した、その渦中でのさばるようになった歪められた人間像といえる。

ではどうすればよいのか。破綻したはずの新自由主義を復活・推進しようという策動がみられるが、これには「ノー」の声をあげること。それを大前提にして、まず自分の悪癖に気づくことである。「自分自身が見えていない」という表現があるように、現実には気づかないことが多いから始末が悪い。だからこそ自己反省、いいかえれば自分自身をもう一人の自分が観察する姿勢、あのイギリスのアダム・スミス(1723〜90年)が著書『道徳感情論』(岩波文庫)で説いた「公平無私な観察者」の眼が不可欠である。
 ここまでくれば、自己中心、独りよがり、思い上がりという名の小我、自己執着を棄てることも不可能ではない。むずかしいことだが、その気になれば、できないことではない。やがて心も開いてくる。そうすれば自然に相手の意見や心情が心に届いてくる。聴くとはそういうことではないか。

 「聞く」のは耳に入ってくる音声にすぎないが、「聴く」とは心に響くことであるだろう。そういう聴き方は自己中心ではなく、他人様(ひとさま)中心の姿勢だから、畏(かしこ)まった言い方をすれば、仏教でいう利他主義の実践に通じる。くだいていえば「よく聴いて、他人様にしてあげる」ことである。この利他の実践は結局は自分自身に充実感として返ってくる。仏教ではこれを「自利利他円満」ともいう。「世のため人のため」に考え、行動すれば、自分自身も輝いてくるという意である。


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最悪GDPにみる日本経済診断
個人消費の底上げと生活安定を

安原和雄
日本の経済規模を示す国内総生産(GDP)が戦後最大の落ち込みを示し、メディアに「最悪GDP」など前例のない表現があふれている。こういう事態を招いた元凶は、ほかならぬあの新自由主義路線そのものである。この苦境をどのようにして克服するか。
 個人消費の落ち込みが背景にあることに着目すれば、当面の目標は、個人消費の底上げによる生活の安定である。同時に破綻したはずの新自由主義路線の復活・推進の動きに「ノー」の声を挙げるときである。なぜなら大企業を中心に経済界は新自由主義路線に今なお執着し続けているからである。国民生活の安定を図るか、それとも新自由主義路線の復活・推進を許すか、大きな選択を迫られている。(09年5月22日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽大手紙社説は最悪GDPをどう論じたか

 5月20日発表された09年1〜3月期の国内総生産(GDP)統計速報は、過去最悪の数字が並んだ。実質成長率は、年率換算でマイナス15.2%、前年同期比でも4四半期連続マイナス成長になったため、9.7%減まで下がった。
 昨年10〜12月期分もマイナス14.4%に下方修正された。ともに第1次石油危機当時の同13.1%(1974年1〜3月期)を上回り、戦後最大の落ち込みを更新した。2四半期連続の2けた減少も初めてである。
 年度ベースでも08年度は実質3.5%、名目3.7%と過去最悪のマイナス成長となった。

 以上のような最悪GDPというデータを踏まえて、大手5紙社説(5月21日付)は何をどう論じたか。各紙の見出しは以下の通り。

*毎日新聞=最悪GDP 家計を元気付ける時だ
*朝日新聞=最悪GDP 怖いデフレと失業の連鎖 
*読売新聞=GDP急減 「戦後最悪」を乗り切るには
*東京新聞=GDP最悪 夜明け前が最も暗い
*日本経済新聞=戦後最悪の急落後の反転探る日本経済

 以上の見出しから判断する限り、望ましい政策を論じているのは、毎日新聞だけで、残りの4紙は経済・景気の現状とそれに対応する心構えに触れている程度、という印象である。以下に各紙社説の要点を紹介し、私(安原)の感想を述べる。

▽毎日新聞 ― 家計を元気づける以外に経済再生策はない

 こういう時期だからこそ、本質をとらえた経済政策が講じられなければならない。家計が経済を支える構造の回復である。1〜3月期のGDP速報で最も深刻なのはGDPの約56%を占める家計最終消費支出の減少が定着したようにみえることだ。07年ごろまでは家計支出が下支えの役割を果たしていた。それが様変わりしたのは所得減少や失業増加のためだ。

 こうした環境変化を勘案すれば、企業への支援よりも、失業対策や再就職支援、雇用創出策中心の政策が必要なことが導き出される。こうした政策は安心や安全の実現にも、経済社会の活力回復にも寄与する。
 海外需要に過度に依存する経済の弱さは今回の世界危機でも経験した。企業設備も外需向けで高い伸びを続けてきた。こうしたことが夢と消えたいま、内需の柱である家計を元気付けること以外に、本質的な経済再生策はない。補正予算案をより効果のあるものにすることも、有効な選択肢である。

▽ 朝日新聞 ― 悪循環を避けるべく、細心の配慮を
 
 景気が「V字」形の急回復の道をたどるという期待感はない。年内は「L字」形の横ばいが続き、経済対策の効果も出てくる年末には徐々に回復軌道に乗る、というのが国際機関などの楽観的な見通しだ。だが、世界金融不安が再燃すれば、あっけなく「二番底」に落ちる危険もある。

 当面警戒すべきは、デフレと雇用の悪化だ。国内の消費者物価は石油製品などの値下がりで3月はマイナスに転じた。これが消費不振によって加速するようだと企業経営をさらに圧迫し、失業の増加に拍車がかかりかねない。3月の失業率は4.8%だったが、いずれ5%を突破するだろう。雇用悪化→消費減→デフレという悪循環を避けるべく、細心の配慮が求められる。

▽読売新聞 ― 景気を再び底割れさせてはならない 

急激な悪化に歯止めをかけるため、まずは追加経済対策の実施に欠かせない補正予算関連法案の成立を急がねばならない。
 景気は最悪期を脱し、4〜6月期にプラス成長に回復するとの見方もある。7〜9月期からは追加対策の効果も出てきそうだ。だが、そのまま日本経済が本格的な回復軌道に入ると見るのは早計だろう。正社員の人員整理や賃金カットなどは、むしろこれからが本番と見られる。リストラの恐怖が消えない状況では、エコカーや省エネ家電の購入補助による消費促進効果も限られよう。失業や賃金の動向に注意を払わねばならない。
 
 行き過ぎた悲観は景気下押しの原因になるが、安易な楽観ムードはさらに危うい。
 財政事情はかつてない厳しさだが、一時的な明るさに惑わされて政策の手を緩め、景気を再び底割れさせてはならない。

▽東京新聞 ― 成長確保のためにも規制改革が必要

 こうなると、企業も家計も「いまは我慢の時」と覚悟を固めるしかないが、明るい材料がないわけではない。
 中国向けなど輸出も回復の兆しがあることから、民間エコノミストの間では「四−六月期には実質成長率がプラスに転じる」という見方が増えている。

 むしろ大きな問題は、景気刺激に巨額の財政出動をした陰で、民間活力を伸ばす改革の努力がなおざりになっている点である。補正予算の中身をみても、庁舎改修に充てる施設整備費の増加など「官の焼け太り」が目立つ。
 国際通貨基金(IMF)は、日本経済について「内外需のバランスがとれた成長を確保するためにも構造改革が必要」として、農業や医療、保育、高齢者サービスなどの規制改革を求めた。長年懸案の政策課題に手を付けず、その場しのぎではだめだ。

▽日本経済新聞 ― 成長力の強化につながる規制改革も

 統計だけをみると、日本経済はお先真っ暗のようにみえるが、最近の経済指標には下げ止まりの兆しを示すものも出始めている。
 ジェットコースターの下り坂でどこまで落ちるかわからないという恐怖感がひとまず和らいだというのが、今の日本経済の姿だろう。平らな道に入ったと思ったら、再び下り坂に入るリスクは残っている。

 政府・日銀は景気下支えのために財政出動や金融緩和を打ち出してきたが、今後も景気動向に応じて機動的に効果のある政策を打ち出すべきだ。また、日本経済を持続的な成長軌道に戻すには、産業構造の転換を促す規制改革など成長力の強化につながる構造改革も欠かせない。

〈安原の感想〉(1)― 望ましい政策を論じている毎日新聞

 上述の5紙社説(要旨)を読んだ印象をいえば、望ましい政策を論じているのは、毎日新聞だけである。毎日は「GDP速報で最も深刻なのはGDPの約56%を占める家計最終消費支出(個人消費)の減少が定着したようにみえることだ」と指摘し、その原因として「所得減少や失業増加」を挙げている。つまり働く人たちの賃金収入が減るか、あるいは職を失って、収入の道を閉ざされれば、個人消費が減退するのは経済学のイロハのイである。ここをどう改善していくかが経済対策の基本でなければならない。

 ところが不思議なことに他紙の社説はこの点を素通りしている。
 朝日は「雇用悪化→消費減→デフレという悪循環を避けるべく、細心の配慮が求められる」と書いている。雇用悪化を原因として指摘しているにもかかわらず、「細心の配慮」を挙げるにとどめている。「細心の配慮」とは何を意味しているのか。なぜ雇用悪化を改善していく方策を論じないのか。肝心の点を逃げて「細心の配慮」でお茶をにごすとはどういう「配慮」(?)なのか。

 読売は「政策の手を緩め、景気を再び底割れさせてはならない」と主張している。それはそうだろう。しかしわざわざ指摘するに値する論点だろうか。問題はどういう「政策の手」が考えられるのかである。「まずは追加経済対策の実施に欠かせない補正予算関連法案の成立を急がねばならない」と書いているところをみると、政策の手とは、補正予算を指しているらしい。読売社説は政治についても一貫して政府与党の立場を支持してきた。それは信念のつもりかも知れないが、ジャーナリズムとしての信念を貫くことと権力を支持し続けることとは異質のはずである。

 東京新聞と日経新聞は珍しく同じ論調の社説を掲げている。
 東京はIMFが日本経済について「成長を確保するためにも構造改革が必要」として、農業、医療、保育、高齢者サービスなどの規制改革を求めたことを指摘し、一方、日経は「産業構造の転換を促す規制改革など成長力の強化につながる構造改革も欠かせない」と主張している。
 つまり両紙ともに規制改革推進の立場を明示している。野放図な規制の緩和・廃止によって所得減少、失業増大など大きな災厄をもたらしたあの新自由主義路線は破綻したはずであるが、その復活・推進をあえて唱えようというのだろうか。災厄の肥大化をあえて求めたいのか。

〈安原の感想〉(2)― 新自由主義の復活・推進を目論む経済界

 以上のように各紙社説の意見、主張は入り乱れている。もちろん論調は多様であっていい。しかし必要にして望ましい経済政策は何か、といえば、必要条件としてつぎの諸点が欠かせない。

*現在のマイナス成長をゼロ成長程度の水準に戻すこと
いたずらにプラスの経済成長を追求する必要はない。なぜなら温暖化防止など地球環境の汚染・破壊を防ぐためにもプラス成長にこだわるのは良策とはいえないからである。日本経済はすでにGDP(国内総生産)で年間500兆円を超える成熟経済で、米国に次ぐ世界第2の経済大国である。
 この経済規模をさらに量的に拡大させるプラス成長に執着するのは、一種の経済成長主義「病」というほかない。プラスの経済成長なしには豊かになれないと考えるのは錯覚であり、この経済成長主義「病」をどう克服するかを考えるときである。有り体に言えば、中長期的にはゼロ成長(規模として横ばいの経済)下で国民生活の質的改善・充実を図ることである。

*個人消費の底上げを軸に生活安定を図ること
 現在のマイナス成長をゼロ成長水準(落ち込む前の水準)に戻すにはGDPの約6割を占める個人消費を増やすことが肝心である。そのことが落ち込んだ個人消費の底上げにも役立つし、生活安定にもつながるだろう。
 そのためには労働の分野での改革(雇用創出、非正規雇用の大幅削減、最低賃金制など)が不可欠である。さらに財政面から教育・医療・社会保障の充実、農林水産業・中小企業の再生・発展を重点的に追求することが求められる。

*新自由主義路線の復活には「ノー」の姿勢を
 財界の総本山、日本経団連は今後の優先的な政策として、つぎの項目を挙げている。
法人実効税率の引き下げと消費税率の引き上げ、規制改革と官業の民間解放、円滑な労働移動など雇用・就労の多様化促進、農業の構造改革を含むグローバル競争の推進、など。
 以上の諸政策は明らかに新自由主義路線の復活・推進を目指すものである。しかも法人税の引き下げで大企業の税負担を軽減させ、一方消費税引き上げで大衆の税負担増大を目論んでいる。このような新自由主義路線の復活・推進を容認すれば、個人消費の底上げと生活の安定など夢物語に終わるほかないだろう。生存権、生活を踏みつけにされながら、なお耐え続ける必要はもはやない。


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循環型社会づくりは平和と共に
環境先進国・コスタリカに学ぶ

安原和雄
地球規模の温暖化防止、気候変動への対策をめぐって内外で賑やかな論議が交わされている。この論議は循環型社会をどうつくっていくかというテーマとも深くかかわっている。
循環型社会の構築は、実は例の新自由主義路線破綻後の新しい経済モデルをどう設計するかというテーマとつながっている。ここで改めて問うてみたい。新しい経済モデルとしての循環型社会の望ましい姿は何か、と。常識とも言える従来の「資源エネルギー消費の抑制」と「環境負荷の低減」の2本柱だけではもはや物足りないのではないか。
 新たに「平和=非暴力」という視点を組み込みたい。平和に背を向ける循環型社会はそもそも成り立たないはずである。軍隊を廃止し、非武装国家となって60年の歴史をきざみ、環境先進国としても知られる中米のコスタリカに今こそ学ぶべきことが少なくない。(09年5月15日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 私(安原)は5月13日、NPO法人循環型社会研究会(山口民雄 代表・所在地=東京都中央区京橋)主催のセミナーで「平和のあり方と循環型社会づくり ― 中米のコスタリカに学ぶ」と題して講話する機会があった。 
 循環型社会基本法(2001年1月施行)による循環型社会とは、大量生産、大量消費、大量廃棄型社会のあり方や国民のライフスタイルを見直し、社会における物質循環を確保することにより、天然資源の消費が抑制され、環境への負荷の低減が図られた「循環型社会」(2003年版循環型社会白書から)― とされている。いいかえれば、天然資源消費の抑制と環境負荷の低減を2本柱とする経済社会を指している。これにもう一つ「平和=非暴力」という柱を採り入れた循環型社会のありようを構想する必要があると考える。
 なお私は循環型社会研究会理事であり、同時に「コスタリカに学ぶ会」(正式名称は「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」)世話人の一人である。

 私が講話で指摘した新しい循環型社会の大枠は以下のようである。         
機ァ卻刃臓疊麕塾蓮咾鬚瓩兇靴
(1)平和観の再構築
(2)日本人とコスタリカ人の平和観の違い
供ソ朶跳深匆颪鼎りと平和の新時代
(1)コスタリカにみる平和的循環型社会の現状
(2)日本版循環型社会づくりの条件

 以下、講話の趣旨を紹介する。

▽〈平和=非暴力〉をめざして

 日本人の多くは〈平和=反戦〉という固定観念に囚われている。これは従来型の狭い平和観である。循環型社会づくりのためには〈平和=非暴力〉という反戦も含む新しい21世紀型平和観を身につける必要がある。

(1)平和観の再構築
*狭い〈平和=反戦〉観から広い〈平和=非暴力〉観への発展を
〈平和=非暴力〉の実現のためには、生きとし生けるものすべての「いのち」、さらに「人間性」の否定、破壊の日常化を意味する「構造的暴力」(=内外の政治、経済、社会構造に起因する多様な暴力)を克服することが不可欠である。これは憲法9条(戦争放棄、非武装)と25条(生存権)の理念を実現していくことにつながる。
 しかも構造的暴力の克服と循環型社会づくりは表裏一体の関係にある。例えば日本列島上に広がる多様な構造的暴力を放置したまま、どこかの片隅で循環型社会づくりに勤しんでも、あまり意味はないだろう。逆に言えば、日本列島上に循環型社会づくりが進めば、それが構造的暴力の克服にも貢献できる。
(ヨハン・ガルトゥング教授著『構造的暴力と平和』中央大学出版部、1991年刊・参照)

《構造的暴力》の具体例を以下に挙げる。
*戦争も今や構造的暴力
 戦争は大量の人命殺傷、資源・エネルギーの浪費、自然環境破壊、財政資金の浪費をもたらすなど構造的暴力の典型である。戦争仕掛け装置ともいうべき軍産複合体(軍部と兵器メーカーなどとの相互癒着関係)による負の影響力(大量の兵器生産など)が大きすぎる。
*自殺(日本:年間3万人超)、凶悪犯罪、交通事故による死傷(日本:年間死者約6000人、負傷者100万人超)、失業、貧困、病気(生活習慣病)、飢餓、人権無視、長時間労働、不平等など
 自殺の場合、自殺に追い込まれざるを得ない状況の存在は構造的暴力といえる。また交通事故による死傷者数が依然高水準にあるが、車社会そのものが多数の死傷者をもたらす構造的暴力装置として機能しているととらえる。
*貪欲な「経済成長追求」による地球上の資源エネの収奪・浪費、地球環境の汚染・破壊(地球温暖化など)なども構造的暴力

*破綻した新自由主義路線が残した大きな負の遺産 ― 豚(新)インフルエンザ
豚インフルエンザが異常な広がりを見せているが、ほとんどのテレビ、新聞メディアは、豚インフルがなぜ発生したのか、その原因、背景に触れようとしない奇妙な風景が広がっている。ただインターネット上では真実に迫ろうとする記事が散見される。例えばインターネット新聞「日刊ベリタ」(5月9日付)に「新インフルエンザ、根本原因は工業化された巨大畜産にある」という見出しでつぎのような記事(一部)が掲載された。

新インフルエンザの発生について新自由主義グローバリゼーションに対する反対運動を展開している市民組織ATTAC(アタック)フランスとフランス農民連盟が5月6日共同声明を発表した。同声明は、今回の新インフルエンザ発生の根本原因は、工業化された巨大畜産にあると指摘。さらに自由貿易を進めるため、家畜の衛生管理基準や規制が大幅に緩められたことが、いっそう問題を拡大した、と警告している。

 以上の記事の指摘通りとすれば、あの破綻したはずの新自由主義はしぶとく生き残り、多くの市民を犠牲にし、苦しめ、狼狽させており、構造的暴力として深い傷跡を累積させていることになる。

(2)日本人とコスタリカ人の平和観の違い
 ここでは日本人とコスタリカ人の平和観の違いを考えてみる。
*日本人の平和観
 「平和=反戦」という既成観念では「戦争は悪いこと」は分かるが、「ではどうすればよいのか」という視点に欠ける。そのため平和に対する想像力が働かなくなる状態に日本人の多くは陥っている。

*コスタリカ人の平和観
 コスタリカ人に平和とは何か?と聞くと、民主主義、人権、豊かな環境、愛、家族、理解、自己尊厳と他者への尊重、静寂、平穏、自由を感じること、表現の自由 ― など多様なイメージが挙げられる。日本人の「平和=反戦」という単純なイメージと違って、コスタリカでは日常の暮らしの中に「平和文化」(平和感覚が日常化していること)として根付いている。
 特に一人のエコツアーガイドさんの森に関するつぎのような「豊かな自然環境は、平和な社会のお手本」という説明が興味深い。「環境先進国」・コスタリカならではの発想といえる。

 森は私たちの社会のようなもの。土、日光、水、木、草があり、菌類、虫、鳥、動物がいる。土、日光、水はインフラであり、動植物は私たちのようなもの。互いに競争することもあるが、結局は相互依存している。収奪しすぎると結局共倒れになってしまう。森は私たちに、私たちの社会がどうあるべきかを教えてくれる、最も身近な教材だ。
 自然界の多様性、生態系の循環とバランスは、私たちの社会と相似関係にある。それに気づくと、自然環境に対する見方も、私たちが生きている人間社会に対する見方も変わってくる。環境破壊が進むと、水や食糧など私たちの生活に必要なものすら得られなくなる。豊かな自然とともに暮らすことで、そこから平和な社会を建設するためのインスピレーションを得て、次世代へとつなぐ― と。

(足立力也著『丸腰国家〜軍隊を放棄したコスタリカ 60年の平和戦略〜』扶桑社新書、09年3月刊・参照)

▽ 循環型社会づくりと平和の新時代

 循環型社会づくりは単に「資源エネの浪費よ、さようなら 環境保全よ、こんにちは」だけではなく、同時に「平和の新時代=非暴力の日常化」づくりを担うというイメージが不可欠である。

(1)コスタリカにみる平和的循環型社会の現状
*常備軍の廃止(1949年憲法改正)、非武装・永世・積極中立外交宣言(1983年世界初)、平和・人権・環境重視の教育
 コスタリカは1948年の内戦によって約2000人の犠牲者を出した。この悲劇を2度と繰り返してはならないという深い洞察に立って、翌1949年の憲法改正で軍隊を廃止した。同時に軍隊廃止で浮いた財政資金を活用して、環境保全、教育、医療、福祉などの充実を図ってきた。
 私(安原)が訪問団の一員として2003年1月コスタリカを訪れたとき、首都サンホセ市内公園でたまたま巡回中の警官2人(日本でいえば巡査部長クラス)と出会って、訪問団が警官を取り囲む形で平和問答を行った。その一部を紹介したい。

問い:コスタリカは、警備と治安のための警察力はあるが、他国との紛争に軍事力を行使する軍隊を持っていない。そのことについて警察官としてどう考えているか。
警官:大変素晴らしいことだと思っている。軍隊を持つと、必ずといっていいほどその軍事力を行使し、暴力を振るいたくなるものだ。それを避けるためにも軍隊を持たないことはいいことだ。
問い:もし他国から攻められたら、どうするつもりなのか。
警官:まず警察隊が対応する以外にない。しかし最終的には政治家が話し合いによって平和的に解決してくれることを信じている。

 この対話で印象に残ったのは、警官が「軍事力を持つと、その暴力を振るいたくなる。だから軍隊を持たない」という認識を示したことである。いのち尊重を基本とする達見というべきである。さらに初めて出会った見ず知らずの外国人に向かって自由に発言する、その姿勢に驚いた。「平和すなわち自由」という平和文化が根付いているという印象である。
ここでいのち尊重について憲法上の規定はどうなっているか、コスタリカと日本を比較したい。
 コスタリカ憲法21条は生命の不可侵性を宣言している。
 一方、日本国憲法13条は「生命、自由、幸福追求に対する国民の権利は、公共の福祉に反しない限り、国政上最大の尊重を必要とする」となっており、生命に対する権利は条件付きである。

*国土の25%が自然環境保全地区(自然保護区、国立公園に指定し、森林伐採や乱開発の禁止)
 コスタリカは「動植物の宝庫」といわれ、地球上の0.034%にすぎない国土面積に全動植物種の5%が存在している。この「動植物の宝庫」を生かしたエコツーリズムの発祥国として知られる。

*二酸化炭素(CO2)排出量を2030年までに「ゼロ」にすると環境相が声明(2007年5月)
 日本では先日、日本経団連会長が「排出量が増えるのは止むを得ない」と発言し、環境相が「それでは世界の笑いものになる」と戒める一幕があった。これに比べると、「排出量ゼロに」とは、思い切った発言であり、その実現を疑問視する向きもあるが、実はコスタリカではすでに電力の95%はCO2を排出しない再生可能な自然エネルギー(水力など)に依存している。ここがCO2を排出する火力(石油など)、安全性に問題の多い原子力など再生不可能なエネルギーに依存している日本との大きな違いである。

(2)日本版循環型社会づくりの条件
 日本で、コスタリカのような平和的循環型社会をつくっていくためには以下の諸条件が必要不可欠と考える。

*脱「日米安保」、非武装・日本、「地球救援隊」創設構想(自衛隊の全面改組)
*地域重視のグローカリゼーション(グローバル化とローカル化の融合)を視野に
*日本版循環型社会(=持続的経済)の望ましい姿
・脱「経済成長主義」― 生活の質的豊かさを求めて(「持続的経済成長」は誤用)
・化石エネルギーから自然エネルギーへの転換 ― 再生不能エネ依存型からの脱却
・くるま社会の構造変革 ― 公共交通(鉄道、バス、路面電車)、自転車、徒歩の重視へ
・田園、森林、水の再生と農林水産業の育成 ― 食文化、雇用創出、地産池消・旬産旬消
・企業の社会的責任(CSR)と社会的貢献度 ― 企業の発展力

 以上のすべての柱について講話の全容を紹介するのは避けて、若干の説明にとどめる。

*地域重視のグローカリゼーションについて
 循環型社会づくりは地域の再生・発展と表裏一体の関係にある。地域の荒廃と循環型社会づくりは両立しない。破綻した新自由主義路線下のグローバル化重視主義では地域が軽視され、荒廃が進んできた。これをどう方向転換させるかが大きな課題となっている。地域重視のグローカリゼーションを進めるのが時代の要請であり、その柱として農林水産業の再生・発展が必要である。
 特にいのちの源である食料は国産を重視する方向へ政策転換するときである。世界的な食料危機が広がりつつある現状で食料の多くを海外に依存するのは、食料安全保障の見地からも疑問である。

*持続的経済、持続的経済成長、脱「経済成長主義」について
 今求められているのは「持続的経済」であって、破綻への道を意味する「持続的経済成長」ではない。持続的経済とは「持続的発展の原理」(注)が構造化している経済社会、すなわち循環型社会のこと。
 (注)持続的発展の原理とは、生活の質的改善、共生、循環、環境、平和、生命共同体の尊重などがキーワード。持続的発展の原理がめざすものは、地球環境の保全だけに限定しないで、広く動植物を含む自然と人間のいのちを尊重することが基本である。

 一方、GDP(国内総生産)で計る「経済成長」という概念は、年々の経済(個人消費、公共投資など財政支出、個人住宅投資、輸出など)の量的拡大を意味するにすぎない。それに伴う資源エネルギーの浪費、環境の汚染・破壊などは視野の外に置かれている。そういう経済成長には持続性はない。人間でいえば、人格、人間性を磨かないで、体重を増やし続けることが人生の目的であるかのように錯覚して生きるに等しい。そういう人生は病気などマイナスが大きいし、持続性はなく、破綻するほかない。

脱「経済成長主義」とは、経済成長しなければ、経済は破綻するという思いこみを捨てること。市場経済であるから、成長率を計画的に管理することはできないが、趨勢としてゼロ成長すなわち「横ばいの経済規模」を続けることで十分と考える。
 成人した人間でいえば、体重を増やさないことである。米国に次ぐ世界第2位の経済大国、すなわち成熟経済の域に達している日本経済にとって、もはや経済成長は必要ではない。必要なことは、貧富の異常な格差を生まない公正な分配である。

*企業の社会的責任(CSR)と企業の「発展力」について
 ここでのCSRは持続的経済、すなわち循環型社会をどの程度担っているかを基準に計られる。つまり〈資源エネルギー消費の抑制〉と〈環境保全〉への貢献度にとどまらない。企業の付加価値(=賃金と利益)の社会還元が重要な課題になってくる。利益部分を減らし、賃金部分を増やすこと。例えばリストラ(人員整理)をしないこと、短時間労働の非正規社員は自分のライフスタイルとして希望する者のみにとどめること。しかも正規と非正規の時間当たり賃金は同一にすることが望ましい。
 企業の「成長力」ではなく、あえて「発展力」としているのは、なぜか。成長力は量的に拡大していくというニュアンスが強い。企業も量的拡大を目指す時代は終わった。いいかえれば規模、量のナンバーワンではなく、商品、サービスの質のオンリーワンをめざす時代ではないか。だから量の成長力というよりも質の発展力が求められる。


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軍拡を戒める「たった一人の反乱」
遺言「間違いだらけの防衛増強論」

安原和雄
 28年も前に「間違いだらけの防衛増強論」というユニークな著作を書いた元防衛庁幹部が最近亡くなった。この著作は自衛隊幹部ら向けに行った講義を公表したもので、日米安保批判にとどまらず、軍備拡張を戒める内部告発ともいえる内容で、当時「たった一人の反乱」と評された。自衛隊の海外派兵が恒常化しつつある今、「間違いだらけの防衛増強論」は決して間違ってはいない。むしろ今こそ熟読玩味に値する遺言にもなっている。(09年5月9日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽日米安保を批判し、軍拡派の暴走を戒める

 5月初めの新聞で報じられた一人の死亡記事をみて、私(安原)は28年も昔の記憶がよみがえってくるのを感じていた。その記事は「元防衛庁防衛研修所室長の前田寿夫(まえだ・ひさお)さんが4月10日死去した。89歳」と伝えている。
 実は1981年7月30日付毎日新聞夕刊(東京版)の「ゆうかん ブックス」欄に前田著『間違いだらけの防衛増強論』(講談社刊)の紹介と私が前田さんにインタビューした記事が1ページを埋めつくす形で載っている。

 その見出しとして「軍拡派の暴走を戒める」、「小細工をしてでも危機意識をあおり防衛意識を高めてやろうという役所でついこの間まで講義していた専門家のたった一人の反乱」という大きな活字が躍っている。
著作は前田さんが自衛隊の一佐、二佐クラスの幹部や防衛庁内局の課長クラスら向けに行った講義を退官後に全公開したもので、日米安保批判に始まって軍拡派の軍事力増強論に真正面から挑戦する内容である。それだけに、講義していた頃から拒否反応は大変なものだったらしい。前田さん自身、当時「たった一人の反乱」と自任していたほどである。

 あれから28年の歳月が過ぎ去ったが、記事を今読み返してみて、決して時代遅れにはなっていないという印象を得た。当時の防衛庁は現在、防衛省に格上げされ、自衛隊の海外派兵も日常化してきた。むしろその予兆を28年前の記事から垣間見ることもできるような印象がある。今となっては著作『間違いだらけの防衛増強論』とインタビュー記事は、平和に対する前田さんの遺言のような気がしている。そこでこの機会に記事の内容(要旨)を紹介したい。

▽今も通用する『間違いだらけの防衛増強論』

 著作『間違いだらけの防衛増強論』の要点は以下のようで、今なお通用する主張であり、21世紀の今日、なお生き続ける遺言となっている。

*「万一に備える」はひとりよがりの議論だ
 軍事力増強を図るうえで「万一の場合」に備えるという主張ほど防衛当局にとって都合のいい議論はない。戦争や侵略の可能性があろうとなかろうと、そんなことは一切問題外で、つねに「最悪の事態」に対処できるよう準備していればよろしい。「最悪の事態」とはなにか。論者の都合のよいように内容が決められる不思議な言葉で、ときにソ連海軍が日本の海上交通路を全面しゃ断したりする。
 正真正銘の「最悪事態」はわが国が核ミサイルの大量攻撃を受けることのはずだが、わが防衛関係者でそのような事態を強調する人をみたことがない。しかしその「最悪事態」も自然現象ではないので、話し合いなどで防ぐこともできる。
 ところが、たとえば何十年に一度の確率で襲ってくる大地震はそうはいかない。私が大蔵大臣なら、「最悪事態」よりも東海地震に備える方に金を出したい。

*「勇ましい財界人」は高みの見物のつもりだ
 「滅私奉公」を説き、「徴兵制度復活」を提唱する財界人の勇ましい議論は、財界サロンのお茶飲み話から出たものでしかない。
 核攻撃の危険が迫っているとお考えなら、早速わが国の生活環境に適したシェルター(核防御用地下壕)を設計していただき、それこそ「滅私奉公」、採算を度外視して、関連器材を大増産してもらわねばならない。
 また爆撃を受けて生産が止まってしまうのでは、財界としても申し訳が立たないはずである。そこで地下工場や地下居住施設をつくる必要がある。そのための経営者の出費は莫大なものになるが、当然の負担である。しかし財界の勇ましいお歴々からこういう声があがったのを聞いたことがない。政府や国民にお説教を垂れるのは、お好きなようだが、ご自分たちは、高みの見物のおつもりかノホホンとしてござる。

*「安保タダ乗り論」はマヤカシだ
 米国の唱える「日米安保タダ乗り論」、つまり「日本の戦後の繁栄は、日米安保によって軍事費を軽減できたからだ」という説ほどマヤカシの議論も少ない。
 もともと日米安保条約なんてものは、米国がアジアにおける戦略拠点として日本を確保するため、講和条約とワンセットで日本に無理やり押しつけたものではないか。これほど迷惑なものはない。
 それに「安保により米軍が守ってくれたお陰でわが国の平和が保たれた」という説はフィクションにすぎない。なぜなら,錣国は周辺諸国との間に軍事的争点の全くない国(米軍基地の存在を除いて)であり、⊆禊海亮衛力があれば、周辺諸国の紛争がわが国に波及することを恐れる必要はない ― からだ。つまり日米安保条約は日本にとっては不要なのである。にもかかわらず米軍に施設・区域を提供し、その経費を日本が負担しているのだから、日米安保にタダ乗りしているのは、むしろ米国なのだ。
 このようにタダ乗りしているのは米国だと認識すれば、日本の対外交渉力を高めることができるメリットがある。

〈安原の感想〉― ライシャワー元駐日米大使の証言
 上記の3つとも、もっともな主張である。特に「安保タダ乗り論」はマヤカシだ、は今日こそ有効な視点といえる。なぜ「安保にタダ乗りしているのは米国」という説が正しいかについて若干補足しておきたい。かつてライシャワー元駐日米大使が日米安保の存在価値についてつぎのように証言したことがある。

 「日米安保は日本防衛のためだけではない。米国の国益にも合致している。そうでなければ、納税者としての米国民に説明し、納得してもらえない。自国の防衛とは関係なく、日本の防衛という他国の利益のためになぜ米国民は税金を納めなければならないのか、という疑問に答えられないからだ」と。
 「米国の国益」とは、米国の世界戦略を指しており、その極東における要石として同盟国・日本が存在しているのは、日米安保のお陰だという意味である。素直にかつ正直に観察すれば、米国こそが安保にタダ乗りしていることは否定できないのである。

▽「たった一人の反乱」者とのインタビュー

 『間違いだらけの防衛増強論』著者とのインタビューの一部(要旨)を以下に再録する。

安原:防衛庁の政策、ものの考え方に真っ向から反対するような内容の講義に対する反応は?
前田:みんなニヤニヤしながら聞いていた。変なことをいう奴だな、というのと、なかなかいいことをいっている、と思う者の二つに分かれた。半分くらいは高く評価してくれたが、本心で私の話に同調してくれたとしても、防衛庁という組織の中では、それが生かされない。組織の論理に埋没してしまう。なんとなく軍事的発想になっている。

安原:竹田五郎前統幕議長が、辞める寸前に「専守防衛」などを批判した。
前田:勇ましいことをいうのが受けるムードになってきた。いかにも武人の硬骨性をあらわしているようにみえるが、その発言が日本にとってどういう意味を持つかを余り考えない。

安原:5月の日米首脳会談を境に日米の軍事協力は一段と緊密になりつつある。
前田:日米共同声明で「日米同盟関係」を初めて明記したのは、対ソ対立をあおることになり、失敗だった。鈴木善幸首相は、外務官僚のペースに乗せられて、「しまった」と思ったのではないか。米国に要求されるままに防衛力を増やすのは、日本の対米交渉力を弱めるだけだ。

〈安原の感想〉― 「日米同盟」が公式にうたわれてから28年
慣れることは恐ろしいもので、真実を見抜く眼をふさいでしまう。今では多くのメディアが「日米同盟」という用語を社説などでも当然のように肯定する意味で使っているが、実は28年前の日米首脳(レーガン米大統領と鈴木善幸首相)会談後の日米共同声明 (1981年5月)で初めて明記された。
 この「同盟」には命を懸けて誓い合うというニュアンスが込められており、当時大騒ぎとなった。これを境に日米間の軍事協力関係が一段と緊密化し、日米共同軍事訓練も活発化していく。翌1982年、政権の座についた中曽根康弘首相は、「日米運命共同体」、「日本列島不沈空母」説まで唱え、軍拡路線へと突っ走る。そして今、東アフリカ・ソマリア沖に海賊対策の名目で海上自衛隊を派遣するなど事実上の海外派兵が恒常化しつつある。

 上記の一問一答に出てくる日本の「専守防衛」、「対米交渉力」はどうなったか。日本の防衛力は日本の国民と領土を守るためだけに存在する、という専守防衛論はどこかへ吹っ飛び、今では口にする防衛関係者は誰もいない。一方、対米交渉力は弱まることはあっても、強まる兆候は見出せない。前田さんの28年前の懸念通りに推移しつつある。すべては28年前の日米共同声明に書き込まれた「日米同盟」を跳躍台として始まった。ちょうど同じ頃、最近破綻し、世界を大不況に突き落としているあの新自由主義路線も作動し始めていた。


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09年「憲法」社説を読んで
米国に依存しない自前の平和を

安原和雄
 2009年5月3日は日本国憲法施行以来62年目の憲法記念日である。大手5紙の憲法社説を読んだ。その憲法社説の中で注目に値するのは、「25条の生存権保障は自前の規定」、つまり米国から与えられたものではなく、「日本国産」という指摘である。この25条と9条(戦争放棄、非武装)は車の両輪として平和憲法の基軸となっている。
 自衛隊の海外派兵が恒常化しつつある今、それに歯止めをかけるためにも従来の米国依存型の安全保障政策を脱した自前の平和をどうつくっていくかが大きな課題となってきた。25条と9条に軸足を置いて、憲法社説を手がかりに考える。(09年5月4日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽大手メディアが憲法記念日に論じたこと ― 護憲派と改憲派と

まず5紙の09年5月3日付社説の見出しはつぎの通り。
*東京新聞=憲法記念日に考える 忘れたくないもの
*朝日新聞=憲法記念日に 貧困、人権、平和を考える
*毎日新聞=憲法記念日に考える もっと魅力的な日本に
*読売新聞=憲法記念日 審査会を早期に始動させよ
*日本経済新聞=日本国憲法を今日的視点で読み返そう

 5紙社説の主張を護憲派か改憲派か、という二分法でくくれば、東京、朝日は護憲派であり、一方、読売、日経は改憲派といえる。しかも読売、日経ともに2本社説のうちの一つで憲法問題に言及しており、自説を繰り返す社説となっている。毎日は憲法論議よりもソフトパワー論を展開している。
 東京、朝日、毎日3紙の社説の内容は後述することにして、ここでは読売と日経の要点を紹介する。

〈読売新聞社説〉
 2年前、憲法改正の手続きを定めた国民投票法が成立した。国民の手で憲法を改正するための画期的な法律である。
 国会は、改正論議を、サボタージュし過ぎているのではないか。

 海賊対策にあたる海上自衛隊のソマリア沖派遣や、北朝鮮の弾道ミサイルへの対処の論議を聞けば、集団的自衛権は「保有するが、行使できない」とする政府解釈が、自衛隊の実効的な活動を妨げていることは明らかだろう。
 与野党ともに、憲法審査会を早期に始動させるため、取り組みを強めるべきである。

〈日本経済新聞社説〉
 私たちは2001年の米同時テロの後、集団的自衛権の行使を禁じた政府の憲法解釈を見直し、多国籍軍後方支援法の制定を求めた。今日風にいえば、海賊法を包み込む形で、自衛隊の国際活動を包括的に定めた一般法である。国連平和維持活動(PKO)参加の根拠となっている国際平和協力法も吸収する。

 安倍政権が検討し、福田政権が無視した集団的自衛権をめぐる解釈見直しは当然だろう。

〈安原の感想〉 改憲を迫る読売、日経
 両紙ともに改憲派としては従来から一貫している。しかも集団的自衛権(日米は日米安保によって軍事同盟を結んでおり、米国が攻撃された場合、日本が直接攻撃されなくとも、日本が軍事的に米国を支援すること)を積極的に容認する立場である。
 軍事力によって紛争を打開できないことは、米軍がイラクからの撤退を余儀なくされている事実からも明らかだが、そういう現実は見えないらしい。

▽東京新聞 ― 「25条の生存権保障は自前」を強調

 東京新聞社説の内容(要旨)は以下の通り。

 寒空の下のテント村が思い出させたもの、“北”をにらむミサイルが忘れさせたもの…いずれも憲法の核心です。いまこそそれを再確認しましょう。

◆生存権の保障は自前
 「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(日本国憲法第二五条第一項)― 第二項は国に社会保障、福祉の向上、増進を命じています。
 改憲論者から押しつけと攻撃される憲法ですが、生存権を保障したこの規定は衆院の審議で追加された自前の条項です。
 第一三条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については(中略)国政の上で、最大の尊重を必要とする」となっています。

 現実はどんな状態でしょうか。
 OECD(経済協力開発機構)のデータによる、いわゆる貧困率は先進国中で第二位、金融広報中央委の調査では、一九八〇年代に5%前後だった貯蓄ゼロ世帯が二〇〇六年には23%に増え、三千万人が何の蓄えもなしにその日暮らしをしています。

◆社会の階層化が進む
 貧困層が急増し「富める者はますます豊かに、貧しい者はますます貧しく」なり、社会が分断されつつあるのです。貧困が親、子、孫と継承される社会の階層化も急速に進みつつあります。
 誰でも働いてさえいれば食べていける状態が崩れ、最近は働く場さえ次々なくなっています。仕事を失えば住まいもなくなって路上に放り出され、たちまち生命の危機に瀕(ひん)します。
 「個人として尊重される」どころか、モノのように扱われ、捨てられているのです。

 景気回復は当面の最大課題ですが、雇用、福祉制度の見直しも同じく急務です。雇う側、使う側の視点から雇われる側の視点へ、効率、コスト優先から人間らしく生きる権利の最優先へ ― 憲法第一三条、第二五条の再確認が必要です。

 桜前線が北上し、派遣村の余韻が消えかかったころ、今度は「北朝鮮ミサイル」のニュースが注目を集めました。政府は対応策を積極的にPRし、危機感をおおいにあおりました。
 その効果でしょうか、一般道路を走る迎撃ミサイル運搬のトレーラーや、首都の真ん中で北の空をにらむミサイルの映像にも、違和感を覚えた人はさして多くなさそうです。北の脅威、迎撃などの言葉が醸し出す緊迫感は、憲法第九条の存在感を薄れさせました。

◆現実に流されない覚悟
 自民党を中心に広がった幻想のような改憲論が沈静化したいまこそ、憲法に適合した政治、行政の実現を目指したいものです。
 それには、国民の一人ひとりが「忘れたくないもの」をはっきりさせ、目まぐるしく動く社会の現実に決して流されない覚悟を固めなければなりません。

〈安原の感想〉 憲法25条、13条、9条の三位一体的実践を
東京新聞社説の最大の眼目は、国民の生存権を保障している憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という規定は、敗戦直後の憲法草案作成の段階で米占領軍から押しつけられたものではなく、衆院の審議で追加された自前、つまり日本国産の条項 ― ということである。この点は大いに力説されるべきである。
 もう一つ大事なことは、この25条と13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については(中略)国政の上で、最大の尊重を必要とする」、さらに9条(戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認)は三位一体として相互に連結させてとらえ、理解し、生かすべきだという点である。

25条と13条の理念を生かすためには9条を改悪させてはならないし、逆に9条が改悪されて海外派兵を恒常化させる「軍事国家」になれば、25条と13条の空洞化が進む。米ブッシュ政権との連携で「小泉改革」の名の下に強要され、破綻したあの新自由主義路線が目指したのが9条の改悪であり、25条と13条を蔑(ないがし)ろにすることであった。
 9条改悪は踏みとどまってはいるが、日本列島上に悲惨な現実をもたらし、事実上の空洞化が進んだ25条と13条の理念をどう取り戻し、生かしていくかは今後に残された大きな課題である。

▽朝日新聞 ― 「25条は先進的な人権規定」と指摘

朝日新聞社説の要点を以下に紹介する。

 昭和初期。漁業の過酷な現場で働く若者の姿を描いた小林多喜二の小説「蟹工船」が発表されたのは1929年。金融大恐慌が始まった年だった。日本でも経済が大打撃を受け、都市には失業者があふれ、農村は困窮して大陸への移住も盛んになった。
 そうした社会不安の中に政治テロや軍部の台頭、暴走が重なり、日本は戦争と破滅へ突き進んでいく。

 この過去を二度と繰り返したくない。繰り返してはいけない。日本国憲法には、戦争をくぐり抜けた国民の思いが色濃く織り込まれている。
 「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」。憲法25条のこの規定は、連合国軍総司令部(GHQ)の草案にもなかったものだ。後に文相を務めた森戸辰男議員らの要求で加えられた。
 だれもが人間らしく生きる権利を持つ。政府にはそれを具体化する努力義務がある。当時の欧米の憲法にもあまりない先進的な人権規定だった。

 転機を迎えているのは日本だけではない。世界の戦後秩序そのものが大きく転換しようとしている。そんな中で、より確かな明日を展望するために、やはり日本と世界の大転換期に誕生した憲法はよりどころとなる。

〈安原の感想〉 戦後秩序の大転換と平和憲法の存在価値
25条が国産であることは東京新聞よりもくわしく言及している。「連合国軍総司令部(GHQ)の草案にもなかったものだ。後に文相を務めた森戸辰男議員らの要求で加えられた」、「当時の欧米の憲法にもあまりない先進的な人権規定だった」などである。
 いくらグローバル化の時代とはいえ、やはり国産ものは重要である。まして市場で売買される一商品ではなく、平和・人権にかかわる文化遺産ともいうべき貴重な思想であれば、なおさら大切に育んでいきたい。

 私が注目したいのは次の指摘である。「世界の戦後秩序そのものが大きく転換しようとしている中で、より確かな明日を展望するために、やはり憲法はよりどころとなる」と。 今日の歴史的大転換期における平和憲法の大きな存在価値に着目した指摘と受け止めたい。着眼点は評価するが、できることならもっと掘り下げた分析と展望が欲しかった。東京新聞の感想でも指摘したが、25条と9条とを相互連関のもとで把握し、生かし、実現していくという視点を曖昧にしたままでは、平和や人権を饒舌に語っても空しく響く。

▽毎日新聞 ― 「ソフトパワー論」がよい素材

 毎日新聞社説の眼目は以下の通り。

 駐日米大使に、ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授が任命されるという。
 今日の憲法問題でもっとも鋭い争点となっている「集団的自衛権」の行使の是非も、もともとは日米同盟の強化に不可欠のものという文脈で登場してきた。その最も有力な論客が米国の大使として日本に赴任する意味は小さくない。

 「国の安全」という問題に限定しても、問題は山積している。とりわけ、世界的なパワーシフトの中で、従来の日本の安全保障政策でよいのか、再考する必要がある。ナイ教授が提唱する「ソフトパワー論」自体がよい素材であろう。

 ブッシュ前政権はハードパワー(軍事力など)を過信してイラク戦争に突入し、世界の信望を失った。クリントン米国務長官は今後はこれにソフトパワーを加えたスマートパワーを米外交の基礎とすると表明した。強制力でなく人権重視の価値観や文化的魅力によって相手の自発的協力を引き出そうというのだ。

 米国で「G2」論が台頭していることにも注目すべきだ。米中による世界経済運営論である。米国のアジアにおける2国間関係で優先順位ナンバーワンは日本から中国に移ったのではないか。北朝鮮が核とミサイル開発を手放そうとしない現状では、米国との同盟が日本の安全に不可欠なのは明らかだ。しかし、追随するだけでは日本は国際政治の脇役に追いやられ国益を守れない。

 ソフトパワーが問われているのは米国よりむしろ日本であろう。

〈安原の感想〉 なぜ自前の平和論を語らないのか
 東京や朝日の社説と読み比べて感じることは、毎日は「なぜ自前の平和論を語らないのか」である。ソフトパワー論の提唱者、ジョセフ・ナイ教授が駐日米大使になるからといって、彼ににじり寄ることはないだろう。いつまで米国産の安全保障政策に依存しているのか、という思いが消せない。
 軍事力中心のハードパワー論が沈没状態に近いことは今さら論じるまでもない。だからつぎはソフトパワー論の登場だ、と単純に考えるのはいかがなものか。図式的に言えば、片やハードパワー論があり、その対極に日本国の平和憲法(平和的生存権を説く前文のほか、9条、25条など)が存在している。ソフトパワー論はその中間に位置しているのかどうか、いささか疑問である。

 重要な点は、クリントン米国務長官のスマートパワー論が米軍の在外軍事基地、日米軍事同盟を前提にしていることである。オバマ米大統領は核廃絶を長期目標として打ち出したが、在外米軍基地の完全撤去、軍事同盟の解消を展望するところまでは進んでいない。こういう事情を考えれば、ソフトパワー論はハードパワー論にソフトな味付けを試みる程度のものとはいえないか。
 軍事同盟を土台にした米国産の安全保障政策から自らを解放しないかぎり、変革のスピードの速い時代に取り残される懸念が強い。見据えるべきは平和憲法9条と25条の歴史的意義とその存在価値である。これ以外に毎日社説見出しの「もっと魅力的な日本」になる道筋は考えにくい。


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芭蕉の「歩く文化の旅」に学ぶ
クルマ依存型文明をどう超えるか

安原和雄
この大型連休をどう過ごすか、それは人さまざまである。旅でいえば、空もあれば、陸では鉄道、クルマ、歩く旅、と多様である。各自の自由な選択にゆだねられているが、できることなら、あの芭蕉の「奥の細道」紀行を想起したい。それは全行程2400キロにも及ぶ「歩く文化の旅」であった。
 現下のクルマ依存型文明は、温暖化防止など地球環境保全を優先すべき21世紀には限界に直面している。大型連休の機会に芭蕉の「歩く文化の旅」という智慧に学ぶことは少なくないのではないか。(09年4月28日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽「奥の細道」紀行から320年に

 俳聖、松尾芭蕉(1644〜1694年)が元禄2年(1689年)、「奥の細道」紀行を果たしてから、今年(2009年)でちょうど320年になる。芭蕉が行脚した全行程は、江戸深川の芭蕉庵そばから舟で隅田川をさかのぼり、千住で上陸し、日光、奥州、北陸を経て、大垣に至る約600里(約2400キロ)に及ぶ。いまの陽暦でいえば、5月上旬に旅立ち、終点の大垣まで半年近い月日を要した。

 今日風に言えば、芭蕉は5月の大型連休を生かして旅立ったことになる。当時は石油(ガソリン)を浪費する自動車はなく、高速道の通行料金を1000円に、などと考える必要もなかった。門人の曽良をともなっての2人旅で、全行程2400キロを半年足らずで踏破している。1日平均15キロの歩く旅だが、毎日歩いたわけではないから、30キロ以上も歩き続けたことも多かったに違いない。現代の文明人が忘れている文字通り「歩く文化の旅」であった。
 
 私は記者現役時代に毎日新聞社説(1989年5月7日付)で、題して「芭蕉と旅 そしてゆとりと」という一文を書いた。ちょうど「奥の細道」紀行から300年のときで、ゆかりの各地で多彩な記念行事が催された。
 当時は1985年頃から始まったあのバブルの最盛期でもあり、やがて悲惨な崩壊へと向かおうとしていた時期でもある。その一方で、時間のゆとり、心の豊かさを求めて模索が始まっていた頃でもあった。そういう時代背景からすれば、芭蕉の「歩く文化の旅」に心寄せる雰囲気がみられたのも当然のことである。

▽「芭蕉と旅 そしてゆとりと」

 以下に20年前の社説(要旨)を紹介する。

 「奥の細道」の「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」という書き出しからもわかるように、芭蕉は人生は旅であり、旅こそ人生そのものだと考えていた。この機会に、こうした芭蕉の心に思いを寄せてみたい。

〈いま再び世は乱れて〉
 芭蕉の精神がいまなお生き続けているとすれば、彼はいまの世になにを語りかけようとしているのだろうか。「奥の細道」に登場してくる人物とその評価がおもしろい。
 例えば日光近くの宿屋の主人は正直一点張りの男であった。芭蕉はそれを「仁に近い人物」として最大級の賛辞を呈している。山形の尾花沢で訪ねた豪商、清風のことを「かれは富めるものなれども、志いやしからず」と形容している。
 これは「徒然草」の「むかしより、かしこき人のとめるはまれなり」を踏まえたものといわれ、金持ちには卑俗な者が多いが、清風は富豪であるにもかかわらず、志の高い人物だと称賛しているのである。

 芭蕉が日本橋での俳諧宗匠の生活から深川での俳諧隠者へと転じた背景に、当時の「生類憐れみの令」で知られる五代将軍、綱吉治世の乱れがあった。そういう通俗的世界への批判精神から芭蕉は、恐らくお金には不自由しなかったはずの生活を捨て去ったともいえよう。
 300年後の今日、同じようにいやそれ以上に世は乱れ切っている。「カネ余り」をいいことに株だの土地だのと狂奔し、揚げ句の果てに恥ずかしくも不名誉なリクルート事件まで引き起こしてしまった。一片の芭蕉の心があれば、このような不始末もしでかさなかったにちがいない。正直者で志のいやしからざる人はいまは少なく、残念ながら芭蕉の世界に遠く隔たってしまった。

〈問われる心の豊かさ〉
 旅とはなんだろうか。芭蕉にとっての旅とは自然への感動であった。四季の風物の変化への思いやりであり、それを心の友とすることであった。
 松島について「うっとりさせるような美しさ」とも「大自然の風光の中で旅寝するのは不思議なほどすばらしい」ともしるしている。あまりの美しさに松島ではあの芭蕉にして一句もものすることができなかったとされている。「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」とうたった立石寺では「佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心すみ行くのみおぼゆ」という心境にひたっている。
 こうした自然への感動を失っていなければ、開発という名のもとに自然を破壊して平然としている無神経さとも無縁だろう。

 旅はまた歴史への深い関心をかき立てずにはおかない。その昔、平泉で戦いに敗れ、自害し果てた源義経をしのぶ「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」は有名である。「奥の細道」紀行は一面、悲劇の武将の運命を嘆き、慟哭(どうこく)する旅であった。
 芭蕉が求めてやまなかった風雅の道とは実はこうした自然への感動であり、歴史への関心にほかならない。今日、風雅の心を求めることは浮世離れしていることだろうか。答えは否である。むしろ今日的なゆとりとは風雅を解しようと努める心のゆとりであり、またゆとりがなければ風雅にもほど遠いと考えたい。

 物の豊かさと心の貧しさ、その不均衡をどう均衡させるかがいま問われている。今春は豪華客船が次々と就航し、クルーズ元年ともいわれる。船旅も心を満たすのにまたよし、である。ただそのひとときでもいいから、風雅の心を楽しんでみたい。
 逆に句をひねらなければ、芭蕉の心に近づけないというわけでもない。また交通機関を利用する旅に出掛けなくてもいいのではないか。旅は人さまざまであり、心の旅もあるだろう。
 ただやはりそこに風雅の道を、しかもそれを日常生活の中で取り戻すように心掛けてみたい。今日的な真の豊かさは芭蕉の世界と決して異質のものではないはずである。

▽ クルマ依存型を超えることができるか

 以上の社説を20年後の今、読み返しながら、芭蕉が今生きていたら、自家用自動車中心社会という現代文明にどういう感想を抱くだろうかと想像した。想像を絶するとして、仰天するだろうか。逆に時代の進歩として受け容れるだろうか。それとも車社会はもはや時代に合わないと感じとるだろうか。

 はっきり言えることはつぎの点である。芭蕉の「歩く文化の旅」は、車に依存した文明社会が限界に直面している今日だからこそ、示唆するところも少なくないのではないか、と。
 今日、温暖化防止など地球環境の保全、資源エネルギーの節約、さらに再生不可能な化石エネルギー(石油など)から再生可能な自然エネルギー(太陽光など)への転換は急務である。このことは従来の車社会は時代に合わないことを意味している。クルマ依存型文明をどう克服するかが大きな課題となってきた。
そのためには総合交通体系を根本から変革する必要がある。現在のクルマ中心型から公共交通中心型への変革である。鉄道、バス(地域のコミュニティ・バスも含む)、路面電車などの公共交通のほかに、自転車、徒歩の重視である。道路づくりは自転車道、歩道の整備にもっと重点を置く必要がある。

 私(安原)自身のライフスタイルをいえば、徒歩、バス、鉄道の重視派である。自家用車も運転免許も持っていないし、持つ気もない。特に長距離の旅は鉄道に限ると思っている。最近、鉄道駅にはほとんどエスカレーターが付設されているが、私は階段を利用するよう努めている。健常者でも無造作にエスカレーターに乗る人が少なくないが、それを横目で見ながら「将来の寝たきり予備軍か」という想いを禁じ得ない。

 芭蕉が舟から上陸した地、「千住の大橋」(東京都足立区)を先日訪ねた。北千住駅から歩いて30分ほどの距離である。大橋のたもとのコンクリート岸壁に「おくのほそ道 旅立ちの地」と記されている。その脇に旅姿の芭蕉と門人の曽良が与謝野蕪村筆「奥の細道図屏風」として添えられている。近くに「奥の細道」の全行程を示す大きな地図も掲げてある。
 10数名の年輩男女のグループが地図を見上げながら、「ここ千住から最後は大垣まで歩いたのか・・・」などとささやき合っている。リュックを背負った姿は、歩くのが好きな仲間同士と見えた。最近は若者たちのクルマ離れも目立ち始めている。クルマ依存型文明から解放される日もそんなに遠くはないことを期待したい。


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軍隊を廃止したコスタリカの今
暮らしの中に根付いた平和文化

安原和雄
中米の小国、コスタリカは憲法を改正し、軍隊を廃止してから60年になり、今ではコスタリカの人々の間に「軍隊がないのが当たり前」という感覚が広がっている。しかも多様な平和の日常化という意味での「平和文化」が暮らしの中に根付いている。一方、日本は「戦力不保持」の憲法9条を持ちながら、強大な軍事力を保有する偽装国家となっており、その国としてのあり方はいかにも対照的である。
 日本も憲法本来の理念を生かして、平和を追求し、つくっていくときと考えるが、そのためには、コスタリカに学ぶべき点が少なくないだろう。コスタリカの「平和文化」なるものの実相を報告する。(09年4月22日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽駐日コスタリカ総領事の講演 ― 軍隊がないのが当たり前に

 「コスタリカに学ぶ会」(正式名称=軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会)は09年4月19日東京・文京区の文京区民センターで第6回定例総会を開き、駐日コスタリカ公使参事官兼総領事アマリリ・ビジェガス・コルデロさんを招き、講演会を開いた。
 テーマは「本当に軍隊を捨てて平和に暮らしている国〜コスタリカはどうしてそれができるのか〜」である。コルデロさんはラテンアメリカにおける若き女性リーダーとしても知られており、講演では「今では軍隊がないのが当たり前になっている」ことなどを強調した。
 なお私(安原)は「コスタリカに学ぶ会」世話人の一人として参加した。講演は司会者の質問に答える形で進行した。以下の講演趣旨は発言順序そのままではないことをお断りしておく。

問い:コスタリカでは軍隊を持っていないから外国から攻められないし、安心できると考えている。これは日本人の普通の感覚とは異なっている。どうしてそういう風に考えることができるのか。

答え:日本人にとってはミステリーだと言うことでしょうが、そういう疑問に答えることができれば、と思う。コスタリカ近隣の軍事独裁国家の話を耳にして、やはり軍隊を持った方がいいのではないかと質問される。しかしそういう質問が出されること自体が実は不思議である。
 戦争は特殊な状態であり、コスタリカ人のメンタリティから外れている。軍隊や武器を持っていると、もっと多くの軍隊を、もっと武器をということになるだろう。それを使うと、紛争が紛争を呼ぶという悪循環に陥ることにもなる。だから私たちは軍隊を持たない方がいいとして廃止したし、外国にも軍隊を持たない方がよいと呼びかけてもいる。紛争は武器ではなく、言葉の力、対話によって解決することになっている。

 平和プランを持たねばならない。軍隊を廃止し、そのカネを教育と医療のために使うことにした。人間として生きるために一番重要なこの2つの分野に軍隊廃止で浮いたカネを使っている。
 今は多くの人がケータイ電話を持っているが、ケータイがなかったときは、ないことが当たり前だった。私たちは内戦という非常につらい経験をして、翌年の1949年に憲法改正して軍隊を廃止した。今では軍隊がないことが当たり前になっている。

問い:子どもたちが育つ環境についてうかがいたい。日本ではビデオゲームで遊んでいる。それも戦争とか、相手を倒すとかをゲームの中で楽しむという習慣がある。コスタリカではそのような遊びはあるのか、学校の先生や親が注意することはあるのか。

答え:規制メカニズムがないわけではないが、むしろ家族の中での学びを重視する。お年寄りと孫が一緒になって過ごすなど家族が人間関係を学ぶ場になっている。ゲームは一人でやるから孤立した時間になっている。友人や家族と例えばフットボールでも見に行ったり、話し合ったりすればいいのではないか。
 学校では個人一人ひとりにも平和があり、イヌ、ネコ、魚のことまで考える。それが平和だと教えられる。

 私はコスタリカの外交官であることを誇りに思っている。自然との平和、環境との平和、自分自身の平和など多様な平和を打ち出しているから。それに軍隊がないからこそ、もっといい国をつくることができることを学んできた。
 日本の桜の花は美しいし、そこから平和をつくることもできるのではないか。平和の文化には歌や踊りを楽しむことも含まれることを指摘したい。

〈安原の感想〉 誇りを持てる日本人になれるか
講演を聴きながら私は、日本人の発想とは根本のところで大きく異なっていることを痛感していた。同時にコスタリカは日本よりも遙か先を進んでいることを感じてもいた。軍隊がないことが当たり前という感覚は、掛け値なしに素敵というほかない。日本人の多くは軍事力の虜(とりこ)になっており、コスタリカの人々は平和の日常的な作り手であり、同時に平和の享受者として暮らしている。どちらに誇りを持てるかは議論の余地はない。
 われわれ日本人の多くは誇りを持って生きるという肝心なことを忘れてはいないか。講演者の「コスタリカの外交官であることを誇りに思っている」という発言に私は「日本はコスタリカに負けた」と思った。

▽コスタリカの人々の平和観 ― 日本人の平和観との違い

 足立力也著『丸腰国家〜軍隊を放棄したコスタリカ 60年の平和戦略〜』(扶桑社新書、09年3月刊)は、コスタリカの人々が平和をどうとらえているのか、その平和観を描いている。日本人の平和観との違いを浮き彫りにしているところに本書の特色がある。
 同氏は、フリーランス・コスタリカ研究家で、1999年からコスタリカに滞在し、国立ナシオナル大学大学院博士課程に在学、2000年に中退した。本書のまえがきで「研究者としてコスタリカをさまざまな角度から調査し、また生活者としてコスタリカ人とともに暮らした。その成果と感覚を通じて,〈等身大のコスタリカ〉を紹介したい」と書いている。以下に『丸腰国家』の要点を書き留める。

(1)軍隊に関するコスタリカと日本の憲法規定の違い

〈コスタリカ共和国憲法12条〉(1949年改正)
恒久的組織としての軍隊は禁止される。 
公共の秩序の監視と維持のため、必要な警察力を持つものとする。
大陸間協定もしくは国家防衛のためにのみ、軍事力を組織することができる。

〈日本国憲法9条〉(1947年新憲法施行)
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 以上から明らかなように日本国憲法は「戦力不保持」、「交戦権の否認」を掲げて、徹底した非武装の理念を打ち出しているのに対し、コスタリカ憲法は必要に応じて軍事力を持つことができる規定になっている。しかし現状は全く逆で、日本は戦力否定の9条を持ちながら、強大な軍事力を保有し、一方、コスタリカは再軍備可能な憲法の条文を持ちつつも、これまで60年間一貫して軍事力を持たないままでいる。

(2)日本人とコスタリカ人にみる顕著な平和観の違い

 平和とは何か、そのイメージについても日本人とコスタリカ人とではかなり際立った違いがみられる。

 嵎刃造紡个垢訌杼力」が働かない日本人
 「平和」という言葉を聞いたとき、日本人の多くは何を連想するか? 小学5年生を対象に調べたところ、「戦争」という答えが多い。これでは「戦争は悪いこと」は分かるが、「ではどうすればよいのか」という視点に欠けるところが弱点である。そのため平和に対する想像力が働かなくなる状態に日本人の多くは陥っている。
 
 こういう「日本人の平和観」では心が未来に向かいにくい。つまり後退を食い止めるところまではできても、前進するところまではなかなかいかない。平和と聞くだけで戦争のことを想起してしまい、嫌な気分になってしまう。これが日本人が陥っている罠とはいえないか。
 日本では「平和=反戦」という既成概念にとらわれない平和観が求められているのではないか。

▲灰好織螢人の多様な平和観
*小学生の平和観
 小学5年生を対象に調べたところ、平和について民主主義、人権、環境、愛、家族、理解 ― など多様な答えが出てくる。

 5年生の社会の授業で「自分自身の中の平和」というテーマでつぎのような発表が行われた。
 「自分の中に平和がなかったら、他人との平和もない。他人が自分より何かを多く持っているとしても、それは重要なことではない。自分自身をそのまま受け入れ、自分自身を尊重しなければならない。でなければ他人を理解し、尊重することもできない」

*自己尊厳と他者への尊重
 責任を持たせて自己尊厳を回復させると、他者も尊重するようになる。この場合の責任とは、問題があった場合、とがを負うという意味ではなく、何かの仕事を自らが主導して最後までやりぬき、その社会を構成するメンバー全員対してきちんと説明できること。責任感は自己実現とセットになって、ポジティブな意味合いを持って、その子の心に定着する。
 責任を持たせてもらえることで、自分に対する尊厳を回復していく。そこから他者の尊厳も尊重しようという気持ちも生まれてくる。こうして子供達は笑顔を取り戻していった。

*大人たちの平和観
・公園の庭師(男性)=平和とはまず静寂、平穏ということ。平和でないときには。誰だってそわそわするだろう。落ち着いた暮らしができること、それが平和だ。
・裁判所職員(女性)=コスタリカ人にとって、平和とは、私たちに内在する固有の価値観で、私たちを私たちたらしめる重要なもの。自由を感じること。私たちの代表を選ぶことができること。国中を自由に移動できること。誰とでも気軽に話すことができること。思ったことを自由に表現できること。
・選挙最高裁判所(注)の判事=1949年以来、自由で公正な選挙を行ってきた。それは「民主主義としての平和」を意味する。
 (注)1949年の憲法改正でこの選挙最高裁判所の設置が決められた。

「豊かな自然環境」は、平和な社会のお手本
一人のエコツアーガイドさんのつぎのような森に関する説明が興味深い。「環境先進国」・コスタリカならではの発想だ。

 森は私たちの社会のようなもの。土、日光、水、木、草があり、菌類、虫、鳥、動物がいる。土、日光、水はインフラであり、動植物は私たちのようなもの。互いに競争することもあるが、結局は相互依存している。収奪しすぎると結局共倒れになってしまう。森は私たちに、私たちの社会がどうあるべきかを教えてくれる、最も身近な教材だ。
 自然界の多様性、生態系の循環とバランスは、私たちの社会と相似関係にある。それに気づくと、自然環境に対する見方も、私たちが生きている人間社会に対する見方も変わってくる。環境破壊が進むと、水や食糧など私たちの生活に必要なものすら得られなくなる。豊かな自然とともに暮らすことで、そこから平和な社会を建設するためのインスピレーションを得て、次世代へとつなぐ― と。

ぅ灰好織螢の平和観は前向きのイメージ
 これまで私たちは人間のことばかり考えていたが、「環境民主主義」という言葉が出てきたように、動植物はもちろんのこと、海や山、森の声にも耳を澄ませ、その意思と人間の意志をつむぎ合わせていかなければならない時代になってきた。このプロセスには終わりがない。だからこそ、その終わりなき働きかけこそが、「平和」という言葉がもつ、本質的な概念なのだ。

 コスタリカでの平和観には平穏、自由、民主主義、文化、尊厳、環境など、常に前向きな方向性が含まれている。より平穏に、より自由に、より民主主義的に、より尊厳を持って、より豊かな環境の中で生きる文化を、常に求めていこうとする思想がその底には流れている。

〈安原の感想〉 日本に「平和文化」が根付くのはいつの日か
 ここでは平和観の大きな違いに着目したい。コスタリカ人にとって平和とは、非武装を前提にして、平穏、自由、民主主義、文化、尊厳、環境など多様であり、しかもそれが日常の暮らしの中に「平和文化」として根付いている。駐日コスタリカ総領事も講演で「平和文化には歌や踊りを楽しむことも含まれる」と指摘している。だからこそ「軍隊がないのが当たり前」という感覚が広がっているのだろう。
 一方、日本人にとって平和とは、反戦・非戦を指している場合が多い。著者の足立氏はこれを「平和に対する想像力が働かなくなる状態」であり、「日本人が陥っている罠」であり、これでは「心が未来へ向かいにくい」とも指摘している。

 ただ日本とコスタリカが置かれている客観的状況の違いを見逃してはならない。それは日米安保体制下で日本が強大な軍事力を保有し、その軍事力行使への衝動を強めようとしていることである。だから日本の平和にとっては反戦・非戦も必要なのである。
 重要なのは、そこで足踏みしないで、平和観を発展させることである。それは反戦・非戦に重点を置く従来型の平和観から多様な非暴力を目指す21世紀型の平和観(反戦・非戦のほかに、いのち尊重、地球環境保全、資源エネルギーの節約、貧困・格差の解消、人間の尊厳、安心・安全など)をどう実現させていくかである。
 脱「日米安保」、非武装・日本の構築は、必要条件ではあっても、十分条件ではない。「平和=非暴力」を実現していく長い道のりの出発点にすぎない。われわれの日常の暮らしの中に多様な非暴力としての「平和文化」が定着するのは、果たしていつの日なのだろうか。


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意見不一致もよし、と考えよう
民主主義の原点と人間の器量

安原和雄
われわれは日本国憲法の下で「自由にして民主的な社会」に居を構え、暮らしていることになっている。それが建前でもあるが、実際は、首を傾げざるを得ない事例にしばしば直面する。その一例が意見の相違を嫌う風潮である。
 しかし考えてみれば意見の不一致、いいかえれば多様な意見の容認こそが自由な民主主義社会の原点ではないか。これを是認し、競い合うことによって、人間としての器量も磨かれるだろう。こういう思考のゆとりを否定したら、不自由な抑圧社会に向かって走ることにもなりかねない。(09年4月18日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽意見の不一致は民主主義の原点

 私が現役記者時代に書いた記事の整理をしていたら、つぎの一文(毎日新聞コラム「論説ノート」1988年12月25日付)が目に留まった。20年も昔の作で、題して「民主主義の原点」とある。その主旨は、意見の不一致はむしろ民主主義の原点と考えよう、ということだ。その要旨を以下に紹介する。  

 3度目の西ドイツ訪問をしたとき、これが民主主義の原点ではないかと感じたことがある。日独ジャーナリスト交流セミナーの席上、あるドイツ人記者がこういった。
 「conflict(コンフリクト)の上にこそ民主主義は成り立っているというのがヨーロッパ人の考え方だ。ところが非ヨーロッパ世界ではconfrontation(コンフロンテーション)しかない」と。
 また別のドイツ人から「日本人の意見に対し、こちらが意見を言うと、考えを発展させるのに役立つどころかむしろ妨げとなるらしい」という発言も飛び出した。

 例の日本人論の一つかと受け止めることもできようが、私はこれを軽く聞き流すわけにはいかなかった。コンフリクトは思想、感情、意見などの不一致を指しており、コンフロンテーションの方は、例えば東西対立のようにもっと緊張感を伴ったいわば敵対状態のことである。
 日本では意見の不一致を前提にしてもっと冷静に意見を述べ合うべきであるにもかかわらず、それが直ちに敵対関係に発展してしまうことがいかに多いことか。本島・長崎市長の「天皇に戦争責任はある」という発言を自民党などが撤回させようと動いたことは、その典型的な例であるといえよう。

 これでは「日本に民主主義そのものが存在しているのか」と海外から問われるとき、人権、平和、民主主義を掲げた現行憲法のもととはいいながら、自信をもってそうだとは答えにくい。(中略)コンフリクト(意見の不一致)もまたよし、考えたい。

▽今も変わらぬ? 日本の「非民主的・民主主義」

 意見の不一致を尊重しないで、いきなり敵対関係に近い状態になるという雰囲気は、決して20年前の昔話ではない。21世紀の今日でも余り変わっていないような印象がある。今も変わらぬ日本の「非民主的・民主主義」とでも呼んだらいいだろうか。一体どうすれば、ここからの脱出口を見出すことができるか。良策はあるのか。

脱出口(その1)― 愛語こそ天を動かす力がある

 脱出策の一つは、曹洞宗の開祖、道元(鎌倉時代の禅僧、1200〜1253年)の「愛語」の実践であろう。つまり愛の言葉を与えることである。これは異性間の愛情のことではない。慈愛の心を持って、言葉を発せよ、という意である。
 道元は言っている。「向かいて愛語を聞くは、面(おもて)を喜ばしめ、心を楽しくす」(顔を合わせながら愛語を聞くと、聞いた人は非常に嬉しく思う)と。
 さらに「愛語よく回天の力あるを学すべきなり」(愛語こそ天を動かすような力があるんだ)と。(西片擔雪著『碧巌録提唱』上巻から)

 なかなか難しいことではあるが、まず相手の声に耳を傾ける。そしてお互いに非難の言葉を投げ合うことを抑えることである。加齢と共に人の意見を無視し勝ちになる。お互いに自戒したいところだが、気になるのは最近、実年の世代、さらに若い人の間でご都合主義の自己主張ばかりが突出して、「聴く」という基本動作が疎(おろそ)かになっていることである。

 脱出口(その2)― 謙虚に複眼的に物事を見ること

皆、一人ひとり矢を持っている。その矢が人を活かす矢か、人を殺す矢か、その違いはこちらに謙虚さがあるかないか、に尽きる。謙虚さを欠いた善は偽善だ。人を殺す矢になってしまう。謙虚さを持った善は人を活かす矢だ。自分は完全ではない、欠点だらけだ、と自分の至らなさ、不完全さを自覚するところから生まれ出る謙虚さが人を活かすのだ。
 謙虚さとは、自分の不完全性を自覚することによって、複眼的に物事を見ることができるということだ。謙虚さがないということは、複眼ではなく、一方的にものを見て、一方的に非難することだ。

 人を活かす剣になるか、人を殺す剣になるか、ひとえに使う人の人間性にかかっている。「物を失う者は小さく失う。信用を失う者は大きく失う。勇気を失う者はすべてを失う」というが、真の勇気とは、実は謙虚さから生まれてくる。(西片擔雪著『碧巌録提唱』下巻から)

 「勇気を失う者はすべてを失う」とは至言である。その勇気なるものが謙虚さから生まれてくるとすれば、謙虚に日常生活を振る舞わなければならない。しかしこれまた「言うは易く、行うは難し」で、口先宣言に終わりかねない。
 私(安原)は最近、政権交代を目指す政治家にしても、新しい時代を切り開かんとする変革者にしても、現体制の担い手たちとの間の競い合いは、政策にとどまらず、人間力、器量の腕比べでもあると考えている。新しい時代を担おうとする者は人間力、器量の点でもより魅力的でなければ勝負にならないような気がしている。この点が見落とされ勝ちになってはいないか。これでは破壊者にはなり得ても、新しい価値観の創造者にはなりにくいだろう。


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「グリーンGDP」の導入を
脱「成長主義」へ転換するとき

安原和雄
 世界大不況への対策をめぐって経済成長政策論議が活発である。麻生首相も成長戦略を発表し、論壇誌などメディアも分析・提案に忙しい。その多くは経済成長論の焼き直しのように見える。しかし新自由主義路線破綻後の新経済モデルとして相も変わらず経済成長主義を追求するのは適切だろうか。
むしろここでは発想を転換して、経済成長には執着しない脱「成長主義」への転換を図るときである。しかも従来の成長主義のためのGDP(国内総生産)に代わる環境重視の「グリーンGDP」導入を提案したい。このことは、あのケインズ主義を超えることを意味している。(09年4月13日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽麻生首相の成長戦略構想への疑問

 麻生首相は4月9日、日本記者クラブでの記者会見で「新たな成長に向けて」と題する2020年までの日本とアジアの成長戦略を発表した。その骨子は以下の通り(朝日新聞09年4月10日付)。

1 はじめに
 「百年に一度」とも言われる経済危機。ピンチをチャンスに変えることができる国が大きな繁栄をつかむことができる。新たな成長戦略を示したい。名付けて「未来開拓戦略」。対象は2020年まで。伸ばすべき産業分野の姿と、その実現の道筋。

2 日本経済の未来
 2020年には実質GDP(国内総生産)を120兆円押し上げ、400万人の雇用機会を創出する。当面3年間で40兆円から60兆円の需要を創出、140万人から200万人の雇用創出を実現する。
・低炭素革命で、世界をリードする国=太陽光発電世界一プラン、エコカー世界最速普及プランなど
・安心・元気な健康長寿社会=30万人介護雇用創出プランなど
・日本の魅力発揮=キラリと光る観光大国など

3 アジア経済倍増に向けた成長構想
 アジアは21世紀の成長センター。膨大な中間層が育ちつつある。
・アジアの成長力強化と内需拡大

4 さいごに
 額に汗して働く。チーム全体で高い成果をあげていく組織力。日本のものづくりを支えてきたのは、この伝統。自らの強みを見失うことなく、その土台の上に作り上げたのが今回の成長戦略。日本とアジアの未来は明るい。

〈安原の感想〉21世紀版所得倍増計画はお目出度すぎる
一読して、池田内閣の所得倍増計画(1960年12月閣議決定、10カ年計画)の21世紀版ではないかという印象である。新安保(現行の日米安保条約)の強行締結に踏み切った岸内閣が退陣した後、「寛容と忍耐」のキャッチフレーズを掲げて登場した池田内閣の目玉政策が所得倍増計画という名の経済成長政策であった。「月給倍増政策」とも呼ばれた。
 10年間でGDP(当時は「GNP=国民総生産」という経済用語が使われていた)を2倍に増やし、国民生活を豊かにするという触れ込みで、本格的な高度経済成長時代を迎える。自動車、カラーテレビ、クーラーなどの新商品が一挙に普及したが、その半面、公害による深刻な被害も日本列島上に広がった。

それから半世紀を経て、時代は激変した。なによりも人類の生存にかかわる地球環境保全が最重要な課題となっていることである。だから地球環境保全と国民生活の質的充実(自然エネルギー、雇用、教育、健康、貧困対策など)のための多様なグリーン政策が必要である。しかし資源エネルギーの浪費と環境破壊につながる経済成長政策はもはや追求すべき課題ではない。首相の21世紀版所得倍増計画は時代感覚がずれてはいないか。まして「日本とアジアの未来は明るい」などという夢物語が通用すると考えているとすれば、お目出度すぎる。

▽『世界』の特集「日本版グリーン・ニューディール」にみる経済成長論

 論壇誌『世界』09年5月号(岩波書店刊)が特集「日本版グリーン・ニューディール」を組んでいる。その主な柱はつぎの通り。
*経済成長のパラダイム・シフト=佐和隆光(立命館大学教授)
*石油の終焉から持続可能なエネルギーの時代へ=槌屋治紀(システム技術研究所長)
*日本の環境エネルギー革命はなぜ進まないか=飯田哲也(環境エネルギー政策研究所長)
*若者を惹きつける農業の新たな価値=榊田みどり(ジャーナリスト) 
*林業再建のグリーン・ニューディール=熊崎 実(筑波大学名誉教授)
*介護分野に現代版ニューディール政策を本当に機能させるために=結城康博(淑徳大学准教授)
*エコツーリズムによる「自然と雇用」の融合=中嶋真美(玉川大学准教授)

 示唆に富む有益な論文が揃っているが、ここではトップ記事の佐和論文のうち経済成長に関する部分(要旨)を以下に紹介する。その主旨は「成長のための成長」を排し、「持続可能な成長」へ転換せよ、と読める。その疑問点にも言及したい。

《「成長のための成長」から「持続可能な成長」へ》

 地球環境問題の識者兼活動家として名高いレスター・ブラウンは「成長のための成長は、ガン細胞の増殖と何ら変わるところがない」と述べている。20世紀末の地球上に雑草のように繁茂していた経済成長至上主義に対して、環境保全至上主義者が打ち鳴らした警鐘である。増殖を続けるガン細胞は、宿主である臓器をむしばみ、ついには生命維持システムを破壊する。同様に野放図な経済成長は地球のエコシステムを破壊すると言うのだ。

 戦後日本の経済史を振り返ってみても、欧米先進諸国に「追いつき追い越せ」をモットーとする経済成長は、いつの間にか、「成長のための成長」すなわち経済成長が自己目的化し、実質国内総生産(GDP)の成長率を高めることのみが、経済政策の目的と化してしまった。
 産業界の錦の御旗には「経済成長こそが幸せの原点」と書き記されている。環境税を例にとれば、「その導入が成長率を低下させるから」というのが、反対の最たる理由として挙げられる。

 レスター・ブラウンは「だからゼロ成長を」と言うのではなく、成長の中身を見直すべきだと言うのである。(中略)
 「現世代が、次の世代がそのニーズを満たせるよう配慮しつつ、みずからのニーズを満たす」という持続可能(サステイナブル)な経済成長は、在来型の経済成長とはまったく位相を異にするのだ。要するに、今、私たちに求められているのは、経済成長のパラダイム・シフトなのだ。

 昨今、市場万能主義者の声は遠吠えと化し、代わって、財政出動を促すケインズ主義者(?)の声がやかましくなった。今、仮に本家本元のケインズに、世界同時不況の処方箋をと願い出れば、それは次のようなものだろう。「財政を出動させるのはいいけれども、使い途を誤ってはならないよ。教育、医療、環境、エネルギーなど『未来への投資』にカネを使いたまえ。いたずらに政府を大きくせよと私が言った覚えはない。必要なのは『大きくて賢い政府!』なのだよ」
 近時、日本でも頻用されるようになったグリーン・ニューディールという言葉が掛け声倒れにならないためにも、優遇税制などによる巧妙なインセンティブを、「賢明な政府」が迅速に仕掛けることを願いたい。

〈安原の感想〉「持続可能な経済成長」はあり得ない
以上の佐和論文では「成長のための成長」、さらに産業界の錦の御旗である「経済成長こそが幸せの原点」という考え、主張には疑問を投げかけている。これには賛成である。しかし同論文はゼロ成長を否定し、「持続可能な経済成長」の重要性を強調している。これにはいささか異を唱えたい。

「持続可能な経済成長」とは一体何を意味するのか。私は地球環境保全と生活の質的充実のために目指すべき新しい経済システムは「持続可能な経済」であって、「持続可能な経済成長」ではないと理解している。経済そのものと経済成長は同じではない。生産・消費・投資を含む経済活動そのものがなくなれば、人間は生存不可能に陥る。しかし佐和論文での「経済成長」は毎年、経済が量的に拡大していくことを意味しており、そういう経済成長は持続的ではあり得ない。
 目下世界が直面している世界大不況によって経済成長率がマイナスになっているのは、持続的ではあり得ない証拠の一つである。特に政府は「持続的経済成長」という言葉を安易に使いたがるが、それは例えば消費税引き上げを目論むための宣伝文句にすぎない。

▽ゼロ成長を含む脱「成長主義」へ転換しよう!

一般にプラス経済成長(GDP=個人消費、公共投資を含む財政支出、民間設備・住宅投資、輸出入差額など=の量的拡大)が毎年続かなければ、豊かな生活は実現できないという思いこみが強すぎないか。この思いこみは誤解、錯覚と言うべきである。経済成長がそのまま豊かな生活に直結しているわけではない。これからの経済のあり方としては脱「成長主義」への転換が必要である。
市場経済である以上、毎年の成長率を管理することは不可能で、プラス成長になったり、マイナス成長(経済の量的縮小)になったりする。平均してゼロ成長で十分と考えるのが脱「成長主義」である。重要なことは、プラス経済成長でなければ、経済は破滅するという思いこみを捨てることである。

〈提案1〉日本はすでに成熟経済であり、ゼロ成長で十分
 ゼロ成長とは年間GDPの量的規模が前年と同じ規模で推移することである。人間で言えば体重が増えもしないし、減りもしない状態である。
 日本経済の年間GDPは現在約500兆円で、すでに成熟経済の域に達しており、米国に次いで世界第2位の巨大な経済規模となっている。人間で言えば、すでに熟年であり、もはや体重を増やすことが目標ではない。人間としての人格、品格、智慧を磨くときである。同様に日本経済も「ゼロ成長、つまり500兆円の経済規模で十分」と考えて、成長よりも経済や生活の質的改善・充実に専念するときである。

〈提案2〉求めるべきは「持続可能な経済」
 政策目標として追求すべきことは「持続可能な経済成長」ではなく、「持続可能な経済」である。プラスの経済成長には資源エネルギーの浪費、自然環境の汚染・破壊を伴う。にもかかわらず量的拡大に執着するのは、子どもの頃もっと大きくなりたいと考えていたことを熟年になっても捨てきれないという幼さを感じさせる。そういう惰性から抜けきれない発想は思い切って捨てるときである。

ここで強調したいのは、GDPという概念にはもともとつぎのような限界、弱点があることだ。しかしなぜか、現代経済学者の多くは、限界、弱点を丁寧に説明することに怠慢である。そのため経済成長に対する誤解が広がっている。(レスター・C・サローほか編/中村達也訳『現代経済学 上・下』、TBSブリタニカ、1990年=参照)

*産出物の質を表示するには不完全な指標である=量を示すにすぎないので、個人消費や公共投資が増えても、それが生活の質の充実にそのままつながるわけではない。道路拡充と交通量増大が騒音、排ガス汚染、交通事故などを招くのはその一例。
*売買されない産出物を表示しない=市場で取り引きされないため、貨幣価値に換算できない豊かな自然環境、環境の汚染・破壊、健康と長寿、人間の尊厳や絆、品格、愛情、時間のゆとり、暮らしの安心・安全感 ― など生活の質にかかわるものは、GDPが増えても保障されるわけではない。
*所得分配を知るためにはまったく役に立たない=破綻したあの新自由主義路線下でプラスの経済成長を実現しながら、その一方で所得格差拡大、貧困、凶悪犯罪の増大をもたらしたが、それをGDPは表示できない。
 だから経済界などに見られる「経済成長こそ幸せの原点」という捉え方は錯覚である。「経済成長のためにも企業の売上増を!」という旗を掲げて、ノルマを課せられると、サラリーマンにとっては労働強化を強いられ、ノイローゼにもなりかねない。経済成長に執着することが不幸を引き寄せる一例である。

▽ケインズを超えるとき― 「グリーンGDP」の導入を

 新自由主義路線が破綻した後の新しい「経済モデル」をどう築いていくかが目下の大きな課題である。まず問われるのは財政拡大政策につながるケインズ主義に帰るだけで十分なのかである。麻生首相の「日本とアジアの成長戦略」も佐和論文の「大きくて賢い政府論」もケインズ主義への回帰は濃厚である。佐和論文はつぎのように指摘している。

 今、仮に本家本元のケインズに、世界同時不況の処方箋をと願い出れば、それは次のようなものだろう。「財政を出動させるのはいいけれども、使い途を誤ってはならないよ。教育、医療、環境、エネルギーなど『未来への投資』にカネを使いたまえ」― と。

 ケインズ(イギリスの経済学者、1883〜1946年)流の今日的「賢い政府論」は、グリーン政策にもつながるが、むしろ世界不況への処方箋として登場してきた。麻生首相の「成長戦略」もグリーン政策を志向してはいるが、21世紀版所得倍増計画であるからには、やはり成長主義に著しく傾斜している。つまり「百年に一度」の世界不況に引きずられているという印象が残る。成長主義に回帰するのでは、またもや景気の浮沈に大きく左右されかねない。
 ここは「百年に一度」の世界不況を好機として活用する視点に立ちたい。その軸となるのが脱「成長主義」、さらにグリーン政策を含む生活の質的充実 ― の2本柱である。その意味ではケインズに帰るというよりも、むしろケインズを超えるときではないか。

 私(安原)は国連主催の第一回地球サミット(1992年)の頃から脱「成長主義」への転換を唱えてきた。当時、グリーンGNP(今日で言えば、グリーンGDP)という新しい発想が浮上していた。このグリーンとは、自然環境全体を指すもので、環境破壊をマイナス要因としてGNPに反映させようという試みであった。当然、成長率は低下するが、環境を含めて生活の質を重視する考え方で、ケインズにはみられない発想である。しかしこの貴重な試みであるグリーンGNPは新自由主義路線の猛威の中で消え去っていた。今こそ復活させ、導入する好機と考える。

 もう一つ、ケインズの主著『一般理論』(1936年)は「戦争は富の増進に役立つ」として戦争を肯定している点が軽視できない。今日、ケインズに帰ることは戦争肯定につながりかねない。だからこそケインズを超えなければならない。世界大不況の克服策として軍事力行使を志向し、兵器増産など戦争ビジネスを潤し、経済を活性化させようとするのは時代錯誤である。あの「1929年大恐慌」から世界経済が立ち直ったのは、多くの犠牲者を出した第2次世界大戦を通じてであった。その再現は時代が許さない。

 ともかくケインズを超えるという視点が不可欠である。中長期の「持続可能な経済」戦略は、脱「成長主義」とグリーン政策を含む生活の質的充実(環境、医療、教育、社会保障、自然エネルギー、農林漁業、中小企業などの重視。財源は消費税上げではなく、環境税導入、大企業・資産家への優遇税制廃止、道路建設・軍事費の削減など)が主軸であるのが望ましい。短期の不況克服策はその一環に位置づけられる性質のものであり、それ以上ではない。


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新自由主義破綻後の企業と経済
「無心」の境地から観察すると

安原和雄
 新自由主義破綻後の世界経済のあり方を探るロンドン金融サミット(G20)が金融の規制・監督の強化路線を打ち出したのに続いて、我が国では「北朝鮮のミサイル発射」をめぐる「戦争ごっこ」で、誤情報騒ぎも織り込んで右往左往する始末となった。
 ここは冷静さを取り戻して、仏教の「無心」の境地から観察すれば、見えてくるものは何か。企業経営、経済運営ともに「慈悲の心」、「利他と感謝」、「少欲知足」がキーワードとして浮かび上がってくる。(09年4月6日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 臨済宗妙心寺派第31代管長の故西片擔雪老大師の『碧巌録提唱』(09年2月、岡本株式会社=岡本哲治社長=明日香塾編集発行・非売品)を手がかりに新自由主義破綻後の企業と経済のあり方を考えてみたい。
 序文に稲盛和夫・京セラ創業者が「人間が最も大切にしなくてはならない倫理観や道徳心が希薄化し、様々な問題が引き起こされている昨今、本書はそのような現代の社会を、より善いものにしていくにあたり、必ずや貢献するものと考える」と記している。
 岡本社長の解説によると、「『碧巌録』は唐から宋の時代に活躍した高徳の禅師の言行録から百話集めたもので、今日なお日本の禅宗では宗門第一の書」とされている。
 『碧巌録提唱』は1983年から10年間に行われた提唱を収録したもので、上・中・下の3巻で1600頁余に及ぶ大著である。そのうちごく一部を以下に紹介し、私(安原)の感想を付記する。

▽無心とは空のコップ、そして慈悲の心

 私は無心ということを説明するのに、空のコップのたとえ話をする。私たちの心というものは、憎い可愛い、惜しい欲しいという泥水がいっぱい詰まったコップのようなもので、もう何も注ぎ込むことはできない。しかしその泥水を捨て切ってコップをきれいに磨き上げれば、ビールなどが即座にたっぷりと注ぎ込むことができる。
 同じように本当にきれいな無心状態になると、森羅万象がことごとく、たちまち私たちの胸の中へ入ってきて私たちと一つになることができる。自他一如だ。相手と自分が一つになるのだから、相手の痛みが自分の痛みになり、相手の悲しみが自分の悲しみになっていく。相手の喜びは自分の喜びになってくる。
 無心とは、そういう相手と一体となった慈悲の心である。「仏心とは大慈悲心是れなり」。無心になることによって、そういう大慈悲心を自分のものとすることができる。

〈安原の感想〉地球も人間も「慈悲の心」を渇望
仏教、特に禅では無心は日常用語といえるほどに馴染みが深い。しかしこの無心なるものは、本当のところ何であるかが一般にはつかみにくい。頭では分かったつもりでも、身体で会得するのが難しい。ここでの「無心とは慈悲の心」という説法には「なるほど」と頷(うなず)くことができるが、その実践となると、これまた容易ではない。
 しかし地球も、世界も、国も、社会も、人間も、この「慈悲の心」を渇望しているのではないか。

▽世界の軍事費の1%を回せば、飢えを救える

 アフリカでは干魃(かんばつ)がひどい。子供たちがどんどん飢え死にしている。アフリカの飢えた子供たちを救えという運動が起こっている。アフリカ人口の3分の1、数百万人が餓え、死に瀕しているという。ただ世界の軍事費の1%を回せば、その人たちを救うことができるという。正論である。世界では1分間に130万ドルの軍事費が使われている。一方では1分間に30人の子供が飢え死にしているという報告がある。

〈安原の感想〉「戦争ごっこ」に右往左往しているときか
地球上の飢餓人口は約10億人で、6人に1人は飢えていることになる。この飢餓に日本は無縁かというと、実はそうではない。生活保護費を打ち切られて、食べ物がなく、最近、餓死した悲劇があった。
 その一方で巨額の軍事費が浪費されている。世界全体で年間約120兆円、うち米国一国だけで半分強を占めており、日本は年間約5兆円だ。ベトナム戦争で米国が敗北して以来、軍事力は無力化している。にもかかわらず軍事力に執着し、浪費を続けている。
 その世界の軍事費のわずかに1%といっても、1兆円を超える金額である。「北朝鮮のミサイル」を口実にした「戦争ごっこ」に右往左往して、血税を浪費しているときではないだろう。

▽利益とはお客様の満足料だ

 日本でも指折りのスーパーの社長さんが、雑誌の対談記事で立派なことをおっしゃっておった。その中で「利益とは、お客様の満足料だ。お客様の満足度に応じて利益が出てくる。お客様にその満足を得ていただくために従業員が努力したのだから、その利益は従業員にあげるのだ」と。
 普通、利益というたら、仕入れと販売との差額を、サービスをした当然の対価であると受け取る場合が多いけれども、「利益とはお客様の満足料だ」とサラッと言い切っておられた。競争の激しいスーパー業界で、その会社は売上高は日本一ではないが、利益ではなかなか奮闘しているということだ。こういう社長さんに率いられたら、ますます発展するだろうなと思いながら、その記事を読んだ。
 与えることのできる量の多い人ほど、徳の高い人と言えるのではないか。与えるというても、物を与えるのではなしに、人間的な何かを与えることのできる人、それが徳のある人と言うことができるのではないか。

〈安原の感想〉仏教経営の真髄は利他と感謝
 「仏教経営」なるものを心掛けている企業経営者は実は少なくない。「利益はお客様の満足料」という利他と感謝の心こそが仏教経営の真髄である。最近「企業の社会的責任」論議が活発になっているが、その核心はやはり利他と感謝である。これは企業経営に限らず、もっと広く経済全体の運営にも当てはまる。
 ところがその道理をわきまえず、手前勝手な私利中心の企業経営と経済運営に執着したのが、世界金融危機、大不況とともに破綻したあの新自由主義路線であり、その波に乗って悪用した企業群である。ごく当然の破綻であった。

▽「少欲知足」の教えが力を持ってくるに違いない

 戦前の日本は、貧乏は恥ではなかった。貧困に打ち勝つことこそ美徳だった。そういう昔人間からみると、今の日本の繁栄はまさに幻影ではなかろうか。まだ使える物を捨てて、修理できる物を修理しないでポイ捨てだ。昔でも物は最後には捨てられたが、必ず土か水に還って再生された。
 ところが現在の化学製品の多くは、土にも水にも還元しないで、汚染、公害の元凶となる。ゴミや廃品が出るのは、物が完全にそのはたらきを果たしていないからだと思う。
 「少欲知足」(しょうよくちそく)と申します。時節因縁が熟して、また「吾れ唯だ足ることを知る」の教えが力を持ってくるに違いないと思う。だいたい人間というものは、シンプルな生き方をするうちに、本当の安心感、安心立命、静かな喜びが生まれてくるものである。

〈安原の感想〉シンプルな生き方と質の改善・充実
 貪欲、強欲そのものの新自由主義路線が破綻した後の経済のあり方はいかにあるのが望ましいか。それは少欲知足であり、シンプルな生き方のすすめである。これは経済運営でいえば、成長主義にこだわらず、ゼロ成長で十分と考える立場である。
 経済成長はモノやサービスの量的拡大を意味するだけで、質の改善・充実とは無縁である。経済成長は人間でいえば、体重が増えるだけの意味しかない。米国に次いで世界第2位の経済大国・日本はすでに成熟経済であり、量的拡大に偏するのは良策ではない。大不況克服を名目とする成長主義の視点からの景気対策一本槍は時代感覚がずれている。
 むしろ温暖化防止、雇用創出、貧困克服などを織り込んだ日本版グリーン・ニューディールのような質的充実策が必要である。これこそが今日的「慈悲の心」、「利他と感謝」、「少欲知足」の経済版ではないかと考える。


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北朝鮮ロケットの「破壊命令」
真の標的は「血税と憲法9条」

安原和雄
北朝鮮の「人工衛星打ち上げ」をめぐってロケットの一部が落下してくるなど万一の場合を想定して、日本政府は自衛隊に「MD(ミサイル防衛)」による「破壊措置命令」を出した。命令を実行するためにイージス艦などがすでに配置済みとなっている。これは戦後初めて軍事力を行使する準備態勢を意味している。
 その真の標的は何か。目指すものは実は北朝鮮の脅威に名を借りた「MD利権拡大のための血税浪費」であり、ひいては「憲法9条の破壊」につながるとも言えるのではないか。(09年4月3日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 メディアの多くは、政府の説明をほぼそのまま報道するだけで、今回の「破壊措置命令」が何を意味するのかが霧の中に隠されている印象がある。それだけに多面的な情報、分析を素材にして真相を探る必要がある。その一つとしてつぎの「声明」を紹介する。
 これは「杉原浩司:核とミサイル防衛にNO!キャンペーン」による声明で、「みどりの未来」(環境政党を目指す市民運動組織で、共同代表は稲村和美・兵庫県議、井奥まさき・兵庫県高砂市議)のメーリング・リストで入手した。声明は4月1日に行われた〈「迎撃」名目のミサイル防衛発動を許すな!4・1防衛省行動〉の際、防衛大臣あてに提出された。

▽ ミサイル防衛発動をやめ、自衛隊を撤収させよ!

 【声明】の内容(大要)は以下の通り。
 緊張激化と憲法破壊のミサイル防衛発動をやめ、自衛隊を撤収させよ!
〜血税と9条を標的とした「迎撃ごっこ」の中止を求める〜

 3月27日、麻生政権は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による「人工衛星打ち上げ」に対して、「ミサイル防衛(MD)」を発動する「破壊措置命令」を決定した。現場指揮官に迎撃権限を丸投げする「文民統制」逸脱の命令を、浜田防衛相が発令し、空自PAC3部隊の首都圏展開及び浜松から東北への移動展開が行われた。SM3搭載の海自イージス艦2隻が日本海へ、非搭載1隻が太平洋へ展開した。米韓のイージス艦も展開している。
 自衛隊を戦後初めて戦闘準備態勢に入らせるこの措置は、歴史に大きな禍根を残す重大な転回点になりかねない。MDが「平時」に戦時体制を持ち込む危険な装置であることも実証された。

 北朝鮮のロケット打ち上げは、北東アジアの軍事的緊張を高め、軍拡競争を促進させる。私たちは北朝鮮に対して、打ち上げ中止を要求する。北朝鮮は、宇宙条約加盟や事前通告など正規の手続きを整えてはいるが、核開発に加えて長距離弾道ミサイル能力を獲得し対米交渉カードにすることへの懸念を払拭していない。「人工衛星」だと言うなら、ロケットを情報公開すべきだ。

 一方で、日米は、ロケット打ち上げを国連安保理決議違反だとしているが、ミサイルと確認できない現段階で、宇宙条約で保証された宇宙開発の権利まで制限することはできない。日本は、宇宙の軍事利用に踏み込む「宇宙基本法」を制定し、軍事衛星増強に向かっている。米国は、宇宙の軍事覇権に固執し、宇宙への兵器配備さえ視野に入れたMDを推進している。日米に一方的に北朝鮮を非難する資格はない。とりわけ日本は、米国でさえ「迎撃の用意はない」とする中、「潜在敵国の宇宙進出を軍事力によって阻止する」という2001年の米ラムズフェルド宇宙委員会のシナリオをなぞるかのような突出ぶりを見せている。

 北東アジアで繰り返される「ミサイル危機」の根本原因は、在日米軍の圧倒的な軍事力による北朝鮮や中国の包囲にある。トマホーク巡航ミサイルの増強やMD配備のみならず、原子力空母ジョージ・ワシントンの横須賀母港化や巡航ミサイル原潜オハイオの初寄港など、攻撃力の強化が続いている。日本も、イージス艦の増強やヘリ空母就役など、その攻撃性を進化させている。
 さらに、今回のMD発動は全くデタラメな茶番劇である。PAC3の実験は標的の飛翔距離が短い非現実的なものに過ぎず、ハワイ沖でのSM3の実験は失敗した。そして、日本政府が想定する、打ち上げ失敗によるロケットの突然の落下に対する迎撃は、当の米国さえ実験自体を実施しておらず、到底不可能である。今回の発動の目的は、データ収集とMD作戦の予行演習にある。

 MD発動の標的は、血税と憲法9条に据えられている。ここぞとばかりに自衛隊のプレゼンスを見せ付け、MDの正当性をアピールすること。さらに、戦時態勢に住民と自治体を動員することで憲法9条の足枷を取り払い、日米軍需産業に巨大なMD利権を保証することが目論まれている。これはまさしく、「憲法破壊命令」そのものだ。
 私たちは、北東アジアにおける軍拡競争が宇宙へと拡大しかねない重大な局面に立ち会っている。軍拡スパイラルからの脱却は、「ミサイル防衛」ではなく「ミサイル軍縮」の先にしかあり得ない。自らが相手に与えている脅威を自覚し、保有兵器を相互に削減していくアプローチを粘り強く探る以外に、持続可能な平和に至る道はない。

 米国のMDレーダーの建設候補地とされたチェコでは、市民の強力な運動によって、受け入れ協定批准が停止され、親米政権自体が崩壊に追い込まれた。私たちは、チェコの人々の努力に学びながら、MDからの撤退と北東アジアの脱軍事化に向けた取組みを継続することを表明し、以下の通り当事者に要求する。

*北朝鮮政府は、
・緊張を激化させるロケット打ち上げを中止し、宇宙開発計画の情報公開を行え。
・ミサイル発射実験と核・ミサイル開発を断念せよ。
*米国政府は、
・MD配備を撤回し、トマホークの発射態勢を解除し、すべての先制攻撃兵器を撤去せよ。
・「米軍再編」を中止し、核廃絶を行い、北東アジアから米軍を本国に撤収させ、縮小せよ。
*日本政府は、
・「破壊措置命令」を撤回し、自衛隊を即刻撤収させよ。
・PAC3のレーダー波の影響や発射時の爆風のガス成分などすべての情報を公開せよ。
・ミサイル防衛から撤退し、宇宙の軍事利用を放棄せよ。
・日米安保条約を破棄し、自衛隊を縮小・廃止せよ。  
*三者は、
・韓国、中国、ロシアなどとともに六カ国協議などあらゆる機会を活用して、北東アジアの非核・非ミサイル地帯化に向けた外交努力を行え。


2009年4月1日 核とミサイル防衛にNO!キャンペーン 事務局
(連絡先)東京都大田区西蒲田6-5-15-7
(E-mail)kojis@agate.plala.or.jp 
(TEL・FAX)03-5711-6478    
(HP)http://www.geocities.jp/nomd_campaign/

▽ミサイル防衛(MD)発動の標的は、血税と憲法9条

 今回のMD発動の真の狙いは何か。上に紹介した「声明」にはいくつかの示唆に富む指摘が含まれている。まず声明の基本的姿勢が公正であることを挙げておきたい。北朝鮮に対する感情的な反発を避けて、日米の対応を批判するだけでなく、北朝鮮への注文も忘れてはいないからである。 それにしても多くのメディアの反応は北朝鮮に対し、いささか感情的になってはいないか。この際、声明が言及しているつぎの諸点は冷静な検討に値すると考える。

(1)MDは「平時」に戦時体制を持ち込む危険な装置であること
「自衛隊を戦後初めて戦闘準備態勢に入らせるこの措置は、歴史に大きな禍根を残す重大な転回点になりかねない」という指摘に着目したい。
日本列島の上空で軍事力行使が公然と行われようとしていることの歴史的意味を見逃すわけにはいかないだろう。北朝鮮に対する国民の負の感情を巧みに操ろうとしているかにも見える。

(2)日米に一方的に北朝鮮を非難する資格はないこと
北朝鮮が悪玉で、日米が善玉という二分法は、ブッシュ前米大統領が得意とした手法だが、その手に簡単に乗せられるようでは、その結果としての災難はやがて我が身に降りかかってくるだろう。
 上記の声明の中のつぎ指摘はおおむね正しい。軍事力で見る限り、日米安保体制による日米軍事同盟を拠点とする日米一体の軍事力は世界最大にして最強である。

 北東アジアで繰り返される「ミサイル危機」の根本原因は、在日米軍の圧倒的な軍事力による北朝鮮や中国の包囲にある。日本も、イージス艦の増強やヘリ空母就役など、その攻撃性を進化させている ― と。

(3)MD発動の標的は、血税と憲法9条に据えられていること
以下の分析も的確といえるのではないか。

 ここぞとばかりに自衛隊のプレゼンスを見せ付け、MDの正当性をアピールすること。さらに戦時態勢に住民と自治体を動員することで憲法9条の足枷を取り払い、日米軍需産業に巨大なMD利権を保証することが目論まれている。これはまさしく、「憲法破壊命令」そのものだ ― と。

 「破壊措置命令」は何を隠そう「憲法破壊命令」そのものだという指摘はたしかに的を外していない。しかもそれがMD利権という血税の浪費にもつながることになれば、多くの国民にとって「泣きっ面に蜂」という表現ではいささか穏当にすぎるかもしれない。


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石田梅岩の先見思想を活かすとき
企業の社会的責任と新経済モデル

安原和雄
 江戸中期の思想家、石田梅岩の思想を現代風に見直そうという動きが広がりつつある。あの新自由主義路線の破綻とともにわが国の企業も経済もその針路を見失っており、新しい活路を発見できないまま、右往左往しているという事情が背景にある。先日開かれた経営倫理シンポジウムの基調講演のテーマが「見直そう石田梅岩の思想」であった。
 梅岩の思想は、持続可能性や共生の思想など今日的課題に応用できる先見性に富んでおり、シンポジウムでは「企業の社会的責任」論の先駆けとして評価された。これに加えて新自由主義路線後の新しい「経済モデル」構築の指針としても活用できるのではないか。(09年3月28日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽シンポジウム「企業不祥事はなぜ多発するのか」から

 「企業不祥事はなぜ多発するのか」と題する第一回経営倫理シンポジウム(日本経営倫理学会=小林俊治会長=主催)が09年3月23日早稲田大学(東京・新宿区内)で開かれた。
 まず平田雅彦氏(ユニ・チャーム監査役、元パナソニック副社長)による基調講演「見直そう石田梅岩の思想」の後、つぎの2つの企業実践報告を踏まえてパネルディスカッションが行われた。
・大谷秀幸氏(オムロン社 SSBカンパニー コンプライアンス部長)=テーマ「経営理念と経営倫理への取り組み」
・脇田 真氏(雪印乳業監査役)=テーマ「企業不祥事と企業再生への取り組み」

 ここでは基調講演「見直そう石田梅岩の思想」の内容(要旨)を紹介したい。
 「石門心学」で知られる江戸中期の思想家、石田梅岩(1685〜1744年)は丹波の生まれ。京都の呉服商に奉公、「人の人たる道」を求めて神道、儒学、仏教を独学で学んだ。43歳の時、番頭格になるが、退職し、京都の自宅で開塾。すぐれた弟子達に恵まれ、没後の最盛期(1830年代)には全国34藩、180箇所に塾が広がり、日本最大規模に発展した。その影響力は商人に限らず、武士にまで及び、老中松平定信の「寛政の改革」(1787〜1793年=倹約、貯蓄の奨励など)に直接参画した15名の大名のうち8名に石門心学の心得があったといわれる。
 石田梅岩の思想を現代風に表現すれば、つぎの4つの柱からなっている。
(1)社会的責任と顧客満足度の重視
(2)サステナビリティー(持続可能性)
(3)営利と倫理のバランス
(4)共生の思想

▽石田梅岩の思想を現代風に読み解くと ―

 以下、4つの柱ごとに概略説明したい。まず著作『都鄙(とひ)問答』(1739年刊)と『斎家(さいか)論』(1744年成稿)から要点を引用する。カッコ内はその現代的な意味である。

(1)社会的責任と顧客満足度の重視
 富の主(あるじ)は天下の人々なり(富は一般庶民のものである)、売物に念を入れ、少しも粗相にせず、倹約を守り(商品の品質・性能、サービス、コスト面でどこよりも優れたものをつくり、価格と利益を抑える)、さらに万民の心をやすむるなれば(スティ−ク・ホルダー=消費者、労働者、地域などを尊重すれば)、万物育(やしな)わるると同じ(自然の摂理に従うことになり)、常に天下太平を祈るに同じ(世界の平和を希求するのと同じである)。

 以上は、昨今の「企業は自分の利益のためにある」、という考え方への反論となっている。例えば目下米議会などで批判の的になっている米保険大手企業・AIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)の巨額ボーナス支給にみられる企業行動とは異質の考えである。特にコストを削減し、それによって価格、利益共に抑えることの重要性を指摘している。石田梅岩の「倹約を守る」とは、そういう意味である。

(2)持続可能性
 御法を守り、我が身を敬(つつし)むべし(コンプライアンス=法令遵守に徹し、おごり、自己中心を戒めなければならない)。商人といえども聖人の道を知らずんば、不義の金銀を設(もう)け、子孫の絶(た)ゆる理(ことわり)に至るべし。子孫を愛せば、道を学びて栄うることを致すべし(今日、グローバル資本の時代になって、企業が短期的視点で考え、その成果を期待し、過ちを犯している。子孫のことまで視野に入れながら、商売の持続性を考えなければならない)。

 江戸時代以降、商家の共通願望は、事業の継続にあった。200年以上続いた企業数をみると、韓国ゼロ、インド3社、中国9社、ドイツ800社で、これに比べ日本は3000社と世界NO.1である。持続可能性の重要性に着目したい。

(3)営利と倫理のバランス
 今日世間のありさまに、曲げて非なること多し。二重の利を取り、二升の似(まね)をし、蜜々(みつみつ)の礼を請(う)くることなどは危うして、浮かめる雲のごとくに思うべし(世間には昨今間違った言動が多すぎる。暴利を貪り、詐欺的商法を行い、さらに邪(よこしま)な金品を懐に入れることなどはとんでもない所業である)。
 是をそれぞれつつしむは只(ただ)学問の力なり(以上の間違った所業を慎むためには人の人たる道を修める以外にない)。
 身は苦労すといえども邪なきゆえに心は安楽なり(心の正しいあり方こそなによりも大切である)。

 アダム・スミス(イギリスの経済学者、1723〜90年))もその著作『道徳感情論』(1759年刊)で「幸福の究極とは平静な心の保持である」と説いている。同様の趣旨を石田梅岩も江戸時代中期にこの日本で説いたことは注目すべきことである。梅岩は倫理を欠いた営利の追求は没落への道だと強調したいのだろう。

(4)共生の思想
 世間のありさまを見れば、商人のように見えて盗人あり、実の商人は先(相手)も立ち、我も立つことを思うなり。紛れものは人をだまして、其の座をすます(その場の恰好をつけるだけに終わる)。

 「実の商人は先(相手)も立ち、我も立つことを思うなり」ーこれこそが共生の思想の表明である。自然との共生は日本の伝統であり、万葉集、和歌、俳句などに人間と自然との連帯感を見出すことができる。ここには自然を開拓し、文明を形成していく欧米の思想との質的な相違がある。自然の尊重、自然との共生という日本の伝統こそ世界に向かって発信していかねばならない。

《石田梅岩の思想にみる企業の社会的責任》
 以上のような4本柱にみる梅岩の思想は、今日風にいえば、企業の社会的責任(CSR=Corporate Social Responsibility)を意味しており、つぎのように表現することもできる。
 「持続可能なビジネスの成功のためには社会的責任ある行動が必要である。そういう認識を企業が深め、事業活動やスティーク・ホルダーとの相互関係に社会・環境問題を自主的に取り入れる企業姿勢でなければならない」と。
これこそが梅岩の主張の要点であり、今日の企業の社会的責任論に関する先見の思想でもあった。(以上、平田氏の基調講演から)

▽21世紀に光る梅岩の思想 (1)― その独自性

 1980年前後から日米英を中心に企業・経済思想の主流となってきたあの新自由主義路線(規制緩和、自由化、民営化を軸に弱肉強食の競争を強要し、貧困、格差を広げ、凶悪犯罪さえも誘発した)が「100年に1度の危機」ともいうべき世界金融危機、大不況とともに破綻した今、再生のための思想をどこに求めたらいいのか。その有力な手がかりとなるのが、石田梅岩の企業・経済思想である。

 梅岩の思想の今日的意義としてまず、その独自性を挙げたい。  
 主著『都鄙問答』(1739年刊)は、近代経済学の父ともうたわれるアダム・スミスの著作『道徳感情論』(1759年刊)の20年前、同『国富論』(1776年刊)の37年も前に書かれた。だから当時の近代的なヨーロッパ思想の模倣ではない独自性がうかがわれる。
 もちろん彼の思想の基底にあるのは、独学で学んだ神道、儒学、仏教であるが、明治以降のわが国の経済学(思想)が欧米に依存したのとは大きな違いである。特に1980年頃からのわが国の新自由主義論は米国版新自由主義に隷従したイデオロギーそのものであったのに比べると、梅岩の独自性は光っている。

▽21世紀に光る梅岩の思想(2) ― その先見性

 つぎにその先見性に着目したい。梅岩の思想の中核部分を再録し、その今日的意味を考えてみる。

*富の主(あるじ)は天下の人々なり(富は一般庶民のものである)
=今日の消費者、生活者、労働者など庶民が経済の主役であることを明示している。江戸時代の身分制度の下で一般庶民が主役であることをうたうには並はずれた勇気を要するが、その先見性は高く評価できる。

*万民の心をやすむるなれば(スティ−ク・ホルダー=消費者、労働者、地域などを尊重すれば)、万物育(やしな)わるると同じ(自然の摂理に従うことになり)
=万民の心を慈(いつく)しむことをすすめ、それが自然の摂理に従うことだと指摘している。これは仏教の慈悲と縁起(えんぎ)論の反映といえるのではないか。仏教の縁起論は、人間を含めてあらゆる事物は相互依存関係の下でのみ存在しており、それぞれが独自に存在することはあり得ないという真理を説いている。
 今日風にいえば、例えば企業は他者(=消費者、労働者、地域など)のお陰で成り立っている。にもかかわらず株主、経営者が企業を私物化し、利益を貪るのは自然の摂理に反する悪行ということになる。

*子孫を愛せば、道を学びて栄うることを致すべし(子孫のことまで視野に入れながら、商売の持続性を考えなければならない)
=江戸時代の当時、商家の念願は事業の継続にあった。この継続という願望、理念は今日の地球環境保全のキーワードである持続可能性(Sustainability)と重なる。当時の「子孫」は商家の子孫に限られていたかも知れないが、今日、地球環境保全は地球上の子孫、いいかえれば自然環境も人間も含めた地球全体の持続性にかかわっている。

*実の商人は先(相手)も立ち、我も立つことを思うなり。
=「先も立ち、我も立つ」とは「共生の思想」の表明にほかならない。人と自然との共生は日本の伝統的思想であり、自然を人間の下位に位置づける欧米の思想との質的な相違となっている。ここでは梅岩は本来の「人と自然との共生」に加えて「人と人との共生」も視野に収めている。こういう多面的な共生観を今日風に読み解けば、もっと視野を広げて、「人と地球との共生」にも行き着く。

 以上は、つぎの4つの柱に整理することができる。
(1)経済の主役は庶民(市民)
(2)慈悲と縁起論
(3)地球環境保全と持続可能性
(4)「人と人」、「人と自然」、「人と地球」との共生

 江戸中期に生きた梅岩の思想は、むしろ21世紀にこそ生き続ける先見性を秘めている。この優れた日本的思想をどう生かし、発展させていくか、それが今後の課題である。基調講演ではシンポジウムのテーマ、「企業不祥事はなぜ多発するのか」に答えるという問題関心から梅岩の思想を望ましい「企業の社会的責任」のあり方として、いいかえれば「企業モデル」として集約している。
これと重なってはいるが、もう一つ、新自由主義破綻後の新しい「経済モデル」として継承発展させることはできないだろうか。上記の先見性に満ちた4つの柱は、新しい「経済モデル」になり得る資格十分である。米国の経済思想の模倣から今こそ脱して、日本独自の経済思想を世界に向かって発信していく努力が求められる。


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地球温暖化対策をもっと積極的に
業界の意見広告に環境団体が反論

安原和雄
 日本経団連など経済・業界団体がわざわざ新聞の1ページ全面を使った意見広告で「日本はすでに世界トップレベルの低炭素社会」などと主張し、現状以上の温暖化防止策は疑問としている。これに対し、環境保護団体が早速「温暖化対策にもっと積極的に取り組むべきだ」という趣旨の反論を行っている。
 温暖化防止をめぐる論戦は結構だとしても、経済界の姿勢は消極的にすぎないか。政府は温暖化防止の中期目標を6月までに決める方針だが、経済界の姿勢に引きずられるようでは、世界における日本の存在感そのものが問われることになるだろう。目先の利害にとらわれないで、「地球環境の存続」という長期的視点に立つときである。(09年3月24日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽温暖化対策に対する経済団体の意見広告

 09年3月17日付大手紙朝刊に1ページ全面をつぶした意見広告が掲載された。紙面の真ん中に大きな縦見出しで「考えてみませんか? 私たちみんなの負担額」とある。何事か、と目を凝らしてみると、左下に日本経済団体連合会をはじめ日本商工会議所、関西経済連合会、電気事業連合会、日本建設団体連合会、日本自動車工業会、日本鉄鋼連盟、日本電機工業会、石油化学工業会、日本ホテル協会など計58のわが国の主要な経済団体・業界名が列記されている。

 意見広告の要旨を紹介すると、つぎの通り。

先頃、日本政府は、京都議定書に続く2013年以降の地球温暖化対策の新たな取り組みに向けた二酸化炭素(CO2)削減の中期的な目標を6月までに決定することを表明しました。
 私たちは、石油危機以降、家庭も産業も最大限の省エネルギー努力を推進してきました。その結果、日本はすでに世界トップレベルの低炭素社会となっています。従って裏付けのない過大なCO2削減には国民全体に大きな痛みが伴います。
 また日本がいくらCO2削減努力をしても、主要CO2排出国の参加がなければ地球温暖化問題は解決しません。次期国際枠組みには主要CO2排出国すべての参加が必須です。

*3%削減でも1世帯あたり105万円の負担。
 長期エネルギー需給見通し(経済産業省総合資源エネルギー調査会)によれば、2020年のエネルギー起源のCO2排出量を1990年比で3%削減(2005年比13%削減)するためには、約52兆円の社会的負担が必要とされています。これは1世帯あたりにすると約105万円の負担にあたります。

*日本は世界トップレベルの低炭素社会です。
 国内総生産(GDP)あたりのCO2排出量(2006年、キログラム)を国際比較すると、つぎのようになっています。
 ロシア4.25、中国2.68、インド1.78、オーストラリア0.82、韓国0.71、カナダ0.64、アメリカ0.51、EU(欧州連合)0.42、そして日本0.24の順で、日本が最も低い排出量となっています。

*主要CO2排出国すべての参加が必須です。
 京都議定書では、削減義務のない新興国や離脱した米国からの排出量が著しく増加した結果、削減義務を負う国の排出量は世界の3割にとどまっています。米国、中国、インド等の主要排出国が参加しないまま、次期枠組みをつくることは、それらの国が無制限な排出を続けることを国際的、制度的に認め、保証することです。これは地球規模の排出削減の観点からは全く無意味です。

 なお各国別排出量の世界全体(2006年=280億トン)に占める割合をみると、米国、中国が共にそれぞれ20%、インド、日本がそれぞれ4%、EU(15カ国)12%、これ以外の諸国が合わせて40%となっています。

▽意見広告に対する環境保護団体からの反論

 上記の意見広告に対し、環境保護団体・ 世界自然保護基金(WWF)は、3月17日反論の声明を発表した。その内容は以下の通り。

〈CO2排出削減対策に伴う負担増の意見広告に対するWWF声明〉

「考えてみませんか? 私たちみんなの地球の負担を」
 このまま温暖化が進むと、今世紀後半には地球の平均気温は4度上昇すると予測されています。その結果、海面が上昇、異常気象が頻発し、地球は大きな負担をおい、この日本にも計り知れない悪影響が起きることになります。

 しかし今ならまだその被害を、なんとか許容できるレベルで留めることができるのです。そのためには、全世界が協力して、京都議定書に続く2013年以降の温暖化対策の国際約束をしなければなりません。先進国には2020年までに1990年比で25〜40%の排出削減が、そして主要な途上国にも大規模な排出削減努力が求められています。

 日本政府は、2020年の中期目標を6月に発表することにしています。
 しかし、日本経済団体連合会を始めとする多数の業界団体が各紙朝刊に掲載した、CO2排出削減対策に伴うコスト負担に関する「考えてみませんか?私たちみんなの負担額」という意見広告は、中期目標達成の「コスト負担が過大になりすぎる」という誤った認識を誘導しています。

1.日本の一世帯当たりの負担が105万円になる?
(広告では、90年比で3%削減するためには52兆円かかり、世帯数で割ると105万
円になるとしている)

(ア)52兆円は1年の負担額ではなく、今から2020年までの累積額である。総世帯数で割ると一世帯あたり1年間の負担はざっと7万円である。
(イ)52兆円は、家庭だけが負担するものではない。国や企業を含めた負担額であり、国内で使われれば内需拡大、雇用増大につながる投資である。
(ウ)52兆円には、省エネ効果で浮くエネルギーコスト削減分などは含まれていない。国立環境研究所の試算だと4%削減ケースでは、追加費用よりも、エネルギーコスト削減額の方が上回り、日本全体では「負担」でなく「得」になる。

2.日本は世界トップレベルの低炭素社会? 
(ア)1990年にはそうであったが、今は追いつかれてしまっている。
(イ)GDPあたりのCO2排出量は、指標の選択によっては全く違った数字になる。為替レートではなく、物価の違いを反映する購買力平価で見ると、日本はほぼヨーロッパと同じであり、決してトップレベルというわけではない。
(ウ)一人当たり排出量では、途上国と大きな差がある。

3.排出削減の努力をコストが高いからと敬遠しても、温暖化を放置した結果、進んでしまう悪影響に対処する費用は、その数倍にのぼると予測される。温暖化の経済分析=スターン・レビュー(注)によると、世界全体で対策費用は世界GDPの1%だが、悪影響に対処する費用は、GDPの5%から20%もかかってくると予測されている。
(注・安原)スターン・レビューは「気候変動の経済学」ともいわれる報告書。2006年10月、世界銀行の元チーフ・エコノミストで、英国政府気候変動・開発の政府特別顧問、ニコラス・スターン博士がまとめ、06年12月、ナイロビ(ケニア)で開かれた気候変動枠組み条約の締約国会議でも紹介された。

 今は、京都議定書に続く次の国際約束を決める大事なときです。今私たちの世代が決断することが、将来の地球の運命を決めるのです。温暖化対策のコストを避けるために緩い目標で済ませるというなら、温暖化の悪影響のコストはいったい誰が負担するのでしょうか?
 WWFジャパンは訴えます。大事なのは、地球環境の存続です。その地球の将来がかかった決断の時期に、コスト負担が過大であるという誤った認識を広めて、温暖化対策を渋るのは、誰ですか?

■問い合わせ先:WWFジャパン気候変動プログラム 山岸尚之、小西雅子
(Tel:03-3769-3509、climatechange@wwf.or.jp)

▽ なぜ経済界は温暖化防止に積極的にならないのか?

以上、経済界の意見広告の内容と、それに反論する環境保護団体・WWFの主張を紹介した。数字などデータの是非をめぐってどちらの主張が正しいかについて私(安原)は客観的かつ公平な判断を下す立場にはない。
 ただ言えることは温暖化防止をめぐる経済界の主張はいかにも後ろ向き、消極的ではないだろうか。なぜもっと積極的な主張を打ち出せないのか。

 第一に逃げ腰の言い訳にすぎないような印象を与える意見広告をなぜ大げさに掲載する必要があるのか。
 多くの読者が「もっともな意見広告」と受け止めるだろうか。今回のような意見広告を出して、「してやったり」と思うような企業経営者は質的劣化が著しく、時代が何を求めているかを読みとれないのかといわざるを得ないだろう。
 小泉元首相流の表現を借りると、「抵抗勢力」である。「時代の流れにブレーキを掛けるような抵抗は止めなさい」という経営者自身の内なる「中立的な観察者」(アダム・スミス著『道徳感情論』から)の忠告が聞こえてこないのか。

 第二にいかにも業界レベルの目先の利害に執着しているという印象が否めない。
 WWFジャパンが上述の反論で訴えているように「大事なのは、地球環境の存続」なのである。昨今の企業人はとかく短期的な算盤勘定に立って、企業の存続を優先させようとする意識が強すぎる。これも破綻したはずのあの新自由主義路線の残影だろうが、ここでは長期的視野が不可欠である。地球環境の存続なくして、企業の存続もあり得ないことを銘記したい。

 第三に1ページ全面広告なら、温暖化防止のための歴史的宣言の場としてなぜ活用しないのか、不思議である。それとも米国に次ぐ世界第二位の経済大国でありながら、それにふさわしい自負も品性も見識も、もう一つ、リーダーシップも失っているのか。

 意見広告の「主要CO2排出国すべての参加が必須」という主張は、その通りであり、すでにそういう方向に動きつつあるのではないか。ブッシュ大統領時代に京都議定書から離脱した米国は、オバマ大統領の登場によって参加することになっている。
 一方、「日本は世界トップレベルの低炭素社会」という意見広告の主張にはWWFが反論している。経済界の主張通り、「トップレベル」だとしても、経済界としては「〈世界トップレベルの低炭素社会〉という名誉ある地位をさらに高めるために努力したい」と世界に向けて宣言する絶好の機会ではないのか。好機を生かそうとしない経済界の発想は惰性に流れている。
 
▽渋沢栄一の「君子の経営」に学び、実践するとき

 ここでは日本資本主義の父ともうたわれる明治・大正時代の財界指導者、渋沢栄一(注)の経営理念に学び、実践することを提案したい。
 (注)渋沢の生涯(1840〜1931年)は、江戸幕末に生まれ、昭和初年まで生きて、当時としては珍しく91歳という長寿を全うした。初代の東京商工会議所会頭に就任、日本の国際化に尽力、さらに500余のわが国中核企業の設立・経営に関与した。

 渋沢が好んだ論語につぎの言葉がある。
 「君子(くんし)は義に喩(さと)り、小人(しょうじん)は利に喩る」
 君子、つまり立派な人物は何が正しいかという道義中心に考え、行動するが、小人、つまりつまらない人間は、損得を中心に考え、行動するという意である。

 この論語の名句の精神を汲み上げて渋沢は利優先の「小人の経営」を排し、義に立った「君子の経営」を自ら実践した。といっても利益を無視したわけではない。渋沢の「論語=算盤説」は有名で、義を優先させながらも、論語=義と算盤=利の両立を追求した。今日、義利両立の経営とは、何よりも温暖化防止に優先的かつ積極的に貢献しようと努力する経営であり、それが長期的な利にもつながるだろう。
 それとも現下の経済界には小人の経営に甘んじる三流の企業人しか存在しないのだろうか。そうだとしたら、まことに不甲斐ないというほかない。


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「生命線」・シーレーンの確保
あの「海賊対策」がめざす本音

安原和雄
 ソマリア沖の「海賊対策」は本当のところ何を目指しているのか。海賊対策にとどまるのであれば、武装した海上自衛隊の護衛艦2隻がわざわざ出動する必要はないだろう。本音は、海上自衛隊にとって宿願であるシーレーン(海上輸送路)防衛の推進にある。護衛艦隊元司令官自身が「日本の生命線 シーレーンの安全確保」を力説していることに着目したい。
しかしこのシーレーン防衛に対し、「幻想にすぎない」という批判が根強いだけではない。「日本の生命線を守る」という認識自体に危険にして時代錯誤の臭(にお)いがつきまとっている。(09年3月19日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽大手紙の社説は「海賊対策」をどう論じたか。

 09年3月14日、護衛艦2隻が広島・呉基地を出港した。乗員は海上自衛隊員が約400人、海上保安官8人も同乗した。アフリカ東部のソマリア沖のいわゆる海賊対策が目的で、浜田靖一防衛相は自衛隊法に基づく海上警備行動を発令し、それを根拠に出港した。一方、海賊対策のための自衛隊派兵を随時可能にする「海賊対処法案」を閣議決定し、国会に提出した。今回の海上警備行動は同法案成立までのつなぎ措置である。

 つなぎ措置まで講じて、あわただしい出港となったが、この海賊対策なるものについて大手紙社説(3月14日付)はどう論じたか。まず見出しを以下に紹介する。なお朝日新聞はこの時点では社説で取り上げていない。

*毎日新聞=海賊対策 新法で与野党合意を目指せ
*読売新聞=海警行動発令 海賊放置の「無責任」解消へ
*日本経済新聞=ソマリア沖海賊法案の早期成立を望む
*東京新聞=海自ソマリアへ 『変則派遣』を危惧する

 これらの見出しからも推測できるように読売と日経が積極的賛成論で、毎日と東京が疑問点を指摘している。ここでは毎日と東京の社説要点のみを紹介する。
*毎日新聞=法案では武器使用基準を現行法より緩和するとともに、外国船舶も保護対象となる。(中略)重要なのは、今回の緩和が自衛隊海外活動全体の武器使用の無原則な拡大に結びつかないようにすることだ。自民党内には基準緩和を求める意見が根強い。
*東京新聞=問題なのは、現行法の枠内で海上自衛隊派遣の答えを導き出した点だ。海上警備行動は海上保安庁による対処が難しいときに発令され、本来は日本近海での活動を想定したものだ。自民党国防族が言う「海上交通路」防衛論の是非も吟味しないまま、アフリカまで守備範囲とみなすのは乱暴すぎる。国会での論議が足りていない。見切り発車には疑義がある。

 以上の社説を読んでみても、海賊対策なるものが本当のところ何を目指しているのかがつかみにくい。ただ東京新聞の〈「海上交通路」防衛論の是非も吟味しないまま・・・〉というさりげない指摘にヒントが潜んでいるのではないか。

▽ 「日本の生命線 確保を」― 護衛艦隊元司令官の主張

 たまたま自民党の広報紙「自由民主」(3月17日付)を読む機会があった。なんとそれに「ソマリア沖 海賊対策 ― 識者の見方」と題して金田秀昭・岡崎研究所理事(注)の主張が載っている。そのタイトルは「日本の生命線 シーレーンの確保を」が大きな活字の横見出しで、「断固として新法を成立させ国益を守り、国際社会に貢献」が縦見出しで躍(おど)っている。
 「日本の生命線 シーレーンの確保を」とは穏やかではない。これこそが首相官邸、自民党国防族、海上自衛隊を核とする日米安保堅持派が「海賊対策」という俗受けする名目の下に目指している本音ではないのか。

(注)金田理事は昭和20年生まれ、防衛大卒。海上自衛隊入隊後、護衛艦隊司令官などを歴任。平成11年退官し、ハーバード大上席特別研究員などを経て、現在、岡崎研究所理事、平和・安全保障研究所理事など。専門は安全保障・防衛問題。
 岡崎研究所の正式名称はNPO法人岡崎研究所で、理事長は岡崎久彦氏(元駐タイ大使、元防衛庁参事官など)で、タカ派として知られる安全保障問題の専門家。本人自ら「鷹は群れず」をスローガンに掲げて、「平和を叫ぶハトは非力だから群れる性癖があるが、タカは強いから群れない」と解説している。しかしタカ派に共通している軍事力依存症は果たして強さの証明だろうか。

 金田理事は海上自衛隊・護衛艦隊元司令官でもあり、その主張の内容(要旨)は以下の通り。

 日本の生命線となるシーレーンの安全確保を、日本単独で達成することは不可能であり、米国や世界の信頼できる海洋国家との連携が重要となる。今回の海自部隊の派遣は、国際的なシーレーンの安全確保に日本が関与することにより、日本の国益を守り、国際社会に貢献するという意義を持つ。
 政府はとりあえず現行法(海上警備行動)で派遣するが、海賊対処法(新法)が成立次第、同法での派遣に切り替える。

 新法は現行法に比し、三つの強点を持つ。
 第一は、日本関係船舶に限定した保護対象船舶を外国船舶にも広げる。これにより国際協力活動が可能となる。
 第二は、正当防衛に限定した武器使用権限に加え、民間船舶への著しい接近や進行妨害などを行い、警告に従わない海賊船に対し、船舶を停止させるための船体射撃が認められる。
 第三は、国連海洋法条約の海賊条項を国内法で整合させ、平素から海上保安庁や海上自衛隊に取り締まり権限を与える。これにより国際海域を航行する海自や海保の部隊が海賊行為に遭遇した際の対処について、国際規範に基づく明確な法的根拠が与えられる。

 海上警備行動は、とりあえずの「便法」である。あらゆる政治手的手段を使ってでも断固として新法を成立させるべきである。新法が根拠となれば、他国海軍部隊との連携も違和感なくはかどるであろう。さらに悲願の国際協力恒久法の制定に弾みをつけることも期待できる。
 官民間では挙国体制が実現する。元々「護衛艦」の名称は、商船の護衛に由来する。戦後半世紀を経て、日章旗(商船)と旭日旗(護衛艦)の渾然一体の場面が実現する。

 ここで大事なことは、国家挙げての負託である。国民の理解と期待が得られるならば、海自は結束して、いかなる困難も乗り越える気概を持つ。政府、与党は、シーレーン防衛の重要性について国民を啓発していかねばならない。
 国内政治はどうか。成熟した国家の政治では、安全保障の問題は政局とはならない。政権党を目指すのなら、民主党は新法を政局の材料とすべきではない。
大多数の国民は、民主党が新法に曖昧な態度をとり続けていることに疑念を抱いている。同盟国米国も不安視している。主要政党が、党派を超えて海自の壮挙を支持する姿勢を見れば、国民は安心し、海自は発奮するであろう。

 政治にお願いしたいことが、あと二つある。
 折しも防衛計画の大綱の改定や中期防衛力整備計画の策定作業が進捗(しんちょく)している。この機会に兵力整備(ヒト、モノ、カネ)や部隊運用など、抜本対策の方向付けを強く期待する。
 もう一つは、シビリアン・コントロールである。政治(行政)による部隊運用への過度な干渉は、百害あって一利なく、厳に慎むべきである。

 以上、海上自衛隊の護衛艦隊元司令官の考え方、主張は通常、多くの有権者には触れる機会が少ないと思われるので、少し長めに紹介した。
 「シーレーン防衛は日本の生命線」という主張から始まって、同盟国米国への配慮、民主党への注文、兵力整備の強化、シビリアン・コントロール(文民による軍人統制)への批判に至るまで海上自衛隊制服組の本心を吐露している。

▽「シーレーン防衛は幻想」― 元国防会議事務局長の見解

実は私(安原)はシーレーン(海上輸送路、あるいは海上交通路)防衛については以前から批判的関心を抱いてきた。この機会に28年も前の私のインタビュー記事(毎日新聞・1981年4月14日付「ゆうかんインタビュー」=東京版)を紹介したい。
 相手は海原治・元国防会議事務局長(防衛庁防衛局長、官房長などを歴任)で、「海上輸送路防衛は幻想」、「無数の船団、どう護衛」、「増強への口実にすぎぬ」という大きな見出しが並んでいる。念のため補足すれば、「増強への口実・・・」は、「日本の軍事力増強への口実」という意味である。
 小見出しを拾うと、「願望の先行 危険な発想」、「防衛庁にも具体策なし」、「米軍でさえ不可能だ」―などとなっている。

以上の見出しから記事の内容も推測がつくが、折角の機会なので一問一答の内容(要旨)を紹介したい。

安原:また海上輸送路防衛論が高まってきた。
海原:非常に危険だと思う。日本人は、こうしたいという願望だけが先行する。それをどう達成するか、その方法論を検討しない。それが日本人の発想の特徴だ。だからこわい。
安原:シーレーンの安全確保といっても具体的に何をするのか、どうもよくわからない。
海原:防衛庁にも具体策はないのが実情だ。平時なら対潜哨戒機を飛ばして日本周辺海域のどこにどれくらい(ソ連の)潜水艦がいるのか、その情報を米国に通報してやる。それが同盟国日本としての唯一の義務だ。しかしいったん有事になったら対潜哨戒機の基地は真っ先に破壊され、飛ばしたくても飛べなくなる。だから有事の時のシーレーンの確保をいうのは、ナンセンスだ。

安原:日本は経済大国だが、資源小国で、資源、エネルギー、食糧のほとんどを海外からの輸入に頼っている。したがってその輸入のための航路の安全確保は至上命題だといわれると、もっともらしく聞こえる。
海原:それが日本人が言葉だけでものを考える一番いい例だ。わが国は、世界中から輸入物資を運んできている。シーレーンは無数にあるわけで、その船をどうやって守るのか。それは幻想だ。

安原:昨年(1980年)話題になった清水幾太郎氏の『核の選択』(注)のように、空母部隊の新設などで日本のシーレーンを防衛すべきだという威勢のいい議論がある。防衛庁は、いまの海上戦力では不十分なので、もっと増強をと主張しているが、大規模な戦力を持てば、可能ということか。
海原:米海軍の責任者が不可能といっている。米海軍の威力をもってしてもできないことが、日本にできるわけがない。清水氏のあの論文は狂気の沙汰だ。実際に書いたのは清水氏ではなく、旧陸海軍のとんでもない連中だ。
 (注)清水氏の著作『核の選択』は〜ッ銚遽劼里燭瓩慮遽丗盞欧鯀強し、ハワイ南方まで守る、∧涜莠郡和發龍母部隊と同規模のものを二つ創設し、一つは北太平洋、もう一つはインド洋から南シナ海をパトロールする構想を提唱。その費用は計約12兆円。

安原:防衛庁の中期業務見積もりでは、最新型の対潜哨戒機P3C(一機80〜96億円)を37機調達することになっている。海上輸送路防衛論が高まると、装備近代化のピッチを上げるいい口実になる恐れがある。
海原:国民の税金で買う以上、どういう効果があるかを証明する必要がある。ところがその点は、秘密とか何とかいってむにゃむにゃとなる。それに米国の軍人や政治家が言うことだから正しいと考えてはいかん。ベトナム戦争の失敗がいい例で、介入を深め、結局失敗した。ところが防衛庁はいま、米国のお声がかりで渡りに船とばかりに、戦力の増強というかねての宿願達成のためまっしぐらということになっている。だから危険だと思う。

▽シーレーン防衛は危険で時代錯誤(1)― 歴史の教訓に学ぶとき

 インタビューから28年後の今、読み返してみて、現下の情勢と合わない部分もあるが、今なお当てはまるところも少なくない。
 はずれているのは、当時の米ソ冷戦時代の軍事的対立国・ソ連は崩壊し、今では存在しないことである。一方、今日もなお生きていて、策謀の目標になっているのがシーレーン防衛に名を借りた戦力増強である。

 上述の金田護衛艦隊元司令官は兵力整備(ヒト、モノ、カネ)を強調している。この兵力整備路線の先には空母(航空母艦)部隊の新設も意識の底に潜んでいるのではないか。お隣の中国に空母部隊新設の動きが取り沙汰されているだけにこのテーマは軽視できない。
 これはかつての空母部隊新設をめざす清水構想という亡霊がよみがえることを意味する。清水構想によれば、当時の推計で空母新設の費用は計12兆円というから、現在の年間防衛費総額約5兆円と比べてみれば、いかに巨額財政資金の浪費であるかが分かる。

 強調しておきたいのは、シーレーン防衛という発想そのものが危険であり、時代錯誤だという点である。なぜそういえるのか。
 まず「日本の生命線・シーレーンの防衛」という発想自体に危険な臭いがつきまとっているからである。日本人だけで310万人の犠牲者を出したアジア太平洋戦争に伴って叫ばれたスローガンが「日本の生命線の死守」であった。「満州・蒙古は日本の生命線」、「アジア南方の石油資源確保は日本の生命線」などである。「生命線の確保」は戦争と表裏一体の緊密な関係にあった悪しき歴史の教訓を忘れてはならない。

▽シーレーン防衛は危険で時代錯誤(2)― 武器使用の自由化が意味するもの

「海賊対策」の名目で始まった海上自衛隊の海外派兵は、期限なく常態化することはほぼ間違いないだろう。新しい「海賊対処法」が国会で成立すれば、武器使用がかなり自由になる点を重視したい。これは従来の自衛隊の海外派兵が米軍などに対する「後方支援」にとどまり、武器使用が制約されていたことからの質的転換を意味し、海外情勢の変化によっては例の集団的自衛権の行使、つまり海外での日米共同作戦につながる懸念もある。

 しかも金田元司令官のつぎの言辞が気になる。
 「海自は結束して、いかなる困難も乗り越える気概を持つ」
 「政治(行政)による部隊運用への過度な干渉は、百害あって一利なく、厳に慎むべきである」
特に後者のシビリアン・コントロールを拒否するような姿勢から、実戦を体験してみたいという自衛隊制服組の勇み立つ心情を読みとることは見当違いではないだろう。日本から遠く離れた海域で「海賊」と「敵国の艦船」の区別が曖昧になって、国民の知らないうちに「交戦状態に突入」といったテレビや新聞の大見出しに仰天させられる事態も絶無とは言えない。

▽シーレーン防衛は危険で時代錯誤(3)― 地球環境保全時代には不適切

 もう一つ、シーレーン防衛の大義名分は、石油や食料など資源輸入のための海上輸送路の安全確保である。しかし今や地球温暖化防止など地球環境保全を優先させるべき時代である。
 地球温暖化の原因である二酸化炭素(CO2)を排出する石油の海外依存度を減らして、国内での再生可能な自然エネルギー(太陽光、風力、水力など)開発へと転換を図るときである。その転換の具体例がオバマ米大統領の「自然エネルギー開発と雇用創出」を目指すグリーン・ニューディールである。
 一方、40%という先進国最低のわが国の食料自給率を引き上げることが大きな課題となっている。食料の輸入依存度が減れば、それだけ海外からの長距離輸送に伴うCO2の排出量も減り、温暖化防止にも貢献できる。

 今日の地球環境保全優先時代には石油や食料の海外依存度を大幅に削減する努力を軽視して、幻想とも言うべきシーレーン防衛にこだわるのは、いかにも不適切な作戦であり、時代錯誤というほかないだろう。 


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断ち切れない金権政治の構図
2大政党制に展望はあるのか

安原和雄
 西松建設の献金をめぐって小沢一郎民主党代表の秘書が逮捕されたことから、政界はにわかに混迷を深めている。つぎの総選挙では民主党が勝利し、民主党政権の誕生も、という可能性に暗雲が垂れ込めているだけではない。今もなお断ち切れない金権政治の構図が浮かび上がってきた。
 しかも自民、民主両党共に「カネの腐敗」に汚染されているとなれば、世に言う「2大政党制」なるものを手放しで持ち上げることに疑問符を付けざるを得ないだろう。2大政党制に果たして展望を見出すことはできるのか。(09年3月12日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽「日本株式会社解体論」が提起したこと

 「最近の一連の各新聞社の世論調査をみると、国民の間にすっかり定着した政治不信の強さとその広がりには驚かされる。なぜこれほどまでに政治不信が高まったのか」

 この一文は、最近の政治不信の状況を指摘したもののように読めるが、そうではない。実は今から20年も前の月刊誌『世界』(1989年6月号・岩波書店刊)に私(安原)が執筆した論文「日本株式会社解体論」の冒頭の書き出しである。日本株式会社とは、政・官・財(業)3者の相互癒着関係を指している。その社長は首相であり、日本があたかも一つの株式会社のように機能するところからこう呼ばれた。
 当時、その日本株式会社の改革をめぐる論議が盛んであった。改革論議の火付け役となったのが、あの名高いリクルートスキャンダルである。このリクルート事件はリクルート社が未公開株を将来の値上がり益を見込んで政・官・財さらにメディアにまで広範にバラ撒いた事実上の金銭供与汚職であった。いいかえれば日本株式会社的構造の中で発生した大型汚職であった。

 安原美穂・元検事総長はリクルート事件をつぎのように論評した。
 「リクルート事件なるものは、ロッキード事件とどう違うか。ロッキード事件は、いわば田中角栄といった人達の個人プレーだったといえる。対照的に今回のリクルート事件は、未公開株が政・財・官の裾野広く、すこぶる広範にバラ撒かれており、これはやはり“構造的”という言い方ができるかもしれない」(『文藝春秋』89年5月号)。

 以上のような構造汚職を発生させた日本株式会社を解体するには何が必要か。私は論文の中でつぎの4点を指摘した。
*企業献金から個人献金へと転換すること。そもそも選挙権を持たない企業が巨額の政治献金を行うこと自体がおかしい。
*官庁の許認可権を土地、都市、健康、安全、自然、環境などにかかわる分野を除いて原則として廃止すること。
*政策決定過程に透明性を確保し、そこに消費者の視点を十分に反映させること。
*政権の交代をすすめること。自民党の長期単独政権が腐敗の温床になっていることに目を向ければ、政権交代は急務である。

▽自民党の長期単独政権時代から連立政権時代へ

 上記の論文執筆から4年後の1993年8月、細川護煕氏を首相とする連立内閣が誕生し、自民党一党支配の時代は終わった。細川首相は8月の初閣議後に発表した首相談話の中でつぎの2点を強調した。
*この政権が「政治改革政権」であることを肝に銘じ、政治改革関連法案を本年中に成立させるべく総力を結集していく。
*政・官・業の癒着体制の打破や規制緩和、地方分権などにも本格的に着手していく。

 しかも細川首相は初の記者会見で「政治改革関連法案が年内に不成立の場合、政治的責任をとる」とまで明言した。

 以上のような細川新政権の姿勢について私(安原)は論文「戦後経済システムの変革をこそ ― 脱〈日本株式会社=拝金主義〉のすすめ」(『世界』1993年10月号)でつぎのように指摘した。
 「政治改革は重要であるが、癒着体制の打破、解体こそ優先すべき課題であって、政治改革はそのための手段であろう。そのあたりの位置づけと優先順位が逆になってはいないか。まして政治改革の中心テーマが小選挙区比例代表並立制の導入による選挙制度改革に偏することになれば、政治の金権腐敗の一掃は絵に描いたモチに終わる可能性もある。(中略)政権交代はようやく実現した。だからといって政権交代が自動的に日本株式会社の解体と拝金主義との決別をもたらすわけではない。戦後経済システムを支えてきた政官財それぞれの変革が不可欠である」

 ここで強調したかったことは、自民党一党支配後の新たな連立政権も決して万能ではないという点である。大きな期待を抱くのは、幻想に終わるしかないことを示唆した。

▽政権交代も金権政治を断つ保証はない

細川政権の政治改革の名の下に導入された小選挙区制は金権政治をどこまで打破できただろうか。自民党単独支配時代の終わりから15年余経過した2009年の現在、金権政治を一掃するどころか、むしろ金権政治色を強めた。
 その挙げ句の果てに今回の準大手ゼネコン・西松建設(東京都港区)による違法献金疑惑が表面化し、小沢一郎民主党代表の公設第一秘書や西松建設の前社長らが政治資金規正法違反容疑で逮捕された。東京地検特捜部によると、2003年から06年までの4年間に総額2100万円が西松建設のダミー政治団体から小沢代表の資金管理団体「陸山会」に企業献金として渡されたとされている。西松建設側の献金の狙いは、いうまでもなく大型公共工事の有利な受注にある。

西松建設から企業献金を受けたのは民主党の小沢代表に限らない。政治資金パーティー券購入なども含む献金を受けたのはむしろ自民党に多い。二階俊博経済産業相、森喜朗元首相、加納時男参院議員ら約10名の顔ぶれが挙げられている。

 ここで強調したいことはつぎの点である。
 細川新政権の発足当時、私が指摘した「政治改革の中心テーマが選挙制度改革に偏することになれば、政治の金権腐敗の一掃は絵に描いたモチに終わる」ことは残念ながら昨今の現実そのままではないか。
 しかも「政権交代が自動的に日本株式会社の解体と拝金主義との決別をもたらすわけではない」という指摘も今日ほぼそのまま通用する。いいかえれば政権交代が実現したからといって、それが金権政治を断つ道を保証するわけではないことを示している。

▽2大政党制に期待できるか(1)― 質的違いが必要条件

 前回の参院選挙で民主党が圧勝したため、自民党と民主党との二大政党制下での政権交代が現実味を帯びてきていたことは間違いない。つぎの総選挙では民主党の政権誕生か、という空気も広がっていた。私(安原)自身、ここで自民党には退陣して貰い、民主党が政権の座について、どこまで自民党とは異質の政治を展開できるのかを観察したいという気分にもなっていた。
 その矢先の小沢民主党代表の秘書逮捕である。遅くとも9月までには行われる総選挙を前にして「なぜ今逮捕なのか」は当然の疑問といえる。小沢代表自身、「簡単には投げ出さない。(自民党は)50年以上続いた政権党だけに、(江戸時代末期の大老・井伊直弼が行った)安政の大獄のようなことをする」と言った。これは「自民党の差し金による国策捜査で弾圧されている」(毎日新聞3月11日付)という認識を示すものである。

 以上のような疑問点を軽視することはできないが、ただ私の関心事は小沢代表や民主党の考え方、政策は自民党の政策と比べてどの程度異質なのかである。2大政党制に実質的な存在価値を持たせるためには政策面や金権体質などで質的違いがあることが必要条件である。そうでなければ国民にとって選択の余地がなくなる。

*安全保障=日米安保体制について
 小沢代表は先日「米国の第7艦隊で米国の極東におけるプレゼンスは十分」という趣旨の発言をし、話題となった。しかしこの発言は安保無用論ではない。日米安保堅持派であることに変わりはなく、この点では自民党と大差ない。
*生活重視について
格差や貧困を広げた新自由主義路線が破綻した後だけに民主党として生活重視の路線を打ち出していることは評価できる。一方、自民・公明の現政権もなりふり構わぬ生活重視政策に傾斜する姿勢をみせており、これと民主党との政策がどの程度異質なのかが必ずしも明確ではない。
*金権体質について
自民党の根深い金権体質はいまさら指摘するまでもないが、今回の小沢代表の秘書逮捕で小沢代表にとどまらず、民主党の評価も急落した。有権者としては「民主党よ、お前もか」と言いたいところであろう。

 以上は自民党と民主党との間に大きな違いはないことを示しており、これでは2大政党制を持ち上げ、それに期待をかけること自体を疑問視せざるを得なくなるのではないか。

▽2大政党制に期待できるか(2)― メディアの責任

 多くのメディアも2大政党制に期待をかけてきた。しかし今微妙な変化もみられる。一例として朝日新聞社説(要旨)を取り上げよう。

*朝日社説(09年3月7日付)=西松献金事件 国民の嘆きが聞こえぬか(見出し)
小沢氏の責任は重い。政権交代がかかる総選挙が目前に迫るこの時期に、結果として、挑戦者としての民主党の勢いを大きくそいでしまった。(中略)
 いまの政治の停滞に大きな責任のある自民党と麻生政権に、「敵失」を喜ぶ余裕などあろうはずがない。
 「清潔な政治」を掲げる公明党はなぜ、こんなにおとなしいのか。
 2大政党のどちらにも1票を入れる気にならない。有権者の深い嘆きが政党や政治家に聞こえているか。

*朝日社説(同年3月10日付)=民主党 この不信にどう答える(見出し)
 土建政治にどっぷり漬かったかのような小沢氏の姿を見せつけられ、有権者が裏切られた思いを抱いているのは間違いない。
 今後、捜査がどう進展するかはわからない。だが、有権者の不信をどう受け止めるか。政治変革の旗振り役として、小沢氏は本当にふさわしいのか。党をあげて率直な議論を始めるべきだ。政権交代への国民の期待をしぼませてはならない。

 この2つの社説の微妙な論調の違いは興味深い。まず3月7日付では「2大政党のどちらにも1票を入れる気にならない」と書いた。これは2大政党制そのものへの拒否反応とも読みとれる。「有権者の深い嘆き」はいかにも情緒的な表現だが、筆者自身の嘆きでもあるのだろう。
 10日付では一転して調子が変わった。「政権交代への国民の期待をしぼませてはならない」と政権交代と2大政党制への期待の表明に重点が置かれている。「拒否反応」から「期待表明」への変化の背景に何があったのか。私(安原)の想像だが、論説室内で議論があったのではないか。朝日の論説は2大政党制肯定論の立場であった。それを否定すると受け取られるような社説は好ましくないという意見に集約されて「期待表明」の社説に戻ったのではないか。

 しかし2大政党制にこだわるのはいかがなものだろうか、いささか疑問である。周知のように自民、公明、民主の各党とはかなり異質の共産党、社民党などが少数政党とはいえ存在している。特に共産党の存在は最近では国際的にも知られ、海外のメディアで紹介される記事が増えている。その背景にはつぎのような事情がある。

*税金から政党助成金として320億円が各政党に配分されている。これは企業・団体献金を受け取らない代わりとして導入されたものだが、共産党はこれを受け取っていない。
*経済政策の基本スローガンとして、「ルールなき資本主義」から暮らしをまもる「ルールある経済社会」へ ― を掲げて、生活や労働の現場に密着した地道な活動をつづけている。破綻した新自由主義路線に明確な批判論を継続的に展開してきた。
*最近、新規の入党者が増えている。また戦前のプロレタリア作家、小林多喜二の『蟹工船』(蟹工船で奴隷のような労働を強いられた労働者の闘いを描いた小説)やマルクスの『資本論』(資本主義社会を根源的かつ批判的に分析した著作)が最近多くの読者を得ている。

 メディアは2大政党制の枠を超えて広い選択の機会を有権者に提供してほしい。それがメディアの仕事であり、責任でもある。そういう努力を欠いては、金権政治の改革も国民生活の質的改善もしょせんスローガン倒れに終わるとはいえないか。


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地球温暖化対策は緊急の課題
小さな島国の首相が日本に苦言

安原和雄
 ツバルそしてニウエという国名をご存知だろうか。両国とも南太平洋上に浮かぶ小さな島国で、ツバルは地球温暖化に伴う海面の上昇で国そのものが沈没の危機にさらされており、一方、ニウエのタランギ首相はこのほど来日し、3月5日、日本記者クラブ(東京・千代田区内)で記者会見を行った。席上、「地球温暖化の悪影響は将来ではなく、現に起こりつつあり、その対策は緊急を要する課題」と強調した。この発言は私には日本は地球温暖化対策で少しのんびりし過ぎているのではないか、という苦言と聞こえた。(09年3月6日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 ニウエのタランギ首相の来日は、5月に北海道で開く第5回「太平洋・島サミット」に向けて日本政府と打ち合わせるためで、すでに麻生首相、中曽根外相らと会談した。5月のサミットでは麻生首相とタランギ首相が共同議長を務める。
 この「太平洋・島サミット」は、オーストラリア、ニュージーランドを含む南太平洋の16の島国・地域が参加する太平洋諸島フォーラム(PIF)と日本が地球環境問題を中心に意見交換する国際的な場で、1997年以来、3年ごとに日本で開かれてきた。

 なお参考までにいえば、ツバルは面積30平方キロ、人口1万人。ニウエは面積260平方キロ、人口2200人。
タランギ首相の横顔を紹介すると、ニウエ生まれの58歳、ニュージーランドの大学卒で、農業科学学士。08年首相に就任するまでに財務、郵政・通信、教育・環境大臣を歴任、現在、上記の太平洋諸島フォーラム議長のほか、ラグビー協会会長なども務めている。

▽小さな島国の首相会見 ― 「気候変動の被害はすでに進行中」

 小さな島国のタランギ首相が記者会見で語った内容(要旨)はつぎの通り。

・考えてみると、日本も島国 ― といっても規模ははるかに大きいが ―で、 われわれ島国と同じであり、今後一層良好な関係を築いていきたい。
・気候変動(地球温暖化など)による海面上昇のため、ツバルは国土のほとんどが冠水しており、水からの多様な危険に直面している。このテーマはわれわれ島嶼(とうしょ=大小のしまじまの意)だけではなく、世界中の海岸線のある国に共通のものであることをしっかり認識すること、その上で環礁(かんしょう=環状をした珊瑚礁)になっているツバルなどは被害が甚大だという認識が必要だ。

・気候変動対策としての二酸化炭素(CO2)削減というと、なにか未来の抽象的な印象になるが、これは決して抽象的な話ではなく、われわれ島嶼国は日常的にひしひしと気候変動に伴う変化を感じている。だから迅速な対応策をとらねばならない。いますぐ対策をとったとしても、こわされている環境、気候上のバランスを取り戻すには相当の年月を要することを認識しなければならない。
・(例えばツバルは今後何年くらいで水没するだろうという具体的な予測はあるのか、という質問に対して)そういう予測の数値は持ってはいない。完全水没は50年後かも知れない。しかし島民たちがすでに具体的な被害を受けており、生命の危険にさらされていることを強調したい。重要なことはそのプロセスが目下進行中だということだ。このトレンド(傾向)を反転させるには、今日の事態をもたらしたこれまでと同じ年月が必要となるのではないか。

・一国の島が沈没するのであれば、他国へ移住すればいいではないかという意見もあるが、そういう問題だけでは済まない。例えばツバルがオーストラリアに移住したとして、そのオーストラリア内に主権を築くことができるのかどうかというむずかしい問題がある。
・いま起こっている気候変動に伴う現象は、特定の国に限られるものではなく、世界的な現象である。この事実を認識できないとすれば、それは人間のあり方として問題とはいえないか。(以上は記者会見)

 南太平洋に浮かぶ島嶼国の一つ、ニウエという小国からやってきた首相の記者会見があるというので、興味も手伝ってわざわざ出かけて聞いた。同じ南太平洋上の環礁島、ツバルはすでに海面上昇によって国土のかなりの部分が波に洗われており、島国ぐるみ沈没の危険があることで知られているが、ニウエという島国は失礼ながら私(安原)の視野になかった。
 しかし記者会見での話しぶりを聴きながら、私は内心、自らの不明を恥じていた。「この人物は、我らが日本国宰相、麻生首相よりも見識があり、立派なのではないか」と思い始めたのだ。後で貰った横顔紹介文を読むと、なんと「政治、経済、文化における見識を幅広く有している」と明記してある。日本の政治家でこれだけの幅広い見識を、多少の誇張を交えても、誇ることのできる人物が果たして何人いるだろうか。

▽大きな島国・日本への苦言 ― 環境先進国に転換できるのか?

 上記の記者会見の内容で、注目すべき発言を拾い出してみると ―
・水からの多様な危険(生命の危険も含めて)に直面しているのは、ツバルに限らず、海岸線のある世界中の国に共通している。
・気候変動問題には迅速な対応策が必要だ。いますぐ対策をとったとしても、環境、気候上のバランスを取り戻すには相当の年月を要することを認識しなければならない。
・気候変動に伴う現象は、特定の国に限られるものではなく、世界的な現象で、この事実を認識できないとすれば、それは人間のあり方として問題だ。

 以上の発言は私には大きな島国・日本への苦言と聞こえるが、どうだろうか。
 「海岸線のある世界中の国」にはもちろん大きな島国・日本も含まれる。日本としての備えは大丈夫なのか、という忠告ではないのか。「気候変動問題には迅速な対応が必要」という発言は、特にEU(欧州連合)に比べて消極的であり、出遅れ感の否めない日本への明確な苦言としか読みとれない。
 最後の「気候変動を世界的現象としてとらえないとすれば、人間として問題だ」はこれまた手厳しい日本批判とはいえないか。

 日本は従来地球環境問題を経済成長の制約条件ととらえて副次的な位置づけしか与えなかった。しかし今や地球環境問題の打開なくして経済発展(国民生活の質的改善を意味しており、経済成長と同一ではない)はありえない。いいかえれば地球環境問題への対応の中にこそ経済発展の新しい芽を発見すべき時代でもある。
 欧州諸国はすでにそういう方向に動き出しており、アメリカもオバマ大統領の登場によって「グリーン・ニューディール」(自然エネルギーの新規開発を軸とする緑の内需策)を掲げて、経済と生活を破綻に追い込んだこれまでの新自由主義路線から転換を目指しつつある。この種の新規政策は従来の石油確保中心時代の生命軽視から生命尊重へと転換していく可能性があることを示唆している。地球環境問題への適切な対応は、利益本位のビジネスの領域を超えて人間としての器量が試されるテーマでもあるだろう。

 あの小国首相の「人間として問題だ」発言は、そう言いたかったのではないか。しかし日本ではそういう視点が希薄すぎる。出遅れ感を拭いきれない現状のままでは日本は21世紀という時代が求める環境先進国へと果たして転換できるのだろうかという懸念はいつまでも消えない。
もう一つ、軍事力を振り回す利己的な大国の時代は足早に去って、地球共益を視野に置く思慮深い小国が重みを持つ時代が急速に台頭しつつあるという印象も否めない。補足すれば、ニウエは「独自の軍隊を保有していない」(前田朗著『軍隊のない国家・27の国々と人びと』日本評論社刊・参照)。


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「日米同盟強化」がめざすもの
日米安保体制50周年を前に

安原和雄
共同記者会見も、共同声明もないままに終わった異例の日米首脳会談は何を残したのか。一口にいえば、日米同盟強化路線そのものである。日米同盟についてメディアの多くは当然の既定事実として受け入れる傾向があるが、日米同盟の実体を軽視してはならない。日米安保体制を土台とする軍事・経済同盟として諸悪の根源になっているからである。
 麻生太郎政権はやがて退陣するとしても、この同盟強化路線は機能し続けるだろう。来年2010年は現行の日米安保が発足してから50周年を迎える。夫婦ならお目出度い金婚式であるが、日米安保50周年は決して歓迎できるものではない。(09年2月27日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽日米同盟強化を打ち出した日米首脳会談

 テレビ、新聞ともに多くのメディアには、オバマ米政権下で各国首脳に先駆けて最初に麻生首相がホワイトハウスに招かれたことを、持ち上げる雰囲気がある。しかし東京新聞社説(2月26日付)の次のような指摘は見逃せない。
 「米側による対日重視の表れ。これが日本政府の事前の触れ込みだった。しかし今回は招待というよりも、日本外務省が頼み込んで、米側から呼んで貰ったとみる方が実態に近いのではないか」と。
 事前の演出、根回しがあったということで、外務省のやりそうなことである。「最初の招待客」の舞台裏の真相はともかく、日本が最初だからと力説するのは、学校の先生に頭をなでて貰ってニコニコ喜んでいる小学生の姿と大差ないとはいえないか。外務省もメディアも大人げない。

毎日新聞のコラム「近事片々」(2月26日付夕刊・東京版)がおもしろい。
 日米の間は遠き片思い? 地球の裏側から訪ねてきた客人にそっけないこと。そんな程度ならケータイですませれば ― と。

 「これも一案か」と思わず笑ってしまったが、仮にケータイ首脳会談が実現したとしても、重要なことは日米首脳会談で何が話し合われたのか、である。各紙の伝えるところによると、今回の首脳会談の骨子はつぎのようである。
・日米同盟の一層の強化。地球規模の課題に日米で取り組む
・在日米軍再編の着実な実施
・基軸通貨ドルの信認維持
・北朝鮮の非核化の実現に協力
・クリーンエネルギー、地球温暖化対策などで協力するための協議開始

 政治、外交、軍事、経済と多岐にわたっており、地球温暖化対策までも視野に入れている点がブッシュ前政権時代との質的差異を示しているが、首脳会談の焦点は「日米同盟強化」の路線を打ち出したことである。この一点こそが重要ではないか。この同盟強化は先のクリントン米国務長官の訪日の際にすでに打ち合わせ済みであった。麻生政権はいずれ退陣するとしても、その後の政権を拘束する性質のものといえるのではないか。

▽日米同盟強化を是認するメディア

 以上のような日米首脳会談について大手メディアはどう論評したか。社説(いずれも2月26日付)の要点を紹介すると、つぎの通りで、結論としていえることは、各紙に共通しているのは日米同盟の強化路線を是認していることである。批判的視点はほとんどうかがえない。
 わずかに東京新聞のみが以下のような懸念を指摘している。しかもこの指摘は重要であり、その行方は今後の見どころである。
 同盟強化の名の下に、自衛隊のさらなる貢献や巨額な戦費負担を迫られはしないか。「ドルの信頼維持」の確認で、米国債の引き受け圧力が強まる懸念もあろう。十分に留意すべき点だ ― と。

*朝日新聞
 会談にはそれなりの大きな意義があった。
 深刻さを増す世界同時不況に対し、各国は破局を防ぐための国内対策に追われる一方、国際的な協力、助け合いの道を探っている。経済規模が世界1位と2位の国のトップが互いの認識を確かめ合い、協調を語った。
 もう一つ、米大統領が8年ぶりに交代したことで、国際政治の方向が変わろうとしている。主要国は外交を活発化させ、新しい流れに対応しようとしている。
 そうした動きに日本も後れをとってはならない。「日米同盟は東アジアの安全保障の礎石」(オバマ大統領)という認識を土台に、さまざまな国際問題や地球環境対策などで協調していく方向となったのは、予想されたこととはいえ、出発点としてはいい。

*毎日新聞
 麻生太郎首相とオバマ大統領の初の日米首脳会談は、同盟国として責任を共有していくことを確認する場となった。
 大統領は日米同盟を東アジアの安全保障の「礎石」と位置づけ、「私の政権が強化したいものだ」と述べた。「強化」とは、日米関係を2国間の問題だけでなく国際社会共通の課題に協調して取り組めるような関係に発展させたいという期待を込めたものだろう。
 首相が口癖のように言う世界第1位、2位の経済大国の日米が手を携えなければならない時であるのは論をまたない。

*読売新聞
 幅広い分野で重層的な協力を続けることが、日米同盟の強化にも大いに役立つだろう。
 麻生首相とオバマ米大統領が初めて会談し、世界同時不況やアフガニスタン、北朝鮮問題などで日米両国が緊密に連携する方針を確認した。
 オバマ政権は多国間協調外交を志向している。日本は、これに呼応し、従来以上に能動的な外交を展開する必要がある。互いに信頼できるパートナーになる努力を重ねることが肝要だ。
 百年に一度の経済危機から早期に脱するには、世界1位と2位の経済大国による政策面での共同歩調が欠かせない。

*東京新聞
 会談では、テロ対策や経済危機など地球規模の課題に対処するため、日米同盟を「重層的」に強化することで一致した。例えば混迷が続くアフガニスタン問題で、日本が得意とする非軍事分野で存在感を示すのは好ましいことだ。
 だが、同盟強化の名の下に、自衛隊のさらなる貢献や巨額な戦費負担を迫られはしないか。「ドルの信頼維持」の確認で、米国債の引き受け圧力が強まる懸念もあろう。十分に留意すべき点だ。

▽日米同盟の「重層的」強化とは何か

 以上4紙の論評から日米首脳会談のキーワードを引き出せば、以下のようである。

・「日米同盟は東アジアの安全保障の礎石」(オバマ大統領)
・同盟国として責任を共有
・日米同盟を「重層的」に強化することで一致
・オバマ政権は多国間協調外交を志向
・世界1位と2位の経済大国による政策面での共同歩調

 キーワードの中で「日米同盟は東アジアの安全保障の礎石」(オバマ大統領)という認識はクリントン米国務長官も繰り返し、言及しており、これがアメリカの今後の対日同盟戦略の基本であろう。これまでもそうだったし、それを継承するという意図の表明である。これを受けて日本側は「同盟国として責任を共有」することを改めて約束した。「責任の共有」といえば、そこに対等平等の関係が保持されているような印象を与えるが、現実にはむしろ日本側の責務として位置づけられているのではないか。
 しかしこれだけではブッシュ前政権時代と大差ない印象を与える。つまり米国の軍事的覇権主義と単独行動主義を前面に押し立てて、日本がその一翼を担うという構図は変わらない。これではオバマ政権のChange(変革)路線そのものに疑問符が投げかけられる。変革路線はまやかしなのかという批判も浴びることにもなるだろう。そこで登場してくるのが日米同盟の「重層的」強化であり、オバマ政権の多国間協調外交である。

「重層的」とは、軍事一本槍を捨てて、非軍事の分野、つまり外交、経済、さらに地球環境問題を含む多様な対外政策の展開を意図している。それを補強するのがブッシュ時代の単独行動主義に替わる多国間協調外交なのであろう。このこと自体は評価できるとしても、注意を要するのは、軍事的覇権主義を放棄するのかといえば、決してそうではないという点である。
 イラクからの米軍撤退は実施する一方、アフガンには米軍増派を決定しているし、また日本で進む米軍再編にしても、巨大な在日米軍基地網の一部再編ではあるが、決して米軍基地網の完全撤去ではないことを指摘しておきたい。
 アメリカが海外に軍事基地網を維持する限り、アメリカの軍事的覇権主義は機能し続ける。こういう認識が日本国内でもっと広がって欲しいが、現実はそうではない。沖縄をはじめ、米軍基地問題で日常的に苦しんでいる基地周辺の人々は別にして、米軍基地が及ぼす負の影響への認識は概して希薄ではないか。

 キーワードのうち最後の「世界1位と2位の経済大国による政策面での共同歩調」は主として麻生首相の主張だが、こういう感覚はいささか古すぎる。というのは「経済大国」という感覚が21世紀という時代に合わないからである。
 まず経済大国とは、いうまでもなく国内総生産(GDP)という物差しで測った一国の輸出、設備投資、消費などの量的大きさを示すにすぎない。それは石油浪費や大量の廃棄物排出を意味しており、地球環境を汚染・破壊する大国でもある。決してその国の生活の質的豊かさを示す指標ではない。
 つぎに世界1位の経済大国アメリカが何と先進国で最大の貧困国であり、2位の日本が2番目の貧困国であることを忘れてはならない。この貧困は相対的貧困率(中位の所得水準の半分以下にランクされる低所得者層の割合)を指しており、日米両国ともに今や貧困大国であり、経済大国などと自慢できる国柄ではない。

▽日米安保の金婚式(?)は歓迎できない

 それにしてもメディアの多くが日米同盟(=日米安保体制)への批判力を失っているのはどういうわけなのか。日米同盟を当然の現実として受け入れる雰囲気さえある。現役記者でいわゆる安保世代は皆無であることも一因だろう。生まれたときからテレビに囲まれていたように、多くの現役記者にとって安保は既定事実として存在していた。
 私(安原)自身は安保世代である。新聞社の地方支局から東京本社社会部に配属になったのが1960年春で、駆け出し記者でありながら、取材記者として日米安保(1960年6月新安保条約が国会で成立)反対闘争の渦に巻き込まれた。国会周辺での大規模な渦巻きデモ、夜空にこだまする「安保ハンターイ」の叫び声はいまなお脳裏から消えない。

もう一つ、私の想像だが、現役記者の多くは日米安保条約に目を通したことがないのではないか。安保世代でもなく、その上勉強不足が重なれば、批判力が育たないのは当然であろう。
 来年2010年には日米安保50周年を迎える。夫婦でいえば、お目出度い金婚式である。盛大なお祝いに相当するが、安保の金婚式(?)はとても歓迎できない。なぜなら日米安保体制は諸悪の根源といえるからである。なぜそういえるのか。以下、日米安保条約の条文に沿って考えてみたい。

▽軍事・経済同盟としての日米安保体制

 日米安保体制は、以下のように日米間の軍事同盟と経済同盟の2つの同盟の土台となっている。

*「軍事同盟」としての日米安保体制
 軍事同盟は日米安保条約3条「自衛力の維持発展」、5条「共同防衛」、6条「基地の許与」などから規定されている。
 特に3条の「自衛力の維持発展」を日本政府は忠実に守り、いまや米国に次いで世界有数の強力な軍事力を保有している。これが憲法9条の「戦力不保持」を骨抜きにしている元凶である。
 しかも1960年、旧安保から現在の新安保に改定された当初は対象区域が「極東」に限定されていたが、今では変質し、「世界の中の安保」となっている。その節目となったのが1996年の日米首脳会談(橋本龍太郎首相とクリントン大統領との会談)で合意した「日米安保共同宣言 ― 21世紀に向けての同盟」で、「地球規模の日米協力」をうたった。

 これは「安保の再定義」ともいわれ、解釈改憲と同様に条文は何一つ変更しないで、実質的な内容を大幅に変えていく手法である。この再定義が地球規模での「テロとの戦い」に日本が参加していく布石となった。小泉政権がブッシュ米大統領時代の米国の軍事的覇権主義にもとづくアフガニスタン、イラクへの攻撃に同調し、自衛隊を派兵したのも、この安保の再定義が背景にある。
 こうして軍事同盟としての安保体制は、「日米の軍事一体化」、すなわち沖縄をはじめとする広大な在日米軍基地網を足場に日本が対米協力していく巨大な軍事的暴力装置となっている。

*「経済同盟」としての日米安保体制
 安保条約2条(経済的協力の促進)は、「自由な諸制度を強化する」、「両国の国際経済政策における食い違いを除く」、「経済的協力を促進する」などを規定している。「自由な諸制度の強化」とは経済面での自由市場主義の実行を意味しており、また「両国の国際経済政策における食い違いを除く」は米国主導の政策実施にほかならない。

 だから経済同盟としての安保体制は、米国主導の新自由主義(金融・資本の自由化、郵政の民営化など市場原理主義の実施)による弱肉強食、つまり勝ち組、負け組に区分けする強者優先の原理がごり押しされ、自殺、貧困、格差、差別、人権無視、人間疎外の拡大などをもたらす米日共同の経済的暴力装置となっている。それを背景に日本列島上では殺人などの暴力が日常茶飯事となっている。小泉政権時代に特に顕著になり、その甚大な負の影響がいまなお尾を引いていることはいうまでもない。
 これが憲法13条の「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」、25条の「生存権、国の生存権保障義務」、27条の「労働の権利・義務」を空洞化させている元凶である。

 日米首脳会談の場に限らず、日本政府は機会あるごとに「日米同盟堅持」を強調するが、これは、以上のような特質をもつ軍事・経済同盟の堅持を意味する。
 重要なことは、最高法規である平和憲法体制と条約にすぎない日米安保体制が根本的に矛盾しているにもかかわらず日米安保が優先され、憲法の平和・生活理念が空洞化している現実である。つまり日本の国としてのありかたの土台、根本原理が歪められ、蝕まれているわけで、ここに日本の政治、経済、社会の腐朽、不正、偽装の根因がある。
 この矛盾、偽装からどう脱出するか。答えはただ一つ、従属的な日米安保条約を破棄して、真に平等互恵の日米平和友好条約(仮称)に切り替えていくことである。


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仏教は信仰の宗教ではない
〈折々のつぶやき〉49

安原和雄
 想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること ― などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は49回目。題して「仏教は信仰の宗教ではない」です。(09年2月22日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 仏教者の佐々木 閑・花園大学教授のコラム「日々是(これ)修行」(朝日新聞夕刊=東京版・毎週木曜日付)は興味深く読ませていただいている。教えられるところが多く、感謝している。

▽「信仰ではなく信頼する」― 「釈迦は普通の人間だ」

 「信仰ではなく信頼する」というタイトルのコラム(09年2月12日付)の要旨を以下に紹介する。「釈迦は普通の人間だ」という指摘はきわめて示唆に富んでいる。

 お釈迦様の教えは素晴らしいが、だからといって私は、釈迦を完全無欠な超人だとは思っていない。釈迦も我々と同じ人間。そのことは歴史的事実である。その釈迦の前でひたすらひれ伏し、その言葉や行いの、なにからなにまで、すべてを一切疑うことなく受け入れる、そういう生き方が正しいとは思えない。
 この私の考えに、反発する人も多い。「宗教は、教祖様の言葉を理屈抜きで丸ごと信じるものだ。それができないのは、信仰がない証拠だ」という批判である。仏教が「信仰によって成り立つ宗教」なら、この批判は正しい。

 しかしそもそも釈迦の仏教は、信仰で成り立つ宗教ではない。仏教でも「信じなさい」とは言うが、それは「釈迦の説いた道が、自分を向上させることに役立つ」という事実を「信頼せよ」という意味である。仏教の「信」とは、信仰ではなく、信頼なのだ。この違いは大きい。

 釈迦自身は普通の人間だ。ただ常人よりもすぐれた智慧があって、「超越者のいない世界で、生の苦しみに打ち勝つ道があること」を独力で見つけ出した。それを私たちに教えてくれた。だから私たちは、その道を信頼する。釈迦という人物を信仰して「助けてください」と祈るのではない。釈迦が説いた、その道を「信頼して」、自分で歩んでいくのである。だから釈迦が完璧(かんぺき)な絶対者でなくても少しも構わない。道を信頼する気持ちがあれば、それだけで仏教は成り立つのである。

〈コメント〉信頼の上に成り立つ仏教経済学
釈迦を完全無欠な超人だとは思っていない。釈迦自身は普通の人間だ ― とさらりと言ってのけるのは、仏教者では珍しい。仏教の開祖、釈迦は歴史的な実在の人物であり、「完全無欠ではない」はその通りであるが、ここまで言い切る仏教者にお目にかかったことはない。しかも佐々木教授はつぎのようにも指摘している。
 仏教は信仰で成り立つ宗教ではない。仏教の「信」とは、信仰ではなく、信頼なのだ ― と。

 常識を覆すようなこの指摘にはハッとさせられるところがある。多くの人は「宗教は信仰」だと、深く考えた上でのことがどうかは別にして思いこんでいるところがある。たしかに信仰と信頼とは大きな質的な違いがある。信仰にとどまっている限り、それは宗教ではあるが、科学的とはいえない。仏教が信仰の域を出ない限り、私(安原)が唱道している仏教経済学も成り立ちにくい。しかし信仰ではなく、信頼と考えれば、その上に社会科学としての仏教経済学が浮かび上がってくる。

▽「釈迦の遺言は二本立て」― 仏教は「自分で修行する宗教」 

 「釈迦の遺言は二本立て」というコラム(09年2月19日付)も「なるほど」と心底納得できるところがある。目の前の霧が晴れる思いもする。特に仏教の特色として「自分で修行する宗教」を強調しているところに注目したい。以下に骨子を紹介する。

 釈迦は遺言を残している。弟子が「お釈迦様、あなたが亡くなったら、私たちは何を拠(よ)り所にして生きていけばよいのですか」と尋ねたときに答えた言葉だ。「私が死んだ後の拠り所は二つある。一つはお前たち自身。そしてもう一つは私の教えである」と言った。
 「悟りへの道順は教えておくから、それを頼りに自分で進んでいきなさい」と釈迦は言い残したのである。だから仏教は「自分で修行する宗教」になった。拠り所を二つしか言わなかったことに意味があるのだ。
 それが一つでなく、二つあるということも重要だ。もし「自分自身を拠り所にせよ」とは言わず、「私の教えだけが唯一の拠り所だ」と言ったとすると、弟子たちは、釈迦の教えを金科玉条として崇拝し、「それさえ守ればよい」と考え始める。言葉だけが権威化していく。

 それに対して、「お前たち自身もまた、修行の拠り所なのだ」と言われると、安易に教えを伏し拝むだけではすまなくなる。教えを受け取る自分のあり方が問われるからだ。「立派な教え」と「たゆまぬ自己改良」、この両者が対になってはじめて釈迦の遺言は実を結ぶ。
 世にすぐれた教えや思想は多いが、それを知るだけでは意味がない。自分で考え、実践する気概があってはじめて価値が出る。それが釈迦の遺言に込められたメッセージである。

〈コメント〉釈迦がこの21世紀に現存していれば
 仏教とは何か、と改めて問いかけてみると、その答えは簡単ではないが、ここには明快な一つの解答が用意されている。「二本立ての遺言」がそれである。一つは釈迦の悟りへの教えであり、もう一つは弟子たち自身の修行、すなわち「たゆまぬ自己改良」である。私(安原)はむしろ後者の修行、「自己改良」の重要性に着目したい。釈迦の真意もそこにあったのではないか。

 教えの言葉にこだわると、時代の変化に取り残されて、教えが教条化し、陳腐化を免れない恐れがあるだろう。昨今の仏教にはそういうかび臭さがつきまとっていると言えば、誤解だろうか。時代と共に歩むためには、それこそたゆまぬ修行、自己改良が不可欠である。今、仮にこの21世紀に釈迦が現存していれば、どう考え、実践するだろうかという発想も必要ではないか。そこには信仰ではなく、信頼を基礎にして想像力、構想力を豊かにしていく営みが求められる。知識の集積にすぎない単なるもの知りであることを仏教は歓迎しない。仏教はすぐれた実践者であることを求める。それが仏教の特質である。釈迦は類い希な偉大な教育者でもある。


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風邪をひくのも悪くはない
〈折々のつぶやき〉48

安原和雄
 想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること―などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は48回目。題して「風邪をひくのも悪くはない」です。(09年2月16日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)

風邪がはやっている。通りにはマスク姿の人が目立つ。何年も風邪知らずできた私(安原)も風邪の爪にがっしり捕まれてしまった。熱は困るほどではないが、咳が止まらない。病院で薬を貰ったが、どうも効き目がない。だから人前に出にくい。遠慮している。

▽風邪のお陰で緊張感がなくなる

 さて弱ったなあ、と思っているとき、「風邪をひいても」というコラムを見つけた。風邪への心の対処法が紹介されているので、その大要を紹介する。(09年2月8日付毎日新聞「日曜くらぶ」掲載、心療内科医・海原純子さんのコラム「心のサプリ 一日一粒」から)

 Aさんは大事な試験の1週間前に風邪をひき、母親から「プレッシャーに弱いんだから」と言われ、自信をなくしてしまった。
 大事な仕事や試験やここぞと言うときに体調を崩すと、プレッシャーに弱いとか、緊張しすぎとか言われてしまう。だから体調の悪さに加え、「自分は精神的に弱い人間だ」と自信を失いやすい。

 体調万全で試験や試合に臨めるならそれが一番だが、風邪をひくのはそんなに悪いことだろうか。実は、私もついさきごろ風邪をひき、鼻水とのどの痛みがひどい時に大学研究班のミーティングで報告をしなければならなくなった。本来なら報告内容を一生懸命吟味するところなのだが、鼻水がひどく、話の間にくしゃみが出ないようにとかで、頭がいっぱい。お陰で緊張するひまもなかった。
 そう。風邪をひくといいこともある。力が抜けるのだ。余計な緊張がどこにもなくなる。緊張して力が入りすぎても実力は出せない。
 試験や大事な仕事の前に風邪をひいたら、自分は弱い、と落ち込まないでほしい。力が抜けていいんだ、ととらえてはいかがか。

▽「諸行無常」感にみるプラスとマイナスの変化

 風邪のひき方もいろいろだろうが、上のコラムを読むと、風邪との向き合い方もいろいろあることを感じる。人は負け惜しみというかも知れないが、以下のような受け止め方も確かにある。

〈その1〉:「禍を転じて福となす」
 故事に「禍を転じて福となす」(わざわいに襲われても、それを逆用して幸せになるように取り計らうこと)というが、この精神を生かせば「風邪をひいて残念、しまった」と悔やむ必要はさらさらない。むしろ「風邪と共に」と受け止めよう―という心の配り方にもなる。
 昨今の現実社会には風邪にも勝る悪病がはびこっている。これに正面から向き合うにはまさに「禍を転じて福となす」というそれなりの変革への心情が欠かせないだろう。風邪も同じといえるかもしれない。

〈その2〉:「諸行無常の響あり」
この「諸行無常(しょぎょうむじょう)の響(ひびき)あり」は、あの『平家物語』の冒頭の有名な書き出しの一句である。つぎのようにつづいている。
 盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらはす
 おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし
たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵(ちり)に同じ

 ただこの一節には仏教で言うところの「諸行無常」感のマイナス面が強く出過ぎているという批評がある。「諸行無常」は「あらゆる存在、事物は変化していく」という意であり、変化にはくだいていえば、マイナスの変化とプラスの変化とがある。
 前者の変化は例えば健康な人が病気になることであり、後者は病人が健康に快復することである。風邪をひくことだけが諸行無常なのではない。風邪から快復するのも「諸行無常」という仏教的法則のお陰である。「諸行無常」感は常にこの両面をみる必要がある。つまり健康だからといって慢心しているわけにもいかないし、逆に病気になったからといって悲観する必要もない ― ということだろうか。


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高負担福祉国家がなぜ元気なのか
変革モデル、スウェーデンの秘密

安原和雄
 北欧の一つ、スウェーデンがいまテレビ、新聞でも話題の渦中にある。高負担高福祉の国として知られるが、高負担でありながらなぜ元気な国なのか、その秘密に関心が集まっている。あの新自由主義路線の破綻が明白になった日米では新自由主義路線のつぎの新しい路線をどう設定するかが最大の課題である。にもかかわらず、まだ明確な答えを見出せないまま暗中模索の域を出ていない。だからこそスウェーデンが有力な変革モデルの候補として浮かび上がってきている。米国の模倣に慣れすぎた日本は、ここらで「脱アメリカ」という発想の大転換が求められているのだ。(09年2月9日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 高負担の福祉国家・スウェーデンが元気である、その秘密は何か。藤井 威氏(みずほコーポレート銀行顧問・元駐スウェーデン大使)とのインタビュー記事「高福祉・高負担 スウェーデンに学ぶ点」(毎日新聞・09年2月3日付夕刊=東京版=「特集ワイド」)と、もう一つ、同氏の論文「消費税引き上げ・高福祉がもたらすもの スウェーデン型社会という解答」(『中央公論』09年1月号)を手がかりに考える。

▽スウェーデンに学ぶ点(1)― 消費税25%が受け入れられている理由

 まず元駐スウェーデン大使とのインタビュー記事(聞き手は遠藤拓記者)の要点はつぎの通り。

問い:スウェーデンの消費税は現在25%という高率である。初めて導入したのは1960年で、その時の税率は4.2%。増税路線が成功した理由は?
答え:福祉サービスの権限と財源を国から地方に漸進的に移したこと。しかも地方のコミュニティーがちゃんと残っていて、市民がそのコミュニティーを大切にしようとする気持ちを持っていたこと。
 例えば介護の場合、要介護度で内容を縛られる日本よりも、水準ははるかに上で、費用も格安。生まれ育った町並みをのんびり散歩し、ビールを1杯飲むのも介護の対象になる。こうして市民に、満足なサービスを受けた「受益感覚」が生まれる。

〈安原のコメント〉満足できる「受益感覚」
満足なサービスを受けた「受益感覚」というのが日本ではなかなか得難いところだろう。しかも町並みをのんびり散歩し、その上、ビールを1杯飲むのも介護の対象だというのだから、人生の晩年を人間としてささやかではあるが、尊重されながら送っていることになる。これまた日本では縁遠い物語ではないか。

問い:税などの負担は収入の約4分の3にも上る。「税金が高すぎる」とは思わないのか?
答え:「高い」と思っている。でも「それだけのことはしてもらっている」、「富の再配分につながる」との意識もある。自信を持って言えるが、低所得者は喜んで税金を納める。納税すれば収入以上に高価であろう各種サービスを受けられるからだ。高額納税者も「高負担」には反対できない。彼らは年収が低かった時期にさんざん世話になっているから。

〈コメント〉喜んで納税できる日は来るか
 喜んで税金を納める、という感覚が日本にはない。「税金は取られる」のだから「できるだけ少なく」というのが多くの日本人の納税感覚である。これは政治不信が根底にあるからで、この不信感を日ごとに助長しているのが日本政治の現実である。例の「政官業」(政治、官僚、経済界の相互癒着)に巨額の果実が配分される。これを根本から是正しない限り、消費税上げを含む増税などは論外である。果たして日本で喜んで税金を納める日が将来期待できるだろうか。

問い:スウェーデンでの政治家や官僚に対する評価は?
答え:世界中で政治家や官僚を信用する国は、どこにもない。酒の席で本音を聞くと、政治家はつぎの選挙に勝つことしか考えない存在で、官僚は前例踏襲・事なかれ主義だと思っている。
 ただし、スウェーデンと日本の最大の違いは、「公共部門にやって貰いたいことは山ほどあるし、やらせなければならない。それが民主主義だ」と考えていること。スウェーデンでは政治家も官僚も仕事をやらなければ職を追われることがあり、必死に仕事をする。日本との差は大きい。日本の官僚はあまりにも質が悪い。

〈コメント〉スウェーデン型民主主義精神を
「なるほどこれが民主主義か」という感慨を覚える。スウェーデン型の民主主義精神をわれわれ日本人も本気で身につけるときが来た。日本では最近、市民運動が広がりつつあり、政治・経済・社会的要求を遠慮なく持ち出すようになってはいるが、政治家や官僚の「国民への奉仕」という感覚はまだ低い。政治家や官僚への要求として「やらせなければならない」という感覚が重要である。与えられるのを待っていては、「日暮れてなお道遠し」の感が深い。「日本の官僚は質が悪い」という発言は経済官僚出身者(旧大蔵省出身)として率直である。民主主義と霞が関改革とは車の両輪といえよう。

▽スウェーデンに学ぶ点(2)― 人間中心の地域再生を

問い:税金に対する納税者の負担感は低くないはずなのに、福祉が充実しているとは言い難い日本は、スウェーデンから何を学べばよいのか?
答え:まず人間中心の地域再生を考えること。車中心ではなく、じいちゃんも赤ちゃんも安心して歩ける町をつくること。すると、失われたコミュニティーも再生できる。コミュニティーへの帰属意識は、公共部門に対する市民の健全な評価につながる。
 つぎは次世代のことをもっと考えること。財政赤字の先送りは責任逃れでしかない。
 最後は中期的な成長率を維持すること。次の世代にじいさんばかり多く、子どもが少ない、よどんだ社会を残したくないのではないか。
 今の世代が責任を持ってこれらを進めようとしたら、答えは一つ、増税しかない。

〈コメント〉「中期的な成長率の維持」は疑問
 人間中心の地域再生には大賛成である。車中心の社会がコミュニティー(地域)を壊したことは今さら指摘するまでもないからである。日本では日常生活の基盤であるコミュニティをどう再生させるかという感覚がグローバリズムの陰に隠れて弱すぎる。
 一方、財政再建も重要である。といって「増税しかない」と考えるのは、一面的ではないか。増税すれば、高速道路、ダムなど惰性でつづいている財政資金の浪費が止むことはないだろう。どうするか。毎年の社会保障費削減を中止して、中・高福祉ビジョンを提示し、その財源は現在の財政・税制の根本的な組み替えで対応することから出直す必要がある。

 指摘されている「中期的な成長率の維持」の含意が今ひとつ不明だが、プラスの経済成長維持を意味しているのであれば、疑問である。「経済成長主義よ、さようなら」という主張は今では世界的には決して珍しいわけではない。最新の米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書二〇〇八〜〇九』はつぎのように指摘している。

 時代遅れの教義は「成長が経済の主目標でなくてはならない」ということである。経済成長は自然資本(森林、大気、地下水、淡水、水産資源など自然資源のこと。人工資本=工場、機械、金融などの対概念として使われる)に対する明らかな脅威であるにもかかわらず、依然として基本的な現実的命題である。それは急増する人口と消費主導型の経済が、成長を不可欠なものと考えさせてきたからである。しかし成長(経済の拡大)は必ずしも発展(経済の改善)と一致しない。1900年から2000年までに一人当たりの世界総生産はほぼ五倍に拡大したが、それは人類史上最悪の環境劣化を引き起こし、(中略)大量の貧困を伴った ― と。

 特に「成長(経済の拡大)は発展(経済の改善)とは一致しない」という認識に学ぶ必要がある。今の日本に必要なのは生活の質的改善を意味する発展である。あの新自由主義路線は成長重視だったが、発展を無視した。そこに災厄の背景があった。

▽高負担で元気な4つの秘密

 上記のインタビュー記事を補足する意味で、日本とスウェーデンの税社会保険料の国民負担、教育費公的負担、社会保障給付費(国内総生産=GDP比)を比較してみよう。(論文「消費税引き上げ・高福祉がもたらすもの スウェーデン型社会という解答」『中央公論』09年1月号参照)
 
税社会保険料負担 26.4/50.4
教育費公的負担・・・ 3.4/ 6.2
社会保障給付費・・ 18.6/31.9
(内訳)
医療・・・・・・・・・・・・ 6.2/ 7.1
年金・・・・・・・・・・・・ 9.2/10.4
その他・・・・・・・・・・・ 3.3/14.4
(単位:%、GDP比。数字は左側が日本、右側がスウェーデン)

 スウェーデンは日本に比べ負担も高いが、社会保障給付費や教育費公的負担も高い。たしかに高負担高福祉となっている。特に高負担でありながらスウェーデンはなぜ元気なのか、その秘密としてつぎの4点を挙げることができる。
〇唆塙渋ぁΩ柩儿渋い涼椴賄変動
家庭からの女性の解放政策の推進に伴う出生率の上昇
J〇禮餡汎値の高度の所得再配分機能による、市場経済下の格差拡大の是正
ち換颪砲錣燭螳貭蠅諒〇秧綵爐魍諒櫃垢襪箸いκ〇禮餡箸箸靴討療然の政策に伴い、国と地方あるいは都市と農村などの経済力格差拡大の是正

▽新自由主義路線とは異質な路線の成果

 以下、それぞれについて日本とどう異なるかを紹介する。
〇唆塙渋ぁΩ柩儿渋い涼椴賄変動
 上記の社会保障給付費のうちの「その他」は介護や児童保育などの福祉サービス、職業訓練などの再チャレンジ関係の支出が主なもので、日本に比べ4倍以上の手厚さとなっている。このことが雇用構造に大変化をもたらした。
 高福祉国家への転換政策が始まった直後の1965年と2000年を比較すると、製造業と農林水産業の就業者比率は大幅低下(製造業30%から19%へ、農林水産業12%から2%へ)し、一方、公共部門が倍増以上(15%から32%へ)の伸びを見せている。民間サービス業も若干の増加(43%から47%へ)となっている。
 就業者実数をみると、民間就業者は30万人減少したのに対し、公共部門は70万人増加し、差し引き40万人の雇用増となった。公共部門での就業者増はコミューン(市町村)での増大によるもので、この分野のほとんどは教師、介護士、保育士たちで、コミューン就業者の4分の3は女性である。
 (なお参考までにいえばスウェーデンの総人口は約900万人にすぎない)

家庭からの女性の解放政策と出生率の上昇
 夫婦が就業と子育てを両立させうる環境づくりに政府は積極的に取り組んでいる。そのための公的資金の投入を惜しまない。具体的には育児コストを一部補填する家族手当(総額はGDP比0.85%)、就業と育児を両立させるための保育・就学前教育(そのコストの95%の公的負担、総額はGDP比1.74%)、出産・育児休業給付(従前所得の80%の公的負担、総額はGDP比0.66%)で、安心して子どもを産める環境となっている。この結果、出生率は1.8を超える水準にまで回復している。わが国の1.3程度の出生率とは質的な差がある。

J〇禮餡箸僚蠧棲丙垢寮Ю妓果
 公的介入による所得配分の公平度はどうか。所得格差が公的介入によってどう改善されるか、その改善幅は日米欧の主要国の中でスウェーデンが最大で、日本が最小である。OECD(経済協力開発機構)調査によると、公的介入後の公平度はスウェーデンなど北欧諸国がトップクラスに入っている。
 福祉国家における不公平度是正の高さは、平均以下の所得層にとって受益と負担の差が大きくプラスになることを意味しており、これが高福祉高負担を推進した社民党政権が長期安定政権として市民の支持を得た理由である。

な〇禮餡箸涼楼莖丙浩Ю妓果
 年金、医療、介護、児童保育などの福祉システム、教育などに地域格差があってはならない。これは国民に高い負担を課す以上当然のことであろう。そのため地方の小集落であっても、最低限の医療、介護、保育、教育の提供システムが作り出され、これを担う人材が家族を伴うことから、地方からの人材流失も結果として阻止される。ノーマルな人口構成が維持され、小規模の生産施設も生き延びる。
 わが日本にみられるような65歳以上の人口が過半を占めるような限界集落の出現は阻止できる。わが国の見果てぬ夢であった国土の均衡ある発展がスウェーデンではごく自然に達成されたのである。(以上は『中央公論』09年1月号から)

〈コメント〉新自由主義路線との明確な決別を
 元気な4つの秘密の共通項は、米日両国に顕著だった、あの新自由主義路線とは異質の路線を追求してきたその成果だということである。公共部門での雇用の増加、夫婦にとって就業と子育てを両立できる環境づくり、所得格差の是正、さらに地域格差の是正、これらのどれをみても猛威を振るってきたあの自由主義路線とは180度異なっている。

 企業の私利追求を第一とし、そのためには詐欺的行為も横行し、一方に一握りの富者つまり勝者、他方に大多数の貧困者つまり敗者に差別し、相対的貧困率(中位の所得水準の半分以下にランクされる低所得者層の割合を指す)をみると、米国最大、そのつぎが日本という不名誉な結果を招いた。米日は世界で1位と2位の経済大国でありながら、同時に1位と2位の貧困大国ともなっている。
 その上、社会保障分野に悲惨な現実を広げた。これでは福祉の名に値する面影はみえてこない。これをどう打開するか。なにはともあれまずは新自由主義路線との明確な決別宣言が必要不可欠であろう。それが再出発の前提である。ごまかし、偽装はもう沢山である。


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定額給付金反対者は寄付を!
「拒否」して貰うのは筋違い

安原和雄
あの定額給付金問題はもみにもんだ末、国会で通った。支給は3月以降になるらしい。世論調査によると、7割の人が反対していると伝えられる。私は反対論者ではないので、少数意見に属することになるが、反対の多くの国民に肝心なところで錯覚があるのではないかという印象が消えない。
 賛否はもちろん自由だが、反対者は給付金を「拒否」しているわけだから、今さら受け取るわけにもいかないのではないか。「もったいない」精神を発揮して、恵まれない人や施設に寄付したらいかがだろうか。それにも反対ならば、主張に一貫性がなくなり、筋が通らないだろう。(09年2月2日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽給付金反対論への疑問 ― 財政・税制の根本的組み替えを

 私はこの定額給付金について「遠慮せずにいただきましょう」という視点から昨08年12月、以下のような趣旨を書いた。その要旨を再掲する。(ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載の08年12月17日付記事「定額給付金だけがバラマキなのか 財政、税制を根本から組み替えよ」参照)

 総額2兆円の定額給付金はバラマキであり、有効な政策ではないから容認できないというバラマキ返上論はいくつかのタイプに分けられる。

(1)景気対策優先説
 国庫に2兆円もの余裕があるなら、景気対策に真剣に取り組んで貰いたい。首相は1人当たり1万2000円から2万円の給付金で景気が上向くとでも思っているのか。
〈安原のコメント〉― ささやかなゆとりと幸せを求めて
「景気が上向くとはいえない」は、その通りである。しかし給付金をどう使うかは国民の自由であり、景気回復を目標に掲げて我々は日常生活を送っているのではない。多くの庶民はささやかなゆとりと幸せを求めて生活を営んでいるにすぎない。
 少しでも生活費の足しになれば、それで十分ではないか。それ以上のことを大げさに期待するその感覚の方がおかしい。

(2)選挙向けの買収行為説
 「定額給付金は選挙に向けての買収行為だ」という不評が聞こえてくる。選挙が近づくと、今回の給付金のような人気取りとしか思えない予算措置がどんどん出てくる。
〈コメント〉― 麻生首相への義理立ては無用
 麻生政権側は内心では「選挙向けの買収行為」のつもりかもしれないが、麻生首相のポケットマネーを恵んで貰うわけではない。近い将来の総選挙では現政権を担う面々に1票を投じる義理はない。交付金は、国民が納めた税金のほんの一部の「スズメの涙」が戻ってくるにすぎない。「何の遠慮がいるものか」であろう。

(3)消費税引き上げ誘導説
 定額給付金を一時的に支給されても、その引き換えに消費税率を引き上げるというのでは結局、低所得者、年金所得者、中小企業経営者らをますます苦しめることになる。消費税率の引き上げを止めて欲しい。
〈コメント〉― 消費税上げを撤回させるには
こういう疑問は少なくない。だから消費税率引き上げに「待った」を掛けるのは正しい。ただし1回限りの2兆円交付金を止めたからといって、それだけで消費税率引き上げの撤回を期待するのは甘すぎる。お人好しともいえよう。
 麻生首相は「3年後の消費税引き上げの姿勢は変わらない」旨を明らかにしている。消費税引き上げを阻み、ひいては将来引き下げるには財政・税制の根本的な組み替えが不可欠である。

(4)2兆円の有効活用説
 2兆円の使い道としては、本当に「国民の生活不安」に応える政策を検討してもらいたい。「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(憲法25条・生存権)が保障されるよう真剣に考えてもらいたい。
〈コメント〉― 生存権保障のためには発想の大転換を
 憲法25条は、国民の生存権と同時に、その生存権を保障する義務が国にあることを定めている。ところが国はその義務の怠り、生存権の保障とはほど遠い寒々とした現実が日本列島上に広がっている。だから2兆円の有効活用説は一見もっともにみえるが、なぜ交付金2兆円にこだわるのか。2兆円程度の資金で国民の生存権が保障できると考えるのはお人好しだろう。

 ここは2兆円執着説から発想を大転換させようではないか。それは国の一般会計予算(09年度は総額88兆円台で過去最大、うち政策経費を示す一般歳出も52兆円と初めて50兆円の大台を突破)の根本的な組み替えである。
 財政・税制組み替えのいくつかの事例を挙げると―。
*防衛費(年間約5兆円)、公共事業費(高速道路・ダムなど)の大幅な支出削減
*大企業や資産家への優遇税制の廃止・見直し、環境税の導入
*「早くあの世へ往け」と言わんばかりの後期高齢者制度を廃止するなど年金、医療、生活保護など社会保障制度の充実

▽反対者に提案する ― 寄付などに回してはどうか

 以上のような総額2兆円の定額給付金問題に関する私(安原)の見解は、今も変わらない。正論だと思っている。ところがこれが少数意見だというのだから、私は不思議な感覚に襲われている。突然、多くの日本人がお人好しになったのではないか、肝心なところで錯覚が生じているのではないかという印象さえある。
 世論調査によると、定額給付金を「評価しない」が7割を超えているとも伝えられる。この数字を前提にすると、7割の人が「給付金を貰わない」という意思表示をしたも同然である。いうまでもないが、言論・思想の自由は憲法で保障されている。「貰わない」という拒否の意思表示に反対する理由はない。私はむしろ尊重したい。尊重するからこそ以下の提案をしたい。

いったん受け取った給付金を国庫に返上する理由はない。ここは「もったいない」精神を生かして寄付することをすすめたい。恵まれない人や施設など寄付先は多様であるだろう。これが折角の給付金の有効活用というものではないか。7割の人が寄付すると、概算で2兆円の7割で1兆4000億円にものぼる。寄付先にも歓迎されるのではないか。毎日新聞(1月31日付)によると、寄付を募っている地方自治体(東京都多摩市、大阪府箕面市)もある。 
 給付金は通常の政策とは異質である。「貰わない」という意思表示をした以上は、あくまでもその主張を貫いて欲しい。それが己の考えや主張に責任を持つということではないか。給付が決まったのだから、受け取るというのでは筋が通らない。「嘘つき」「無責任」という批判を招くかもしれない。

▽大手紙社説は説明責任を果たせ

 特にメディア関係者に注文したい。なかでも大手紙社説で給付金に反対の論陣を張った新聞は一社に限らない。その新聞社説は無署名であり、個人としてではなく、論説委員会の共同責任で書かれた社説と理解できる。だから反対論を掲げた新聞の論説委員全員は当然のことながら、自分に対する給付金を寄付などの形で有効活用すべきであると考えるがどうか。寄付などして、言行一致の範を示して欲しい。そうすれば、社説への評価は一段と高まるに違いない。
 しかもどういう形で有効活用するかを社説で公開して、例の「説明責任」を果たして欲しい。そういう前例のない新しいスタイルの社説もあっていいのではないか。今や「チェンジ(変革)」の時代である。間違いなく注目されるだろう。

 さて一介のささやかな年金生活者にすぎない私(安原)自身はどうするか。反対論者ではないので、遠慮なくいただく。何に使うか、そこが問題である。
 私は景気回復、消費増大に貢献しようという感覚には無縁である。景気回復、消費増大は個人の消費行為の結果にすぎない。それを目的にして生活をしている人がどこにいるだろうか。経済のために人間があるのではない。逆に人間のために経済がある。人間が主役であり、経済は手段にすぎないことを再認識したい。

 だから使い途は自主的に決める。それが個人として責任ある生き方だと心得ている。税金の支払いに充てるかもしれない。あるいは久し振りに日本の銘酒を味わってみるのもまた一興かと思案している。できることならその時に「説明責任」を果たしてくれるであろう新聞社説を朱筆で採点しながら、ひとときを過ごしたい。その日が来るのを楽しみにしている。


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「知ろうとしない責任」を考える
「自己責任」などの論議を超えて

安原和雄
破綻した新自由主義路線の中で犠牲者たちに「自己責任」が説かれ、一方、オバマ米大統領の就任演説に盛り込まれたキーワードの一つは「新たな責任の時代」である。にぎにぎしい責任論という印象があるが、さてその責任とは一体いかなるものなのか、となると、話はそれほど単純ではない。人に責任を押しつける責任論ほどいただけないものはない。21世紀版責任論があるとすれば、私は「自己責任」など従来の論議を超えて、「真実を知ろうとしない責任」、「変革に参加していく責任」を考えてみたい。(09年1月28日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽仏教者が自己責任論を批判

 仏教者の佐々木 閑・花園大学教授が「因果応報と自己責任」と題してつぎのような一文を書いている(朝日新聞夕刊=東京版・09年1月22日付)。その要旨を紹介する。世に言うところの自己責任論への批判となっている。

 因果応報という考えがある。「善いことや悪いことをすれば、それは皆、潜在エネルギーとなって保存され、未来の幸せ、不幸せの種になる」という教えだ。「だから悪いことはするな」という忠告なのだ。
 因果応報があったとしても、この世の誰もが、善悪のエネルギーを山のように背負い込んで生きているはずだから、皆平等だ。しかも潜在エネルギーは、幸、不幸の一因として働くだけで、人生の流れ全体は、他の様々な原因の積み重なりによって決まる。
 今、生活がうまくいかなくて、苦しい目に遭っている人たちのことを「自己責任だ」と切り捨てる人がいる。では聞くが、その苦しんでいる人たちは過去にどんな悪行を行ったというのか。自己責任という以上は、「どんなことをした責任で今苦しんでいるのか」をはっきり言えるはずだ。

 人生は、才能や努力だけで成り立つものではない。偶然の巡り合わせに大きく左右される。それは自分の人生を振り返れば、誰でも分かるはずだ。だから幸・不幸の理由は人それぞれ全部違う。それを十把一からげにして「不幸は本人のせい」とは、不合理きわまりない。
 今、不況の中で苦しんでいる多くの人たちは、因果応報でもなく、自己責任でもなく、この社会の巡り合わせのせいで苦しんでいる。社会の巡り合わせが一番の原因なのだ。だからこそ、その苦しみをなくすために必要なのは、社会を動かす側に立つ人たちの「責任ある行動」なのである。

▽オバマ大統領の就任演説にみる「新たな責任の時代」

 厳寒のワシントンにおけるオバマ米大統領就任演説(1月20日・現地時間)のキーワードの一つが「新たな責任の時代」である。その趣旨はつぎの通り。

 我々の試練は新しいのかも知れない。我々が成功するかどうかは勤労と誠実さ、勇気、フェアプレー、忍耐、好奇心、忠誠心や愛国心にかかっている。これらは真理であり、歴史を進歩させた静かな力だった。今求められているのは、こうした真理への回帰だ。責任を果たすべき新たな時代だ。我々米国人一人ひとりが、自分自身や国家や世界に義務を負っていることを認識し、こうした義務を嫌々ではなく、喜んで受け入れることだ。私たちにとって、困難な仕事に全力で立ち向かうことほど、自らの性格を定義し、精神をみたすものはない。
 これが市民であることの代償と約束だ。これが私たちの自信の源泉だ。神が未知の運命を自らの手で形作るよう、我々に求めたものだ。

 以上のオバマ演説は、かつてのジョン・F・ケネディ米大統領の就任演説(1961年1月20日)の有名なつぎの一節を思い出させる。そのケネディ大統領は1963年11月、テキサス州ダラスで遊説中に暗殺された。
「祖国(国家)があなたに何をしてくれるかではなく、あなたが祖国のために何をできるかを考えて欲しい」と。

▽〈安原の感想〉(1)― 変革の主体としての責任

 昨今の我が国での責任論は、政治家や企業経営者の責任というよりも、自己責任論がにぎやかである。特に小泉政権時代のいわゆる構造改革(=規制廃止、自由化、民営化によって弱肉強食の競争を強要し、貧富の格差、貧困、失業、人間性無視などを増やす新自由主義路線)による多くの被害者、犠牲者たちに向かって「お前たちの努力が足りない責任だ」と責められる。

 それを仏教者は批判している。その批判にはつぎの意味が含まれる。
 一つは、「苦しんでいる多くの人たちは、自己責任ではなく、社会の巡り合わせのせいで苦しんでいる」という自己責任否定であり、もう一つは「苦しみをなくすために必要なのは、社会を動かす側に立つ人たちの〈責任ある行動〉」という、政治家や企業経営者などへの責任追及論である。この認識には私は基本的には賛同したい。

 ただこの際、指摘しておきたいのは、小泉改革花盛りのとき、それを批判する人が少なかったことである。その典型例はいわゆる郵政改革(小泉改革の中心テーマ)が焦点になった総選挙で、その時自民党を圧勝させた多くの国民のそれぞれの一票に責任はないのか、と問いたい。率直に言えば、小泉改革なるものの本性を見抜かないで、賛辞を添えて一票を投じたのだ。私は国民の多くがいささかお人好しになったのではないかと当時考えたし、今もそう思っている。
 今後もこの種の事態は、起こり得るだろう。これは日本の変革を良い方向にすすめるうえで、国民一人ひとりが主体的にどうかかわっていくか、その責任 ― あえていえば、その歴史的責任 ― はいかにあるべきか、というテーマでもある。
私事で恐縮だが、私は小泉改革は、新自由主義路線であるが故に当初から批判論を講演や論文で指摘してきた。しかし力不足であったことを今、自己反省している。

▽〈安原の感想〉(2)― 知ろうとしない責任

さてオバマ大統領の「新たな責任の時代」をどう評価すべきか。彼はこう述べた。
 「我々米国人一人ひとりが、自分自身や国家や世界に義務を負っていることを認識し、こうした義務を嫌々ではなく、喜んで受け入れることだ」と。
 日本の政治、経済のリーダーにはとても期待できないセリフである。しかしその意味するところをどう受け止めるかは、単純ではない。新たな変革の時代に米国人一人ひとりが積極的に立ち向かい、変革を担うべきだという含意なら、賛成できるが、一方ではつぎのような責任転嫁論だという批判的な見方も根強い。

 「史上最大の金融危機は金融機構に寄生するウオールストリートの経営責任者とヘッジファンドマネージャーらが、金融の不正操作によってシステムの破綻を引き起こし、経済を破局に導いたことによるものだが、〈新たな責任の時代〉とは、その責任を、何百万もの職の喪失と住宅差し押さえ、社会保障の削減に直面した一般市民に転嫁しようとするものだ」と。(インターネット新聞「日刊ベリタ」・1月24日掲載の記事「真のチェンジを期待できるのか 就任演説と米メディアの報道を読み解く」=筆者はみゆきポワチャさん=から)
 オバマ大統領の真意がどこにあるのか、責任転嫁論であるのかどうかは遠からず明白になってくるだろう。

 それにしても責任論は扱いにくい。政治、経済の指導的立場にある者が責任逃れの言動を弄するのは論外であるが、それでは国民の多くが被害者となった場合、その被害者に責任はまったくないのかというと、そうとは言い切れない。

 私は今、昨年(08年)暮れにテレビで放映された「あの戦争はなんだったのか」というドラマを想い出している。ビートたけしが戦争指導者・東條英機を演じたドラマである。敗戦の昭和20年(1945年)まで15年間にも及んだアジア太平洋戦争で日本人の犠牲者は一般市民も含めて310万人にのぼった。なぜその戦争を防ぐことはできなかったのかが、このドラマのテーマである。
 「国民は真相を知らなかったから」という釈明に対し、登場人物の一人、新聞記者がこうつぶやいたのが印象に残っている。
 「知らなかったのではない。知ろうとしなかったのだ」と。

 知ろうと努力しなかったその責任はないのか、という問いかけであろうと私は受け止めた。ただ当時は、新聞は戦争推進の記事であふれて、国民の目も耳も閉ざされていたし、真相を知ろうとすれば官憲に弾圧される社会状況下にあった。自由、人権、民主主義とは縁遠い社会でもあった。
しかし現在は当時とは大きく異なっている。真実を知ろうと努力すれば、それをつかむ自由も機会もある。今日ほど「知ろうとしない責任」の大きい時はないのではないか。


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目が離せない米国軍産複合体
オバマ的「変革」を阻むもの

安原和雄
オバマ米政権の「変革」はどこまで貫かれるのだろうか。世界金融危機、世界恐慌の最中であるだけに経済分野での変革への期待が高まるのは当然であろう。しかし安全保障ではどうか。
 読み解く必要があるのは、イラクからは米軍撤退をすすめるが、それと対照的にアフガニスタンには米軍増派を行うことである。ブッシュ前政権時代に軍事力行使の限界を世界に見せつけたにもかかわらず、オバマ政権がその失敗に学ぶという姿勢が見えてこない。その背景に巨大な軍産複合体の存在が見逃せない。オバマ的変革を阻むものがあるとすれば、この軍産複合体であり、今後目が離せないだろう。(09年1月23日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽大手紙社説はアフガンへの米軍増派をどう論じたか

 大手4紙の社説はアフガンへの米軍増派をどういう視点から言及しているか。まずオバマ大統領就任にかかわる社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞(1月21日付)=オバマ大統領就任 米国再生の挑戦が始まる
*毎日新聞(1月22日付)=オバマ米大統領就任 世界変える旅が始まった 
*読売新聞(1月22日付)=オバマ政権発足 米国再生へ問われる真価
*東京新聞(1月22日付)=オバマ大統領就任 分断から対話の時代へ

 オバマ新政権が経済分野では変革路線を打ち出していることは疑問の余地がない。環境、自然エネルギー、雇用の3本柱からなる「グリーン・ニューディール」がその典型である。目下進行中の世界金融危機、世界恐慌をもたらした元凶、新自由主義路線からの転換の意図もその一つである。

 しかし外交・安全保障の分野ではどうか。新政権はイラクからは16か月以内に戦闘部隊を撤退させることにしているが、アフガニスタンへはむしろ米軍増派の方針を明らかにしている。この点を大手メディアはどう論じたか。たとえば朝日社説(1月21日付)はつぎのように指摘している。
 イラクの治安が悪化しないよう配慮しつつ、「間違った戦争」を一日も早く終わらせなければならない。他方、アフガニスタンへの米軍増派は慎重に考えて貰いたい。軍事作戦を突出させてはアフガンの住民たちの反発が増すばかりだし、隣国パキスタンの政情不安にもしっかり目配りする必要がある。軍事と民政支援をどう組み合わせ、国際社会の力を結集するか ― と。

要するに朝日の主張は慎重論であって、反対論ではない。まぜ反対論を主張できないのか。軍事力による報復は、出口のない報復の悪循環をもたらすだけである。朝日に限らず、大手紙の社説からは米軍増派への明確な反対論はうかがえない。概してオバマ新政権発足に贈るご祝儀社説という印象が残る。

 ここで日本の一般メディアからはとてもうかがえないような批判的な視点を紹介したい。批判の主は、反米左派で知られる南米、ベネズエラのチャベス大統領である。1月20日、支持者集会で以下のように語った。日米の枠にこだわらずに地球規模で観察すれば、見方、感想は「国、人それぞれ」であることが分かる。
 「誰も幻想を抱いてはいけない。(あの国は)帝国主義の米国なのだ。オバマ大統領が中南米を新しい視点で眺め、我々を尊重することを望む。我々は米国大統領が誰であれ、革命を継続するだけだ」(読売新聞1月22日付)

▽毎日新聞の「記者の目」が光っている。

大手紙社説に比べて光っているのが、毎日新聞の「記者の目」である。
 小倉孝保記者(毎日ニューヨーク支局)は1月22日付「記者の目」でつぎのような3本見出しでユニークな視点を打ち出している。要旨を紹介する。
・オバマ大統領 「非暴力」キング牧師に学べ
・軍事依存体質から脱却急げ
・まずCTBT批准に努力を

 米国に初の黒人大統領が誕生した。私はその歴史的瞬間を、黒人の公民権運動指導者、マーチン・ルーサー・キング牧師(68年暗殺)の地元アトランタで迎えた。米国はオバマ大統領の誕生で、人種の壁を越えるという牧師の夢の実現に一歩近づいたと思う。しかし牧師にはもう一つ、重要な精神がある。非暴力だ。世界に暴力があふれる今こそ、彼の「もう一つの夢」に向かって歩み始めることを新大統領に期待したい。
 
 アトランタのキング牧師記念館に入ると、インドの独立運動家、ガンジー(1869〜1948年)の肖像画が目につく。ガンジーの非暴力思想に感銘したキング牧師は生涯、暴力を否定した。
 米国は必要以上に武力に頼り、武力を許容する社会になっていないか。イラク帰還米兵で心的外傷後ストレス障害と闘うルイス・モンタルバンさん(35)は言う。「戦地で最もショックだったのは、米企業が戦争で大もうけしていたことだ」
 「非暴力」は非現実的でも、軍縮によって武力への依存度を徐々に下げていくことは可能なはずだ。議会を説得し、核実験全面禁止条約(CTBT)批准に努力してほしい。クラスター爆弾や劣化ウラン弾の使用禁止に動いたり、武器輸出にさらに厳しい制限を設ければ、「米国は変わる」との強いメッセージとなる。

 キング牧師の「私には夢がある」との演説から46年。新大統領は20日(日本時間21日)、「試練にさらされた時にたじろかなかったと、子孫に言われるようにしよう」と演説した。大統領が軍事依存体質から脱却に踏み出すなら、米国は信頼を取り戻せる。それは次世代に誇る贈り物になると思う。

 もう一つ、笠原敏彦記者(毎日外信部)は、1月20日付「記者の目」でつぎの見出しで論じた。要点を紹介する。
・対中外交深化させる米新政権と日本
・「オバマ・ショック」に備えよ
・将来の二極化も視野に

 米国の対中外交へのエネルギー傾注が必然かつ自明の理となった今、「(日米)安保堅持を叫んでいれば米外交において重要な位置付けを日本は得るという時代は終わった」(田中直毅国際公共政策研究センター理事長「中央公論」08年12月号)のである。
 日本は第二次大戦後、日米同盟のお陰で世界第2の経済大国になり得た。しかしその過剰な依存のせいで経済力を政治・外交力に転化できなかった。米国の一極構造が溶解し始める中で、日米同盟に依存した世界観で外交を続けるなら、日本の国際的な地位は劇的に低下するだろう。

▽〈安原の感想〉― メディアの批判精神を期待する

小倉記者は、200万人が集まったワシントンの大統領就任式ではなく、その同時刻に黒人指導者で暗殺されたあのキング牧師の地元、アトランタで取材していたというその着想と行動力が評価できる。そこでインドの独立運動家、ガンジーとキング牧師とを重ね合わせて非暴力を考え、暴力のあふれる現在の世界から暴力を追放するには「非暴力へ」と思い至る。それを踏まえてオバマ大統領に「軍事依存体質からの脱却」― これは私に言わせると、米国軍産複合体支配からの脱却を意味する ― をすすめる。

 一方、笠原記者は、日本が日米安保依存型の外交にこだわっていると、日本の国際的地位は「劇的に」低下していくだろう、との展望を描いている。「劇的に」が何を意味しているのか、いまひとつ不明だが、それはともかく両記者の「目」は的確である。

日米安保は大手メディアでは批判できない聖域のような存在になっており、軍産複合体の存在もあまり紙面に登場してこない。批判精神の弱い惰性から抜け出して、そういうテーマに果敢に接近しようとする姿勢こそがジャーナリズムの今日的な批判精神ではないだろうか。それに期待をかけたい。

▽オバマ米政権の一つの謎 ― 米国軍産複合体の影

オバマ大統領は就任演説で「世界はすでに変わっており、我々もそれに合わせて変わらなければならない」と言った。その言や、よしである。
 ところがつぎの演説の意味が不可解である。「我々は責任を持ってイラクから撤退しはじめ、イラク人に国を任せる。そしてアフガニスタンに平和を築いていく」と。問題は後半の「アフガンに平和を」の意味である。アフガンには米軍増派の方針をすでに明らかにしているのだから、「軍事力増強によって平和を築く」という、あの陳腐な「平和=戦争」という論理がまたもや借用されているとはいえないか。ここだけは「変革」とは無縁らしい。ブッシュ前政権からの引継事項なのか。変革がキーワードのオバマ政権の一つの謎ともいえよう。その背景に何が潜んでいるのか。

 私(安原)はそこに米国軍産複合体の影を観る。
 まずオバマ政権で注目されるのは国防人事である。ロバート・ゲーツ国防長官がそのまま留任した。彼は米中央情報局(CIA)長官を経て、06年からブッシュ前政権の国防長官になり、今日に至っている。ジェームス・ジョーンズ大統領補佐官(国家安全保障担当)は海兵隊総司令官(大将)であった。
 見逃せないのは国防総省(ペンタゴン)ナンバー2の国防副長官にウイリアム・リン元国防次官が座る人事である。同氏は米軍需大手レイセオン社の上級副社長(政府担当)で、08年夏まで政府相手のロビー活動をしていた。これは一例にすぎないが、要するにオバマ大統領は米国軍需産業と緊密な関係にある人物をペンタゴンの枢要ポストに据えた。

 ここで「アイクの警告」を思い出したい。半世紀近い昔のことだが、1961年1月、アイクこと軍人出身のアイゼンハワー米大統領がその任期を全うして、ホワイトハウスを去るにあたって全国向けテレビ放送を通じて有名な告別演説を行った。
 その趣旨は「アメリカ民主主義は新しい巨大で陰険な勢力によって脅威を受けている。それは〈軍産複合体〉とでも称すべき脅威であり、その影響力は全米の都市、州議会、連邦政府の各機関にまで浸透している。これは祖国がいまだかつて直面したこともない重大な脅威である」と。

 軍部と産業との結合体である「軍産複合体」の構成メンバーは、今日ではホワイトハウスのほか、ペンタゴンと軍部、国務省、兵器・エレクトロニクス・エネルギー・化学などの大企業、保守的な学者・研究者・メディアを一体化した「軍産官学情報複合体」とでも称すべき巨大複合体となっている。これが特にブッシュ政権下で覇権主義に基づく身勝手な単独行動主義を操り、「テロとの戦争」を口実に戦争ビジネスを拡大し、世界に大災厄をもたらしてきた元凶といえる。オバマ的変革に抵抗し、阻むものは、この軍産複合体の存在といえよう。
 日本にももちろん日本版軍産複合体が存在する。日米安保体制を軸にして米国軍産複合体と緊密に連携しており、今では米日連合軍産複合体に成長している。

 オバマ大統領は「アイクの警告」を生かして、軍産複合体と一定の距離を保ち、巧みに封じ込めることができるだろうか。これに失敗すれば変革路線も肝心なところで挫折に見舞われるだろう。大きな挑戦的課題というべきだが、イラクからは軍を引くとしても、アフガンには軍の増派を進め、戦争ビジネス拡大の余地を保証しているのは、軍産複合体との最初の取引ではないのかという印象が消えない。


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平和をどうつくるか、その提案
憲法9条を生かし、非武装日本を

安原和雄
 「Change(変革)」のスローガンを掲げるオバマ米大統領の登場によって世界の平和は確かなものになっていくのだろうか。米新政権はイラクから米軍を撤退させるが、アフガニスタンへはむしろ米軍増派の方針と伝えられる。平和は他者から与えられるものではない。主体的な国民の選択によって「平和をつくる」という姿勢が不可欠である。
 では日本として平和をどうつくっていくか。いまや「世界の宝」として評価の高い憲法9条の理念(非武装、交戦権の否認)を生かし、戦略目標として「核廃絶・非武装日本」を掲げ、追求していくときだと考える。(09年1月18日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 私(安原)は「コスタリカに学ぶ会」(正式名称:「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」)の世話人の一人として、「平和をどうつくっていくか」をめぐって論議を深めたいと念願している。
 ここでは安藤 洋氏(かしわ9条の会世話人)の「非核・非武装永世中立宣言」運動をすすめようという提案を紹介する。その構想(要旨)は以下のようである。(安藤氏の論文〈「非核・非武装永世中立宣言」運動を ― 「憲法を守る」を超える攻勢的構想」〉=ロゴス社隔月刊誌「もうひとつの世界へ」・2008年12月号に掲載=参照)

▽安藤構想(1)― 「非核・非武装永世中立宣言」運動を

 「非核・非武装永世中立宣言」は、日本が国家として宣言する。日本国憲法には第9条があり、戦争放棄の証になっている。しかし「解釈改憲」の積み重ねによって、9条を実質的に切り崩し、世界第5位の戦力を有する自衛隊(軍隊)が存在し、沖縄をはじめ全国に広がるアメリカの軍事基地があり、イラク戦争に協力を続けている。こうして「条文」と「実体」がまったく乖離している。
 もし日本が「非核・非武装永世中立宣言」をすれば、中国、北朝鮮、韓国などは憲法9条を信頼し、日本が〈平和国家〉であると信じるようになるだろう。

 「憲法を活かす」ために、「非核・非武装永世中立宣言」をする政府を創ろうという戦略が明確になれば、いまの「9条を守る」運動の政治的弱点を必ず克服し、「9条派」の共通の闘争目的が鮮明になって、この旗の下に各党派各組織の連帯を大きく深めることができると確信する。

 この構想のヒントになったコスタリカの実践について説明する。日本では解釈改憲によって「条文」と「実体」が乖離しているが、コスタリカはまったく逆である。コスタリカ憲法12条(常備軍の廃止)は現実政治のなかで実効性を発揮している。
 コスタリカには8歳の子どもが憲法違反を訴えた実績もある憲法裁判所があり、2004年9月にはそれを活用して一大学生が憲法違反の訴えを起こした。当時のコスタリカ大統領が支持し、承認した、アメリカのイラク侵略に政策協力する共同リストにコスタリカの名前があるのは憲法違反だという訴えで、勝利の判決を勝ち取り、コスタリカの国名を共同リストからはずさせた。

 なぜコスタリカには日本と違って「条文」と「実体」の乖離がないのか。
 1983年、アメリカのレーガン大統領が、当時反米の旗を掲げていたニカラグアのサンディニスタ政権へ武力攻撃を加え、コスタリカを巻き込もうとした。その時、コスタリカのモンヘ大統領は、コスタリカの「永世中立宣言」を盾にして、侵略への加担を拒否した。モンヘ大統領は、直接国民にアンケートを出して、戦争と平和の論議を起こし、世論を喚起して、82%の支持を得て、「永世中立宣言」を出したのだ。
 1984年には、干渉した張本人レーガンも「永世中立宣言」を認めざるを得なくなった。そして87年にアリアス・コスタリカ大統領が「平和の輸出戦略」で、周辺諸国の戦争を回避させて、ノーベル平和賞を受賞した。

▽安藤構想(2)― 「夢物語」という批判への反論

 「宣言」の現実性と勝利の展望について「非核・非武装永世中立宣言」なんて「夢物語」という批判には、改めてつぎの事実を示したい。
 嵌鶻烹蓋饗А廚函峽法9条」は日本国の「国是」であり、すでに国民的権利意識となって広がっていて、正面からこれに反対できない国家理性である。(広辞苑:国家理性=国の政治は、まず自国の利益によって規定され、他のすべての動機は、これに従属せしめるべきだとする国家行動の基本準則)

¬掌轍姐眦裁判所の判決(08年4月17日、航空自衛隊のイラクでの輸送支援活動について違憲の判断を下した)は、憲法前文の「平和的生存権」は、「核時代の自然権的本質を持つ基本的人権」と定義されていることに注目し、「戦争や武力行使をしない日本に生存する権利」、「戦争や軍隊によって他者の生命を奪うことに加担させられない権利」、「他国に民衆への軍事的手段による加害行為と関わることなく、自らの平和的確信に基づいて平和のうちに生きる権利」、「平和を希求し、すべての人の幸福を追求し、そのために非戦、・非暴力平和主義に立って生きる権利」であることを認めている。この権利のすべてが、「非核・非武装の永世中立宣言」への権利的根拠であり、その国是化への行動を促しているように思う。

なぜ「中立」か? 「非核3原則」と「9条」から生まれてくる未来国家は「中立」しかありようがない。この国是を守る限り、他国への戦争加担はあり得ない。

い覆次岷弊ぁ廚? 改憲を許さない一票のために必死に戦っている「9条派」の人たちには、将来いつ変えられるかもしれないという不安から逃れることができない。このため私は、子々孫々に9条を変えてはならないという「9条遺言の会」を創り、運動を進めている。

 またこの運動は、アメリカに対する基地撤廃要求とも重なる。「宣言」を出そうという運動が国民の中に大きく広がれば、「宣言」が出される前に、沖縄をはじめ日本国中で米軍基地の撤退は具体的な日程にのぼり、「日米安保条約」を「日米友好条約」に改変する動きも具体化される。いま世界に広がる米軍基地反対運動は、この闘いへの連帯と勝利の見通しに確信を与えてくれる。
 従来は「安保条約破棄」、「軍事基地撤廃」を実現するためには、日米両政府がテーブルについて交渉するところから始めなければならないと考えられてきたが、「国家宣言」を出すのは、その国家の主権行使であり、これをアメリカがつぶすことはできない。
 自衛隊をいつ、どの程度縮小するか、廃止するか否かは「宣言」成立後の戦術問題として、国民の合意を取り付けながら時間をかけて行うべきだろう。

 以上のような趣旨の安藤構想は、きわめて示唆に富む刺激的な内容となっている。ただ説明が十分とはいえないところもあり、その点を含めて私(安原)の感想を以下に述べたい。

▽安原の感想(1)― 「非核」よりも「核廃絶」を

 まず「非核・非武装の永世中立宣言」のうち「非核」は「核廃絶」の方が望ましいのではないかと考える。

 非核3原則は、1967年12月の衆院予算委員会で当時の佐藤栄作首相が、日本社会党の成田知巳委員長の質問に答えて、示したもので、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という3原則を指している。さらにこの3原則は1971年11月の衆院本会議で行われた沖縄返還協定付帯決議に盛り込まれた。ただ3原則の一つ、「持ち込ませず」は米軍による日本への核兵器持ち込みを認めないという趣旨だが、現実には核兵器搭載の米国艦艇(原潜など)の日本寄港によって「持ち込ませず」には風穴が空いているという説が有力である。
 もちろん「非核」というスローガンは間違ってはいないし、正しいが、いまではやや新鮮な印象に欠ける。

 しかも最近では「非核」よりも「核廃絶」の方が緊急かつ切実な課題となってきた。たとえば北海道新聞社説(2008年12月28日付・要旨)は「核のジレンマ 日本こそ廃絶の先頭に」と題してつぎのように論じたことに注目したい。

核軍縮をめぐる世界の潮流は変化の兆しを見せている。
 キッシンジャー元国務長官ら米政府の元高官が米紙に「核のない世界を目指して」と題する論文を発表したのは08年1月だった。6月には英国の元外相らが大幅な核兵器削減を主張する論文を英紙に掲載した。
 もはや冷戦時代の核抑止論は有効性を失った。そんな冷徹な共通認識が背景にはある。
注目したいのは、オバマ次期米大統領が「核兵器全廃という目標を核政策の中心に据える」と明言していることだ。
 日本としても最大限の協力と支援を惜しむべきではない。
 たとえば、新大統領を広島、長崎に招いてはどうか。核廃絶の決意を強固にするため、被爆地ほどふさわしい場所はあるまい。

▽安原の感想(2)― 「安保条約破棄」は主体的な選択

 安藤構想の中で若干気になるのはつぎの指摘である。
 「宣言」を出そうという運動が国民の中に大きく広がれば、「宣言」が出される前に、沖縄をはじめ日本国中で米軍基地の撤退は具体的な日程にのぼり、「日米安保条約」を「日米友好条約」に改変する動きも具体化される ― と。

 この指摘の真意はいまひとつ理解しにくいところがある。「宣言」を出そうという運動が大きく広がっても、それが自動的に米軍基地撤退や日米安保条約改変の動きにつながるとは言えないのではないか。
 在日米軍基地は日米安保条約第6条(基地の許与)によって存在しており、その背景にはアメリカの世界戦略がある。次期米国務長官のヒラリー・クリントン上院議員は日米同盟について1月13日上院公聴会でつぎのような考えを示した。
 「日本との同盟は米国のアジア政策の要石だ。アジア太平洋地域の平和と繁栄の維持に必要不可欠」と。
 つまり日本での「宣言」(安保条約破棄を明示しない)にかかわる運動がいくら広がっても、米国側から日米安保条約を破棄し、米軍基地を撤退させる展望は今のところ描くことはできない。ということは日本側から安保破棄の明確な政治的意志を表明する政権を国民の多数意志によってつくる以外の選択肢はないのではないか。そこには国民多数の主体的な選択が求められる。

もう一つ指摘すれば、安保条約破棄、軍事基地撤廃を実現するために、「日米両政府がテーブルについて交渉すること」は必ずしも必要ではない。なぜなら一方的破棄が可能だからである。安保条約10条は「いずれの締約国も、相手国に条約を終了させる意思を通告することができ、その場合、条約は通告後1年で終了する」と定めている。この条項が多くの人に理解されることがまず必要である。

▽安原の感想(3)― 9条を生かして「核廃絶・非武装の日本」を

さて「平和をつくる」ための構想はどうあるのが望ましいだろうか。私なら、以下のように提案したい。(なお私は平和について「平和=非暴力(非戦も含む)」と広くとらえているが、ここでは「平和=非戦」という狭い平和観に限定して考える)

*戦略目標=「核廃絶・非武装の日本」をつくろう!
*戦略目標実現のための必要条件=平和憲法9条を生かし、日米安保条約破棄を!

 上記の戦略目標について安藤構想と異なるのは、「非核」を「核廃絶」にしていることもあるが、むしろ「永世中立」宣言にこだわっていない点である。
 戦時・平時に関係なく国際的な中立を外交上の立場とする「中立」は、「武装中立」と「非武装中立」に大別できる。前者はたとえばスイスであり、後者はコスタリカである。

 コスタリカは1949年の憲法改正(12条)で常備軍を廃止し、それから30年余の後の1983年に中立宣言を行った。コスタリカの中立宣言には非武装中立、永世中立、積極中立 ― という3つの特色がある。
 非武装中立は、常備軍の廃止にとどまらない。加盟している集団安全保障体制(国連、米州機構、米州相互援助条約)から常備軍保有などを要求されないことも含む。永世中立は読んで字の如く、暫定的な中立ではないこと。積極中立は国際的紛争の平和的解決のためなどに活動する権利を持つことを意味している。

 このようなコスタリカの中立政策に学ぶとすれば、まず軍隊廃止が不可欠であり、中立宣言はその後の内外情勢の推移に依存するという考え方もあり得ることを指摘しておきたい。軍隊廃止とは、私案では武装した自衛隊から非武装の「地球救援隊」(仮称)への全面的改組を意味する。その内容については数年来提案してきたので、ここでは割愛する。

戦略目標実現の必要条件として9条の理念(非武装、交戦権の否認)を生かすことと日米安保の破棄をあげている。私は両者は切り離せない課題として認識している。なぜなら日米安保条約3条は「日米両国の自衛力の維持発展」を明記しており、それが憲法9条の非武装の理念を骨抜きにしているからである。歴代の日本保守政権が解釈改憲によって憲法9条を空洞化させた元凶は、ほかならぬ安保条約3条である。
 さらに安保条約5条「日米共同防衛」、6条「米軍への基地許与」の規定があり、このため日本列島に広大な米軍基地網が張りめぐらされ、アフガニスタン・イラク攻撃などの戦争基地となっている。しかも日米の軍事一体化が進み、日米共同軍事演習が頻繁に行われ、軍事費という名の財政資金の浪費と環境破壊をもたらしている。
 戦略目標として非武装を目指す以上、安保廃棄に目を向け、憲法9条の理念を取り戻し、生かしていくこと以外の妙策はあり得ないとはいえないか。

 いまや変革の時代である。既成概念、既存の枠組み、さらに特定の政党党派に囚われているときではない。特に「平和をどうつくるか」という視点に立つとき、このことは必要不可欠にして緊急の課題となっている。もちろんタブー(批判を許さぬ聖域)をつくってはならない。安藤構想を前向きに発展させる方向で論議が深まることを期待したい。


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