「もっともっと欲しい」の貪欲の経済から、「足るを知る」知足の経済へ。さらにいのちを尊重する「持続の経済」へ。日本は幸せをとりもどすことができるでしょうか、考え、提言し、みなさんと語り合いたいと思います。(京都・龍安寺の石庭)
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「海外で戦争する日本」へ質的転換
安倍政権、集団的自衛権容認を決定

安原和雄
 安倍政権の暴走が止まらない。日本国平和憲法は集団的自衛権行使を禁じているという憲法解釈が正当という立場を歴代政権は堅持してきた。ところが安倍政権はこの憲法解釈をいとも簡単に閣議でひっくり返し、日本が攻撃されていないのにいつでも海外で戦争できるように質的転換を断行した。
 集団的自衛権の乱暴な容認決定というほかない。平和憲法のシンボル、九条をいとも簡単にしかも不法な手段で破棄するに等しい振る舞いと言うべきである。東京新聞社説は「憲法九条を破棄するに等しい。憲政史上に汚点を残す暴挙だ」と断じている。この暴挙を封じ込める手はあるのか。(2014年7月2日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

安倍政権は2014年7月1日の臨時閣議で集団的自衛権行使を禁じてきた憲法解釈を変更し、行使を容認する新たな解釈を決めた。日本の安全保障にかかわる新事態を日本のメディアはどう論じたか。大手5紙社説(7月2日付)の見出しは以下の通り。

*朝日新聞=集団的自衛権の容認 この暴挙を超えて
*毎日新聞=集団的自衛権 歯止めは国民がかける
*讀賣新聞=集団的自衛権 抑止力向上へ意義深い「容認」 日米防衛指針に適切に反映せよ
*日経新聞=助け合いで安全保障を固める道へ
*東京新聞=集団的自衛権容認 9条破棄に等しい暴挙

以上の社説見出しからも推測できるように批判・反対論を展開しているのは朝日、毎日、東京、一方、容認論は讀賣、日経となっている。このような各紙論調の差違はここ数年来、同じ傾向が続いている。いいかえればメディアのなかでも国家権力批判派と容認派とに大別できることを意味している。国家権力に寄り添うメディアは「言論人としては失格」と私は考えるが、賛否両論混在するのは人の世の常で、その多様性から刺激を受ける効用も一概に否定することはできない。

以下では国家権力への批判的姿勢を貫こうと努めている東京新聞社説の大意を小見出しとともに紹介し、安原のコメントをつける。東京新聞社説は以下の小見出し、すなわち(1)軍事的な役割を拡大、(2)現実感が乏しい議論、(3)国会は気概を見せよ、の3つからなっている。 

<東京新聞社説の大意>憲法九条を破棄するに等しい
 政府が閣議決定した「集団的自衛権の行使」容認は、海外での武力の行使を禁じた憲法九条を破棄するに等しい。憲政史上に汚点を残す暴挙だ。
 再登板後の安倍晋三首相は、安全保障政策の抜本的な転換を進めてきた。政府の憲法解釈を変更する今回の閣議決定は一つの到達点なのだろう。

 昨年暮れには、外交・安保に関する首相官邸の司令塔機能を強化する国家安全保障会議を設置し、特定秘密保護法も成立させた。外交・安保の基本方針を示す国家安全保障戦略も初めて策定した。

◆軍事的な役割を拡大
 今年に入って、原則禁じてきた武器輸出を一転拡大する新しい三原則を決定。今回の閣議決定を経て、年内には「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)も見直され、自衛隊と米軍の新しい役割分担に合意する段取りだ。
 安倍内閣は安保政策見直しの背景に、中国の海洋進出や北朝鮮の核・ミサイル開発などアジア・太平洋地域の情勢変化を挙げる。

 しかし、それ以上に、憲法改正を目標に掲げ、「強い日本」を目指す首相の意向が強く働いていることは否定できない。
 安保政策見直しは、いずれも自衛隊の軍事的役割と活動領域の拡大につながっている。
 その先にあるのは、憲法九条の下、必要最小限度の実力しか持たず、通常の「軍隊」とは違うとされてきた自衛隊の「国軍」化であり、違憲とされてきた「海外での武力の行使」の拡大だろう。
 一連の動きは、いずれ実現を目指す憲法改正を先取りし、自衛隊活動に厳しい制限を課してきた九条を骨抜きにするものだ。このことが見過ごされてはならない。

◆現実感が乏しい議論
 安保政策見直しが、日本の平和と安全を守り、国民の命や暮らしを守るために必要不可欠なら、国民の「理解」も進んだはずだが、そうなっていないのが現実だ。
 共同通信社が六月下旬に実施した全国電話世論調査では「集団的自衛権の行使」容認への反対は55・4%と半数を超えている。無視し得ない数字である。

 政府・与党内の議論が大詰めになっても国民の胸にすとんと落ちないのは、議論自体に現実感が乏しかったからではないか。
 象徴的なのは、政府が集団的自衛権の行使などが必要な例として挙げた十五事例である。
 首相がきのうの記者会見で重ねて例示した、紛争地から避難する邦人を輸送する米艦艇の防護は、当初から現実離れした極端な例と指摘され、米国に向かう弾道ミサイルは迎撃しようにも、撃ち落とす能力がそもそもない。

 自民、公明両党だけの「密室」協議では、こうした事例の現実性は結局、問われず、「海外での武力の行使」を認める「解釈改憲」の技法だけが話し合われた。
 政府の憲法解釈を変える「結論ありき」であり、与党協議も十五事例も、そのための舞台装置や小道具にすぎなかったのだ。

 政府自身が憲法違反としてきた集団的自衛権の行使や、海外での武力の行使を一転して認めることは、先の大戦の反省に立った専守防衛政策の抜本的な見直しだ。
 正規の改正手続きを経て、国民に判断を委ねるのならまだしも、一内閣の解釈変更で行われたことは、憲法によって権力を縛る立憲主義の否定にほかならない。

 繰り返し指摘してきた通りではあるが、それを阻止できなかったことには、忸怩(じくじ)たる思いがある。
 ただ、安倍内閣による安保政策見直しの動きが、外交・防衛問題をわたしたち国民自身の問題としてとらえる機会になったことは、前向きに受け止めたい。
 終戦から七十年近くがたって、戦争経験世代は少数派になった。戦争の悲惨さや教訓を受け継ぐのは、容易な作業ではない。

 その中で例えば、首相官邸前をはじめ全国で多くの人たちが集団的自衛権の行使容認に抗議し、若い人たちの参加も少なくない。
 抗議活動に直接は参加しなくても、戦争や日本の進むべき道について深く考えることが、政権の暴走を防ぎ、わたしたち自身の命や暮らしを守ることになる。

◆国会は気概を見せよ
 自衛隊が実際に海外で武力が行使できるようになるには法整備が必要だ。早ければ秋に召集予定の臨時国会に法案が提出される。
 そのときこそ国権の最高機関たる国会の出番である。政府に唯々諾々と従うだけの国会なら存在意義はない。与党、野党にかかわらず、国会無視の「解釈改憲」には抵抗する気概を見せてほしい。
 その議員を選ぶのは、わたしたち有権者自身である。閣議決定を機に、あらためて確認したい。

<安原の感想>有権者として心すべきこと
 安倍首相という人物は、恐らく策略家としての自己に酔っているのではないか。同時に有権者である国民を相手に、国民の平和構築力と気概・反発力を試そうとしているのではないか。想像するに「首相である私の政策に不服があるなら、安倍政権を打倒したらどうか」とうそぶいているに違いない。「近いうちに打倒するから、首を洗って待っていなさい」と言い返したいところだが、反安倍勢力側に今ひとつ元気がない。

 大衆レベルで言えば、反安倍の動きは広がりつつある。しかしかつての安保闘争のころの大衆動員力とその活力に比べれば、いささか戦闘力に欠ける。上述の東京新聞社説の一節、<与党、野党にかかわらず、国会無視の「解釈改憲」には抵抗する気概を見せてほしい>は当然の指摘といえるが、考えてみれば、こういう指摘を新聞社説が説かざるを得ないという状況自体が情けないというべきだろう。多くの国会議員の不甲斐なさは今に始まったことではないが、それにしても骨無し議員が多いのはどうしたことか。

 そういう国会状況の中で光っているのは日本共産党議員団である。いまや反安倍路線で一貫しているのは共産党のみとなっている。気がかりなのは、そういう共産党に対するメディアの姿勢が逃げ腰になってきていることである。こういう姿勢は「天に向かって唾(つば)を吐く」迷妄といえるのではないか。十分に心したい。


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安倍政権の貧困拡大策を批判する
歪められた成長戦略にしがみつく

安原和雄
安倍首相という人物は、「お人好し」なのか、それとも「悪の権化」なのか、その評価、判断は分かれるかも知れない。しかし首相自身の言動から判断する限り、一見「お人好し」のように見えるが、本性は決してそうではない。「悪の権化」と評しても見当違いとはいえないだろう。
それは安倍政権の軍事力強化路線のみを意味しない。経済政策分野でも多くの大衆にとっては貧困拡大策の押しつけであり、雇用の分野では「残業代ゼロ」などの人間尊重とは無縁の発想が浮かび上がってきている。安倍政権の歪められた成長戦略はどこまで広がるのか。(2014年6月27日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

安倍政権は2014年6月24日、「経済財政運営と改革の基本方針2014」(「骨太の方針」)と「新成長戦略」を閣議決定した。法人実効税率(現在約35%)を数年で20%台へ引き下げること、来年(2015年)10月に消費税率(現行8%)を10%へ引き上げること、さらに雇用分野で「残業代ゼロ」となる「新たな労働時間制度」の創設などを目指している。
以上のような「骨太の方針」について新聞社説はどう論じたか。

まず大手紙社説(25日付)の見出しを紹介する。なお朝日社説は27日までのところ論じていない。
*毎日新聞=骨太の方針 今や予算獲得の方便に
*讀賣新聞=骨太の方針 成長と改革の両立が肝心だ
*日経新聞=日本経済再生へ足踏みせず改革を
*東京新聞=新成長戦略 奇策や禁じ手ばかりだ

以下、各紙社説の骨子を紹介し、それぞれに安原のコメントをつける。

(1)毎日社説の骨子
骨太の方針のとりまとめにあたって甘利明経済再生担当相は、自民党の会議で予算獲得に向け次々と注文をつける議員に対し、「全て書き込むと、骨太の方針が<メタボ方針>になる」とぼやいたという。
優先順位をつけ、「財政のメタボ化」に歯止めをかけるのが、政治家の仕事ではないか。それが今や、政策項目を盛りこめば、来年度予算に計上される流れになっている。予算獲得の方便として使われるようでは、骨太の方針を策定する意味がない。昨夏公表された中期財政計画は、空証文に終わった。今回の骨太はさらに後退し、怠慢と言わざるを得ない。

<安原のコメント>財政のメタボ化
たしかにメタボ化は歓迎できない。人間の場合、決して健康体とは言えないだろう。しかし「財政のメタボ化」とは具体的に何を意味するのか。肝心なことは平和憲法の理念、精神を忘却しないこと、さらに重視することである。安倍政権の軍事力強化路線は明らかにメタボ化につながる。
一方、生存権に関わる国民生活の充実は、メタボ化とはいえないだろう。その充実はむしろ推進すべきことである。この辺りを混同して、安倍政権の恣意的な軍事力強化路線を正当化するとすれば、それを容認することはできない。

(2)讀賣社説の骨子
安倍首相は記者会見で「成長戦略にタブーはない」と述べ、日本経済再生に向けて改革を断行する決意を強調した。中長期的な成長力向上のカギを握るのは、財政の立て直しと、人口減対策だろう。健全な財政基盤がなければ、安定した政策運営ができない。人口は消費や生産力の源泉だ。財政と人口という日本の構造的な問題に、正面から取り組む姿勢は高く評価できる。
とはいえ、財政改革も少子化対策も、長年の課題でありながら、府省縦割りや関係団体の抵抗で、十分な成果を上げてこなかった。肝心なのは、有効な打開策を、ためらわず実行することである。政権の安定している今こそ、大胆な改革を進める好機と言える。

<安原のコメント>大胆な改革とは?
讀賣社説は「政権の安定している今こそ、大胆な改革を進める好機」と安倍政権を支援する姿勢である。「時の政権に批判の姿勢を堅持すること」がメディアの基本的姿勢であるべきだと私(安原)は考えるが、最近は必ずしもそうではなくなってきている。
「言論・思想の自由」とは国家権力(政官財の融合体)を批判する自由でなければならない。そういう批判精神が衰微すれば、あの大東亜戦争で亡びた「悲劇の日本」の二の舞をそそのかすメディアに堕しかねない。

(3)日経社説の骨子
日本経済はグローバル化と少子高齢化という大きな構造変化に直面している。1%未満の潜在成長率を底上げするには、これまでと次元が異なる大きな改革が要る。まずは法人税減税だ。政府は来年度から数年で法人実効税率(東京都の場合で36%弱)を20%台に引き下げる方針を盛った。法人税改革の一歩を踏み出したのは前進だ。先進各国の法人減税競争はとまらない。政府・与党は年末までに世界標準の法人税制をきちんと設計してほしい。
労働時間ではなく成果に応じて給与を払う新たな制度の対象者は「少なくとも年収1000万円以上」としたが、あまり狭めないでほしい。いまは原則65歳以上である年金の受給開始年齢の引き上げや医療費の抑制策も待ったなしだ。

<安原のコメント>痛みを伴う「効率化路線」
日経社説の要点は「法人税制を世界標準に合わせること」、もう一つは「社会保障の効率化急務」である。その目指すところは何か。
次のように指摘している。「日本経済はようやくデフレからの脱却が視野に入ってきたとはいえ、潜在成長率を押し上げていくには普段の努力要る。日本経済の真の再生に向け改革の足踏みは許されない」と。確かに企業にとってはこの処方箋は歓迎できるだろう。しかし経済を根底から支える庶民にとってはむしろ痛みを伴う「効率化路線」にならないだろうか。

(4)東京新聞社説の骨子
財政危機だと国民には消費税増税を強いながら、財源の裏付けもない法人減税を決める。過労死防止が叫ばれる中、残業代ゼロで長時間労働につながる恐れが強い労働時間規制緩和を進める。国民の財産の年金資金による株価維持策という禁じ手まで使うに及んでは株価上昇のためなら何でもありかと思わざるを得ない。日々の株価に一喜一憂する「株価連動政権」と揶揄(やゆ)されるゆえんである。
新しい成長戦略は「企業経営者や国民一人ひとりが自信を取り戻し、挑戦するかどうかにかかっている」と最大のポイントを挙げている。しかしこの成長戦略でどうやって国民は自信を取り戻し、未来を信じればいいのか。

<安原のコメント>「人間尊重」の精神を
東京新聞社説は次のようにも指摘している。「原発再稼働を目指し、トップセールスと称して原発や武器を世界に売り歩き、今度はカジノ賭博解禁に前のめりだ。どうして、こんな奇策ばかり弄(ろう)するのか。正々堂々と経済を後押しし、国民が納得する形の成長戦略でなければ、いずれ破綻するであろう」と。
言い換えれば、経済政策として「人間尊重」をどこまで広げることができるかが重要である。しかし安倍政権には「人間尊重」の精神は無縁らしい。安倍政権が人間尊重の心配りを軽視し続ければ、やがて安倍政権の瓦解につながる。宰相たる人物はそのことを自覚しなければならない。。


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まだ「対米従属」を続けるのか?
対談『転換期の日本へ』を読んで

安原和雄
 対談『転換期の日本へ』の著者が日本の読者に語りかけるものは何か。それは<まだ「対米従属」を続けるのか?>である。この核心をつく問いかけから逃げるわけにはゆかない。今後も「対米従属」を続けることになれば、日本はどうなるのか。
 その一つは、沖縄の軍備を増強し、日米による中国封じ込め策の要塞とする動きが強まることである。もう一つは、安倍首相の唱える「積極的平和主義」とは、日本に平和をもたらすのかである。それは米国が要求すれば、日本も積極的に参戦することにほかならない。言い換えれば「積極的平和主義」は戦争を志向するまやかしの平和主義である。(2014年6月10日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

本書『転換期の日本へ』(NHK出版新書、2014年1月刊=明田川融、吉永ふさ子 訳)の副タイトルは<「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か> ― となっている。
著者は以下の2人である。
*ジョン・W・ダワー=1938年生まれ、マサチューセッツ工科大学名誉教授。著書「吉田茂とその時代」(中公文庫)、「敗北を抱きしめて」(岩波書店)など。
*ガバン・マコーマック=1937年生まれ、オーストラリア国立大学名誉教授。著書「空虚な楽園ー戦後日本の再検討」(みすず書房)、「属国ー米国の抱擁とアジアでの孤立」(凱風社)など。

本書の要点を以下に紹介し、それぞれに<安原の感想>を述べる。
(1)協力か、軍事化か
尖閣(釣魚)諸島をめぐる(2012年の)出来事は、世論というものが、どんなに容易に煽り立てられるものであるかを見せつけた。日本、中国、台湾のどの国であれ、自分だけが正当に尖閣諸島の領有権を持つという主張をしている限り、東シナ海が「平和と協力、そして友愛の海」に変わることはないだろう。日本の、そして世界のメディアも、中国が「ますます了見が狭くて、虎視眈々と自分の国の国益だけを狙う、国家主義の権化(ごんげ)」になっていると非難する。尖閣諸島や南シナ海での係争は、中国の世界に向けた「挑戦」だと捉えられる一方で、日本政府の非妥協的、好戦的論調について触れられることは余りない。そのような中、沖縄の軍備を増強し、日米による中国封じ込め策の要塞とするべく着々と行動する。

<安原の感想>中国封じ込め策の要塞
ここで見逃せないのは「日本、世界のメディアが中国を非難しながら、その一方で、日本政府の非妥協的、好戦的論調に触れられることは余りない。沖縄の軍備を増強し、日米による中国封じ込め策の要塞へと行動する」という指摘である。日米による中国封じ込め策の要塞、という認識は適切と言えるのではないか。自分の真の意図を曖昧にみせるために相手を非難する手口は常套手段でもある。しかし真実を伝えるべきメディアの姿勢としては決して望ましいことではない。むしろ邪道である。

(2)真の「戦後レジームからの脱却」
2013年、日本政府は国境の島々の「防衛」に焦点を置くと発表した。このことから島民は、本土攻撃をできるだけ引き延ばすため、沖縄が米軍の上陸と攻撃の矢面に立つことを強いられた1945年4月に何が起こったかを思い出す。
現代日本には、沖縄のように県民が結束して、「ノー」を突きつけた前例はない。地元の意思を無視し、日米政府の合意だからと、新たな米運基地建設を押しつけようとする動きを、県民は1996年以来拒否し続けてきた。民主的憲法の原則を大事にするより、米国の軍事的、経済的戦略を最優先させる政府に対する沖縄県民の抵抗は実に根強く、したたかなものである。
「沖縄問題」解決のための努力は、なによりもまず、大浦湾を埋め立て辺野古に新基地を建設する計画を白紙に戻し、米国と再交渉すること、そして「沖縄の基地負担軽減」を具体的に目に見えるかたちで沖縄県民に示すことから始まる。また、なによりも戦後日本政府が踏襲してきた米国依存の精神を捨て、政府も国民も自立することが必要であろう。安倍晋三首相とは違ったかたちの「戦後レジームからの脱却」と「日本を取り戻す」努力が市民の責務である。

<安原の感想>「日本を取り戻す」努力を
上述末尾の<米国依存の精神を捨て、政府も国民も自立することが必要であり、安倍首相とは異質の「戦後レジームからの脱却」と「日本を取り戻す」努力が市民の責務>という指摘は適切である。これを実現するためには反安倍路線に徹する努力が不可欠である。言い換えれば右傾化路線を進める安倍路線をどう転換させるかである。安倍首相自身が自己反省して転換するだろうか。その可能性は皆無に等しい。全国レベルの反安倍勢力の結集を図り、安倍政権を崩壊させる以外に妙案は考えられない。

(3)「積極的平和主義」の国の「平和隊」
安倍首相は2013年9月国連総会出席のため、訪米し、演説した。積極的平和主義を掲げ、世界の安全保障に貢献する決意を語った。この「積極的平和主義」は好ましい印象を与える。期待感を起こさせる。しかし安倍首相は集団的自衛権の行使、国家安全保障会議の設置に強い意欲を示し、安倍政権下での11年ぶりの防衛予算増額に言及し、米国の要求するような、米軍と肩を並べて戦争に参加する国へと踏み出したことを宣言したのだった。安倍式「積極的平和主義」とは、米国が要求すれば、日本も積極的に参戦することであった。
安倍首相が日本を「積極的平和主義の国」として、世界に売り込む姿を目の当たりにして、日本国憲法の平和条項を擁護したい人々が、苦々しく思うのは当然である。基地負担軽減の言葉とは裏腹に「軍事第一」「基地第一」主義を押しつけられてきた沖縄では、その思いはさらに強烈であろう。
ジョージ・オーウェル著『1984年』の中に、真理省が「戦争は平和である」と述べた有名な文言があるが、安倍首相が「積極的平和主義」に続いて、次は自衛隊を「平和隊」と改称する日も遠くないだろう。

<安原の感想>積極的平和主義のまやかし
安倍首相の唱える「積極的平和主義」とは何を意味しているのか。一見「積極的反戦主義」とも受け取られやすいが、実は決してそうではない。その正反対である。「米国が要求すれば、日本も積極的に参戦する」という意味である。「平和主義」の看板を掲げながら、その実「積極的戦争主義」を指しているのだから、言葉の使い方が乱暴すぎる。上述末尾の<安倍首相が「積極的平和主義」に続いて、次は自衛隊を「平和隊」と改称する日も遠くないだろう>という懸念は的確というべきだろう。


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「戦争国家」への道をひた走る
集団的自衛権に積極的な安倍政権

安原和雄
 安倍政権は、他国(米国)を守るために自衛隊が海外で戦争できる日本に変質させることを目論んでいる。戦後日本の特質であった「平和国家」という表看板を外して、対外戦争をも躊躇しない「戦争国家」へ急旋回させつつあるのだ。
憲法9条は戦争放棄や戦力不保持を定めているが、自衛権までは否定していない。しかし自衛権行使は必要最小限度の範囲にとどまるべきで、自国が攻撃されていないのに、他国への武力攻撃に反撃できる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない。このように従来の自民党中心の歴代内閣は集団的自衛権行使を認めず、これを戦後日本の「国のかたち」としてきた。にもかかわらず安倍政権は突如変質した。(2014年5月18日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 集団的自衛権について大手5紙の社説(5月16日付)はどう論じたか。その見出しと社説の趣旨を以下に紹介する。まず見出しは次の通り。
*朝日新聞=集団的自衛権 戦争に必要最小限はない
*毎日新聞=集団的自衛権 根拠なき憲法の破壊だ
*讀賣新聞=集団的自衛権 日本存立へ行使「限定容認」せよ グレーゾーン事態法制も重要だ
*日経新聞=憲法解釈の変更へ丁寧な説明を
*東京新聞=行使ありきの危うさ 「集団的自衛権」報告書

各紙社説でしばしば言及される「集団的自衛権」とは、東京新聞社説によれば、次のような含意である。
例えば、米国に対する攻撃を、日本が直接攻撃されていなくても反撃する権利である。政府は国際法上、権利を有しているが、その行使は憲法九条で許される実力行使の範囲を超える、との立場を堅持してきた。この権利は、1945年の国際連合憲章起草の際、中南米諸国の求めで盛りこまれた経緯がある。国連に報告された行使の事例をみると、米国などのベトナム戦争、旧ソ連のハンガリー動乱やプラハの春への介入など、大国による軍事介入を正当化するものがほとんどだ。

以下、各紙社説の骨子を紹介し、それぞれに安原のコメントをつける。

(1)朝日新聞社説
集団的自衛権の行使を認めるには、憲法改正の手段を取らざるを得ない。歴代内閣はこうした見解を示してきた。安倍氏が進めようとしているのは、憲法96条に定める改憲手続きによって国民に問うべき平和主義の大転換を、与党間協議と閣議決定によって済ませてしまおうというものだ。憲法に基づいて政治を行う立憲主義からの逸脱である。弊害は余りにも大きい。
まず、戦争の反省から出発した日本の平和主義が根本的に変質する。日本が攻撃されたわけではないのに、自衛隊の武力行使に道を開く。これはつまり、参戦するということである。集団的自衛権を行使するかしないかは、二つにひとつだ。首相や懇談会が強調する「必要最小限なら認められる」という量的概念は意味をなさない。日本が行使したとたん、相手にとって日本は敵国となる。また解釈変更は、内閣が憲法を支配するといういびつな統治構造を許すことにもなる。国民主権や基本的人権の尊重といった憲法の基本的原理ですら、時の政権の意向で左右されかねない。法治国家の看板を下ろさなければいけなくなる。

<安原のコメント>平和主義の根本的な変質
朝日社説には重要な視点が二つある。一つは日本の平和主義の根本的な変質である。日本が攻撃されたわけではないのに武力行使に道を開く。いいかえれば「戦争好き」がのさばるということだ。もう一つは「内閣が憲法を支配する」という逆立ち現象が広がることだ。具体的には「国民主権や基本的人権の尊重」という基本的原理が時の政権によって踏みにじられる。「政治は国民のためにある」という本来の姿からの転落である。そういう政治を容認するわけにはいかない。

(2)毎日新聞社説
憲法9条の解釈を変えて集団的自衛権の行使を可能にし、他国を守るために自衛隊が海外で武力行使できるようにする。安倍政権は日本をこんな国に作り替えようとしている。9条は戦争放棄や戦力不保持を定めているが、自衛権までは否定していない。しかし自衛権行使は必要最小限度の範囲にとどまるべきだ。自国が攻撃されていないのに、他国への武力攻撃に反撃できる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない。つまり集団的自衛権行使を認めてこなかった。
「安全保障の法的基盤の再構築」に関する首相の私的懇談会(安保法制懇)報告書は、この解釈を180度変更し、必要最小限度の中に集団的自衛権の行使も含まれると解釈することによって行使を認めるよう求めた。これは従来の憲法解釈の否定であり、戦後の安全保障政策の大転換だ。それなのになぜ解釈を変えられるのか肝心の根拠は薄弱だ。報告書では憲法の平和主義が果たしてきた役割への言及は極端に少なく、まるで憲法を守って国を滅ぼしてはならないと脅しているようだ。

<安原のコメント>集団的自衛権は破滅への道
集団的自衛権とは、自国が攻撃されていないのに他国、例えば米国を守るために自衛隊が海外で武力行使できることを意味する。これは日本国平和憲法の本来の理念に反することは明らかである。これでは「戦争屋」集団ともいうべき乱暴な日本国に海外から尊敬どころか、猜疑心に満ちた眼を注がれることになるだろう。軍事力を背にした強がりは、国内はもちろん海外からも決して尊敬を集める姿勢とはいえず、むしろ破滅への道である。強面(こわもて)がまかり通る時代ではもはやない。

(3)讀賣新聞社説
日本の安全保障政策を大幅に強化し、様々な緊急事態に備えるうえで、歴史的な提言である。首相は記者会見し、「もはや一国のみで平和を守れないのが世界の共通認識だ」と強調した。在外邦人を輸送する米輸送艦に対する自衛隊の警護などを例示し、集団的自衛権の行使を可能にするため、政府の憲法解釈の変更に取り組む考えも表明した。その方向性を改めて支持したい。報告書は、北朝鮮の核実験や中国の影響力の増大など、日本周辺の脅威の変化や軍事技術の進歩を踏まえ、個別的自衛権だけの対応には限界があり、むしろ危険な孤立を招く、と指摘した。
さらに周辺有事における米軍艦船の防護や強制的な船舶検査、海上交通路での機雷除去の事例を挙げ、集団的自衛権を行使できるようにする必要性を強調している。こうした重大な事態にきちんと対処できないようでは、日米同盟や国際協調は成り立たない。偽装漁民による離島占拠など、武力攻撃に至らない「グレーゾーン事態」について報告書は平時から「切れ目のない対応」を可能にするよう法制度を充実すべきだと主張している。

<安原のコメント>讀賣は集団的自衛権を支持
考え方の是非を考慮外に置けば、意見、主張の多様性はむしろ歓迎できる。個人それぞれの生き方に視野を限定すれば、多様性はむしろそれぞれの個性の発露であり、批判すべきことではない。しかし一国の針路、望ましい姿となれば、「私の勝手でしょ」というわけにはゆかない。300万人を超える日本人犠牲者を出したあの大東亜戦争(=太平洋戦争)は悲劇そのものであり、これを繰り返すことは許されない。集団的自衛権を安易に持ち上げるのは厳に慎みたい。それがメディアの歴史的、社会的責任とはいえないか。

(4)日経新聞社説
安倍首相が憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使を可能にする方向で「政府としての検討を進める」と正式表明した。日本の安保政策の分岐点となり得る重大な方向転換だ。幅広い国民の理解を得られるように丁寧な説明、粘り強い対話を求めたい。報告書は「わが国を取り巻く安保環境はわずか数年の間に大きく変化した」と指摘した。東シナ海や南シナ海での中国の振る舞い、北朝鮮の挑発的な言動などを例示するまでもなく、うなずく国民は多いだろう。
さらに報告書は「一方的に米国の庇護(ひご)を期待する」という冷戦期の対応は次代遅れだと強調し、新たに必要な法整備を進めるべきだと訴えている。財政難の米国に単独で世界の警察を努める国力はもはやない。内向きになりがちな米国の目をアジアに向けさせるには、日本も汗を流してアジアひいては世界の安定に貢献し、日米同盟の絆を強める努力がいる。日本が直面しそうな危機に対処するにはどんな手があるのか、それは公明党が主張する個別的自衛権の拡大解釈などで説明できるのか、集団的自衛権にもやや踏み込むのか。こうした議論を重ねれば合意に至る道筋は必ずみつかるはずだ。

<安原のコメント>腰の定まらない日経社説
日経社説は集団的自衛権については悩んでいるらしい。末尾の「日本が直面しそうな危機に対処するにはどんな手があるのか、それは公明党が主張する個別的自衛権の拡大解釈などで説明できるのか、集団的自衛権にもやや踏み込むのか」と両説を並べるにとどめて、独自の判断、主張を避けている。「物言(ものい)えば唇(くちびる)寒し」を決め込んでいるのか。腰の定まらない日経社説という印象をぬぐえない。これでは解説記事ではあっても、主張する社説とは言いにくいのではないか。

(5)東京新聞社説
戦争放棄と戦力不保持の憲法九条は第二次世界大戦での三百十万人に上る尊い犠牲の上に成り立っていることを忘れてはなるまい。その九条に基づいて集団的自衛権の行使を認めないのは、戦後日本の「国のかたち」でもある。一九八一年に確立したこの憲法解釈を堅持してきたのは、ほとんどの期間政権に就いていた自民党中心の歴代内閣にほかならない。国会での長年の議論を経て「風雪に耐えた」解釈でもある。それを一内閣の判断で変えてしまっていいはずがない。
もし集団的自衛権を行使しなければ、国民の命と暮らしを守れない状況が現実に迫りつつあるのであれば、衆参両院での三分の二以上の賛成による改正案発議と国民投票での過半数の賛成という手続きに従い、憲法を改正するのが筋である。そうした正規の手続きを経ない「解釈改憲」が許されるのなら、憲法は法的安定性を失い、憲法が権力を縛るという立憲主義は形骸化する。それでは法の支配という民主主義国家共通の価値観を共有しているとは言えない。安保法制懇のメンバー十四人は外務、防衛両省の元事務次官ら外交・安全保障の専門家がほとんどだ。憲法という国の最高法規への畏敬の念と見識を欠いていたのではないか。

<安原のコメント>解釈改憲は「正気の沙汰」なのか
同じ自民党政権でありながら、なぜこれほど異質なのか。従来の自民党中心の歴代内閣は集団的自衛権行使を認めず、これを戦後日本の「国のかたち」としてきた。にもかかわらず安倍政権は突如変質した。果たして「正気の沙汰」なのか。安倍首相は幼いころ、祖父の岸信介が首相だったころ、首相官邸で三輪車に乗りながら「アンポ・ハンタイ」と叫んでいたというエピソードがある。官邸前でデモ隊が「アンポ反対」を叫ぶのを真似しておもしろがっていたのだ。その孫を岸が「アンポ賛成」と言いなさいと叱ったというが、それから半世紀を経た今、日本の政治は安倍政権の下で急速に悪化しつつある。


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こどもの日に改めて「平和」を考える
安倍政権の集団的自衛権を批判する

安原和雄
5月5日は「こどもの日」である。この機会に「日本国憲法と平和」というテーマで考え、提言したい。未来の成人である、今のこどもたちのためにこそ、平和憲法は、守り、生かしていかなければならない。そこで憲法記念日に論ずべき「平和と集団的自衛権」というテーマをあえて「こどもの日」に掲載する。
安倍政権は集団的自衛権の名の下に、横柄な思い上がりともいえる姿勢で戦争を志向しつつあるように見受けられる。私はその昔、小学生のころ、あの大東亜戦争、米軍による本土空襲、広島・長崎への原爆投下による惨劇を目の当たりにした体験者(1935年=昭和10年=広島県生まれ)の一人である。軍事力行使を軽々に弄(もてあそ)ぶかのような振る舞いを許すわけにはいかない。(2014年5月5日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

2014年5月3日の憲法記念日に大手紙社説は、安倍政権が目指す集団的自衛権と平和についてどのように論じたか。まず大手5紙社説の見出しは以下の通り。
*朝日新聞=安倍政権と憲法 平和主義の要を壊すな
*毎日新聞=集団的自衛権 改憲せず行使はできぬ
*讀賣新聞=集団的自衛権で抑止力高めよ 解釈変更は立憲主義に反しない
*日本経済新聞=集団的自衛権めぐるジレンマ解消を
*東京新聞=9条と怪人二十面相 憲法を考える
(注)東京新聞社説の見出し「9条と怪人二十面相」という発想はいささか懲りすぎで、いかがなものか。遊び心が少し過剰とはいえないか。

 以下、各紙社説の大意を紹介し、それぞれに安原のコメントをつける。
(1)朝日社説の大意
 安倍首相は、今年は違うやり方で、再び憲法に手をつけようとしている。条文はいじらない。かわりに9条の解釈を変更する閣議決定によって、「行使できない」としてきた集団的自衛権を使えるようにするという。これだと国会の議決さえ必要ない。仮に集団的自衛権の行使を認めれば、どんなに必要最小限だといっても、これまでの政策から百八十度の転換となる。
 真っ先に目につくのは国会の無力だ。論争によって問題点を明らかにし、世論を喚起する。この役割が果たせていない。対立する政党の質問にまともに答えようとしない首相。それを許してしまう野党の弱さは、目を覆うばかりだ。
 安倍首相は国家安全保障会議を発足させた。だが議事録は公開されず、特定秘密保護法によって自衛隊を動かす政策決定過程は闇に閉ざされそうだ。集団的自衛権の行使をどうしても認めたいというのならば、とるべき道はひとつしかない。そのための憲法改正案を示し、衆参両院の3分の2の賛成と国民投票での過半数の承認を得ることだ。

<安原のコメント> 安倍政権のファシズム的体質
 「集団的自衛権の行使」について末尾の「憲法改正案を示し、衆参両院の3分の2の賛成と国民投票での過半数の承認を得ることだ」という朝日の主張は誤解されそうだ。しかし憲法改悪をそそのかしていると受け止めるのは正しくない。むしろその逆で、多くの国民の意志、希望を無視する安倍政権への反論、警告と受け止めたい。集団的自衛権の行使を閣議決定によっていとも簡単に容認することは、安倍政権のファシズム的体質を露骨に示している。この一点を厳しく凝視するときである。

(2)毎日社説の大意
 憲法9条によって、日本は戦争を忌避し、軍事に抑制的に向き合う平和主義の国、というイメージを国際社会に浸透させてきた。一方、日米安保条約は、巨大な基地と補給拠点を米国に提供することと引き換えに、外国からの侵略を防ぐ役割を果たしてきた。9条の理念を、安保のリアリズムが補う。一見矛盾する二つの微妙な均衡の上に、日本の国際信用と安全がある。軽々しく崩してはならぬ、「国のかたち」である。
 安倍政権は。その憲法9条が禁じている集団的自衛権の行使を、政府の解釈を変えることで可能にする、という。条件をつけた「限定容認」であれば、憲法9条の枠は超えないだろうという理屈だ。
 集団的自衛権とは本来、他国の要請で他国を守るため、自衛隊が出て行くことである。私たちはこれまでの社説で、解釈改憲は問題が多すぎるとして、反対し、限定容認論は、実際には歯止めがきかない「まやかし」と主張してきた。それでも集団的自衛権の行使が必要だというなら安倍政権は正々堂々と憲法改正を提起してはどうか。

<安原のコメント>「平和への性根」が試されるとき
 毎日社説は次のように補足している。「集団的自衛権さえ行使できれば、抑止力が高まり平和が維持される、と解釈改憲に走るのは、憲法という国家の体系を軽んじた、政治の暴走である」と。この「政治の暴走」という認識は適切である。一方、末尾の「集団的自衛権の行使が必要だというなら安倍政権は正々堂々と憲法改正を提起してはどうか」という呼びかけも刺激的だ。「悪党集団」ともいうべき安倍政権によって、主権者・国民一人ひとりの「平和への性根」が試されつつあることを深く自覚したい。

(3)讀賣社説の大意
 米国の力が相対的に低下する中、北朝鮮は核兵器や弾道ミサイルの開発を継続し、中国は急速に軍備を増強して、海洋進出を図っている。領土・領海・領空と国民の生命、財産を守るため、防衛力を整備し、米国との同盟関係を強化することが急務である。安倍政権が集団的自衛権の憲法解釈見直しに取り組んでいるのもこうした目的意識からであり、高く評価したい。憲法改正には時間を要する以上、政府の解釈変更と国会による自衛隊法などの改正で対応するのが現実的な判断だ。集団的自衛権は「国際法上、保有するが、憲法上、行使できない」とする内閣法制局の従来の憲法解釈は国際的には全く通用しない。
 集団的自衛権の行使容認は自国への「急迫不正」の侵害を要件としないため、「米国に追随し、地球の裏側まで戦争に参加する道を開く」との批判がある。だが、これも根拠のない扇動である。集団的自衛権の解釈変更は、戦争に加担するのではなく、戦争を未然に防ぐ抑止力を高めることにこそ主眼がある。

<安原のコメント>安倍政権を激励する社説
 ジャーナリズムの存在価値は、政治・経済・社会のありようを左右する政権を批判し、苦言を含めて提言することにある。ところが讀賣社説はこれと一八〇度異なり、むしろ政権と同じ視点から政権を激励し、一方、国民に向かってお説教を繰り返している。讀賣のこの姿勢はすでに久しいが、讀賣としては「言論、思想の自由」のひとつのあり方と心得ているのだろう。反論を浴びてこそ、自分なりの意見も鍛えられることに着目すれば、讀賣の存在は反面教師としての役割をご親切にも演じてくれているのだろう。

(4)日経社説の大意
 集団的自衛権に関する現在の政府見解の見直しを進めるにあたり、ジレンマがある。その解消に動くことが求められている。その一つは「安倍首相のジレンマ」。集団的自衛権の解釈変更は安倍首相が前面に出てくれば出てくるほど、抵抗が大きくなるという政治の現実がある。このジレンマを解消するには公明党の理解を得ることが何より必要になる。さらに「改憲のジレンマ」もある。もし政府解釈の変更によって集団的自衛権の行使に風穴をあけると、首相が掲げる改憲が差しせまった問題ではなくなり、むしろ遠のくという皮肉な結果をもたらす可能性をひめているためだ。
 戦後政治をふり返ると、自衛隊の存在、日米安保条約のあり方、そして集団的自衛権の解釈と、憲法9条が常に争点となり、その攻防がひとつの軸になってきた。もし、ここで集団的自衛権の問題に一応の方向が定まれば、憲法論議は新たな段階に入っていく。

<安原のコメント>「集団的自衛権」突進の時代へ
 日経もかなり以前から保守政党内閣の支持に傾斜した社説を掲げてきた。末尾の「ここで集団的自衛権の問題に一応の方向が定まれば、憲法論議は新たな段階に入っていく」とは何を指しているのか。私なりの読み方では、平和の衣(ころも)を脱ぎ捨てて、戦争という名の衣に着替える、という意味だろう。そこで今後の憲法論議は従来の「平和と反戦」ではなく、「集団的自衛権と軍事力行使」へと質的に大変化をして突進していく。だからこそ日経社説は「国民よ、覚悟はいいか」と問いかけているのだ。

(5)東京社説の大意
 憲法九条が破壊されるのに国民が無関心であってはならない。解釈改憲も集団的自衛権も難しい言葉だ。でも「お国」を守ることが個別的自衛権なら、他国を防衛するのが集団的自衛権だろう。平和憲法の核心は九条二項(戦力の不保持と交戦権の否認)にある。日本は近代戦を遂行する戦力を持ってはいけない。ドイツの哲学者カントも「永遠平和のために」の中で「常備軍は全廃されなければならない」と訴えた。なぜなら常備軍は、ほかの諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからだ。中国や北朝鮮の脅威がさかんに唱えられているが、もちろん個別自衛権が使える。
 でも他国防衛など、憲法から読み取るのは、無理筋なのだ。集団的自衛権行使を封じることこそ、九条の命脈と言っても過言ではない。でも政権はこの無理筋を閣議決定するつもりだ。米国は日本が手下になってくれるので、「歓迎」する。自衛隊が海外へ出れば、死者も出る。平和憲法がそんな事態が起きないように枠をはめているのに、一政権がそれを取り払ってしまうというのだ。ここは踏みとどまるべきだ。

<安原のコメント>平和憲法の核心は九条
 「平和憲法の核心は九条」という東京新聞社説の指摘は正しい。まさに今こそ力説すべき「九条」である。ところが安倍政権はこの核心条項が気に入らない。しかし気に入らないからといって、子どもが玩具箱から投げ捨てるような気分で、破壊していいことにはならない。九条は今さら力説するまでもなく、「世界の宝」である。著作「永遠の平和のために」の哲学者カントが今生存していれば、最大級の賛辞を捧げるだろう。そういう歴史的「宝」を安倍政権は投げ捨てようとしている。驚くべき幼稚さである。


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もはや米国は「世界のリーダー」失格
日本は対米従属国家から脱するとき

安原和雄
今回の日米首脳会談(安倍・オバマ会談)は日米同盟と環太平洋経済連携協定(TPP)問題が主要なテーマとなったが、ここでは日米同盟を中心に取り上げる。従来型の強固な日米同盟関係の変容が始まった。必ずしもかつてのように足並みが一致しているわけではない。特に安倍政権になってからその一枚岩的協調関係が変化しつつある。
 もはや米国は世界のリーダーとしての大国とはいえない。世界を牛耳る力量を失いつつあるからである。しかし米国に代わる新しい世界のリーダーの登場を期待するのは時代遅れの感覚と言うべきである。中国にひそかな意図があるかも知れないが、期待するわけにはいかない。そこで日本に求められるものは何か。遠からず日米安保体制を解消し、米軍に巨大な軍事基地を提供する対米従属国家から脱して、新生日本をどう築いていくかが緊急の課題となってくるだろう。(2014年4月28日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽新聞社説はどう論じたか

 大手紙社説(4月25日付)は日米同盟をめぐる日米首脳会談をどの様に論評したのか。各紙の見出しを紹介する。
*朝日新聞=日米首脳会談 アジアの礎へ一歩を
*毎日新聞=日米首脳会談 地域安定への重い責任
*讀賣新聞=中国念頭に強固な同盟を築け TPP合意へ 一層歩み寄る時だ
*日本経済新聞=アジアの繁栄支える日米同盟に
*東京新聞=尖閣「安保」適用 対中信頼醸成に力点を

 以下、各紙社説(骨子)を紹介し、それぞれに安原のコメントをつける。
(1)朝日社説
 極めて異例の会談だった。日米首脳会談は、環太平洋経済連携協定(TPP)の協議がととのわず、共同記者会見に合わせて共同声明を発表するにはいたらなかった。一方、安全保障分野に限れば、首相は大統領からほぼ望み通りの「お墨付き」をもらったということなのだろう。だが大統領の発言の主眼は、日本側の期待とは少しずれていた。大統領は語った。「私が強調したのは、この問題を平和的に解決することの重要性だ。日本と中国は、信頼醸成措置を取るべきだ」と。首相がいくら米国との同盟をうたいあげようと、中国との間に太い一線を引いたままではアジア太平洋地域の安定はあり得ない。米国との関係にひとつの区切りをつけたいま、近隣諸国との関係改善への一歩は、安倍氏から踏み出さねばならない。

<安原のコメント>=安倍首相への懸念
 「極めて異例の会談だった」という朝日社説の書き出し自体が社説としては極めて異例といえるのではないか。朝日新聞流の安倍政権への懸念を率直に表明したものなのだろう。朝日新聞は経済社説では安倍政権に近いような印象があるが、政治社説ではかなり批判的である。「首相がいくら米国との同盟をうたいあげようと、中国との間に太い一線を引いたままではアジア太平洋地域の安定はあり得ない」という指摘は大手他紙にはうかがえない視点で、適切である。新聞社説は権力批判を軽視してはならない。政権支持を打ち出すようでは「メディアの自殺」と評しても過言ではない。

(2)毎日社説
 中国が軍備を拡張し、尖閣諸島を含む東シナ海や南シナ海で海洋進出を拡大させていることに対し、日米同盟の抑止力が強化されることを評価し、歓迎したい。日本にすれば、尖閣周辺での領海侵入など中国側の挑発的行動にさらされている同盟国に対し、米国の理解は不十分に見えた。日米同盟が漂流しかねない危機感がささやかれる状況で、対中政策でも日米の緊密な連携が確認されたことは有意義だ。日米同盟を強化し、中国の挑発的行動を抑止することは必要だ。だがそれだけでは十分とはいえない。中国との間で不測の事態を招かないような外交努力が肝心だ。日本は日米同盟強化で中国に対抗するだけでなく、大局的視点に立って、アジア安定に努力する必要がある。

<安原のコメント>=抑止力強化志向は疑問
 どうも最近の毎日新聞社説は安倍政権に肩入れしようという姿勢が目立つ。その典型例は「中国が軍備を拡張し、尖閣諸島を含む東シナ海や南シナ海で海洋進出を拡大させていることに対し、日米同盟の抑止力が強化されることを評価し、歓迎したい」という社説の認識である。明らかに朝日社説とは対照的な姿勢を打ち出している。このような日米同盟の抑止力強化志向は「場合によっては軍事力行使も辞さず」という姿勢である。国家権力に向かって危険な火遊びをそそのかすような主張は禁物である。日本国憲法の平和理念を学習し、再認識する必要があるだろう。

(3)讀賣社説
 安倍政権の「積極的平和主義」と、米オバマ政権のアジア重視のリバランス(再均衡)政策が、相乗効果を上げることが肝要である。日米両政府は緊密の政策調整すべきだ。注目すべきは、オバマ大統領が尖閣諸島について「日米安保条約第5条の適用対象となる」と初めて明言し、対日防衛義務の対象と認めたことである。日本外交の大きな成果と言えよう。大統領は会談で、安倍政権による集団的自衛権の憲法解釈の見直しを歓迎し、支持した。憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使を可能にすることは、日米同盟を強化するうえで、極めて有効な手段となろう。政府・与党は、来月の有識者懇談会の報告書を踏まえ、必要最小限の集団的自衛権に限って行使を容認する「限定容認論」の合意形成を急がねばならない。

<安原のコメント>=好戦派が唱える集団的自衛権
 讀賣社説で軽視できないのは「憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使を可能にすることは、日米同盟を強化するうえで、極めて有効な手段となろう」という主張である。集団的自衛権という安全保障概念が最近盛んに軍事専門家の間で飛び交っている。テレビでもしばしば放映される。これは分かりやすく言えば、日本本土が直接攻撃されなくとも、軍事同盟の米国が攻撃される場合、これを日本自衛隊が軍事行動によって助けるという軍事概念である。好戦派が最近しきりに主張している。平和憲法の根本理念に反するだけではない。巨大な悲劇を避けるためにも幼児のような危険な火遊びは厳に慎みたい。

(4)日経社説
 アジア太平洋地域にとっていちばんの課題は、中国の台頭を受け止め、地域の安定と成長に向けた協力を引き出していくことだ。そのためには日米が結束し、中国に向き合っていくことが大切である。安倍首相とオバマ大統領の会談は。その意味で成果があった。両首脳は日米同盟をさらに深めていくことで一致し、安全保障から経済まで幅広い分野で協力を強める道筋を敷いた。安全保障分野では目に見える進展があった。とりわけ大きいのは、尖閣諸島をめぐり、日米が結束を強めたことだ。中国は尖閣諸島への揺さぶりを続けている。この状況を踏まえ、米大統領として初めて、尖閣諸島には日米安保条約が適用されると表明した。米軍の最高司令官である大統領が言明した重みはとても大きい。

<安原のコメント>=日経紙のはしゃぎすぎ
 「はしゃぐ」(燥ぐ)という日本語がある。「調子にのってふざけ騒ぐ」という意だが、日経社説を読みながら、失礼ながらこの言葉を想い出した。「米大統領として初めて、尖閣諸島には日米安保条約が適用されると表明した。米軍の最高司令官、大統領が言明した重みはとても大きい」という指摘を目にしたときである。大統領の発言にそこまではしゃぐ必要が果たしてあるだろうか。米軍によるかつてのベトナム侵略と、その挙げ句の果ての敗退は、歴史に残る傲慢な悲劇そのものといえる。仮にもその愚を繰り返すようでは米大統領には新しい正当な歴史を創出する能力、見識は期待薄という認識が世界中に広がらないだろうか。

(5)東京社説
 大統領は首脳会談後の記者会見で「日本の施政下にある領土、尖閣も含めて安保条約第5条の適用対象となる」と述べた。尖閣が条約適用の対象だと明言した米大統領はオバマ氏が初めてだという。同5条は「日本国の施政下にある領域におけるいずれか一方に対する武力攻撃」に「共通の危険に対処するように行動する」ことを定める。首相は会談で「集団的自衛権の行使」の容認に向けた検討状況を説明し、大統領は「歓迎し、支持する」と述べたという。集団的自衛権の問題は国論を二分する大問題である。米大統領の支持という「外圧」を、憲法改正手続きを無視した「解釈改憲」の正当化に悪用してはならない。

<安原のコメント>=批判精神を取り戻すとき
 東京新聞社説の次の指摘に注目したい。<集団的自衛権の問題は国論を二分する大問題である。米大統領の支持という「外圧」を、憲法改正手続きを無視した「解釈改憲」の正当化に悪用してはならない>と。問題の本質をついた正当な指摘と言うべきである。残念なのは東京新聞以外の社説がなぜもっと的確な論説を掲げないのか、である。それが不思議なのである。国家権力への気兼ね、遠慮でもあるのか。これではかつての大東亜戦争中に全面的に戦争推進に協力する翼賛新聞へと堕した時代が再現されないという保障はない。日米安保依存症を克服しようという感覚と無縁であり続けるようでは、時代認識が古すぎる。本来のジャーナリズムの批判精神を取り戻して欲しい。「メディアの自殺」は何としても避けたい。


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17年ぶりの消費増税と新聞社説
批判の視点を失わない東京新聞

安原和雄
 17年ぶりの消費増税である。これを大手紙社説はどう受け止めているのか。残念ながら増税容認の姿勢が多数である。明確な批判の姿勢を堅持しているのは東京新聞のみである。讀賣と日経は以前から国家権力の側に身を寄せてきたので、いまさら驚かないが、わが目を疑うほかないのは、朝日の変質ぶりである。かつての批判精神はどこへ消え失せたのか。残念というほかない。
 安倍政権の対米従属と軍事力増強、つまり右傾化路線を支えるのが増税にほかならない。だから日本の今後の針路を左右するのは増税を容認するかどうかにかかっている。財政難という国家権力側の言い訳に誤魔化されないようにしたい。(2014年4月2日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 社説掲載日は2014年3月末から4月初めまでで、一様ではない。掲載日順に社説の見出しを以下、紹介する。
*毎日新聞(3月30日)=消費税8%へ 増税の原点、再確認せよ
*讀賣新聞(3月31日)=あす消費税8% 社会保障安定への大きな一歩
*日経新聞(同  上)=17年ぶり消費増税、転嫁着実に乗り切れ
*朝日新聞(4月1日)=17年ぶり消費増税 改革の原点に立ち返れ
*東京新聞(同  上)=国民の痛みに心を砕け きょうから消費税8%


 以下では東京新聞の社説(大意)を 紹介し、私(安原)の感想を述べる。。

 消費税率が8%に引き上げられた。物価が上昇する中、社会保険料などの負担増も相次ぐ。景気対策ばかりでなく、弱者対策にもっと目配りすべきだ。
 目いっぱい詰まったレジ袋を三つ四つ抱えるお年寄りも目についた。高額の家電製品やブランド品ばかりでなく、こうした十円単位の節約につなげる生活品のまとめ買いは、十七年ぶりの消費税引き上げに身構え、わずかでも生活防衛をとの切実な思いが伝わってくる。

◆本格的な負担増時代
 消費税率3%の引き上げで国民負担は約八兆円増える。これまでの税制改正は増税と減税をセットで行い、痛みを和らげるのが基本であった。しかし、今回は所得税などの減税はなく、増税のみだ。
 それだけではない。厚生年金の保険料率は毎年上昇し、国民年金の保険料も上がる。復興増税として十年間、住民税に年一千円の上乗せも始まる。一方で、公的年金の支給額が0・7%引き下げられる。円安で広く物価が上がってきたところに追い打ちをかける負担増の数々である。

 消費税は所得が低い人ほど負担が重くなる逆進性が特に問題だ。みずほ総合研究所の試算で、年収三百万円未満世帯は今回の増税で年間の消費税負担は約五万七千五百円増え約十五万三千円となる。
 収入に対する負担率は6・5%に上昇、年収六百万~七百万円未満世帯の3・9%、年収一千万円以上世帯の2・7%を大きく上回る。負担率の格差は、税率が上がるほど拡大する。
 低所得者の増税負担を和らげるため、住民税がかからない人に現金一万~一万五千円を配るが、この程度の給付一度きりでは「焼け石に水」である。

◆でたらめの景気対策
 政府の対応を見るかぎり、重視するのは弱者への配慮よりも、もっぱら景気の先行きであり、いかに消費税率10%へ再増税する環境をつくるかだと思ってしまう。

 政府は、増税前の駆け込み需要の反動減で景気の落ち込みは避けられないとして、二〇一三年度補正予算で五・五兆円もの景気対策を決めた。いわば「増税のために巨額の財政出動をする」という泥縄対応の愚かさもさることながら、許せないのはその中身である。政府の行政改革推進会議が一四年度当初予算の概算要求から「無駄」と判定した事業の多くを補正予算で復活させていた。

 こんなでたらめな予算の使い方をするのは、消費税収で財源に余裕が生まれると判断したためだ。これでは何のための増税かというのが国民の率直な思いであろう。

 そもそもが大義のない増税であった。天下りするシロアリ官僚の排除や国会議員の定数大幅削減など国民に増税を強いる前提だった「身を切る」約束も実行していない。増税の目的であった社会保障制度改革は、所得など負担能力に応じて給付削減といった抜本的見直しが必要なのは明らかなのに議論の先行きは不透明なままだ。

 「先に増税ありき」の財務省の論理にのるから次々と齟齬(そご)を来す。今また、来年十月に消費税率を10%に引き上げる「次なる増税」を確かなものにしようと財務省は躍起である。

 前回一九九七年の3%から5%への引き上げでは、景気が大失速し、今に続く「十五年デフレ」のきっかけとなった。
 景気の腰折れを防ぎ、デフレ脱却を急ぐことに異論はないが、増税でかえって財政規律が緩む現政権の経済政策をみせられると、景気対策の名の下に公共事業の大盤振る舞いや政官業癒着で予算を食いものにする「何でもあり」がまかり通りそうだ。これは納税者への裏切り行為以外の何ものでもない。

 アベノミクスは勢いを失いつつあり、景気の失速懸念が強まると日銀の追加金融緩和が予想される。その時、財政規律に疑念が生じれば、意図せぬ金利上昇を招きかねないし、無理に増税を断行すれば、消費不況から景気腰折れ、デフレ悪化のリスクに直面する。でたらめの財政運営が許される状況ではない。

◆10%の判断は慎重に
 安倍政権は企業活動を活性化させることで経済成長を目指すが、格差や貧困などへの目配りがなさすぎる。消費税増税の対応には、それが如実に表れている。
 10%への引き上げは慎重にすべきだ。今回の増税後の経済情勢を踏まえ、時期や税率の引き上げ幅、低所得者や年金生活者への配慮を十分に検討する。GDP(国内総生産)の数値だけでなく、声なき声に耳を傾け、国民の痛みに心を砕いてほしい。

<安原の感想>朝日新聞と対照的な東京新聞の批判的姿勢
 「きょうから消費税8% 国民の痛みに心を砕け」という東京新聞社説の見出しは分かりやすい。民衆に寄り添い、国家権力を批判するのが本来のジャーナリズム精神であるだろう。東京新聞社説はそういう批判的視点を見失っていない。これと対照的なのが朝日新聞社説とはいえないか。国民は苦難に耐えなければならない、と言いたいらしい。「忍耐と我慢」を強いるお説教である。

 朝日社説はつぎのように指摘している。
・消費税率が、5%から8%に引き上げられた。国民にとっては、つらい負担増である。だが、借金漬けの日本の現状を考えればやむを得ない選択だ。
・先進国の中で最悪の水準に落ち込んだわが国の財政難を考えれば、増税と予算改革を同時並行で進めるしか道はない。
・膨れあがった予算を抜本的に見直し、削減につなげる。それが消費税率を10%に上げる前提である。

 ほんのちょっぴり政府への批判的視点をのぞかせながら、要するに増税やむなし、を説いている。以前の朝日社説は批判的姿勢を失っていなかったように想うが、国家権力への批判精神を衰微させる新聞メディアに未来はない。朝日新聞に限らない。マスメディアにとって深刻な試練の時である。


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防潮堤建設に異論唱える首相夫人
あの原発大惨事から丸3年を経て

安原和雄
 ユニークな首相夫人が登場してきた。東日本大震災の被災地で政府が進める防潮堤建設プランに異論を唱えているのだ。世に言う「夫唱婦随」に堂々と反旗を振りかざしているのだから世の関心をかき立てずには置かない。巨費を投じ、とかく税金の浪費、無駄に走る土建業に真っ向から挑戦する形となった。
 首相夫人の言い分には十分な理がある。あの原発大惨事から丸3年を経たいま、夫人に軍配が上がる結果となれば、今後の国家予算の使い方、土建業のあり方が質的に改善されるきっかけになるかも知れない。そうなることを期待したい。今後の推移に目が離せない。(2014年3月13日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

毎日新聞(2014年3月12日付)に興味深い記事が載っている。見出しを紹介すると、次のようである。
見直し訴える首相夫人
防潮堤 町の魅力消す
「若者の意見も聞いて」


安倍晋三首相の妻、昭恵さん(51)が毎日新聞のインタビューに応じ、東日本大震災の被災地で政府が進める防潮堤建設計画になぜ異論を唱えるかを語っている。彼女の真意はどこにあるのか。一問一答(要旨)を紹介する。

問い:なぜ防潮堤建設計画の見直しを主張されているのか。
答え:昨年6月ごろから急に気になり始め、地元でフォーラムを開催したりしてきた。いろいろ調べてみると、完全に安全でもないし、あまりに巨大な物は、何の基準によるのか分からない。生態系を崩し海の見えない魅力のない町になるという意味ではマイナス面が大きい。必要以上の物を造るべきではないし、すごくお金がかかる。
問い:建設を進める宮城県の村井知事と先月意見交換したそうですね。
答え:反対運動をするつもりはなく、良い復興をしてもらいたいと伝えたかったが、平行線だった。知事は「目の前で人が亡くなり、涙を流している人をたくさん見た。二度とこういう思いを県民にしてもらいたくない」と防潮堤の必要性を主張された。私は「必ずしも皆が賛成ではないし、安全な町がつくれても魅力がなくなって若い人が出ていったら、何のための防潮堤か。若い人たちの意見も聞いてほしい」と言った。

問い:震災直後、防潮堤建設を求める声は聞きましたか。
答え:私は聞いたことがない。個々の被災者で「造ってください」という人は本当にいたのかと思う。住民合意が十分でない中で、建設計画だけが進められていったのではないか。県側も、全部県の予算でやってくださいと言ったら造らないと思う。何が一番大事かというのが、造ってもらうために見えなくなっているところもあるのではないか。原発も一緒だ。建設反対の人たちがいても、過疎の町だと原発に付随していいこともあるので、結局受け入れてしまう。
問い:地元住民の要望よりも、国から言われたものを受ける形になっていると?
答え:先日伺った愛知県岡崎市立北中学校の子どもたちは宮城県石巻市立湊中学校と交流していて、「何が必要ですか」と聞き、地元の人たちの協力で80万円を集め、部活動のいろいろな道具をそろえた。微々たるお金だが、その学校にとってはすごく大事なもので、おかげで部活動が続けられると。それを聞いて8000億円とも1兆円ともいわれる防潮堤建設費と比べてしまった。政治家の女房を何年もやりながら、そういうことに気づいていなかったが、防潮堤問題でスイッチが入ってしまった。

問い:復興と今後どう関わっていきますか。
答え:被災地復興だけではなく、多様性のある社会を目指すべきだと思う。どの地域にも「小さい東京」をつくるのではなく、それぞれの良さを生かした地域づくりをする。ここにしかないものが何か一つあると、人が集まってくる。農業もその一つで、興味を持つ若い人たちもたくさんいる。主人が(首相を)を何年やるか分からないが、辞めたら私も農業しながら生活できたらいい。震災をきっかけにボランティアに目覚めた人たちが助け合っていけたらと思う。

<安原の感想>首相夫人の優れた見識
 防潮堤を残すか、残さないかは、考えようによっては巨大なテーマとも言える。なぜならそれぞれ個人の趣味、考え方、生き方に関(かか)わるだけでなく、日本国のありようにも深く関わっているからである。それを承知の上で首相夫人は「防潮堤」に否を唱えている。連れ合いの男性が一国の宰相であるにもかかわらず、それに安易に同調しないところは、並みの見識ではない。図太い神経の持ち主の鬼女というべかも知れない。優れた見識と評価したい。
 しかし誤解を避けるために指摘する必要があるのは、決して頑迷な神経の持ち主ではない。むしろ柔軟な発想の持ち主である。上述の「多様性のある社会を目指すべきだ」という発言にそれが表れている。多様性と頑迷とは相反するからである。ただ注意を要するのは「多様性ある社会」とは、「それぞれの良さを生かした地域づくり」であり、ただ違っていればそれで十分、というわけではない。われわれ個人一人ひとりの生き方に応用すれば、単に他者と違っているだけでなく、それぞれの個性を生かす生き方を大切にする姿勢といえようか。この世に生をうけたからにはいのちを大切に育(はぐく)んでいく営み、いいかえれば人生と寿命を全うしていくことは当然の権利であり、同時に義務ともいえよう。


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集団的自衛権の行使容認に反対
メディア、弁護士集団の主張は

安原和雄
 日本は歴史的な大きな岐路に差しかかっている。安倍首相の乱暴な姿勢が浮かび上がってくる。いや、正気とは思えない所作が突出さえしている。集団的自衛権の行使容認になりふり構わぬ意気込みである。戦争屋へ向かって一直線という風情さえ感じさせる。
明言しておきたいが、集団的自衛権の行使容認にはどこまでも「反対」の姿勢を打ち出すほかない。どうやら安倍首相は「独裁者」を自任しているのではないか。とんでもない思い上がりと言うべきである。安倍路線に対して新聞などメディアの批判力、さらに正義を貫く弁護士集団の対抗力が期待される。その主張に心ある多くの国民大衆の願望が集まっていることを忘れないようにしたい。(2014年2月17日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

▽ 新聞社説は集団的自衛権をどう論じているか

社説の大意を紹介し、安原のコメントをつける。なお以下の「*憲法解釈変更をめぐる議論」などの小見出しは安原が付した。

(1)毎日新聞社説(2月12日付)「集団的自衛権の行使 今は踏み出す時でない」
 
*憲法解釈変更をめぐる議論
 集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈変更をめぐる議論が、国会で始まった。安倍政権は集団的自衛権を行使できるとした上で、政権の政策判断や関係する法律、国会承認によって歯止めをかけ、限定的に行使する方針を今国会中にも閣議決定するとみられている。
 しかし、安倍政権の外交姿勢や歴史認識を見ていると、いったん集団的自衛権の行使を認めてしまえば、対外的な緊張を増幅し、海外での自衛隊の活動が際限なく拡大され、憲法9条の平和主義の理念を逸脱してしまうのではないか、との危惧を持たざるを得ない。

<安原のコメント> 「今は」への懸念
社説の見出しとなっている「集団的自衛権の行使 今は踏み出す時でない」の「今は」の表現に懸念を抱かないわけにはいかない。なぜ「集団的自衛権の行使 踏み出すべきではない」と期限つきではなく明示できないのか。「今は」の真意は何か。「やがて状況の変化のため集団的自衛権行使もあり得る」という含みを残しているのだろうか。
 さらに末尾の「平和主義の理念を逸脱」への「危惧」は当然のことであり、だからこそ「集団的自衛権行使」は「今は」ではなく、「どこまでも」批判しなければならない。

*「積極的平和主義」という基本理念
 私たちは、冷戦期とも冷戦後とも異なる複雑な時代を生きている。2010年代に入って中国の経済的・軍事的な台頭が顕著になり、米国から中国へのパワーシフト(力の変動)が進行している。日本や国際社会を取り巻く脅威の内容も大量破壊兵器や弾道ミサイルの拡散、テロ、サイバー攻撃など多様化している。
 こうした安全保障環境の変化を踏まえ、安倍政権は、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」を基本理念に掲げた。積極的に国際社会の平和と安定に寄与することにより、日本の平和と国益を守るという。集団的自衛権の行使容認もそのために必要なことだと位置づけられている。

 安保環境変化への安倍政権の問題意識は、私たちも理解する。日本が集団的自衛権を行使することで、朝鮮半島有事への効果的対応が可能になる側面はあるだろう。安倍政権には中国の軍備拡張や海洋進出に対する日米同盟の抑止力を強化する狙いもあるようだ。
 だが、さまざまな観点から私たちは、集団的自衛権の行使容認に今踏み出すべきではないと考える。

<安原のコメント>集団的自衛権行使容認は疑問
 「日本が集団的自衛権を行使することで、朝鮮半島有事への効果的対応が可能になる側面はあるだろう」という上記社説の指摘は曖昧である。これでは「理解しながら批判するという曖昧な姿勢」がやがて「容認」へと前のめりになっていく懸念を否定できない。集団的自衛権行使を容認する安倍政権を徹底的に批判する必要がある。そうでないと新聞メディアの弱腰が戦前の昔、戦争体制の大政翼賛会に引きづり込まれていった、あの悲惨な歴史的現実を再現させる恐れがある。多くの犠牲者を出した受け容れがたい歴史を繰り返してはならない。

*安倍晋三首相の私的懇談会の議論
 集団的自衛権行使が想定される具体例として、公海上で自衛隊艦船の近くで行動する米軍艦船の防護、米国向け弾道ミサイルの迎撃、シーレーン(海上交通路)の機雷除去、周辺有事の際の強制的な船舶検査(臨検)などがあがっている。「今の憲法解釈のままでは、こうしたこともできない」事例として集められたものだ。
 だが現実には、これらの活動だけを限定して行うのは難しい。戦闘地域で機雷除去や臨検を行えば、国際法上は武力行使と見なされる。他国軍から反撃され、双方に戦死者が出ることも覚悟しなければならない。
 地理的な範囲に制約がないことも問題だ。日本近海や朝鮮半島の有事だけでなく、ハワイやグアムの米軍基地が攻撃されたり、南シナ海のフィリピン沖で紛争が起きたりした場合にも、米軍とともに戦うことが可能になる。海外派兵を禁じてきた憲法9条は骨抜きになるだろう。

<安原のコメント>憲法9条骨ぬきに性根を据えて対処を
 安倍首相の狙いは、社説が指摘しているように平和憲法を骨抜きにすることにある。ずばりそれを狙っていると言わざるを得ない。つまりは海外派兵を禁じてきた憲法9条の骨抜きにほかならない。具体的には日本近海、朝鮮半島にに限らず、ハワイから南シナ海のフィリピン沖に至るまで自衛隊の海外派兵によって米軍とともに戦うことが可能になる。「平和日本」から「戦争ニッポン」への質的変貌である。この質的転換をどう阻止していくか、反戦と平和、そしてささやかな幸せを希求する日本国民の力量が試されることになるだろう。性根(しょうね)を据えて対処するときである。

(2)朝日新聞社説(2月15日付)「集団的自衛権 聞き流せぬ首相の答弁」

*首相はあまりにも乱暴だ。
 安倍首相の「立憲主義」や「法の支配」への理解は、どうなっているのだろうか。
 集団的自衛権をめぐる国会審議で、こんな疑問をまたもや抱かざるを得ない首相の答弁が続いている。
 日本国憲法のもとでは集団的自衛権の行使は認められない――。歴代内閣のこの憲法解釈を、安倍内閣で改めようというのが首相の狙いだ。
 歴代内閣は一方で、情勢の変化などを考慮するのは当然だとしつつも、「政府が自由に憲法の解釈を変更することができるという性質のものではない」との見解を示してきた。

 この矛盾にどう答えるか。野党議員からの問いに、安倍首相は次のように答えた。
 「(憲法解釈の)最高の責任者は私だ。政府答弁に私が責任をもって、そのうえで私たちは選挙で国民の審判を受ける。審判を受けるのは、内閣法制局長官ではない。私だ」
 最高責任者は、確かに首相である。内閣法制局は、専門的な知識をもって内閣を補佐する機関に過ぎない。
 それでも法制局は、政府内で「法の番人」としての役割を果たしてきた。首相答弁はこうした機能を軽視し、国会審議の積み重ねで定着してきた解釈も、選挙に勝ちさえすれば首相が思いのまま変更できると言っているように受け取れる。
 あまりにも乱暴だ。

<安原のコメント>「乱暴な首相」という表現はまだ控えめ
 「大胆な首相」なら評価、尊敬にも値するが、「あまりにも乱暴」という形容は歴代の首相のなかで初めてではないだろうか。とんでもない首相を登場させたものである。「乱暴な首相」登場の背景には小選挙区制という衆院選挙制度の歪みがある。今の小選挙区制では民意を正しく反映させることはできない。先の総選挙(2012年)では自民党は43%の得票で、なんと79%の議席を確保した。これで自民党は圧勝し、第2次安倍政権が発足した。こういう選挙制度の歪みに悪乗りして安倍政権は身勝手にして乱暴な振る舞いを止めようとはしない。「乱暴な首相」と言う表現はまだ控えめと言うべきである。

*民主主義をはき違えている
 首相の言うことが通るなら、政権が代わるたびに憲法解釈が変わることになりかねない。自民党の党是である憲法改正すら不要ということになる。
 首相はまた、解釈変更の是非を国会で議論すべきだとの野党の求めも一蹴した。解釈変更は政府が判断する、その後に必要となる自衛隊法などの改正は国会で議論するからいいだろうという論法だ。
 ここでも議論が逆立ちしている。集団的自衛権の行使容認は本来、憲法改正手続きに沿って国会で議論を尽くすべき極めて重いテーマである。
 選挙で勝ったからといって厳格な手続きを迂回(うかい)し、解釈改憲ですまそうという態度は、民主主義をはき違えている。

 一連の答弁から浮かび上がるのは、憲法による権力への制約から逃れようとする首相の姿勢だ。そのことは、こうした立憲主義を絶対王制時代に主流だった考えだと片づけた先の発言からもうかがえる。
 これでは、首相が中国を念頭にその重要性を強調する「法の支配」を、自ら否定することになりはしないか。

<安原のコメント>「憲法による権力への制約」から逃れる安倍首相
 「民主主義をはき違えている」、「政権が代わるたびに憲法解釈が変わる」、「憲法の解釈変更は政府が判断する」、「法の支配を自ら否定する」など一連の首相の言動は政治家としての正常な感覚とはかけ離れている。まさに「憲法による権力への制約」からいかに逃れるかが首相の信念、行動原理となっているらしい。日本は「戦争放棄などを掲げる平和憲法」を誇りとする世界でも数少ない先進的な国柄であったはずだが、安倍首相は金銭には換えがたいこの誇りをいとも簡単に投げ捨てようと画策している。世界の疑惑を招きつつあることに首相は気づこうともしない。

▽ 集団的自衛権の行使容認に反対する日本弁護士連合会決議

 決議の全文を以下に紹介する。

 武力紛争が依然として絶え間ない国際社会において、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して国際的な平和を創造することを呼びかけた憲法前文、そして戦争を放棄し戦力を保持しないとする憲法第9条の先駆的意義は、ますますその存在意義を増している。
 当連合会は、2005年11月11日の第48回人権擁護大会における「立憲主義の堅持と日本国憲法の基本原理の尊重を求める宣言」、そして2008年10月3日の第51回人権擁護大会における「平和的生存権および日本国憲法9条の今日的意義を確認する宣言」において、集団的自衛権の行使は憲法に違反するものであり、憲法の基本原理である恒久平和主義を後退させ、全ての基本的人権保障の基盤となる平和的生存権を損なうおそれがあることを表明した。

 集団的自衛権とは、政府解釈によると「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」である。これまで政府は、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないとしてきた。
 ところが、現在、政府は、この政府解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認しようとする方針を打ち出している。また、議員立法によって国家安全保障基本法を制定しようとする動きもある。

 しかしながら、自国が直接攻撃されていない場合には集団的自衛権の行使は許されないとする確立した政府解釈は、憲法尊重擁護義務(憲法第99条)を課されている国務大臣や国会議員によってみだりに変更されるべきではない。また、下位にある法律によって憲法の解釈を変更することは、憲法に違反する法律や政府の行為を無効とし(憲法第98条)、政府や国会が憲法に制約されるという立憲主義に反するものであって、到底許されない。
 戦争と武力紛争、そして暴力の応酬が絶えることのない今日の国際社会において、日本国民が全世界の国民とともに、恒久平和主義の憲法原理に立脚し、平和に生きる権利(平和的生存権)の実現を目指す意義は依然として極めて大きく、重要である。
 よって、当連合会は、憲法の定める恒久平和主義・平和的生存権の今日的意義を確認するとともに、集団的自衛権の行使に関する確立した解釈の変更、あるいは集団的自衛権の行使を容認しようとする国家安全保障基本法案の立法に、強く反対する。
 以上のとおり決議する。
 2013年(平成25年)5月31日
 日本弁護士連合会

<安原のコメント>平和的生存権の実現をめざして
 日本弁護士連合会は、なぜ集団的自衛権の行使容認に反対するのか。集団的自衛権とは、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」を指している。このような集団的自衛権の行使が日本として許されないと考えるのは正しい。その理由として日本弁護士連合会決議のなかの以下の視点を重視したい。
 「戦争と武力紛争、そして暴力の応酬が絶えることのない今日の国際社会において、日本国民が全世界の国民とともに、恒久平和主義の憲法原理に立脚し、平和に生きる権利(平和的生存権)の実現を目指す意義は依然として極めて大きく、重要である」からである。平和憲法の理念をどう生かすかに世界が注目している。


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首相の施政方針演説を採点する
積極的平和主義と軍事重視の姿勢

安原和雄
 首相の施政方針演説は美辞麗句で飾る高校生の演説と言っては高校生に失礼だろうか。皮肉を言っているのではない。むしろ高校生のように率直な姿勢と言えるのではないか。たとえば「可能性」という文言が多用されている。ここが従来の施政方針演説とは異質といえる。
 その半面、首相の持論である「積極的平和主義」に執着している。この積極的平和主義が演説のキーワードであり、これこそが安倍政権の目指すところである。しかも注目すべきことに積極的平和主義は明らかに日米同盟の緊密化にとどまらず、防衛体制=軍事力の強化、戦争を目指している。(2014年1月30日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 まず参考までに大手5紙の社説(1月25日付)の見出しを紹介する。主張の内容紹介は省略する。
*朝日新聞=施政方針演説 明るさの裏側には?
*毎日新聞=安倍首相演説 重要課題がそっけない
*讀賣新聞=施政方針演説 不屈の精神で懸案解決に挑め
*日本経済新聞=「経済の好循環」を言葉で終わらせるな
*東京新聞=通常国会始まる 国の針路を誤らぬよう

 さて首相の施政方針演説(1月24日)の特色は何か。
(1)演説のキーワードとなっているのが「可能性」である。可能性についてどういう文脈で指摘しているのか、その事例を以下に紹介したい。

*「不可能だ」と諦める心を打ち捨て、わずかでも「可能性」を信じて、行動を起こす。
*日本の中に眠る、ありとあらゆる「可能性」を開花させることが、安倍内閣の新たな国づくりだ。
*創造と可能性の地・東北=2020年には、新たな東北の姿を、世界に向けて発信しよう。
*復興は新たなものを創り出し、新たな可能性に挑戦するチャンスでもある。
*元気で経験豊富な高齢者もたくさんいる。あらゆる人が、社会で活躍し、その「可能性」を発揮できるチャンスをつくる。そうすれば、少子高齢化の下でも、日本は力強く成長できるはずだ。
*全ての女性が、生き方に自信と誇りをもち、持てる「可能性」を開花させる。「女性が輝く日本」を、共につくりあげようではないか。
*若者たちには無限の「可能性」が眠っている。それを引き出す鍵は、教育の再生である。
*世界に目を向けることで、日本の中に眠るさまざまな「可能性」にあらためて気づかされる。
*高い出生率、豊富な若年労働力など、成長の「可能性」が満ちあふれる沖縄は、二十一世紀の成長モデル。沖縄の成長を後押ししていく。
*今年は、地方の活性化が、安倍内閣にとって最重要テーマであり、地方が持つ大いなる「可能性」を開花させていく。
*地方には、特色ある産品や伝統、観光資源などの「地域資源」がある。そこに成長の「可能性」がある。地域資源を生かして新たなビジネスにつなげようとする中小・小規模事業者を応援する。

<安原の感想>なぜ「可能性」にこだわる?
 「可能性」への前例のない執着ぶりはなぜなのか。「可能性」にこだわることが間違っていると言うのではない。それにしてもこだわり方が異常とはいえないだろうか。首相は施政方針演説で以下のように力説している。
*元気で経験豊富な高齢者もたくさんいる。あらゆる人が、社会で活躍し、その「可能性」を発揮できるチャンスをつくる。そうすれば、少子高齢化の下でも、日本は力強く成長できる。
*全ての女性が、生き方に自信と誇りをもち、持てる「可能性」を開花させる。「女性が輝く日本」を、共につくりあげようではないか。
*若者たちには無限の「可能性」が眠っている。

 老若男女を問わず、一人ひとりが「力強い成長」の「可能性」を求めて全力疾走せよ!と号令を掛けている光景が浮かび上がってくる。まるであの60年以上も昔の敗戦と廃墟のなかで立ちすくんでいた惨めな姿を連想させる。21世紀の今、時代は大きく変わったのだ。首相が号令を掛ければ、日本国民が一丸となって疾走するとでも思っているのだろうか。そうであれば幼稚にすぎるのではないか。首相は自己を「独裁者」と勘違いしているのかも知れない。これでは失笑するほかない。

(2)演説のもう一つのキーワードは積極的平和主義である。以下のように指摘している。

*先月東京で開催した日本・ASEAN(東南アジア諸国連合)特別首脳会議では、多くの国々から積極的平和主義について支持を得た。ASEANは、繁栄のパートナーであるとともに、平和と安定のパートナーである。
*中国が、一方的に「防空識別区」を設定した。尖閣諸島周辺では、領海侵入が繰り返されている。力による現状変更の試みは、決して受け容れることはできない。引き続き毅然(きぜん)かつ冷静に対応していく。新たな防衛大綱の下、南西地域をはじめ、わが国周辺の広い海、空において安全を確保するため、防衛体制を強化していく。
*私は自由や民主主義、人権、法の支配の原則こそが、世界に繁栄をもたらす基盤と信じる。その基軸が日米同盟であることはいうまでもない。
*在日米軍再編については、抑止力を維持しつつ、基地負担の軽減に向けて、全力で進めていく。
*今年も地球儀を俯瞰する視点で、戦略的なトップ外交を展開していく。中国とは残念ながら、いまだに首脳会談が実現していない。しかし私の対話のドアは常にオープンである。韓国は基本的な価値や利益を共有する、最も重要な隣国である。大局的な観点から協力関係の構築に努める。

<安原の感想>積極的平和主義の落とし穴
 安倍首相は積極的平和主義を唱導している。「積極的平和主義」と「平和主義」とはどう異なるのか。従来から重視されてきた平和主義は、軍事力の支えに頼らない平和の構築をめざす政策である。現行平和憲法の前文、9条などにその理念が盛り込まれている。日米安保条約とも両立しない平和理念である。
 一方、積極的平和主義は日米安保体制下で米国と一体となって戦争に協力するという姿勢である。あるいは日本が独自に対外戦争を仕掛けるという含みである。分かりやすく言えば、安倍首相一派は戦争屋集団と名づけることもできる。戦争のための「抑止力の維持」を重視しており、決して非戦、反戦を唱導しているわけではない。だから積極的平和主義は誤解を誘導する用語であり、我ら庶民の一人ひとりとしてはその悲劇の落とし穴にはまらないように用心したい。警戒心を高めたい。


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堤清二の「市民の国家」論とは
政官財界は「没落」を回避できるのか 

安原和雄
 政官財界の内側にいて批判精神を失わないユニークな経営者として知られていた堤清二氏が亡くなった。若手経営者の頃から望ましい国家の姿として「市民の国家」論を唱え、それに耳を貸さない現状のままでは「産業界は没落の一途」を辿るほかないとも指摘した。政官財界は果たして「没落」を回避できるのかという問題意識は、今後も常に新鮮な問いかけとなるだろう。
 日本の著しい右傾化に熱心な安倍自民党政権に向かって、堤氏としては根底から批判するほかなかったに違いない。しかし寿命という自己管理しにくい制約のため、それを果たす機会を与えられなかった。堤氏にとっては無念であったと言うべきだろう。(2014年1月16日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 朝日新聞(2013年11月29日付)は「経済人・作家 堤清二さん死去」の見出しで次のように報じた。
 セゾングループを率いた経済人であり、辻井喬(つじい・たかし)のペンネームで作家・詩人としても知られた堤清二(つつみ・せいじ)さんが死去した。86歳。小売業(西武百貨店など)に文化事業を融合させる一方、日本の戦後をみつめた文化人の死を悼む声が28日、相次いだ。西武百貨店を傘下に収めるセブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文会長は「非常に感覚が鋭く、尊敬していた」とコメントした。

 『揺らぐ日本株式会社 政官財50人の証言』(毎日新聞社刊「毎日新聞経済部編」1975年刊)に堤 清二氏の証言(記事中の見出しは「″市民の国家″に改造を」、「経済界は没落の一途」)が収められている。政官財界人にインタビューしたのは主として私(安原=当時、毎日新聞東京本社経済部員で財界担当記者)だったが、多くの経済部員の協力を得た。当時の西 和夫・毎日新聞(東京)経済部長は、この長期企画の『証言』について次のように指摘している。
 「日本株式会社の重役たちが1974年から75年にかけて何を悩み、何を志向していたか、とくに一枚岩的な政・官・財複合体の亀裂が刻み込まれたことについていかに深刻な危機感を持ち、その打開策に眠られぬ夜をすごしたか ― を記録する証言として、昭和経済史に残る資料的価値を担うものと自負している」と。

 40年も昔のインタビュー記事だが、決して「単なる昔話」にとどまっているわけではない。むしろ21世紀の今の時点でもなお示唆に富む証言となっている。以下、その証言(大要)を紹介し、<安原の感想>を付記する。

(1)「市民の国家」に改造を
 問い:石油危機とインフレのなかで企業の社会的責任が問われたが、今日の企業の社会的責任はいかにあるべきだと考えるか。
 堤:生活にとって有用な製品を需要に応じて作り出していくのが重要な社会的責任だ。いいかえれば社会的ニーズに応えることだ。社会的ニーズのなかには物質的な豊かさだけでなく、最近では人間的豊かさが大きく出てきている。公害防止は当然のことだし、それに生きがいも企業が労働者に対して果たすべき社会的責任の重要な部分だ。
 問い:どうしてわが国では、あなたの指摘する意味での企業の社会的責任論が定着しなかったのか。
 堤:明治のころから道義的経営者はつねに少数派だった。その少数派の例として住友の別子銅山の公害対策がある。今日のカネに換算して500億円程度の巨費を投じて公害問題に取り組んだ。もう一つ、明治時代の公害事件として有名な足尾銅山があり、その公害反対運動のリーダーだった田中正造は「別子銅山は企業経営の見本だ」とほめた。米国では公害問題にその地域の経営者が先頭に立って取り組んでいる例がたくさんある。
 ところが戦後の日本の場合は一人もいない。あれはマスコミが悪いというステレオ・タイプ的発想になっている。明治時代の経営者に比べ格が落ちた。公害裁判に敗北して、しかもみんなに批判されてシブシブ従うというのが大部分だ。

問い:「社会的責任」が経営者の基本的行動様式になり得なかったのは、日本の産業風土の特殊性によるものか、それとも資本主義体制の本質的欠陥が出てきたものか。
 堤:それに答えるのは、実はこわい。資本主義が社会的有用性をもっていたころはプラスの役割を果たした。しかし現在、資本主義の社会的役割は一段階を終えたのではないかというイヤな予感がする。新しい時代の資本主義に関するビジョンが生まれない限り、今日みられるデメリット(欠陥)が出続ける危険性がある。公害、インフレ、資源問題などがそのデメリットで、これはケインズ経済学の破産にもつながっていく問題だ。
 公経済の分野がひろがって、それと私経済との混合による新しい資本主義になっているのに、日本の経営者はいまなおアダム・スミス当時の自由主義経済を頭に置いている。財界だけがタイム・カプセルに入って凍結されているわけだ。しかしアダム・スミスを読み直してみると、スミスさえ、自由競争には限界があるとして、企業家の自己抑制などの必要を強調している。どうも日本のえらい方は、自己流にスミスを読み違えているとしか思えない。とにかく自由にやらせるのが自由主義経済だといっていたのでは、大衆から見放される。
 問い:どの程度の公権力の介入ならよいと考えるか。
堤:その前提として国家の質をどうみるかだ。経営者は今の政府を明治の絶対主義政府という観念でしかみていない。常に自由を束縛する国家観しかないわけだ。しかしいまの国家は「市民社会のための装置」という認識をもつべきだ。市民社会のための政府であれば、介入も市民社会のための介入になるので、企業にとっても歓迎すべき介入になるはずだ。そして介入の仕方、分野、度合いについて介入を認める立場で注文をつけていく。

<安原の感想>「市民が主役」を取り戻すとき
 国家は「市民社会のための装置」という認識は今日の日本社会に浸透しているだろうか。現実はまるで逆ではないか。特に自民党の安倍政権が誕生してからは、むしろ「国家のための装置」として機能しつつある。そこでは平和・反戦と人権重視の現行憲法の理念は無視ないし軽視されている。軍事力行使も辞さないという姿勢すらうかがわせている。
 40年前の堤発言は、いま、読み返してみると、今日の日本政治の姿を予見していたかのように受け止めることもできる。市民が主役の「市民社会のための装置」という認識を取り戻さなければならない。そのためには安倍政権に一日でも早く引導を渡すときである。

(2)経済界は没落の一途
問い:介入する側の官僚と介入される側の経済界との間にギャップがあるのではないか。
 堤:市民社会のための政府であるべきだという意識で行動しているまじめな官僚は、最近の経済人の行動は理解できないのではないか。意識の面での両者の間のギャップは広がりつつある。しかも経済界は大衆からも見放されているのだから、これでは経済界は没落の一途をたどっていることになる。
 問い:自民党単独政権が長すぎるという意見は財界にも出ている。政権交代が必要だとは思わないか。
 堤:いい悪いは別にして、政権は必ず交代するものだ。世界史をみても100年も一つの政党が政権の座についていたことはない。変わるのが当たり前だ。必然だ。ただ変わり方にいろんなのがある。

 問い:自民党は国民の過半数の支持をすでに失っている。事実上保革逆転しているという見方は財界のなかにもある。つまり資本主義体制の守護者である自民党に対する国民の批判が強まっているわけで、このことは利潤追求を第一目的とするいまの資本主義体制そのものの是非が問われていることを意味するとは考えないか。
 堤:利潤それ自体が原則的に悪だとは思わない。何のために利潤を追求し、どういう方法で利潤を追求するか、この二点で利潤追求行為が悪であるかどうかが決まってくる。昔は利潤追求が経済の発展に役立ち、国民がこれを支持した。しかしいまは利潤追求の仕方が他の社会生活の分野をおかす場合には悪になっている。経済発展が国民の期待の最大公約数ではなくなっているからだ。
 問い:自民党の宮沢喜一氏は、「自由主義経済を死守する」といっている。どう思うか。
 堤:いまの体制を死守するというのは白虎隊と同じでロマンチックだけれども、問題はどういう体制にしなければならないかだ。第一次資本主義体制とでもいうべきこれまでの体制は変わらざるをえないでしょう。経営者も体制が変わることを率直に認めていかねばならない。死守される体制の方が迷惑するのではないか。
 問い:新しい体制はどういうものになると考えるか。
 堤:古典的資本主義はどこの世界にもない。米、英、仏、西独など各国いずれも特性を持っており、したがって典型的な新しい第二次資本主義体制というものはないと思う。日本も歴史、風土に合わせて経済運営が円滑に行われて国民のニーズに応えられさえすれば、これが資本主義であるかどうかわからなくなってもよい。

<安原の感想>行方定まらぬ日本資本主義
 自民党単独政権の末期、自由主義経済=資本主義体制そのものはどうなるのか、に関心が集まりつつあった。その一つは自民党・宮沢喜一氏(蔵相、首相を歴任)の「自由主義経済死守」論である。「死守」論に批判的姿勢で終始したのが堤氏で、「資本主義体制は変わらざるを得ない」と論じた。「死守される体制の方が迷惑する」と冷ややかでもあった。この考えは宮沢流の「死守」論とは180度異なっている。

 さて日本経済の現状はどうか。右翼的色彩の濃い安倍政権の登場とともにアベノミクス(大胆な金融緩和、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略ーの「三本の矢」)という名の経済運営に転換した。しかし例えば大量の非正規労働者群をどう削減していくのか、その展望はみえない。恵まれない大衆への熱い関心は希薄のように見受けられる。安倍首相は政治家というよりは支配者・統治者の心情なのだろう。これでは経済の活性化もままならない。行方定まらない日本資本主義というほかない。
 毎日新聞社説(1月16日付)は春闘に関連して「若年層を中心にした非正規雇用の低賃金と生活不安の改善は急務」と主張した。賛成したい。








「人間中心の国づくり」めざして
2014年元旦社説を批評する

安原和雄
 大手紙の元旦社説のキーワードとして、民主主義、日本浮上、長期の国家戦略、人間中心の国づくり、などを挙げることができる。これらのキーワードは「強い国」志向にこだわる安倍首相の姿勢と果たしてつながるのか。率直に言えば、首相の鈍感さはもはや限界に来ているのではないか。その一つが靖国参拝である。さらにアベノミクスという名の景気対策も、二千万人にも及ぶ非正規労働者らには無縁である。賃上げや消費の増大にはつながらないからだ。
 東京新聞社説は「人間が救われる国、社会へ転換させなければならない」との趣旨を指摘している。これは人間の存在そのものが否定されかねない地獄のような現状への告発ともいえる。われら日本人が喜びと共に「未来への希望」を語り合えるのはいつの日なのか。(2014年1月3日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

まず大手5紙の2014年元旦社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞=政治と市民 にぎやかな民主主義に
*毎日新聞=民主主義という木 枝葉を豊かに茂らそう
*讀賣新聞=日本浮上へ総力を結集せよ 「経済」と「中国」に万全の備えを
*日本経済新聞=飛躍の条件伸ばす 変わる世界に長期の国家戦略を
*東京新聞=人間中心の国づくりへ 年のはじめに考える

なお1月3日付5紙の社説見出しを参考までに書き留める。
*朝日新聞=「1強政治と憲法」 「法の支配」を揺るがすな
*毎日新聞=文化栄える国へ 自由な社会あってこそ
*讀賣新聞=(上向く世界経済) 本格再生へ「分水嶺」の1年だ 先進国と新興国にくすぶる不安
*日本経済新聞=飛躍の条件<創る> 産業社会をモデルチェンジする
*東京新聞=障害を共に乗り越える 年のはじめに考える

以下、各紙元旦社説の要点を紹介し、それぞれに安原のコメントをつける。
▽朝日新聞社説
行政府は膨大な情報を独占し、統治の主導権を握ろうとする。その結果、多くの国民が「選挙でそんなことを頼んだ覚えはない」という政策が進む。消費増税に踏み込んだ民主党政権、脱原発に後ろ向きの現政権にそう感じた人もいるだろう。議論が割れる政策を採るなら、政治は市民と対話しなければならない。
いずれも投票日だけの「有権者」ではなく、日常的に「主権者」としてふるまうことを再評価する考え方ともいえる。そんな活動はもうあちこちに広がっている。新聞やテレビが十分に伝えていないだけだと批判をいただきそうだ。確かに、メディアの視線は選挙や政党に偏りがちだ。私たち論説委員も視野を広げる必要を痛感する。

<安原のコメント>自己批判する論説委員
にぎやかな民主主義に育てていくためにはまずなによりも新聞社の論説委員自身の自己批判から出直す必要があるとも読めるユニークな社説である。ひとむかしも前の論説委員なら自己批判とは無縁であった。大上段に振りかぶった論説が主流となっていたような印象が強いが、それに比べると昨今の論説委員の物腰は激変といえる。皮肉を言いたいのではい。謙虚であることは無論大切なことである。しかし謙虚さは読者や市民に対して必要であるが、政財官界の権力の座にある群像に向かっては無用であるだろう。この姿勢を曖昧にすることは疑問である。

▽毎日新聞社説
「統治する側」が自分たちの「正義」に同調する人を味方とし、政府の政策に同意できない人を、反対派のレッテルを貼って排除するようなら、そんな国は一見「強い国」に見えて、実はもろくて弱い、やせ細った国だ。全体が一時の熱にうかされ、一方向に急流のように動き始めたとき、いったん立ち止まって、国の行く末を考える、落ち着きのある社会。それをつくるには、幹しかない木ではなく、豊かに枝葉を茂らせた木を、みんなで育てるしかない。
その枝葉のひとつひとつに、私たちもなりたい、と思う。「排除と狭量」ではなく、「自由と寛容」が、この国の民主主義をぶあつく、強くすると信じているからだ。

<安原のコメント>良識ある筆致の効果は?
一読しての印象では工夫を凝らした社説である。良識ある筆致ともいえる。しかしその良識なるものが、批判の対象である安倍首相という人物にどこまで通用するのか、その肝心なところが今ひとつ合点がいかない。勝手な想像で恐縮だが、この社説については論説委員の間でも異論があったのではないか。もし異論がなかったとすれば、活気を失った論説陣という印象が否めない。
社説の締めくくりである次の指摘には同感である。<「排除と狭量」ではなく、「自由と寛容」が、この国の民主主義をぶあつく、強くすると信じている>と。

▽讀賣新聞社説
デフレの海で溺れている日本を救い出し上昇気流に乗せなければならない。それには安倍政権が政治の安定を維持し、首相の経済政策「アベノミクス」が成功を収めることが不可欠である。当面は、財政再建より経済成長を優先して日本経済を再生させ、税収を増やす道を選ぶべきだ。
対外的にはアジア太平洋地域の安定が望ましい。日中両国の外交・防衛当局者による対話を重ねつつ、日米同盟の機能を高めることで、軍事的緊張を和らげねばならない。今年も「経済」と「中国」が焦点となろう。この内外のテーマに正面から立ち向かわずに、日本が浮上することはない。

<安原のコメント>讀賣らしく日米同盟強化で一貫
讀賣新聞はかなり以前から保守政権を支える役割を担ってきた。特に安倍政権の発足と共に熱の入れようも高まっている。特に今2014年元旦の社説は1ページの3分の2のスペースを占める超大型となって、異様な雰囲気をただよわせている。
その大型社説に盛り込まれている主張は、まず安倍首相の経済政策「アベノミクス」賛美論に始まり、対外政策では日米同盟の機能強化論で一貫している。讀賣社説は「日米同盟の機能を高めることで、軍事的緊張を和らげねばならない」と指摘しているが、軍事同盟の強化はむしろ緊張激化を誘発する恐れがある。軍事的に威勢がよすぎるのは危険というほかないだろう。

▽日本経済新聞社説
世界の変化の最たるものは、世の中に影響力を及ぼす地域が米欧からアジアへと移行、その傾向に拍車がかかっていることだ。地球規模でものごとがうごいていくグローバル化によるものだが、百年単位の長期サイクルで考えると、別に驚くに値しない。「アジアへの回帰」そのものだからだ。
国際社会の構造変革が進んでいるのである。その中心をなすのは、膨張する中国だ。軍事、経済などのハードパワーの増大を背景に、世界の力の均衡がゆらぎかねないところまで来つつある。米国で内向きのベクトルが働いているとすればなおさらだ。日本として、日米同盟というハードと、日本の文化と価値観というソフトのふたつの力をうまく使い分けるスマートパワーで、中国と向き合っていくしかない。

<安原のコメント>日本はスマートパワーを発揮できるか
一読後の印象は、なかなか示唆に富む社説といえる。「地球規模のグローバル化」と「百年単位の長期サイクル」で考えると、「アジアへの回帰」が顕著だというのだ。「アジアへの回帰」とは、中国を主役とする国際社会の構造変革の進行にほかならない。それに拍車をかけているのが「内向きの米国」の動向である。
以上のような「地球規模の大変化」という新潮流のなかで日本の果たすべき役割は何か。
ここに「日米同盟というハード」と「日本の文化と価値観というソフト」をうまく使い分ける「スマートパワー」なるものが登場してくる。しかし軍事中心の従来型日米同盟に執着する限り、有効なスマートパワーを果たして発揮できるだろうか。

▽東京新聞社説
強い国志向の日本を世界はどうみているか。昨年暮れの安倍首相の靖国参拝への反応が象徴的。中国、韓国が激しく非難したのはもちろん、ロシア、欧州連合(EU)、同盟国の米国までが「失望した」と異例の声明発表で応じた。戦後積み上げてきた平和国家日本への「尊敬と高い評価」は崩れかかっているようだ。
アベノミクスも綱渡りだ。異次元の金融緩和と景気対策は大企業を潤わせているものの、賃上げや消費には回っていない。つかの間の繁栄から奈落への脅(おび)えがつきまとう。すでに雇用全体の四割の二千万人が非正規雇用、若き作家たちの新プロレタリア文学が職場の過酷さを描いている。人間が救われる国、社会へ転換させなければならない。
何が人を生きさせるのか。ナチスの強制収容所で極限生活を体験した心理学者フランクルが「夜と霧」(みすず書房)で報告するのは、未来への希望であった。

<安原のコメント>「未来への希望」は期待できるか
「強い国」志向にこだわる安倍首相の鈍感さはもはや限界に来ているのではないか。その一つが昨年暮れの靖国参拝である。これには同盟国であるはずの米国が「失望した」と声明したほどだ。アベノミクスという名の景気対策も大企業は歓迎できても、二千万人にも及ぶ非正規労働者らには無縁である。賃上げや消費の増大にはつながらないからだ。上述の東京新聞社説は「人間が救われる国、社会へ転換させなければならない」との趣旨を指摘している。これは人間の存在そのものが否定されつつあるという日本の地獄のような現状への告発といえる。日本版「ナチスの強制収容所」から脱出して「未来への希望」を語り合えるのはいつの日なのか。


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天下の悪法・秘密保護法は許せない
奴隷への道を拒否し、権力を監視する

安原和雄
 自民、公明の与党賛成多数で成立した特定秘密保護法は天下の悪法である。なぜ天下の悪法といえるのか。戦後日本の針路を決定づけた平和憲法の理念を骨抜きにするだけではない。民主主義の根幹ともいうべき国民の「知る権利」を空洞化させ、民主主義そのものを崩壊させていく恐れがあるからだ。これは民衆、市民にとって奴隷への道といっても過言ではない。
 奴隷に甘んじる選択を受け容れるのか、それとも奴隷への道を拒否し、国家権力を厳しく監視し続けるのか。答えは二つにひとつである。言うまでもなく正当な選択は、奴隷への選択を拒否し、権力監視に努めることである。(2013年12月9日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 特定秘密保護法が2013年12月6日夜の参院本会議で自民、公明の与党賛成多数で可決、成立した。この成立を大手メディアはどう論評したか。まず各紙の7日付社説を紹介する。
*朝日新聞=秘密保護法成立 憲法を骨抜きにする愚挙
*毎日新聞=特定秘密保護法成立 民主主義を後退させぬ
*讀賣新聞=国家安保戦略の深化につなげよ 疑念招かぬよう適切な運用を
*日本経済新聞=「知る権利」揺るがす秘密保護法成立を憂う
*東京新聞=民主主義を取り戻せ 秘密保護法が成立 

 朝日、毎日、日経、東京の4紙はいずれも秘密保護法に批判的であるが、讀賣だけは批判精神で一貫しているわけではない。むしろ安倍政権に理解を示す姿勢である。

 以下では12月7日付<東京新聞社説>の要旨を紹介し、<安原の感想>を述べる。

(1)<東京新聞社説の要旨>
 国会の荒涼たる風景に怒りを禁じ得ない。国民の代表である「国権の最高機関」で、民意が踏みにじられる異常さ。取り戻すべきは、民主主義である。

◆公約で触れぬ瑕疵
 防衛・外交など特段の秘匿が必要な「特定秘密」を漏らした公務員らを厳罰に処す特定秘密保護法は、その内容はもちろん、手続き上も多くの瑕疵(かし)がある。
 まず、この法律は選挙で公約として掲げて、有権者の支持を得たわけではないということだ。
 第二次安倍政権の発足後、国会では計三回、首相による施政方針、所信表明演説が行われたが、ここでも同法に言及することはなかった。
 選挙で公約しなかったり、国会の場で約束しなかったことを強行するのは、有権者に対するだまし討ちにほかならない。
 特定秘密保護法の成立を強行することは、民主主義を愚弄(ぐろう)するものだとなぜ気付かないのか。自民党はそこまで劣化したのか。

◆国民を「奴隷」視か
 安倍内閣は国会提出前、国民から法案への意見を聴くパブリックコメントに十分な時間をかけず、反対が多かった「民意」も無視して提出に至った。
 国会審議も極めて手荒だ。
 同法案を扱った衆院特別委員会では、地方公聴会の公述人七人全員が法案への懸念を表明したにもかかわらず、与党は翌日、法案の衆院通過を強行した。
 「再考の府」「熟議の府」といわれる参院での審議も十分とは言えない。参院での審議時間は通常、衆院の七割程度だが、この法律は半分程度にすぎない。
 審議終盤、政府側は突然「情報保全諮問会議」「保全監視委員会」「情報保全監察室」「独立公文書管理監」を置くと言い出した。
 これらは公文書管理の根幹にかかわる部分だ。野党側の求めがあったとはいえ、審議途中で設置を表明せざるを得なくなったのは、当初提出された法案がいかに杜撰(ずさん)で、欠陥があったかを物語る。

 弥縫(びほう)策がまかり通るのも国政選挙は当分ないと、安倍政権が考えているからだろう。今は国民の批判が強くても衆参ダブル選挙が想定される三年後にはすっかり忘れている。そう考えているなら国民をばかにするなと言いたい。
 人民が自由なのは選挙をする間だけで、議員が選ばれるやいなや人民は奴隷となる-。議会制民主主義の欠陥を指摘したのは十八世紀の哲学者ルソーだ。

 特定秘密保護法や原発再稼働に反対するデモを、石破茂自民党幹事長は「テロ」と切り捨てた。国民を奴隷視しているからこそ、こんな言説が吐けるのだろう。
 しかし、二十一世紀に生きるわれわれは奴隷となることを拒否する。有権者にとって選挙は、政治家や政策を選択する最大の機会だが、白紙委任をして唯々諾々と従うことを認めたわけではない。

◆改憲に至る第一歩
 強引な国会運営は第一次安倍政権でも頻繁だった。この政権の政治的体質と考えた方がいい。
 首相は集団的自衛権の行使、海外での武力行使、武器輸出などを原則禁じてきた戦後日本の「国のかたち」を根本的に変えようとしている。その先にあるのは憲法九条改正、国防軍創設だ。特定秘密保護法はその第一歩だからこそ審議に慎重を期すべきだった。
 日本の民主主義が壊れゆく流れにあったとしても、われわれは踏みとどまりたい。これから先、どんな困難が待ち構えていようとも、民(たみ)の力を信じて。

(2)<安原の感想> やがて安倍政権の自己崩壊へ
 上述の東京新聞社説は以下のように社説では通常は使わない特異な表現が満載である。例えば「奴隷」という言葉が繰り返し出てくる。

・民意が踏みにじられる異常さ、有権者に対するだまし討ち
・民主主義を愚弄(ぐろう)するものだとなぜ気付かないのか
・自民党はそこまで劣化したのか
・反対が多かった「民意」も無視
・国会審議も極めて手荒だ
・当初提出された法案がいかに杜撰(ずさん)で、欠陥があったかを物語る
・弥縫(びほう)策がまかり通る
・国民をばかにするなと言いたい
・議員が選ばれるやいなや人民は奴隷となる-。議会制民主主義の欠陥を指摘したのは十八世紀の哲学者ルソーだ
・国民を奴隷視しているからこそ
・二十一世紀に生きるわれわれは奴隷となることを拒否する
・日本の民主主義が壊れゆく
・その先にあるのは憲法九条改正、国防軍創設だ

 以上の社説表現について結論を言えば、安倍政権が傲慢そのものの姿勢に終始していることを示しているのではないか。しかもその目指すところは憲法九条改正、国防軍創設である。「平和ニッポン」をこれまでとは異質の分野、すなわち「軍事力優先と戦争の日本」に導こうとしているのだ。
 だからこそ社説の結びの言葉「民の力を信じて」が生きてくる。「民」としては国家権力を信じられないとすれば、民衆の声、市民の力を信じるほかないだろう。安倍政権は、その意図に反して、実は民衆、市民の「反安倍」への結束を誘(いざな)いつつあるのだ。それがやがて安倍政権の自己崩壊につながっていく。理性も道理も忘却した暴れ者が自己破綻に陥るのに等しい。


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悪法・秘密保護法案を批判する
メディアは国家権力と対峙せよ

安原和雄
 特定秘密保護法案は稀に見る悪法というほかない。その悪法が11月26日夜の衆院本会議で可決された。前日の25日、福島で開かれた地方公聴会では首長や学者ら7人が同法案に意見を述べたが、賛成の声はないどころか、「一番大切なのは情報公開だ」と力説する人もいた。たしかに民主主義の土台は情報公開である。
 ところが安倍政権は情報公開に背を向けている。このことは安倍政権が民主主義そのものを否定し、同時に新聞、放送などメディアの自由な報道を拒否することにつながる。メディアは国家権力と正面から対峙するときである。メディアの存在価値そのものが問われつつあるのだ。(2013年12月2日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

大手紙社説は安倍政権の特定秘密保護法案をどう論じたか、11月27日付社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞=民意おそれぬ力の採決
*毎日新聞=民主主義の土台壊すな
(毎日新聞は翌28日付社説でも「秘密保護法案 参院審議を問う 2院制の意義を示せ」と論じた)
*讀賣新聞=指定対象絞り「原則公開」確実に 参院で文書管理の論議を深めよ
*日本経済新聞=秘密保護法案の採決強行は許されない
*東京新聞=国民軽視の強行突破だ 

以上の5紙社説のうち朝日、毎日、日経、東京の4紙は明快な反対、批判論で一貫しているが、讀賣社説はいささか異質である。次のように述べている。

 一部の野党がこの法案を「国民の目と耳、口をふさぐ」「国家の情報を統制し、日米同盟への批判を封じ込める」と声高に非難しているが、これは的外れである。(中略)安全保障のための機密保全と、「知る権利」のバランスをどうとっていくか。この問題も参院で掘り下げるべきテーマだろう。

 以上のような讀賣社説の核心は<機密保全と「知る権利」のバランスをどうとるか>にある。一見もっともらしいが、このようなバランス重視の姿勢は、「知る権利」を重視する姿勢とは異質である。「バランスをとる」と言いながら、現実には「機密保全」重視に流れやすいだろう。国家権力に都合のいいバランス論とはいえないか。

 さて讀賣社説以外の反対、批判論はどういう趣旨なのか。以下、その骨子を紹介し、安原の<コメント>をつける。

(1)朝日新聞社説=驚くべき採決強行
数の力におごった権力の暴走としかいいようがない。民主主義や基本的人権に対する安倍政権の姿勢に、重大な疑問符がつく事態である。
報道機関に限らず、法律家、憲法や歴史の研究者、多くの市民団体がその危うさを指摘している。法案の内容が広く知られるにつれ反対の世論が強まるなかでのことだ。
ましてや、おとといの福島市での公聴会で意見を述べた7人全員から、反対の訴えを聞いたばかりではないか。
そんな民意をあっさりと踏みにじり、慎重審議求める野党の声もかえりみない驚くべき採決強行である。
論戦の舞台は、参院に移る。決して成立させてはならない法案である。

<コメント> 安倍政権は暴力集団なのか
「決して成立させてはならない法案」という朝日社説の断定である。権力批判への「遠慮」とか、「ほどほどに」という姿勢はみじんもうかがえない。社説の筆者は「怒り心頭に発して」という気分になっているらしい。だから「権力の暴走」、「重大な疑問符」、「民意をふみにじり」、「驚くべき採決強行」など通常の社説では使わないような過激な表現が多用されている。暴力集団・安倍政権というイメージが浮かび上がってくる。

(2)毎日新聞社説=民主主義の土台を壊す
あぜんとする強行劇だった。衆院国家安全保障特別委員会で特定秘密保護法案が採決された場に安倍晋三首相の姿はなかった。首相がいる場で強行する姿を国民に見せてはまずいと、退席後のタイミングを与党が選んだという。
審議入りからわずか20日目。秘密の範囲があいまいなままで、国会や司法のチェックも及ばない。情報公開のルールは後回しだ。
「知る権利」に対する十分な保障がなく、秘密をチェックする仕組みが確立していないなど疑問はふくらむ。
参院では一度立ち止まり、法案の問題点を徹底的に議論した上で危うさを国民に示すべきだ。民主主義の土台を壊すようなこの法案の成立には反対する。

<コメント> 首相退席後に強行採決
 「あぜんとする強行劇だった」とは何が起こったのか。特定秘密保護法案の強行採決のとき、安倍首相の姿は議場になかった。首相退席後のタイミングをわざわざ選んで採決を強行したというから、前代未聞の所業といえる。猿知恵(こざかしい知恵)と言っては、当の猿様に叱られそうな気がする。「民主主義の土台を壊すようなこの法案の成立には反対」と断定する毎日社説は、至極当然の主張と言うほかないだろう。

(3)日経新聞社説=国民の不信感は解消されない
この法案には、国民の「知る権利」を損なう危うさがある。徹底した見直しに向けて議論を続けるべきだ。
法案では防衛、外交、スパイ活動、テロの4分野で、特に秘匿する必要があるものを各省大臣が特定秘密に指定する。秘密を漏らした公務員には最長で懲役10年の刑が科せられる。本紙の世論調査でも秘密保護法案については「反対」が50%、「賛成」の26%を上回った。「懸念はない」と答えたのはわずか6%にすぎない。このような状態で、法案をそのまま通してしまって本当にいいのか。
異例の事態といっていい。国民の抱く疑念や不信感はまったく解消されていない。政府・与党もここは立ち止まって、もう一度考え直してみるべきだ。

<コメント> 骨抜きにされる「知る権利」
 なぜ特定秘密保護法案に反対しなければならないのか。国民の「知る権利」を損(そこ)なうことになるからである。ただメディアが多用する「損なう危うさ」という認識、表現では不十分である。なぜなら安倍政権は、民主主義国家における国民の基本的権利としての「知る権利」を特定秘密保護法制定で骨抜きにしようとしているからである。「知る権利」を守り、活かしていくためには安倍政権と対峙しなければならない。

(4)東京新聞社説=公権力が市民活動を監視
さまざまな危うさが指摘される秘密保護法案であるため、世論調査でも「慎重審議」を求める意見が60%台から80%台を占めていた。
もっと議論して、廃案に持ち込んでほしい。とくに憲法の観点から疑念を持たれている点を重視すべきだ。国民主権、基本的人権、平和主義の三大原則から逸脱していることだ。
いわゆる「沖縄密約」や「核密約」などの問題は本来、活発に議論されるべき国政上の大テーマである。これに類似した情報が特定秘密に指定されると、国民は主権者として判断が下せない。国会議員といえども秘密の壁に阻まれてしまう。どれだけの議員が、この深刻さを理解しているか。
反原発運動など、さまざまな市民活動の領域まで、公権力が監視する心配も濃厚だ。行政権だけが強くなる性質を持つ法案である、あらためて反対表明をする。

<コメント> 許せぬ「独裁国家」への改悪
安倍政権が目指しているのは、「民主国家」から「独裁国家」への改悪という荒療治である。その独裁国家としての日本の未来図は、日米安保体制の維持、原発再稼働、集団的自衛権発動による軍事力行使、多数の非正規労働者と低賃金の維持、社会的弱者の切り捨てなど。もちろんこれらの改悪路線を許すことはできない。とはいえこの改悪路線を阻むのは容易ではない。反「安倍政権」統一戦線をどこまで結成できるかにかかっている。


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東海村・村長の脱原発論を読んで
今こそ「脱成長の社会」に向けて

安原和雄
 これまで何度も脱経済成長論に言及してきたが、またもや脱成長論に思いを馳せねばならない。しかもその脱成長論は脱原発と一心同体である。脱原発のための脱成長論と言い直すこともできる。経済成長のためには原発推進も不可欠とみるのが原発推進派の言い分だが、この主張は「亡国・ニッポン」への道につながっている。だからこそ亡国への道を回避するためには脱原発という選択肢以外は考えにくい。
 小泉純一郎元首相が最近「原発ゼロ」を提唱して話題を呼んでいる。その目指すところは「亡国・ニッポン」への危機をいかに乗り越えるかであるに違いない。肝心なことは「原発ゼロ」実現のためには「脱成長」をも覚悟することである。(2013年11月18日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 村上達也、神保哲生共著『東海村・村長の「脱原発」論』(集英社新書、2013年8月刊)は、日本におけるこれまでの原発依存症を克服して、脱原発の新しい進路を模索するには不可欠の力作である。
 著者の村上達也(むらかみ たつや)氏は、1943年東海村生まれ。東海村村長(2013年9月退任。)、「脱原発をめざす首長会議」世話人として活躍。神保哲生(じんぼう てつお)氏は、1961年東京都生まれ、コロンビア大学ジャーナリズム大学院修士課程修了のジャーナリスト。なお村上氏の肩書は11月の現在すでに「前村長」となっているが、著作を発表した8月の時点では現職の町長だったので、主見出しは「東海村・村長の脱原発論を読んで」となっている。

『東海村・村長の「脱原発」論』から「脱原発」に関する主張の要点を以下、紹介する。

(1)「科学的精神」の欠如という日本の病
 問題の根本にあるのは何かと問われれば、我々日本人は科学というものについての根源的な知識、あるいは哲学、科学的な精神がないんじゃないか。ギリシャ文明だとか、中世のヨーロッパでは科学が宗教の中から出てきた。宗教と対峙しながら科学が生まれてきた。それがルネッサンスで大きく花開いて、科学的な精神が17~18世紀の合理主義につながり、産業革命があって、社会が発展してきた。
 そういう根っこがあるヨーロッパと違って、我々日本人は科学を自分で思考せずに、完成品として受容した。朝日新聞論説委員だった笠信太郎が言っていた「切り花論」に等しい。日本は西洋の技術を導入して、やみくもに資本主義的な発展を目指してきた。原発もまったく同じ構造で導入されたところに、失敗の原因があった。

(2)持続できる地域社会をつくっていこう
 東海村は2011年から2020年までの10年間の第5次総合計画を決めた。その理念は「村民の叡智(えいち)が生きるまちづくり― 今と未来を生きる全ての命あるもののために」ときわめて高い。基本目標として次の三つを掲げた。
*未来を拓(ひら)く=過去に学び、現在を考え、未来を拓くことのできる叡智の伝承・創造を目指す。
*多様な選択=一人ひとりが尊重され、多様な選択が可能な社会を村民の叡智を活かし、村民主体で創造していく。
*自然といのちの調和=自然といのちの調和と循環を重視し、多様な叡智を結集して新たな創造する活力あるまちを目指す。
 ここでは「カネ」のことや「地域経済の発展」は、言っていない。これを策定するとき、村民や職員に呼びかけたことはひとつだけだった。「持続できる地域社会をつくっていこう」と。原発では地域社会を持続的に支えられないことははっきりしていたわけだから。

(3)経済成長神話の反省を
 今、反省しなければならないのは、経済成長神話なんですよ。成長、成長ということで、高いところを目指して上へ上へと遮二無二歩いてきた結果が、今の惨憺たる日本社会の状況でしょう。
 働く人の三分の一が非正規労働者という社会がつくられて、そのうえに労働契約法も改悪して、首切りしやすくするとか、そういうまさに資本主義的な論理で、どんどん人間の存在というものが、低められ、小さくされてきている。盛んに言われるグローバル化という動きについても、これはおかしい。我々を幸せにしないものなのにわざわざ乗り遅れないようにする必要があるのかと疑問に思う。
 原発依存、つまり化け物に依存するような社会から脱却して、人間性を回復すべきだろう。しかし脱成長社会に転換することは、たとえば経団連で威張っているおじさん達にとっては、自分の育ててきた産業とそれを通じて得た権力の否定を意味する。そこに原発と同じようなムラ、たとえば経団連ムラがあって、同じように言論の自由もなかったりする。

(4)大変不気味で恐ろしい空気が覆っている
 今、日本には暗い雲が立ちこめていると強く感じている。原発が再び、国家の経済、国家の利益、国家の威信を守るための「国策」― これは戦時中の言葉だが― といつの間にか位置づけられ、地域住民の声が届かない中央で物事が決められて、推進に傾いた議論が行われている。
 しかも不都合な情報を出さず、事故の検証も不十分なままで周辺住民の意思を問うプロセスも経ずに、原発を再稼働させようとする権力の姿勢に、なぜか全国民的な異議の声が上がっていない。大変不気味で、恐ろしい空気が日本を覆っている。

(5)国民の生命こそ何物にも代えがたい
 言いたいことはシンプルだ。人の命は、何物にも代えがたい。原発政策がはらむ住民軽視の姿勢は、すなわち人命軽視の姿勢にほかならない。原発は経済効率がいいとか、安全保障上の意義があるという人もいるだろう。だが、国家のプライドも、産業界の利益も、国民の生命の上にあってはならない。そのことを私たちは戦前の歴史で学んだはずだ。
住民の命を直接に預かる自治体の長こそ、そのことを強く訴えるべきではないか。
 自治体の声が国の政策をも動かせるようになったとき、この国のあり方は大きく変わるのではないか。その強い思いが、私に脱原発を公言させてきた。人命軽視のこの日本の腐りきった社会との戦いに、これまで以上に深く真剣に関わっていく所存である。

<安原の感想> 原発「即ゼロ」に踏み切るとき
 小泉純一郎元首相は、11月12日、日本記者クラブで会見し、安倍首相に「原発即時ゼロ」の方針を打ち出すよう力説した。朝日新聞(11月13日付)によると、小泉氏の発言内容は以下のようである。
*原発ゼロの時期について「即ゼロがいい」と明言した。原発再稼働については「再稼働するとまた核のごみも増えていく」と反対の立場を鮮明にした。核燃料サイクル政策について「どうせ将来やめるんだったら今やめた方がいい」と中止を求めた。
*原発をめぐる今の政治状況について「野党は全部原発ゼロに賛成だ。自民党の賛否は半々だと思っている。首相が決断すれば反対論者も黙る」と強調し、「結局、首相の判断力、洞察力の問題だ」と安倍首相の決断を求めた。

 以上の正当な小泉発言について安倍首相及びその周辺は無視する姿勢である。菅義偉官房長官が12日の記者会見で改めて原発を活用する政策を続ける考えを示したことからも、「小泉発言無視」は明らかである。しかし私(安原)は小泉発言に賛成であり、原発の「即ゼロ」に踏み切るときだと考える。なぜなら原発によって経済成長を図ろうとするのは危険であり、望ましい政策とは言えないからである。

 経済成長は人間にたとえれば、身長が伸びて、体重が増えることを意味する。身長が伸びて体重が増えても、人間として心身ともに立派であるとは限らない。同様に経済成長が進むとしても、たしかに経済の量的規模はふくらむが、その経済が質的に立派であるとは言えない。だから上質の経済を創造するためには経済の質的転換が不可欠となる。
 焦点の原子力発電は、これまでの原発事故の惨状が明示しているようにいのち・自然・人間との共存は不可能であり、上質の経済とは相容れない。だからもはや脱原発を目指す以外の選択肢はあり得ない。にもかかわらず原発推進にこだわる者たちは、自らの錯覚に気づかず、いのち・自然・人間を粗末に扱う無神経な群像というほかないだろう。


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「忍耐と我慢」は今も続いている
21世紀版映画「おしん」を観て

安原和雄
最近(2013年10月下旬)、21世紀版映画「おしん」を観る機会があった。どこにこれほどの涙が隠れていたのかと思えるほど涙が止まらなかった。私にとって30年前の連続テレビドラマ「おしん」物語には断ちがたい想い出がある。「忍耐と我慢のシンボル」ともうたわれたこのドラマは、当時も涙なしには観ることができなかった。
 今指摘すべきことは、「おしん」は単なる昔話ではなく、現在進行形の「忍耐と我慢」の物語にほかならない。世に言う多数の非正規労働者の存在は見逃せない。非正規労働者に限らない。必要にして正当な自己主張もままならぬサラリーマン、労働者が多すぎるのではないか。いつになったら、この望ましくない非正常な現実から抜け出せるのか。(2013年11月1日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 NHK連続テレビ小説「おしん」は、1983年(昭和58年)4月4日から1984年(昭和59年)3月31日まで放映された。全国に「おしんブーム」を巻き起こし、前代未聞の平均視聴率52.6%、最高視聴率62.9%を記録した。国内に限らず、現在までに世界68の国と地域でも放映された。
 「おしん」に関する当時の毎日新聞社説(昭和59年=1984年4月1日付、つまり「おしん」が終わった日の翌日。筆者は現役の論説委員だった私・安原)を紹介する。その見出しは<いつまで「おしん」なのか>である。当時他紙の社説は「おしん」問題をほとんど論じなかったように記憶している。その意味では「おしん」問題をわざわざ論じた社説は、当時としてはひと味異なった性質のものだった。

▽ 当時の毎日新聞社説<いつまで「おしん」なのか>

 社説の大要は以下の通り。

 人気テレビドラマ「おしん」が終わった。何度も頬をぬらした人たちにとっても、このドラマはそのうち忘却のかなたへと消えていくことになるのだろう。しかし忍耐と我慢のシンボルとさえいわれた「おしん」は本当にドラマの世界での主役でしかなかったのだろうか。
 身近な生活を見回してみても、心なごむ話は意外に少ない。昭和58(1983)年末現在の貯蓄・負債動向調査によると、サラリーマン世帯のうち住宅・土地の負債をかかえている世帯が34.0%と初めて3分の1を超えた。国民生活実態調査によると、所得格差は広がる一方であり、しかも生活実感として「大変苦しい」と「やや苦しい」を合わせて38.6%の世帯が家計の苦しさを訴えている。妻の3分の1は「家計の補助、維持」を理由にパートなどで稼ぐのに精を出している。住宅ローンの負担にあえぎながら、ついついサラ金に手を出し、自殺にまで追い込まれるケースも珍しくない。

 最近次々と発表された政府の公式統計や調査からうかがうことのできる私たちの生活の素顔がこれである。たしか、国民のほとんどが中流意識を身につけ、暖衣飽食に首まで浸っていると喧(けん)伝する向きもあったが、これはいったいどこでどうすれ違いを起こしたのだろうか。
 税金など非消費支出がふえつづけ、消費生活の足を引っ張っているのは、いうまでもなく、所得減税を見送り、サラリーマンにとって実質増税となっているためである。昨年暮れの総選挙で中曽根政権が公約した1兆円減税も、酒税など間接税の増税と抱き合わせで帳消しとなったことはいまさら指摘するまでもない。

 財界首脳が「我慢の哲学」を国民に説くのに大いに活用したのがおしんブームであった。そこには春闘による賃上げをできるだけ抑制しようという意図が働いている。収入が増えず、それでいて、その収入に占める税負担など非消費支出がふえれば、否応なしに私たちが「おしん」の生活をしいられることは小学生でもわかる単純な算術の問題である。「おしん」を拡大再生産していくメカニズムが定着してしまったのか。
 ドラマ「おしん」は終わっても、現実のおしんが日本列島のあちこちで、きょうも頑張っていることを忘れないでもらいたい。

▽ 21世紀版「おしん物語」を終わらせるには

 30年前の当時の毎日新聞社説は次のように締めくくっている。<ドラマ「おしん」は終わっても、現実のおしんが日本列島のあちこちで、きょうも頑張っていることを忘れないでもらいたい>と。
 この指摘は21世紀の現在もなおほぼそのまま当てはまるのではないか。周知のように働く人達のうち4割近い非正規労働者が低賃金など不適正な労働条件を強いられている。まさに現代版「おしん物語」というほかないだろう。

 特に安倍政権の登場とともに「大資本優遇、労働者冷遇」の傾向が強まっている。言い換えれば、安倍政権は今、「おしんの拡大再生産」に熱心であり、励んでいるのである。21世紀版「おしん物語」を打破するためには何が必要か。「労働者の団結と反撃」という古典的でありながらパワーあふれる戦法に学び、実践する以外に妙手はない。つまり「労働者諸君、立ち上がれ」の一言に尽きる。
 ところが現状は独りで閉じこもって悩んでいる働き手、サラリーマンが多いように想うが、いかがだろうか。これでは現代版「おしん」にさようなら! を告げるのはむずかしいだろう。


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首相の所信表明演説が意図すること
暮らしにくい「弱肉強食の競争社会

安原和雄
安倍首相の所信表明演説が意図するものは何か。それを大づかみに理解しようと思えば、社説を読むのが手っ取り早い。といっても各紙社説は多様である。現政権への擁護論から批判派まで主張は幅広い。だから読者としての自分なりの視点が求められる。
わたし自身は東京新聞の主張に教えられるところが多い。特に<「弱肉強食」の競争社会は、たとえ経済が成長したとしても、暮らしにくい。目指すべきは「支え合い社会」>という視点に賛成したい。安倍首相の単純な経済成長推進論は幸せへの道にはほど遠い。経済成長賛美はもはやいささか陳腐すぎるとはいえないか。(2013年10月18日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 大手新聞社説(10月16日付)は安倍首相の所信表明演説をどう論じたか。まず各紙の社説の見出しを紹介する。

*朝日新聞=所信表明演説 1強のおごりはないか
*毎日新聞=安倍首相演説 汚染水への危機感薄い
*讀賣新聞=所信表明演説 「意志の力」を具体化する時だ
*日本経済新聞=首相は「実行なくして成長なし」を貫け
*東京新聞=首相所信表明 「意志の力」は大切だが

 以下、各紙社説の要点を紹介し、締めくくりとして安原のコメントをつける。

(1)朝日新聞=安倍首相の所信表明演説は、拍子抜けするほど素っ気ないものだった。各党とまともに議論する気があるのかどうか、疑わしい。首相がいま最も力を入れているのは、消費税率引き上げに伴う成長戦略だ。演説では「起業・創業の精神に満ちあふれた国を取り戻すこと。若者が活躍し、女性が輝く社会を創りあげること。これこそが私の成長戦略です」と打ち上げた。
 政策を前に進めることには賛成だ。だが、国民が増税などの痛みを強いられるなか、権力が集中する「1強」のおごりが見えるようでは、信は失われるだろう。

(2)毎日新聞=東京電力福島第1原発の汚染水問題に対する危機感が足りないのではないか。そんな疑問を抱く首相の所信表明演説だった。この問題を解決しない限り、首相がアピールする「成長戦略の実行」も前には進めないはずだ。首相は「日本は、もう一度、力強く成長できる」「意志さえあれば、必ずや道はひらける」と改めてプラス思考を強調した。「若者が活躍し、女性が輝く社会をつくる」という首相の言葉に異論はない。
 大事なのは「実行」であり、「作文には意味がない」とも語った。果たして目標としている労働者の賃金アップに本当につながるかどうか。結果が問われる時期が近づいている。

(3)讀賣新聞=日本経済の再生を目指す「意志」は、伝わってくるが、肝心なのは結果である。成長戦略をいかに具体化するか、政権の実行力が問われる。安倍首相は衆参両院の所信表明演説で、困難な課題を克服する「意志の力」の重要性も強調した。
 外交・安全保障の分野で首相は「積極的平和主義」の立場から国家安全保障会議(日本版NSC)の創設を急ぐ考えを示した。政府は日本版NSC設置法案の早期成立に加え、初の国家安全保障戦略や新防衛大綱の策定、集団的自衛権の憲法解釈の見直しなどを着実に進める必要がある。

(4)日本経済新聞=首相はアベノミクスで経済成長率や雇用情勢が改善した成果を示す一方で「これまでも同じような『成長戦略』はたくさんあった」と指摘。「実行なくして成長なし」と訴え、今国会で結果を出すよう呼びかけた。
 外交・安全保障政策では「積極的平和主義」の理念を掲げ、国家安全保障会議の創設や国家安全保障戦略策定の方針を打ち出した。
 日中、日韓関係に全く言及がなかった。中韓両国の国内事情もあり、ともに首脳会談が実現していないが、これでは日中、日韓関係を軽視していると誤解されかねない。

(5)東京新聞=首相が今回の演説でちりばめたのは「チャレンジ」「頑張る」「意欲」「意志の力」「実行」という言葉だ。長年のデフレから脱却し、日本経済をを再び回復基調に転じるには意欲ある人や企業を支援し、けん引役になってほしいのだろう。
 しかし「意志の力」ばかり演説で繰り返されると、心配になってくる。頑張ろうとしても頑張れない、社会的に弱い人は切り捨てられても構わないという風潮を生み出しはしないか、と。弱い人たちが軽んじられる「弱肉強食」の競争社会は、たとえ経済が成長したとしても、暮らしにくいに違いない。それは目指すべき「支え合い社会」にはほど遠い。

<安原のコメント> 目指すべきは「支え合い社会」

 大手紙の社説が一番言いたいことは何か。簡潔にいえば、以下のようである。
*朝日新聞=国民が増税などの痛みを強いられるなか、権力が集中する「1強」のおごりが見えるようでは、信は失われるだろう。
*毎日新聞=大事なのは「実行」であり、果たして目標としている労働者の賃金アップに本当につながるかどうか。
*讀賣新聞=政府は、初の国家安全保障戦略や新防衛大綱の策定、集団的自衛権の憲法解釈の見直しなどを着実に進める必要がある。
*日本経済新聞=日中、日韓関係に全く言及がなかった。ともに首脳会談が実現していないが、これでは日中、日韓関係を軽視していると誤解されかねない。
*東京新聞=「弱肉強食」の競争社会は、たとえ経済が成長したとしても、暮らしにくいに違いない。それは目指すべき「支え合い社会」にはほど遠い。

上記5紙の社説のうちあえてひとつだけ選ぶとすれば、東京新聞を挙げたい。他の4紙の社説もそれぞれの個性が浮き出ている。朝日は「1強」のおごりを戒め、毎日は労働者の賃金引き上げこそ重要と説く。一方、讀賣は安倍政権を支持する右派メディアらしく、集団的自衛権(日本が直接攻撃されていなくても同盟国米国と共に軍事力を行使すること)を容認する。ただし私自身は集団的自衛権行使には賛同できない。日経の「首相は日中、日韓関係を軽視している」との認識は正しい。

 さてなぜ東京新聞社説が一番評価できるのか。まず<「弱肉強食」の競争社会>への批判となっているからである。しかも安倍政権の単純な経済成長論にも疑問を提示している。何よりも<目指すべき「支え合い社会」にはほど遠い>という指摘には新味がある。単純な経済成長賛美論はもはや陳腐である。ぬくもりのある「支え合い社会」をこそ目指したい。


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2014年春から消費税引き上げ
安倍政権の増税路線を批判する

安原和雄
 安倍政権は2014年春から消費税率を現行の5%から8%へ引き上げることを決めた。消費税率はやがて10%へと引き上げられる含みである。安倍政権のこの増税路線を新聞メディアはどう論じたか。大手紙社説では消費税上げを批判したのは東京新聞一紙にとどまる。これでは批判精神からかけ離れた大手紙というほかない。
 健全な批判精神を失えば、その行き着く先は国家権力との癒着であり、メディアが国家権力のお先棒を担ぐことにもなりかねない。これではメディアとしての堕落そのものともいえよう。安倍政権とその増税路線に対する正当な批判はいよいよ正念場を迎えている。(2013年10月4日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 政府は10月1日の閣議で2014年4月、消費税率を現行の5%から8%へ引き上げることを決めた。15年10月に予定されている消費税率10%への引き上げについては首相は「経済状況を勘案して判断時期を含めて適切に決断する」と述べた。
 大手新聞社説(10月2日付)は安倍政権の消費税引き上げ決定をどう論じたか。まず各紙の社説の見出しを紹介する。

*朝日新聞=17年ぶり消費増税 目的を見失ってはならぬ
*毎日新聞=消費税8%へ 増税の原点を忘れるな
*讀賣新聞=消費税率8%へ 景気と財政へ首相の重い決断 来春から必需品に軽減税率を
*日本経済新聞=消費増税を財政改革の出発点に
*東京新聞=増税の大義が見えない 消費税引き上げを決定

 以上5紙のうち消費税引き上げに批判的視点を打ち出しているのは東京新聞のみである。そこで他の4紙の主張は以下、簡潔に紹介し、東京新聞社説の紹介に重点を置く。

(1)朝日新聞=金額にして8兆円余り、わが国の税制改革史上、例のない大型増税である。家計への負担は大きい。それでも、消費増税はやむをえないと考える。借金漬けの財政を少しでも改善し、社会保障を持続可能なものにすることは、待ったなしの課題だからだ。
(2)毎日新聞=私たちは、増大する社会保障費と危機的な財政を踏まえ、消費増税は避けて通れない道だと主張してきた。現在の経済状況を考慮しても先送りする事情は見当たらない。増税によって、社会保障の持続可能性は高まり、財政を健全化していく第一歩となる。
(3)讀賣新聞=景気回復と財政再建をどう両立させるか。日本再生を掲げる安倍政権の真価が問われよう。デフレからの脱却を最優先し、来春の増税を先送りすべきであるが、首相が自らの責任で重い決断をした以上、これを受け止めるしかあるまい。
(4)日本経済新聞=安倍首相が予定通り消費税増税を決断した。5兆円規模の経済対策で景気を下支えしながら、5%の消費税を8%まで引き上げる。17年ぶりの消費税増税を実行し、財政再建の一歩を踏み出すことを評価したい。アベノミクスの効果もあって日本経済は着実に回復している。

(5)東京新聞=社説の大要を以下に紹介する。
 安倍晋三首相が来年四月から消費税の8%への引き上げを決めた。終始、国民不在のまま進んだ大増税は、本来の目的も変質し、暮らしにのしかかる。

*何のための大増税か
 一体、何のための大増税か。疑問がわく決着である。重い負担を強いるのに、血税は社会保障や財政再建といった本来の目的に充てられる保証はない。公共事業などのばらまきを可能とする付則が消費増税法に加えられたためだ。肝心の社会保障改革は不安が先に立つ内容となり、増税のための巨額の経済対策に至っては財政再建に矛盾する。増税の意義がまったく見えないのである。

*弱者を追い込む「悪魔の税制」
 消費税は1%で二・七兆円の税収があり、3%引き上げると国民負担は八兆円を超える。財務省にとっては景気に左右されず安定的に税収が確保できるので好都合だ。だが、すべての人に同等にのしかかるため、所得の低い人ほど負担が重くなる逆進性がある。
 さらに法人税は赤字企業には課せられないが、消費税はすべての商取引にかかり、もうかっていなくても必ず発生する。立場の弱い中小零細事業者は消費税を転嫁できずに自ら背負わざるを得ない場合がある。このままでは格差を広げ、弱者を追い込む「悪魔の税制」になってしまう。

*大企業優先の安倍政権
 消費税を増税する一方、法人税は減税を進めようというのは大企業を優先する安倍政権の姿勢を物語っている。消費税増税で景気腰折れとならないよう打ち出す経済対策も同じである。五兆円規模のうち、企業向けの設備投資や賃上げを促す減税、さらに年末までに決める復興特別法人税の前倒し廃止を合わせると一・九兆円に上る。公共事業などの景気浮揚策も二兆円である。
 国民から吸い上げた消費税を原資に、財界や建設業界といった自民党支持基盤に還流されたり、減税に充てられる構図である。過去に経済対策と銘打って公共事業をばらまき、借金を積み上げた「古い自民」の歴史を忘れてもらっては困る。このままでは社会保障の充実も財政再建もかなわないまま、消費税率だけが上がっていくことになりかねない。

*安心できる社会保障を
 安倍首相は「持続可能な社会保障制度を次の世代にしっかりと引き渡すため、熟慮の末に消費税引き上げを決断した。財源確保は待ったなしだ」と理由を述べた。
 そうであるならば、やるべきことは、安心できる社会保障制度の将来像を具体的に描き、その実現のために無駄な財政支出を徹底的に削減し、公平な負担を確立する。それなしに国民の理解は得られるとはとても思えない。

<安原のコメント> 東京新聞の消費税上げ反対は正論
 東京新聞社説のうち注目すべき主張は以下の諸点である。
*消費税は所得の低い人ほど負担が重くなる逆進性
*格差を広げ、弱者を追い込む「悪魔の税制」
*消費税を原資に、財界や建設業界など自民党支持基盤に還流されたり、減税に充てられる構図
*公共事業をばらまき、借金を積み上げた「古い自民」の復活

 以上のような視点は東京新聞以外の社説ではお目にかかれない。安倍政権の政策に批判の目を注いでいるからこそ、見えてくる疑問点といえる。他紙にこういう視点がほとんど見受けられないのは、安倍政権を批判するどころか、むしろ癒着の気風があるからではないのか。
 現政権との馴れ合いになっては世に言う「痘痕(あばた)も靨(えくぼ)」である。こういう喩(たと)えは、最近ではほとんど使われなくなっているらしい。参考までに辞書を引いてみると、「恋する者の目には相手のあばたでもえくぼのように見える」、言い換えれば「ひいき目で見れば、どんな欠点でも長所に見えるということのたとえ」である。
 これではメディア、新聞としての基本的必要条件であるべき「権力に対する批判精神」の欠如であり、メディアの堕落というほかない。堕落から正常な道へ立ち戻るのは容易ではないことを歴史は教えている。


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「わるいやつら、わるい政治」を告発
貧困と格差を解消する政治めざして

安原和雄
 善人もいれば悪人もいる。双方が混在しているのがこの世の常でもあるだろう。しかし日本という国の政治、経済、社会に大きな影響力を行使する政権の座に、仮にも悪人が居座っているとしたら、「現実はそんなものだ」と笑って済ますことができるだろうか。国民1人ひとりは血もあれば、ときに涙も流すいのちある存在である。
「わるいやつら、わるい政治」に寛容であるわけには参らない。告発していくことが求められる。そのための重要な視点が「貧困と格差を解消する政治」をどう育んでいくかではないだろうか。(2013年9月29日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 宇都宮健児(注)著『わるいやつら』(集英社新書・2013年9月刊)が話題を呼んでいる。
(注)宇都宮氏は弁護士で、1946年愛媛県生まれ。日弁連多重債務対策本部長代行、全国ヤミ金融対策会議代表幹事、オウム真理教犯罪被害者支援機構理事長、反貧困ネットワーク代表、「年越し派遣村」名誉村長、日弁連会長などを努める。この経歴からも分かるように異色の弁護士として知られる。

 その異色振りは本書のつぎのような目次からもうかがえる。
序 章 私は、なぜ「わるいやつら」と闘うのか
第一章 サラ金からヤミ金まで
第二章 新型詐欺のバリエーション
第三章 整理屋と提携弁護士
第四章 跋扈する貧困ビジネス
第五章 「わるいやつら」を生み出す「わるい政治」 
おわりに

 以下、その要点を紹介する。

(1)年収200万円未満が1000万人、貯蓄ゼロ世帯26% 
 1990年代以降、貧困と格差が広がり、特に非正規労働者が激増した。2013年時点で、年収200万円未満の人が1000万人を超え、非正規労働者は2000万人を突破して全労働者の38.2%、すなわち3人に1人以上が非正規労働者になっているという現実がある。
 また金融広報中央委員会の統計によれば、1980年代は全世帯のうち「貯蓄ゼロ世帯」が5%前後だったのが、1990年代は10%前後となり、現在は26%を超えている。つまり4世帯に1世帯は貯蓄ゼロだ。年金だけでは生活できない高齢者も急増している。
 このような状況下では借金を整理しただけでは生活を再建することはできない。一度は借金から逃れられても、新たな生活資金を得る必要に迫られて、再び悪質なヤミ金に狙われてしまう。こういうケースが続出するようになった。

(2)労働者よりもトヨタ自動車社長の税負担が低い
 高額所得者の税負担は、相対的に低い。そのことが非常に問題である。元大蔵官僚が書いた『税金は金持ちから取れ』という本に次のような驚くべきことが書いてある。
トヨタ自動車社長の2010年の年収3億4000万円のうち、所得税、住民税、社会保険料の負担率は20.7%で、一方、同じ2010年の給与所得者の平均年収は約430万円で、その負担率は34.6%である。年収430万円の労働者の方が、年収3億4000万円のトヨタ自動車社長よりも税負担が高い。
 なぜそうなるのか。同社長の収入のうち、3分の2は持ち株の配当金だからだ。この配当金にかかる税金は、所得税と住民税を合わせて一律10%にすぎない。小泉政権のときに「証券優遇制度」がつくられ、10%しか払わなくていいことになった。このため普通の給与所得者よりも大企業社長の方が負担率が低くなるというわけだ。そういう事実を私たちはあまり知らされていない。それが問題だ。

(3)横行する貧困ビジネスと日米の違い
 貧困と格差が広がる中で、生活困窮者、貧困当事者の窮状と無知につけ込んで利益を上げる「貧困ビジネス」も広がっている。このような貧困ビジネスを根絶するには、厳しく取り締まるとともに、それらを規制する立法の強化などが必要となる。
 しかし悪質商法・詐欺的商法の取り締まり・摘発は主として警察だけに任されているのが現状だが、取り締まりを警察だけに任せておくのは、限界にきている。
 米国には警察のほかに、詐欺的商法などを監視している行政組織として連邦取引委員会(FTC)があり、疑いのある業者に対し、業務内容の開示命令や詐欺的商法の差止命令を出すことができる。さらに訴訟手続きにより悪質業者から回収した金銭を被害者に配当することができる。
 日本では悪質商法・詐欺的商法によって蓄えを騙し取られた被害者は、泣き寝入りしたくなければ、原則として自己負担で弁護士に依頼し、被害回復を行わなくてはならない。同じような被害にあっても、米国と日本とではずいぶんと置かれた状況が違っている。

(4)憲法に書かれていることが現実化していない
 いま政治課題として「護憲か改憲か」というテーマが俎上(そじょう)にのぼっている。ただ憲法については少し違った角度から考えたい。護憲や改憲を言う前に、そもそも今の憲法の条文に書かれていることが現実化されていないのではないか。
 例えば生活保護とは、憲法25条の「生存権の保障」を具体化した制度だが、その制度を受けるべき人のうち、8割が受けていない。
 学校では憲法で掲げた権利を実現するための具体的な方法を教えていない。ただ「憲法を守れ」と言うだけでは憲法の中身は実現できない。
 憲法28条は「労働者の団結権と団体交渉権その他団体行動権」を規定している。しかし労働組合のつくりかたや団体交渉のやり方を具体的に教える教育はなされていない。だからいくら「労働者には権利がある」と言ってもそれだけでは役に立たない。

 問われているのは「護憲」という理念ではなく、憲法が保障している基本的人権を「現実化」「具体化」するような運動が行われているかどうかである。率直に言って、市民運動の世界にも、理念が先走っている人が多い気がする。大事なことは理念よりも具体的な実践である。具体的実践のひとつが「政治参加」ということなのだ。
 より根本的には、「貧困と格差の広がりを解消する政治」こそが求められているのだ。

<安原の感想> 安倍政治は「貧困と格差の拡大」を転換できるのか

 「貧困と格差」を解消するためには何が求められるのか。ここではまず朝日新聞社説(2013年9月24日付)「賃金デフレの根を絶て」の要点を紹介する。

 政府と経営者団体、労働団体の代表からなる政労使会議がスタートした。来年4月の消費税増税までに賃上げ機運を盛り上げ、経済全体の好循環を促すのが安倍政権の狙いだ。
 首相は今年の春闘で財界に賃上げを要請し、一部の企業が反応した。今度は春闘の仕込みの段階から働きかける。賃上げがアベノミクスの成否を左右すると思い定めているようだ。

 業績は改善しているが、賃金は上がらず、企業は内部留保をため込む。ここに政府が割り込み、空気を変えられれば意味があろう。
 好業績企業からは賃上げ容認論も出始めた。ただ賃金デフレは根深い構造を持っている。しっかり斬り込まなければ、働く人々は将来に明るい展望は持てない。(中略)経団連は人件費削減の「横並び」に余念がないが、そこに安住する危うさを自覚しなければならない。

 以上の社説は目配りが利いている。まず注目したいのは「首相は賃上げがアベノミクスの成否を左右すると思い定めている」という指摘である。本来のアベノミクスは賃上げにはむしろ背を向けていた。それが賃上げのすすめに転換してきたのであれば、歓迎できるが、安倍首相の本音はどうか。
 一方、社説は財界主流派の経団連にも注文を付けている。<経団連は人件費削減の「横並び」に余念がないが、そこに安住する危うさを自覚しなければならない>と。要するに社説は、賃上げ容認に転換せよ、と言いたいのだ。
 私(安原)は賃上げ容認は重要だと考える。非正規労働者が労働者の約35%にものぼって、低賃金を強いられている現状は、生活無視にとどまらず、人権侵害の残酷物語というほかない。日本経済の発展にとってもむしろマイナスである。「貧困と格差の拡大」からの大転換こそが日本経済の正常な発展のためには不可欠であることを強調したい。


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沖縄の声「不戦の原点見詰めたい」
68回目の終戦記念日に考えること

安原和雄
 連日の猛暑の中で今年も終戦記念日がめぐってきた。68回目の記念日である。終戦(正確には敗戦)の昭和20年(1945年)、私は小学5年生(広島県在住)だったが、周囲の大人達の間にも「敗戦で残念」というよりも「終戦による安堵感」が漂っていたように記憶している。あれから70年近い歳月が過ぎて、状況は様変わりしつつある。
安倍政権の登場と共に好戦的姿勢が目立つのだ。戦後日本の政治、経済、社会のあり方を律してきた平和憲法を邪魔者扱いにする動きが強まっている。専守防衛の放棄、自衛隊の国防軍化、集団的自衛権行使の容認などがその具体例である。だからこそ沖縄の琉球新報紙の「不戦の原点を見詰めたい」という主張が光っている。(2013年8月17日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

主要紙の8月15日付社説は68回目の終戦記念日にどう論じたか。まず社説見出しを紹介する。
*朝日新聞=戦後68年と近隣外交 内向き思考を抜け出そう
*毎日新聞=8・15を考える 積み重ねた歴史の重さ
*讀賣新聞=終戦の日 中韓の「反日」傾斜を憂える 歴史認識問題を政治にからめるな
*日本経済新聞=戦争と平和を考え続ける覚悟を持とう
*東京新聞=68回目の終戦記念日 哀悼の誠つくされたか
*琉球新報= 終戦68年 不戦の原点見詰めたい 集団的自衛権容認は危険

 上記の6紙の社説を読んでみて、安倍政権に対する批判力、さらに今後の日本の望ましい進路について明確な主張を展開しているのは沖縄の琉球新報紙であるとの印象を得た。そこで「終戦68年 不戦の原点見詰めたい 集団的自衛権容認は危険」と題する琉球新報社説に限ってその全文を紹介し、安原のコメントをつける。

 なお琉球新報社説(8月17日付)は「加害明言せず 過去の過ちを直視せよ」と題して次のように論じていることを紹介しておきたい。
 安倍晋三首相が68回目の終戦記念日の全国戦没者追悼式の式辞でアジア諸国への加害責任を明言せず、例年の式辞にある「不戦の誓い」も文言に含めなかった。中国や韓国などアジア諸国が反発している。戦前の軍国主義日本の悪夢を呼び起こし、警戒感を抱かせたのは極めて遺憾だ、と。

▽ 安倍政権批判に徹する琉球新報社説

 琉球新報社説(8月15日付)全文は以下の通り。

 戦後68回目の終戦記念日がめぐってきた。
 だが今、戦後営々と築き上げてきた「不戦の防御壁」が音を立てて崩れつつある。政府は武器輸出三原則撤廃の方針を固めただけでなく、専守防衛の原則を捨てて敵地攻撃能力保有も唱え始めた。自衛隊の国防軍化を公言するだけでなく、集団的自衛権行使容認を唱えるに至っては、「平和主義」の仮面をかなぐり捨てるに等しい。
 おびただしい命が失われ、全ての営みが灰燼(かいじん)に帰したあの惨禍から、日本は痛切な反省の末、戦争放棄の誓いを立てたはずだ。その原点を見つめ直したい。

足して2で割る
 安倍晋三首相の私的諮問機関である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(有識者懇)が年内にまとめる報告書で、集団的自衛権行使容認論を打ち出すのは必至だとされる。
 自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、他国が攻撃されたからといってその国と一緒に戦争を始める。集団的自衛権の行使とはそういうことだ。
 これを認めれば、日本国憲法の三原則の一つ「戦争放棄」は完全に空証文となる。自国と関係のない他国の戦争に参加して、戦争放棄などと言えるわけがない。
 こうした憲法の大原則の変更を、改正の手続きをすることなく、国会での議論すらなく、法定の機関でもない一私的諮問機関が事実上決めてしまう。これでは日本はもはや立憲国家ですらない。

 この懇談会は第一次安倍内閣当時の2007年にも設置され、集団的自衛権行使を打ち出した。その際「公海上を並走中の同盟国軍艦への攻撃」など「4類型」をまとめ、これらを発動対象にすると掲げた。今回はこの類型も取り払う方針だ。集団的自衛権の対象国も不明確にし、いろいろな国の戦争に参加できるようにするという。米国追従にとどまらないのだ。
 おそらく、何でも発動対象だと驚かせておいて、国会審議で対象を限定することにし、「落としどころ」とするのが狙いだろう。最初に最大限の要求をふっかけておいて、さも譲歩したように見せかける。「足して2で割る」手法なのが透けて見える。
 政府はそうした術数を凝らすのではなく、行使容認の是非を正面から議論すべきだ。米国が始める戦争に無原則に付き合うのは危険すぎる。「無原則ではなく日本が主体的に判断する」と政府は言うだろうが、今の対米屈従外交の日本に「主体的」判断ができると、誰が信じられるだろうか。

「包囲網」の虚構
 最近の日本の危うさは歴然としている。北朝鮮敵視は言うまでもなく、中国・韓国敵視論が声高に叫ばれる。まるで戦争をしたがっているかのようだ。
 中国敵視論の論者は、対中国包囲網構築を唱え、政府もそれが着々と成果を収めているかのように見せているが、空想に等しい。米国は「領土問題で立場を取らない」と明言しており、尖閣問題で中国と戦争するわけがない。米国が中国に対し、冷戦期の「封じ込め」でなく「抱き込み」を図っているのは国際政治の常識だ。
 台湾と中国の航空定期便は週600便もあり、かつてないほど良好で緊密な間柄だ。ベトナムと中国は海も陸も国境が画定した。インドも画定協議推進で合意した。日本が唱える中国包囲網にくみするところなどほとんどない。辛うじてフィリピンくらいだ。
 「従軍慰安婦」の問題も含め、米国も安倍政権の姿勢に冷ややかであり、国際的に孤立しつつあるのはむしろ日本の方なのである。
 ナショナリズムをあおるのは政治的人気をたやすく得る手段だが、好戦的な排外主義者に流されてはならない。まして沖縄の海が火の海になることがあってはならない。戦争は外交の敗北、政治の失敗である。包囲網などではなく、友好的姿勢で粘り強く信頼関係を築くことこそが真の外交だ。

▽「戦争放棄」は完全に空証文へ

 琉球新報社説の中で注目に値する主張を紹介し、安原のコメントをつける。
(1)政府は武器輸出三原則撤廃の方針を固めただけでなく、専守防衛の原則を捨てて敵地攻撃能力保有も唱え始めた。自衛隊の国防軍化を公言するだけでなく、集団的自衛権行
使容認を唱えるに至っては、「平和主義」の仮面をかなぐり捨てるに等しい。
 自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、他国が攻撃されたからといってその国と一緒に戦争を始める。集団的自衛権の行使とはそういうことだ。
 これを認めれば、日本国憲法の三原則の一つ「戦争放棄」は完全に空証文となる。自国と関係のない他国の戦争に参加して、戦争放棄などと言えるわけがない。

<安原のコメント> 専守防衛原則の放棄
 安倍政権の登場によって武器輸出の解禁、専守防衛原則の放棄、敵地攻撃能力の保有、自衛隊の国防軍化、さらに集団的自衛権の行使へ、とめまぐるしい展開をみせようとしている。これを認めれば、日本国憲法の三原則の一つ「戦争放棄」は完全に空証文となる。
 自国と関係のない他国の戦争に参加して、戦争放棄などと言えるわけがない、という琉球新報紙の指摘は的確である。平和国家・日本を支えてきた平和憲法の理念は安倍政権の登場によって地響きと共に崩れようとしている。こういう危険な選択を許せるのか。

(2)最近の日本の危うさは歴然としている。北朝鮮敵視は言うまでもなく、中国・韓国敵視論が声高に叫ばれる。まるで戦争をしたがっているかのようだ。
 中国敵視論の論者は、対中国包囲網構築を唱え、政府もそれが着々と成果を収めているかのように見せているが、空想に等しい。米国は「領土問題で立場を取らない」と明言しており、尖閣問題で中国と戦争するわけがない。米国が中国に対し、冷戦期の「封じ込め」でなく「抱き込み」を図っているのは国際政治の常識だ。

<安原のコメント> 安倍政権の孤立化も
「最近の日本の危うさは歴然としている。まるで戦争をしたがっているかのようだ」という認識にはハッとさせられる。ここでの「日本の危うさ」とは「本土の危うさ」であるに違いない。これは戦争暴力に対する沖縄と本土との批判力の落差でもあるだろう。
 もう一つ、米国が中国に対し、冷戦期の「封じ込め」でなく「抱き込み」を図っているのは国際政治の常識、という指摘に着目したい。こういう米国の対中姿勢は、安倍政権のけんか腰の外交姿勢とは異なっている。安倍政権の孤立化を近未来に予測するのは読み過ぎだろうか。


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子ども代表の「平和への誓い」に同感
2013年原水爆禁止世界大会で

安原和雄
 毎年のことながら、今夏も原水爆禁止世界大会の季節となって、猛暑にめげず、沢山の人々が日本国内だけでなく世界中から広島へ、さらに長崎へ集まった。多彩な催しの中で同感したいのは広島市平和記念式典での子ども代表の「平和への誓い」である。
 「平和への誓い」といえば、反戦=平和をイメージするのが通常だが、そうではなく新鮮な平和観が打ち出された。「平和とは、みんなが幸せを感じること。平和とは、わたしたち自らがつくりだすもの」という平和論である。若い世代の平和観がどのように根付いていくか、その行方に注目したい。(2013年8月10日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 8月6日の広島市平和記念式典では市内のこども代表が「平和への誓い」を読むのが慣例となっている。今年は竹内駿治君(広島市立吉島東小学校6年)と中森柚子さん(広島市立口田小学校6年)が代表に選ばれた。以下「平和への誓い」を紹介したい。その内容(しんぶん赤旗・8月7日付参照)は次の通り。

 今でも逃げていくときに見た光景をはっきり覚えている。当時3歳だった祖母の言葉に驚き、怖くなりました。「行ってきます」と出かけた家族、「ただいま」と当たり前に帰ってくることを信じていた。でも帰ってこなかった。それを聞いたとき、涙が出て、震えが止まりませんでした。
 68年前の今日、わたしたちのまち広島は、原子爆弾によって破壊されました。身体に傷を負うだけでなく、心まで深く傷つけ、消えることもなく、多くの人々を苦しめています。

 今、わたしたちはその広島に生きています。原爆を生き抜き、命のバトンをつないで。命とともに、つなぎたいものがあります。だから、あの日から目をそむけません。もっと知りたいのです。被爆の事実を、被爆者の思いを。もっと、伝えたいのです。世界の人々に、未来に。
 平和とは、生活できること。平和とは、一人一人が輝いていること。平和とは、みんなが幸せを感じること。

 平和とは、わたしたち自らがつくりだすものです。そのために、友だちや家族など、身近にいる人に感謝の気持ちを伝えます。多くの人と話し合う中で、いろいろな考えがあることを学びます。スポーツや音楽など、自分の得意なことを通して世界の人々と交流します。
 方法は違っていてもいいのです。大切なのは、わたしたち一人一人の行動なのです。さあ、一緒に平和をつくりましょう。大切なバトンをつなぐために。
 2013年8月6日

<安原の感想> 平和とは、自らつくりだすもの

 「平和への誓い」で特に注目したいのは、次の一節である。
 「平和とは、生活できること。平和とは、一人一人が輝いていること。平和とは、みんなが幸せを感じること。平和とは、わたしたち自らがつくりだすものです」と。

 ここには含蓄に富む認識、表現を見出すことができる。われわれ大人の多くは、ややもすれば<平和=反戦>と捉えてはいないだろうか。すなわち戦争のない状態が平和なのであり、戦争さえなければ、世の中は平和であるという受け止め方である。特にあの敗戦と共に終わった大戦の経験者にこういう発想が多いように思う。

 これはこれで決して無意味と言いたいわけではない。安倍政権の登場と共に、現行憲法9条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)の理念の骨抜き、日米安保体制の強化、すなわち戦争をも辞さない姿勢がうかがえる。このような安倍政権の安易な姿勢に対して<平和=反戦>の旗を掲げる意味は決して小さくはない。

 しかしこの平和観はいかにも視野が狭い。日常生活の平和という感覚からほど遠いのだ。子どもたちが提起している平和観はまさに日常生活の平和の実践にほかならない。子どもたちの表現を借りると、「生活できること」、「一人一人が輝いていること」、「幸せを感じること」、言い換えれば借り物ではなく、「自らがつくりだすもの、すなわち平和」なのだ。だからこそ「一緒に平和をつくりましょう」という呼びかけにつながっていく。
 私(安原)はそういう子どもたちを信じて、平和な日本の未来に希望を託したい。


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参院選大勝に傲る政権は久しからず
新聞社説もアベノミクスを批判

安原 和雄
 平家物語に「驕れる人も久しからず」とある。地位や財力を鼻にかけ、おごり高ぶる者は、その身を長く保つことができないというたとえとして知られる。参院選で大勝した安倍自民党にそういう臭いがつきまとっている。大勝に傲る政権は久しからず、と指摘しておきたい。
安倍政権の掲げるアベノミクスなるものの内実は「日本改悪プラン」というほかないが、新聞社説も概して批判的姿勢である。「民意とのねじれ恐れよ」(朝日)、「圧勝におごるな」(毎日)、「数に傲らず」(讀賣)、「傲らず、暮らし優先に」(東京)など安倍政権の傲りを戒める主張が目立つ。(2013年7月23日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 第23回参院選挙は2013年7月21日投開票され、自民が大勝し、民主は惨敗となった。一方、共産、維新の伸びが目立つ。参院新勢力(かっこ内は公示前勢力)を概観すると、自民115(84)、民主59(86)、公明20(19)、みんな18(13)、共産11(6)、維新9(3)、社民3(4)、生活2(8)などとなっている。

 以上のような選挙結果をめぐって新聞社説はどう論じたか。大手紙の7月22日付社説を吟味する。まず社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞=両院制した自公政権 民意とのねじれ恐れよ
*毎日新聞=衆参ねじれ解消 熱なき圧勝におごるな
*讀賣新聞=参院選自公圧勝 数に傲らず着実に政策実現を 日本経済再生への期待に応えよ
*日本経済新聞=経済復活に政治力を集中すべきだ
*東京新聞=参院選、自民が圧勝 傲らず、暮らし最優先に

 以下、各紙の社説(要点)を紹介し、それぞれに<安原の感想>をつける。特にアベノミクスをどう論評しているか、政権交代の可能性にどう言及しているかに着目する。

(1)朝日新聞=野党の再生はあるか
 朝日新聞の最近の世論調査では、改憲手続きを定めた憲法96条の改正には48%が反対で、賛成の31%を上回った。首相が意欲を見せる、停止中の原子力発電所の再稼働にも56%の人が反対している。
 首相が民意をかえりみず、数を頼みに突き進もうとするなら、破綻は目に見えている。衆参のねじれがなくなっても、民意と政権がねじれては元も子もあるまい。誤りなきかじ取りを望みたい。しばらくは続きそうな1強体制に、野党はただ埋没するだけなのか、それとも再生に歩み出すのか。野党だけの問題ではない。日本の民主主義が機能するかどうかが、そこにかかっている。

<安原の感想> 「言論の自由」とは権力擁護も含むのか
 末尾の「1強体制に、野党はただ埋没するだけなのか、それとも再生に歩み出すのか。民主主義が機能するかどうかが、かかっている」という問題提起は重要な視点と受け止めたい。一方、星 浩・特別編集委員は「痛み求める胆力あるか」(7月23日付朝日)という見出しで「消費税率の引き上げや痛みを伴う改革に批判が出ても、国民を粘り強く説得する。そんな<胆力>を備えているかどうか。首相が試されるのは、その点だ」と首相を激励している。朝日新聞では「言論の自由」に権力擁護も含むらしい。

(2)毎日新聞=存在意義問われる民主
多くの有権者は実際に「アベノミクス」の恩恵をこうむっているわけであはるまい。それでも自民党が相対的に安定しているとの思いから1票を投じたのではないか。
 今回、安倍内閣への対決姿勢が鮮明な共産党が健闘した。野党第一党の民主党が有権者から忌避され、政策論争を提起できず、政治から活力を奪っている責任を自覚すべきだ。首相は選挙戦終盤に憲法9条改正への意欲を示したが、改憲の具体的内容や優先順位まで国民に説明しての審判だったとは到底言えまい。改憲手続きを定める96条改正を含め、性急な議論は禁物である。まかり間違ってもかつて政権を独占した「55年体制」時代の復活などと、自民党は勘違いしないことだ。

<安原の感想>「毎日対朝日」の言論戦に注目
 朝日が最近「国家権力擁護」への姿勢に傾きつつあるのに比べると、毎日の社説は今なお「権力批判」の姿勢を捨ててはいない。それは「アベノミクス」批判にとどまらない。「今回、安倍内閣への対決姿勢が鮮明な共産党が健闘」と共産党の活躍を評価している。同時に「改憲手続きを定める96条改正を含め、性急な議論は禁物」と改憲への動きにブレーキを掛けている。これは朝日への対抗意識かも知れないが、日本の行く末を考えれば、この対抗意識は望ましい姿勢であり、遠慮は禁物である。燃えよ、言論戦!

(3)讀賣新聞=「アベノミクス」へお墨付き
最大の争点となった安倍政権の経済政策「アベノミクス」はひとまず国民のお墨付きを得た。だが、まだ所得や雇用にまで顕著な効果は及んでいない。デフレ脱却も不透明だ。国民の経済再生への期待に応えるためにも、首相は、政府・与党の総力を挙げて成果を出していかねばなるまい。
 安倍政権は当面、成長戦略の具体化をはじめ、消費税率引き上げの判断、集団的自衛権を巡る政府の憲法解釈の見直しに取り組む。環太平洋経済連携協定(TPP)交渉、国家安全保障会議(日本版NSC)設置も進める意向だ。いずれも日本の将来を左右する重要課題だ。優先順位をつけ、戦略的に実現してほしい。

<安原の感想> 淡い期待がはじけるとき
 「アベノミクス」はひとまず国民のお墨付きを得た。だが、まだ所得や雇用にまで顕著な効果は及んでいない。デフレ脱却も不透明だ ― という指摘、特に後半部分は適切である。アベノミクスという言葉だけが先走りしているのだ。安倍首相は選挙中「日本を取り戻す」と連呼した。具体的な内容は一切触れず、不明なままである。しかし何となく有り難い世の中に変化していく、という淡い期待が安倍自民政権を勝利させた。淡い期待がはじけて真実を見抜くのはいつのことか。一日でも早いほうが日本にとって望ましい。

(4)日本経済新聞=カギ握る成長戦略実行
農業や医療などの岩盤規制を打ち破り、環太平洋経済連携協定(TPP)反対派を説得して、効果的な成長戦略を実行していくのは今しかない。第4の矢ともいわれる財政規律のためには社会保障を中心とする歳出カットも進めていかねばならない。
 将来期待で票を投じた有権者は、かりに所得が増えないとなれば、失望という名の電車に乗りかえて、あっという間に安倍内閣から去っていくだろう。そうならないようにするためにも、アベノミクスの成功に、すべての政治資源を集中させるべきだ。今回の選挙が、政治と経済の失われた20年と決別し、新生日本づくりの転機となることを望みたい。

<安原の感想> やがて安倍首相の逃げまどう姿も
 「将来期待で票を投じた有権者は、かりに所得が増えないとなれば、失望という名の電車に乗りかえて、あっという間に安倍内閣から去っていくだろう」という日経社説の指摘は正しい。期待が大きければ、その反動もまた激しい。アベノミクスを冷静に考えてみれば、遠からず失望は避けがたいだろう。日経社説は「第4の矢」として「社会保障中心の歳出カット」をすすめている。これでは老人パワーに限らず、青年男女パワーも忍耐心を投げ捨てるほかないだろう。安倍首相の逃げまどう姿が目に浮かぶ。

(5)東京新聞=政権交代可能な時代だ。
 政権交代可能な時代だ。世論の動向次第で自民党政権の命脈がいつ尽きるとも限らない。自民党に代わる選択肢を常に用意することが、政治への安心感につながる。
 選挙は代議制民主主義下で最大の権利行使だが、有権者はすべてを白紙委任したわけではない。この先、憲法、雇用、社会保障、暮らしがどうなるのか。選挙が終わっても、国民がみんなで見ているぞという「環視」、いざとなったら声を出すという積極的な政治参加が、民主主義を強くする。今回の参院選がインターネット選挙運動の解禁とあわせ、「お任せ」から「参加型」民主主義への転機となるのなら、意義もある。

<安原の感想> 「お任せ」から「参加型」民主主義へ
 東京新聞社説にはユニークな視点、表現が少なくない。<政権交代可能な時代だ>、<自民党に代わる選択肢を常に用意すること>、<選挙が終わっても国民がみんなで見ているぞという「環視」>、<「お任せ」から「参加型」民主主義へ>など。多くのメディアは東京新聞と違って、これらの視点、表現を多用しない。特に「環視」、「参加型」民主主義は、傲慢な安倍政権の迷走を許さないためにも不可欠であり、大いに活用したい。「お任せ」民主主義の時代はすでに過去の物語であることを改めて自覚したい。


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参院選挙で問われる日本の進路
アベノミクスは「日本改悪プラン」

安原 和雄
 今回の参院選挙はこれまでになく重要な選挙になるのではないか。それは今後の日本の進路をどこに求めるのか、その行方がかかっているからである。安倍首相が唱えるアベノミクスは、日本改革に名を借りた「日本改悪プラン」である。
具体的には消費税引き上げ、社会保障費の冷遇、所得格差の拡大、地域社会の劣化、さらには環太平洋パートナーシップ協定(TPP)による外国産品輸入増と国内農業の崩壊懸念などにとどまらない。平和憲法の改悪、日米軍事同盟の強化、戦争を視野に含む軍事化路線の推進など、これまでとは異質のプランに傾斜しつつある。総体として「アベノミクスは人々の生活を破壊する」と指摘するほかない。(2013年7月6日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 第23回参院選挙は2013年7月4日公示され、21日投開票の運びとなる。参院選挙をめぐって新聞社説はどう論じたか。大手紙の7月4日付社説を吟味する。ただし讀賣新聞社説は5日付。まず社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞=参院選きょう公示 争点は経済にとどまらぬ
*毎日新聞=参院選きょう公示 投票こそが政治参加だ
*讀賣新聞=参院選公示 政治の「復権」へ論争を深めよ
*日本経済新聞=13参院選 政策を問う 与野党が政策を競う参院選を望む
*東京新聞=参院選きょう公示 おまかせ民主主義 脱して

 各紙の要点を紹介し、それぞれに<安原の感想>をつける。

(1)朝日新聞=無関心ではすまされない
 今回の参院選も世論調査を見る限り、有権者の関心は盛り上がりに欠ける。05年の「郵政解散」以来、過去5回の国政選挙は、いずれも政治の風景を一変させた。一方で、そのたびに与野党が政争を演じ、有権者はうんざりしているのかもしれない。
 だが、ここは正念場である。
 これから数年、日本政治には次々と難題が押し寄せる。TPP交渉が本格化し、来年には消費税率引き上げが予定されている。社会保障改革や財政再建も待ったなしだ。
 安倍首相が持論とする憲法改正も、いずれ大きな焦点に浮上する可能性がある。
 私たちのくらしと未来に深くかかわる参院選だ。無関心ではすまされない。

<安原の感想> 緊張感が不足していないか
どうも最近の朝日社説には読後感として物足りなさが残る。なぜなのか。明確な主張が不足しているためではないか。他人事のような書き方が目立つのだ。例えば「憲法改正も、いずれ大きな焦点に浮上する可能性」と書いているが、そういうのんびりした雰囲気ではない。すでに最大の焦点となっているのだ。ジャーナリストとしての緊張感が不足しているとはいえないか。世界に誇る「平和憲法」を守り、生かしていくことが我(われ)ら日本人の歴史的責務だと考える。

(2)毎日新聞=有権者の責任にも
 有権者の責任にもふれたい。
 たとえ選択に迷っても政党、候補の主張を見極め、必ず1票を投じてほしい。いくらネットなどを通じて豊富な情報が得られても投票所に足を運ばないようでは政治に参加する最も大きな責任の放棄である。
 震災復興、緊張する中韓両国との関係、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)など有権者がそれぞれ自分が最優先とする個別の政策課題を決め、考え方の近い政党や候補に投票する選択もあっていい。国の針路を決定づけ、民主主義の基盤にもかかわる参院選という認識を公示にあたり幅広く共有したい。

<安原の感想> 進む「日本の劣化現象」
「投票所に足を運ばないようでは政治に参加する最も大きな責任の放棄」という指摘は正しい。日本国憲法第12条に「自由・権利の保持義務、乱用の禁止、利用の責任」とある。言い換えれば選挙権の行使は「大人としての責任」でもある。最近の選挙風景で気がかりなのは投票所に足を運ばない大人が増えていることだ。選挙権を持ちながら、その権利も責任も果たさないのは大人とはいえない。判断力、行動力の拙い幼児同然の存在であろう。このような「日本の劣化現象」進行を食い止める策は果たして見出せるのか。

(3)讀賣新聞= 憲法改正の積極論議を
 憲法も重要な論点である。96条が定める改正の発議要件について自民、維新の会、みんなは緩和を主張する。公明は「改正内容とともに議論する」とし、民主も「先行改正」に反対だが、ともに緩和への余地も残している。
 参院選の結果次第で憲法改正が現実味を帯びる展開もあろう。
 自衛隊の位置づけや二院制、地方分権など、新しい「国のかたち」のあり方をめぐり、各党・候補には積極的な論争が求められる。
 民主主義の根幹である選挙は、政党・候補者と有権者の共同作業だ。ムードに惑わされず、各党・候補者の主張をじっくり吟味し、貴重な1票を行使することが、有権者の重要な責任である。

<安原の感想> 権力と共に歩む新聞の読み方
末尾の「ムードに惑わされず、各党・候補者の主張をじっくり吟味し、貴重な1票を行使することが、有権者の重要な責任である」という主張は、一読したところ、文句のつけようがない。公正中立の視点に立つ主張とも読める。しかし讀賣社説の真意はそうではない。中段の「参院選の結果次第で憲法改正が現実味を帯びる展開もあろう」、さらに小見出しの「憲法改正の積極論議を」が讀賣としての本音とはいえないか。新聞社説を読むときには、権力と共に歩む新聞かどうか、その視点を見逃さないようにしたい。

(4)日本経済新聞=実感を伴う経済成長に
 論戦の焦点はアベノミクスだ。第1の矢の金融緩和、第2の矢の財政出動によって景況感がよくなった。安倍晋三首相が誇るように「日本を覆っていた暗く重い空気が一変した」のは間違いない。
 次の課題はこうした変化を一時的な現象に終わらせず、国民ひとりひとりが実感する経済成長に育てられるかだ。首相が「実感をその手に」とのスローガンを掲げたのは、それがよくわかっているからだろう。首相が今春、経済界に賃上げを要請したのもそうした問題意識による。
 アベノミクスが成長力の向上につながり、恩恵が広く行き渡るようにできるのか。決め手は第3の矢の成長戦略だ。自民党内には小泉内閣が進めた構造改革が所得格差を拡大し、支持基盤である地域社会を壊したとの見方があるが、改革を止めては逆効果だ。

<安原の感想> 第3の矢・成長戦略の行方 
「アベノミクスが成長力の向上につながり、恩恵が広く行き渡るようにできるのか。決め手は第3の矢、成長戦略だ」― 日経社説として、一番言いたいところはここだろう。経済成長主義にこだわる日経らしい主張といえる。しかし成長主義は決して万能ではない。日経社説自身、「自民党内には小泉内閣が進めた構造改革が所得格差を拡大し、支持基盤である地域社会を壊したとの見方がある」と指摘しているではないか。成長戦略に期待していると、やがて大きな失望感を味わうことにもなるだろう。

(5)東京新聞=お任せ民主主義 脱して
 憲法や原発は、国民の運命を決する重要課題だ。候補者は所属する政党の大勢におもねらず、自らの考えを堂々と述べてほしい。
 今回はいつにも増して重要な参院選だ。衆院解散がなければ三年間は国政選挙がなく、この機を逃せば当面、有権者が選挙で意思表示する機会はない。自民党が勝てば、首相はフリーハンドを得る。
 棄権したり、何となく投票したりの「お任せ」民主主義を続けては、政治はよくはならない。暮らしを豊かにするのはどの政党、候補者か。公約や人物を吟味して投じる一票一票の積み重ねこそが、大きな力となるはずだ。

<安原の感想> 「お任せ民主主義」卒業の条件は
「棄権したり、何となく投票したりのお任せ民主主義では、政治はよくならない」は平凡ながら真実をついている。ではお任せ民主主義を卒業するためには何が求められるのか。2012夏発足した新政党「緑の党」(地方議員は多いが、国会議員はまだいない)の次のような変革意欲あふれる政策目標は見逃せない。いのち尊重、脱「経済成長」、脱「原発・放射能」、脱「軍事同盟・日米安保」、参加する民主主義(=脱官僚、市民自ら政策決定)の実践など。「アベノミクスは人々の生活を破壊する」と批判的姿勢で一貫している。


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主要8カ国首脳会議が残した課題
1%と99%の不公平、格差の行方

安原 和雄
 主要8カ国首脳会議が残した課題は何か。「世界の難題をショーケースに並べてみせた。でも、その処方箋は示せなかった」(朝日新聞社説)、「G8は世界でますます指導力を低下させるだろう」(毎日新聞社説)などの指摘は適切である。主要8カ国が世界を牛耳る時代はもはや過去の物語にすぎない。
 とはいえ取り組むべきテーマは山積している。特に見逃せないのは「1%と99%の不公平、格差」という新自由主義路線の悪しき現状をどう打開していくかである。そのためには軍事化、憲法改悪路線の推進をめざす安倍政権が掲げるアベノミクス=新自由主義路線に反旗を掲げる必要がある。(2013年6月21日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 英国・北アイルランドで開かれた主要8カ国首脳会議(=G8サミット、2013年6月18、19両日開催)には日本をはじめフランス、アメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、カナダ、ロシアの各国首脳が参加した。

 まず大手5紙のG8に関する社説の見出しを紹介する。次の通りである。
毎日新聞(6月19日付)=G8と世界経済 先進国が混乱招いては
朝日新聞(6月20日付)=G8と世界 課題を並べるだけでは
讀賣新聞(同上)=G8首脳宣言 日本経済が久々に示す存在感
日本経済新聞(同上)=G8が英国で首脳会議(サミット)を開いた。世界経済の安定に           向けた「確固たる行動」の必要性を確認したのはいい
東京新聞社説(同上)=海外へ逃げる税 問題は企業だけでない

 5紙社説を繰り返し読んでみたが、論評に値する社説をあえて一つに絞るとすれば、東京新聞社説に軍配を挙げたい。そこで以下、東京新聞社説に限って紹介し、安原のコメントをつける。

<東京新聞社説>(大意)
 主要八カ国(G8)首脳会議が多国籍企業による課税逃れを防ぐルール作りで合意したことは歓迎したい。背景の租税回避地や法人税引き下げ競争、富裕層の納税回避にもメスを入れる必要がある。
 G8で議論された「税逃れ」は、身近に存在する話である。高額所得者や大企業はうまく納税義務を免れ、ツケは中・低所得者が負っている実態。経済界の「税金が高いから海外に脱出する」との要求で法人税を優遇する国家戦略特区をつくる、といったことと同じだ。

 問題の本質は、税逃れの術(すべ)を持つ金持ちはますます富み、術のない弱者はますます重税に苦しむという不公平な社会である。
 G8での議論のきっかけは、スターバックスやアップル、グーグルといった多国籍企業が法人税の低い租税回避地(タックスヘイブン)に設立した子会社を利用し、税負担を低く抑えていたことだ。
 低成長で税収が伸び悩む中、各国の政府や議会、さらに世論が、こうした実態に不満を抱き始めたのだ。ロシアの富裕層が資産を移したキプロスの経済危機も、租税回避地に焦点を当てさせた。

 G8は、企業や個人の資金の流れを把握するため、金融機関が保有する口座情報を他国が自動的に共有する枠組みや、多国籍企業が世界のどこで利益を挙げ、どこで税を支払っているかを税務当局に報告させることを決めた。
 一歩前進ではあるが、問題はそう簡単でない。税も規制も緩い租税回避地がどこかに存在するかぎり、カネはそこを目指すからだ。テロ資金や不透明なカネの温床であるため、米国は対策に力を入れている。だが、金融立国の英国はケイマン諸島など世界有数の租税回避地を多く抱え、それが金融業の生命線ゆえ国際協調には面従腹背を通すと見られている。

 各国の法人税引き下げ競争も、税負担の圧縮を狙う企業や富裕層の課税逃れに手を貸している。企業には社会的使命があるはずだ。株主の利益ばかりを優先し、納税をコストのように考えて減らすのは、社会や消費者への背信行為である。
 言うまでもなく所得税は所得に対して応分の負担が原則である。1%の富裕層は税を逃れ、99%の国民がその割を食う。それでいいはずはない。

<安原のコメント> 1%の富裕層と悪質な新自由主義路線
 G8論議での中心テーマとなったのが企業、富裕層の「税逃れ」対策である。「税逃れ」は多様な形で広がっている。上述の東京新聞社説末尾の「所得税は所得に対して応分の負担が原則である。1%の富裕層は税を逃れ、99%の国民がその割を食う。それでいいはずはない」は正論である。しかし現実はこの正論に反している。
 東京新聞社説が説くように「問題の本質は、税逃れの術(すべ)を持つ金持ちはますます富み、術のない弱者はますます重税に苦しむという不公平な社会である」― ここに税負担のいびつな現実がある。

 これは新自由主義路線の推進でもある。規制改革を大義名分としながら、その実、貧困、不公平、格差を拡大再生産していく、あの悪名高い路線の旗を振ったのが小泉純一郎政権(2001年4月~2006年9月)であった。
 この新自由主義路線は小泉政権退場とともに消え去ったわけではない。いまの安倍晋三政権下でアベノミクス(3本の矢=公共事業重視の機動的財政出動、物価上昇をもたらす金融緩和政策、成長戦略)という新しい装い、化粧を施して、笑みを浮かべながらよみがってきている。
 同じ新自由主義路線でありながら質的に変化していることに注目したい。アベノミクスは小泉時代の新自由主義路線よりもさらに悪質化していることである。その実体は軍事化・憲法改悪路線の推進である。表面の微笑に幻惑されないように心を整(ととの)え、対応したい。


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病む現代文明を超えて持続可能な文明へ
今こそ江戸期のモデル=自己抑制を

安原和雄
21世紀の現代をどういう視点で捉え、変革していくか、このテーマは多様な論議を呼ぶに違いない。<病む現代文明を超えて、持続可能な文明へ>という視点は常識のように見えながら実は、新鮮そのものである。持続可能な文明への転換は果たしてどこまで可能なのか。
 転換のカギを握っているのが<日本の江戸期のモデル=自己抑制(知足)>の実践である。もう一つ、忘れてはならないのが日本国憲法の平和・反戦理念である。世界の大国の現状を大局的に観察すれば、アメリカの没落、日本の行き詰まり、中国の台頭という新たな勢力地図が浮かび上がってくる。行き詰まりを超えて日本が貢献できるのは、自己抑制さらに平和・反戦の実践であるだろう。(2013年6月8日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 落合栄一郎(注)著『病む現代文明を超えて 持続可能な文明へ』(2013年5月刊、本の泉社・東京都文京区本郷)の要点を以下に紹介し、<安原の感想>を述べる。

(注)落合氏は東京都出身、東京大学助教を経て、1969年より海外へ。2005年、米ペンシルバニア州ジュニアータ大学を退職後、カナダ・バンクーバーに定住。「バンクーバー9条の会」などで平和運動に関与。著作に『原爆と原発』(鹿砦社、2012年刊)ほか多数。

▽ アメリカ的文明はもはや持続できない

 今の大勢であるアメリカ的文明は持続させるに値しないし、持続もできない。なぜ持続できないのか。資源の有限性、財政破綻、市民の疲弊 ― の三つの視点から考える。

(1)資源の有限性:限りない拡大信仰の果てに
 消費社会とそれを推進する市場主義経済は、資源が無限にあるかのごとく仮定し、振る舞っている。というより、資源が有限であることを無視するか、無知なのかも知れない。資源の無限性を仮定することは企業が儲けるための成長経済の必須条件である。
 人類の大多数が消費の限りない拡大を信仰し、成長経済を続けていると、地球上の資源は遠くない将来に枯渇することは必定である。成長経済ではなく、定常経済に向かうべきだろう。定常経済規模は、多くの先進国では現状よりもかなり小さく、発展途上国では現在より成長して然るべきところが多いだろう。

(2)財政破綻:戦争への無駄金
 アメリカの軍事費は現在、他の国の軍事費総計よりも大きい。このことは国民の富が戦争という破壊行為(人、人工物、環境)に無駄に使われていることを意味する。2001年に始まったアフガン戦争とイラク戦争だけで、総額約1.05兆ドル(日本円にして約90兆円)と推定されている。
 この無駄金の一部は、軍事産業などの懐に入り込み、彼らを肥え太らせるが、これは浪費されたカネのほんのわずかでしかない。このような浪費は、遠からずアメリカの財政を破綻に導く。なぜ無駄を続けるのか。それによって儲ける輩(企業)がおり、それが政治を左右しているからであるに違いない。

(3)市民の疲弊:雇用機会は激減し、低賃金雇用へ
 アメリカ市民の大部分の収入は減り続けている。主な原因は高収入の製造業が、安い人件費と規制の少なさを求めて海外に移設されたからである。その代わりに、利潤が目に見える形で得られる「金融業」が幅を利かせるようになった。この結果、一般市民の高収入の雇用機会は激減し、低賃金雇用が多くなってしまった。夫婦二人で稼いでも、生活を維持できない家庭が増えている。
 こうした経済的、精神的に疲弊した市民の、消費能力が落ちることは目に見えている。資本主義市場経済は、国民の消費に依存していて、アメリカでは市民消費が国内総生産の70%も占めていた。ところが多くの市民が消費できない状態になりつつあるということは、この退廃した資本主義(新自由主義)の根本的な自己矛盾である。

<安原の感想> ニクソンの有名な演説「文明の滅亡」
 落合氏の著作が力説しているのは「アメリカ的文明は持続させるに値しないし、持続もできない」という認識である。これは今から40年ほど昔の1971年、当時のニクソン米大統領が初の訪中直前に試みた次の歴史的演説を想起させる。
 「われわれは世界の最強国であろう。だが基本的な問題は果たしてアメリカは健全な国であろうか。健全な政府、経済、環境、医療制度をもつだけでなく、道義的力でも健全な国であろうか」と。これは「アメリカ文明の滅亡」への洞察というほかない。そして今、限りない拡大信仰、戦争による財政破綻、市民の疲弊とともにアメリカそのものが行き詰まっている。「世界のリーダー・アメリカ」はもはや過去の物語でしかない。

▽ なぜ江戸社会は持続できたのか

 江戸時代の日本はかなりの人口と文化を、2世紀半にわたって持続した稀な例である。なぜそれが可能であったのか。その条件、理由は以下のようである。
(1)地理的条件:日本は中緯度、モンスーン地帯に位置し、海洋に囲まれ、比較的温暖で、生態系は豊かで強靱であること。
(2)平和(徳川統治下の):人的、物質的、エネルギー資源の浪費を必要としなかったこと。
(3)菜食主義:植物性食品はエネルギー効率が高い栄養源であること。その一方、肉食のためには大量の家畜(ヤギや羊)の飼育(地中海地方などで)が必要だが、それに伴って牧草地を食い荒らされ、荒廃する例が多い。日本ではそういう荒廃・環境破壊がなかった。
(4)高い識字率と教育程度:環境や社会への関心と理解があったこと。
(5)政治形態:江戸時代は封建制・世襲制だったが、長期政権であり、現在の民主主義的政治体制下の短期政権と比較して長期的視野を持ちやすいこと。
(6)文化的要素:「自己制御」精神(知足も含む)― 人々や自然環境との調和を尊重し、生態学的知恵を経験から学び、実施したこと。

 以上の理由のうち特に見逃せないのは、江戸期の日本は、エコロジーと自己抑制の精神が根強かったことである。このことが江戸時代を持続させた基本的な背景といえる。

<安原の感想> 「江戸時代に今学ぶこと」とは
 江戸時代に学ぶという視点は今こそ重要とはいえないか。上述の6条件は21世紀の今、どう変化しているかを考えてみたい。
・地理的条件のうち「生態系は豊かで強靱」は過度の消費文明を背景にかなり痛んでいる。
・平和はどうか。多様な資源の浪費が進んでいる。病人が増えるなど人的資源の「酷使による損傷」が目立つ。特に安倍政権下での戦争をも辞さない日米安保体制は、「平和を創る」のではなく、「平和を脅かす」元凶である。
・菜食主義よりも肉食への嗜好が高い。
・環境や社会への無関心が広がり始めている。
・短期政権の連続で政治家の質的劣化が目立つ。
・経済不況、失業、低賃金を背景に、自覚的な「自己制御」(=知足)というよりは「我慢=忍耐」を余儀なくされている。

 以上のように江戸時代と21世紀の現代日本とを比べると、「昔は良かった」という類の懐古趣味にとらわれやすい。取り組むべき課題はやはり「自己制御」を一つの軸として21世紀の現代をどう生きるか、どう変革を進めるか、さらに「持続可能な文明」をどのようにして築いていくかである。

▽ 「持続可能な文明への道のり」をどう築くか

 長期的視野で「持続可能な文明」を築くためには、「世界観・価値観の変革」から「経済通念と経済産業構造の変革」にまで長期的、構造的、多面的な取り組みが求められるが、ここでは「目前の問題とその対応」について考える。以下、「平和憲法改悪を阻止」などのテーマについて落合説を紹介する。

(1)平和憲法改悪を阻止
持続可能な社会の第一の要件は「平和」である。武力による人間、環境、モノの破壊は人類文明の存続を不可能にする。人類が戦争依存体質から抜け出すには、時間がかかるだろうが、その間、日本の平和憲法は、戦争を仕掛けようとする人たちへの歯止めになる。日本のあるセクションの好戦的態度も、憲法9条のおかげで、今のところ、暴発せずに済んでいる。憲法改悪の試みは、国民多数の総意で阻止しなければならない。
 世界帝国をめざし、世界中から非難されているアメリカの片棒を担ぐことに執心する日本の政治家、企業家たちに目を覚ましてもらわねばならない。片棒を担ぐ根拠となる日米安保を破棄しなければならない。平和憲法を維持する決意を世界に示すためには、日米安保の廃棄がぜひ必要である。世界に先駆けて大国日本が軍備を縮小する意思を表明することは世界中から喝采を受けるだろう。

(2)脱原発
脱原発の重要性というより、脱原発はぜひ実現しなければならないことは多言を要しない。

(3)メディアの変革を
 現在の商業的メディアは、広告収入など市場経済への依存度が高いため、広告主の企業から体制(政治、経済、軍事、司法など)に関する報道へ横やりを入れられる。アメリカでは暴力賞賛的な番組が幅を効かせていて、アメリカ人の好戦意識を支えている。日本の現状は、一億総白痴化につながると指摘されて久しいにもかかわらず、ますます退化しているようである。
 教育の低劣化と相まって、日本国民、とくに政治家たちの低劣性という評判はますます増大するだろう。ただ現在のテレビ番組にも質の高いものが皆無ではないから、報道の仕方によっては、市民の資質向上に寄与することは充分に可能だろう。  

(4)経済危機への対処は公平に
特にアメリカで2008年後半から急激に悪化した経済に、さしあたりどう対処すべきか。この危機の影響で生活を脅かされている人々に、救済の手を差し伸べる。その財源は、不当に儲けて、税制の逃げ道を巧みに使って脱税していた人々から正当に税を徴収することから始める。さらに経営者と労働組合との話し合いで、雇用を減らさずに給与をより公平に多くの人に分配する。

(5)資源獲得競争に問われる人類の英知
 資源(水、石油、金属原料など)が人類の大量消費によって激減している。このため多くの国、とくに中国は資源獲得にあらゆる手を打っている。中国が現在の日米欧レベルの消費を獲得するには、資源はいくらあっても足りない。先進国レベルの物質消費は不当であることを中国に認識してもらわねばならない。
 ただしそのためには先進国は率先して消費レベルを下げることを石油から始める必要がある。生ぬるい消費制限程度ではとても間に合わない。資源獲得競争に基づく国際紛争は、今後増えることはあっても減ることはない。これにどう対処するか、人類の英知が問われる。

<安原の感想> 平和憲法改悪の阻止が最重要テーマ
 上述のテーマはいずれも重要だが、あえて一つを選ぶとすれば、平和憲法改悪の阻止を挙げたい。平和憲法改悪阻止がなぜ最重要テーマなのか。日本国憲法前文の次の「決意」と「誓い」は何度も読み返し、玩味し、実践するに値する。

*決意=「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と。
*誓い=「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」と。

 安倍政権は、この「決意」と「誓い」を手軽に投げ捨てて、日本を「戦争国家」へと変質させようと目論んでいる。それは後世に悔いを残す歴史的罪悪といえるだろう。


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経済界が唱える「安保の再構築」
アジア太平洋で日米同盟の強化へ

安原和雄
 安倍政権の右傾化に歩調を合わせるかのように、経済界も急速に右旋回の動きを見せ始めている。財界の一翼を担う経済同友会が公表した提言「安全保障の再構築」はその具体例である。提言は「アジア太平洋での日米同盟の強化」を軸に「集団的自衛権行使」の解釈変更、さらに「武器輸出三原則」の緩和拡大など、財界得意の算盤勘定にも遠慮しない。
さらに見逃せないのは「人間中心の安全保障」を唱えながら、実態は「軍事中心の安全保障」へと傾斜していることである。「日米同盟の強化」つまり「軍事同盟化」にこだわる余り、「人間中心の安全保障」は単なるお題目に堕している印象が強い。(2013年5月27日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

 企業経営トップら経済人の集まりである経済同友会・安全保障委員会(委員長・加瀬 豊=双日取締役会長)は2013年4月、提言<「実行可能」な安全保障の再構築>を公表した。以下、その大要を紹介し、批判的視点から<安原の感想>を述べる。

(1)日本の安全保障の現状と問題点
わが国では憲法や「専守防衛」など独自の安全保障概念による制約もあり、国際情勢や世界における日本の立場の変化を反映し、現実に即した安全保障論議が行われてこなかった。この背景として、日米安全保障体制という強力な「盾」の存在とともに、安全保障政策が党派間の対立軸の一つに位置づけられ、超党派的・国民的合意が成り立たなかったことが挙げられる。
戦後60年余を経て、日本は各国との相互依存関係を世界中に拡大し、その人材や資本、資産、権益もあらゆる地域に広がっている。日本の国益(注)は、日本固有の領土・領海と国民の安全のみではなく、地域、世界の安定と分かちがたく結びついており、この流れはグローバル化の中で、一層進展していくだろう。
(注)国益は、広い意味で以下のものを含む。①狭義の国益(領土、国民の安全・財産、経済基盤、独立国としての尊厳)、②広義の国益(在外における資産、人の安全)③日本の繁栄と安定の基盤をなす地域と国際社会の秩序(民主主義、人権の尊重、法治、自由主義、ルールに則った自由貿易)

(2)日本の繁栄・成長の基盤である安全保障体制の再構築を
国際情勢、地域情勢の不確実性とリスクの多様性という現実を前に、わが国が日本の国益に対する責任、その基盤となる世界・地域の平和と繁栄に対する責任、さらに米国の同盟国としての責任を果たすためには、わが国の安全保障体制の刷新に今すぐ取り組むことが不可欠だ。目指すべき姿は以下のようである。
*国民の安全・財産、主権や国土の安全等の国益の保護、何らかの攻撃に対する自衛は、自ら責任を持って対応することを基本とする。
*日米同盟を日本の安全保障の基軸、アジア太平洋地域における公共財と位置づけ、その維持・深化に取り組む。特に安全保障面では、日本の主体的な防衛努力を前提に、アジア太平洋地域における役割についても柔軟性、戦略性をもって米国との連携を確立する。

(3)「集団的自衛権行使」の解釈変更と「武器輸出三原則」の緩和拡大
*集団的自衛権行使に関わる解釈の変更
自衛権とは、国連憲章上、個別的、集団的の別を問わず国家の「固有の権利」と位置づけられているが、わが国では個別的自衛権と集団的自衛権を峻別し、集団的自衛権の行使は「わが国を防衛するための必要最小限度の範囲」の自衛権行使の範囲を超えるもの、との政府解釈に立脚し、安全保障政策が議論されてきた。
同時に集団的自衛権を過度に危険視し、現実から乖離した議論が続けられてきた。わが国が独自の防衛力のみではなく、日米同盟と友好国との国際協調を通じた平和の実現を志向する以上、この制約を解かない限り、柔軟性と実効性ある安全保障協力はもはや不可能であろう。政治的決断によって政府解釈を変更し、集団的自衛権行使を認めるべきである。

*武器輸出三原則の緩和拡大
本来、武器や関連技術の供与は、安全保障の一環として検討されるべきもので、そうした観点からの三原則の見直しは時宜を得た取り組みであろう。三原則の緩和は、高性能地雷探知機や、荒海での離着陸能力の高い水陸両用機など、人道的活動にも有益な日本のハイテク製品の供与・輸出や、自衛隊が平和維持活動で使用した建設機械の相手国への提供など、日本の国際貢献の幅を広げることにもつながる。法の支配、民主主義、自由主義経済という価値観を共有する国に限り、一定の歯止めを設けつつ、一層の緩和を進めることが望ましい。
また武器輸出三原則の緩和拡大は、先端技術の開発が著しい防衛分野で、日本の防衛力の技術基盤を強化し、それ支える中小を含む企業の存続や技術革新につながることから、日本の防衛力の向上にも寄与する。

(4)経済基盤の安全確保に向けた施策:経営者の視点から
*エネルギー・資源安全保障に関する考え方
エネルギー資源のほぼ全量を輸入に頼る日本にとって、その安定的確保は持続的な経済成長の基盤であり、死活的な重要性を持つ。
万が一の輸入途絶やエネルギー価格暴騰等のリスクに備える上ではエネルギー自給率の向上という観点も重要である。そのため本会が主張してきた「縮原発」(注)の方向性を踏まえつつ安定的エネルギー源として、原子力発電を維持していくことは、安全保障上も重要な意味を持つ。
(注)中長期には、老朽原発を廃炉する「縮・原発」が望ましいが、原発全廃で技術を絶やすのでなく、安全性の高い原発実用化により世界に貢献する。国内では再生可能エネルギー、原発、省エネルギーの技術開発を進めながら発電比率を見直していく。

*食料安全保障に関する考え方
国民の生命を支える食料の安全保障については、自由貿易の推進と国内農業の強化・高度化を両輪と捉え、わが国の戦略的選択肢を拡大する方向で推進する。
日本は、現在でも高品質の農産品を世界に輸出しており、単位面積当たりの収穫量も決して外国にひけを取らない水準にある。自由化と平行して、農業改革を推進し、国際競争力のある産業に変革することが必要である。

*シーレーンの安全確保に向けて
沿岸警備体制の強化と並んで、アジア太平洋地域を中心とする多国間連携も重要である。自由で安全な海上交通路(シーレーン)の確保は、成長を続けるアジア太平洋諸国にとっても極めて重要であり、いわば各国の共通利益といえるだろう。こうした利害や価値観を共有する各国との間で、共同訓練・演習を含む協力を行っていくことを念頭に、海上自衛隊の能力について質・量の充実や、部隊配置や運用の柔軟化を図ることが必要である。

(5)アジア太平洋地域における平和構築に向けた日本の役割:日米同盟の強化
*安定の礎としての日米同盟の強化
わが国の防衛、アジア太平洋地域の安全保障にとって、日本が主体的かつ双務的な役割を果たし、日米同盟を強化していくことが極めて重要である。
日米双方に財政制約がある中で、費用対効果の高い防衛体制を確立し、機動的で柔軟な 防衛力の展開により、同盟の抑止力を高めることが求められている。

(6)節度ある防衛力整備
近隣諸国の防衛費の増大傾向からみて、日本の防衛予算規模についても、検討すること。1991年から2011年にかけて近隣諸国の防衛費の規模は中国の590%を筆頭に、倍増またはそれ以上の伸びをみせている。その間、日本の防衛費は、米国ドル建てで1991年に初めて500億ドルを超えて以来、2011年の545億ドルに至るまでの20年間で7.9%の増加にとどまっている。
これは「防衛費のGDP1%枠」という制約の結果といえるが、国際情勢などの変化を顧みず、過去の政治決定を絶対視するような対応は適切ではない。地域的な防衛力のバランスや抑止力の視点から、必要な予算規模を検討し、節度ある防衛力整備を促進すべきである。

(7)「人間の安全保障」のための日本のコミットメント
安全保障の目的は、国家の安全を保障することに加え、一人ひとりの人間の安全を保障すること、すなわち「人間の安全保障」にある。しかし現実には著しい貧困、内乱や紛争等により、人間の安全保障が達成されていない国や地域も残されている。このような現状に対し、日本は「人間の安全保障」という価値を追求し、貧困削減、グローバルヘルス(国際保健)の推進、生活水準の向上のために、積極的なコミットメントを示していくべきである。
こうして紛争、テロ等のリスク低減、人々の生活水準の向上、経済という各国の共通利益の共有と拡大が進むことも期待される。特に日本の成長の源泉、経済活動の基盤があらゆる地域・国と深く結びついているからこそ、世界の平和と安定に積極的に貢献することが日本の責務である。

<安原の感想> 危険な「軍事中心の安全保障」を批判する
 かつて財界(経団連、経済同友会などの企業経営者集団)は安全保障問題への積極的な関与を避けてきた印象がある。私(安原)は現役の経済記者時代、財界を担当した経験もあるが、彼らは「経済で発言」という発想を超えようとすることにはいささかの躊躇が見受けられた。しかし変われば変わるものである。
 今回の経済同友会提言「安保の再構築」を一読した印象では、「図に乗りすぎている財界」とはいえないだろうか。言い換えれば、平和憲法改悪、右傾化、軍事化の推進を視野に収める安倍政権の登場を好機ととらえて、「この際、本音を」という作戦なのだろう。この種の「悪乗り」(その場の調子や勢いに乗って、度の過ぎたことを言ったり、したりすること)はいただけないし、危険な選択である。
 もっとも<(6)節度ある防衛力整備>にわざわざ言及していることは何を意図しているのか。どの組織にも過激派と穏健派が並存していて必ずしも足並みが揃わないのが常であり、財界も例外ではない。一本調子の防衛力増強論に難色を示すグループへの配慮なのか。

 提言は表面では「人間の安全保障」の視点を強調しているが、本音は「軍事中心の安全保障」に傾斜している。私の安全保障観では「軍事中心の安全保障」のほかに、「人間の安全保障」、「いのちの安全保障」も含めて三つに大別できる。現行の日米安保体制はいうまでもなく軍事中心の安全保障である。提言はその内容からみて、実態は米国流の「軍事中心の安全保障」を補強する安全保障観となっている。
 真面目に人間の安全保障を唱えるからには、「軍事中心の安全保障」観を批判しなければならない。それにとどまらず、「いのちの安全保障」こそ今、強調しなければならない。いのちの安全保障論が立脚する基盤は現行の「日本国憲法」すなわち平和憲法である。その前文は次のように宣言している。

 「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会ににおいて、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と。
ここでうたわれている平和生存権の保障を打ち出している日本国憲法の理念をどう生かしていくか。いうまでもなく平和生存権は「日本の宝」であり、大事に育てていかなければならない。ところが愚かにも葬り去ろうとしているのが安倍政権であり、経済界である。そういう悪しき衝動をどう封じ込めていくかが今後の大きな課題である。


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今の平和憲法を守るのが現実的だ
2013年憲法記念日と大手紙社説

安原和雄
 安倍政権の右傾化は、平和憲法に対するメディアの姿勢にどう影響しているか。メディア、特に新聞の役割は本来、権力批判にあるはずだが、安倍政権の登場とともに大きな変化をみせている。特に大手紙では平和憲法について堅持派、条件付き擁護派、改定派の三つに分けることができる。
 私(安原)の主張、立場は堅持派である。主見出しの「今の平和憲法を守るのが現実的だ」は堅持派の東京新聞社説の中から汲み上げた。言い換えれば、軍事力の強化によって国民の安全・暮らしを守ることはできないと考える。安倍政権の右傾化は国の在り方をも危うくするだろう。(2013年5月4日掲載。インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)

▽憲法記念日と大手紙社説

 2013年5月3日の憲法記念日に大手紙社説はどう論じたか。

 大手5紙の社説見出しはつぎの通り。
*東京新聞=憲法を考える 歴史がつなぐ知恵の鎖
*朝日新聞=憲法を考える 変えていいこと、ならぬこと
*毎日新聞=憲法と改憲手続き 96条の改正に反対する
*讀賣新聞=各党は参院選へ具体策を競え 改正論議の高まりを生かしたい
*日本経済新聞=改憲論議で忘れてはならないもの
なお毎日新聞は5月4日付社説で「憲法と国会 違憲の府を再生しよう」という見出しで、論じているが、これは論評しない。

 昨年と違って今年は改憲派の安倍政権下にあるだけに新聞社説も改憲の流れと無関係ではない。そういう悪しき潮流の中で護憲派の立場を堅持する姿勢を見せているのが、上記の大手紙のなかでは東京新聞である。その主張の大要は後述する。

 さて朝日社説は「憲法には、決して変えてはならないことがある」としてつぎの諸点を挙げている。
・近代の歴史が築いた国民主権や基本的人権の尊重、平和主義などがそうだ。こうした普遍の原理は守り続けねばならない。
・安倍首相が憲法改正を主張している。96条の改正手続きを改め、個々の条項を変えやすくする。日本では両院の総議員の3分の2以上の賛成と国民投票での過半数の承認が必要だ。自民党などの改正論は、この「3分の2」を「過半数」に引き下げる。これでは一般の法改正と同じように発議でき、権力の歯止めの用をなさない。朝日新聞としては96条改正には反対する。

 毎日社説も「96条の改正に反対する」という大見出しでつぎのように指摘している。
・その時の多数派が一時的な勢いで変えてはならない普遍の原理を定めたのが憲法であり、改憲には厳格な要件が必要だ。ゆえに私たちは、96条改正に反対する。
・健全な民主主義は、権力者が「多数の暴政」(フランス人思想家トクビル)に陥りがちな危険を常に意識することで成り立つ。改憲にあたって、国論を分裂させかねない「51対49」ではなく、あえて「3分の2」以上の多数が発議の条件になっている重みを、改めてかみしめたい。

<安原の感想> 平和共存こそ追求するとき
 憲法擁護派の朝日、毎日と違って、讀賣と日経は現行憲法批判の視点から平和憲法に風穴を開けようと考えているらしい。いうまでもなく「言論、思想の自由」は日本国憲法で保障されているのだから軍事力増強論を唱えることも自由ではあるだろう。しかし日本国憲法の前文の次の一節をいま一度玩味したい。

 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と。
 つまり対立・抗争ではなく、平和共存こそ追求すべき「崇高な理想」であると同時に現実的な目標でもあるだろう。それに背を向けるかのように、安倍政権の登場とともに「力への依存症」が強まりつつあるのは危険というほかない。

▽ 平和憲法を守る方が現実的

 東京新聞社説(5月3日付)の大意を以下に紹介する。

 憲法改正を叫ぶ勢力の最大目的は、9条を変えることでしょう。国防軍創設の必要性がどこにあるのでしょうか。平和憲法を守る方が現実的です。
 選挙で第一党になる、これは民主的な手法です。多数決で法律をつくる、これも民主的です。権力が憲法の制約から自由になる法律をつくったら・・・。

*「権力を縛る鎖」という知恵
 日本国憲法の役目は、むろん「権力を縛る鎖」です。立憲主義と呼ばれます。大日本帝国憲法でも、伊藤博文が「君権を制限し、臣民の権利を保障すること」と述べたことは有名です。
 たとえ国民が選んだ国家権力であれ、その力を濫用する恐れがあるので、鎖で縛ってあるのです。
 憲法学者の樋口陽一東大名誉教授は「確かに国民が自分で自分の手をあらかじめ縛っているのです。それが今日の立憲主義の知恵なのです」と語ります。

 「国民主権といえども、服さねばならない何かがある、それが憲法の中核です。例えば13条の『個人の尊重』などは人類普遍の原理です。近代デモクラシーでは、立憲主義を用い、単純多数決では変えられない約束事をいくつも定めているのです」(樋口さん)

 自民党の憲法改正草案は、専門家から「非立憲主義的だ」と批判が上がっています。国民の権利に後ろ向きで、国民の義務が大幅に拡大しているからです。前文では抽象的な表現ながら、国を守ることを国民の義務とし、9条で国防軍の保持を明記しています。

*9条改正の必要はない
 しかし、元防衛官僚の柳沢協二さんは「9条改正も集団的自衛権を認める必要性も、現在の日本には存在しません」と語ります。旧防衛庁の官房長や防衛研究所所長、内閣官房の副長官補として、安全保障を担当した人です。
 「情勢の変化といえば、北朝鮮のミサイルと中国の海洋進出でしょう。いずれも個別的自衛権の問題で、たとえ尖閣諸島で摩擦が起きても、外交努力によって解決すべき事柄です」
 9条を変えないと国が守れないという現実自体がないのです。米国の最大の経済相手国は、中国です。日中間の戦争など望むはずがありません。
 「米国は武力が主な手段ではなくなっている時代だと認識しています。冷戦時代は『脅威と抑止』論でしたが、今は『共存』と『摩擦』がテーマの時代です。必要なのは勇ましい議論ではなく、むしろブレーキです」

 安倍晋三首相の祖父・岸信介氏は「日本国憲法こそ戦後の諸悪の根源」のごとく批判しました。でも、憲法施行から66年も平和だった歴史は、「悪」でしょうか。改憲論は長く国民の意思によって阻まれてきたのです。

<安原の感想> 安倍首相の思考は時代錯誤
 岸信介元首相の「日本国憲法こそ戦後の諸悪の根源」という認識はいかにも彼らしいが、孫の安倍首相を理解するのに「なるほど、この祖父にして、この孫あり」とうなずくほかない。だからこそ安倍首相は戦後の民主主義的なるものをことごとく葬り去ろうとしているのではないか。祖父・岸信介の暗黙の遺言なのかも知れないが、時代錯誤の思考というほかない。
 東京新聞社説のように<憲法施行から66年も平和だった歴史は、「悪」でしょうか>と疑問を提起したくなるのは当然であろう。

 ここで元防衛官僚3人組の「志」に注目したい。その3人とは、防衛省元幹部の箕輪登政務次官(1924年生まれ)、竹岡勝美官房長(1923年生まれ)、小池清彦教育訓練局長(1937年生まれ)で、共著『我、自衛隊を愛す故に、憲法9条を守る ― 防衛省元幹部3人の志』(かもがわ出版、2007年3月刊)が知られる。
 著作中の小見出しを紹介すると、「もう一つの疑義 米国追随」、「アジア・中東覇権のための米軍基地」、「安保条約を友好条約へ」、「平和な日本が続くことを願って」、「イラク派兵は戦争参加そのもの」、「自衛官は海外で戦争するために志願したのではない」、「過去の戦争を繰り返さぬために新憲法ができた」、「反対意見に耳を傾けたら戦争は起きない」、「戦争は惨めだ 軍事国家になってはならない」などが並んでいる。
 平和憲法支持の観点からの反戦思想そのものとはいえないか。安倍首相の時代錯誤の思考とは180度異質である。


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村に米軍事基地があったらどうする?
座談会<15歳と語る沖縄>を読んで

安原和雄
 政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」が4月28日、東京都内で開かれ、安倍首相は「未来へ向かって希望と決意を新たに」と述べた。一方、沖縄では政府式典に抗議する「屈辱の日」大会が開かれた。いうまでもなく沖縄では広大な米軍事基地が今なお沖縄県民の自由と権利を奪い、日常生活に苦難を強いているからである。
 この苦難からの脱出口はどこにあるのか。座談会<15歳と語る沖縄>が問いかけている「基地をなくすにはどうしたらいいのか」に正面から答えることである。それは、日米安保の呪縛から自らを解放すること、いいかえれば日米安保体制に終止符を打つこと以外に妙策はない。(2013年4月29日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 朝日新聞(2013年4月19日付)オピニオン欄掲載の座談会<15歳と語る沖縄ー「しょうがない」っていう大人にはならない>を読んで、米軍基地問題を改めて考える。この座談会はライター・知念ウシさん(那覇市生まれ、本土と沖縄の関係を問う運動をしている)、哲学者・高橋哲哉さん(福島県生まれ、震災後の著書「犠牲のシステムー福島・沖縄」で国策のために一部が犠牲になる現状を批判)と中学生たちとの意見交換である。中学生は奈良県山添村立中学校の3年生たちで、修学旅行で沖縄を訪ねて、沖縄戦や米軍基地問題に大きな関心を抱いている。

(一)座談会でのやりとり

 その内容(要旨)は以下の通り。
*自分の問題として考える
<高橋哲哉>:みなさんの村が沖縄と同じ状況になったら、と想像してほしい。近くに巨大な米軍基地があるとか、米兵がたくさん周りにいるという状況です。みなさん、どう感じますか。遠い沖縄の問題ではなく、自分の問題として考えてみてください。
 みなさんは沖縄に関心がないわけじゃない。多くの日本人も、実は関心がある。でも、関心がある沖縄と、関心がない沖縄がある。これはどういうことなんだろうか。無関心って何だと思いますか。
<中学3年A>:いまの日本は、考えてはいるけれど自分から言い出したり動いたりするのはいや、という人が多いと思う。沖縄の基地問題だって「あかんと思うけど、よくわかんないからええわ」みたいな。
<中学3年B>:好きなことにはすごく関心があるけど、難しいことは理解できない、だから無関心になっていくんじゃないでしょうか。
<中学3年C>:大半の人と違う意見を言ったら、浮いた存在になってしまう。日本人は、みんなと一緒がいい、そういう意識が強いという印象があります。基地は元からあるからしょうがないとか、国が決めたことだからしょうがないとかいうのは、やっぱりある。でも私はそういう大人にならないようにしようって思いました。

*自分自身に気づくこと
<知念ウシ>:そんな大人になりたくないというの、すごくうれしい。気になるのは、みなさんから「難しい」「わからない」という言葉が出ること。全部知って、初めて意見が言えるとか行動できるということではないと思う。「これっておかしい」だけでいい。
 おかしい、ショックだ、悲しい、逃げたくなった。まずそういう自分自身に気づく。そこから考える。伝える。
<中学3年B>:知念さんに質問があります。どうして米軍基地反対運動をするようになったのですか。
<知念ウシ>:どうして? みなさん、もし沖縄に生まれたらどう育ったか、想像してみてください。私は、基地は生まれた時からあって、当たり前に思っていた。反対運動をするようになったのは自分が子どもを持ってからです。
 私たちの先祖も苦労させられたのに、次の世代、後輩たちにまでこんな苦労、難儀が当たり前のように引き継がれるのはおかしいと思った。
<中学3年D>:沖縄は独立するのが一番いいと思いますか。
<知念ウシ>:一番いいとは思っていません。私が目指しているのは、安全に暮らせて、こんな世の中を作りたいと思ったら、沖縄のみんなで議論して決めて実現できる、誰も抑圧しない、抑圧されない社会です。その手段として独立ははあるかもしれない。でも沖縄が独立して幸せになるには日本も変わらないと。

*「日本人としての責任」とは
<中学3年E>:高橋さんに質問です。(ある対談記事の中で)「本土に基地を持って帰ることが日本人としての責任」と語っています。何に対しての責任ですか。
<高橋哲哉>:沖縄に米軍基地があれだけ集中して、しかも何十年と続いているのは、基本的には日本人がやってきた結果です。沖縄で戦争したことも、米国が施政権を持ったことも。日本に主権が戻った後も沖縄の基地負担率は上がった。つまり日本人が選択して、沖縄の人たちに押し付けてきた。だから日本人として、責任をとらなければいけない。そういう意味です。
<中学3年B>:問題は沖縄の米軍基地じゃないですか。移設しても、移した先の人たちはまた同じ問題を抱えるから、根本的な解決にはならない。基地をなくすにはどうしたらいいのか、どうすれば問題を解決できますか。
<知念ウシ>:解決したい、そのためにはどうしたらいいのか知りたい、という気持ちはすごくうれしい。何か特別のことではなく、日常生活の中で、おかしいと思ったことは家族や友人や周りに話す。それをみなさんが今いるところで続けていってほしい。考えながら動き、動きながら考える。そういう大人になってほしい。

(二)<安原の感想> 「諸悪の根源」としての日米安保

「沖縄の米軍基地をなくすにはどうしたらいいのか、どうすれば問題を解決できますか」。中学3年Bのこの質問は適切である。これに対し知念さんはつぎのように答えている。
「沖縄が独立して幸せになるには日本も変わらないと」、「おかしいと思ったことは家族や友人に話す。(中略)考えながら動き、動きながら考える。そういう大人になってほしい」と。
 この回答ではどうもすっきりしない。答えになっていない。具体的にどう変わればいいのかが分からない。不思議なのは、なぜ「諸悪の根源」として日米安保があることに触れようとしないのか、である。日米安保から目を反(そ)らすことは、真実に耳を塞(ふさ)ぐことを意味する。

 ここで日米安保体制(=旧安保条約を改定した現行日米安保条約の正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」、1960年6月23日発効)の概要を紹介したい。

(1)日米安保体制は軍事同盟と経済同盟の2本立て
*日米の軍事同盟
 軍事同盟は安保条約3条「自衛力の維持発展」、5条「共同防衛」、6条「基地の許与」などから規定されている。1996年の日米首脳会談で合意した「日米安保共同宣言―21世紀に向けての同盟」で「地球規模の日米協力」をうたった。「安保の再定義」といわれるもので、解釈改憲と同様に条文は何一つ変更しないで、日米安保の対象区域が従来の「極東」から新たに「世界」に広がった。
 この点を認識しなければ、最近、なぜ日本の自衛隊が世界各地へ自由に出動しているのか、その背景が理解できない。
*日米の経済同盟
 経済同盟は安保条約2条「経済的協力の促進」で規定されている。2条では「自由な諸制度を強化する」「両国の国際経済政策における食い違いを除く」「経済的協力を促進する」などを規定しており、新自由主義(市場原理主義)を実行する裏付けとなっている。
1980年代から日米で始まり、特に21世紀に入り、顕著になった失業、格差、貧困、人権無視をもたらす新自由主義路線から転換し、内需主導型経済の再生に取り組まない限り、日米両国経済の正常化はあり得ない。

(2)「対等の日米新時代」へ向けて
*日米安保の終了は可能
 今注目すべきは、日米安保条約は、国民多数の意思で一方的に終了させることができることである。10条(条約の終了)に「この条約が10年間効力を存続させた後は、いずれの締約国も終了させる意思を相手国に通告でき、その後1年で終了する」と定めているからである。この条項を活用して日米安保を終了させて、新たに日米平和友好条約への転換を促すときである。
 安倍首相にみる異常な対米従属振りから脱するためには、日米安保の呪縛から自らを自由に解放することが必要条件である。これは反米を意味しない。むしろ「対等の日米新時代」構築への大きな歴史的一歩を意味するだろう。


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4月8日の花まつりに想うこと
二一世紀の「天上天下唯我独尊」

安原和雄
お釈迦様の誕生を祝う4月8日の恒例の花まつりが今年も巡ってきた。例年のこととはいえ、考えてみるべきことは、やはり釈迦の宣言として知られる「天上天下唯我独尊」に込められた意味合いであり、肝心なことはそれを実践していくことである。実践を伴わないただの知識で満足するのでは、お釈迦様も喜ばないだろう。
 では21世紀の今、どう実践していくのが望ましいのか。それは「この世に生きるものは皆それぞれの価値があり、尊い」という釈迦の教えに学びながら、自分なりに「世のため人のため」に尽くす利他主義に努めることではないか。損得重視の自利・自己中心にこだわるのでは、しょせん心は晴れない。(2013年4月6日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 お釈迦様は今から約2500年前の4月8日、インドの北方ルンビニの花園で誕生された。この誕生を「花まつり」の名で各地で祝うのが恒例の行事となっている。浅草寺(せんそうじ=所在地・東京都台東区浅草)発行の月刊誌『浅草寺』(2013年4月号)は、貫首・清水谷 孝尚(しみずたに こうしょう)氏の<「仏性(ぶっしょう)への目覚め~「花まつり」にあたって~>と題する一文を掲載している。その大意を以下に紹介する。

 お釈迦様は生まれて間もなく、「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)、つまり「この世に生きるものには皆それぞれの価値があり、尊い」と宣言された。
 このお話は永い間多くの人々によって語りつがれているだけに意味の深いものである。それはお釈迦様のご一代にわたる教えが、この宣言の中にこめられているからである。すなわちわれわれが本来持っている「仏(ほとけ)に成ることができる」という性質、つまり「仏性」(ぶっしょう)を自覚させるためのものといわれているからである。間違っても「自分だけが尊い」などと誤って理解してはならない。
 むしろ仏に成るべき性質を与えられながら、自分は果たして「仏への道」を歩んでいるだろうかと反省することが、このお釈迦様の宣言におこたえすることになるのではないか。自己の内面を見つめて人間としての自覚を深めるのがお釈迦様の教えであるからだ。「花まつり」はこのような重要な意味をもった仏教行事と受け止めていきたい。

 とはいえわれわれは、この本来持っている「仏性」に気付かずに日々を重ねてしまう。『法華経』(「妙法蓮華経」の略。大乗仏教の最も重要な教典のひとつ)の次の喩(たと)え話は、このことを巧みに言いあらわしている。それはある人がいて、親友の家を訪ね、酒に酔って眠ってしまった。親友は公用で外出するため、寝ている友人のために高価な宝石を、彼の衣服の裏に縫いつけてあげてから出掛けた。その彼は目を覚まして旅に出たが、旅費も底を尽き、大変苦労した。しかし少しでも得るものがあれば、それで十分だと考えていた。
 ところが偶然、親友に出合い、生活に困っていることを訴えた。すると親友はあきれて、君が安楽に暮らせるように宝石を与えておいたのに、君はそれを知らずに憂い悩んでいるとは、なんと愚かなことだ。その宝石を生活に必要な物と換えなさい、と言ったというお話しである。

 この酔った人とは私たち迷える者であり、親友とは仏様、そして宝石はわれわれが仏様から与えられている「仏性」なのだ。この話は今いかに愚かでも、いつの日か宝石に気づくことができるという可能性を指しており、仏性の在り方を示すものである。

 道歌(どうか=道徳的な教えをわかりやすく詠み込んだ和歌)につぎの一首がある。
 もとよりも 仏とおなじ 我ながら
 なにとてかくは 迷いぬるらん

 人間は本来、仏になれる性質を持っているはずが、どうしてこのように心の迷いに悩まされているのであろうか、と深い反省に立っての歌である。
お釈迦様が右手で天を指差しているのは、仏への道を歩み、少しでも近付こうと願う心をあらわすものであり、左手で地を指差しているのは、足許の現実をしっかりみつめ、日々善行を一つ一つ確実に行っていくことの大切さを示すものである。いいかえれば「願い」と「行い」による生活をいうものであり、これを実践することこそ「天上天下唯我独尊」の精神ではないだろうか。
 「花まつり」をよき縁として自己の「仏性」に目覚め、それによって「世のため人のため」に尽くすような立派な人間となるべく、日々自己内省につとめたい。

<安原の感想>利他主義の「幸せの大道」選択を
 年に一度の「花まつり」(4月8日)がめぐってきた。子どものころ、田舎のお寺さんで甘茶をいただいた記憶が鮮明に残っている。その意味合いまでは理解がなく、子ども心にただ甘茶欲しさにお寺さんへ駆けつけたのではなかったか。
 大事なことは、お釈迦様の宣言として知られる「天上天下唯我独尊」の含蓄を21世紀の今、どう理解し、実践していくかであるだろう。意見の分かれるところは後段の「唯我独尊」で、二つの解釈がある。

 一つは「ひとりよがりのうぬぼれ、自分勝手」あるいは「世間において私が最も勝れたものである」という意。しかしこれは少数説で、ここでは上述の貫首・清水谷孝尚氏のもう一つの説を採りたい。すなわち少しでも「世のため人のため」に尽くすような生き方である。いいかえれば利他主義の実践である。
 とはいえこの利他主義がなかなかの難物である。「言うは易く、行うは難し」である。人間の欲が災いとなるからである。とかく自分さえ良ければよいという自利主義、自己中心の誘惑に駆られやすい。しかしこれは目先、得(とく)をしたような気分にはなっても後味(あとあじ)が悪い。利他主義の実践こそが「こころ晴(は)れ晴(ば)れ」となる。自利主義の「損得という迷路」に足を取られるよりも、利他主義の「幸せの大道」を選択したい。


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TPP参加に高まる「反対の声」
日米密約説も飛び交うその舞台裏

安原和雄
 安倍晋三首相がTPP交渉参加を表明して以来、参加是非論が活発になってきている。首相は「TPPはアジア太平洋の繁栄を約束する枠組みだ。日本は世界第三位の経済大国。必ずルール作りをリードできる」と高姿勢である。しかしそれほど楽観できるのか。
舞台裏では実施のための日米密約説も飛び交っている。日本国のリーダーである首相が乗り気であれば、ここではむしろ反対論を追跡してみたい。その反対論もなかなか意気盛んで、賛成論よりもむしろ筋が通っている。いずれにしても一国の命運に関わるテーマとはいえないか。(2013年3月23日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)

 以下、多様な分野から反対意見を中心に紹介する。

(1)Eメールで伝えられた反対意見
 私(安原)あてに届いたあるEメールは「ほんまにTPPに参加してもえぇの?」と題して次のように批判している。 

 首相訪米後、日本がTPP(環太平洋経済連携協定)に参加することが既定路線であるかのような報道が相次いでいる。私たちの暮らし、社会、そして世界に、大きな影響を及ぼすTPPを、農産物の関税の問題と矮小化し、その例外をオバマ大統領に認めてもらったとして、陳腐な共同声明を曲解しながら、マス・メディアの大本営発表が続いている。
 TPPってほんまにそれだけのこと?
安倍訪米って、誰にとって成果があったん?
私たちの将来は? 日本の未来は? 世界への影響は?

<安原の短評> 群を抜いている視点
 文章のスタイルから見て関西の人らしいが、それはさておいて、実に広い視点からTPPを捉えようとしているところが気に入った。「マス・メディアの大本営発表」という皮肉もうなずかせるものがある。
 末尾の「私たちの将来は? 日本の未来は? 世界への影響は?」は「私」、「日本」、「世界」にとってのTPPという発想であり、その視点は群を抜いている。問題はそれぞれにどう肉付けしていくかである。

(2)朝日新聞の「読者の声」から
「読者の声」(介護職 荻野直人=仙台市、3月22日付)は「TPPはブロック経済では?」という見出しで伝えている。その趣旨は以下の通り。

 TPPについては「安価な外国産品の輸入によって国内の農業が崩壊してしまうのではないか」、「国民皆保険制度がなくなってしまうのではないか」などの懸念が表明されている。この懸念は根拠があると思う。
 ただそれ以前に問いただすべきことがある。「TPPによって自由貿易が拡大する」という推進派の主張についてである。TPPは果たして自由貿易といえるのか。多国間による貿易協定は、その域内での貿易自由度は増すが、それはあくまでも域内の範囲に限られる。TPPは、参加する国としない国という新たな境界を生むことになり、それはブロック経済圏ではないか。

<安原の短評> 「ブロック経済圏」と日米密約
 ブロック経済圏の形成へ、という指摘は見逃せない。毎日新聞(3月22日付夕刊)によると、自民党の実力者、野中広務さん(官房長官、自民党幹事長を歴任)はTPPへの交渉参加についてこう語っている。
 「農業、水産業、医療などさまざまな分野で、本当に日本の主張が通るのか。実際には、例外のない関税撤廃を受け入れる約束が米国との間ですでにできているのではないか。参院選に影響が出るため明らかにしないのではないか」と。これは米国主導のブロック経済圏形成へ、という日米密約説を示唆している。密約説は十分あり得る話である。

(3)官邸前アクションによる抗議
 2013年3月15日に実施された「STOP TPP!! 官邸前アクション」は以下のような抗議文を採択した。 

 <安倍首相のTPP交渉参加表明に最大の怒りをもって抗議する>
 2013年3月15日午後6時、安倍首相は記者会見にて「TPP交渉参加」を表明した。多くの反対の声を裏切り、説明責任もまったく十分に果たさない中の参加表明だ。
 交渉に遅れて参加する国が圧倒的に不利な条件を飲まなければ交渉に参加できない、ということは明白である。にもかかわらず、安倍首相と自民党政権は、日本にとって侮辱的であり、不平等・不正義である条件を受け入れ、国を売り渡してもいいと判断したのだ。
 以下、私たちはすべての力を振り絞って猛抗議する。

*アメリカや日本の多国籍大企業の利益のために、国民のいのちとくらし、雇用も地域も犠牲にするTPPへの参加は、絶対に許されるものではない。
*安倍首相の参加表明は、幾重にも国民を愚弄している。そもそも公約したことを「公約ではない」と言い逃れ、影響試算を示して国民的な論議に付すと言いながら、参加表明後に影響試算を示すなど、国民を馬鹿にするにもほどがある。
*私たちは、今回の参加表明に当たっては、まだまだ国民に公表されていない日米の「合意」などが存在していると確信している。私たちはこのような非民主的で反国民的な行為を許すわけにはいかない。
*私たちは、TPPの危険性を国民と共有できるようさらに運動を広げるとともに、参加表明に至ったさまざまな非民主的な行為の暴露、さらには参議院選挙での国民的な審判も通して、安倍首相の参加表明を撤回させることをめざす。

<安原の短評> 「平成の井伊直弼」の運命は?
 Eメール上に流布している【緊急号外】は次のように示唆している。「井伊直弼は殺され、吉田茂は生き延びた。安倍晋三はどうなるだろうか」と。さらに「第三の開国」たるTPPは、「神聖不可侵」の「戦後国体」の如き日米安保体制の上に、米国の権力と資本にとってさらに「都合のよい国」「使い勝手のよい国」に日本を改造するための究極の不平等条約である、と。
 「平成の井伊直弼」の運命は如何に?という問いかけと受け止めたい。

(4)米、豪、NZ、日本の労働組合 連携強め交渉に反対
3月15日上記4カ国の労働組合が連携を強め、反対運動に乗り出している。

 TPP交渉に参加する米国やオーストラリア、ニュージーランドと日本の労働組合が、TPP交渉に反対する国際的な連携を強化する。交渉の内容が秘密にされていることや、大企業と投資家の利益を重視していることなどを問題視。4月10日には、日本の交渉参加に反対する米国の労働組合の呼び掛けで各国代表がワシントンで会合を開き、運動方針を協議する予定。交渉を主導する米国の政治家に、TPPの問題点への理解を促すため要請活動も行う。

 連携するのは、以下の労働組合である。
*オバマ米大統領と民主党の最大級の支持団体で1200万人以上が加盟する米国労働総同盟・産業別労働組合会議
*30万人が加盟するニュージーランド労働組合評議会
*オーストラリアのギラード首相の支持団体で200万人が加盟する同国労働組合評議会
*中小企業を中心に120万人が加盟する日本の全国労働組合総連合(全労連)―など。

 情報を収集・共有し発信、政府への働き掛けなども強化する。交渉に参加するカナダやペルー、チリ、メキシコの労働組合にも連携を求める。
 運動方針を協議するほか、5月の交渉会合では共同声明を出す方向で調整中だ。

 TPP交渉に反対するのは、労働者の権利を保護している各国の規制が緩和されたり、強化しにくくなったりすることへの懸念があるためだ。また日本が交渉に参加する可能性が出てきたため、日本の輸出攻勢で雇用が奪われるとの危機感も強い。貿易立国のニュージーランドとオーストラリアでは労働組合も自由貿易を推進しており、TPPに反対するのは異例のこと。極端な規制緩和を推し進めることに異議を申し立てているのだ。

<安原の短評> 極端な規制緩和に異議
 ニュージーランドやオーストラリアの労働組合は本来、自由貿易推進派であり、TPPには反対ではないはずである。ところがその労働組合までが反対派に転じたのは、TPPが究極の規制緩和を目指す装置だからだ。通常なら味方であるはずの勢力まで異議申し立て派に追い込むとは、TPPはよほどの曲者であるに違いない。

(5)日本農業新聞の報道=市民の怒り さらに沸騰 
 日本農業新聞(3月16日付)は「市民の怒り さらに沸騰 議員会館前などで猛抗議」と以下のように報じた。

 草の根の反対運動を続けてきた市民らは、東京・永田町で安倍首相会見のテレビ中継を注視。午後6時過ぎ、参加表明が発表されたとたん、深いため息が漏れた。涙を流してテレビをにらみつける女性や「ふざけるな」と机をたたく人もいた。市民は一様に「売国行為」と強い口調で批判を繰り返した。
 首相会見後、反対運動実行委員会は緊急声明を発表。「最大の怒り。多くの反対の声に対し、十分な説明責任を果たさず、全ての力を振り絞って猛抗議する」などと語気を強めた。農業だけの問題として矮小化した大手メディアの責任にも言及。国民の大半がTPPの本質を知らないことに、強い危機感を示した。

 全国食健連の坂口正明事務局長は「安倍首相は根拠も示さずに聖域を守ると言って、自らの主張を繰り返していた。絶対に諦めず、反対の声を上げ続ける」と決意を表明した。都内で料理教室を主宰する安田美絵さんも「首相の参加表明は国民を愚弄(ぐろう)しているとしか言えない。これまでの反対運動は決して無駄ではなく、今後も絶対に入ってはいけないと多くの人に全力で伝える」と主張した。
 プラカードなどを手に若者も猛抗議した。東京都調布市の中学3年生、山﨑成瑠君(15)は「断固反対と言って当選した政治家は恥ずかしくないのか。大人の世界は汚い。僕たちの未来を奪う行為だ」と声を張り上げた。埼玉県日高市の龍門永さん(23)も「首相はTPPの農業以外の危険性を隠して参加表明した。なぜ、こんなおかしいことがまかり通るんだ」と声を荒げた。

<安原の短評>「大人の世界は汚い」とは?
 最近のデモや反対運動には女性や若者たちの姿が目立つ。その若者の一人、中学3年生は、「大人の世界は汚い。僕たちの未来を奪う行為だ」と怒っている。その心情は理解できる。ただここで指摘したいのは、「僕たちの未来」を創っていくのは、ほかならぬ若い君たち自身だということ。新しい未来を築き上げていく一翼を担うことは、魅力尽きない人生行脚とはいえないか。

(6)東京新聞経済部長の警告
 富田光・経済部長は東京新聞(3月16日付)で「経済の枠超え、影響」と題して、以下のようにTPP実施に警告している。その大要は次の通り。

日本は今、TPPという大きい門の前に立っている。門の奥に星条旗がはためいている。門柱には「経済連携」と書かれている。しかし、この文字はTPPの上っ面を表しているにすぎない。TPPは、主に関税を下げることを目指していた、過去の貿易交渉とは完全に異質だ。
 生産する、売る、買う、食べる、移動する、病気を治療する、遊ぶ、学ぶ、保険に入る・・・。関連する対象分野を挙げればキリがない。交渉妥結後、国会が批准すれば人々の暮らしの各ページに影響が及ぶ。海外からの訴訟で国内ルールが変わる可能性さえある。門の中に入れば、経済の枠組みをはるかに超え、社会が構造ごと大転換しかねない。これがTPPの実像だろう。

 政府は、環太平洋の各国と連携することで、国益が得られるとプラス面を強調する。実際、参加を機に、新たなビジネスを紡ぎ出す企業や、海外進出をとげる農家が出るかもしれない。消費の仕組みや意識が変わることで、社会の質を高める起爆剤となりうる力もTPPは併せ持つ。
 しかし現実の交渉では、「既に現在の参加国間で合意した条文は原則として受け入れ、再交渉は要求できない」「交渉を打ち切る権利は(すでに交渉を開始した)九カ国のみにある」との条件が付けられていた。
 こうした肝心の情報を政府は開示してこなかった。米国が厳しい姿勢で交渉に臨むことが確実な中、これまで何が決められたのか国民に正確に伝えなければ、議論は到底尽くせない。TPPの交渉は、民主主義国家としてのあり方を鍛える、試練の場でもある。

<安原の短評> 民主国家としての試練の場
 末尾の「TPPの交渉は、民主主義国家としてのあり方を鍛える、試練の場でもある」という指摘は見逃せない。なぜTPP交渉を単に通商、貿易交渉としてではなく、民主主義の視野で捉えるのか。それは日米間の密約、国民不在の日米交渉、あるいは対米従属下での外交など、従来の「非民主的な交渉」という惰性を克服する必要があるからだろう。
 この視点は重要である。しかし日米安保体制下で多数の米軍基地が日本列島上に存在する現状では、日本が対米民主主義を貫くことがどこまで可能だろうか。疑問は消えない。


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