明治時代の渋沢栄一翁に学ぶとき
安原和雄
経済界で目下、リーダーシップ論が盛んである。経済団体の一つ、経済同友会の「大きな時代変化の中でリーダーシップを考える」はその具体例である。「大きな時代変化」として、あの企業利益至上主義の新自由主義(=市場経済原理主義)路線の破綻を挙げることができる。ただあえてその論議を採点すれば、破綻したはずの企業利益至上主義を克服できないまま、模索が続いているという印象が消えない。
明治時代の財界巨頭で、「日本資本主義の父」ともうたわれる渋沢栄一翁は社会的に必要な事業かどうかを第一に重視し、利損(利益と損失)は第二と考え、実践した。今、渋沢翁が生存していれば、利損を第一に考え、右往左往する企業トップの多い現状を慨嘆し、戒めるに違いない。21世紀版リーダーシップ論を発展させるためにも、「日本資本主義の父」の戒めに耳を傾け、学ぶときではないか。(09年11月7日掲載)
▽経済同友会のリーダーシップ論議
日本経団連、日本商工会議所と並ぶわが国の代表的な経済団体の一つ、経済同友会(代表幹事・桜井正光リコー会長)はリーダーシップ論議に取り組んでいる。テーマは「大きな時代変化の中でリーダーシップを考える」で、去る2003年度から始めて、08年度の活動は5期目となった。最新の『経済同友』(経済同友会のオピニオン誌・09年10月号)が08年度の活動内容を特集(テーマは「次世代を担うリーダーへ 〜 イノベイティブ・トップリーダーとの対話から、学び・考える」)している。その概要を以下に紹介する。
講師(一部)の講話(要旨)はつぎの通り。
*今道友信氏(東大名誉教授)=4つの社会的な徳
リーダーがいなければ危機を救うことはできない。平時には必要ないように見えても、危機の時に必要とされる人がリーダーである。自ら立てた理念を求め続け、それを理解して貰うためによく話し合うこと、高い理念や強い使命感、奉仕の心を持つことも大切だ。仲間に感謝し、さらに自らの去る時期も考えなければならない。哲学で言う4つの社会的な徳、「正義」「中庸・賢慮(Prudence)」「勇気」「節制」を自分なりに身に付けてほしい。
*桜井正光氏(経済同友会代表幹事)=変革のためのリーダーシップ
まずビジョンを描くことが大切である。ビジョンがあって、将来を予測する。それを原点にして現在とのギャップをつかんでいけば、変革しなければならない要素がおのずと見えてくる。また変革はリスキーなことなので、率先垂範、行動力も大切となる。トップが自ら先頭に立って旗を振り続けない限り、変革は進まない。当然のことながら変革の理由・背景を説明することは必要である。
*小枝 至氏(経済同友会副代表幹事・日産自動車相談役名誉会長)=国際競争の中で
国際競争の中で求められることは、会社全体の現状を正確に把握すること、また多様性に対する認識を高めて、日本独自の文化、歴史、言語を理解し、他の文化や考え方に対する評価尺度を持つことが必要になる。さらに日本ブランドの価値を認識してその維持向上に努めること、リーダーが魅力的なビジョン・計画を示すことが必要だ。
*細谷英二氏(りそなホールディングス代表執行役会長=「りそな再生」に学ぶ教訓
変化に鈍感な組織は滅びる。「離見の見」― 自分の姿を一歩離れたところでどう見られているかを意識する ― このような視点で自らの戦略を変える気概と行動力がなければ、組織は変わらない。日本の組織の最大の欠陥は、論理的な議論を回避することにある。きちんと議論を戦わせる風土がないと、企業は衰退する。雑音や足を引っ張られることがあっても、誠心誠意やり続ければ、必ずお天道様は見ていてくれる。
*長谷川閑史氏(経済同友会副代表幹事・武田薬品工業社長)=高い倫理観、価値観
リーダーに求められる資質とは、「高い倫理観と揺るぎない価値観」だ。企業トップになる人は、会社に対して倫理上、コンプライアンス(法令遵守)上で迷惑をかけることがない、という覚悟を持つこと、その覚悟がない人はトップになるべきではない。また自分なりの価値観を身に付けることが非常に大事だ。それは本人が苦慮し、努力し、本などを読んで自ら育んでいくものだ。常に人の意見を聞き、謙虚に学ぶ姿勢を忘れてはならない。
*中村邦夫氏(パナソニック取締役会長)=大きな地殻変動の兆し
今、大きな地殻変動の兆しが見えてきた。脱・石油、エネルギー、環境産業革命だ。環境・ECOにつながっていない企業は消滅し、まだ小さいがECOに集中・特化しているベンチャーは巨大な企業になっていくだろう。経営とはイノベーションであり、大変なことでも変えていかないと、潰れてしまう。若い人には是非チェンジ・リーダーになってほしい。世界の中の日本という観点で、将来を眺めていくと、面白いことが発見できる。
*北城恪太郎氏(前経済同友会代表幹事)=高い志と迅速な意思決定
高い倫理観・価値観、高い志がなければリーダーにはなれない。その上で迅速に意思決定をして実行することが大切だ。的確な判断をするには、都合のよい情報ばかりが正しい情報では決してないことを認識する必要がある。問題があれば軌道修正をする勇気がなければ、変化の速い時代には成功しない。そしてこれをやってやろうという情熱(Passion)が大事だ。組織の活性化さらに人材育成もリーダーの重要な役割だ。
以上の講話のなかから経済界リーダーの必要条件を拾い出してみると、以下のようである。
・4つの社会的な徳、「正義」「中庸・賢慮」「勇気」「節制」
・変革のためのビジョン、率先垂範・行動力
・日本ブランドの価値を認識
・議論を戦わせる風土
・高い倫理観と揺るぎない価値観
・脱・石油、環境産業革命
・高い志と迅速な意思決定
▽企業の社会貢献と利益の還元を
瀬戸内海などを足場に現代アートを核にした地域振興支援を積極的に進めている福武總一郎氏(ベネッセ会長)は「企業の社会貢献として利益の還元を」などと以下のように主張している。(毎日新聞09年10月30日付のインタビュー記事・要旨から)
何のための企業活動か、人にとっての幸せとは何か、真剣に考え、社名も福武書店から「よく生きる」という意味のベネッセに変更した。
「あるものを活かし、ないものを創る」発想が必要だ。「あるものを壊して、ないものを創る」― 現在主流のそんな文明史観を覆したい。
年を取れば取るほど幸せでなければならないのに、現代社会は若者に目を向けすぎだ。人生経験を積んだお年寄りが笑顔でいられるような地域でなければ、人は幸せになれない。また物質的に豊かでも、精神的に豊かでなければ幸せになれない。企業も経済活動で富を生み出すが、それだけでは豊かな社会は築けない。社会的な存在である企業は精神的にも満ち足りた暮らしのために、利益を還元すべきだ。「経済は文化のしもべ」であると言っている。
環境問題は子どもたちの未来にかかわる重要なテーマだ。
祖父がクラレに勤めていて、私の名前は大原孫三郎(注)の長男總一郎さんからもらった。孫三郎は美術館のほか、病院、学校、社会問題研究所などもつくり、企業経営と社会貢献を車の両輪として進めた。最も尊敬する経営者だ。(以上、記事から)
(注・安原)大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880 〜1943年)は倉敷紡績、倉敷絹織、倉敷毛織、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の頭取、社長などを務めた。社会、文化事業にも熱心に取り組み、大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)、大原美術館などが知られる。1926年設立の倉敷絹織が現在のクラレの前身。
福武氏が企業経営者の必要条件あるいは不可欠な発想として挙げているのは、以下のようである。同氏にはリーダーシップ論という感覚はないかもしれないが、福武流リーダーシップ論と受け止めたい。
・人にとっての幸せ
・「よく生きる」
・「あるものを活かし、ないものを創る」発想
・お年寄りが笑顔でいられるような地域づくり
・社会的存在である企業は利益を還元すべきだ
・「経済は文化のしもべ」
・環境問題は子どもたちの未来にかかわる
・企業経営と社会貢献は車の両輪
▽新自由主義路線にこだわるのか、それとも拒否するのか
上述の経済同友会のリーダーシップ論と福武氏の考え方とを比較すると、その違いの大きさが際立っている。その背景にあるものは何だろうか。結論から言えば、あの破綻(はたん)したはずの新自由主義(=市場経済原理主義)路線の残影の中で企業経営の在り方を追求するのか、それとも新自由主義路線を拒否する位置で企業経営の方向を模索しつづけるのか、その違いではないか。
もちろん前者は経済同友会の面々であり、後者の立場が福武氏だと考える。私が審査員なら軍配はもちろん後者の福武氏に挙げたい。
同氏は大原孫三郎について「美術館のほか、病院、学校、社会問題研究所などもつくり、企業経営と社会貢献を車の両輪として進めた。最も尊敬する経営者だ」と言い切っている。今どき、敗戦(1945年)以前の明治憲法下で活躍した企業人・大原孫三郎の「経営者としての社会貢献論」を持ち上げる企業トップも珍しいのではないか。それだけでも評価に値する。
といっても経済同友会の講師たちが口々に指摘しているリーダーシップ論が間違っているというのではない。正義、変革のビジョン、高い倫理観、高い志 ― などどれも言葉としてはもっともである。立派すぎるともいえる。
しかし例えば正義の旗を振りかざしながら悪事を働く事例が歴史上多すぎないだろうか。21世紀初頭の事例ではブッシュ前米大統領のアフガニスタン、イラクへの侵攻作戦もたしか正義の旗を掲げての蛮行ではなかったか。
正義はもちろんのこと、変革のビジョン、高い倫理観、高い志のいずれもリーダーには不可欠の資質である。問題は、その具体的な中身である。正義とは何を意味するのか、何をどう変革するビジョンなのか、高い倫理観とはどういう行動原理なのか、高い志とは、何を実現しようとする志なのか、その具体的な説明がなければ、ただの作文にすぎない。『経済同友』の特集からは、その具体的中身が伝わってこない。
福武氏は「企業の社会的貢献」、いいかえれば「企業の社会的責任」(CSR)にこだわっている。その一環として「利益の社会還元」を唱えている。これは社会からいただいた企業利益の一部を社会にお返ししたい、という発想だろう。この発想はまさしく貪欲な利益追求至上主義の新自由主義路線とは異質であり、望ましい経営姿勢である。
これに対し、経済同友会のリーダーシップ論からは、「企業の社会的責任」「利益の社会還元」という発想はうかがえない。むしろ企業内リーダーシップの発揮によって、利益を確保し、企業の生き残り、さらなる成長を目指すための「変革のビジョン」「高い志」が見え隠れしている。そうだとすれば、これは新自由主義路線の残影の中での模索というほかないだろう。
▽ 明治の実業家、渋沢栄一翁に学ぶとき
日本資本主義の父ともいうべき存在で、明治・大正の財界巨頭、渋沢栄一翁(注)の「論語・算盤」説(「道徳経済合一」説、「利義合一」説とも呼ばれる)は有名である。21世紀の企業トップのリーダーシップ論を考える上でも、今こそ、この「論語・算盤」説に学ぶときではないか。その核心となっているのが『論語』の次の名句である。
(注)渋沢栄一(1840〜1931年)は、日本最初の銀行「第一国立銀行」(旧第一勧業銀行の前身)を創設し、頭取に就任したほか、引退するまでに500余の企業の設立に関係、さらに東京商工会議所(1878年設立)の初代会頭に就任。教育分野にも関心を抱き、一橋大学の創立と発展に貢献した。著書は『論語講義』(全七巻・講談社学術文庫)、『論語と算盤』(大和出版)など。
◆「君子(くんし)は義に喩(さと)り、小人(しょうじん)は利に喩る」
〈大意〉君子、つまり立派な人は正しいか正しくないかという道義、道理中心に考え、行動するが、小人、つまりつまらない人間は利にさとく損得を中心に考え、行動する。
◆「利によりて行えば、怨(うら)み多し」
〈大意〉治者はもちろん、たとえ一個人にしても自己の利益のみを図る者は、他の怨みを取ることが多い。
◆「不義にして富み、かつ貴(たっと)きは我において浮雲のごとし」
〈大意〉道義、道理に反して得た富貴はまさに浮雲に等しく、いかえればバブルにほかならない。
私(安原)は10年ほど前、渋沢栄一記念館(埼玉県深谷市)を訪ね、渋沢の録音講演を聞いたことがある。少し高い調子の声でつぎのように話しているのが印象に残った。
「経済は道徳とともに進まなければならない・・・」と。
さて渋沢自身は自らの「論語・算盤」説をどう実践したのか。「君子は義に喩り、小人は利に喩る」に関連して、次のように述べている。
(注)「喩」は感得の意。「利」は私慾をいう。
「今日世に処するに、義に喩った方が利益であるか、利に喩った方が利益であるか、利に喩るのがむしろその人の利益になる場合がある。少なくとも目前の利益は確実なる場合がある」
「投機は絶対にせぬ。(中略)(値上がりする株を)買い入れて利益を占めたとすれば、世人より投機者流とみられ、世間の信用を失うようにならぬとも限らぬ。すなわち一時は利益を得ても永い歳月の中には大いに損をすることになる」
「余はいつでも事業に対するときには、まず道義上より起こすべき事業か、盛んにすべき事業かどうかを考え、利損は第二位において考えることにしている。もとより利益を度外に置くことは許されぬが、事業は必ず利益を伴うと限ったものではない。利益本意であれば、利益の上がらぬ事業会社の株は売り払うことになり、必要な事業を盛んにすることができなくなる。そう考えて事業を起こし、これに関与し、あるいは株を所有する。ただし株が騰貴するだろうと考えて、株をもったことはない」(『論語講義』(二)p53〜55)
要するに渋沢は次の諸点を強調している。昨今の利益追求至上主義の虜(とりこ)になっている企業経営者にとっては耳の痛い忠言であろう。特に「事業の利損は第二位に考える」は市場原理主義者らにとって戒めの助言となっている。
*投機は絶対にせぬこと
*道義上、つまり社会的に必要な事業を盛んにすることを第一位に考えること
*事業の利損は第二位に考えること
*騰貴を目当てに株を持ったことはないこと
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
経済界で目下、リーダーシップ論が盛んである。経済団体の一つ、経済同友会の「大きな時代変化の中でリーダーシップを考える」はその具体例である。「大きな時代変化」として、あの企業利益至上主義の新自由主義(=市場経済原理主義)路線の破綻を挙げることができる。ただあえてその論議を採点すれば、破綻したはずの企業利益至上主義を克服できないまま、模索が続いているという印象が消えない。
明治時代の財界巨頭で、「日本資本主義の父」ともうたわれる渋沢栄一翁は社会的に必要な事業かどうかを第一に重視し、利損(利益と損失)は第二と考え、実践した。今、渋沢翁が生存していれば、利損を第一に考え、右往左往する企業トップの多い現状を慨嘆し、戒めるに違いない。21世紀版リーダーシップ論を発展させるためにも、「日本資本主義の父」の戒めに耳を傾け、学ぶときではないか。(09年11月7日掲載)
▽経済同友会のリーダーシップ論議
日本経団連、日本商工会議所と並ぶわが国の代表的な経済団体の一つ、経済同友会(代表幹事・桜井正光リコー会長)はリーダーシップ論議に取り組んでいる。テーマは「大きな時代変化の中でリーダーシップを考える」で、去る2003年度から始めて、08年度の活動は5期目となった。最新の『経済同友』(経済同友会のオピニオン誌・09年10月号)が08年度の活動内容を特集(テーマは「次世代を担うリーダーへ 〜 イノベイティブ・トップリーダーとの対話から、学び・考える」)している。その概要を以下に紹介する。
講師(一部)の講話(要旨)はつぎの通り。
*今道友信氏(東大名誉教授)=4つの社会的な徳
リーダーがいなければ危機を救うことはできない。平時には必要ないように見えても、危機の時に必要とされる人がリーダーである。自ら立てた理念を求め続け、それを理解して貰うためによく話し合うこと、高い理念や強い使命感、奉仕の心を持つことも大切だ。仲間に感謝し、さらに自らの去る時期も考えなければならない。哲学で言う4つの社会的な徳、「正義」「中庸・賢慮(Prudence)」「勇気」「節制」を自分なりに身に付けてほしい。
*桜井正光氏(経済同友会代表幹事)=変革のためのリーダーシップ
まずビジョンを描くことが大切である。ビジョンがあって、将来を予測する。それを原点にして現在とのギャップをつかんでいけば、変革しなければならない要素がおのずと見えてくる。また変革はリスキーなことなので、率先垂範、行動力も大切となる。トップが自ら先頭に立って旗を振り続けない限り、変革は進まない。当然のことながら変革の理由・背景を説明することは必要である。
*小枝 至氏(経済同友会副代表幹事・日産自動車相談役名誉会長)=国際競争の中で
国際競争の中で求められることは、会社全体の現状を正確に把握すること、また多様性に対する認識を高めて、日本独自の文化、歴史、言語を理解し、他の文化や考え方に対する評価尺度を持つことが必要になる。さらに日本ブランドの価値を認識してその維持向上に努めること、リーダーが魅力的なビジョン・計画を示すことが必要だ。
*細谷英二氏(りそなホールディングス代表執行役会長=「りそな再生」に学ぶ教訓
変化に鈍感な組織は滅びる。「離見の見」― 自分の姿を一歩離れたところでどう見られているかを意識する ― このような視点で自らの戦略を変える気概と行動力がなければ、組織は変わらない。日本の組織の最大の欠陥は、論理的な議論を回避することにある。きちんと議論を戦わせる風土がないと、企業は衰退する。雑音や足を引っ張られることがあっても、誠心誠意やり続ければ、必ずお天道様は見ていてくれる。
*長谷川閑史氏(経済同友会副代表幹事・武田薬品工業社長)=高い倫理観、価値観
リーダーに求められる資質とは、「高い倫理観と揺るぎない価値観」だ。企業トップになる人は、会社に対して倫理上、コンプライアンス(法令遵守)上で迷惑をかけることがない、という覚悟を持つこと、その覚悟がない人はトップになるべきではない。また自分なりの価値観を身に付けることが非常に大事だ。それは本人が苦慮し、努力し、本などを読んで自ら育んでいくものだ。常に人の意見を聞き、謙虚に学ぶ姿勢を忘れてはならない。
*中村邦夫氏(パナソニック取締役会長)=大きな地殻変動の兆し
今、大きな地殻変動の兆しが見えてきた。脱・石油、エネルギー、環境産業革命だ。環境・ECOにつながっていない企業は消滅し、まだ小さいがECOに集中・特化しているベンチャーは巨大な企業になっていくだろう。経営とはイノベーションであり、大変なことでも変えていかないと、潰れてしまう。若い人には是非チェンジ・リーダーになってほしい。世界の中の日本という観点で、将来を眺めていくと、面白いことが発見できる。
*北城恪太郎氏(前経済同友会代表幹事)=高い志と迅速な意思決定
高い倫理観・価値観、高い志がなければリーダーにはなれない。その上で迅速に意思決定をして実行することが大切だ。的確な判断をするには、都合のよい情報ばかりが正しい情報では決してないことを認識する必要がある。問題があれば軌道修正をする勇気がなければ、変化の速い時代には成功しない。そしてこれをやってやろうという情熱(Passion)が大事だ。組織の活性化さらに人材育成もリーダーの重要な役割だ。
以上の講話のなかから経済界リーダーの必要条件を拾い出してみると、以下のようである。
・4つの社会的な徳、「正義」「中庸・賢慮」「勇気」「節制」
・変革のためのビジョン、率先垂範・行動力
・日本ブランドの価値を認識
・議論を戦わせる風土
・高い倫理観と揺るぎない価値観
・脱・石油、環境産業革命
・高い志と迅速な意思決定
▽企業の社会貢献と利益の還元を
瀬戸内海などを足場に現代アートを核にした地域振興支援を積極的に進めている福武總一郎氏(ベネッセ会長)は「企業の社会貢献として利益の還元を」などと以下のように主張している。(毎日新聞09年10月30日付のインタビュー記事・要旨から)
何のための企業活動か、人にとっての幸せとは何か、真剣に考え、社名も福武書店から「よく生きる」という意味のベネッセに変更した。
「あるものを活かし、ないものを創る」発想が必要だ。「あるものを壊して、ないものを創る」― 現在主流のそんな文明史観を覆したい。
年を取れば取るほど幸せでなければならないのに、現代社会は若者に目を向けすぎだ。人生経験を積んだお年寄りが笑顔でいられるような地域でなければ、人は幸せになれない。また物質的に豊かでも、精神的に豊かでなければ幸せになれない。企業も経済活動で富を生み出すが、それだけでは豊かな社会は築けない。社会的な存在である企業は精神的にも満ち足りた暮らしのために、利益を還元すべきだ。「経済は文化のしもべ」であると言っている。
環境問題は子どもたちの未来にかかわる重要なテーマだ。
祖父がクラレに勤めていて、私の名前は大原孫三郎(注)の長男總一郎さんからもらった。孫三郎は美術館のほか、病院、学校、社会問題研究所などもつくり、企業経営と社会貢献を車の両輪として進めた。最も尊敬する経営者だ。(以上、記事から)
(注・安原)大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880 〜1943年)は倉敷紡績、倉敷絹織、倉敷毛織、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の頭取、社長などを務めた。社会、文化事業にも熱心に取り組み、大原社会問題研究所(現法政大学大原社会問題研究所)、大原美術館などが知られる。1926年設立の倉敷絹織が現在のクラレの前身。
福武氏が企業経営者の必要条件あるいは不可欠な発想として挙げているのは、以下のようである。同氏にはリーダーシップ論という感覚はないかもしれないが、福武流リーダーシップ論と受け止めたい。
・人にとっての幸せ
・「よく生きる」
・「あるものを活かし、ないものを創る」発想
・お年寄りが笑顔でいられるような地域づくり
・社会的存在である企業は利益を還元すべきだ
・「経済は文化のしもべ」
・環境問題は子どもたちの未来にかかわる
・企業経営と社会貢献は車の両輪
▽新自由主義路線にこだわるのか、それとも拒否するのか
上述の経済同友会のリーダーシップ論と福武氏の考え方とを比較すると、その違いの大きさが際立っている。その背景にあるものは何だろうか。結論から言えば、あの破綻(はたん)したはずの新自由主義(=市場経済原理主義)路線の残影の中で企業経営の在り方を追求するのか、それとも新自由主義路線を拒否する位置で企業経営の方向を模索しつづけるのか、その違いではないか。
もちろん前者は経済同友会の面々であり、後者の立場が福武氏だと考える。私が審査員なら軍配はもちろん後者の福武氏に挙げたい。
同氏は大原孫三郎について「美術館のほか、病院、学校、社会問題研究所などもつくり、企業経営と社会貢献を車の両輪として進めた。最も尊敬する経営者だ」と言い切っている。今どき、敗戦(1945年)以前の明治憲法下で活躍した企業人・大原孫三郎の「経営者としての社会貢献論」を持ち上げる企業トップも珍しいのではないか。それだけでも評価に値する。
といっても経済同友会の講師たちが口々に指摘しているリーダーシップ論が間違っているというのではない。正義、変革のビジョン、高い倫理観、高い志 ― などどれも言葉としてはもっともである。立派すぎるともいえる。
しかし例えば正義の旗を振りかざしながら悪事を働く事例が歴史上多すぎないだろうか。21世紀初頭の事例ではブッシュ前米大統領のアフガニスタン、イラクへの侵攻作戦もたしか正義の旗を掲げての蛮行ではなかったか。
正義はもちろんのこと、変革のビジョン、高い倫理観、高い志のいずれもリーダーには不可欠の資質である。問題は、その具体的な中身である。正義とは何を意味するのか、何をどう変革するビジョンなのか、高い倫理観とはどういう行動原理なのか、高い志とは、何を実現しようとする志なのか、その具体的な説明がなければ、ただの作文にすぎない。『経済同友』の特集からは、その具体的中身が伝わってこない。
福武氏は「企業の社会的貢献」、いいかえれば「企業の社会的責任」(CSR)にこだわっている。その一環として「利益の社会還元」を唱えている。これは社会からいただいた企業利益の一部を社会にお返ししたい、という発想だろう。この発想はまさしく貪欲な利益追求至上主義の新自由主義路線とは異質であり、望ましい経営姿勢である。
これに対し、経済同友会のリーダーシップ論からは、「企業の社会的責任」「利益の社会還元」という発想はうかがえない。むしろ企業内リーダーシップの発揮によって、利益を確保し、企業の生き残り、さらなる成長を目指すための「変革のビジョン」「高い志」が見え隠れしている。そうだとすれば、これは新自由主義路線の残影の中での模索というほかないだろう。
▽ 明治の実業家、渋沢栄一翁に学ぶとき
日本資本主義の父ともいうべき存在で、明治・大正の財界巨頭、渋沢栄一翁(注)の「論語・算盤」説(「道徳経済合一」説、「利義合一」説とも呼ばれる)は有名である。21世紀の企業トップのリーダーシップ論を考える上でも、今こそ、この「論語・算盤」説に学ぶときではないか。その核心となっているのが『論語』の次の名句である。
(注)渋沢栄一(1840〜1931年)は、日本最初の銀行「第一国立銀行」(旧第一勧業銀行の前身)を創設し、頭取に就任したほか、引退するまでに500余の企業の設立に関係、さらに東京商工会議所(1878年設立)の初代会頭に就任。教育分野にも関心を抱き、一橋大学の創立と発展に貢献した。著書は『論語講義』(全七巻・講談社学術文庫)、『論語と算盤』(大和出版)など。
◆「君子(くんし)は義に喩(さと)り、小人(しょうじん)は利に喩る」
〈大意〉君子、つまり立派な人は正しいか正しくないかという道義、道理中心に考え、行動するが、小人、つまりつまらない人間は利にさとく損得を中心に考え、行動する。
◆「利によりて行えば、怨(うら)み多し」
〈大意〉治者はもちろん、たとえ一個人にしても自己の利益のみを図る者は、他の怨みを取ることが多い。
◆「不義にして富み、かつ貴(たっと)きは我において浮雲のごとし」
〈大意〉道義、道理に反して得た富貴はまさに浮雲に等しく、いかえればバブルにほかならない。
私(安原)は10年ほど前、渋沢栄一記念館(埼玉県深谷市)を訪ね、渋沢の録音講演を聞いたことがある。少し高い調子の声でつぎのように話しているのが印象に残った。
「経済は道徳とともに進まなければならない・・・」と。
さて渋沢自身は自らの「論語・算盤」説をどう実践したのか。「君子は義に喩り、小人は利に喩る」に関連して、次のように述べている。
(注)「喩」は感得の意。「利」は私慾をいう。
「今日世に処するに、義に喩った方が利益であるか、利に喩った方が利益であるか、利に喩るのがむしろその人の利益になる場合がある。少なくとも目前の利益は確実なる場合がある」
「投機は絶対にせぬ。(中略)(値上がりする株を)買い入れて利益を占めたとすれば、世人より投機者流とみられ、世間の信用を失うようにならぬとも限らぬ。すなわち一時は利益を得ても永い歳月の中には大いに損をすることになる」
「余はいつでも事業に対するときには、まず道義上より起こすべき事業か、盛んにすべき事業かどうかを考え、利損は第二位において考えることにしている。もとより利益を度外に置くことは許されぬが、事業は必ず利益を伴うと限ったものではない。利益本意であれば、利益の上がらぬ事業会社の株は売り払うことになり、必要な事業を盛んにすることができなくなる。そう考えて事業を起こし、これに関与し、あるいは株を所有する。ただし株が騰貴するだろうと考えて、株をもったことはない」(『論語講義』(二)p53〜55)
要するに渋沢は次の諸点を強調している。昨今の利益追求至上主義の虜(とりこ)になっている企業経営者にとっては耳の痛い忠言であろう。特に「事業の利損は第二位に考える」は市場原理主義者らにとって戒めの助言となっている。
*投機は絶対にせぬこと
*道義上、つまり社会的に必要な事業を盛んにすることを第一位に考えること
*事業の利損は第二位に考えること
*騰貴を目当てに株を持ったことはないこと
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
鳩山首相初の所信表明演説を読んで
安原和雄
鳩山政権に対し、公共事業を削減して福祉・雇用などの予算増加を図るなど目先の政策には積極的だが、どういう経済社会をめさすのかという長期的ビジョンに欠けるという批判がある。そうだろうか。首相初の所信表明演説で「いのち」の大切さと、「人間のための経済」を説いた。首相としては「人間のための経済」は長期的ビジョンのつもりなのだろう。問題は長期ビジョンの有無ではなく、その質ではないか。
「人間のための経済」は一見批判の余地のないビジョンのようだが、実はそうではない。21世紀の時代感覚からいささかずれている。なぜなら「人間のための経済」にこだわると、自然や動植物を含む地球全体の「いのち」を視野から遠ざけるからである。今こそ地球全体と人間の「いのち」を視野に収めた「いのちのための経済」を提唱するときではないか。(09年11月1日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
首相所信表明演説(全文)を繰り返し読んだ。政権交代後初めてであり、さすがに変革(改革、転換を含む)の文言が多い。数えてみると、16回も使われている。当然であり、驚くにあたらない。むしろ私(安原)が注目したのは「いのち」が7回も出てくることである。自民・公明政権時代の所信表明演説との違いはここにあるのではないかという印象を受けた。
鳩山演説の構成はつぎのようになっている。
一 はじめに
二 いのちを守り、国民生活を第一とした政治
三 「居場所と出番」のある社会、「支え合って生きていく日本」
四 人間のための経済へ
五 「架け橋」としての日本
六 むすび
▽「いのち」はどういう文脈で使われているか
さて「いのち」はどういう文脈で使われているのか。その具体例を紹介する。なお文中の「いのち」のカギ括弧は私(安原)が付記した。
(その1)友愛政治の原点
青森県に遊説に参った際、大勢の方々と握手させていただいた中で、私の手を放そうとしない、一人のおばあさんがいられた。息子さんが職に就けず、自らの「いのち」を絶つしか道がなかった、その悲しみを、そのおばあさんは私に対して切々と訴えられた。毎年3万人以上の方々の「いのち」が、絶望の中で絶たれているのに、私も含め、政治家にはその実感が乏しかったのではないか。おばあさんのその手の感触。その目の中の悲しみ。私には忘れることができないし、断じて忘れてはならない。社会の中に自らのささやかな「居場所」すら見つけることができず、「いのち」を断つ人が後を絶たない、しかも政治も行政もそのことに全く鈍感になっている、そのことの異常を正し、支え合いという日本の伝統を現代にふさわしい形で立て直すことが、私の第一の任務である。
かつて、多くの政治家は、「政治は弱者のためにある」と断言してきた。大きな政府とか小さな政府とか言うその前に、政治には弱い立場の人々、少数の人々の視点が尊重されなければならない。そのことだけは、私の友愛政治の原点として、ここに宣言させていただく。
(その2)国民の「いのち」と生活を守る政治
本当の意味での「国民主権」の国づくりをするために必要なのは、まず、何よりも、人の「いのち」を大切にし、国民の生活を守る政治である。
以上のように「いのち」を大切にする基本姿勢を述べた上で、年金、医療、介護、子育てや教育、生活保護、障害者支援、先住民族の歴史や文化の尊重 ― などについて多面的に言及している。
▽鳩山演説は「人間のための経済」を提唱
一方、鳩山演説は「人間のための経済」への転換を提唱している。「人間のための経済」とは何を目指すのか。その具体例を紹介する。
(その1)強者優先、経済合理性の追求は成り立たない
市場における自由な経済活動が、社会の活力を生み出し、国民生活を豊かにするのは自明のことである。しかし、市場にすべてを任せ、強い者だけが生き残ればよいという発想や、国民の暮らしを犠牲にしても、経済合理性を追求するという発想がもはや成り立たないことも明らかだ。
(その2)暮らしの豊かさと安心を求めて
私は、「人間のための経済」への転換を提唱したいと思う。それは、経済合理性や経済成長率に偏った評価軸で経済をとらえるのをやめようということである。経済面での自由な競争は促しつつも、雇用や人材育成といった面でのセーフティネットを整備し、食品の安全や治安の確保、消費者の視点を重視するといった、国民の暮らしの豊かさに力点を置いた経済、そして社会へ転換させなければならない。
年金、医療、介護など社会保障制度への不信感からくる、将来への漠然とした不安を拭い去ると同時に、子ども手当の創設、ガソリン税の暫定税率の廃止、さらには高速道路の原則無料化など、家計を直接応援することによって、国民が安心して暮らせる「人間のための経済」への転換を図っていく。そして物心両面から個人消費の拡大を目指していく。
(その3)「緑の産業」と「コンクリートから人へ」
内需を中心とした安定的な成長を実現することが極めて重要となってきた。世界最高の低炭素型産業、「緑の産業」を成長の柱として育てあげ、国民生活のあらゆる場面における情報通信技術の利活用の促進や、先端分野における研究開発、人材育成の強化などにより、科学技術の力で世界をリードするとともに、今一度、規制のあり方を全面的に見直し、新たな需要サイクルを創出する。
公共事業依存型の産業構造を「コンクリートから人へ」という基本方針に基づき、転換していく。暮らしの安心を支える医療や介護、未来への投資である子育てや教育、地域を支える農業、林業、観光などの分野で、しっかりとした産業を育て、新しい雇用と需要を生み出す。
(その4)「地域主権」改革の断行
「人間のための経済」を実現するために、私は、地域のことは地域に住む住民が決める、活気に満ちた地域社会をつくるための「地域主権」改革を断行する。
▽「人間のいのち」、「人間のための経済」にひそむ限界
以上のように鳩山演説は、「いのち」の大切さを力説しながら、他方で「人間のための経済」への転換を説いている。この鳩山演説を読んで直ちに感じた疑問は、「いのち」とは何を指しているのか、である。「いのち」といえば人間に限らず、自然界の動植物など生き物すべての「いのち」を視野に収める「広いいのち観」もあるが、鳩山演説では「人間のいのち」に視野を限定している。ここではあくまでも人間が中心であり、「狭いいのち観」である。といってももちろん「人間のいのち」を尊重することそれ自体に異論はない。
鳩山首相はつぎのように述べている。
毎年3万人以上の方々の「いのち」が、絶望の中で絶たれているのに、私も含め、政治家にはその実感が乏しかったのではないか ― と。
「友愛政治」を説く政治家として当然の反省であろう。自民・公明政権時代には多数の自殺者への思いやりはほとんどうかがえなかったのに比べれば、評価できる。
「コンクリートから人へ」という民主党政権のスローガンも悪くはない。「人間のための経済」の一環として位置づけることもできよう。公共事業という名の、人間を軽視したコンクリートづくめの政治をもはや受け容れることはできない。
しかし日米同盟、在日米軍再編問題となると、途端に曖昧な姿勢が顕著になる。焦点の米軍普天間基地(沖縄)の移設については所信表明でつぎのように述べた。
在日米軍再編については、安全保障上の観点も踏まえつつ、過去の日米合意などの経緯も慎重に検証した上で、沖縄の方々が背負ってこられた負担、苦しみや悲しみに十分に思いをいたし、地元の皆さまの思いをしっかりと受け止めながら、真剣に取り組んでいく ― と。
民主党はたしかマニフェスト(政権公約)などで普天間基地移設について「県外、国外移転」をうたっていたはずだが、ゲーツ米国防長官の来日以来、それが不明確になってきている。マニフェストにこだわる民主党にしては不可解というほかない。軍事基地こそ「人間のいのち」と深くかかわっているにもかかわらず、八方美人的な姿勢に終始している。そこに鳩山演説の「人間のいのち」と「人間のための経済」に限界を感じる。
▽「いのちのための経済」を求めて(1) ― 生命中心主義の潮流
「人間のための経済」に限定しないで、もっと視野を広げて、「いのちのための経済」を追求するときである。なぜそういえるか。
まずいのち(生命)尊重(=生命中心主義)と人間尊重(=人間中心主義)とは質的に異なっていることを指摘したい。仏教思想ではいのちとは人間に限らず、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちを指している。人間も動植物も平等であり、人間だけが格別上位に位置しているわけではない。これが仏教思想の生命中心主義であり、平等観である。 これに対し人間を万物の霊長として自然、動植物を支配する位置に押し上げているのがキリスト教的人間中心主義といえる。キリスト教の世界である欧米では生きとし生けるものすべてのいのちではなく、「人間のいのちの尊厳」がしばしば強調される。
以上のようないのち尊重(=生命中心主義)という考え方が20世紀末からの新しい大きな世界的な潮流になってきていることに着目したい。
一例を挙げれば、1982年の国連総会で採択された「世界自然憲章」の前文は、「あらゆる生物はかけがえのないものであり、人間にとって価値があるかないかに関係なく、それ自体、尊敬に値する。また人間以外の生物をそのように価値あるものとして承認するためには、人間が道徳的な行動規範をもたなければならない」と述べている。
もう一つ、国際自然保護連合(IUCN)、国連環境計画(UNEP)、世界自然保護基金(WWF)の共同報告『新・世界環境保全戦略 かけがえのない地球を大切に』(Caring for the Earth―A Strategy for Sustainable Living 1991)を紹介したい。「生命共同体の尊重と保全」について次のように述べている。
「互いの人々および地球に対し、私たちが示すべき尊重と思いやりは、持続可能な生活様式のための倫理という形で表現される。この倫理は、(中略)この惑星を人間と分かち合っている他のすべての生物に、私たちが責任をもっていることを強調している。そして自然は人間の必要を満たすために守るだけでなく、本来それ自体、保護されなければならないものであるとしている。(中略)すべての生物種と生態系は、人間にとって利用価値のあるなしにかかわらず尊重しなければならない」と。
世界自然憲章のなかの「あらゆる生物は、人間にとって価値があるかないかに関係なく、それ自体、尊敬に値する」、さらに『新・世界環境保全戦略』の「自然は本来、それ自体保護されなければならない」という認識は、自然を人間にとっての手段と考える人間中心主義ではなく、生命中心主義を尊重する思想の表明である。そういう生命中心主義の思想は今では国連などの場で国際的に認知されてきていると理解できよう。
『新・世界環境保全戦略』が発表された翌年(1992年)の第一回地球サミット(ブラジルのリオデジャネイロで開催)で採択されたリオ宣言にキーワードとして「持続可能な発展」(=持続的発展・Sustainable Development)という概念、思想が盛り込まれたが、その持続的発展は人間中心主義ではなく、生命中心主義と深く結びついているものと理解したい。
▽「いのちのための経済」を求めて(2) ― 簡素な緑の経済を
以上のような世界の新しい思想的潮流に着目すれば、「人間のための経済」ではなく、「いのちのための経済」への転換をこそ提唱しなければならない。それが21世紀にふさわしい経済の在り方といえよう。では「いのちのための経済」とはどういうイメージの経済だろうか。私(安原)はその骨格としてつぎの5本柱を挙げたい。
(1)人間に限らず、自然、動植物を含めて、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちを尊重すること。
(2)平和=非戦という狭い平和観を超えて、平和=非暴力という広い平和観に立つこと。
(3)平和的共存を重視すること。ただし世界の人々だけの平和的共存に限らず、広く人間と自然との平和的共存も重視すること。
(4)軍事力神話の時代は終わったという認識に立って、非武装の立場を打ち出すこと。
(5)「簡素な緑の経済」をつくる構造変革をすすめること。
ここでは(1)と(5)について素描するにとどめる。
(1)「地球上の生きとし生けるものすべてのいのち尊重」について
現代はもはや人間のいのちだけを守ることは困難な時代となっている。なぜなら地球は人間のいのちも自然(生態系)のいのちも合体した広大な生命共同体であり、その共同体丸ごとのいのちを守らなければ、人間のいのちも安全も危ういからである。
巨大な様々な自然災害が人間社会に襲いかかり、数え切れないほどの多くの人命が犠牲になっている。自然からの逆襲が始まったのである。人間が文明の美名の下に自然を開発・汚染・破壊し、自然のいのちを犠牲にしてきたことの報いともいえる。今日の地球環境保全時代とは、そういういのちの再生をどのようにして達成するかが最重要な課題となってきた時代である。すべてのいのちを尊重する思想と実践を共有することから再生を開始する以外に妙手はない。
(5)「簡素な緑の経済」について
望ましい平和経済のあり方として「簡素な緑の経済」(=低炭素経済社会)の構築を提唱する。その基本となるのが脱「石油浪費経済」であり、エネルギー(日本は石油の9割を中東地域に依存)の大量海外依存型構造を変革することである。そのためには経済全体を環境破壊・浪費型の生産・消費から環境保全・節約型へと変革しなければならない。
石油確保に固執することは、しばしば武力行使を伴う。アメリカのイラク攻撃と日本の協力・参戦の背景に「石油資源の確保は国益」という考えがひそんでいる。恒常的な石油不足時代の到来は遠い未来のことではない。武力行使も含めて石油争奪戦が激化し、石油価格が高騰する。そういう持続的経済とは両立しない石油浪費経済の行く末を示す兆候はすでに顕著になっている。
原子力エネルギーも安全とは無縁であり、リスクが大きすぎる。だからこそエネルギー源が豊富で国産可能な自然エネルギー(風力、太陽光発電など)への転換を急がなければならない。
簡素な経済は、脱「経済成長」をめざすが、決して貧しい社会ではない。経済成長とは、生産・消費の量的拡大を意味するにすぎず、生活の質的充実とは無縁である。簡素な経済とは、質の充実した社会、分かりやすくいえば、「いのち、非暴力を重視し、住み良い、生きがいのある社会」にほかならない。
これは自民・公明政権時代の破綻した新自由主義(=市場原理主義)路線とは異質の「いのちのための経済」をつくっていく変革路線であることを強調したい。
〈ご参考〉安原和雄の論文〈「いのちの安全保障」を提唱する ― 軍事力神話の時代は終わった〉(足利工業大学研究誌『東洋文化』第25号、2006年1月刊)が上の記事の下敷きとなっている。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
鳩山政権に対し、公共事業を削減して福祉・雇用などの予算増加を図るなど目先の政策には積極的だが、どういう経済社会をめさすのかという長期的ビジョンに欠けるという批判がある。そうだろうか。首相初の所信表明演説で「いのち」の大切さと、「人間のための経済」を説いた。首相としては「人間のための経済」は長期的ビジョンのつもりなのだろう。問題は長期ビジョンの有無ではなく、その質ではないか。
「人間のための経済」は一見批判の余地のないビジョンのようだが、実はそうではない。21世紀の時代感覚からいささかずれている。なぜなら「人間のための経済」にこだわると、自然や動植物を含む地球全体の「いのち」を視野から遠ざけるからである。今こそ地球全体と人間の「いのち」を視野に収めた「いのちのための経済」を提唱するときではないか。(09年11月1日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
首相所信表明演説(全文)を繰り返し読んだ。政権交代後初めてであり、さすがに変革(改革、転換を含む)の文言が多い。数えてみると、16回も使われている。当然であり、驚くにあたらない。むしろ私(安原)が注目したのは「いのち」が7回も出てくることである。自民・公明政権時代の所信表明演説との違いはここにあるのではないかという印象を受けた。
鳩山演説の構成はつぎのようになっている。
一 はじめに
二 いのちを守り、国民生活を第一とした政治
三 「居場所と出番」のある社会、「支え合って生きていく日本」
四 人間のための経済へ
五 「架け橋」としての日本
六 むすび
▽「いのち」はどういう文脈で使われているか
さて「いのち」はどういう文脈で使われているのか。その具体例を紹介する。なお文中の「いのち」のカギ括弧は私(安原)が付記した。
(その1)友愛政治の原点
青森県に遊説に参った際、大勢の方々と握手させていただいた中で、私の手を放そうとしない、一人のおばあさんがいられた。息子さんが職に就けず、自らの「いのち」を絶つしか道がなかった、その悲しみを、そのおばあさんは私に対して切々と訴えられた。毎年3万人以上の方々の「いのち」が、絶望の中で絶たれているのに、私も含め、政治家にはその実感が乏しかったのではないか。おばあさんのその手の感触。その目の中の悲しみ。私には忘れることができないし、断じて忘れてはならない。社会の中に自らのささやかな「居場所」すら見つけることができず、「いのち」を断つ人が後を絶たない、しかも政治も行政もそのことに全く鈍感になっている、そのことの異常を正し、支え合いという日本の伝統を現代にふさわしい形で立て直すことが、私の第一の任務である。
かつて、多くの政治家は、「政治は弱者のためにある」と断言してきた。大きな政府とか小さな政府とか言うその前に、政治には弱い立場の人々、少数の人々の視点が尊重されなければならない。そのことだけは、私の友愛政治の原点として、ここに宣言させていただく。
(その2)国民の「いのち」と生活を守る政治
本当の意味での「国民主権」の国づくりをするために必要なのは、まず、何よりも、人の「いのち」を大切にし、国民の生活を守る政治である。
以上のように「いのち」を大切にする基本姿勢を述べた上で、年金、医療、介護、子育てや教育、生活保護、障害者支援、先住民族の歴史や文化の尊重 ― などについて多面的に言及している。
▽鳩山演説は「人間のための経済」を提唱
一方、鳩山演説は「人間のための経済」への転換を提唱している。「人間のための経済」とは何を目指すのか。その具体例を紹介する。
(その1)強者優先、経済合理性の追求は成り立たない
市場における自由な経済活動が、社会の活力を生み出し、国民生活を豊かにするのは自明のことである。しかし、市場にすべてを任せ、強い者だけが生き残ればよいという発想や、国民の暮らしを犠牲にしても、経済合理性を追求するという発想がもはや成り立たないことも明らかだ。
(その2)暮らしの豊かさと安心を求めて
私は、「人間のための経済」への転換を提唱したいと思う。それは、経済合理性や経済成長率に偏った評価軸で経済をとらえるのをやめようということである。経済面での自由な競争は促しつつも、雇用や人材育成といった面でのセーフティネットを整備し、食品の安全や治安の確保、消費者の視点を重視するといった、国民の暮らしの豊かさに力点を置いた経済、そして社会へ転換させなければならない。
年金、医療、介護など社会保障制度への不信感からくる、将来への漠然とした不安を拭い去ると同時に、子ども手当の創設、ガソリン税の暫定税率の廃止、さらには高速道路の原則無料化など、家計を直接応援することによって、国民が安心して暮らせる「人間のための経済」への転換を図っていく。そして物心両面から個人消費の拡大を目指していく。
(その3)「緑の産業」と「コンクリートから人へ」
内需を中心とした安定的な成長を実現することが極めて重要となってきた。世界最高の低炭素型産業、「緑の産業」を成長の柱として育てあげ、国民生活のあらゆる場面における情報通信技術の利活用の促進や、先端分野における研究開発、人材育成の強化などにより、科学技術の力で世界をリードするとともに、今一度、規制のあり方を全面的に見直し、新たな需要サイクルを創出する。
公共事業依存型の産業構造を「コンクリートから人へ」という基本方針に基づき、転換していく。暮らしの安心を支える医療や介護、未来への投資である子育てや教育、地域を支える農業、林業、観光などの分野で、しっかりとした産業を育て、新しい雇用と需要を生み出す。
(その4)「地域主権」改革の断行
「人間のための経済」を実現するために、私は、地域のことは地域に住む住民が決める、活気に満ちた地域社会をつくるための「地域主権」改革を断行する。
▽「人間のいのち」、「人間のための経済」にひそむ限界
以上のように鳩山演説は、「いのち」の大切さを力説しながら、他方で「人間のための経済」への転換を説いている。この鳩山演説を読んで直ちに感じた疑問は、「いのち」とは何を指しているのか、である。「いのち」といえば人間に限らず、自然界の動植物など生き物すべての「いのち」を視野に収める「広いいのち観」もあるが、鳩山演説では「人間のいのち」に視野を限定している。ここではあくまでも人間が中心であり、「狭いいのち観」である。といってももちろん「人間のいのち」を尊重することそれ自体に異論はない。
鳩山首相はつぎのように述べている。
毎年3万人以上の方々の「いのち」が、絶望の中で絶たれているのに、私も含め、政治家にはその実感が乏しかったのではないか ― と。
「友愛政治」を説く政治家として当然の反省であろう。自民・公明政権時代には多数の自殺者への思いやりはほとんどうかがえなかったのに比べれば、評価できる。
「コンクリートから人へ」という民主党政権のスローガンも悪くはない。「人間のための経済」の一環として位置づけることもできよう。公共事業という名の、人間を軽視したコンクリートづくめの政治をもはや受け容れることはできない。
しかし日米同盟、在日米軍再編問題となると、途端に曖昧な姿勢が顕著になる。焦点の米軍普天間基地(沖縄)の移設については所信表明でつぎのように述べた。
在日米軍再編については、安全保障上の観点も踏まえつつ、過去の日米合意などの経緯も慎重に検証した上で、沖縄の方々が背負ってこられた負担、苦しみや悲しみに十分に思いをいたし、地元の皆さまの思いをしっかりと受け止めながら、真剣に取り組んでいく ― と。
民主党はたしかマニフェスト(政権公約)などで普天間基地移設について「県外、国外移転」をうたっていたはずだが、ゲーツ米国防長官の来日以来、それが不明確になってきている。マニフェストにこだわる民主党にしては不可解というほかない。軍事基地こそ「人間のいのち」と深くかかわっているにもかかわらず、八方美人的な姿勢に終始している。そこに鳩山演説の「人間のいのち」と「人間のための経済」に限界を感じる。
▽「いのちのための経済」を求めて(1) ― 生命中心主義の潮流
「人間のための経済」に限定しないで、もっと視野を広げて、「いのちのための経済」を追求するときである。なぜそういえるか。
まずいのち(生命)尊重(=生命中心主義)と人間尊重(=人間中心主義)とは質的に異なっていることを指摘したい。仏教思想ではいのちとは人間に限らず、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちを指している。人間も動植物も平等であり、人間だけが格別上位に位置しているわけではない。これが仏教思想の生命中心主義であり、平等観である。 これに対し人間を万物の霊長として自然、動植物を支配する位置に押し上げているのがキリスト教的人間中心主義といえる。キリスト教の世界である欧米では生きとし生けるものすべてのいのちではなく、「人間のいのちの尊厳」がしばしば強調される。
以上のようないのち尊重(=生命中心主義)という考え方が20世紀末からの新しい大きな世界的な潮流になってきていることに着目したい。
一例を挙げれば、1982年の国連総会で採択された「世界自然憲章」の前文は、「あらゆる生物はかけがえのないものであり、人間にとって価値があるかないかに関係なく、それ自体、尊敬に値する。また人間以外の生物をそのように価値あるものとして承認するためには、人間が道徳的な行動規範をもたなければならない」と述べている。
もう一つ、国際自然保護連合(IUCN)、国連環境計画(UNEP)、世界自然保護基金(WWF)の共同報告『新・世界環境保全戦略 かけがえのない地球を大切に』(Caring for the Earth―A Strategy for Sustainable Living 1991)を紹介したい。「生命共同体の尊重と保全」について次のように述べている。
「互いの人々および地球に対し、私たちが示すべき尊重と思いやりは、持続可能な生活様式のための倫理という形で表現される。この倫理は、(中略)この惑星を人間と分かち合っている他のすべての生物に、私たちが責任をもっていることを強調している。そして自然は人間の必要を満たすために守るだけでなく、本来それ自体、保護されなければならないものであるとしている。(中略)すべての生物種と生態系は、人間にとって利用価値のあるなしにかかわらず尊重しなければならない」と。
世界自然憲章のなかの「あらゆる生物は、人間にとって価値があるかないかに関係なく、それ自体、尊敬に値する」、さらに『新・世界環境保全戦略』の「自然は本来、それ自体保護されなければならない」という認識は、自然を人間にとっての手段と考える人間中心主義ではなく、生命中心主義を尊重する思想の表明である。そういう生命中心主義の思想は今では国連などの場で国際的に認知されてきていると理解できよう。
『新・世界環境保全戦略』が発表された翌年(1992年)の第一回地球サミット(ブラジルのリオデジャネイロで開催)で採択されたリオ宣言にキーワードとして「持続可能な発展」(=持続的発展・Sustainable Development)という概念、思想が盛り込まれたが、その持続的発展は人間中心主義ではなく、生命中心主義と深く結びついているものと理解したい。
▽「いのちのための経済」を求めて(2) ― 簡素な緑の経済を
以上のような世界の新しい思想的潮流に着目すれば、「人間のための経済」ではなく、「いのちのための経済」への転換をこそ提唱しなければならない。それが21世紀にふさわしい経済の在り方といえよう。では「いのちのための経済」とはどういうイメージの経済だろうか。私(安原)はその骨格としてつぎの5本柱を挙げたい。
(1)人間に限らず、自然、動植物を含めて、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちを尊重すること。
(2)平和=非戦という狭い平和観を超えて、平和=非暴力という広い平和観に立つこと。
(3)平和的共存を重視すること。ただし世界の人々だけの平和的共存に限らず、広く人間と自然との平和的共存も重視すること。
(4)軍事力神話の時代は終わったという認識に立って、非武装の立場を打ち出すこと。
(5)「簡素な緑の経済」をつくる構造変革をすすめること。
ここでは(1)と(5)について素描するにとどめる。
(1)「地球上の生きとし生けるものすべてのいのち尊重」について
現代はもはや人間のいのちだけを守ることは困難な時代となっている。なぜなら地球は人間のいのちも自然(生態系)のいのちも合体した広大な生命共同体であり、その共同体丸ごとのいのちを守らなければ、人間のいのちも安全も危ういからである。
巨大な様々な自然災害が人間社会に襲いかかり、数え切れないほどの多くの人命が犠牲になっている。自然からの逆襲が始まったのである。人間が文明の美名の下に自然を開発・汚染・破壊し、自然のいのちを犠牲にしてきたことの報いともいえる。今日の地球環境保全時代とは、そういういのちの再生をどのようにして達成するかが最重要な課題となってきた時代である。すべてのいのちを尊重する思想と実践を共有することから再生を開始する以外に妙手はない。
(5)「簡素な緑の経済」について
望ましい平和経済のあり方として「簡素な緑の経済」(=低炭素経済社会)の構築を提唱する。その基本となるのが脱「石油浪費経済」であり、エネルギー(日本は石油の9割を中東地域に依存)の大量海外依存型構造を変革することである。そのためには経済全体を環境破壊・浪費型の生産・消費から環境保全・節約型へと変革しなければならない。
石油確保に固執することは、しばしば武力行使を伴う。アメリカのイラク攻撃と日本の協力・参戦の背景に「石油資源の確保は国益」という考えがひそんでいる。恒常的な石油不足時代の到来は遠い未来のことではない。武力行使も含めて石油争奪戦が激化し、石油価格が高騰する。そういう持続的経済とは両立しない石油浪費経済の行く末を示す兆候はすでに顕著になっている。
原子力エネルギーも安全とは無縁であり、リスクが大きすぎる。だからこそエネルギー源が豊富で国産可能な自然エネルギー(風力、太陽光発電など)への転換を急がなければならない。
簡素な経済は、脱「経済成長」をめざすが、決して貧しい社会ではない。経済成長とは、生産・消費の量的拡大を意味するにすぎず、生活の質的充実とは無縁である。簡素な経済とは、質の充実した社会、分かりやすくいえば、「いのち、非暴力を重視し、住み良い、生きがいのある社会」にほかならない。
これは自民・公明政権時代の破綻した新自由主義(=市場原理主義)路線とは異質の「いのちのための経済」をつくっていく変革路線であることを強調したい。
〈ご参考〉安原和雄の論文〈「いのちの安全保障」を提唱する ― 軍事力神話の時代は終わった〉(足利工業大学研究誌『東洋文化』第25号、2006年1月刊)が上の記事の下敷きとなっている。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
日米安保、米軍基地、金権を告発
安原和雄
浅沼稲次郎・元日本社会党委員長の名を知る人はもはや少数派であるに違いない。その浅沼さんが東京・日比谷公会堂で演説中に暴漢に刺殺されてから来年2010年でちょうど半世紀を迎える。演説できなかった部分も含めて当時の演説草稿をこのほど入手した。浅沼さんにとっては最後の演説で、当時の自民党政治への手厳しい告発状ともなっている。その内容は日米安保、米軍基地、さらに金権政治、国民生活悪化など今日的テーマと共通するところが多い。
折しも政権交代によって誕生した民主党連立政権は自民・公明政権の悪しき遺産の改革に取り組んでいる。半世紀という時代の隔たりはあるにせよ、浅沼さんの告発状は、民主党政権の改革路線への助言・激励状ともいえるのではないか。(09年10月23日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 女たちが語る「平和といのちの集い」
浅沼稲次郎さんの遺志を受け継ぐために、女たちが語る「平和といのちの集い」が先日(10月9日)、東京・千代田区の総評会館で開かれ、参加者は200人を超えた。
その女たちとは、四谷信子(元都議会議員)、石坂 啓(漫画家)、新谷のり子(歌手)、中原道子(早大名誉教授)、吉武輝子(評論家)、古今亭菊千代(落語家)、内海愛子(早大大学院客員教授)、チェ・ソンエ(ピアニスト)、吉岡しげ美(音楽家)、上原公子(前国立市長)、星野弥生(翻訳家、「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」世話人)らの皆さん。四谷さんが「ヌマさん」の想い出を語り、石坂さんが「平和といのち」と題して講演、司会進行役は星野さんが務めた。
福島瑞穂社民党首(消費者・少子化担当相)、辻元清美社民党国会対策委員長(国土交通副大臣)も参加し、あいさつした。
今から半世紀前の1960年10月12日、当時の日本社会党委員長、浅沼稲次郎さん(注1)は東京・日比谷公会堂で開かれたNHK主催の三党党首立ち会い演説会で、演説中に右翼の暴漢山口二矢に刺されて絶命した。このため演説は中断を余儀なくされた。
(注1)浅沼さんは1898(明治31)年三宅島生まれ。早稲田大学経済学部卒後、戦前は農民労働党書記長、衆議院初当選などを経て、戦後は日本社会党書記長、同委員長を歴任。1959年の訪中演説「アメリカ帝国主義は日中両国人民の敵」は有名。
狭いアパートで長年暮らし、多くの庶民に「ヌマさん」と呼ばれて親しまれた。愛犬家でもあり、飼っていた秋田犬ジローは、ヌマさんが刺殺された後、餌を食べずに死亡した。「まあまあのヌマさん」といわれたように調整役が得意で、社会党右派でありながら共産党からも信頼された。刺殺直後の抗議デモには全国で40万人が参加した。
「平和といのちの集い」の席上、配布された浅沼演説(演説されなかった予定稿も含む要旨)を以下に紹介する。
▽ 浅沼演説 ― 米軍基地の返還こそが独立国家の条件
諸君、政治とは、国家社会の曲がったものを真っ直ぐにし、不正なものを正しくし、不自然なものを自然の姿に戻すのが、その要諦である。しかし現在のわが国には、曲がったもの、不正なもの、不自然なものが沢山ある。
第一は池田内閣が所得倍増(注2)を唱える足元から物価はどしどし上がっている。月給は2倍になっても、物価が3倍になったら、実際の生活程度は下がる。
最近は社会保障と減税は、最初の掛け声に比べて小さくなる一方である。他方、大資本家を儲けさせる公共投資ばかりが脹らんでいる。
第二は日米安全保障条約(注3)の問題である。アメリカ軍は占領中を含めて、今年(1960年)まで15年間日本に駐留しているが、今回の安保条約改正によってさらに10年駐屯しようとしている。外国軍隊が25年の長きにわたって駐留することは日本の国はじまって以来の不自然な出来事である。
インドのネール首相は言っている。「われわれは外国の基地を好まない。外国基地が国内にあることは、その心臓部に外国勢力が入り込んでいることを示すもので、常にそれは戦争のにおいをただよわせる」と。私どももこれと同じ感じに打たれるのである。(拍手)
日本は戦争が終わってから偉大なる変革を遂げた。まず主権在民の大原則である。つぎに言論・集会・結社の自由、労働者の団結権・団体交渉権・ストライキ権が憲法で保障されている。さらに憲法9条で戦争放棄、陸海空軍一切の戦力の不保持、国の交戦権の否認を決めている。これによって日本は再軍備はできない、他国に対し、軍事基地の提供、軍事同盟は結ばないことになったはずである。ところが日米安保条約によって日本がアメリカに軍事基地を提供し、その基地には日本の裁判権が及ばない。(拍手)
これは完全なる日本の姿ではない。沢山の外国基地(水面利用も含めれば全部で350カ所)があるところに日本がアメリカに軍事的に従属している姿が現れているといっても断じて過言ではない。(拍手)
だから日本が完全独立国家になるにはアメリカ軍隊には帰って貰う、基地を返して貰う、その上、積極的中立政策を実施することが日本外交の基本でなければならない。
安保条約の改正によって日本がアメリカに対し、防衛力拡大強化の義務(注4)を負うことによって増税という圧迫を受け、言論・集会・結社の自由も束縛されるという結果を招いている。
さらに防衛力増大によって憲法改正、再軍備、徴兵制が来はしないかを心配する。われわれはこの際、アメリカとの軍事関係を切るべきだと思う。そうして日本、アメリカ、ソ連、中国の4カ国が中心になって、新しい安全保障体制をつくることが日本外交の基本でなければならない。(拍手)
この新しい安全保障体制は、お互いの独立と領土を尊重すること、内政干渉をしないこと、侵略をしないこと、互恵平等の原則に立つこと ― を基本としなければならない。
第三の問題は、日本と中国の関係である。(略)
第四は、議会政治のあり方である。重大なことは、新安保条約のような重大案件が選挙で国民の信を問わないで、ひとたび選挙で多数をとったら、公約しないことを多数の力で押しつけることに大きな課題がある。(拍手、場内騒然)
(ここで演説はいったん中断し、司会者から「会場が騒々しい。静粛にお話をうかがいたい」旨の発言があり、浅沼さんが演説を再開した。「選挙の際は国民に評判の悪いものは全部捨てて、選挙で多数を占めると・・・」と述べたとき、暴漢が壇上に駆け上がり、浅沼委員長を刺した。再び場内騒然)
つぎの(注)は私(安原)が付記した。
(注2)新安保条約を強行採決によって成立させた岸内閣は総辞職し、池田内閣が発足(1960年7月)、国民所得倍増計画を決定(同年12月)した。10年間で所得を倍増させるプランで、俗に「月給倍増プラン」とも呼ばれた。
(注3)日米安全保障条約とは、旧安保条約に代わる新安保条約のことで、1960年6月発効した。10条(条約の終了)「10年間効力を存続した後、いずれの締約国も条約終了の意思を相手国に通告することができ、その1年後に条約は終了する」などの規定が新たに盛り込まれた。つまり1970年6月以降はいつでも条約を一方的に破棄できる規定である。
(注4)「防衛力拡大強化の義務」とは、新安保条約3条(自衛力の維持発展)の「締約国は武力攻撃に抵抗する能力を維持し発展させる」という規定を指している。この規定を受けて日本は軍事力増強への道を突き進み、現在、世界有数の軍事強国となっている。このため日本国憲法9条(非武装)の理念は空洞化している。
▽ 幻に終わった浅沼演説内容 ― 金権政治を正すとき
以下は浅沼さんが倒れたため、聴衆に向かって語り、訴えることができず、幻に終わった演説(予定稿要旨)である。
新安保条約にしても、調印前に衆議院を解散し、主権者の国民に聞くべきであった。しかしやらなかった。(1960年)5月19日、20日に国会内に警官が導入され、安保条約改定案が自民党の衆議院単独審議、単独強行採決がなされた。あの強行採決がそのまま確定しては、憲法の大原則、議会主義を無視することになるから、解散して主権者の意志を聞けと2000万人に達する請願となった。しかし参議院で単独審議、自然成立となり、批准書交換となった。かくて日本の議会政治は、5月19、20日をもって死滅したといっても過言ではない。
最後に日本の政治は金権政治であることを申し上げたい。この不正を正さなければならない。現在わが国の政治は選挙で莫大なカネをかけ、当選すれば、それを回収するために利権をあさり、カネを沢山集めた者が自民党総裁、総理大臣になる仕組みである。
その結果、カネ次第という風潮が社会にみなぎり、希望も理想もなく、その日暮らしの生活態度が横行している。戦前に比べて犯罪件数は十数倍にのぼる。これに対し政府は道徳教育とか教育基本法改正とか言っているが、必要なことは、政治の根本が曲がっているのを直してゆかねばならない。
政府みずから憲法を無視して再軍備を進めているのに、国民に対しては法律を守れといって、税金だけはどしどし取り立ててゆく。これでは国民は黙ってはいられない。
政治の基本はまず政府みずから憲法を守って、清潔な政治を行うこと、そして青少年に希望のある生活を、働きたい者には職場を、お年寄りには安定した生活を国が保障する政策を実行しなければならない。日本社会党が政権を取ったら、こういう政策を実行することをお約束する。社会党を中心に良識ある政治家を糾合した、護憲、民主、中立の政権にして初めて実行しうると思う。
▽ 浅沼さんの「遺言」=マニフェストは生かされるか
私(安原)事になるが、実は大学生だった頃(1957=昭和32年)、創刊間もないある総合月刊誌が浅沼さん(当時、社会党書記長)を囲む座談会を企画し、大学生3人の出席者のうちの1人として参加した。テーマはたしか「社会党が政権の座についたら」で、学生の立場から率直にもの申してほしいというのが雑誌編集者の狙いであったように記憶している。
そういう縁で浅沼さんとは直に接した体験があるだけに「浅沼さん、刺殺される」のニュースには暗澹(あんたん)たる想いであった。浅沼さんの「遺言」ともいうべき最後の演説を今読んでみて、感慨もひとしおというほかない。この「遺言」は今日どこまで生かされるのか、そこに大きな関心を抱かないわけにはゆかない。
浅沼演説は当時の現状認識についてつぎの諸点を挙げている。半世紀も前の演説だが、今日の状況をほぼそのまま言い当てているといっても見当違いではあるまい。ついこの間まで自民・公明政権が推進してきた政策と大差ない。
*社会保障は小さくなる一方であり、他方、大資本家を儲けさせる公共投資ばかりが脹(ふく)らんでいること
*日本の政治は金権政治であること。このためカネ次第という風潮が社会にみなぎっていること
*政府みずから憲法を無視して再軍備を進めていること
*政府は税金だけはどしどし取り立ててゆくこと
*希望も理想もなく、その日暮らしの生活態度が横行し、犯罪も増えていること
以上のような当時の自民党政治の現状認識に立って浅沼委員長は、「日本社会党が政権を取ったら」として、つぎのことを約束した。これは遺言となったが、今風にいえば、浅沼さんのマニフェスト(政権公約)でもあった。
*政治の基本として政府みずから憲法を守って、清潔な政治を行うこと
*青少年に希望のある生活を、働きたい者には職場を、お年寄りには安定した生活を国が保障する政策を実行すること
▽ 基地撤去論を今どう受け止めるか(1) ― 穏健派の気迫
浅沼演説の主眼は日米安保への批判に置かれている。具体的には日米安保条約の破棄、在日米軍基地の撤去、さらに日本、アメリカ、ソ連(当時)、中国の4カ国を中心とする新しい多角的安全保障体制の創設 ― である。
特につぎの指摘に着目したい。「アメリカ軍は占領中を含めて、今年(1960年)まで15年間日本に駐留しているが、今回の安保条約改正によってさらに10年駐屯しようとしている。外国軍隊が25年の長きにわたって駐留することは日本国はじまって以来の不自然な出来事」と。
文中の「安保条約改正によって(米軍が)さらに10年駐屯しようとしている」の含意はつぎのように理解したい。新安保条約10条は「この条約は10年間効力を存続した後は、条約を終了させる意思を相手国に通告することができる」と定めている。これによって1970年までの10年間は米軍駐留は我慢するとしても、それ以降はお引き取りを願おうと考えていたのではないか。ところが現実には10年どころか今日まで半世紀も続いている。この現実を浅沼さんが知ることになったら、あの世で「日本人の独立国家としての気概はどこへ消え失せたのか」と慨嘆するに違いない。
当時、浅沼さんは決して急進派であったわけではない。社会党内では左派ではなく、右派に属していた。気迫は人一倍であっても、思想的には穏健派であった。その人物にしてすでに日米安保破棄・米軍基地撤去論者だったのだ。
▽ 基地撤去論を今どう受け止めるか(2) ― 腹が据わっている琉球新報
さて半世紀後の今、米軍基地の再編成が日米間の大きな焦点として浮上している。ゲーツ米国防長官がこのほど来日し、沖縄の普天間基地の辺野古への移設を主張し、この計画が実行されなければ在沖米海兵隊のグアム移転もない旨を述べたと伝えられる。
この問題について新聞社説はどう論じているか。ここでは大手5紙と沖縄の琉球新報を紹介する。各紙の見出しはつぎの通り。
*朝日新聞社説(10月22日付)=普天間移設 新政権の方針を詰めよ
*読売新聞社説(10月22日付)=米国防長官来日 普天間問題を先送りするな
*日本経済新聞社説(10月22日付)=日米同盟の危機招く「安保摩擦」を憂う
*東京新聞社説(10月22日付)=普天間移設 あらゆる選択肢を探れ
*毎日新聞社説(10月23日付)=「普天間」移設 政権の意思が見えない
*琉球新報社説(10月22 日付)= 国防長官来日 交渉はこれからが本番だ
各社説を熟読した上で感想を述べると、読売と日経の主張は、見出しから察しがつくように米国防長官の代理人かと勘違いさせられるような主張である。浅沼さんが生存していたら、仰天するのではないか。
一方、朝日の「方針を詰めよ」、東京の「選択肢を探れ」、毎日の「政権の意思が見えない」などの見出しから推察できるように明確な独自の主張を述べているわけではない。単純化して言えば、「あーでもない、こうでもない」という類の一時逃れの解説である。ただ東京は「国民の意思」「国民の理解」を重視しており、その点で抜きん出ている。
沖縄地元紙の琉球新報は他の5紙とは切実感が異なっている。それに米軍基地の実態にもくわしい。だから腹が据(す)わっている印象である。社説を以下のように結んでいる。
「基地への反発の強い沖縄に基地を新設するのは、不満の爆発を準備するようなもので、解決策には程遠い。県内移設は見直した方が持続可能な日米関係になる。政府は毅然(きぜん)とそう主張してもらいたい」と。
開き直りの印象さえ受ける。しかしそうだとしても、正当な開き直りといえよう。「持続可能な日米関係」という着想に注目したい。望ましい着地点は米軍基地の日本列島からの撤去以外に妙策はない。基地存続にこだわるための脅迫のような言動も、それに屈する卑屈な姿勢もどちらにも持続性はない。この琉球新報社説を読めば、浅沼さんも「日本はまだ健在なり」とあの世で安眠できるかもしれない。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
浅沼稲次郎・元日本社会党委員長の名を知る人はもはや少数派であるに違いない。その浅沼さんが東京・日比谷公会堂で演説中に暴漢に刺殺されてから来年2010年でちょうど半世紀を迎える。演説できなかった部分も含めて当時の演説草稿をこのほど入手した。浅沼さんにとっては最後の演説で、当時の自民党政治への手厳しい告発状ともなっている。その内容は日米安保、米軍基地、さらに金権政治、国民生活悪化など今日的テーマと共通するところが多い。
折しも政権交代によって誕生した民主党連立政権は自民・公明政権の悪しき遺産の改革に取り組んでいる。半世紀という時代の隔たりはあるにせよ、浅沼さんの告発状は、民主党政権の改革路線への助言・激励状ともいえるのではないか。(09年10月23日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 女たちが語る「平和といのちの集い」
浅沼稲次郎さんの遺志を受け継ぐために、女たちが語る「平和といのちの集い」が先日(10月9日)、東京・千代田区の総評会館で開かれ、参加者は200人を超えた。
その女たちとは、四谷信子(元都議会議員)、石坂 啓(漫画家)、新谷のり子(歌手)、中原道子(早大名誉教授)、吉武輝子(評論家)、古今亭菊千代(落語家)、内海愛子(早大大学院客員教授)、チェ・ソンエ(ピアニスト)、吉岡しげ美(音楽家)、上原公子(前国立市長)、星野弥生(翻訳家、「軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会」世話人)らの皆さん。四谷さんが「ヌマさん」の想い出を語り、石坂さんが「平和といのち」と題して講演、司会進行役は星野さんが務めた。
福島瑞穂社民党首(消費者・少子化担当相)、辻元清美社民党国会対策委員長(国土交通副大臣)も参加し、あいさつした。
今から半世紀前の1960年10月12日、当時の日本社会党委員長、浅沼稲次郎さん(注1)は東京・日比谷公会堂で開かれたNHK主催の三党党首立ち会い演説会で、演説中に右翼の暴漢山口二矢に刺されて絶命した。このため演説は中断を余儀なくされた。
(注1)浅沼さんは1898(明治31)年三宅島生まれ。早稲田大学経済学部卒後、戦前は農民労働党書記長、衆議院初当選などを経て、戦後は日本社会党書記長、同委員長を歴任。1959年の訪中演説「アメリカ帝国主義は日中両国人民の敵」は有名。
狭いアパートで長年暮らし、多くの庶民に「ヌマさん」と呼ばれて親しまれた。愛犬家でもあり、飼っていた秋田犬ジローは、ヌマさんが刺殺された後、餌を食べずに死亡した。「まあまあのヌマさん」といわれたように調整役が得意で、社会党右派でありながら共産党からも信頼された。刺殺直後の抗議デモには全国で40万人が参加した。
「平和といのちの集い」の席上、配布された浅沼演説(演説されなかった予定稿も含む要旨)を以下に紹介する。
▽ 浅沼演説 ― 米軍基地の返還こそが独立国家の条件
諸君、政治とは、国家社会の曲がったものを真っ直ぐにし、不正なものを正しくし、不自然なものを自然の姿に戻すのが、その要諦である。しかし現在のわが国には、曲がったもの、不正なもの、不自然なものが沢山ある。
第一は池田内閣が所得倍増(注2)を唱える足元から物価はどしどし上がっている。月給は2倍になっても、物価が3倍になったら、実際の生活程度は下がる。
最近は社会保障と減税は、最初の掛け声に比べて小さくなる一方である。他方、大資本家を儲けさせる公共投資ばかりが脹らんでいる。
第二は日米安全保障条約(注3)の問題である。アメリカ軍は占領中を含めて、今年(1960年)まで15年間日本に駐留しているが、今回の安保条約改正によってさらに10年駐屯しようとしている。外国軍隊が25年の長きにわたって駐留することは日本の国はじまって以来の不自然な出来事である。
インドのネール首相は言っている。「われわれは外国の基地を好まない。外国基地が国内にあることは、その心臓部に外国勢力が入り込んでいることを示すもので、常にそれは戦争のにおいをただよわせる」と。私どももこれと同じ感じに打たれるのである。(拍手)
日本は戦争が終わってから偉大なる変革を遂げた。まず主権在民の大原則である。つぎに言論・集会・結社の自由、労働者の団結権・団体交渉権・ストライキ権が憲法で保障されている。さらに憲法9条で戦争放棄、陸海空軍一切の戦力の不保持、国の交戦権の否認を決めている。これによって日本は再軍備はできない、他国に対し、軍事基地の提供、軍事同盟は結ばないことになったはずである。ところが日米安保条約によって日本がアメリカに軍事基地を提供し、その基地には日本の裁判権が及ばない。(拍手)
これは完全なる日本の姿ではない。沢山の外国基地(水面利用も含めれば全部で350カ所)があるところに日本がアメリカに軍事的に従属している姿が現れているといっても断じて過言ではない。(拍手)
だから日本が完全独立国家になるにはアメリカ軍隊には帰って貰う、基地を返して貰う、その上、積極的中立政策を実施することが日本外交の基本でなければならない。
安保条約の改正によって日本がアメリカに対し、防衛力拡大強化の義務(注4)を負うことによって増税という圧迫を受け、言論・集会・結社の自由も束縛されるという結果を招いている。
さらに防衛力増大によって憲法改正、再軍備、徴兵制が来はしないかを心配する。われわれはこの際、アメリカとの軍事関係を切るべきだと思う。そうして日本、アメリカ、ソ連、中国の4カ国が中心になって、新しい安全保障体制をつくることが日本外交の基本でなければならない。(拍手)
この新しい安全保障体制は、お互いの独立と領土を尊重すること、内政干渉をしないこと、侵略をしないこと、互恵平等の原則に立つこと ― を基本としなければならない。
第三の問題は、日本と中国の関係である。(略)
第四は、議会政治のあり方である。重大なことは、新安保条約のような重大案件が選挙で国民の信を問わないで、ひとたび選挙で多数をとったら、公約しないことを多数の力で押しつけることに大きな課題がある。(拍手、場内騒然)
(ここで演説はいったん中断し、司会者から「会場が騒々しい。静粛にお話をうかがいたい」旨の発言があり、浅沼さんが演説を再開した。「選挙の際は国民に評判の悪いものは全部捨てて、選挙で多数を占めると・・・」と述べたとき、暴漢が壇上に駆け上がり、浅沼委員長を刺した。再び場内騒然)
つぎの(注)は私(安原)が付記した。
(注2)新安保条約を強行採決によって成立させた岸内閣は総辞職し、池田内閣が発足(1960年7月)、国民所得倍増計画を決定(同年12月)した。10年間で所得を倍増させるプランで、俗に「月給倍増プラン」とも呼ばれた。
(注3)日米安全保障条約とは、旧安保条約に代わる新安保条約のことで、1960年6月発効した。10条(条約の終了)「10年間効力を存続した後、いずれの締約国も条約終了の意思を相手国に通告することができ、その1年後に条約は終了する」などの規定が新たに盛り込まれた。つまり1970年6月以降はいつでも条約を一方的に破棄できる規定である。
(注4)「防衛力拡大強化の義務」とは、新安保条約3条(自衛力の維持発展)の「締約国は武力攻撃に抵抗する能力を維持し発展させる」という規定を指している。この規定を受けて日本は軍事力増強への道を突き進み、現在、世界有数の軍事強国となっている。このため日本国憲法9条(非武装)の理念は空洞化している。
▽ 幻に終わった浅沼演説内容 ― 金権政治を正すとき
以下は浅沼さんが倒れたため、聴衆に向かって語り、訴えることができず、幻に終わった演説(予定稿要旨)である。
新安保条約にしても、調印前に衆議院を解散し、主権者の国民に聞くべきであった。しかしやらなかった。(1960年)5月19日、20日に国会内に警官が導入され、安保条約改定案が自民党の衆議院単独審議、単独強行採決がなされた。あの強行採決がそのまま確定しては、憲法の大原則、議会主義を無視することになるから、解散して主権者の意志を聞けと2000万人に達する請願となった。しかし参議院で単独審議、自然成立となり、批准書交換となった。かくて日本の議会政治は、5月19、20日をもって死滅したといっても過言ではない。
最後に日本の政治は金権政治であることを申し上げたい。この不正を正さなければならない。現在わが国の政治は選挙で莫大なカネをかけ、当選すれば、それを回収するために利権をあさり、カネを沢山集めた者が自民党総裁、総理大臣になる仕組みである。
その結果、カネ次第という風潮が社会にみなぎり、希望も理想もなく、その日暮らしの生活態度が横行している。戦前に比べて犯罪件数は十数倍にのぼる。これに対し政府は道徳教育とか教育基本法改正とか言っているが、必要なことは、政治の根本が曲がっているのを直してゆかねばならない。
政府みずから憲法を無視して再軍備を進めているのに、国民に対しては法律を守れといって、税金だけはどしどし取り立ててゆく。これでは国民は黙ってはいられない。
政治の基本はまず政府みずから憲法を守って、清潔な政治を行うこと、そして青少年に希望のある生活を、働きたい者には職場を、お年寄りには安定した生活を国が保障する政策を実行しなければならない。日本社会党が政権を取ったら、こういう政策を実行することをお約束する。社会党を中心に良識ある政治家を糾合した、護憲、民主、中立の政権にして初めて実行しうると思う。
▽ 浅沼さんの「遺言」=マニフェストは生かされるか
私(安原)事になるが、実は大学生だった頃(1957=昭和32年)、創刊間もないある総合月刊誌が浅沼さん(当時、社会党書記長)を囲む座談会を企画し、大学生3人の出席者のうちの1人として参加した。テーマはたしか「社会党が政権の座についたら」で、学生の立場から率直にもの申してほしいというのが雑誌編集者の狙いであったように記憶している。
そういう縁で浅沼さんとは直に接した体験があるだけに「浅沼さん、刺殺される」のニュースには暗澹(あんたん)たる想いであった。浅沼さんの「遺言」ともいうべき最後の演説を今読んでみて、感慨もひとしおというほかない。この「遺言」は今日どこまで生かされるのか、そこに大きな関心を抱かないわけにはゆかない。
浅沼演説は当時の現状認識についてつぎの諸点を挙げている。半世紀も前の演説だが、今日の状況をほぼそのまま言い当てているといっても見当違いではあるまい。ついこの間まで自民・公明政権が推進してきた政策と大差ない。
*社会保障は小さくなる一方であり、他方、大資本家を儲けさせる公共投資ばかりが脹(ふく)らんでいること
*日本の政治は金権政治であること。このためカネ次第という風潮が社会にみなぎっていること
*政府みずから憲法を無視して再軍備を進めていること
*政府は税金だけはどしどし取り立ててゆくこと
*希望も理想もなく、その日暮らしの生活態度が横行し、犯罪も増えていること
以上のような当時の自民党政治の現状認識に立って浅沼委員長は、「日本社会党が政権を取ったら」として、つぎのことを約束した。これは遺言となったが、今風にいえば、浅沼さんのマニフェスト(政権公約)でもあった。
*政治の基本として政府みずから憲法を守って、清潔な政治を行うこと
*青少年に希望のある生活を、働きたい者には職場を、お年寄りには安定した生活を国が保障する政策を実行すること
▽ 基地撤去論を今どう受け止めるか(1) ― 穏健派の気迫
浅沼演説の主眼は日米安保への批判に置かれている。具体的には日米安保条約の破棄、在日米軍基地の撤去、さらに日本、アメリカ、ソ連(当時)、中国の4カ国を中心とする新しい多角的安全保障体制の創設 ― である。
特につぎの指摘に着目したい。「アメリカ軍は占領中を含めて、今年(1960年)まで15年間日本に駐留しているが、今回の安保条約改正によってさらに10年駐屯しようとしている。外国軍隊が25年の長きにわたって駐留することは日本国はじまって以来の不自然な出来事」と。
文中の「安保条約改正によって(米軍が)さらに10年駐屯しようとしている」の含意はつぎのように理解したい。新安保条約10条は「この条約は10年間効力を存続した後は、条約を終了させる意思を相手国に通告することができる」と定めている。これによって1970年までの10年間は米軍駐留は我慢するとしても、それ以降はお引き取りを願おうと考えていたのではないか。ところが現実には10年どころか今日まで半世紀も続いている。この現実を浅沼さんが知ることになったら、あの世で「日本人の独立国家としての気概はどこへ消え失せたのか」と慨嘆するに違いない。
当時、浅沼さんは決して急進派であったわけではない。社会党内では左派ではなく、右派に属していた。気迫は人一倍であっても、思想的には穏健派であった。その人物にしてすでに日米安保破棄・米軍基地撤去論者だったのだ。
▽ 基地撤去論を今どう受け止めるか(2) ― 腹が据わっている琉球新報
さて半世紀後の今、米軍基地の再編成が日米間の大きな焦点として浮上している。ゲーツ米国防長官がこのほど来日し、沖縄の普天間基地の辺野古への移設を主張し、この計画が実行されなければ在沖米海兵隊のグアム移転もない旨を述べたと伝えられる。
この問題について新聞社説はどう論じているか。ここでは大手5紙と沖縄の琉球新報を紹介する。各紙の見出しはつぎの通り。
*朝日新聞社説(10月22日付)=普天間移設 新政権の方針を詰めよ
*読売新聞社説(10月22日付)=米国防長官来日 普天間問題を先送りするな
*日本経済新聞社説(10月22日付)=日米同盟の危機招く「安保摩擦」を憂う
*東京新聞社説(10月22日付)=普天間移設 あらゆる選択肢を探れ
*毎日新聞社説(10月23日付)=「普天間」移設 政権の意思が見えない
*琉球新報社説(10月22 日付)= 国防長官来日 交渉はこれからが本番だ
各社説を熟読した上で感想を述べると、読売と日経の主張は、見出しから察しがつくように米国防長官の代理人かと勘違いさせられるような主張である。浅沼さんが生存していたら、仰天するのではないか。
一方、朝日の「方針を詰めよ」、東京の「選択肢を探れ」、毎日の「政権の意思が見えない」などの見出しから推察できるように明確な独自の主張を述べているわけではない。単純化して言えば、「あーでもない、こうでもない」という類の一時逃れの解説である。ただ東京は「国民の意思」「国民の理解」を重視しており、その点で抜きん出ている。
沖縄地元紙の琉球新報は他の5紙とは切実感が異なっている。それに米軍基地の実態にもくわしい。だから腹が据(す)わっている印象である。社説を以下のように結んでいる。
「基地への反発の強い沖縄に基地を新設するのは、不満の爆発を準備するようなもので、解決策には程遠い。県内移設は見直した方が持続可能な日米関係になる。政府は毅然(きぜん)とそう主張してもらいたい」と。
開き直りの印象さえ受ける。しかしそうだとしても、正当な開き直りといえよう。「持続可能な日米関係」という着想に注目したい。望ましい着地点は米軍基地の日本列島からの撤去以外に妙策はない。基地存続にこだわるための脅迫のような言動も、それに屈する卑屈な姿勢もどちらにも持続性はない。この琉球新報社説を読めば、浅沼さんも「日本はまだ健在なり」とあの世で安眠できるかもしれない。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
自民党再生は脱・新自由主義が鍵
安原和雄
谷垣禎一自民党総裁は、総選挙での惨敗を受けて、「再生こそ、私の使命」のスローガンを掲げて、自民党再生に乗り出した。しかしその前途は楽観できない。新聞メディアから「将」としての資質を聞かれて、十分な返答ができないままで、これでは敗軍の将、「将」を語らず、というほかない。なぜ「将」について語らないのか。自民党の再生は果たして可能なのか。
自民党が先の総選挙で多くの有権者に顔を背けられたのは、長すぎた政権党時代に飽きられたという事情もあるが、何よりも小泉政権以来、顕著だった新自由主義路線(=市場原理主義路線)が多くの国民の生活に犠牲と災厄をもたらしたためである。だから再生には脱・新自由主義が鍵であり、それ以外の妙手はあり得ない。(09年10月17日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 自民党総裁 「大将の資質 難しいな」 ― とは、なに ?
見出しの〈敗軍の将、「将」を語らず〉について説明したい。ご存じの方には今さら指摘するまでもないが、中国の『史記』にある有名な言葉は、正しくは「敗軍の将は兵を語らず」である。戦争で負けた将軍は、兵法のことを語る資格がないという意で、「将」を語らず、ではない。それを承知で、私が勝手にひねってみた表現である。
それというのも毎日新聞夕刊(09年10月13日付・東京版)に掲載の特集ワイド「09 天下の秋」と題する、谷垣自民党総裁とのインタビュー記事(聞き手は遠藤 拓記者 )を読んで思いついたことである。つぎのような大文字の見出しが並んでいる。
難問山積 自民党 谷垣禎一総裁 に聞く
大将の資質 難しいな
この見出しの「大将の資質 難しいな」をみて、なに ? と首をひねるほかなかった。自民党総裁の言うべきセリフか ? というのが率直な印象である。これでは語るべき肝心の「将たる者の器」について逃げているのではないか。再生を図るためのリーダーシップはいかにあるべきかが中心テーマであるときに、逃げ腰では勝負にならない。相撲でいえば、土俵に上がる前に転んでいるのに等しい。
▽ 「民主党政権の性格がハッキリしないし、対立軸は言いにくい」
インタビュー記事(要旨)を記者と総裁との一問一答形式に組み直して、以下に紹介する。谷垣さんは趣味がサイクリングで、日本サイクリング協会会長である。東大法学部卒で、弁護士でもありながら、どちらかというと、体育会系の人物らしい。
記者:谷垣さん、自転車のように、自民党を自在に乗りこなせますか。
総裁:はっはっはっ。自民党という自転車、といわれても答えようがないですね。
自民党は草の根、といっていい大勢の日本人の支持の上に乗ってきた政党です。その気持ちを選挙で十分くみ上げられたのかという反省はうんとしなければいけない。草の根の思いをどう吸い上げられるか。そこでしょうね。
記者:今度はほかならぬ谷垣さんが〈大将〉。その資質、どう考えていますか。
総裁:難しい質問だなあ。大将に必要な資質ねえ。平凡だけども、先頭に立って頑張るという気持ちがなきゃいけませんよね。できるだけね、先まで見通す努力をしなければいけない。それと戦う時は闘志を持って、不退転の決意を持って戦うとか。挙げればきりがないですね。
記者:その資質、ご自身にはあるのですか ? ないのですか ?
総裁:考えたことないです。皆さんがご覧になることであって、私は今このポジションだから、そんなこと考えているゆとりはないですよね。
(記者の陰の声:あっさりしている。このキャラクターを〈保守〉し、ここまで上りつめたのだ。変えるつもりもないのかもしれない。)
記者:ある政治学者によると、谷垣路線と民主党の違いが見えにくく、ともすると自民党が完全に埋没してしまう恐れがある、と。
総裁:うーん。どうでしょうかねえ。民主党が何をしようとしているのか。ハッキリしているのは、選挙で言えば相当程度、労働組合に依存した党だと思うんです。我が党と明らかに違うところ。
記者:実は民主党と、目指すところが近いのでは ?
総裁:民主党が何を目指しているのかよく分からないんですね。
(記者の陰の声:大将なのに、敵を知らずして戦うというのか。)
記者:先の総選挙で最大の争点は、政権交代の是非にあった。現実に政権が変わった今、民主党との間にどんな対立軸があるのでしょう ?
総裁:例えば民主党が子ども手当などいろんなことを手がければ、税金もたくさんいただきますよ、となるはずです。でも今後4年間は消費税に触れない。無駄を省いてやると言う。大きな政府で行くのか、小さな政府なのか。民主党政権の性格がはっきりしないと、対立軸は非常に言いにくいところがある。
(記者の陰の声:谷垣さん、与党時代に堂々と「消費税10%」を唱えていた。それこそが対立軸になりそうだが、相手の出方待ちに聞こえる)
記者:野党としてあるべき姿勢は ?
総裁:野党の主たる戦場は国会論戦。政策を錬磨して与党と向かい合っていくのが大事です。政争のための政争では、多くの国民に愛想を尽かされる。是々非々では弱い、との意見もあるかもしれない。でも、根本にあるのは国民生活をよくするということです。
(記者の陰の声:党内をまとめ、巨大与党と対抗する。谷垣さんを待つのは、まさしくいばらの道になりそうだ。)
記者:総裁任期は3年、やりきる覚悟はありますか ?
総裁:そらあ、当然でしょう。任期をしっかり全うして、できることはピシッとやると。
(記者の陰の声:まずは重責を放り出さない、こんな当たり前のことを淡々とこなすだけでも、今の自民党にとっては再生の第一歩かもしれない。)
▽ 〈安原の感想〉― 自民党は果たして再生できるのか
上記のインタビュー記事を読んでの率直な感想として、大学運動部キャプテンの「頑張ります」のひとこと以上のものは何も伝わってこない、といえば、いささか酷な批評になるだろうか。自民党は総選挙で大敗した結果、放心状態に今なお陥っているのではないか。長い間の政権党時代の甘えと惰性から頭を切り換えて、さっと立ち直るということが難しいように思える。
毎日新聞(10月14日付・東京版)は、〈「再生こそ使命」 自民新ポスター〉の見出しでつぎのように報じた。
自民党は13日、2種類の新しい政治活動用ポスターを発表した。谷垣総裁を大きくあしらい、それぞれ「再生こそ、私の使命。」、「歩く。聞く。応える。」とキャッチコピーを付けた。地域に足を運んで対話を重ね、党再生につなげたいとの谷垣総裁の思いを込めたという。「谷垣で、再起動。自民党」となるか ― と。
再起動、再生のための必要条件は何か。インタビュー記事に出てくる総裁の現状認識、主張を素材として診断すると ― 。
(診断・その1)
「民主党は労働組合に依存した党だ。我が自民党と明らかに違う」について
民主党が労組「連合」と近い関係にあることは事実だろうが、それを「依存」と認識しているのは、感覚がずれている。民主党が大勝したのは、かつての自民党支持者、多くの無党派有権者などの票が民主党へ流れたためではないか。その背景には政権党・自民党を軸とする、あの「政官業」三者の癒着関係と利権構造が存在することへの疑問がある。だから自民党が飽きられ、有権者の拒否反応となったと理解したい。
民主党のマニフェスト(政権公約)すべてを支持していなくとも、今回は「自民党にはノー」という選択であった。新総裁は、その点がよく分かっていないのではないか。「癒着と利権」に慣れすぎている自民党が、それとは無縁の自民党として果たして再生できるのか。
(診断・その2)
「大きな政府で行くのか、小さな政府なのか。民主党政権の性格がはっきりしない」について
財政規模と行政権限の大小によって計る「大きな政府」か「小さな政府」か、という二分法自体がすでに古くなっている。「大きな政府」とは、福祉国家を指しており、それへの批判として打ち出されたのが「小さな政府」論で、これは医療、福祉など社会保障費の削減、さらに国民負担(税金、保険料など)の増大へ向かう。これが特に小泉政権時代以来の自民党政権が強要してきた新自由主義(=市場原理主義)路線である。この路線は「小さな政府」を掲げながら、その実、「大きな政府」を志向するもので、日米同盟強化、軍事力重視、憲法9条(戦争放棄、非武装、交戦権否認)改悪 ― などを目指す一方、高速道、ダム、地方空港などコンクリートづくめの無駄な公共事業にこだわり続ける。それが政権交代によって目下のところ変革の波に洗われている。
大切なのは、谷垣総裁も指摘しているように「国民生活をよくすること」にほかならない。そのためには新自由主義路線の失敗に学び、反省してきっぱりと縁を切ることである。逆に多少修正した新自由主義といえども、それに執着し続けるようでは自民党の再生はとても無理だろう。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
谷垣禎一自民党総裁は、総選挙での惨敗を受けて、「再生こそ、私の使命」のスローガンを掲げて、自民党再生に乗り出した。しかしその前途は楽観できない。新聞メディアから「将」としての資質を聞かれて、十分な返答ができないままで、これでは敗軍の将、「将」を語らず、というほかない。なぜ「将」について語らないのか。自民党の再生は果たして可能なのか。
自民党が先の総選挙で多くの有権者に顔を背けられたのは、長すぎた政権党時代に飽きられたという事情もあるが、何よりも小泉政権以来、顕著だった新自由主義路線(=市場原理主義路線)が多くの国民の生活に犠牲と災厄をもたらしたためである。だから再生には脱・新自由主義が鍵であり、それ以外の妙手はあり得ない。(09年10月17日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ 自民党総裁 「大将の資質 難しいな」 ― とは、なに ?
見出しの〈敗軍の将、「将」を語らず〉について説明したい。ご存じの方には今さら指摘するまでもないが、中国の『史記』にある有名な言葉は、正しくは「敗軍の将は兵を語らず」である。戦争で負けた将軍は、兵法のことを語る資格がないという意で、「将」を語らず、ではない。それを承知で、私が勝手にひねってみた表現である。
それというのも毎日新聞夕刊(09年10月13日付・東京版)に掲載の特集ワイド「09 天下の秋」と題する、谷垣自民党総裁とのインタビュー記事(聞き手は遠藤 拓記者 )を読んで思いついたことである。つぎのような大文字の見出しが並んでいる。
難問山積 自民党 谷垣禎一総裁 に聞く
大将の資質 難しいな
この見出しの「大将の資質 難しいな」をみて、なに ? と首をひねるほかなかった。自民党総裁の言うべきセリフか ? というのが率直な印象である。これでは語るべき肝心の「将たる者の器」について逃げているのではないか。再生を図るためのリーダーシップはいかにあるべきかが中心テーマであるときに、逃げ腰では勝負にならない。相撲でいえば、土俵に上がる前に転んでいるのに等しい。
▽ 「民主党政権の性格がハッキリしないし、対立軸は言いにくい」
インタビュー記事(要旨)を記者と総裁との一問一答形式に組み直して、以下に紹介する。谷垣さんは趣味がサイクリングで、日本サイクリング協会会長である。東大法学部卒で、弁護士でもありながら、どちらかというと、体育会系の人物らしい。
記者:谷垣さん、自転車のように、自民党を自在に乗りこなせますか。
総裁:はっはっはっ。自民党という自転車、といわれても答えようがないですね。
自民党は草の根、といっていい大勢の日本人の支持の上に乗ってきた政党です。その気持ちを選挙で十分くみ上げられたのかという反省はうんとしなければいけない。草の根の思いをどう吸い上げられるか。そこでしょうね。
記者:今度はほかならぬ谷垣さんが〈大将〉。その資質、どう考えていますか。
総裁:難しい質問だなあ。大将に必要な資質ねえ。平凡だけども、先頭に立って頑張るという気持ちがなきゃいけませんよね。できるだけね、先まで見通す努力をしなければいけない。それと戦う時は闘志を持って、不退転の決意を持って戦うとか。挙げればきりがないですね。
記者:その資質、ご自身にはあるのですか ? ないのですか ?
総裁:考えたことないです。皆さんがご覧になることであって、私は今このポジションだから、そんなこと考えているゆとりはないですよね。
(記者の陰の声:あっさりしている。このキャラクターを〈保守〉し、ここまで上りつめたのだ。変えるつもりもないのかもしれない。)
記者:ある政治学者によると、谷垣路線と民主党の違いが見えにくく、ともすると自民党が完全に埋没してしまう恐れがある、と。
総裁:うーん。どうでしょうかねえ。民主党が何をしようとしているのか。ハッキリしているのは、選挙で言えば相当程度、労働組合に依存した党だと思うんです。我が党と明らかに違うところ。
記者:実は民主党と、目指すところが近いのでは ?
総裁:民主党が何を目指しているのかよく分からないんですね。
(記者の陰の声:大将なのに、敵を知らずして戦うというのか。)
記者:先の総選挙で最大の争点は、政権交代の是非にあった。現実に政権が変わった今、民主党との間にどんな対立軸があるのでしょう ?
総裁:例えば民主党が子ども手当などいろんなことを手がければ、税金もたくさんいただきますよ、となるはずです。でも今後4年間は消費税に触れない。無駄を省いてやると言う。大きな政府で行くのか、小さな政府なのか。民主党政権の性格がはっきりしないと、対立軸は非常に言いにくいところがある。
(記者の陰の声:谷垣さん、与党時代に堂々と「消費税10%」を唱えていた。それこそが対立軸になりそうだが、相手の出方待ちに聞こえる)
記者:野党としてあるべき姿勢は ?
総裁:野党の主たる戦場は国会論戦。政策を錬磨して与党と向かい合っていくのが大事です。政争のための政争では、多くの国民に愛想を尽かされる。是々非々では弱い、との意見もあるかもしれない。でも、根本にあるのは国民生活をよくするということです。
(記者の陰の声:党内をまとめ、巨大与党と対抗する。谷垣さんを待つのは、まさしくいばらの道になりそうだ。)
記者:総裁任期は3年、やりきる覚悟はありますか ?
総裁:そらあ、当然でしょう。任期をしっかり全うして、できることはピシッとやると。
(記者の陰の声:まずは重責を放り出さない、こんな当たり前のことを淡々とこなすだけでも、今の自民党にとっては再生の第一歩かもしれない。)
▽ 〈安原の感想〉― 自民党は果たして再生できるのか
上記のインタビュー記事を読んでの率直な感想として、大学運動部キャプテンの「頑張ります」のひとこと以上のものは何も伝わってこない、といえば、いささか酷な批評になるだろうか。自民党は総選挙で大敗した結果、放心状態に今なお陥っているのではないか。長い間の政権党時代の甘えと惰性から頭を切り換えて、さっと立ち直るということが難しいように思える。
毎日新聞(10月14日付・東京版)は、〈「再生こそ使命」 自民新ポスター〉の見出しでつぎのように報じた。
自民党は13日、2種類の新しい政治活動用ポスターを発表した。谷垣総裁を大きくあしらい、それぞれ「再生こそ、私の使命。」、「歩く。聞く。応える。」とキャッチコピーを付けた。地域に足を運んで対話を重ね、党再生につなげたいとの谷垣総裁の思いを込めたという。「谷垣で、再起動。自民党」となるか ― と。
再起動、再生のための必要条件は何か。インタビュー記事に出てくる総裁の現状認識、主張を素材として診断すると ― 。
(診断・その1)
「民主党は労働組合に依存した党だ。我が自民党と明らかに違う」について
民主党が労組「連合」と近い関係にあることは事実だろうが、それを「依存」と認識しているのは、感覚がずれている。民主党が大勝したのは、かつての自民党支持者、多くの無党派有権者などの票が民主党へ流れたためではないか。その背景には政権党・自民党を軸とする、あの「政官業」三者の癒着関係と利権構造が存在することへの疑問がある。だから自民党が飽きられ、有権者の拒否反応となったと理解したい。
民主党のマニフェスト(政権公約)すべてを支持していなくとも、今回は「自民党にはノー」という選択であった。新総裁は、その点がよく分かっていないのではないか。「癒着と利権」に慣れすぎている自民党が、それとは無縁の自民党として果たして再生できるのか。
(診断・その2)
「大きな政府で行くのか、小さな政府なのか。民主党政権の性格がはっきりしない」について
財政規模と行政権限の大小によって計る「大きな政府」か「小さな政府」か、という二分法自体がすでに古くなっている。「大きな政府」とは、福祉国家を指しており、それへの批判として打ち出されたのが「小さな政府」論で、これは医療、福祉など社会保障費の削減、さらに国民負担(税金、保険料など)の増大へ向かう。これが特に小泉政権時代以来の自民党政権が強要してきた新自由主義(=市場原理主義)路線である。この路線は「小さな政府」を掲げながら、その実、「大きな政府」を志向するもので、日米同盟強化、軍事力重視、憲法9条(戦争放棄、非武装、交戦権否認)改悪 ― などを目指す一方、高速道、ダム、地方空港などコンクリートづくめの無駄な公共事業にこだわり続ける。それが政権交代によって目下のところ変革の波に洗われている。
大切なのは、谷垣総裁も指摘しているように「国民生活をよくすること」にほかならない。そのためには新自由主義路線の失敗に学び、反省してきっぱりと縁を切ることである。逆に多少修正した新自由主義といえども、それに執着し続けるようでは自民党の再生はとても無理だろう。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
軍産複合体をどう封じ込めるかが課題
安原和雄
オバマ米大統領に09年ノーベル平和賞の授与が決まり、世界中に大きな波紋を広げている。大統領の「平和の実績」はまだないだけに「平和をつくる意欲」への後押しとして評価する声も大きいが、一方、疑問や批判の声もお膝元の米国内でさえ少なくない。授与対象となっている「核兵器なき世界」、「多国間外交」、「対話と交渉」、「地球の気候変動への挑戦」は、いずれも大いに後押ししたいところである。
しかしそれを阻もうとする勢力の存在を軽視してはならない。その主役は軍事力優先主義、単独行動主義、地球環境問題の無視などによって世界に大きな災厄をもたらしてきた米国軍産複合体にほかならない。オバマ大統領は、この軍産複合体を巧みに封じ込めることができるか。折角の平和賞を生かすことができるかどうかのカギがここにある。(09年10月12日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
オバマ大統領に対するノーベル平和賞授与の理由はノルウェー・ノーベル賞委員会によると、つぎの諸点である。
・オバマ氏の核なき世界に向けた理念や取り組みを重視する。核なき世界の理念は、軍縮や軍備管理交渉に力強い刺激を与えた。
・大統領として国際政治の中で新たな機運を作りだし、多国間外交が中心的な位置を取り戻した。
・紛争解決の手段として対話と交渉が優先されるようになった。
・世界が直面する気候変動の挑戦に立ち向かう上で米国はより建設的な役割を果たしている。
・オバマ氏は「今こそ、私たち全員が、グローバルな課題に対してグローバルな対応をとる責任を分かち合う時だ」と強調している。
要約すれば、「核兵器なき世界」への取り組み、「多国間外交」の推進、「対話と交渉」の優先、「気候変動」での建設的な役割、地球規模で「責任を分かち合う」姿勢 ― などである。ブッシュ前米大統領時代(軍事力優先策、単独行動主義、対話と交渉の無視、気候変動への取り組みを拒否、地球規模での無責任主義)とは異質の望ましい「変革」のリーダーシップを発揮しつつあることが高く評価された。だからこそ就任から1年もたたない政治指導者に贈られるのは「極めて異例」と言われる授与となった。
▽ 大手5紙の社説は平和賞授与をどう評したか ― 5紙ともに大きな拍手
まず5紙社説(いずれも10月10日付)の見出しはつぎの通り。
*朝日新聞社説=ノーベル平和賞 オバマ変革への深い共感
*毎日新聞社説=オバマ氏平和賞 さあ次は理想の実現だ
*読売新聞社説=ノーベル平和賞 オバマ「変革」への大きな期待
*日本経済新聞社説=「核兵器なき世界」への行動促した平和賞
*東京新聞社説=オバマ氏平和賞 理想主義へのエールだ
以上の見出しから分かるように、5紙ともにオバマ大統領への平和賞授与に「変革」への期待を寄せながら大きな拍手を送っていることが読み取れる。社説全文を一読した印象では各紙の主張内容はかなり重複しているので、ここではアフガニスタン戦争、米軍増派にどう言及しているかに限って紹介する。
〈朝日社説〉
アフガニスタン戦争も出口がなかなか見えない。ノーベル平和賞を受賞したからと言って、国際社会の複雑な利害対立が解けるわけでもない。
〈毎日社説〉
オバマ氏へのノーベル賞を苦々しく思う人々のことも忘れてはならない。中東和平は進展せず、「オバマのベトナム」とも言われるアフガニスタン情勢は悪化する一方だ。(中略)オバマ政権下で世界は平和の果実を必ずしも味わっていないのだ。
〈読売社説〉
米国が最重視するアフガニスタン情勢は混迷を深める一方だ。タリバンが攻勢を強めるなか、今後の対応については、一層の増派か戦略の転換か、政府部内でも見解が割れている。
〈日経社説〉
オバマ氏が外交の柱に掲げ米軍を増派したアフガニスタンも安定化にはほど遠い。
〈東京社説〉
就任以来、高い支持率を維持してきたオバマ政権も、最近は伸び悩みを見せている。外交政策で最大争点だったアフガニスタン紛争では、米軍増派を求める現場司令官と政府の見解が食い違いを見せ、未(いま)だに合意に達していない。
以上のように各紙ともにアフガニスタン戦争を「米国にとって悪戦苦闘の戦争」として描いている。なかでも着目すべきは毎日社説の「オバマのベトナム」という指摘である。
いうまでもなくベトナム戦争(正確には米国によるベトナム侵略戦争)はベトナム側に数百万人の犠牲者を強いる一方、米兵も約5万人が死亡するという悲劇を残して、米軍が1975年敗退した。「オバマのベトナム」とは、アフガニスタン戦争(これも正確にはアフガニスタンへの米軍を主体とする侵攻戦争)もやがてベトナム同様に侵攻軍を撤退させるほかないだろうという暗示と読める。ここではオバマ大統領は「平和の使者」どころか「戦争屋」として、折角のノーベル平和賞の名に恥じる対極に位置にある。
▽ 祝賀ムードにほど遠い米国 ― 「戦時大統領」への「平和賞」
もう一つ、冷静な観察眼で授与決定日のワシントン周辺の雰囲気をつづった記事(毎日新聞・10月10日付夕刊=東京版、ワシントン駐在の草野和彦・小松健一の両記者。見出しは「冷ややか米国世論 〈平和〉への実績これから ― アフガン増派と矛盾も」の要旨)を紹介したい。
オバマ米大統領の平和賞受賞が決まった9日、米国内の雰囲気は祝賀ムードにほど遠く、驚きと戸惑い、さらには批判の声さえも聞かれた。最大の理由は、米国民が喜びを共有できる「実績」が大統領にないためだ。「戦時大統領」への「平和賞」というイメージのギャップも大きく、支持層のリベラル派までが祝福を控えた。
大統領の受賞声明(要旨は後述・安原)を受けて始まったホワイトハウスの定例記者会見。「おめでとう」の声もなく、質疑応答では、容赦のない質問も出た。折しも政権内ではアフガニスタンへの米軍増派をめぐる議論が進行中である。
記者「大統領は受賞の辞退を考えたか」
大統領報道官「私が知る限りでは、ない」
ホワイトハウス前は、いつも通り、観光客でにぎわった。「オバマ・サポーター」の白人男性は「正直に言うと、なぜ? だね」
反戦・核軍縮の米最大規模の団体「ピース・アクション」の声明は、アフガン増派を検討する最中の受賞を「皮肉なことだ」と指摘した。受賞理由の「核兵器のない世界」についても「平和賞に値する業績がない」とし、「平和を推進する力」を示すよう求めた。
〈大統領の受賞声明〉(要点)はつぎの通り。
私はノーベル賞委員会の決定に驚き、大変謙虚な気持ちになっている。私自身が達成したことが認められたのではなく、世界中の人々が抱く希望に対する米国の指導力が確認されたものと考える。
直面するいくつかの課題は、私の任期中に完遂しないかもしれない。いくつかは核廃絶のように、私の生存中に終結しないかもしれない。
この受賞は私の政権だけのものではなく、世界中の人々の勇気に贈られたものである。私たちは正義や尊厳を分かち合わなければならない。
▽ 在日米軍基地の本拠地、沖縄の声を聴く ― 「授賞に違和感」
ここでは巨大な米軍基地の存在に苦しむ沖縄の代表的な新聞メディア、「琉球新報」社説の主張に耳を傾けたい。まず見出しを紹介する。
*琉球新報(10月11日付)=オバマ氏平和賞 米国が『核の傘』畳んでこそ 率先し模範示せば賞も輝く
以下に同紙社説の大要を紹介する。文中の「具体的な行程表必要」、「在沖基地も縮小を」は小見出しである。
バラク・オバマ米大統領へのノーベル平和賞授賞が決まった。
核保有大国の大統領に、世界を変えてもらうため一層の努力を促す狙いがあるとしても、ノーベル賞委員会の決定には違和感を覚える。
米国は今なお6万人を超える軍隊をアフガニスタンに展開し反政府武装勢力タリバンとの戦闘を続けており、イラク戦争以降駐留している米軍もまだ全面撤退に至っていないからだ。
具体的な行程表必要
オバマ大統領は今年4月、チェコの首都プラハで演説し、国家安全保障戦略における核兵器への依存度を下げ「核兵器のない世界に向けた具体的な措置を取る」と宣言、核拡散阻止や核テロ防止策も打ち出し、核の脅威に立ち向かう包括的な核構想を初めて示した。
さらに「核兵器を使用した唯一の核保有国として行動する道義的責任がある」とも言明している。オバマ氏の姿勢は画期的であり、期待が持てる。
日本としても「核廃絶」の実現に向け、強力に後押ししなければならない。
とはいえ、ノーベル平和賞は国際的な平和活動や軍縮など人類全体の平和に貢献した人物・団体に授与される賞だ。
核軍縮に後ろ向きだったブッシュ前政権から大きく舵(かじ)を切ったのは間違いないが、「人類全体の平和に貢献した」と過去形で評価するのは少々早すぎる観がある。世界を動かすトップリーダーの今後の活躍に期待したがゆえの授賞決定であるのは間違いない。オバマ氏には賞の名に恥じない行動が求められる。
そのためには、米国が保有する核兵器の廃絶に向けて具体的な行程表を示すべきだ。ロシア、英国、フランス、中国をはじめ、すべての保有国が共同歩調を取り、地球上から核兵器をなくせれば、これ以上のことはない。
率先して「核の傘」を畳み、世界に模範を示してこそ、ノーベル賞は輝きを増す。
「核兵器のない世界」を空念仏に終わらせないためには、ただ実行あるのみだ。できるだけ早く被爆地である広島、長崎を訪問し、犠牲者のみ霊に「核廃絶」を誓ってほしい。
在沖基地も縮小を
米国の大統領は、沖縄にさまざまな基地被害をもたらしている軍の最高司令官でもある。それだけに、ノーベル平和賞を単純に喜ぶわけにはいかない。
沖縄では米軍関係の事件・事故や騒音被害が後を絶たず、住民は危険な基地と隣り合わせの生活を余儀なくされている。県民の大多数が基地の整理縮小を求めているのは各種世論調査の結果を見ても明らかだ。
とりわけ、市街地の中心に位置する普天間飛行場は、駐留するヘリなどの航空機が住宅地上空を飛ばずには発着できない。危険性が高く、早急な返還・撤去が求められている。
普天間飛行場は県内ではなく県外・国外へ移すのが最善の道だ。鳩山由紀夫首相の意向を踏まえ、在日米軍再編の日米合意を抜本的に見直してもらいたい。
この問題で、オバマ政権側が「日本側の話には耳を傾けるが、日米合意の実現が基本。再交渉するつもりはない」との姿勢を示しているのは誠に遺憾だ。
軍の駐留を欲しない地域に基地を展開するのは米国にとっても決して得策でないはずだ。オバマ大統領は県民の声に真剣に耳を傾けてほしい。
ノーベル平和賞受賞を機に、戦後64年間も続いてきた米軍基地の過度な集中を是正するならば、多くの県民がもろ手を挙げて称賛するだろう。
栄えある賞を汚さないよう、大統領として正しい選択をすることを切望する。
〈安原の感想〉 ― 沖縄として当然の主張
琉球新報社説は、オバマ大統領の「核兵器を使用した唯一の核保有国として行動する道義的責任がある」(チェコの首都プラハでの演説)などの発言を「画期的」と高く評価しながらも、つぎのように率直な注文を指摘している。巨大な米軍基地を抱える沖縄ならではの当然の主張であり、願いである。
・率先して「核の傘」を畳み、世界に模範を示してこそ、ノーベル賞は輝きを増す。
・「核兵器のない世界」を空念仏に終わらせないためには、ただ実行あるのみだ。できるだけ早く被爆地である広島、長崎を訪問し、犠牲者のみ霊に「核廃絶」を誓ってほしい。
・米国の大統領は、沖縄にさまざまな基地被害をもたらしている軍の最高司令官でもある。それだけに、ノーベル平和賞を単純に喜ぶわけにはいかない。
・沖縄では米軍関係の事件・事故や騒音被害が後を絶たず、住民は危険な基地と隣り合わせの生活を余儀なくされている。県民の大多数が基地の整理縮小を求めているのは各種世論調査の結果を見ても明らかだ。
・とりわけ、市街地の中心に位置する普天間飛行場は、駐留するヘリなどの航空機が住宅地上空を飛ばずには発着できない。危険性が高く、早急な返還・撤去が求められている。
▽ 米国軍産複合体の影(1) ― オバマ政権の「変革の限界」
オバマ大統領への平和賞授与に拍手喝采を寄せるのに異議を唱えるつもりはない。ただ私(安原)にとって気がかりなのは、同大統領の〈受賞声明〉の中のつぎの指摘である。
直面するいくつかの課題は、(中略)核廃絶のように、私の生存中には終結しないかもしれない ― と。
なお(中略)以降の原文(英文)はつぎの通り。
Some, like the elimination of nuclear wepons, may not be completed in my lifetime.
これと同じ趣旨の発言は4月のプラハ演説にもあった。これは何を示唆しているのか、そこが気がかりである。多様な解釈が可能だろう。
一つは、それほど核廃絶は困難な課題だということを強調したいこと。しかし核廃絶に困難が伴うことは専門家でなくても十分予測できることであり、新時代を切り開こうとする政治家がわざわざ困難さを指摘する必要があるだろうか。
もう一つは突発事件の発生によって廃絶実現への努力が中断を余儀なくされる可能性があること。ここであのケネディ米大統領(在職中)の暗殺事件(1963年11月)を思い起こすことも可能であるだろう。ケネディ暗殺の真の背景は今なお闇に包まれたままだが、ケネディ大統領のベトナム戦争撤退の方針が軍産複合体の利害と対立していたこと、など多様な説が存在する。
私自身の解釈は、まずオバマ大統領の就任演説を思い起こすことから始めたい。こう述べた。「世界はすでに変わっており、我々もそれに合わせて変わらなければならない」と。「変革」(チェンジ)のオバマ氏にふさわしい当然の発言である。ところが就任演説の中のつぎの言葉の意味が不可解であった。「我々は責任を持ってイラクから撤退しはじめ、イラク人に国を任せる。そしてアフガニスタンに平和を築いていく」と。
問題は後半の「アフガンに平和を」の意味である。アフガンには米軍を増派する方針は当時すでに明らかになっていた。「軍事力増強によって平和を築く」という、あの陳腐な「平和のための戦争」という論理がまたもや借用されたのだ。ここだけは「変革」とは無縁であり、目下米兵のアフガンへの増派が進行中である。この増派を中止しない限り、「変革」には限界がある。その背景に何が潜んでいるのか。
私(安原)はそこに米国軍産複合体の影を観る。イラクからは軍を引くとしても、アフガンには軍の増派を進め、戦争ビジネス拡大の余地を保証しているのは、軍産複合体との取引ではないのかという印象が消えない。
▽ 米国軍産複合体の影(2) ― 複合体を封じ込めることができるか
オバマ政権と軍産複合体とはどうつながっているのか。まずオバマ政権での国防人事である。ロバート・ゲーツ国防長官がそのまま留任した。彼は米中央情報局(CIA)長官を経て、06年からブッシュ前政権の国防長官になり、今日に至っている。ジェームス・ジョーンズ大統領補佐官(国家安全保障担当)は海兵隊総司令官(大将)であった。
見逃せないのは国防総省(ペンタゴン)ナンバー2の国防副長官にウイリアム・リン元国防次官が座っている人事である。同氏は米軍需大手レイセオン社の上級副社長(政府担当)で、08年夏まで政府相手のロビー活動をしていた。これは一例にすぎないが、要するにオバマ大統領は米国軍需産業と緊密な関係にある人物をペンタゴンの枢要ポストに据えている。
さて「アイクの警告」を思い出したい。半世紀近い昔のことだが、1961年1月、アイクこと軍人出身のアイゼンハワー米大統領がその任期を全うして、ホワイトハウスを去るにあたって全国向けテレビ放送を通じて有名な告別演説を行った。
その趣旨は「アメリカ民主主義は新しい巨大で陰険な勢力によって脅威を受けている。それは〈軍産複合体〉とでも称すべき脅威であり、その影響力は全米の都市、州議会、連邦政府の各機関にまで浸透している。これは祖国がいまだかつて直面したこともない重大な脅威である」と。
軍部と産業との結合体である「軍産複合体」の構成メンバーは、今日ではホワイトハウスのほか、ペンタゴンと軍部、国務省、兵器・エレクトロニクス・エネルギー・化学などの大企業、保守的な学者・研究者・メディアを一体化した「軍産官学情報複合体」とでも称すべき巨大複合体として影響力を行使している。これが特にブッシュ前米政権下で覇権主義に基づく身勝手な単独行動主義を操り、「テロとの戦争」を口実に戦争ビジネスを拡大し、世界に大災厄をもたらしてきた元凶といっても過言ではない。オバマ的変革に抵抗し、阻むものは、この軍産複合体の存在といえよう。
日本にももちろん日本版軍産複合体が存在する。日米安保体制を軸にして米国軍産複合体と緊密に連携しており、今では米日連合軍産複合体に成長している。
オバマ大統領は「アイクの警告」を生かして、軍産複合体と一定の距離を保ち、巧みに封じ込めることができるだろうか。これに失敗すれば変革路線も肝心なところで挫折に見舞われるだろう。大きな挑戦的課題というべきだが、焦点となるべき課題は3つ ― 核と沖縄とアフガン ― である。
「核」には核兵器にとどまらず原子力発電も含まれる。その核廃絶に向かってどう進んでいくか。「沖縄」では米軍基地の整理・撤去にどう取り組むか。軍事力そのものが有効性を失っている今日、海外軍事基地に執着しているときではないだろう。「アフガン」も同様である。ベトナムの二の舞を演じないように、軍の増派ではなく、撤退こそ急務である。
オバマ大統領殿、「栄えある賞を汚さないよう、大統領として正しい選択を」(琉球新報社説)という忠言に耳を傾けて欲しい。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
オバマ米大統領に09年ノーベル平和賞の授与が決まり、世界中に大きな波紋を広げている。大統領の「平和の実績」はまだないだけに「平和をつくる意欲」への後押しとして評価する声も大きいが、一方、疑問や批判の声もお膝元の米国内でさえ少なくない。授与対象となっている「核兵器なき世界」、「多国間外交」、「対話と交渉」、「地球の気候変動への挑戦」は、いずれも大いに後押ししたいところである。
しかしそれを阻もうとする勢力の存在を軽視してはならない。その主役は軍事力優先主義、単独行動主義、地球環境問題の無視などによって世界に大きな災厄をもたらしてきた米国軍産複合体にほかならない。オバマ大統領は、この軍産複合体を巧みに封じ込めることができるか。折角の平和賞を生かすことができるかどうかのカギがここにある。(09年10月12日掲載。公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
オバマ大統領に対するノーベル平和賞授与の理由はノルウェー・ノーベル賞委員会によると、つぎの諸点である。
・オバマ氏の核なき世界に向けた理念や取り組みを重視する。核なき世界の理念は、軍縮や軍備管理交渉に力強い刺激を与えた。
・大統領として国際政治の中で新たな機運を作りだし、多国間外交が中心的な位置を取り戻した。
・紛争解決の手段として対話と交渉が優先されるようになった。
・世界が直面する気候変動の挑戦に立ち向かう上で米国はより建設的な役割を果たしている。
・オバマ氏は「今こそ、私たち全員が、グローバルな課題に対してグローバルな対応をとる責任を分かち合う時だ」と強調している。
要約すれば、「核兵器なき世界」への取り組み、「多国間外交」の推進、「対話と交渉」の優先、「気候変動」での建設的な役割、地球規模で「責任を分かち合う」姿勢 ― などである。ブッシュ前米大統領時代(軍事力優先策、単独行動主義、対話と交渉の無視、気候変動への取り組みを拒否、地球規模での無責任主義)とは異質の望ましい「変革」のリーダーシップを発揮しつつあることが高く評価された。だからこそ就任から1年もたたない政治指導者に贈られるのは「極めて異例」と言われる授与となった。
▽ 大手5紙の社説は平和賞授与をどう評したか ― 5紙ともに大きな拍手
まず5紙社説(いずれも10月10日付)の見出しはつぎの通り。
*朝日新聞社説=ノーベル平和賞 オバマ変革への深い共感
*毎日新聞社説=オバマ氏平和賞 さあ次は理想の実現だ
*読売新聞社説=ノーベル平和賞 オバマ「変革」への大きな期待
*日本経済新聞社説=「核兵器なき世界」への行動促した平和賞
*東京新聞社説=オバマ氏平和賞 理想主義へのエールだ
以上の見出しから分かるように、5紙ともにオバマ大統領への平和賞授与に「変革」への期待を寄せながら大きな拍手を送っていることが読み取れる。社説全文を一読した印象では各紙の主張内容はかなり重複しているので、ここではアフガニスタン戦争、米軍増派にどう言及しているかに限って紹介する。
〈朝日社説〉
アフガニスタン戦争も出口がなかなか見えない。ノーベル平和賞を受賞したからと言って、国際社会の複雑な利害対立が解けるわけでもない。
〈毎日社説〉
オバマ氏へのノーベル賞を苦々しく思う人々のことも忘れてはならない。中東和平は進展せず、「オバマのベトナム」とも言われるアフガニスタン情勢は悪化する一方だ。(中略)オバマ政権下で世界は平和の果実を必ずしも味わっていないのだ。
〈読売社説〉
米国が最重視するアフガニスタン情勢は混迷を深める一方だ。タリバンが攻勢を強めるなか、今後の対応については、一層の増派か戦略の転換か、政府部内でも見解が割れている。
〈日経社説〉
オバマ氏が外交の柱に掲げ米軍を増派したアフガニスタンも安定化にはほど遠い。
〈東京社説〉
就任以来、高い支持率を維持してきたオバマ政権も、最近は伸び悩みを見せている。外交政策で最大争点だったアフガニスタン紛争では、米軍増派を求める現場司令官と政府の見解が食い違いを見せ、未(いま)だに合意に達していない。
以上のように各紙ともにアフガニスタン戦争を「米国にとって悪戦苦闘の戦争」として描いている。なかでも着目すべきは毎日社説の「オバマのベトナム」という指摘である。
いうまでもなくベトナム戦争(正確には米国によるベトナム侵略戦争)はベトナム側に数百万人の犠牲者を強いる一方、米兵も約5万人が死亡するという悲劇を残して、米軍が1975年敗退した。「オバマのベトナム」とは、アフガニスタン戦争(これも正確にはアフガニスタンへの米軍を主体とする侵攻戦争)もやがてベトナム同様に侵攻軍を撤退させるほかないだろうという暗示と読める。ここではオバマ大統領は「平和の使者」どころか「戦争屋」として、折角のノーベル平和賞の名に恥じる対極に位置にある。
▽ 祝賀ムードにほど遠い米国 ― 「戦時大統領」への「平和賞」
もう一つ、冷静な観察眼で授与決定日のワシントン周辺の雰囲気をつづった記事(毎日新聞・10月10日付夕刊=東京版、ワシントン駐在の草野和彦・小松健一の両記者。見出しは「冷ややか米国世論 〈平和〉への実績これから ― アフガン増派と矛盾も」の要旨)を紹介したい。
オバマ米大統領の平和賞受賞が決まった9日、米国内の雰囲気は祝賀ムードにほど遠く、驚きと戸惑い、さらには批判の声さえも聞かれた。最大の理由は、米国民が喜びを共有できる「実績」が大統領にないためだ。「戦時大統領」への「平和賞」というイメージのギャップも大きく、支持層のリベラル派までが祝福を控えた。
大統領の受賞声明(要旨は後述・安原)を受けて始まったホワイトハウスの定例記者会見。「おめでとう」の声もなく、質疑応答では、容赦のない質問も出た。折しも政権内ではアフガニスタンへの米軍増派をめぐる議論が進行中である。
記者「大統領は受賞の辞退を考えたか」
大統領報道官「私が知る限りでは、ない」
ホワイトハウス前は、いつも通り、観光客でにぎわった。「オバマ・サポーター」の白人男性は「正直に言うと、なぜ? だね」
反戦・核軍縮の米最大規模の団体「ピース・アクション」の声明は、アフガン増派を検討する最中の受賞を「皮肉なことだ」と指摘した。受賞理由の「核兵器のない世界」についても「平和賞に値する業績がない」とし、「平和を推進する力」を示すよう求めた。
〈大統領の受賞声明〉(要点)はつぎの通り。
私はノーベル賞委員会の決定に驚き、大変謙虚な気持ちになっている。私自身が達成したことが認められたのではなく、世界中の人々が抱く希望に対する米国の指導力が確認されたものと考える。
直面するいくつかの課題は、私の任期中に完遂しないかもしれない。いくつかは核廃絶のように、私の生存中に終結しないかもしれない。
この受賞は私の政権だけのものではなく、世界中の人々の勇気に贈られたものである。私たちは正義や尊厳を分かち合わなければならない。
▽ 在日米軍基地の本拠地、沖縄の声を聴く ― 「授賞に違和感」
ここでは巨大な米軍基地の存在に苦しむ沖縄の代表的な新聞メディア、「琉球新報」社説の主張に耳を傾けたい。まず見出しを紹介する。
*琉球新報(10月11日付)=オバマ氏平和賞 米国が『核の傘』畳んでこそ 率先し模範示せば賞も輝く
以下に同紙社説の大要を紹介する。文中の「具体的な行程表必要」、「在沖基地も縮小を」は小見出しである。
バラク・オバマ米大統領へのノーベル平和賞授賞が決まった。
核保有大国の大統領に、世界を変えてもらうため一層の努力を促す狙いがあるとしても、ノーベル賞委員会の決定には違和感を覚える。
米国は今なお6万人を超える軍隊をアフガニスタンに展開し反政府武装勢力タリバンとの戦闘を続けており、イラク戦争以降駐留している米軍もまだ全面撤退に至っていないからだ。
具体的な行程表必要
オバマ大統領は今年4月、チェコの首都プラハで演説し、国家安全保障戦略における核兵器への依存度を下げ「核兵器のない世界に向けた具体的な措置を取る」と宣言、核拡散阻止や核テロ防止策も打ち出し、核の脅威に立ち向かう包括的な核構想を初めて示した。
さらに「核兵器を使用した唯一の核保有国として行動する道義的責任がある」とも言明している。オバマ氏の姿勢は画期的であり、期待が持てる。
日本としても「核廃絶」の実現に向け、強力に後押ししなければならない。
とはいえ、ノーベル平和賞は国際的な平和活動や軍縮など人類全体の平和に貢献した人物・団体に授与される賞だ。
核軍縮に後ろ向きだったブッシュ前政権から大きく舵(かじ)を切ったのは間違いないが、「人類全体の平和に貢献した」と過去形で評価するのは少々早すぎる観がある。世界を動かすトップリーダーの今後の活躍に期待したがゆえの授賞決定であるのは間違いない。オバマ氏には賞の名に恥じない行動が求められる。
そのためには、米国が保有する核兵器の廃絶に向けて具体的な行程表を示すべきだ。ロシア、英国、フランス、中国をはじめ、すべての保有国が共同歩調を取り、地球上から核兵器をなくせれば、これ以上のことはない。
率先して「核の傘」を畳み、世界に模範を示してこそ、ノーベル賞は輝きを増す。
「核兵器のない世界」を空念仏に終わらせないためには、ただ実行あるのみだ。できるだけ早く被爆地である広島、長崎を訪問し、犠牲者のみ霊に「核廃絶」を誓ってほしい。
在沖基地も縮小を
米国の大統領は、沖縄にさまざまな基地被害をもたらしている軍の最高司令官でもある。それだけに、ノーベル平和賞を単純に喜ぶわけにはいかない。
沖縄では米軍関係の事件・事故や騒音被害が後を絶たず、住民は危険な基地と隣り合わせの生活を余儀なくされている。県民の大多数が基地の整理縮小を求めているのは各種世論調査の結果を見ても明らかだ。
とりわけ、市街地の中心に位置する普天間飛行場は、駐留するヘリなどの航空機が住宅地上空を飛ばずには発着できない。危険性が高く、早急な返還・撤去が求められている。
普天間飛行場は県内ではなく県外・国外へ移すのが最善の道だ。鳩山由紀夫首相の意向を踏まえ、在日米軍再編の日米合意を抜本的に見直してもらいたい。
この問題で、オバマ政権側が「日本側の話には耳を傾けるが、日米合意の実現が基本。再交渉するつもりはない」との姿勢を示しているのは誠に遺憾だ。
軍の駐留を欲しない地域に基地を展開するのは米国にとっても決して得策でないはずだ。オバマ大統領は県民の声に真剣に耳を傾けてほしい。
ノーベル平和賞受賞を機に、戦後64年間も続いてきた米軍基地の過度な集中を是正するならば、多くの県民がもろ手を挙げて称賛するだろう。
栄えある賞を汚さないよう、大統領として正しい選択をすることを切望する。
〈安原の感想〉 ― 沖縄として当然の主張
琉球新報社説は、オバマ大統領の「核兵器を使用した唯一の核保有国として行動する道義的責任がある」(チェコの首都プラハでの演説)などの発言を「画期的」と高く評価しながらも、つぎのように率直な注文を指摘している。巨大な米軍基地を抱える沖縄ならではの当然の主張であり、願いである。
・率先して「核の傘」を畳み、世界に模範を示してこそ、ノーベル賞は輝きを増す。
・「核兵器のない世界」を空念仏に終わらせないためには、ただ実行あるのみだ。できるだけ早く被爆地である広島、長崎を訪問し、犠牲者のみ霊に「核廃絶」を誓ってほしい。
・米国の大統領は、沖縄にさまざまな基地被害をもたらしている軍の最高司令官でもある。それだけに、ノーベル平和賞を単純に喜ぶわけにはいかない。
・沖縄では米軍関係の事件・事故や騒音被害が後を絶たず、住民は危険な基地と隣り合わせの生活を余儀なくされている。県民の大多数が基地の整理縮小を求めているのは各種世論調査の結果を見ても明らかだ。
・とりわけ、市街地の中心に位置する普天間飛行場は、駐留するヘリなどの航空機が住宅地上空を飛ばずには発着できない。危険性が高く、早急な返還・撤去が求められている。
▽ 米国軍産複合体の影(1) ― オバマ政権の「変革の限界」
オバマ大統領への平和賞授与に拍手喝采を寄せるのに異議を唱えるつもりはない。ただ私(安原)にとって気がかりなのは、同大統領の〈受賞声明〉の中のつぎの指摘である。
直面するいくつかの課題は、(中略)核廃絶のように、私の生存中には終結しないかもしれない ― と。
なお(中略)以降の原文(英文)はつぎの通り。
Some, like the elimination of nuclear wepons, may not be completed in my lifetime.
これと同じ趣旨の発言は4月のプラハ演説にもあった。これは何を示唆しているのか、そこが気がかりである。多様な解釈が可能だろう。
一つは、それほど核廃絶は困難な課題だということを強調したいこと。しかし核廃絶に困難が伴うことは専門家でなくても十分予測できることであり、新時代を切り開こうとする政治家がわざわざ困難さを指摘する必要があるだろうか。
もう一つは突発事件の発生によって廃絶実現への努力が中断を余儀なくされる可能性があること。ここであのケネディ米大統領(在職中)の暗殺事件(1963年11月)を思い起こすことも可能であるだろう。ケネディ暗殺の真の背景は今なお闇に包まれたままだが、ケネディ大統領のベトナム戦争撤退の方針が軍産複合体の利害と対立していたこと、など多様な説が存在する。
私自身の解釈は、まずオバマ大統領の就任演説を思い起こすことから始めたい。こう述べた。「世界はすでに変わっており、我々もそれに合わせて変わらなければならない」と。「変革」(チェンジ)のオバマ氏にふさわしい当然の発言である。ところが就任演説の中のつぎの言葉の意味が不可解であった。「我々は責任を持ってイラクから撤退しはじめ、イラク人に国を任せる。そしてアフガニスタンに平和を築いていく」と。
問題は後半の「アフガンに平和を」の意味である。アフガンには米軍を増派する方針は当時すでに明らかになっていた。「軍事力増強によって平和を築く」という、あの陳腐な「平和のための戦争」という論理がまたもや借用されたのだ。ここだけは「変革」とは無縁であり、目下米兵のアフガンへの増派が進行中である。この増派を中止しない限り、「変革」には限界がある。その背景に何が潜んでいるのか。
私(安原)はそこに米国軍産複合体の影を観る。イラクからは軍を引くとしても、アフガンには軍の増派を進め、戦争ビジネス拡大の余地を保証しているのは、軍産複合体との取引ではないのかという印象が消えない。
▽ 米国軍産複合体の影(2) ― 複合体を封じ込めることができるか
オバマ政権と軍産複合体とはどうつながっているのか。まずオバマ政権での国防人事である。ロバート・ゲーツ国防長官がそのまま留任した。彼は米中央情報局(CIA)長官を経て、06年からブッシュ前政権の国防長官になり、今日に至っている。ジェームス・ジョーンズ大統領補佐官(国家安全保障担当)は海兵隊総司令官(大将)であった。
見逃せないのは国防総省(ペンタゴン)ナンバー2の国防副長官にウイリアム・リン元国防次官が座っている人事である。同氏は米軍需大手レイセオン社の上級副社長(政府担当)で、08年夏まで政府相手のロビー活動をしていた。これは一例にすぎないが、要するにオバマ大統領は米国軍需産業と緊密な関係にある人物をペンタゴンの枢要ポストに据えている。
さて「アイクの警告」を思い出したい。半世紀近い昔のことだが、1961年1月、アイクこと軍人出身のアイゼンハワー米大統領がその任期を全うして、ホワイトハウスを去るにあたって全国向けテレビ放送を通じて有名な告別演説を行った。
その趣旨は「アメリカ民主主義は新しい巨大で陰険な勢力によって脅威を受けている。それは〈軍産複合体〉とでも称すべき脅威であり、その影響力は全米の都市、州議会、連邦政府の各機関にまで浸透している。これは祖国がいまだかつて直面したこともない重大な脅威である」と。
軍部と産業との結合体である「軍産複合体」の構成メンバーは、今日ではホワイトハウスのほか、ペンタゴンと軍部、国務省、兵器・エレクトロニクス・エネルギー・化学などの大企業、保守的な学者・研究者・メディアを一体化した「軍産官学情報複合体」とでも称すべき巨大複合体として影響力を行使している。これが特にブッシュ前米政権下で覇権主義に基づく身勝手な単独行動主義を操り、「テロとの戦争」を口実に戦争ビジネスを拡大し、世界に大災厄をもたらしてきた元凶といっても過言ではない。オバマ的変革に抵抗し、阻むものは、この軍産複合体の存在といえよう。
日本にももちろん日本版軍産複合体が存在する。日米安保体制を軸にして米国軍産複合体と緊密に連携しており、今では米日連合軍産複合体に成長している。
オバマ大統領は「アイクの警告」を生かして、軍産複合体と一定の距離を保ち、巧みに封じ込めることができるだろうか。これに失敗すれば変革路線も肝心なところで挫折に見舞われるだろう。大きな挑戦的課題というべきだが、焦点となるべき課題は3つ ― 核と沖縄とアフガン ― である。
「核」には核兵器にとどまらず原子力発電も含まれる。その核廃絶に向かってどう進んでいくか。「沖縄」では米軍基地の整理・撤去にどう取り組むか。軍事力そのものが有効性を失っている今日、海外軍事基地に執着しているときではないだろう。「アフガン」も同様である。ベトナムの二の舞を演じないように、軍の増派ではなく、撤退こそ急務である。
オバマ大統領殿、「栄えある賞を汚さないよう、大統領として正しい選択を」(琉球新報社説)という忠言に耳を傾けて欲しい。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
歴史的景勝地に車社会は似合わない
安原和雄
瀬戸内海・鞆の浦の景観を「国民の財産」と認定した広島地裁判決が大きな波紋を広げている。争点は歴史的景観の保護か、それとも車社会の利便性重視かであったが、原告側が訴えた「景観の保護」に軍配が上がった。高く評価すべき歴史的判決である。
排ガスを大量に撒きながら自家用車が走り回る車社会そのものがすでに時代遅れである。そういう車社会は、なかでも歴史的景勝地には似合わない時代の到来と受け止めたい。観光地を車で忙しげに回っているクルマ依存症の人々が少なくないが、殊に歴史的景勝地であれば、ゆっくり歩きながら、その文化的価値を玩味したい。歩く価値の再生を今回の判決は示唆している。(09年10月7日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽新聞社説は「鞆の浦」判決をどう評価しているか
広島地裁(能勢顕男裁判長)が09年10月1日言い渡した判決「瀬戸内海の景勝地・鞆(とも)の浦(広島県福山市)の埋め立て・架橋計画は認めない」について大手5紙の社説はどう主張したか。まず各紙社説の見出しを紹介する。
*毎日新聞(10月2日付)=鞆の浦判決 町づくりに景観生かせ
*日経新聞(10月2日付)=景観損ねる公共事業にはノーと言える
*東京新聞(10月2日付)=『鞆の浦』勝訴 ポニョも喜んでいる
*読売新聞(10月3日付)=「鞆の浦」判決 景観保護と地域振興の両立を
*朝日新聞(10月5日付)=「鞆の浦」判決 景観利益を根付かせたい
5紙社説の要点をごく簡単に紹介すると、以下の通り。
〈毎日社説〉=鞆の浦の埋め立て・架橋計画について、広島地裁が原告住民の訴えを認め、県知事に埋め立て免許を出さないよう命じた。「景観利益の保護」を理由に公共事業を着工前に差し止めた初めての判決だ。ひとたび景観が破壊されれば「これを復元することは不可能」と判断した。「動き出したら止まらない」とされてきた開発行政のあり方に一石を投じるものとして評価したい。
町づくりの主人公はあくまで住民である。景観か利便性かの二項対立に終わらせず、判決を契機とし、新しい発想で議論を深めてほしい。
〈日経社説〉=近年、景観を守ることへの社会的関心が高まっている。判決はその流れを一歩進め、民間の高層建築などだけでなく公共事業も景観保全のため中止の対象になる場合があることを法的に認めた。私たちの価値観にも沿ったものとして評価したい。
判決は鞆の浦の景観を「国民の財産というべき公共の利益」と認める一方、渋滞解消など事業の必要性については「調査・検討が不十分」と断じた。そのうえで景観への損害と事業によって得られる利益を比較し、事業は不合理であり行政の裁量権の逸脱にあたると結論づけた。
〈東京社説〉=鞆の浦。昨年大ヒットした宮崎駿監督のアニメ映画「崖(がけ)の上のポニョ」の舞台になった。その海や町並みの歴史的景観価値が司法のお墨付きを得た。ポニョもきっと喜んでいる。
歴史的景観価値の重要性は、世界遺産ブームを見れば明らかだ。ドイツ・ドレスデンのエルベ渓谷は、架橋のために世界遺産の登録を抹消された。観光価値だけではない。ソウル市の中心を流れる清渓川は、上を覆った高架道路を取り外し、暗渠(あんきょ)から自然河川に復元されて市民の憩いの場になった。景観重視は世界の流れだ。
〈読売社説〉=鞆の浦の街路は、車がすれ違えないほど狭い所が多く、観光客の車などで混雑が深刻だ。人口は減り、高齢化も進んでいる。
県と市の開発計画は、港を横切る海上のバイパス橋で交通難を解消し、湾岸の埋め立て地に観光客用の駐車場やフェリーふ頭を整備し、地域の活性化を図ろうというものだ。
山側にトンネルを通す代替案もあるという。「歴史的、文化的価値を有する国民の財産」である景観を保全しながら、地域を振興させていく。難しい課題だが、これを実現するために、自治体は計画を再検討することも必要ではないだろうか。
〈朝日社説〉=政権交代の結果、「いったん動き出したら止まらない」といわれてきた大型公共事業の見直しが進行中だ。今回の判決はそうした流れを加速させることにもなるだろう。市民には敷居が高いと批判されてきた行政訴訟が様変わりしたことにも注目したい。公共事業を事前に差し止める訴えができるようになったのも、司法改革の一環で行政事件訴訟法が改正されたからだ。住民の意思を早い段階から行政に反映させるために、こうした仕組みをもっと活用したい。
開発重視から景観保全へ。かけがえのない景観は地元を潤す観光資源にもなる。
▽鞆の浦の歴史的景観価値のイメージ
以上の社説を読む限り、いずれも鞆の浦の景観について判決が打ち出した「歴史的、文化的価値を有する国民の財産」、「国民の財産というべき公共の利益」、「景観利益の保護」という判断を高く評価している。東京社説の「歴史的景観価値の重要性は、世界遺産ブームを見れば明らかだ」という指摘からも分かるように、それが21世紀の時代の要請とも合致しているという認識を共有するときである。
そのためにもここで改めて、鞆の浦の歴史的景観価値とは何か、そのイメージを整理しておきたい。
各紙の記事からつぎの諸点を挙げることができる。
・万葉集にも詠まれた景勝地であること。大伴旅人の「吾妹子(わぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」など8首が万葉集に残っていること
・古くから「潮待ちの港」として栄え、江戸時代に寄港した朝鮮通信使が「日本で最も美しい」とたたえた港町であること
・階段状になった船着き場の雁木(がんぎ)、常夜燈、波止、船の修理をした焚場(たでば)、船番所という、近世の港を特徴づける五つの要素すべてが残る日本で唯一の港であること
・対岸の島々が織りなす瀬戸内の穏やかな風景は、盲目の箏曲演奏家・作曲家、宮城道雄(1894〜1956年)の代表曲「春の海」のモチーフになったこと
以上のように列挙してみると、世界遺産の選定に影響力を持つとされるユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議」(イコモス)が「国際的な文化遺産の宝庫」と折り紙を付けて、埋め立て・架橋計画の中止を求める勧告を2度も決議しているのも「なるほど」とうなずける。
そもそも広島県、福山市による埋め立て・架橋計画はなぜ持ち上がったのか。各紙社説も指摘しているが、ここでは読売社説を引用する。
「鞆の浦の街路は、車がすれ違えないほど狭い所が多く、観光客の車などで混雑が深刻だ。県と市の開発計画は、港を横切る海上のバイパス橋で交通難を解消し、湾岸の埋め立て地に観光客用の駐車場やフェリーふ頭を整備し、地域の活性化を図ろうというものだ」と。
要するに鞆の浦の交通渋滞を緩和し、車社会の利便性を高めるために湾岸埋め立てや架橋が必要だというもので、これに対して「鞆の浦の景観を守ろう」という反対運動が広がった。
▽景勝地に車社会は似合わない(1) ― 利便性にこだわるのは疑問
画期的な判決後の展望はどうか。毎日社説はつぎのように指摘している。「町づくりの主人公はあくまで住民である。景観か利便性かの二項対立に終わらせず、判決を契機とし、新しい発想で議論を深めてほしい」と。
この主張は、景観の価値保存と車社会の利便性をどう両立させるか、議論してほしいと言っているにすぎない。どうすべきかという具体的な提案はない。昨今の各紙の新聞社説の多くは、材料の提供や分析はあっても、ではどうしたらいいのかという改革のための提案が少ない。肝心なところを逃げている。これでは多様なメディアのなかで「主張する新聞」としての存在価値は低下していくほかないだろう。
結論を先に言えば、私(安原)は歴史的景勝地に車社会は似合わない、と考える。こういう視点がメディアの多くに欠落している。有り体に言えば、景勝地では車社会としての石油文明の利便性を高めることにこだわるのは疑問、と言いたい。
広島地裁判決文はつぎのように指摘している。
・道路整備効果について
調査は不十分である。県知事がコンサルタントの推計結果のみに依拠して、埋め立て架橋案の道路整備効果を判断するのは、合理性を欠く。
・駐車場の整備について
駐車場確保を目的として埋め立てをしようとするのは、鞆の景観の価値をあまりに過小評価し、これを保全しようとする行政課題を軽視したものというべきである。
日経社説は、つぎのように書いている。
判決は、渋滞解消など事業の必要性については「調査・検討が不十分」と断じた ― と。要するに交通渋滞の解消を目指す架橋工事や駐車場設置のための埋め立ての効果を認めない判決ということだろう。いいかえれば、歴史的な景勝地で排ガスをまき散らしながら自動車を乗り回す時代ではもはやないという趣旨の判決とも読みとれる。
現下の自家用自動車中心の車社会の展望については、私はその終わりが始まりつつあると認識している。その基本的背景として我が国の総合交通体系をどう再編成していくかという課題がある。具体的には現在の車中心の交通体系から鉄道、バス、路面電車、自転車、徒歩などを組み合わせた新しい交通体系に改革していくことである。
自家用車中心の社会が時代遅れになってきたのは、その弊害が大きすぎるからである。地球温暖化を進める二酸化炭素(CO2)の排出量が交通手段の中で最多であること、交通事故による死傷者数は年間100万人(うち死者は約6000人)を超えていること ― などのためだけではない。石油エネルギーが枯渇に向かいつつあることも軽視できない。
車依存症のため、多くの人があまり歩かなくなって、寝たきり候補者が増えている。将来の寝たきりを希望する人は居ないはずで、自分自身の健康のためにも、日常的な徒歩を重視したい。
厚生労働省によると、09年9月15日現在の100歳以上の高齢者数は、4万399人(男性5447人、女性3万4952人)と初めて4万人を突破した。
男性の最高齢者、木村次郎右衛門さん(112歳)は、「定年退職後は90歳ごろまで田畑を耕す生活を送り、現在は毎日、縁側で自転車をこぐ動作を100回続けている」と伝えられる。「足を使って元気な毎日を」がモットーであり、車依存症への警告と受け止めたい。
▽景勝地に車社会は似合わない(2) ― 歩いて文化価値を玩味しよう
景勝地における歴史的文化的価値も歩きながら玩味する時代とはいえないか。
例えば小樽市の運河は観光価値としても名高い。私が訪ねたのは20年も昔だが、運河を景観として残すか、それとも埋め立てして道路を拡幅し、自動車時代に備えるかをめぐって大論議の末、運河を残すことになったと聞いた。その運河のお陰で観光都市として成長している。
詩人、作家として著名な島崎藤村(1872〜1943年)の生地、馬籠(まごめ・長野県)も訪ねてから15年以上も経つが、藤村の記念館がある通りは車走行禁止であったことが印象に残っている。自由に車が走れるようでは今頃は閑古鳥が鳴いているのではないか。
天下の景勝地として多くの人が訪れる上高地(長野県)にしても同じである。観光バス以外の車は乗り入れ禁止となっている。だからこそ魅力を保ち続けているのだろう。改めて訪ねてみたいと思案している。
鞆の浦は居住者が多いという点では小樽市と似ている。上高地などと同類として観察するわけにはいかないだろう。しかし私(安原)事になるが、車が乱暴に走り回るような鞆の浦には魅力を感じないし、訪ねる気もしない。
実を言うと、私は鞆の浦には何度も訪ねたことがある。JR福山駅からバスで鞆へ行き、町内を歩きながら歴史的景観を含めて名所を回る。それほど広い街ではないので、車に頼る必要はない。歩くことで十分堪能できる。観光客も歩くことを原則にして、街への出入りはバスに限るような手だてを工夫する必要もあるのではないか。その方が景勝地としての価値も一段と高まるに違いない。
テレビで見る限り、広島県や福山市の埋め立て・架橋計画の担当者は「事業は続行」と判決後もこだわっているが、何のためなのか。名目は「車利用の利便性」で、実体は公共事業につきものの政官業三者による癒着と利権構造が仮にも絡んでいるとすれば、将来、「歴史的景観」転じて、見向きもされない「廃墟」と化す恐れも少なくないことを指摘しておきたい。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
瀬戸内海・鞆の浦の景観を「国民の財産」と認定した広島地裁判決が大きな波紋を広げている。争点は歴史的景観の保護か、それとも車社会の利便性重視かであったが、原告側が訴えた「景観の保護」に軍配が上がった。高く評価すべき歴史的判決である。
排ガスを大量に撒きながら自家用車が走り回る車社会そのものがすでに時代遅れである。そういう車社会は、なかでも歴史的景勝地には似合わない時代の到来と受け止めたい。観光地を車で忙しげに回っているクルマ依存症の人々が少なくないが、殊に歴史的景勝地であれば、ゆっくり歩きながら、その文化的価値を玩味したい。歩く価値の再生を今回の判決は示唆している。(09年10月7日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽新聞社説は「鞆の浦」判決をどう評価しているか
広島地裁(能勢顕男裁判長)が09年10月1日言い渡した判決「瀬戸内海の景勝地・鞆(とも)の浦(広島県福山市)の埋め立て・架橋計画は認めない」について大手5紙の社説はどう主張したか。まず各紙社説の見出しを紹介する。
*毎日新聞(10月2日付)=鞆の浦判決 町づくりに景観生かせ
*日経新聞(10月2日付)=景観損ねる公共事業にはノーと言える
*東京新聞(10月2日付)=『鞆の浦』勝訴 ポニョも喜んでいる
*読売新聞(10月3日付)=「鞆の浦」判決 景観保護と地域振興の両立を
*朝日新聞(10月5日付)=「鞆の浦」判決 景観利益を根付かせたい
5紙社説の要点をごく簡単に紹介すると、以下の通り。
〈毎日社説〉=鞆の浦の埋め立て・架橋計画について、広島地裁が原告住民の訴えを認め、県知事に埋め立て免許を出さないよう命じた。「景観利益の保護」を理由に公共事業を着工前に差し止めた初めての判決だ。ひとたび景観が破壊されれば「これを復元することは不可能」と判断した。「動き出したら止まらない」とされてきた開発行政のあり方に一石を投じるものとして評価したい。
町づくりの主人公はあくまで住民である。景観か利便性かの二項対立に終わらせず、判決を契機とし、新しい発想で議論を深めてほしい。
〈日経社説〉=近年、景観を守ることへの社会的関心が高まっている。判決はその流れを一歩進め、民間の高層建築などだけでなく公共事業も景観保全のため中止の対象になる場合があることを法的に認めた。私たちの価値観にも沿ったものとして評価したい。
判決は鞆の浦の景観を「国民の財産というべき公共の利益」と認める一方、渋滞解消など事業の必要性については「調査・検討が不十分」と断じた。そのうえで景観への損害と事業によって得られる利益を比較し、事業は不合理であり行政の裁量権の逸脱にあたると結論づけた。
〈東京社説〉=鞆の浦。昨年大ヒットした宮崎駿監督のアニメ映画「崖(がけ)の上のポニョ」の舞台になった。その海や町並みの歴史的景観価値が司法のお墨付きを得た。ポニョもきっと喜んでいる。
歴史的景観価値の重要性は、世界遺産ブームを見れば明らかだ。ドイツ・ドレスデンのエルベ渓谷は、架橋のために世界遺産の登録を抹消された。観光価値だけではない。ソウル市の中心を流れる清渓川は、上を覆った高架道路を取り外し、暗渠(あんきょ)から自然河川に復元されて市民の憩いの場になった。景観重視は世界の流れだ。
〈読売社説〉=鞆の浦の街路は、車がすれ違えないほど狭い所が多く、観光客の車などで混雑が深刻だ。人口は減り、高齢化も進んでいる。
県と市の開発計画は、港を横切る海上のバイパス橋で交通難を解消し、湾岸の埋め立て地に観光客用の駐車場やフェリーふ頭を整備し、地域の活性化を図ろうというものだ。
山側にトンネルを通す代替案もあるという。「歴史的、文化的価値を有する国民の財産」である景観を保全しながら、地域を振興させていく。難しい課題だが、これを実現するために、自治体は計画を再検討することも必要ではないだろうか。
〈朝日社説〉=政権交代の結果、「いったん動き出したら止まらない」といわれてきた大型公共事業の見直しが進行中だ。今回の判決はそうした流れを加速させることにもなるだろう。市民には敷居が高いと批判されてきた行政訴訟が様変わりしたことにも注目したい。公共事業を事前に差し止める訴えができるようになったのも、司法改革の一環で行政事件訴訟法が改正されたからだ。住民の意思を早い段階から行政に反映させるために、こうした仕組みをもっと活用したい。
開発重視から景観保全へ。かけがえのない景観は地元を潤す観光資源にもなる。
▽鞆の浦の歴史的景観価値のイメージ
以上の社説を読む限り、いずれも鞆の浦の景観について判決が打ち出した「歴史的、文化的価値を有する国民の財産」、「国民の財産というべき公共の利益」、「景観利益の保護」という判断を高く評価している。東京社説の「歴史的景観価値の重要性は、世界遺産ブームを見れば明らかだ」という指摘からも分かるように、それが21世紀の時代の要請とも合致しているという認識を共有するときである。
そのためにもここで改めて、鞆の浦の歴史的景観価値とは何か、そのイメージを整理しておきたい。
各紙の記事からつぎの諸点を挙げることができる。
・万葉集にも詠まれた景勝地であること。大伴旅人の「吾妹子(わぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」など8首が万葉集に残っていること
・古くから「潮待ちの港」として栄え、江戸時代に寄港した朝鮮通信使が「日本で最も美しい」とたたえた港町であること
・階段状になった船着き場の雁木(がんぎ)、常夜燈、波止、船の修理をした焚場(たでば)、船番所という、近世の港を特徴づける五つの要素すべてが残る日本で唯一の港であること
・対岸の島々が織りなす瀬戸内の穏やかな風景は、盲目の箏曲演奏家・作曲家、宮城道雄(1894〜1956年)の代表曲「春の海」のモチーフになったこと
以上のように列挙してみると、世界遺産の選定に影響力を持つとされるユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議」(イコモス)が「国際的な文化遺産の宝庫」と折り紙を付けて、埋め立て・架橋計画の中止を求める勧告を2度も決議しているのも「なるほど」とうなずける。
そもそも広島県、福山市による埋め立て・架橋計画はなぜ持ち上がったのか。各紙社説も指摘しているが、ここでは読売社説を引用する。
「鞆の浦の街路は、車がすれ違えないほど狭い所が多く、観光客の車などで混雑が深刻だ。県と市の開発計画は、港を横切る海上のバイパス橋で交通難を解消し、湾岸の埋め立て地に観光客用の駐車場やフェリーふ頭を整備し、地域の活性化を図ろうというものだ」と。
要するに鞆の浦の交通渋滞を緩和し、車社会の利便性を高めるために湾岸埋め立てや架橋が必要だというもので、これに対して「鞆の浦の景観を守ろう」という反対運動が広がった。
▽景勝地に車社会は似合わない(1) ― 利便性にこだわるのは疑問
画期的な判決後の展望はどうか。毎日社説はつぎのように指摘している。「町づくりの主人公はあくまで住民である。景観か利便性かの二項対立に終わらせず、判決を契機とし、新しい発想で議論を深めてほしい」と。
この主張は、景観の価値保存と車社会の利便性をどう両立させるか、議論してほしいと言っているにすぎない。どうすべきかという具体的な提案はない。昨今の各紙の新聞社説の多くは、材料の提供や分析はあっても、ではどうしたらいいのかという改革のための提案が少ない。肝心なところを逃げている。これでは多様なメディアのなかで「主張する新聞」としての存在価値は低下していくほかないだろう。
結論を先に言えば、私(安原)は歴史的景勝地に車社会は似合わない、と考える。こういう視点がメディアの多くに欠落している。有り体に言えば、景勝地では車社会としての石油文明の利便性を高めることにこだわるのは疑問、と言いたい。
広島地裁判決文はつぎのように指摘している。
・道路整備効果について
調査は不十分である。県知事がコンサルタントの推計結果のみに依拠して、埋め立て架橋案の道路整備効果を判断するのは、合理性を欠く。
・駐車場の整備について
駐車場確保を目的として埋め立てをしようとするのは、鞆の景観の価値をあまりに過小評価し、これを保全しようとする行政課題を軽視したものというべきである。
日経社説は、つぎのように書いている。
判決は、渋滞解消など事業の必要性については「調査・検討が不十分」と断じた ― と。要するに交通渋滞の解消を目指す架橋工事や駐車場設置のための埋め立ての効果を認めない判決ということだろう。いいかえれば、歴史的な景勝地で排ガスをまき散らしながら自動車を乗り回す時代ではもはやないという趣旨の判決とも読みとれる。
現下の自家用自動車中心の車社会の展望については、私はその終わりが始まりつつあると認識している。その基本的背景として我が国の総合交通体系をどう再編成していくかという課題がある。具体的には現在の車中心の交通体系から鉄道、バス、路面電車、自転車、徒歩などを組み合わせた新しい交通体系に改革していくことである。
自家用車中心の社会が時代遅れになってきたのは、その弊害が大きすぎるからである。地球温暖化を進める二酸化炭素(CO2)の排出量が交通手段の中で最多であること、交通事故による死傷者数は年間100万人(うち死者は約6000人)を超えていること ― などのためだけではない。石油エネルギーが枯渇に向かいつつあることも軽視できない。
車依存症のため、多くの人があまり歩かなくなって、寝たきり候補者が増えている。将来の寝たきりを希望する人は居ないはずで、自分自身の健康のためにも、日常的な徒歩を重視したい。
厚生労働省によると、09年9月15日現在の100歳以上の高齢者数は、4万399人(男性5447人、女性3万4952人)と初めて4万人を突破した。
男性の最高齢者、木村次郎右衛門さん(112歳)は、「定年退職後は90歳ごろまで田畑を耕す生活を送り、現在は毎日、縁側で自転車をこぐ動作を100回続けている」と伝えられる。「足を使って元気な毎日を」がモットーであり、車依存症への警告と受け止めたい。
▽景勝地に車社会は似合わない(2) ― 歩いて文化価値を玩味しよう
景勝地における歴史的文化的価値も歩きながら玩味する時代とはいえないか。
例えば小樽市の運河は観光価値としても名高い。私が訪ねたのは20年も昔だが、運河を景観として残すか、それとも埋め立てして道路を拡幅し、自動車時代に備えるかをめぐって大論議の末、運河を残すことになったと聞いた。その運河のお陰で観光都市として成長している。
詩人、作家として著名な島崎藤村(1872〜1943年)の生地、馬籠(まごめ・長野県)も訪ねてから15年以上も経つが、藤村の記念館がある通りは車走行禁止であったことが印象に残っている。自由に車が走れるようでは今頃は閑古鳥が鳴いているのではないか。
天下の景勝地として多くの人が訪れる上高地(長野県)にしても同じである。観光バス以外の車は乗り入れ禁止となっている。だからこそ魅力を保ち続けているのだろう。改めて訪ねてみたいと思案している。
鞆の浦は居住者が多いという点では小樽市と似ている。上高地などと同類として観察するわけにはいかないだろう。しかし私(安原)事になるが、車が乱暴に走り回るような鞆の浦には魅力を感じないし、訪ねる気もしない。
実を言うと、私は鞆の浦には何度も訪ねたことがある。JR福山駅からバスで鞆へ行き、町内を歩きながら歴史的景観を含めて名所を回る。それほど広い街ではないので、車に頼る必要はない。歩くことで十分堪能できる。観光客も歩くことを原則にして、街への出入りはバスに限るような手だてを工夫する必要もあるのではないか。その方が景勝地としての価値も一段と高まるに違いない。
テレビで見る限り、広島県や福山市の埋め立て・架橋計画の担当者は「事業は続行」と判決後もこだわっているが、何のためなのか。名目は「車利用の利便性」で、実体は公共事業につきものの政官業三者による癒着と利権構造が仮にも絡んでいるとすれば、将来、「歴史的景観」転じて、見向きもされない「廃墟」と化す恐れも少なくないことを指摘しておきたい。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
「始めたら止まらぬ」悪弊の一掃を
安原和雄
「過(あやま)ちては改むるに憚(はばか)ることなかれ」とは、論語の言葉である。しかしこの「過ちをためらわないで改める」ことを実践するのがいかに難しいかを考えさせる具体例が民主党連立政権が打ち出した八ツ場ダム建設中止問題である。
ここには「いったん動き出したら止まらない」大型公共事業の悪弊がひそんでいる。こういう悪弊を一掃するためにもダム建設は中止するときである。そのダムが用をなさず時代錯誤と化しているからには建設中止は当然のことである。遅きに失したともいえるが、過ちを続けるよりは評価に値する選択である。(09年10月1日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ ダム建設中止を新聞社説はどう論じたか
民主党連立政権が打ち出した八ツ場(やんば)ダム(群馬県)建設中止問題について、新聞社説はどう論じているか。大手新聞社説の見出しと主張の内容を紹介しよう。
*朝日新聞(9月18日付)=八ツ場ダム 新政権の力量を見せよ
*毎日新聞(9月23日付)=八ッ場ダム中止 時代錯誤正す「象徴」に
*読売新聞(9月24日付)=八ッ場ダム中止 公約至上主義には無理がある
朝日社説は、「八ツ場ダムなどの建設中止は、全国で約140の計画中や建設中のダムにも影響を及ぼすだろう。しかし、問題はダムに、さらには公共事業だけにとどまらない。政権が代わったことを国民が実感できるか。矢継ぎ早に新政策を繰り出す鳩山政権の力量が試されている」と論じた。
一方、読売社説は見出しの「公約至上主義には無理がある」からも分かるように中止に批判的であり、「周辺1都5県も建設続行を求めている。公約に掲げたからといって、中止を強行できる状況ではない」と主張している。
毎日社説は、見出しにあるようにダム中止を「時代錯誤正す象徴」としてとらえている。腰の据わった正論というべきであり、以下、要点を少し詳しく紹介したい。
・計画から半世紀以上、住民を翻(ほん)弄(ろう)し苦しめてきたことを謝罪するとともに、中止の理由について意を尽くして説き、不安を取り除くのは政治の責任である。
・時代にあわない大型公共事業への固執がどんな問題を招くかを広く知ってもらい、こうした時代錯誤を終わりにすることをはっきり示す「象徴」としてほしい。
・治水と利水を兼ねた八ッ場ダム計画は、1947年の台風による利根川決壊で浮上した。吾妻川沿いの温泉街をはじめ340戸の水没が前提で、首都圏住民のための犠牲を強いられる地元に激しい反対運動が続いた。苦渋の末、地元が同意に傾いたのは90年代に入ってからだ。時間がかかったため事業費は当初の2倍以上の4600億円に膨らんだ。
・この間、首都圏の水需要は減少傾向にあり、洪水対策としてのダムの有効性に疑問が示された。しかし、そもそもの目的が疑わしくなり、悪影響が指摘されながら完成した長良川河口堰(ぜき)、諫早湾干拓、岐阜県の徳山ダムを追うように、ダム湖をまたぐ高架道路、移転住民のための用地造成などが進み、ダム本体の着工を残すだけになった。まさに「いったん動き出したら止まらない」大型公共事業の典型である。
・これ(中止)に対して利水・治水のため建設費を負担してきた1都5県の知事は「何が何でも推進していただきたい」(大澤正明・群馬県知事)などと異論を唱えている。すでに約3200億円を投じており、計画通りならあと約1400億円で完成する。中止の場合は、自治体の負担金約2000億円の返還を迫られ、770億円の生活再建関連事業も必要になるだろう。ダム完成後の維持費(年間10億円弱)を差し引いても数百億円高くつく。単純に考えれば、このまま工事を進めた方が得である。
・だが、八ッ場だけの損得を論じても意味はない。全国で計画・建設中の約140のダムをはじめ、多くの公共事業を洗い直し、そこに組み込まれた利権構造の解体に不可欠な社会的コストと考えるべきなのだ。
・「ダム完成を前提にしてきた生活を脅かす」という住民の不安に最大限応えるべく多額の補償も必要になるが、それも時代錯誤のツケと言える。
▽ 「動き出したら止まらない」公共事業の利権解体を
八ツ場ダムの建設中止は、ダムが必要であるにもかかわらず、資金不足などの理由で中止に追い込まれた、などという性質のものではない。もっと大事な視点が含まれている。それは上記の毎日社説も指摘しているように2つある。
ひとつは建設の目的そのものが疑わしくなり、だから時代に合わなくなり、時代錯誤と化した公共事業は、たとえ巨額の財政資金を投じているとしても、きっぱりと手を引くこと、そういう事例の「象徴」として位置づけられること。
中止によって生じる地域住民の生活不安にはもちろん適切な補償によって応えなければならない。それは当然のことである。
もうひとつは、ダムに限らず、公共事業全体に組み込まれた政治家、官僚、業者の利権構造にメスを入れ、利権構造そのものを解体すること。
公共事業の多くは「いったん動き出したら止まらない」ことが、特質となっているが、その裏には自民単独政権時代から自民・公明連立政権時代へと続くいわゆる政官業三者の相互癒着と利権構造がひそんでいる。公共事業の発案と推進者は、ほかならぬ政官業三者であり、そこに癒着と利権がからんでいるため、自己制御は不可能であるだけではない。反対意見を抑えつけながら計画続行に執着するわけだから、「いったん動き出したら止まらない」のも容易に想像できるだろう。そういう悪弊を一掃するときである。
▽ 計画遂行への執着 ― 太平洋戦争時代と平成時代と
この〈自己制御能力の喪失〉と〈計画遂行への執着〉というメカニズムの作動は日本の現代史上、決して珍しいことではない。一例を挙げれば、中国への軍事侵略に続く、あの太平洋戦争の地獄のような悲惨な結末も、自己制御不能に陥り、しかも戦争続行に執着したためといえる。自慢にもならない「勝ち戦(いくさ)」は、開戦(1941=昭和16年12月)からわずか半年間で、それから終戦(1945年8月)までの3年余は「負け戦」の連続で、310万人が犠牲となっって尊い生命を失った。
歴史に「もしも」はあり得ないとしても、早めに講和の手を打てば、東京大空襲など各都市への空襲、沖縄地上戦、広島・長崎への原爆投下などは免れたにもかかわらず、軍部の「本土での徹底抗戦」という馬鹿げた作戦思想のゆえに惨劇を招いた。
かつてのそういう軍部に匹敵するのが今日の政官業の癒着と利権構造とはいえないか。
当時の示唆に富む事実を指摘すれば、終戦直前まで軍国主義下での聖戦遂行という幻想から自由になれなかった多くの人々が、終戦後は、一斉に「自由と民主主義」を唱え始めたことである。私(安原)は、終戦時、小学5年生だったが、やがて明治憲法が捨てられ、新憲法(現在の平和憲法)が公布・施行され、学校の授業風景もがらりと変わった。毎日のように「民主主義とは、人民の、人民による、人民のための政治」と説明もないまま、繰り返す教師の姿を昨日のことのように記憶している。
こういう変わり身の速さは、昔も今も変わらないのではないか。ダム中止に関連づけていえば、テレビでみる限り、推進派の県知事などが「建設続行」を声高に叫んでいるが、中止が既成事実となれば、「中止も当然」などに変化するだろう。これが信条よりも利害に左右される群像の正体である。
▽ ひとつの投書から学ぶこと ― 自然と地域経済の再生を
朝日新聞(9月30日付)「声」欄に掲載された「ダム巡る多様な声を報じて」と題する投書を紹介したい。投書の主は、東京都小金井市在住の大学院生(25歳)である。
ダム建設中止をめぐり水没予定地住民と国土交通相との対立が報道されている。そこでの住民は一様に「長年翻弄(ほんろう)されてきた。ダム建設中止を望まない」と訴える。その事実に胸を痛めつつも、そうしてつくられる「地元住民」像に違和感を覚えてもいる。
ここ5年ほど川辺川ダム(熊本県)などの水没予定地で、長期化するダム計画と住民の生活をテーマに住民のお話を伺い、手記を読んできた。私が見聞きしたのは報道されているような地元住民ばかりではない。
生活再建のため中止を求めたいが、公言できないという人も多い。声高の有力者の主張ばかりが報道され、そのイメージが定着することを嘆く住民の言葉が印象的だった。
長年ダム計画と向き合ってきた地域社会では多様な声があった。そうした地元のリアルな姿を伝えない限り、メディアに取り上げられない多数の住民が困ると思う。
この投書を一読して、大学院生という若い研究者の公正な観察が綴られているような印象を得た。つぎの諸点を訴えている。
・「ダム建設中止を望まない」という「地元住民」像はメディアによって作られたイメージで、違和感を覚えること
・生活再建のため建設中止を求めたいが、公言できない地元の人も多いこと
・声高の有力者の主張ばかりが報道され、それを嘆く住民もいること
この投書は、ダム建設のため水没予定地となっている地域を足で歩いてみて、自分なりに地元の声を調査した結果では、〈中止を明言する国土交通相〉と〈中止を望まない地元住民〉との〈対立〉というメディアのとらえ方は単純すぎるという苦言である。その通りであろう。八ツ場ダムの場合、当初から反対派が多かった。今も反対のための裁判も行われている。
計画中あるいは建設中のダムは全国で約140もある。政権が変わったのだから、これらすべてのダムについて、その是非を検討するときである。同時に新自由主義路線=市場原理主義路線とグローバル化の大きな流れの中で埋没し、疲弊している地域をどう建て直していくかが大きな課題として浮かび上がってきた。
その柱となるべきものは地域の豊かな自然を生かすこと、農林水産業、観光など地域経済を再生させること ― である。この二つを車の両輪として地域の立て直しを図るときである。多様ないのちが息づいている自然を壊しながら巨大なコンクリートや鉄骨を打ち込む時代はとっくに終わっている。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
「過(あやま)ちては改むるに憚(はばか)ることなかれ」とは、論語の言葉である。しかしこの「過ちをためらわないで改める」ことを実践するのがいかに難しいかを考えさせる具体例が民主党連立政権が打ち出した八ツ場ダム建設中止問題である。
ここには「いったん動き出したら止まらない」大型公共事業の悪弊がひそんでいる。こういう悪弊を一掃するためにもダム建設は中止するときである。そのダムが用をなさず時代錯誤と化しているからには建設中止は当然のことである。遅きに失したともいえるが、過ちを続けるよりは評価に値する選択である。(09年10月1日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽ ダム建設中止を新聞社説はどう論じたか
民主党連立政権が打ち出した八ツ場(やんば)ダム(群馬県)建設中止問題について、新聞社説はどう論じているか。大手新聞社説の見出しと主張の内容を紹介しよう。
*朝日新聞(9月18日付)=八ツ場ダム 新政権の力量を見せよ
*毎日新聞(9月23日付)=八ッ場ダム中止 時代錯誤正す「象徴」に
*読売新聞(9月24日付)=八ッ場ダム中止 公約至上主義には無理がある
朝日社説は、「八ツ場ダムなどの建設中止は、全国で約140の計画中や建設中のダムにも影響を及ぼすだろう。しかし、問題はダムに、さらには公共事業だけにとどまらない。政権が代わったことを国民が実感できるか。矢継ぎ早に新政策を繰り出す鳩山政権の力量が試されている」と論じた。
一方、読売社説は見出しの「公約至上主義には無理がある」からも分かるように中止に批判的であり、「周辺1都5県も建設続行を求めている。公約に掲げたからといって、中止を強行できる状況ではない」と主張している。
毎日社説は、見出しにあるようにダム中止を「時代錯誤正す象徴」としてとらえている。腰の据わった正論というべきであり、以下、要点を少し詳しく紹介したい。
・計画から半世紀以上、住民を翻(ほん)弄(ろう)し苦しめてきたことを謝罪するとともに、中止の理由について意を尽くして説き、不安を取り除くのは政治の責任である。
・時代にあわない大型公共事業への固執がどんな問題を招くかを広く知ってもらい、こうした時代錯誤を終わりにすることをはっきり示す「象徴」としてほしい。
・治水と利水を兼ねた八ッ場ダム計画は、1947年の台風による利根川決壊で浮上した。吾妻川沿いの温泉街をはじめ340戸の水没が前提で、首都圏住民のための犠牲を強いられる地元に激しい反対運動が続いた。苦渋の末、地元が同意に傾いたのは90年代に入ってからだ。時間がかかったため事業費は当初の2倍以上の4600億円に膨らんだ。
・この間、首都圏の水需要は減少傾向にあり、洪水対策としてのダムの有効性に疑問が示された。しかし、そもそもの目的が疑わしくなり、悪影響が指摘されながら完成した長良川河口堰(ぜき)、諫早湾干拓、岐阜県の徳山ダムを追うように、ダム湖をまたぐ高架道路、移転住民のための用地造成などが進み、ダム本体の着工を残すだけになった。まさに「いったん動き出したら止まらない」大型公共事業の典型である。
・これ(中止)に対して利水・治水のため建設費を負担してきた1都5県の知事は「何が何でも推進していただきたい」(大澤正明・群馬県知事)などと異論を唱えている。すでに約3200億円を投じており、計画通りならあと約1400億円で完成する。中止の場合は、自治体の負担金約2000億円の返還を迫られ、770億円の生活再建関連事業も必要になるだろう。ダム完成後の維持費(年間10億円弱)を差し引いても数百億円高くつく。単純に考えれば、このまま工事を進めた方が得である。
・だが、八ッ場だけの損得を論じても意味はない。全国で計画・建設中の約140のダムをはじめ、多くの公共事業を洗い直し、そこに組み込まれた利権構造の解体に不可欠な社会的コストと考えるべきなのだ。
・「ダム完成を前提にしてきた生活を脅かす」という住民の不安に最大限応えるべく多額の補償も必要になるが、それも時代錯誤のツケと言える。
▽ 「動き出したら止まらない」公共事業の利権解体を
八ツ場ダムの建設中止は、ダムが必要であるにもかかわらず、資金不足などの理由で中止に追い込まれた、などという性質のものではない。もっと大事な視点が含まれている。それは上記の毎日社説も指摘しているように2つある。
ひとつは建設の目的そのものが疑わしくなり、だから時代に合わなくなり、時代錯誤と化した公共事業は、たとえ巨額の財政資金を投じているとしても、きっぱりと手を引くこと、そういう事例の「象徴」として位置づけられること。
中止によって生じる地域住民の生活不安にはもちろん適切な補償によって応えなければならない。それは当然のことである。
もうひとつは、ダムに限らず、公共事業全体に組み込まれた政治家、官僚、業者の利権構造にメスを入れ、利権構造そのものを解体すること。
公共事業の多くは「いったん動き出したら止まらない」ことが、特質となっているが、その裏には自民単独政権時代から自民・公明連立政権時代へと続くいわゆる政官業三者の相互癒着と利権構造がひそんでいる。公共事業の発案と推進者は、ほかならぬ政官業三者であり、そこに癒着と利権がからんでいるため、自己制御は不可能であるだけではない。反対意見を抑えつけながら計画続行に執着するわけだから、「いったん動き出したら止まらない」のも容易に想像できるだろう。そういう悪弊を一掃するときである。
▽ 計画遂行への執着 ― 太平洋戦争時代と平成時代と
この〈自己制御能力の喪失〉と〈計画遂行への執着〉というメカニズムの作動は日本の現代史上、決して珍しいことではない。一例を挙げれば、中国への軍事侵略に続く、あの太平洋戦争の地獄のような悲惨な結末も、自己制御不能に陥り、しかも戦争続行に執着したためといえる。自慢にもならない「勝ち戦(いくさ)」は、開戦(1941=昭和16年12月)からわずか半年間で、それから終戦(1945年8月)までの3年余は「負け戦」の連続で、310万人が犠牲となっって尊い生命を失った。
歴史に「もしも」はあり得ないとしても、早めに講和の手を打てば、東京大空襲など各都市への空襲、沖縄地上戦、広島・長崎への原爆投下などは免れたにもかかわらず、軍部の「本土での徹底抗戦」という馬鹿げた作戦思想のゆえに惨劇を招いた。
かつてのそういう軍部に匹敵するのが今日の政官業の癒着と利権構造とはいえないか。
当時の示唆に富む事実を指摘すれば、終戦直前まで軍国主義下での聖戦遂行という幻想から自由になれなかった多くの人々が、終戦後は、一斉に「自由と民主主義」を唱え始めたことである。私(安原)は、終戦時、小学5年生だったが、やがて明治憲法が捨てられ、新憲法(現在の平和憲法)が公布・施行され、学校の授業風景もがらりと変わった。毎日のように「民主主義とは、人民の、人民による、人民のための政治」と説明もないまま、繰り返す教師の姿を昨日のことのように記憶している。
こういう変わり身の速さは、昔も今も変わらないのではないか。ダム中止に関連づけていえば、テレビでみる限り、推進派の県知事などが「建設続行」を声高に叫んでいるが、中止が既成事実となれば、「中止も当然」などに変化するだろう。これが信条よりも利害に左右される群像の正体である。
▽ ひとつの投書から学ぶこと ― 自然と地域経済の再生を
朝日新聞(9月30日付)「声」欄に掲載された「ダム巡る多様な声を報じて」と題する投書を紹介したい。投書の主は、東京都小金井市在住の大学院生(25歳)である。
ダム建設中止をめぐり水没予定地住民と国土交通相との対立が報道されている。そこでの住民は一様に「長年翻弄(ほんろう)されてきた。ダム建設中止を望まない」と訴える。その事実に胸を痛めつつも、そうしてつくられる「地元住民」像に違和感を覚えてもいる。
ここ5年ほど川辺川ダム(熊本県)などの水没予定地で、長期化するダム計画と住民の生活をテーマに住民のお話を伺い、手記を読んできた。私が見聞きしたのは報道されているような地元住民ばかりではない。
生活再建のため中止を求めたいが、公言できないという人も多い。声高の有力者の主張ばかりが報道され、そのイメージが定着することを嘆く住民の言葉が印象的だった。
長年ダム計画と向き合ってきた地域社会では多様な声があった。そうした地元のリアルな姿を伝えない限り、メディアに取り上げられない多数の住民が困ると思う。
この投書を一読して、大学院生という若い研究者の公正な観察が綴られているような印象を得た。つぎの諸点を訴えている。
・「ダム建設中止を望まない」という「地元住民」像はメディアによって作られたイメージで、違和感を覚えること
・生活再建のため建設中止を求めたいが、公言できない地元の人も多いこと
・声高の有力者の主張ばかりが報道され、それを嘆く住民もいること
この投書は、ダム建設のため水没予定地となっている地域を足で歩いてみて、自分なりに地元の声を調査した結果では、〈中止を明言する国土交通相〉と〈中止を望まない地元住民〉との〈対立〉というメディアのとらえ方は単純すぎるという苦言である。その通りであろう。八ツ場ダムの場合、当初から反対派が多かった。今も反対のための裁判も行われている。
計画中あるいは建設中のダムは全国で約140もある。政権が変わったのだから、これらすべてのダムについて、その是非を検討するときである。同時に新自由主義路線=市場原理主義路線とグローバル化の大きな流れの中で埋没し、疲弊している地域をどう建て直していくかが大きな課題として浮かび上がってきた。
その柱となるべきものは地域の豊かな自然を生かすこと、農林水産業、観光など地域経済を再生させること ― である。この二つを車の両輪として地域の立て直しを図るときである。多様ないのちが息づいている自然を壊しながら巨大なコンクリートや鉄骨を打ち込む時代はとっくに終わっている。
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初の鳩山・オバマ会談が残した重荷
安原和雄
「非常にあったかーな雰囲気が、うれしかった」 ― 鳩山首相はオバマ大統領との初の首脳会談を終えた後、記者団に満面の笑みを見せながら語ったとメディアは伝えている。首脳会談の「首尾は上々」という含意だろうが、同じ席上で「日米同盟深化」を誓い合った。日米同盟(軍事同盟と経済同盟)のうち特に軍事同盟の深化は何を目指すのか。
改めて指摘するまでもなく、日米軍事同盟は日本列島上の巨大な在日米軍基地を足場とする戦争前進基地として機能している。そういう日米同盟の深化が鳩山政権のキャッチフレーズ、「友愛」と両立するとは考えにくい。初の首脳会談が残した重荷が、時の経過とともに首相の表情から笑みを奪い去っていくことのないように祈っておこう。(09年9月25日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
▽日米同盟は軍事同盟であり、経済同盟である
初の日米首脳会談(日本時間9月23日夜)では何が話し合われたのか。大手紙の伝えるところによると、首脳会談の主な内容は、日本側の説明ではつぎの通り。
*日米同盟
鳩山首相=日米同盟がこれからも日本の安全保障の基軸になる。いかに深化させていくかが大事だ。
オバマ大統領=日米は重要な同盟関係にある。両国の安全保障の基盤だけでなく、経済繁栄の基盤でもある。世界経済の危機を乗り越えるために緊密に協調していく。長いつきあいになる。ひとつ一つ解決していこう。
*核軍縮
首相=米国大統領が国連安保理で核軍縮、核不拡散のリーダーシップを取るということはかつてなかった。大変な勇気に感謝する。核のない世界を作るためにお互いに先頭切って走ろう。
両首脳=緊密に連携していくことで一致。
*地球温暖化防止
首相=産業界の中にはまだ問題があるが、政治的に解決していく必要がある。一緒に解決していこう。
大統領=大胆な提案(温暖化ガスの90年比25%削減)に感謝する。
*アフガニスタン・パキスタン支援
首相=日本として何ができるか真剣に考えたい。アフガニスタン、日米両国にとってもっとも良い方向、ネーションビルディング(国家再建)の問題や民政安定に関する農業支援、職業訓練など我々が得意な分野で貢献したい。
大統領=大変有難い。
*アジア諸国との地域協力
首相=日米同盟を基軸として、アジア諸国との信頼関係の強化と地域協力を促進していく。
両首脳=緊密に連携していくことを確認。
首脳会談に先立ち、岡田克也外相はクリントン米国務長官と会談し、つぎのようなやりとりがあった。
クリントン長官=日米同盟は米国外交の礎石だ。
岡田外相=日米同盟を30年、50年と持続可能で深いものにしたい。
〈安原の感想〉 ― 軍事同盟解体が時代の新潮流
初の首脳会談では首相は「個人的な信頼関係」を築くことを優先させたと伝えられる。しかし大統領は米国にとって肝心なことを確認することを怠らなかった。
それは日米同盟(現行日米安保条約=1960年締結=に基づく日米安保体制)の基本的特質についてである。オバマ大統領が「両国の安全保障の基盤だけでなく、経済繁栄の基盤でもある」と述べている点に着目したい。これは日米同盟は単なる仲良しクラブではなく、日米の軍事同盟であると同時に経済同盟であることを確認する発言といえる。
一方、岡田外相とクリントン長官との会談では外相が「同盟を50年と持続可能で深いものにしたい」と述べた。この発言の意図は何か。来(2010)年は現行日米安保条約の締結以来ちょうど半世紀を迎える。それからさらに50年といえば、100年も軍事同盟を続行することになる。その真意が不明である。まさか軍事同盟を仲良しクラブと勘違いしているわけではあるまい。
今や軍事同盟解体が時代の新しい流れである。一例を挙げれば、米国からの自立を求めて変革の波に洗われている中南米諸国のひとつ、エクアドルで9月18日、米軍が10年間使用してきた西部マンタの軍事基地から完全撤退した。その小国の外相は「米軍撤退は主権と平和の勝利だ。二度と外国軍隊は領土内に置かせない」と強調したと伝えられる。小国の外相の使命感、自立意欲、器量の大きさに注目したい。
▽鳩山内閣「基本方針」の読み方 ― 日米同盟と友愛
ここで鳩山内閣が初閣議(09年9月16日)で決めた内閣基本方針を紹介したい。これは内政はもちろん、外交、日米同盟も含めて鳩山政権としての基本方針を定めたものである。
まず外交、日米同盟についてつぎのように指摘している。
自立した外交により、世界の平和創造と課題解決に取り組む、尊厳ある国家を目指す。極端な二国間主義や、単純な国連至上主義ではなく、長期的な構想力と行動力を持った、主体的な外交を展開する。
緊密かつ対等な日米同盟を再構築するため、協力関係を強化し、両国間の懸案についても率直に話し合う。ここでいう対等とは、なにより、日米両国の同盟関係が世界の平和と安全に果たせる役割と、具体的な行動指針を、日本の側から積極的に提言していけるような関係だ。
同時に日本が位置するアジア太平洋地域の国々からも、真の信頼を得られるような外交関係を形成する。(中略)
さらに地球温暖化、核兵器廃絶、南北間格差の解消など、世界の平和と繁栄の実現に積極的に取り組む ― と。
もう一つ、「友愛の社会」について以下のように述べている。
新たな国づくりは、決して誰かに与えられるものではない。国が予算を増やせば、すべての問題を解決できるというものでもない。
国民一人ひとりが、「自立と共生」の理念を育み、発展させてこそ、社会の『絆』を再生し、人と人との信頼関係を取り戻すことができる。
国、地方自治体、そして国民が一体となり、すべての人々が互いの存在をかけがえのない者と感じあえる、そんな「居場所と出番」を見いだすことのできる「友愛の社会」を実現すべく、その先頭に立って、全力で取り組んでいく ― と。
〈安原の感想〉 ― 日米同盟と友愛社会はどう両立するのか?
この「基本方針」の読み方はいろいろあっていい。ただ私の基本的な疑問点は日米同盟と友愛社会なるものがどのように両立するのかである。
基本方針は「対等の日米同盟」を打ち出している。その「対等」の意味について「日米両国の同盟関係が世界の平和と安全に果たせる役割と、具体的な行動指針を、日本の側から積極的に提言していけるような関係」とわざわざ説明している。「日本の側から積極的に提言」が要点らしい。こういう感覚は自公政権時代にはうかがえなかった。
そういう目で首脳会談でのやりとりを読み直してみると、なるほど首相側の積極的な発言、提言が目立っている。たしかに会談スタイルは自公政権時代とは変化している。大統領が聞き役に回っている印象さえうかがえる。
しかし肝心の日米同盟、特に軍事同盟と友愛社会とはどう両立するのか、疑問は消えない。友愛社会のキーワードは「自立と共生」、「社会の絆」であり、かけがえのない「居場所と出番」である。
一方、日米軍事同盟の何よりの特色は、南は沖縄に始まって、佐世保(長崎県)、横須賀(神奈川県)、さらに北の三沢(青森県)に至るまで多数の巨大な米軍基地網が存在している。周辺住民との摩擦が絶えないだけではない。特に沖縄、横須賀などはかつてはベトナムへの侵略戦争、現在はイラク、アフガニスタンでの戦争のための出撃基地として稼働している。特に沖縄では人間殺傷のための軍事訓練が恒常化しているといわれる。
このような軍事同盟の光景と友愛社会とは、首相の頭の中ではどのように矛盾なくつながっているのか、理解に苦しむところである。
▽日米安保体制とは ― 「友愛」に逆らう暴力装置
さてここでは日米安保体制とは、いかなるものであるかに触れておきたい。多くのメディアは「日米同盟」という用語を無批判に前提して記事を書く傾向が最近目立っている。危険な兆候というべきである。あのかつての太平洋戦争開始の前年(1940年=昭和15年)に戦争のための日独伊三国同盟が締結されたが、当時のメディはそれを肯定し、戦争を煽った。戦後その反省に立ち、再出発したはずだが、今また軍事同盟を無批判に受け容れるという同じような過ちを繰り返しつつあるように見受けられる。
日米同盟に無批判な姿勢になる一因として、いわゆる安保世代(1960年の現行日米安保条約締結時に安保反対闘争に参加、あるいは見聞した世代)の現役記者はもはや誰一人としていないという事情もあるだろう。しかしそれは言い訳にはならない。
以下では日米安保体制のイロハについて解説しておきたい。
まず現行日米安保条約は「日米軍事同盟」と「日米経済同盟」という2つの同盟の法的根拠となっている点を指摘したい。結論を先にいえば、日米同盟は友愛精神に逆らう暴力装置となっている。
前者の軍事同盟は安保条約3条(自衛力の維持発展)、5条(日米共同防衛)、6条(在日米軍基地の許与)などによって成立している。特に巨大な在日米軍基地網は、米国の世界戦略上の前方展開基地として必要不可欠の機能を果たしている。
もう一つ指摘しておく必要があるのは、ここ10年来の「安保の再定義」によって安保の対象範囲が「極東の安保」から「世界の安保」へと自衛隊自体の行動範囲が地球規模に広がってきたことである。最近のその具体例が自公政権時代の末期に始まった東アフリカのソマリヤ沖海上での海賊対策という名の海外派兵である。状況によって武器使用も容認されており、従来の人道支援という名の海外派遣とは質的に異なってきている点は見逃せない。
以上は憲法9条の「戦争放棄、非武装、交戦権の否認」という理念と矛盾しており、9条の空洞化を進めてきた。しかし軍事力という暴力の行使によって平和(=多様な非暴力)をつくる時代では、もはやない。米国主導の軍事力によるテロとの戦いは失敗していることから見ても、軍事力行使は平和を壊す結果しかもたらさないことを認識したい。
後者の経済同盟は安保条約2条(経済的協力の促進)によって規定されている。2条では「自由な諸制度を強化する」「両国の国際経済政策における食い違いを除く」などをうたっている。これを背景に日米安保体制は米国主導の新自由主義(=市場原理主義)を強要し、憲法25条(生存権、国の生存権保障義務)の理念を蔑(ないがし)ろにする暴力装置として機能してきた。
この新自由主義路線によって年間3万人を超える高水準の自殺、失業・貧困・格差の拡大、病気の増大、医療の質量の低下、社会保障費の削減、税金・保険料負担の増大 ― などがもたらされ、生活の根幹が脅かされている。その上、いのちが社会的にあまりにも粗末に扱われている。
その打開策は、破綻した新自由主義路線と決別することから始まる。民主党連立政権の登場によって従来の新自由主義路線からどこまで転換できるのか。今後の行方を注視したい。
▽非核三原則と友愛を力説した鳩山演説
国連安全保障理事会(日本時間9月24日夜)は、核不拡散・核軍縮に関する初の首脳会議を開き、米国提案の「核兵器のない世界」を目指す決議を全会一致で採択した。非常任理事国・日本の鳩山首相も出席し、つぎのような決意を表明した。
世界の指導者に、ぜひ広島・長崎を訪れ核兵器の悲惨さを心に刻んでほしい。日本は核開発の潜在能力があるのに、なぜ非核の道を歩んだか。日本は核の攻撃を受けた唯一の国家だ。我々は核軍拡の連鎖を断ち切る道を選んだ。唯一の被爆国として果たすべき道義的な責任と信じたからだ。(中略)日本が非核三原則を堅持することを改めて誓う。日本は核廃絶の先頭に立たねばならない ― と。
一方、首相は国連総会一般討論(日本時間9月25日未明)で「友愛精神に基づき、東洋と西洋、先進国と途上国、多様な文明の間で世界の架け橋となるべく全力を尽くす」と述べた後、日本が取り組むべきつぎの「5つの挑戦」を挙げた。
*世界経済危機への対処
市場メカニズム任せでは調整困難な「貧困と格差」問題、過剰なマネーゲームを制御するために共通のルール作りに役割を果たす。
*気候変動問題
日本は90年比で2020年までに温室効果ガス25%削減を目指す目標を掲げた。途上国に従来以上の資金、技術支援を行う。
*核軍縮・不拡散への挑戦
6者協議を通じ、朝鮮半島の非核化実現の努力を続ける。
*平和構築・開発・貧困
アフガニスタンが安定と復興に注ぐ努力を国際社会とともに支援する。
*東アジア共同体の構築
「開かれた地域主義」の原則で、地域の安全保障のリスクを減らし、経済的なダイナミズムを共有することは国際社会にも大きな利益になる。
以上のような国連安全保障理事会、国連総会一般討論でのいずれの発言も、大筋ではその言やよし、と評価できる。ただし肝心要の「日本の非核化」という一点を除いてである。国連安保理事会では「日本の非核三原則堅持」を誓いながら、現実には三原則、「作らず、持たず、持ち込ませず」のうち「持ち込ませず」は「米国の核の傘」に依存しているため空洞化しており、事実上二原則となっている。
また国連総会一般討論では朝鮮半島の非核化に言及しており、その実現を追求するのは当然である。ただ核の傘の下にある日本列島の完全な非核化、つまり名実ともに正真正銘の非核三原則をどう実現させていくかに触れないまま、相手国の核を一方的に「脅威」とみなすのは公平ではないだろう。
▽「友愛精神」を生かすには日米友好条約へ転換を
鳩山首相の折角の友愛精神を生かすには何が必要か。ここで重要な視点として指摘したいのは、上記の「5つの挑戦」を実現させていく上で、日米安保体制は必ずしも必要ではないということである。日米安保体制を土台にして主張しなければ、実現できないという性質のテーマではない。むしろ正味の非核三原則などは日米安保体制が足枷となって実現できなくなっている。どう対応していくべきか。
ここでもう一つの新たな挑戦的課題が浮かび上がってくる。それは現行日米安保条約を破棄して、新たな日米友好条約に切り替えることである。「友好」条約を土台にして「友愛」精神を世界に広めていく。こうして初めて対等な日米「同盟の深化」ではなく、対等な日米「関係の深化」へと脱皮できるのではないか。
この挑戦的課題に取り組むにはまず発想の転換が必要である。この世の事物はすべて「変化」から免れない。折しも米国では「チェンジ」(変革)を掲げたオバマ政権が登場し、日本でも民主党連立政権が新たな時代を切り開こうとしている。変化への挑戦である。そこには神聖不可侵の課題はあり得ないはずである。
つぎに日米安保条約10条(条約の終了)に着目したい。以下のように定めてある。
「いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は通告が行われた後一年で終了する」と。
つまり一方的な破棄が可能な規定である。もちろん国民の意思が前提になるが、多数派が安保条約から友好条約への変化を望めば、いつでも実現できることである。その変化の核心は在日米軍基地の撤去である。
鳩山首相にこういう感覚が芽生えつつあるのかどうかは知らない。しかし日米軍事同盟にこだわり、外国軍事基地の存続を認める限り、友愛精神とはどこまでも矛盾し、両立しないことを自覚するときである。首相が偉大な政治家として歴史に名を残すことができるかどうかは、この一点にかかっているといっても過言ではないだろう。
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安原和雄
「非常にあったかーな雰囲気が、うれしかった」 ― 鳩山首相はオバマ大統領との初の首脳会談を終えた後、記者団に満面の笑みを見せながら語ったとメディアは伝えている。首脳会談の「首尾は上々」という含意だろうが、同じ席上で「日米同盟深化」を誓い合った。日米同盟(軍事同盟と経済同盟)のうち特に軍事同盟の深化は何を目指すのか。
改めて指摘するまでもなく、日米軍事同盟は日本列島上の巨大な在日米軍基地を足場とする戦争前進基地として機能している。そういう日米同盟の深化が鳩山政権のキャッチフレーズ、「友愛」と両立するとは考えにくい。初の首脳会談が残した重荷が、時の経過とともに首相の表情から笑みを奪い去っていくことのないように祈っておこう。(09年9月25日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
▽日米同盟は軍事同盟であり、経済同盟である
初の日米首脳会談(日本時間9月23日夜)では何が話し合われたのか。大手紙の伝えるところによると、首脳会談の主な内容は、日本側の説明ではつぎの通り。
*日米同盟
鳩山首相=日米同盟がこれからも日本の安全保障の基軸になる。いかに深化させていくかが大事だ。
オバマ大統領=日米は重要な同盟関係にある。両国の安全保障の基盤だけでなく、経済繁栄の基盤でもある。世界経済の危機を乗り越えるために緊密に協調していく。長いつきあいになる。ひとつ一つ解決していこう。
*核軍縮
首相=米国大統領が国連安保理で核軍縮、核不拡散のリーダーシップを取るということはかつてなかった。大変な勇気に感謝する。核のない世界を作るためにお互いに先頭切って走ろう。
両首脳=緊密に連携していくことで一致。
*地球温暖化防止
首相=産業界の中にはまだ問題があるが、政治的に解決していく必要がある。一緒に解決していこう。
大統領=大胆な提案(温暖化ガスの90年比25%削減)に感謝する。
*アフガニスタン・パキスタン支援
首相=日本として何ができるか真剣に考えたい。アフガニスタン、日米両国にとってもっとも良い方向、ネーションビルディング(国家再建)の問題や民政安定に関する農業支援、職業訓練など我々が得意な分野で貢献したい。
大統領=大変有難い。
*アジア諸国との地域協力
首相=日米同盟を基軸として、アジア諸国との信頼関係の強化と地域協力を促進していく。
両首脳=緊密に連携していくことを確認。
首脳会談に先立ち、岡田克也外相はクリントン米国務長官と会談し、つぎのようなやりとりがあった。
クリントン長官=日米同盟は米国外交の礎石だ。
岡田外相=日米同盟を30年、50年と持続可能で深いものにしたい。
〈安原の感想〉 ― 軍事同盟解体が時代の新潮流
初の首脳会談では首相は「個人的な信頼関係」を築くことを優先させたと伝えられる。しかし大統領は米国にとって肝心なことを確認することを怠らなかった。
それは日米同盟(現行日米安保条約=1960年締結=に基づく日米安保体制)の基本的特質についてである。オバマ大統領が「両国の安全保障の基盤だけでなく、経済繁栄の基盤でもある」と述べている点に着目したい。これは日米同盟は単なる仲良しクラブではなく、日米の軍事同盟であると同時に経済同盟であることを確認する発言といえる。
一方、岡田外相とクリントン長官との会談では外相が「同盟を50年と持続可能で深いものにしたい」と述べた。この発言の意図は何か。来(2010)年は現行日米安保条約の締結以来ちょうど半世紀を迎える。それからさらに50年といえば、100年も軍事同盟を続行することになる。その真意が不明である。まさか軍事同盟を仲良しクラブと勘違いしているわけではあるまい。
今や軍事同盟解体が時代の新しい流れである。一例を挙げれば、米国からの自立を求めて変革の波に洗われている中南米諸国のひとつ、エクアドルで9月18日、米軍が10年間使用してきた西部マンタの軍事基地から完全撤退した。その小国の外相は「米軍撤退は主権と平和の勝利だ。二度と外国軍隊は領土内に置かせない」と強調したと伝えられる。小国の外相の使命感、自立意欲、器量の大きさに注目したい。
▽鳩山内閣「基本方針」の読み方 ― 日米同盟と友愛
ここで鳩山内閣が初閣議(09年9月16日)で決めた内閣基本方針を紹介したい。これは内政はもちろん、外交、日米同盟も含めて鳩山政権としての基本方針を定めたものである。
まず外交、日米同盟についてつぎのように指摘している。
自立した外交により、世界の平和創造と課題解決に取り組む、尊厳ある国家を目指す。極端な二国間主義や、単純な国連至上主義ではなく、長期的な構想力と行動力を持った、主体的な外交を展開する。
緊密かつ対等な日米同盟を再構築するため、協力関係を強化し、両国間の懸案についても率直に話し合う。ここでいう対等とは、なにより、日米両国の同盟関係が世界の平和と安全に果たせる役割と、具体的な行動指針を、日本の側から積極的に提言していけるような関係だ。
同時に日本が位置するアジア太平洋地域の国々からも、真の信頼を得られるような外交関係を形成する。(中略)
さらに地球温暖化、核兵器廃絶、南北間格差の解消など、世界の平和と繁栄の実現に積極的に取り組む ― と。
もう一つ、「友愛の社会」について以下のように述べている。
新たな国づくりは、決して誰かに与えられるものではない。国が予算を増やせば、すべての問題を解決できるというものでもない。
国民一人ひとりが、「自立と共生」の理念を育み、発展させてこそ、社会の『絆』を再生し、人と人との信頼関係を取り戻すことができる。
国、地方自治体、そして国民が一体となり、すべての人々が互いの存在をかけがえのない者と感じあえる、そんな「居場所と出番」を見いだすことのできる「友愛の社会」を実現すべく、その先頭に立って、全力で取り組んでいく ― と。
〈安原の感想〉 ― 日米同盟と友愛社会はどう両立するのか?
この「基本方針」の読み方はいろいろあっていい。ただ私の基本的な疑問点は日米同盟と友愛社会なるものがどのように両立するのかである。
基本方針は「対等の日米同盟」を打ち出している。その「対等」の意味について「日米両国の同盟関係が世界の平和と安全に果たせる役割と、具体的な行動指針を、日本の側から積極的に提言していけるような関係」とわざわざ説明している。「日本の側から積極的に提言」が要点らしい。こういう感覚は自公政権時代にはうかがえなかった。
そういう目で首脳会談でのやりとりを読み直してみると、なるほど首相側の積極的な発言、提言が目立っている。たしかに会談スタイルは自公政権時代とは変化している。大統領が聞き役に回っている印象さえうかがえる。
しかし肝心の日米同盟、特に軍事同盟と友愛社会とはどう両立するのか、疑問は消えない。友愛社会のキーワードは「自立と共生」、「社会の絆」であり、かけがえのない「居場所と出番」である。
一方、日米軍事同盟の何よりの特色は、南は沖縄に始まって、佐世保(長崎県)、横須賀(神奈川県)、さらに北の三沢(青森県)に至るまで多数の巨大な米軍基地網が存在している。周辺住民との摩擦が絶えないだけではない。特に沖縄、横須賀などはかつてはベトナムへの侵略戦争、現在はイラク、アフガニスタンでの戦争のための出撃基地として稼働している。特に沖縄では人間殺傷のための軍事訓練が恒常化しているといわれる。
このような軍事同盟の光景と友愛社会とは、首相の頭の中ではどのように矛盾なくつながっているのか、理解に苦しむところである。
▽日米安保体制とは ― 「友愛」に逆らう暴力装置
さてここでは日米安保体制とは、いかなるものであるかに触れておきたい。多くのメディアは「日米同盟」という用語を無批判に前提して記事を書く傾向が最近目立っている。危険な兆候というべきである。あのかつての太平洋戦争開始の前年(1940年=昭和15年)に戦争のための日独伊三国同盟が締結されたが、当時のメディはそれを肯定し、戦争を煽った。戦後その反省に立ち、再出発したはずだが、今また軍事同盟を無批判に受け容れるという同じような過ちを繰り返しつつあるように見受けられる。
日米同盟に無批判な姿勢になる一因として、いわゆる安保世代(1960年の現行日米安保条約締結時に安保反対闘争に参加、あるいは見聞した世代)の現役記者はもはや誰一人としていないという事情もあるだろう。しかしそれは言い訳にはならない。
以下では日米安保体制のイロハについて解説しておきたい。
まず現行日米安保条約は「日米軍事同盟」と「日米経済同盟」という2つの同盟の法的根拠となっている点を指摘したい。結論を先にいえば、日米同盟は友愛精神に逆らう暴力装置となっている。
前者の軍事同盟は安保条約3条(自衛力の維持発展)、5条(日米共同防衛)、6条(在日米軍基地の許与)などによって成立している。特に巨大な在日米軍基地網は、米国の世界戦略上の前方展開基地として必要不可欠の機能を果たしている。
もう一つ指摘しておく必要があるのは、ここ10年来の「安保の再定義」によって安保の対象範囲が「極東の安保」から「世界の安保」へと自衛隊自体の行動範囲が地球規模に広がってきたことである。最近のその具体例が自公政権時代の末期に始まった東アフリカのソマリヤ沖海上での海賊対策という名の海外派兵である。状況によって武器使用も容認されており、従来の人道支援という名の海外派遣とは質的に異なってきている点は見逃せない。
以上は憲法9条の「戦争放棄、非武装、交戦権の否認」という理念と矛盾しており、9条の空洞化を進めてきた。しかし軍事力という暴力の行使によって平和(=多様な非暴力)をつくる時代では、もはやない。米国主導の軍事力によるテロとの戦いは失敗していることから見ても、軍事力行使は平和を壊す結果しかもたらさないことを認識したい。
後者の経済同盟は安保条約2条(経済的協力の促進)によって規定されている。2条では「自由な諸制度を強化する」「両国の国際経済政策における食い違いを除く」などをうたっている。これを背景に日米安保体制は米国主導の新自由主義(=市場原理主義)を強要し、憲法25条(生存権、国の生存権保障義務)の理念を蔑(ないがし)ろにする暴力装置として機能してきた。
この新自由主義路線によって年間3万人を超える高水準の自殺、失業・貧困・格差の拡大、病気の増大、医療の質量の低下、社会保障費の削減、税金・保険料負担の増大 ― などがもたらされ、生活の根幹が脅かされている。その上、いのちが社会的にあまりにも粗末に扱われている。
その打開策は、破綻した新自由主義路線と決別することから始まる。民主党連立政権の登場によって従来の新自由主義路線からどこまで転換できるのか。今後の行方を注視したい。
▽非核三原則と友愛を力説した鳩山演説
国連安全保障理事会(日本時間9月24日夜)は、核不拡散・核軍縮に関する初の首脳会議を開き、米国提案の「核兵器のない世界」を目指す決議を全会一致で採択した。非常任理事国・日本の鳩山首相も出席し、つぎのような決意を表明した。
世界の指導者に、ぜひ広島・長崎を訪れ核兵器の悲惨さを心に刻んでほしい。日本は核開発の潜在能力があるのに、なぜ非核の道を歩んだか。日本は核の攻撃を受けた唯一の国家だ。我々は核軍拡の連鎖を断ち切る道を選んだ。唯一の被爆国として果たすべき道義的な責任と信じたからだ。(中略)日本が非核三原則を堅持することを改めて誓う。日本は核廃絶の先頭に立たねばならない ― と。
一方、首相は国連総会一般討論(日本時間9月25日未明)で「友愛精神に基づき、東洋と西洋、先進国と途上国、多様な文明の間で世界の架け橋となるべく全力を尽くす」と述べた後、日本が取り組むべきつぎの「5つの挑戦」を挙げた。
*世界経済危機への対処
市場メカニズム任せでは調整困難な「貧困と格差」問題、過剰なマネーゲームを制御するために共通のルール作りに役割を果たす。
*気候変動問題
日本は90年比で2020年までに温室効果ガス25%削減を目指す目標を掲げた。途上国に従来以上の資金、技術支援を行う。
*核軍縮・不拡散への挑戦
6者協議を通じ、朝鮮半島の非核化実現の努力を続ける。
*平和構築・開発・貧困
アフガニスタンが安定と復興に注ぐ努力を国際社会とともに支援する。
*東アジア共同体の構築
「開かれた地域主義」の原則で、地域の安全保障のリスクを減らし、経済的なダイナミズムを共有することは国際社会にも大きな利益になる。
以上のような国連安全保障理事会、国連総会一般討論でのいずれの発言も、大筋ではその言やよし、と評価できる。ただし肝心要の「日本の非核化」という一点を除いてである。国連安保理事会では「日本の非核三原則堅持」を誓いながら、現実には三原則、「作らず、持たず、持ち込ませず」のうち「持ち込ませず」は「米国の核の傘」に依存しているため空洞化しており、事実上二原則となっている。
また国連総会一般討論では朝鮮半島の非核化に言及しており、その実現を追求するのは当然である。ただ核の傘の下にある日本列島の完全な非核化、つまり名実ともに正真正銘の非核三原則をどう実現させていくかに触れないまま、相手国の核を一方的に「脅威」とみなすのは公平ではないだろう。
▽「友愛精神」を生かすには日米友好条約へ転換を
鳩山首相の折角の友愛精神を生かすには何が必要か。ここで重要な視点として指摘したいのは、上記の「5つの挑戦」を実現させていく上で、日米安保体制は必ずしも必要ではないということである。日米安保体制を土台にして主張しなければ、実現できないという性質のテーマではない。むしろ正味の非核三原則などは日米安保体制が足枷となって実現できなくなっている。どう対応していくべきか。
ここでもう一つの新たな挑戦的課題が浮かび上がってくる。それは現行日米安保条約を破棄して、新たな日米友好条約に切り替えることである。「友好」条約を土台にして「友愛」精神を世界に広めていく。こうして初めて対等な日米「同盟の深化」ではなく、対等な日米「関係の深化」へと脱皮できるのではないか。
この挑戦的課題に取り組むにはまず発想の転換が必要である。この世の事物はすべて「変化」から免れない。折しも米国では「チェンジ」(変革)を掲げたオバマ政権が登場し、日本でも民主党連立政権が新たな時代を切り開こうとしている。変化への挑戦である。そこには神聖不可侵の課題はあり得ないはずである。
つぎに日米安保条約10条(条約の終了)に着目したい。以下のように定めてある。
「いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は通告が行われた後一年で終了する」と。
つまり一方的な破棄が可能な規定である。もちろん国民の意思が前提になるが、多数派が安保条約から友好条約への変化を望めば、いつでも実現できることである。その変化の核心は在日米軍基地の撤去である。
鳩山首相にこういう感覚が芽生えつつあるのかどうかは知らない。しかし日米軍事同盟にこだわり、外国軍事基地の存続を認める限り、友愛精神とはどこまでも矛盾し、両立しないことを自覚するときである。首相が偉大な政治家として歴史に名を残すことができるかどうかは、この一点にかかっているといっても過言ではないだろう。
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脱「官僚依存」に不可欠な条件は
安原和雄
09年9月16日召集された特別国会の首相指名選挙で第93代首相に選ばれた鳩山由紀夫首相は同日夕、首相官邸で就任の記者会見を行い、決意を述べた。「とことん国民の皆さんのための政治を作る。そのためには脱官僚依存の政治を実践しなければならない」と。翌17日付各紙の一面トップ記事の見出しにも「脱官僚」の大きな文字が躍っている。
「脱官僚」とは正確に言えば、脱「官僚依存」を指している。いいかえれば主役はあくまでも政治家で、官僚は脇役でしかないという本来の望ましい姿に戻したいという意味であろう。脱「官僚依存」に必要不可欠な条件は何か。脱「官僚依存」を実践していく上で、その成否を早速試されるのが政権公約(マニフェスト)の実施である。ただし選別実施が望ましい。なぜなら中には賛成できない政権公約も少なくないからである。(09年9月18日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽大手紙の社説は脱「官僚依存」をどう論じたか
政治家は主権者である国民の投票によって選ばれたのであり、一方、官僚は、優秀であるとしても、国家公務員試験に合格したにすぎない。国民によって選ばれたのではない。当然といえば当然のことであるが、政治は国民のために行われるべきものであり、官僚のために政治があるのではない。
さて脱「官僚依存」について大手5紙の社説(9月17日付)はどう論じたか。まず大手5紙の社説見出しを紹介する。
*朝日新聞=鳩山新首相に望む 「変化」実感できる発信を
*毎日新聞=鳩山政権発足 果敢に「チェンジ」貫け まず行政の大掃除を
*読売新聞=鳩山内閣発足 進路を誤らず改革を進めよ
*日本経済新聞=鳩山首相は政権交代への期待に応えよ
*東京新聞=鳩山新政権スタート 「説得責任」果たせ
5紙の社説を一読した印象では、朝日と東京は脱「官僚依存」という視点から十分に論じているとは言えない。残りの3紙のうちでも脱「官僚依存」という問題意識では濃淡さまざまなので、ここでは毎日新聞社説の大要を以下に紹介する。
〈毎日新聞社説の大要〉
鳩山新首相は初の記者会見で「脱・官僚依存の政治を今こそ実践していかなくてはならない」と強調した。
政治主導を目指すという鳩山内閣の布陣は、副総理兼国家戦略担当相に菅直人代表代行、外相に岡田克也前幹事長、国土交通相には前原誠司副代表と歴代代表を起用するなど、党内バランスと安定感を重視した。(中略)
大切なのは具体的に何を実行していくかだ。まず、旧来の行政の悪弊を絶つことが新政権の役目だと考える。つまり行政の大掃除である。
目に余る税金の無駄遣い。「省あって国なし」の縦割り行政。前例踏襲主義。政治家、官僚、業界のもたれ合い。ここからの脱却は既得権益とはしがらみのない新しい政権だからこそ可能であり、政権交代の大きなメリットでもあるからだ。
カギを握るのは国家ビジョンや予算の骨格を作るという国家戦略局だ。従来の予算編成は各省庁ごとに積み上げる縦割り型で、しかも、既得権にとらわれ毎年、ほとんど配分は変わらなかった。これを首相らの主導で総合調整するというものだ。
閣議を事前におぜん立てしてきた事務次官会議を廃止する点も注目したい。会議は全員一致が原則で一省庁でも反対すれば成案が得られず、改革が進まない要因と指摘されてきた。廃止されれば首相や閣僚の権限は間違いなく強まるはずだ。
戦略局が本格始動するのは10月の臨時国会で戦略局に権限を付与するための法案が成立した後となり、当面は国家戦略室としてスタートさせる。さっそく前政権が5月に成立させた今年度補正予算の見直しに取り組むことになる。ここを足場に政策の優先順位を明確にし、めりはりの利いた政権運営をしてほしい。
戦略局と車の両輪の役目を担うのが行政刷新会議だ。税金の無駄遣いや行政の不正を洗い出し、政策の財源を確保するという組織だ。隠れた無駄はまだあるのではないか。同じ事業を執行するにしても、これまで高額になり過ぎていなかったのか。この見直し作業がマニフェスト実現の成否を決するといっていい。
省庁が公表してきたデータを疑っている国民は多いはずだ。岡田外相の課題となる米艦船の核持ち込みをめぐる日米密約の検証などを含め、これまでは表に出ることがなかった情報や資料を公開していくのも政権の責務である。
官僚の抵抗を排することができるかどうかは鳩山首相のリーダーシップにかかっている。
来年7月にはもう参院選が待っている。鳩山政権に必要なのは、それまでに一つでも二つでも「政治は明らかに変わった」と国民が感じられる実績を示すことである。
以上、毎日新聞社説の大要をやや長めに紹介した。そのコメントは以下に述べる。
▽〈安原のコメント〉 ― 腰を据えて取り組むべき「行政の大掃除」
上記の毎日新聞社説は、新政権が直面し、メスを入れることになる課題にバランス良く、目配りを利かせた社説である。見出しに〈果敢に「チェンジ」貫け〉をうたっているからには、もう少し過激な色彩があってもいいように思うが、毎日新聞らしい「穏当な良識」を絵に描いたような社説といえる。政権交代とともに時代も大きく変化しつつあることを十分にうかがわせる社説と評することもできよう。
さて脱「官僚依存」のための具体的な柱としてどこに注目すべきか。毎日社説は「行政の大掃除」としてつぎの諸点を挙げている。いずれも腰を据えて取り組むべき課題である。
・目に余る税金の無駄遣い、「省あって国なし」の縦割り行政、前例踏襲主義、政治家・官僚・業界のもたれ合い(いわゆる政官業の癒着関係) ― などの是正.解消、廃止をすすめること
・閣議を事前におぜん立てしてきた事務次官会議を廃止すること
・税金の無駄遣いや行政の不正 ― などを洗い出して、政策財源を確保すること
・米艦船の核持ち込みをめぐる日米政府間の密約(注)などを含め、隠された情報や資料を公開すること
(注・安原)日米密約にはつぎの4つがあるとされている。(イ)1960年の日米安保条約改定時の「核兵器持ち込み」に関する密約、(ロ)朝鮮半島有事における「戦闘作戦行動」に関する密約、(ハ)1972年の沖縄返還時に交わされた「有事の際の核兵器持ち込み」に関する密約、(ニ)沖縄返還時の「原状回復補償費の肩代わり」に関する密約。
以上のような多様な行政の不始末は、官僚だけの責任ではない。長年の自民党単独政権、近年の自公政権の責任も大きい。「官僚依存」の習性は政治の側に、それを打破するだけの力量が不足していたからだろう。ひとりの官僚(元外務省外務審議官・田中均氏)のつぎの一文(毎日新聞9月7日付夕刊=東京版)を紹介したい。
今回の総選挙で国民が示した「見識」を見誤ってはならない。
第一に過去数年のこの国の「リーダーシップ」が十分ではなかったことへの国民の強い憤りである。政治リーダーの基本的な資質は「使命感、胆力、構想力」にあると思う。信念を貫くどころか、その都度のパフォーマンスで国民の人気を求めるようでは理想のリーダー像からほど遠い。
第二に、自民党政治が培ってきた統治の仕組みに対する国民の不満である。民主党の政策に期待したというよりも、既得権に縛られた自民党政治を壊したくて国民は民主党に投票したのだ。自民党の下で既得権に縛られた政策では、日本の置かれた困難な状況を打開することはできない ― と。
政治リーダーの基本的資質として「使命感、胆力、構想力」の3つを挙げている。同感である。自分にこの基本的資質を備えるべく、日々鍛錬怠りないと自負できる政治家であるかどうか、自問自答してみてはいかがか。
▽新閣僚が実施を次々と明言した政策方針
鳩山内閣の新閣僚は17日午後までに就任記者会見などでマニフェストなどの政策実施を次々と明言した。その主な内容は以下の通り。
*菅直人副総理兼国家戦略担当相=国家戦略局で予算の骨格を決定、官僚主導の政治から脱却
*原口一博総務相=国の出先機関の原則廃止など
*千葉景子法相=取り調べの全面可視化
*岡田克也外相=日米間の密約について調査し、11月末までに報告するよう命令
*藤井裕久財務相=来年度予算案の概算要求基準(シーリング)の全面見直し、09年度補正予算の執行停止で数兆円の財源を捻出、消費税引き上げより無駄遣い根絶を優先
*川端達夫文部科学相=高校授業料の実質無償化を来年4月から実施
*長妻昭厚生労働相=後期高齢者医療制度の廃止、年金記録問題の実態を徹底解明
*赤松広隆農相=農家への個別所得補償制度を11年度から実施、コメ減反の見直し、天下り団体への補助金カット
*直嶋正行経済産業相=2020年までに温室効果ガスの25%削減(1990年比)を目標に排出量取引などの具体策検討、自由貿易協定(FTA)を積極推進
*小沢鋭仁環境相=温室効果ガス25%削減を実行、温暖化対策税(環境税)を4年以内に創設、温室効果ガスの排出量取引市場を11年度に創設
*前原誠司国土交通相=八ツ場ダム(群馬県)、川辺川ダム(熊本県)の建設中止。建設中または計画段階の全国143カ所のダム事業の見直し。高速道路無料化を段階的に実施
*北沢俊美防衛相=海上自衛隊によるインド洋での米軍などへの給油活動は延長せず、海自を撤退
*平野博文官房長官=事務次官会議の廃止
*亀井静香金融・郵政担当相=郵政民営化を見直す株式売却凍結法案、郵政改革基本法案を秋の臨時国会で成立。日本郵政の西川社長に自発的辞任を求める。中小企業の融資返済を3年程度猶予するモラトリアム法案を秋の臨時国会に提出
*仙石由人行政刷新担当相=行政刷新会議で縦割り行政、補助金、天下りの構造を徹底的に総括
以上のような政策方針が自公政権では何故にできなかったのか、という感慨が今さらのように湧いてくるのを抑えがたい。自公政権は時代の新しい足音に耳をふさぎ、歴史の歯車を逆転させることに忙しく、一方民主党連立政権は、時代の新しい声に耳を傾けようと努力しつつある、その結果といえるのではないか。
▽〈安原のコメント〉 ― 「選別実施」に発想の転換を
以上、明らかにされた限りでの各閣僚の政策方針には、大筋では賛成であり、積極的に推進することを期待したい。ただいくつかの疑問点については見直しを求めたい。つまり実施すべき政策とは別に止めるべき政策は思い切って止める、あるいは修正するというマニフェストの選別実施へ発想の転換を求めたい。
マニフェストで公約したからといって、ごり押しすることは民主党のためにもならないだろう。民主党に一票を投じた有権者といえども、民主党マニフェストのすべてを無条件で賛成しているわけではないことを強調しておきたい。
「マニフェストで公約したことは実施する」と金切り声で叫んでいる民主党議員があちこちで散見されるが、未熟な政治姿勢というべきである。見直すべき政策はしっかり見直さなければ、折角、民主党に向けられた貴重な票がつぎつぎと背を向けていく ― ことに気づかないのだろうか。
疑問点は2つある。ひとつは、直嶋正行経済産業相が明言した「自由貿易協定(FTA)の積極推進」である。特に対米FTAにはコメの自由化の促進も含まれるといわれる。日本の農業、農村、田園が直面している課題は、いかにして食料自給率(カロリーベース=現在40%程度で先進国では最低)の向上、さらに田園(水田、里山、森林、河川など)が持つ多様な外部経済機能(国土・生態系、自然環境の保全機能など)の維持発展 ― を図るかである。こういう見地に立てば、食料自給率向上、田園が持つ外部経済機能の維持発展に反するような単純な自由貿易促進論は容認できない。
もうひとつは、前原誠司国土交通相が指摘した「高速道路無料化の段階的実施」である。このテーマに関する視点は2つある。ひとつは高速道利用者の負担を軽減するかどうかであり、もうひとつは、日本全体の総合交通体系をどう設計していくか、である。
前者の負担軽減にだけ視点を限れば、無料化は望ましいという結論に直結する。誰だって負担は少ない方が良いに決まっているからである。しかし率直に言って、この考えは視野が狭すぎる。
今こそ考慮すべきことは、日本全体の総合交通体系の設計である。かつてはこのテーマもしきりに議論された記憶があるが、最近は高速道の広がりを背景に車社会が定着したという感覚なのだろうか。しかしこの感覚はすでに時代遅れといわざるを得ない。
第一に今日は地球環境保全優先時代である。温暖化を進める二酸化炭素(CO2)を大量に排出する自家用車中心の交通体系の根本的転換が急務である。
第二は自家用車中心の交通体系は悲劇、弊害が多すぎる。年間100万人を超える交通事故死傷者(死者は約6000人)、自然環境の汚染・破壊、さらに交通麻痺・混雑による大きな経済的損失など。
第三に自動車の主要な石油エネルギーのような再生不能資源は枯渇に向かいつつある。その限界を自覚するときである。
そこで21世紀における総合交通体系は、鉄道、バス、路面電車、自転車など大量輸送が可能であるか、または石油エネルギーの浪費とは縁のない交通手段が中心となるほかない。自動車は脇役の地位に退くときである。欧州ではそのための試みに熱心である。目下の課題はこのような新しい総合交通体系をどう実現させていくかであり、高速道の無料化ではない。
無料化は自家用自動車の高速道の利用を増やす結果になり、鉄道、バスなどの公共交通に重点を置き換える総合交通体系への移行に反する。歴史的に観て、すでに「くるま時代」の終わりが始まりつつあることを自覚するときであろう。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
09年9月16日召集された特別国会の首相指名選挙で第93代首相に選ばれた鳩山由紀夫首相は同日夕、首相官邸で就任の記者会見を行い、決意を述べた。「とことん国民の皆さんのための政治を作る。そのためには脱官僚依存の政治を実践しなければならない」と。翌17日付各紙の一面トップ記事の見出しにも「脱官僚」の大きな文字が躍っている。
「脱官僚」とは正確に言えば、脱「官僚依存」を指している。いいかえれば主役はあくまでも政治家で、官僚は脇役でしかないという本来の望ましい姿に戻したいという意味であろう。脱「官僚依存」に必要不可欠な条件は何か。脱「官僚依存」を実践していく上で、その成否を早速試されるのが政権公約(マニフェスト)の実施である。ただし選別実施が望ましい。なぜなら中には賛成できない政権公約も少なくないからである。(09年9月18日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽大手紙の社説は脱「官僚依存」をどう論じたか
政治家は主権者である国民の投票によって選ばれたのであり、一方、官僚は、優秀であるとしても、国家公務員試験に合格したにすぎない。国民によって選ばれたのではない。当然といえば当然のことであるが、政治は国民のために行われるべきものであり、官僚のために政治があるのではない。
さて脱「官僚依存」について大手5紙の社説(9月17日付)はどう論じたか。まず大手5紙の社説見出しを紹介する。
*朝日新聞=鳩山新首相に望む 「変化」実感できる発信を
*毎日新聞=鳩山政権発足 果敢に「チェンジ」貫け まず行政の大掃除を
*読売新聞=鳩山内閣発足 進路を誤らず改革を進めよ
*日本経済新聞=鳩山首相は政権交代への期待に応えよ
*東京新聞=鳩山新政権スタート 「説得責任」果たせ
5紙の社説を一読した印象では、朝日と東京は脱「官僚依存」という視点から十分に論じているとは言えない。残りの3紙のうちでも脱「官僚依存」という問題意識では濃淡さまざまなので、ここでは毎日新聞社説の大要を以下に紹介する。
〈毎日新聞社説の大要〉
鳩山新首相は初の記者会見で「脱・官僚依存の政治を今こそ実践していかなくてはならない」と強調した。
政治主導を目指すという鳩山内閣の布陣は、副総理兼国家戦略担当相に菅直人代表代行、外相に岡田克也前幹事長、国土交通相には前原誠司副代表と歴代代表を起用するなど、党内バランスと安定感を重視した。(中略)
大切なのは具体的に何を実行していくかだ。まず、旧来の行政の悪弊を絶つことが新政権の役目だと考える。つまり行政の大掃除である。
目に余る税金の無駄遣い。「省あって国なし」の縦割り行政。前例踏襲主義。政治家、官僚、業界のもたれ合い。ここからの脱却は既得権益とはしがらみのない新しい政権だからこそ可能であり、政権交代の大きなメリットでもあるからだ。
カギを握るのは国家ビジョンや予算の骨格を作るという国家戦略局だ。従来の予算編成は各省庁ごとに積み上げる縦割り型で、しかも、既得権にとらわれ毎年、ほとんど配分は変わらなかった。これを首相らの主導で総合調整するというものだ。
閣議を事前におぜん立てしてきた事務次官会議を廃止する点も注目したい。会議は全員一致が原則で一省庁でも反対すれば成案が得られず、改革が進まない要因と指摘されてきた。廃止されれば首相や閣僚の権限は間違いなく強まるはずだ。
戦略局が本格始動するのは10月の臨時国会で戦略局に権限を付与するための法案が成立した後となり、当面は国家戦略室としてスタートさせる。さっそく前政権が5月に成立させた今年度補正予算の見直しに取り組むことになる。ここを足場に政策の優先順位を明確にし、めりはりの利いた政権運営をしてほしい。
戦略局と車の両輪の役目を担うのが行政刷新会議だ。税金の無駄遣いや行政の不正を洗い出し、政策の財源を確保するという組織だ。隠れた無駄はまだあるのではないか。同じ事業を執行するにしても、これまで高額になり過ぎていなかったのか。この見直し作業がマニフェスト実現の成否を決するといっていい。
省庁が公表してきたデータを疑っている国民は多いはずだ。岡田外相の課題となる米艦船の核持ち込みをめぐる日米密約の検証などを含め、これまでは表に出ることがなかった情報や資料を公開していくのも政権の責務である。
官僚の抵抗を排することができるかどうかは鳩山首相のリーダーシップにかかっている。
来年7月にはもう参院選が待っている。鳩山政権に必要なのは、それまでに一つでも二つでも「政治は明らかに変わった」と国民が感じられる実績を示すことである。
以上、毎日新聞社説の大要をやや長めに紹介した。そのコメントは以下に述べる。
▽〈安原のコメント〉 ― 腰を据えて取り組むべき「行政の大掃除」
上記の毎日新聞社説は、新政権が直面し、メスを入れることになる課題にバランス良く、目配りを利かせた社説である。見出しに〈果敢に「チェンジ」貫け〉をうたっているからには、もう少し過激な色彩があってもいいように思うが、毎日新聞らしい「穏当な良識」を絵に描いたような社説といえる。政権交代とともに時代も大きく変化しつつあることを十分にうかがわせる社説と評することもできよう。
さて脱「官僚依存」のための具体的な柱としてどこに注目すべきか。毎日社説は「行政の大掃除」としてつぎの諸点を挙げている。いずれも腰を据えて取り組むべき課題である。
・目に余る税金の無駄遣い、「省あって国なし」の縦割り行政、前例踏襲主義、政治家・官僚・業界のもたれ合い(いわゆる政官業の癒着関係) ― などの是正.解消、廃止をすすめること
・閣議を事前におぜん立てしてきた事務次官会議を廃止すること
・税金の無駄遣いや行政の不正 ― などを洗い出して、政策財源を確保すること
・米艦船の核持ち込みをめぐる日米政府間の密約(注)などを含め、隠された情報や資料を公開すること
(注・安原)日米密約にはつぎの4つがあるとされている。(イ)1960年の日米安保条約改定時の「核兵器持ち込み」に関する密約、(ロ)朝鮮半島有事における「戦闘作戦行動」に関する密約、(ハ)1972年の沖縄返還時に交わされた「有事の際の核兵器持ち込み」に関する密約、(ニ)沖縄返還時の「原状回復補償費の肩代わり」に関する密約。
以上のような多様な行政の不始末は、官僚だけの責任ではない。長年の自民党単独政権、近年の自公政権の責任も大きい。「官僚依存」の習性は政治の側に、それを打破するだけの力量が不足していたからだろう。ひとりの官僚(元外務省外務審議官・田中均氏)のつぎの一文(毎日新聞9月7日付夕刊=東京版)を紹介したい。
今回の総選挙で国民が示した「見識」を見誤ってはならない。
第一に過去数年のこの国の「リーダーシップ」が十分ではなかったことへの国民の強い憤りである。政治リーダーの基本的な資質は「使命感、胆力、構想力」にあると思う。信念を貫くどころか、その都度のパフォーマンスで国民の人気を求めるようでは理想のリーダー像からほど遠い。
第二に、自民党政治が培ってきた統治の仕組みに対する国民の不満である。民主党の政策に期待したというよりも、既得権に縛られた自民党政治を壊したくて国民は民主党に投票したのだ。自民党の下で既得権に縛られた政策では、日本の置かれた困難な状況を打開することはできない ― と。
政治リーダーの基本的資質として「使命感、胆力、構想力」の3つを挙げている。同感である。自分にこの基本的資質を備えるべく、日々鍛錬怠りないと自負できる政治家であるかどうか、自問自答してみてはいかがか。
▽新閣僚が実施を次々と明言した政策方針
鳩山内閣の新閣僚は17日午後までに就任記者会見などでマニフェストなどの政策実施を次々と明言した。その主な内容は以下の通り。
*菅直人副総理兼国家戦略担当相=国家戦略局で予算の骨格を決定、官僚主導の政治から脱却
*原口一博総務相=国の出先機関の原則廃止など
*千葉景子法相=取り調べの全面可視化
*岡田克也外相=日米間の密約について調査し、11月末までに報告するよう命令
*藤井裕久財務相=来年度予算案の概算要求基準(シーリング)の全面見直し、09年度補正予算の執行停止で数兆円の財源を捻出、消費税引き上げより無駄遣い根絶を優先
*川端達夫文部科学相=高校授業料の実質無償化を来年4月から実施
*長妻昭厚生労働相=後期高齢者医療制度の廃止、年金記録問題の実態を徹底解明
*赤松広隆農相=農家への個別所得補償制度を11年度から実施、コメ減反の見直し、天下り団体への補助金カット
*直嶋正行経済産業相=2020年までに温室効果ガスの25%削減(1990年比)を目標に排出量取引などの具体策検討、自由貿易協定(FTA)を積極推進
*小沢鋭仁環境相=温室効果ガス25%削減を実行、温暖化対策税(環境税)を4年以内に創設、温室効果ガスの排出量取引市場を11年度に創設
*前原誠司国土交通相=八ツ場ダム(群馬県)、川辺川ダム(熊本県)の建設中止。建設中または計画段階の全国143カ所のダム事業の見直し。高速道路無料化を段階的に実施
*北沢俊美防衛相=海上自衛隊によるインド洋での米軍などへの給油活動は延長せず、海自を撤退
*平野博文官房長官=事務次官会議の廃止
*亀井静香金融・郵政担当相=郵政民営化を見直す株式売却凍結法案、郵政改革基本法案を秋の臨時国会で成立。日本郵政の西川社長に自発的辞任を求める。中小企業の融資返済を3年程度猶予するモラトリアム法案を秋の臨時国会に提出
*仙石由人行政刷新担当相=行政刷新会議で縦割り行政、補助金、天下りの構造を徹底的に総括
以上のような政策方針が自公政権では何故にできなかったのか、という感慨が今さらのように湧いてくるのを抑えがたい。自公政権は時代の新しい足音に耳をふさぎ、歴史の歯車を逆転させることに忙しく、一方民主党連立政権は、時代の新しい声に耳を傾けようと努力しつつある、その結果といえるのではないか。
▽〈安原のコメント〉 ― 「選別実施」に発想の転換を
以上、明らかにされた限りでの各閣僚の政策方針には、大筋では賛成であり、積極的に推進することを期待したい。ただいくつかの疑問点については見直しを求めたい。つまり実施すべき政策とは別に止めるべき政策は思い切って止める、あるいは修正するというマニフェストの選別実施へ発想の転換を求めたい。
マニフェストで公約したからといって、ごり押しすることは民主党のためにもならないだろう。民主党に一票を投じた有権者といえども、民主党マニフェストのすべてを無条件で賛成しているわけではないことを強調しておきたい。
「マニフェストで公約したことは実施する」と金切り声で叫んでいる民主党議員があちこちで散見されるが、未熟な政治姿勢というべきである。見直すべき政策はしっかり見直さなければ、折角、民主党に向けられた貴重な票がつぎつぎと背を向けていく ― ことに気づかないのだろうか。
疑問点は2つある。ひとつは、直嶋正行経済産業相が明言した「自由貿易協定(FTA)の積極推進」である。特に対米FTAにはコメの自由化の促進も含まれるといわれる。日本の農業、農村、田園が直面している課題は、いかにして食料自給率(カロリーベース=現在40%程度で先進国では最低)の向上、さらに田園(水田、里山、森林、河川など)が持つ多様な外部経済機能(国土・生態系、自然環境の保全機能など)の維持発展 ― を図るかである。こういう見地に立てば、食料自給率向上、田園が持つ外部経済機能の維持発展に反するような単純な自由貿易促進論は容認できない。
もうひとつは、前原誠司国土交通相が指摘した「高速道路無料化の段階的実施」である。このテーマに関する視点は2つある。ひとつは高速道利用者の負担を軽減するかどうかであり、もうひとつは、日本全体の総合交通体系をどう設計していくか、である。
前者の負担軽減にだけ視点を限れば、無料化は望ましいという結論に直結する。誰だって負担は少ない方が良いに決まっているからである。しかし率直に言って、この考えは視野が狭すぎる。
今こそ考慮すべきことは、日本全体の総合交通体系の設計である。かつてはこのテーマもしきりに議論された記憶があるが、最近は高速道の広がりを背景に車社会が定着したという感覚なのだろうか。しかしこの感覚はすでに時代遅れといわざるを得ない。
第一に今日は地球環境保全優先時代である。温暖化を進める二酸化炭素(CO2)を大量に排出する自家用車中心の交通体系の根本的転換が急務である。
第二は自家用車中心の交通体系は悲劇、弊害が多すぎる。年間100万人を超える交通事故死傷者(死者は約6000人)、自然環境の汚染・破壊、さらに交通麻痺・混雑による大きな経済的損失など。
第三に自動車の主要な石油エネルギーのような再生不能資源は枯渇に向かいつつある。その限界を自覚するときである。
そこで21世紀における総合交通体系は、鉄道、バス、路面電車、自転車など大量輸送が可能であるか、または石油エネルギーの浪費とは縁のない交通手段が中心となるほかない。自動車は脇役の地位に退くときである。欧州ではそのための試みに熱心である。目下の課題はこのような新しい総合交通体系をどう実現させていくかであり、高速道の無料化ではない。
無料化は自家用自動車の高速道の利用を増やす結果になり、鉄道、バスなどの公共交通に重点を置き換える総合交通体系への移行に反する。歴史的に観て、すでに「くるま時代」の終わりが始まりつつあることを自覚するときであろう。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
むしろ公明、共産党の対応に注目
安原和雄
新政権を担う3党連立合意(09年9月9日)は、先の衆院総選挙で民主圧勝、自民惨敗の結果、歴史的な政権交代が既成事実となった今、どういうわけか新鮮味と驚きに欠ける。3党連立は民主党のご都合主義、つまり衆院議席では圧倒的多数だが、参院では過半数に足りないという議会運営上の悩みへの「お助けマン」でしかないからだろう。
第2党の自民党はもはや論外として、関心の的は、第3党の公明党と第4党の共産党の存在である。公明党は本来の「平和と生活の党」として自民党と縁を切って、出直すことができるのか、一方、共産党は「建設的野党」としてどういう活躍を見せるのか。両党の対応こそが今後の注目点ではないか。(09年9月12日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽3党連立合意を大手紙社説はどう論じたか
09年9月9日、民主・社民・国民新の3党が連立政権を組むことで合意した。これを受けて大手5紙の社説(9月10日付)はどう論じたか。各紙社説の見出しと要点を紹介しよう。
*朝日新聞=連立合意 政権に加わることの責任(見出し、以下同じ)
総選挙で示されたのは、政権交代を望む民意の熱いうねりだ。社民、国民新の両党もそう主張して現在の議席を得た。つまり、政権交代で誕生する新政権を維持し、国民の期待に応えられるように運営していく責任も両党は担うということだ。
民意は必ずしも民主党の政策を全面支持しているわけではない。朝日新聞の世論調査では、民主党の政策に対する有権者の支持が総選挙大勝の大きな理由とは「思わない」という人が52%に達した。両党が政権に入ることで政策がより複眼的になれば、有権者の期待に応えることにもなろう。 民主党も巨大議席に慢心せず、聞く耳を持つ態度を求めたい。
*毎日新聞=3党連立合意 民意に沿う政権運営を
社民党内には連立政権の中で埋没しかねないとの懸念がある。無論、民主党は連立政権を組む以上、連立相手の声に十分耳を傾けなければならないが、社民党も今後、抑制的な対応が必要となる。
3党合意文書の冒頭には「政権交代という民意に従い、国民の負託に応える」とある。今後もことあるたびにそれを確認し、政権運営を進めてもらいたい。期待されているのは何を具体的に変えてくれるかだ。それができなければ待っているのは「しょせん数合わせ」の批判である。
*読売新聞=3党連立合意 日米同盟の火種とならないか
政策合意の文書は、消費税率据え置き、郵政事業の抜本的見直しなど10項目で構成されている。
焦点の外交・安全保障政策では、社民党の求める「米軍再編や在日米軍基地のあり方の見直し」や「日米地位協定の改定の提起」が盛り込まれた。民主党は難色を示していたが、国民新党も社民党に同調し、押し切られた。
鳩山内閣は対米外交で、この連立合意に一定の縛りを受ける。将来の火種となりかねない。(中略)日米同盟の信頼関係も傷つく。
*日本経済新聞=連立政権で政策をゆがめない配慮を
連立に参加する以上、社民党がこだわりのあるテーマで発言権の確保を目指して不思議でない。しかし日本外交の基軸は日米同盟だ。同盟関係に直接影響を及ぼす重要課題について、民主党が少数党の主張に引きずられて妥協を重ねるようなことがあれば本末転倒だ。
外交・安全保障のほか、経済政策でも3党の主張は一致しているとは言い難い。景気の先行きがなお予断を許さないなか、調整に手間取り政策運営が遅れると、企業や家計に負の影響を及ぼしかねない。国民生活という基本を忘れてはならない。
*東京新聞=連立合意 妥協の色濃く火種残る
合意文書は抽象さが否めない。火種は、やはり残る。
週末を挟んでほぼ一週間をかけた三党の連立協議は、いずれ合意は成るはず、と見られていたせいか、もう一つ切迫感を欠いた。
連立参加の社民は、来年夏の参院選で少なくとも現有勢力を維持するようでないと存在の意味がなくなる。国民新も同様だ。民主の側にはもう、参院の単独過半数を実現すれば両党への遠慮は無用だとの声がある。
▽〈安原の感想〉― 社民、国民新は存在感を出せるか
5紙社説を読んで、その感想を述べる。社説の力点の置き所は何か、について大まかにいえば、2つある。ひとつは「日米同盟は基軸」に言及しているかどうかであり、もう一つは3党連立はうまく機能するのか、という懸念である。
前者は読売と日経である。読売は「日米同盟の火種」、さらに「日米同盟の信頼関係も傷つく」とまで表現し、日経は「日本外交の基軸は日米同盟」と強調している。日米同盟については民主党も同じ考えであり、両紙は何を懸念しているのか。ワシントンから懸念の声も聞こえてくるが、両紙はワシントンの代弁者のつもりなのか。
改めていうまでもないことだが、民意が「日米同盟は疑問」となれば、それに従うのが当然だ。ただ今回の総選挙にみる民意は、そこまで進んではいない。外交、安全保障には継続性が必要だという暗黙の思いこみがメディアにも根強い。つまり変化への抵抗である。しかし外交、安保といえども、時代の流れに沿って歴史の歯車を前へ進めようとする変革を押しとどめるような姿勢は間違っている。外交、安保も批判を許さぬ聖域ではない。
もう一つの3党連立運営のあり方はどうか。「運営していく責任」(朝日)、「しょせん数合わせ」の批判(毎日)、「もう一つ切迫感を欠いた」(東京)― など表現は多様だが、そこには期待と懸念が混在している。
むしろ気になるのは、朝日社説のつぎの指摘である。
民意は必ずしも民主党の政策を全面支持しているわけではない。朝日新聞の世論調査では、民主党の政策に対する有権者の支持が総選挙大勝の大きな理由とは「思わない」という人が52%に達した ― と。
この事実を踏まえて、朝日社説は、つぎのように主張している。
両党(社民、国民新)が政権に入ることで政策がより複眼的になれば、有権者の期待に応えることにもなろう。 民主党も巨大議席に慢心せず、聞く耳を持つ態度を求めたい ― と。
東京社説の以下の指摘も軽視できない。
民主の側にはもう、参院の単独過半数を実現すれば両党への遠慮は無用だとの声がある ― と。
この声が生き続ける限り、来年の参院選後には社民、国民新は「用済み」として除外される懸念もあるということだ。かりにこうなるとすれば、民主の傲慢というほかないだろう。一方、社民と国民新としては、連立政権内でいかに存在感を出すことができるかが勝負所ともいえる。大いに期待したい。
▽公明党 ― 惨敗から再生への展望は
公明党は、先の総選挙で太田昭宏・党代表、北側一雄・党幹事長、冬柴鉄三・元国土交通相ら首脳陣の落選とともに議席数も31議席から21議席へ10議席減となり、自民党同様に惨敗した。過去10年間に及ぶ自民中軸の連立政権への参加も終わりを告げた。
同党は9月8日、新代表に山口那津男氏(前政調会長)を選出し、出直すことになった。山口代表は就任挨拶で来年夏の参院選について「どんな困難に直面しようとも断じて勝ち抜ける強じんな党の構築を急ぐ」と強調したと伝えられる。
惨敗から再生への展望をどう描くのか。総選挙敗因の総括が曖昧(あいまい)なままでは、再生も期待できない。敗因は自公政権時代の自民党との癒着に尽きる。権力に狎(な)れすぎて、けじめを失った。いかえれば「平和と生活の党」としての初心を投げ捨てたためではないか。その初心をよみがえらせるためには何が必要か。
矢野絢也・元公明党委員長が公明党に贈るつぎのような忠言を紹介したい。自公政権時代の「濁流に身をゆだねた姿勢」から「庶民を第一に考える清流」への転換を促している。
創価学会は社会から虐(しいた)げられた人、見捨てられた人の精神的支柱となって組織を拡大した。公明党もまた、庶民、大衆の政党として存立意義を保ってきた。今、格差社会が訪れ、無情な派遣切りや高齢者医療の切り捨てがまかり通っている。公明党もそれに手を貸してきた。
公明党は出来たての頃、小さくとも清流だった。汚濁した大河に、微力ながら清らかな水を注ごうと、われわれは懸命に働いた。決して自らが大河になることが目標ではなかった。今は、政界の汚れた大河と合流し、自身も濁流となって流れている。私は公明党が大きな清流となる日が来ることを信じている ― と。
(上記の忠言は、ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に09年8月27日掲載の〈創価学会による「日本占領計画」― 総選挙後の公明党の去就に注目〉から再録)
▽共産党 ― 「建設的野党」としてどう活躍するか
共産党は従来の9議席を保持した。志位委員長は9月10日、国会内で鳩山由紀夫・民主党代表と会談し、鳩山新政権には「建設的野党」の立場で臨むことを伝えた。「建設的野党」とは最近、共産党が打ち出した新路線で、政権に対し国民の利益にかなった良いことでは協力し、一方、悪いことには反対する、あるいは問題点をただす ― という姿勢である。共産党といえば、「何でも反対」という印象がかなり広がっているが、この誤解をただそうという試みでもあるだろう。
これに対し、鳩山氏は、「良いことには協力するというのは、ありがたいことで感謝する」と表明したと伝えられる。
では「建設的野党」としての具体的な主張の中身は何か。
・民主党マニフェスト(政権公約)のうち、良いことで協力する具体例
労働者派遣法の改正、後期高齢者医療制度の撤廃、障害者自立支援法の「応益負担」の廃止、生活保護の母子加算の復活、高校授業料無償化など。
・悪いことで反対する具体例
日米FTA(自由貿易協定)交渉の促進、衆院比例定数の削減、消費税増税(民主党は「今後4年間は増税しない」と表明しているものの、その後の増税に含みを残している)、憲法改悪など。
・問題点をただす具体例
高速道路の無料化、庶民増税と抱き合わせでの「子ども手当」など。
さらに志位氏は、「財界中心」、「日米軍事同盟中心」という政治のゆがみを大本からただす必要があるとして、「これについては大いに論戦したい」と述べた。このほかつぎのようなやりとりがあったと伝えられる。
・温室効果ガスの中期削減目標について
志位氏「鳩山代表が温室効果ガスの中期削減目標で〈1990年比25%減〉を宣言したことを歓迎する」
鳩山氏「大変嬉しい。協力して乗り越えていかなければならない課題がある」
志位氏「財界が抵抗の声を挙げているが、私たちは道理に立った論陣を張っていく」
・「日米核密約」問題(注)について
志位氏「鳩山代表が選挙中の党首討論で〈密約を調査し、核兵器を持ち込ませない方向で米国と交渉する〉と述べたことは重要な言明だ。真相究明と密約廃棄のために協力したい」
さらに共産党が米国で入手した核密約に関する公文書を資料として鳩山氏に手渡した。
鳩山氏「真相究明が大切だ。資料を提供していただいてありがたい。何よりも事実が大切だ」
(注)核兵器積載の米艦船などが日本に寄港することを現行日米安保条約(1960年締結)上の事前協議の対象外として自由に認めるという日米政府間の密約。この密約の存在によって、日本の非核3原則(=核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず)のうち「持ち込ませず」が事実上空洞化して、非核2原則に改変されている。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
新政権を担う3党連立合意(09年9月9日)は、先の衆院総選挙で民主圧勝、自民惨敗の結果、歴史的な政権交代が既成事実となった今、どういうわけか新鮮味と驚きに欠ける。3党連立は民主党のご都合主義、つまり衆院議席では圧倒的多数だが、参院では過半数に足りないという議会運営上の悩みへの「お助けマン」でしかないからだろう。
第2党の自民党はもはや論外として、関心の的は、第3党の公明党と第4党の共産党の存在である。公明党は本来の「平和と生活の党」として自民党と縁を切って、出直すことができるのか、一方、共産党は「建設的野党」としてどういう活躍を見せるのか。両党の対応こそが今後の注目点ではないか。(09年9月12日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽3党連立合意を大手紙社説はどう論じたか
09年9月9日、民主・社民・国民新の3党が連立政権を組むことで合意した。これを受けて大手5紙の社説(9月10日付)はどう論じたか。各紙社説の見出しと要点を紹介しよう。
*朝日新聞=連立合意 政権に加わることの責任(見出し、以下同じ)
総選挙で示されたのは、政権交代を望む民意の熱いうねりだ。社民、国民新の両党もそう主張して現在の議席を得た。つまり、政権交代で誕生する新政権を維持し、国民の期待に応えられるように運営していく責任も両党は担うということだ。
民意は必ずしも民主党の政策を全面支持しているわけではない。朝日新聞の世論調査では、民主党の政策に対する有権者の支持が総選挙大勝の大きな理由とは「思わない」という人が52%に達した。両党が政権に入ることで政策がより複眼的になれば、有権者の期待に応えることにもなろう。 民主党も巨大議席に慢心せず、聞く耳を持つ態度を求めたい。
*毎日新聞=3党連立合意 民意に沿う政権運営を
社民党内には連立政権の中で埋没しかねないとの懸念がある。無論、民主党は連立政権を組む以上、連立相手の声に十分耳を傾けなければならないが、社民党も今後、抑制的な対応が必要となる。
3党合意文書の冒頭には「政権交代という民意に従い、国民の負託に応える」とある。今後もことあるたびにそれを確認し、政権運営を進めてもらいたい。期待されているのは何を具体的に変えてくれるかだ。それができなければ待っているのは「しょせん数合わせ」の批判である。
*読売新聞=3党連立合意 日米同盟の火種とならないか
政策合意の文書は、消費税率据え置き、郵政事業の抜本的見直しなど10項目で構成されている。
焦点の外交・安全保障政策では、社民党の求める「米軍再編や在日米軍基地のあり方の見直し」や「日米地位協定の改定の提起」が盛り込まれた。民主党は難色を示していたが、国民新党も社民党に同調し、押し切られた。
鳩山内閣は対米外交で、この連立合意に一定の縛りを受ける。将来の火種となりかねない。(中略)日米同盟の信頼関係も傷つく。
*日本経済新聞=連立政権で政策をゆがめない配慮を
連立に参加する以上、社民党がこだわりのあるテーマで発言権の確保を目指して不思議でない。しかし日本外交の基軸は日米同盟だ。同盟関係に直接影響を及ぼす重要課題について、民主党が少数党の主張に引きずられて妥協を重ねるようなことがあれば本末転倒だ。
外交・安全保障のほか、経済政策でも3党の主張は一致しているとは言い難い。景気の先行きがなお予断を許さないなか、調整に手間取り政策運営が遅れると、企業や家計に負の影響を及ぼしかねない。国民生活という基本を忘れてはならない。
*東京新聞=連立合意 妥協の色濃く火種残る
合意文書は抽象さが否めない。火種は、やはり残る。
週末を挟んでほぼ一週間をかけた三党の連立協議は、いずれ合意は成るはず、と見られていたせいか、もう一つ切迫感を欠いた。
連立参加の社民は、来年夏の参院選で少なくとも現有勢力を維持するようでないと存在の意味がなくなる。国民新も同様だ。民主の側にはもう、参院の単独過半数を実現すれば両党への遠慮は無用だとの声がある。
▽〈安原の感想〉― 社民、国民新は存在感を出せるか
5紙社説を読んで、その感想を述べる。社説の力点の置き所は何か、について大まかにいえば、2つある。ひとつは「日米同盟は基軸」に言及しているかどうかであり、もう一つは3党連立はうまく機能するのか、という懸念である。
前者は読売と日経である。読売は「日米同盟の火種」、さらに「日米同盟の信頼関係も傷つく」とまで表現し、日経は「日本外交の基軸は日米同盟」と強調している。日米同盟については民主党も同じ考えであり、両紙は何を懸念しているのか。ワシントンから懸念の声も聞こえてくるが、両紙はワシントンの代弁者のつもりなのか。
改めていうまでもないことだが、民意が「日米同盟は疑問」となれば、それに従うのが当然だ。ただ今回の総選挙にみる民意は、そこまで進んではいない。外交、安全保障には継続性が必要だという暗黙の思いこみがメディアにも根強い。つまり変化への抵抗である。しかし外交、安保といえども、時代の流れに沿って歴史の歯車を前へ進めようとする変革を押しとどめるような姿勢は間違っている。外交、安保も批判を許さぬ聖域ではない。
もう一つの3党連立運営のあり方はどうか。「運営していく責任」(朝日)、「しょせん数合わせ」の批判(毎日)、「もう一つ切迫感を欠いた」(東京)― など表現は多様だが、そこには期待と懸念が混在している。
むしろ気になるのは、朝日社説のつぎの指摘である。
民意は必ずしも民主党の政策を全面支持しているわけではない。朝日新聞の世論調査では、民主党の政策に対する有権者の支持が総選挙大勝の大きな理由とは「思わない」という人が52%に達した ― と。
この事実を踏まえて、朝日社説は、つぎのように主張している。
両党(社民、国民新)が政権に入ることで政策がより複眼的になれば、有権者の期待に応えることにもなろう。 民主党も巨大議席に慢心せず、聞く耳を持つ態度を求めたい ― と。
東京社説の以下の指摘も軽視できない。
民主の側にはもう、参院の単独過半数を実現すれば両党への遠慮は無用だとの声がある ― と。
この声が生き続ける限り、来年の参院選後には社民、国民新は「用済み」として除外される懸念もあるということだ。かりにこうなるとすれば、民主の傲慢というほかないだろう。一方、社民と国民新としては、連立政権内でいかに存在感を出すことができるかが勝負所ともいえる。大いに期待したい。
▽公明党 ― 惨敗から再生への展望は
公明党は、先の総選挙で太田昭宏・党代表、北側一雄・党幹事長、冬柴鉄三・元国土交通相ら首脳陣の落選とともに議席数も31議席から21議席へ10議席減となり、自民党同様に惨敗した。過去10年間に及ぶ自民中軸の連立政権への参加も終わりを告げた。
同党は9月8日、新代表に山口那津男氏(前政調会長)を選出し、出直すことになった。山口代表は就任挨拶で来年夏の参院選について「どんな困難に直面しようとも断じて勝ち抜ける強じんな党の構築を急ぐ」と強調したと伝えられる。
惨敗から再生への展望をどう描くのか。総選挙敗因の総括が曖昧(あいまい)なままでは、再生も期待できない。敗因は自公政権時代の自民党との癒着に尽きる。権力に狎(な)れすぎて、けじめを失った。いかえれば「平和と生活の党」としての初心を投げ捨てたためではないか。その初心をよみがえらせるためには何が必要か。
矢野絢也・元公明党委員長が公明党に贈るつぎのような忠言を紹介したい。自公政権時代の「濁流に身をゆだねた姿勢」から「庶民を第一に考える清流」への転換を促している。
創価学会は社会から虐(しいた)げられた人、見捨てられた人の精神的支柱となって組織を拡大した。公明党もまた、庶民、大衆の政党として存立意義を保ってきた。今、格差社会が訪れ、無情な派遣切りや高齢者医療の切り捨てがまかり通っている。公明党もそれに手を貸してきた。
公明党は出来たての頃、小さくとも清流だった。汚濁した大河に、微力ながら清らかな水を注ごうと、われわれは懸命に働いた。決して自らが大河になることが目標ではなかった。今は、政界の汚れた大河と合流し、自身も濁流となって流れている。私は公明党が大きな清流となる日が来ることを信じている ― と。
(上記の忠言は、ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に09年8月27日掲載の〈創価学会による「日本占領計画」― 総選挙後の公明党の去就に注目〉から再録)
▽共産党 ― 「建設的野党」としてどう活躍するか
共産党は従来の9議席を保持した。志位委員長は9月10日、国会内で鳩山由紀夫・民主党代表と会談し、鳩山新政権には「建設的野党」の立場で臨むことを伝えた。「建設的野党」とは最近、共産党が打ち出した新路線で、政権に対し国民の利益にかなった良いことでは協力し、一方、悪いことには反対する、あるいは問題点をただす ― という姿勢である。共産党といえば、「何でも反対」という印象がかなり広がっているが、この誤解をただそうという試みでもあるだろう。
これに対し、鳩山氏は、「良いことには協力するというのは、ありがたいことで感謝する」と表明したと伝えられる。
では「建設的野党」としての具体的な主張の中身は何か。
・民主党マニフェスト(政権公約)のうち、良いことで協力する具体例
労働者派遣法の改正、後期高齢者医療制度の撤廃、障害者自立支援法の「応益負担」の廃止、生活保護の母子加算の復活、高校授業料無償化など。
・悪いことで反対する具体例
日米FTA(自由貿易協定)交渉の促進、衆院比例定数の削減、消費税増税(民主党は「今後4年間は増税しない」と表明しているものの、その後の増税に含みを残している)、憲法改悪など。
・問題点をただす具体例
高速道路の無料化、庶民増税と抱き合わせでの「子ども手当」など。
さらに志位氏は、「財界中心」、「日米軍事同盟中心」という政治のゆがみを大本からただす必要があるとして、「これについては大いに論戦したい」と述べた。このほかつぎのようなやりとりがあったと伝えられる。
・温室効果ガスの中期削減目標について
志位氏「鳩山代表が温室効果ガスの中期削減目標で〈1990年比25%減〉を宣言したことを歓迎する」
鳩山氏「大変嬉しい。協力して乗り越えていかなければならない課題がある」
志位氏「財界が抵抗の声を挙げているが、私たちは道理に立った論陣を張っていく」
・「日米核密約」問題(注)について
志位氏「鳩山代表が選挙中の党首討論で〈密約を調査し、核兵器を持ち込ませない方向で米国と交渉する〉と述べたことは重要な言明だ。真相究明と密約廃棄のために協力したい」
さらに共産党が米国で入手した核密約に関する公文書を資料として鳩山氏に手渡した。
鳩山氏「真相究明が大切だ。資料を提供していただいてありがたい。何よりも事実が大切だ」
(注)核兵器積載の米艦船などが日本に寄港することを現行日米安保条約(1960年締結)上の事前協議の対象外として自由に認めるという日米政府間の密約。この密約の存在によって、日本の非核3原則(=核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず)のうち「持ち込ませず」が事実上空洞化して、非核2原則に改変されている。
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仏教経済思想の視点から吟味する
安原和雄
民主党政権の新政策はどういう展開をたどるのだろうか。マニフェスト(政権公約)から判断する限り、子育て・教育の支援、ダム建設の中止、後期高齢者制度の廃止、地球温暖化ガスの削減など、自民・公明政権とは異質で、評価に値する政策も多い。その半面、疑問も少なくない。憲法9条の改悪志向、軍事同盟・日米安保体制の堅持などは、自公政権と変わらない。それだけではない。話題を呼んでいる高速道路の無料化は、自公政権に比べむしろ悪政といえるのではないか。仏教経済思想の視点に立って吟味する。(09年9月8日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
9月7日、東京・千代田区内幸町のプレスセンタービル内で開かれた仏教経済フォーラム(寺下英明会長)月例会で私(安原・同フォーラム副会長)は「民主党の政権公約を吟味する 仏教経済思想生かす変革の視点から」と題して講話した。その大要は以下の通り。
〈噛みしめたい二つの言葉〉
まずわれわれが心すべき言葉に触れておきたい。
今から17年も前の1992年、ブラジルのリオで開かれた国連主催の第一回地球環境サミットで当時12歳の少女が各国首脳の前でスピーチをした。
「もし戦争のために使われているお金を全部、貧しさと環境問題を解決するのに使えば、この地球はすばらしい星になるでしょう。私はまだ子どもだけど、そのことを知っています」と。
この少女の夢と希望を実現させるにはどうすればいいのか。純真な子どもたちには分かっていることを、知恵もあるはずの大人たちはなぜ理解しようとしないのか。理解し、実現に向けて努力を重ねなければ、日本も世界も、地球も人類も救われないだろう。
もう一つ、在インド43年の僧侶・佐々井秀嶺さん(注)が最近日本に半世紀ぶりに一時帰国して観た「今の日本」に関する印象を紹介したい。僧侶はこう語っている。「宗教がどこか敬遠されるような雰囲気が社会にある。日本の仏教は何をしているのか。民衆がついていこうと思うような姿を見せているのだろうか.」と。
佐々井さんは「インドでは最近の経済発展が貧しい人の暮らしにますます影を落としている。真のインドを知るためには、もっと貧しい人たちに目を向けなければならない」と訴えてもいる。(『一人一寺 心の寺』98号、編集者・米山 進=2009年8月発行・参照)
(注)ささい・しゅうれい=1935年岡山県生まれ、インド国籍を取得し、仏教徒代表としてインド政府少数者委員会委員を務める。
私は佐々井さんのこの記事を読んで、佐々井さん流に言えば、「民衆がついていこうと思うような姿を仏教経済学は見せているだろうか」と感じている。仏教経済のあるべき姿を追求しているこの仏教経済フォーラムとしても、「自戒のことば」としたい。
講話の主な柱はつぎの通り。
機ナ教経済学の八つのキーワード ― 菩薩精神の実践
八つのキーワード=いのち尊重、非暴力、知足、共生、簡素、利他、持続性、多様性=は21世紀の菩薩精神の実践を意味する。
(1)英国の歴史家、アーノルド・J・トインビー(1889〜1975年)の洞察
「21世紀は大乗仏教が説く菩薩精神を持った人間が要請される」
(2)道元(曹洞宗の開祖・1200〜1253年)の菩薩四摂法(ぼさつししょうぼう)の実 践
・布施=お坊さんへの金一封は重視しない。貪(むさぼ)らないこと。権力に諂(へつ)らわず、富貴に頭を下げず、毅然として法(道理)を施すこと
・愛語=慈愛の心をおこし、人を赤子のように思いなして言葉を発すること
・利行=まず相手の利を図ること、すなわち利他は、結局自分をも利すること
・同事=自他ともに不違、つまり協力し合う関係にあること。自他一如ともいう
(臨済宗妙心寺派31代管長・西片擔雪老師の『碧巌録提唱』参照)
供ヌ閏臈泙離泪縫侫Д好函弊権公約)を吟味する ― 仏教生かす変革構想に立って
(1)憲法9条を改定するのか
(2)日米同盟はどうするのか
(3)高速道路の無料化は疑問
さて以下では「供ヌ閏臈泙離泪縫侫Д好箸魘稾する」に重点を置いて考える。
民主党のマニフェストの中では子育て・教育の支援、ダム建設(川辺川ダム・熊本県、八ツ場ダム・群馬県)の中止、後期高齢者制度の廃止、温暖化ガスを2020年までに25%削減(1990年比) ― など評価に値する政策も多い。一方、税制面での扶養控除廃止などは疑問である。さらに憲法9条改悪志向、日米同盟堅持は自公政権と変わらず、賛成できない。また高速道路の無料化は自公政権よりもむしろ悪政というべきである。
ここでは9条改悪、日米同盟堅持、高速道路無料化 ― の3つについて吟味する。
(1)憲法9条を改定するのか ― 浮かび上がる改悪志向
「民主は9条をどうするのか」と題する朝日新聞投書(8月21日付、66歳の男性・東京都)を紹介する。趣旨はつぎの通り。
民主党にはぜひ、9条への見解を有権者に明示してほしい。(中略)軍事力に軍事力で対抗することは平和を保障しない。核対核では人類の存続すらおぼつかない。民主党には世界に誇れる9条をもって世界平和を推進することを、はっきり約束してほしい ― と。
投書の意見は至極もっともである。民主党の見解はどうか。マニフェストに「国民の自由闊達な憲法論議を」とうたっているところをみると、改憲も辞さないということだろう。ここでは首相に就任する鳩山由紀夫民主党代表の9条改憲論(新憲法試案・2005年)を紹介する。結論からいえば、「9条改定、自衛軍の保持、集団的自衛権の容認」である。その骨子は以下の通り。
・日本国の独立と安全を確保するため、自衛軍を保持する。
〈安原のコメント〉これは、現行平和憲法9条2項「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」の否定である。
・外交政策における選択肢を狭め、国益を損なうことのないように、集団的自衛権の制限的な行使を容認する。
〈コメント〉軍事同盟国の米国が攻撃された場合、日本が直接攻撃されなくとも、海外での武力行使ができるという「集団的自衛権」の行使を容認するもので、従来の自民党政府も、憲法上禁じられていると判断していた原則を転換させることを意味する。
・国連決議による多国籍軍、あるいは将来編成されるかもしれない国連常設軍への参加などを容認する。
〈コメント〉武力行使をともなう国連の軍事活動への参加を意味する。
以上は憲法9条の平和=非戦の理念を「欺瞞的」と批判しながら根底から覆(くつがえ)そうとするほどの改悪案である。民主党新政権が発足して、直ちに以上の9条改悪論が浮上して来ないとしても、要注意である。というのは、来年(2010年)5月から憲法改正国民投票法が施行されるからである。
〈憲法に「持続的発展」条項の追加導入を〉
私(安原)はこのような平和理念を否定する9条改悪とは違って、平和理念を強化発展させることは必要ではないかと考える。具体案として新たに「持続的発展」条項を導入することを提唱したい。『新・世界環境保全戦略』(世界自然保護基金などが1991年、国連主催の第一回地球サミットに先立って発表した提言で、仏教を含む宗教的思考が盛り込まれている)は、「政府は憲法その他、国政の基本となる文書において持続可能な社会の規範を明記すべきである」と各国政府に憲法条項追加論を提起している。
それにヒントを得たのが憲法追加条項導入で、私(安原)の試案は次の通り。
*9条に「国及び国民は、世界の平和と持続的発展のために、世界の核を含む大量破壊兵器の廃絶と通常軍事力の顕著な削減または撤廃に向けて努力する」を追加する。
この追加条項は仏教経済学の八つのキーワードのうちの「いのち尊重、非暴力、知足、共生、持続性」などの実践をも意味する。
いずれにしても憲法9条は今では「世界の宝」としての評価が地球規模で広がりつつあることを重視したい。平和理念の強化は必要であるが、その改悪は歴史と時代の要請に逆行するものである。
(2)日米同盟はどうするのか ― 「安保体制堅持」のマイナス効果
民主党のマニフェストは日米同盟のあり方についてつぎのように書いている。
日本外交の基礎として緊密で対等な日米同盟関係をつくるため、主体的な外交戦略を構築した上で、米国と役割を分担しながら日本の責任を積極的に果たす ― と。
ここでは民主党は「対等な日米同盟」をうたっている。自民党がマニフェストでも「日米同盟の強化」を主張しているのとたしかにニュアンスは違う。問題は民主の「対等」とは何を意味するのか、従来の対米依存からの脱却を志向するのかどうかである。
米紙ニューヨーク・タイムズ(9月2日付)の記事が日本で話題になっている。同紙はつぎのように伝えているからである。(朝日新聞9月3日付から)
複数の米政権高官が「アフガニスタンでの戦いといった米国の優先課題や、アジアでの米軍再編などの問題で、米国を支えてきた立場から日本が離れていってしまうのではないか」との懸念を抱いている。ある高官の「予測不可能な時代に入った」という発言を引用しながら、「今回の投票が、米国への長年続いた依存関係から日本が離れようとする、より根本的な変化の予兆なのかどうか、大きな疑問がワシントンにある」 ― と。
〈鳩山氏の論文「私の政治哲学」から〉
鳩山新政権に対する米国側の不安の背景に、月刊誌『Voice』(09年9月号)に掲載された鳩山論文「私の政治哲学」がある。鳩山氏が唱える「友愛」の理念をくわしく論じたもので、その大要は以下の通り。
・「友愛」はグローバル化する現代資本主義の行き過ぎを正し、伝統の中で培われてきた国民経済との調整を目指す理念といえよう。それは市場至上主義から国民の生活や安全を守る政策に転換し、共生の経済社会を建設することを意味する。
・今回の世界経済危機は、アメリカが推し進めてきた市場原理主義や金融資本主義の破綻によってもたらされたものである。
米国的な自由市場経済が、普遍的で理想的な経済秩序であり、諸国はそれぞれの国民経済の伝統や規制を改め、経済社会の構造をグローバルスタンダード(実はアメリカンスタンダード)に合わせて改革していくべきだという思潮だった。
・日本国内でもこのグローバリズムの流れを積極的に受け入れ、全てを市場に委ねる行き方を良しとする人たちと、これに消極的に対応し、社会的な安全網(セーフティネット)の充実や国民経済的な伝統を守ろうとする人たちに分かれた。小泉政権以来の自民党は前者であり、私たち民主党はどちらかというと後者の立場だった。
・農業、環境、医療など、われわれの生命と安全にかかわる分野の経済活動を、無造作にグローバリズムの奔流の中に投げ出すような政策は、「友愛」の理念からは許されない。また生命の安全や生活の安定にかかわるルールや規制はむしろ強化しなければならない。
・経済的統合が進む欧州連合(EU)では、一方でローカル化の流れも顕著である。グローバル化する経済環境の中で、伝統や文化の基盤としての国、地域の独自性をどう維持していくか、それはEUのみならず、日本にとっても大きな課題である。
・「友愛」が導くもう一つの国家目標は「東アジア共同体」の創造であろう。もちろん、日米安保体制は、今後も日本外交の基軸でありつづけるし、それは日本外交の柱である。同時にアジアに位置する国家としてのアイデンティティを忘れてはならない。東アジア地域を、わが国が生きていく基本的な生活空間と捉えて、この地域に安定した経済協力と安全保障の枠組みを創る努力を続けなければならない。
・イラク戦争の失敗と金融危機によってアメリカ主導のグローバリズムの時代は終焉し、世界はアメリカ一極支配の時代から多極化の時代に向かうだろう。しかし今のところアメリカに代わる覇権国家も、ドルに代わる基軸通貨も見当たらない。
アメリカは今後影響力を低下させていくが、二、三〇年は、その軍事的経済的実力は、世界の第一人者のままだろう。
〈アメリカ高官の不安の背景〉
以上、鳩山氏の「政治哲学」の主旨を紹介した。大筋では評価に値する内容になっている。ただし「日米安保体制は日本外交の基軸」という一点を除いてである。にもかかわらずどの部分がアメリカの一部高官に不安を抱かせているのか。
まず考えられるのはアメリカ主導のグローバル化と市場至上(原理)主義への批判についてである。
鳩山論文は「社会的な安全網(セーフティネット)の充実」や「農業、環境、医療など、われわれの生命と安全にかかわる分野のルールや規制はむしろ強化」と指摘している。これはEU型の規制を導入した福祉国家のイメージである。市場原理主義に盲従した自民党に大勝した民主党としては、グローバル化と市場原理主義に「離別宣告」を出すのは当然であるが、現実にどこまで縁を切れるのか、今後のお手並み拝見というところだろう。
つぎに鳩山論文の「アメリカ一極支配から多極化へ」という世界認識についてである。これも中国やEUの台頭、「アメリカの裏庭」といわれた南米諸国によるアメリカ支配からの自主的な離脱 ― などの動きをみれば、多極化への動きは顕著である。アメリカの高官たちにこの動向が見えていないとすれば、世界認識がずれすぎている。それともアメリカにとって頼りになるのはもはや日本しか期待できないという「おすがり(?)作戦」なのか。
さらに「友愛」が導くもう一つの国家目標として「東アジア共同体」の創造を打ち出している点である。しかも「東アジア共同体」の性格づけとしてつぎの3点を挙げている。
・アジアに位置する国家としてのアイデンティティ
・東アジア地域は、わが国が生きていく基本的な生活空間
・この地域に安定した経済協力と安全保障の枠組みを創る努力
この3点は読み方によってはたしかに刺激的ではある。アメリカからの自立志向だと受け止められないこともない。鳩山氏自身がそれを意識したのかどうか、続けて「日米安保体制は今後も日本外交の基軸」とわざわざ念を押している。
〈「日米同盟堅持」に執着は時代遅れ〉
むしろ問題は鳩山民主党代表が「日米同盟堅持」に執着している点である。同論文で「日米安保体制は、今後も日本外交の基軸でありつづけるし、日本外交の柱」と明示している。同代表は9月3日未明、オバマ米大統領と電話会談し、「日米同盟が基軸だ。建設的な未来志向の日米関係を発展させよう」と呼びかけた(朝日新聞9月3日付)。
私(安原)は東アジアにおける集団安全保障体制を模索するのは一策だと考えるが、日米安保(対象範囲は当初の「極東の安保」から今では「世界の安保」へと地球規模に拡大変質している)のような2国間の軍事同盟はすでに時代遅れであると認識している。もはや軍事力で解決できるものは何一つないからである。
温暖化、飢餓、貧困、大規模災害、インフルエンザなど目下人類が直面している地球規模の多様な難問をみれば、一目瞭然であろう。テロにしてもアフガニスタンの現状は、軍事力がいかに無力であるかを教えている。むしろ世界の巨額の軍事費(年間約120兆円)を地球規模の難問のために回して、難問打開に取り組むときである。
軍事力増強とその行使は仏教経済学(思想)の八つのキーワード、「いのち尊重、非暴力、知足、共生、簡素、利他、持続性、多様性」のいずれとも対立し、鳩山代表の「友愛」とも矛盾する。これでは「友愛」の看板が錆(さ)びていくのも避けがたい。鳩山代表の「安保堅持」は「9条改悪」と並んでやがて支持率低落の要因にもなるだろう。
(3)高速道無料化は疑問 ― 車社会の構造変革こそが課題
民主党政権のマニフェストで売り物の一つになっているのが高速道路の無料化である。無料化のプラス効果としてつぎの諸点が挙げられている。
・生活コスト、企業活動コストが下がる
・地域間交流が活発になり経済が活性化する
・無料化に伴う経済波及効果は「最大で8兆円に上る」
これでは景気刺激策としての側面が強すぎるのではないか。一方、無料化に伴うマイナス効果も大きく、つぎのような点が指摘できる。これでは景気刺激策としての効果にも疑問が生じる。
・高速道路はこれまでの民営から国有に移行され、借金返済は税金で支払うことになるため、従来の利用者負担という受益者負担の原則は壊れ、車を利用しない者にまで税負担が広がる。
・JR各社の輸送量も麻生政権下で「休日1000円」が始まった09年3月末以降、前年同期比で1割減となるなど交通機関別のシェアが変わってきた。
(以上は毎日新聞(9月3日付)の記事「高速道無料化民主案=返済の原資は通行料から税金に、公平性に疑念も」などを参照)
ここで「高速道の無料化が招く事態」と題する朝日新聞投書(8月16日付、47歳の男性・名古屋市)を紹介する。要旨つぎの通り。
鉄道から車に乗り換える人が増えるあおりで鉄道やバスの利用者は激減し、地方路線の廃止が進むだろう。その結果、車を持たない経済弱者やお年寄りは無料化の恩恵を受けられないばかりか、日常生活の足まで失うことになる。高齢化が進んでいること、車から排出される二酸化炭素(CO2)増加による温暖化問題など、様々な視点から将来の国の交通体系を考える必要がある。民主党は、この交通体系のあるべき姿をどのように考えているのか ― と。
〈公共交通中心の総合交通体系へ転換を〉
この投書が指摘するように高速道の無料化で経済を活性化させようとするのは適切な政策ではない。日本全体の総合交通体系の中で車社会をどう構造変革していくのかこそが重要なテーマである。具体策としては現在の自動車中心の交通体系から鉄道、路線バス、路面電車、コミュニティバスなど公共交通中心の交通体系への構造転換を急ぐ必要がある。
交通事故死は年間約6000人、負傷者は同100万人を超えている。毎年繰り返される車によるいのち軽視、暴力の横行に「明日は我が身」であるにもかかわらず、多くの人はいささか無感覚になってはいないか。これは精神的頽廃というほかない。無料化によって利用者が増え、渋滞が多くなり、しかも無謀運転によって交通事故が増加する懸念もある。
環境省のデータによると、一人が同じ距離を移動する場合、自家用自動車は、鉄道に比べ約6倍、バスに比べ約2倍の化石エネルギー(石油など)を浪費し、それだけ地球温暖化の原因である二酸化炭素(CO2)を大量に排出する。だから地球環境の保全と持続性のためにも公共交通中心への転換が急務といえる。
転換を促進させるためには自動車よりも公共交通の利用負担を下げて、割安にする必要がある。ところが自動車負担の方を軽くしようというのだから、本末転倒というべきである。
また地球環境保全優先時代にふさわしく、共生を重視し、知足と簡素な暮らしのためにも、自動車を降りて、自転車や徒歩による移動をできるだけ心掛けたい。そのためには自転車道、歩道の整備も欠かせない。高速道路ではなく、この分野の公共投資こそが重要である。
〈ご参考〉安原和雄のつぎの2論文がこの記事の下敷きになっている。
・「二十一世紀と仏教経済学と(上)― いのち・非暴力・知足を軸に」(駒澤大学仏教経済研究所編『仏教経済研究』第37号、2008年5月)
・「二十一世紀と仏教経済学と(下)― 仏教を生かす日本変革構想」(同『仏教経済研究』第38号、2009年5月)
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
民主党政権の新政策はどういう展開をたどるのだろうか。マニフェスト(政権公約)から判断する限り、子育て・教育の支援、ダム建設の中止、後期高齢者制度の廃止、地球温暖化ガスの削減など、自民・公明政権とは異質で、評価に値する政策も多い。その半面、疑問も少なくない。憲法9条の改悪志向、軍事同盟・日米安保体制の堅持などは、自公政権と変わらない。それだけではない。話題を呼んでいる高速道路の無料化は、自公政権に比べむしろ悪政といえるのではないか。仏教経済思想の視点に立って吟味する。(09年9月8日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
9月7日、東京・千代田区内幸町のプレスセンタービル内で開かれた仏教経済フォーラム(寺下英明会長)月例会で私(安原・同フォーラム副会長)は「民主党の政権公約を吟味する 仏教経済思想生かす変革の視点から」と題して講話した。その大要は以下の通り。
〈噛みしめたい二つの言葉〉
まずわれわれが心すべき言葉に触れておきたい。
今から17年も前の1992年、ブラジルのリオで開かれた国連主催の第一回地球環境サミットで当時12歳の少女が各国首脳の前でスピーチをした。
「もし戦争のために使われているお金を全部、貧しさと環境問題を解決するのに使えば、この地球はすばらしい星になるでしょう。私はまだ子どもだけど、そのことを知っています」と。
この少女の夢と希望を実現させるにはどうすればいいのか。純真な子どもたちには分かっていることを、知恵もあるはずの大人たちはなぜ理解しようとしないのか。理解し、実現に向けて努力を重ねなければ、日本も世界も、地球も人類も救われないだろう。
もう一つ、在インド43年の僧侶・佐々井秀嶺さん(注)が最近日本に半世紀ぶりに一時帰国して観た「今の日本」に関する印象を紹介したい。僧侶はこう語っている。「宗教がどこか敬遠されるような雰囲気が社会にある。日本の仏教は何をしているのか。民衆がついていこうと思うような姿を見せているのだろうか.」と。
佐々井さんは「インドでは最近の経済発展が貧しい人の暮らしにますます影を落としている。真のインドを知るためには、もっと貧しい人たちに目を向けなければならない」と訴えてもいる。(『一人一寺 心の寺』98号、編集者・米山 進=2009年8月発行・参照)
(注)ささい・しゅうれい=1935年岡山県生まれ、インド国籍を取得し、仏教徒代表としてインド政府少数者委員会委員を務める。
私は佐々井さんのこの記事を読んで、佐々井さん流に言えば、「民衆がついていこうと思うような姿を仏教経済学は見せているだろうか」と感じている。仏教経済のあるべき姿を追求しているこの仏教経済フォーラムとしても、「自戒のことば」としたい。
講話の主な柱はつぎの通り。
機ナ教経済学の八つのキーワード ― 菩薩精神の実践
八つのキーワード=いのち尊重、非暴力、知足、共生、簡素、利他、持続性、多様性=は21世紀の菩薩精神の実践を意味する。
(1)英国の歴史家、アーノルド・J・トインビー(1889〜1975年)の洞察
「21世紀は大乗仏教が説く菩薩精神を持った人間が要請される」
(2)道元(曹洞宗の開祖・1200〜1253年)の菩薩四摂法(ぼさつししょうぼう)の実 践
・布施=お坊さんへの金一封は重視しない。貪(むさぼ)らないこと。権力に諂(へつ)らわず、富貴に頭を下げず、毅然として法(道理)を施すこと
・愛語=慈愛の心をおこし、人を赤子のように思いなして言葉を発すること
・利行=まず相手の利を図ること、すなわち利他は、結局自分をも利すること
・同事=自他ともに不違、つまり協力し合う関係にあること。自他一如ともいう
(臨済宗妙心寺派31代管長・西片擔雪老師の『碧巌録提唱』参照)
供ヌ閏臈泙離泪縫侫Д好函弊権公約)を吟味する ― 仏教生かす変革構想に立って
(1)憲法9条を改定するのか
(2)日米同盟はどうするのか
(3)高速道路の無料化は疑問
さて以下では「供ヌ閏臈泙離泪縫侫Д好箸魘稾する」に重点を置いて考える。
民主党のマニフェストの中では子育て・教育の支援、ダム建設(川辺川ダム・熊本県、八ツ場ダム・群馬県)の中止、後期高齢者制度の廃止、温暖化ガスを2020年までに25%削減(1990年比) ― など評価に値する政策も多い。一方、税制面での扶養控除廃止などは疑問である。さらに憲法9条改悪志向、日米同盟堅持は自公政権と変わらず、賛成できない。また高速道路の無料化は自公政権よりもむしろ悪政というべきである。
ここでは9条改悪、日米同盟堅持、高速道路無料化 ― の3つについて吟味する。
(1)憲法9条を改定するのか ― 浮かび上がる改悪志向
「民主は9条をどうするのか」と題する朝日新聞投書(8月21日付、66歳の男性・東京都)を紹介する。趣旨はつぎの通り。
民主党にはぜひ、9条への見解を有権者に明示してほしい。(中略)軍事力に軍事力で対抗することは平和を保障しない。核対核では人類の存続すらおぼつかない。民主党には世界に誇れる9条をもって世界平和を推進することを、はっきり約束してほしい ― と。
投書の意見は至極もっともである。民主党の見解はどうか。マニフェストに「国民の自由闊達な憲法論議を」とうたっているところをみると、改憲も辞さないということだろう。ここでは首相に就任する鳩山由紀夫民主党代表の9条改憲論(新憲法試案・2005年)を紹介する。結論からいえば、「9条改定、自衛軍の保持、集団的自衛権の容認」である。その骨子は以下の通り。
・日本国の独立と安全を確保するため、自衛軍を保持する。
〈安原のコメント〉これは、現行平和憲法9条2項「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」の否定である。
・外交政策における選択肢を狭め、国益を損なうことのないように、集団的自衛権の制限的な行使を容認する。
〈コメント〉軍事同盟国の米国が攻撃された場合、日本が直接攻撃されなくとも、海外での武力行使ができるという「集団的自衛権」の行使を容認するもので、従来の自民党政府も、憲法上禁じられていると判断していた原則を転換させることを意味する。
・国連決議による多国籍軍、あるいは将来編成されるかもしれない国連常設軍への参加などを容認する。
〈コメント〉武力行使をともなう国連の軍事活動への参加を意味する。
以上は憲法9条の平和=非戦の理念を「欺瞞的」と批判しながら根底から覆(くつがえ)そうとするほどの改悪案である。民主党新政権が発足して、直ちに以上の9条改悪論が浮上して来ないとしても、要注意である。というのは、来年(2010年)5月から憲法改正国民投票法が施行されるからである。
〈憲法に「持続的発展」条項の追加導入を〉
私(安原)はこのような平和理念を否定する9条改悪とは違って、平和理念を強化発展させることは必要ではないかと考える。具体案として新たに「持続的発展」条項を導入することを提唱したい。『新・世界環境保全戦略』(世界自然保護基金などが1991年、国連主催の第一回地球サミットに先立って発表した提言で、仏教を含む宗教的思考が盛り込まれている)は、「政府は憲法その他、国政の基本となる文書において持続可能な社会の規範を明記すべきである」と各国政府に憲法条項追加論を提起している。
それにヒントを得たのが憲法追加条項導入で、私(安原)の試案は次の通り。
*9条に「国及び国民は、世界の平和と持続的発展のために、世界の核を含む大量破壊兵器の廃絶と通常軍事力の顕著な削減または撤廃に向けて努力する」を追加する。
この追加条項は仏教経済学の八つのキーワードのうちの「いのち尊重、非暴力、知足、共生、持続性」などの実践をも意味する。
いずれにしても憲法9条は今では「世界の宝」としての評価が地球規模で広がりつつあることを重視したい。平和理念の強化は必要であるが、その改悪は歴史と時代の要請に逆行するものである。
(2)日米同盟はどうするのか ― 「安保体制堅持」のマイナス効果
民主党のマニフェストは日米同盟のあり方についてつぎのように書いている。
日本外交の基礎として緊密で対等な日米同盟関係をつくるため、主体的な外交戦略を構築した上で、米国と役割を分担しながら日本の責任を積極的に果たす ― と。
ここでは民主党は「対等な日米同盟」をうたっている。自民党がマニフェストでも「日米同盟の強化」を主張しているのとたしかにニュアンスは違う。問題は民主の「対等」とは何を意味するのか、従来の対米依存からの脱却を志向するのかどうかである。
米紙ニューヨーク・タイムズ(9月2日付)の記事が日本で話題になっている。同紙はつぎのように伝えているからである。(朝日新聞9月3日付から)
複数の米政権高官が「アフガニスタンでの戦いといった米国の優先課題や、アジアでの米軍再編などの問題で、米国を支えてきた立場から日本が離れていってしまうのではないか」との懸念を抱いている。ある高官の「予測不可能な時代に入った」という発言を引用しながら、「今回の投票が、米国への長年続いた依存関係から日本が離れようとする、より根本的な変化の予兆なのかどうか、大きな疑問がワシントンにある」 ― と。
〈鳩山氏の論文「私の政治哲学」から〉
鳩山新政権に対する米国側の不安の背景に、月刊誌『Voice』(09年9月号)に掲載された鳩山論文「私の政治哲学」がある。鳩山氏が唱える「友愛」の理念をくわしく論じたもので、その大要は以下の通り。
・「友愛」はグローバル化する現代資本主義の行き過ぎを正し、伝統の中で培われてきた国民経済との調整を目指す理念といえよう。それは市場至上主義から国民の生活や安全を守る政策に転換し、共生の経済社会を建設することを意味する。
・今回の世界経済危機は、アメリカが推し進めてきた市場原理主義や金融資本主義の破綻によってもたらされたものである。
米国的な自由市場経済が、普遍的で理想的な経済秩序であり、諸国はそれぞれの国民経済の伝統や規制を改め、経済社会の構造をグローバルスタンダード(実はアメリカンスタンダード)に合わせて改革していくべきだという思潮だった。
・日本国内でもこのグローバリズムの流れを積極的に受け入れ、全てを市場に委ねる行き方を良しとする人たちと、これに消極的に対応し、社会的な安全網(セーフティネット)の充実や国民経済的な伝統を守ろうとする人たちに分かれた。小泉政権以来の自民党は前者であり、私たち民主党はどちらかというと後者の立場だった。
・農業、環境、医療など、われわれの生命と安全にかかわる分野の経済活動を、無造作にグローバリズムの奔流の中に投げ出すような政策は、「友愛」の理念からは許されない。また生命の安全や生活の安定にかかわるルールや規制はむしろ強化しなければならない。
・経済的統合が進む欧州連合(EU)では、一方でローカル化の流れも顕著である。グローバル化する経済環境の中で、伝統や文化の基盤としての国、地域の独自性をどう維持していくか、それはEUのみならず、日本にとっても大きな課題である。
・「友愛」が導くもう一つの国家目標は「東アジア共同体」の創造であろう。もちろん、日米安保体制は、今後も日本外交の基軸でありつづけるし、それは日本外交の柱である。同時にアジアに位置する国家としてのアイデンティティを忘れてはならない。東アジア地域を、わが国が生きていく基本的な生活空間と捉えて、この地域に安定した経済協力と安全保障の枠組みを創る努力を続けなければならない。
・イラク戦争の失敗と金融危機によってアメリカ主導のグローバリズムの時代は終焉し、世界はアメリカ一極支配の時代から多極化の時代に向かうだろう。しかし今のところアメリカに代わる覇権国家も、ドルに代わる基軸通貨も見当たらない。
アメリカは今後影響力を低下させていくが、二、三〇年は、その軍事的経済的実力は、世界の第一人者のままだろう。
〈アメリカ高官の不安の背景〉
以上、鳩山氏の「政治哲学」の主旨を紹介した。大筋では評価に値する内容になっている。ただし「日米安保体制は日本外交の基軸」という一点を除いてである。にもかかわらずどの部分がアメリカの一部高官に不安を抱かせているのか。
まず考えられるのはアメリカ主導のグローバル化と市場至上(原理)主義への批判についてである。
鳩山論文は「社会的な安全網(セーフティネット)の充実」や「農業、環境、医療など、われわれの生命と安全にかかわる分野のルールや規制はむしろ強化」と指摘している。これはEU型の規制を導入した福祉国家のイメージである。市場原理主義に盲従した自民党に大勝した民主党としては、グローバル化と市場原理主義に「離別宣告」を出すのは当然であるが、現実にどこまで縁を切れるのか、今後のお手並み拝見というところだろう。
つぎに鳩山論文の「アメリカ一極支配から多極化へ」という世界認識についてである。これも中国やEUの台頭、「アメリカの裏庭」といわれた南米諸国によるアメリカ支配からの自主的な離脱 ― などの動きをみれば、多極化への動きは顕著である。アメリカの高官たちにこの動向が見えていないとすれば、世界認識がずれすぎている。それともアメリカにとって頼りになるのはもはや日本しか期待できないという「おすがり(?)作戦」なのか。
さらに「友愛」が導くもう一つの国家目標として「東アジア共同体」の創造を打ち出している点である。しかも「東アジア共同体」の性格づけとしてつぎの3点を挙げている。
・アジアに位置する国家としてのアイデンティティ
・東アジア地域は、わが国が生きていく基本的な生活空間
・この地域に安定した経済協力と安全保障の枠組みを創る努力
この3点は読み方によってはたしかに刺激的ではある。アメリカからの自立志向だと受け止められないこともない。鳩山氏自身がそれを意識したのかどうか、続けて「日米安保体制は今後も日本外交の基軸」とわざわざ念を押している。
〈「日米同盟堅持」に執着は時代遅れ〉
むしろ問題は鳩山民主党代表が「日米同盟堅持」に執着している点である。同論文で「日米安保体制は、今後も日本外交の基軸でありつづけるし、日本外交の柱」と明示している。同代表は9月3日未明、オバマ米大統領と電話会談し、「日米同盟が基軸だ。建設的な未来志向の日米関係を発展させよう」と呼びかけた(朝日新聞9月3日付)。
私(安原)は東アジアにおける集団安全保障体制を模索するのは一策だと考えるが、日米安保(対象範囲は当初の「極東の安保」から今では「世界の安保」へと地球規模に拡大変質している)のような2国間の軍事同盟はすでに時代遅れであると認識している。もはや軍事力で解決できるものは何一つないからである。
温暖化、飢餓、貧困、大規模災害、インフルエンザなど目下人類が直面している地球規模の多様な難問をみれば、一目瞭然であろう。テロにしてもアフガニスタンの現状は、軍事力がいかに無力であるかを教えている。むしろ世界の巨額の軍事費(年間約120兆円)を地球規模の難問のために回して、難問打開に取り組むときである。
軍事力増強とその行使は仏教経済学(思想)の八つのキーワード、「いのち尊重、非暴力、知足、共生、簡素、利他、持続性、多様性」のいずれとも対立し、鳩山代表の「友愛」とも矛盾する。これでは「友愛」の看板が錆(さ)びていくのも避けがたい。鳩山代表の「安保堅持」は「9条改悪」と並んでやがて支持率低落の要因にもなるだろう。
(3)高速道無料化は疑問 ― 車社会の構造変革こそが課題
民主党政権のマニフェストで売り物の一つになっているのが高速道路の無料化である。無料化のプラス効果としてつぎの諸点が挙げられている。
・生活コスト、企業活動コストが下がる
・地域間交流が活発になり経済が活性化する
・無料化に伴う経済波及効果は「最大で8兆円に上る」
これでは景気刺激策としての側面が強すぎるのではないか。一方、無料化に伴うマイナス効果も大きく、つぎのような点が指摘できる。これでは景気刺激策としての効果にも疑問が生じる。
・高速道路はこれまでの民営から国有に移行され、借金返済は税金で支払うことになるため、従来の利用者負担という受益者負担の原則は壊れ、車を利用しない者にまで税負担が広がる。
・JR各社の輸送量も麻生政権下で「休日1000円」が始まった09年3月末以降、前年同期比で1割減となるなど交通機関別のシェアが変わってきた。
(以上は毎日新聞(9月3日付)の記事「高速道無料化民主案=返済の原資は通行料から税金に、公平性に疑念も」などを参照)
ここで「高速道の無料化が招く事態」と題する朝日新聞投書(8月16日付、47歳の男性・名古屋市)を紹介する。要旨つぎの通り。
鉄道から車に乗り換える人が増えるあおりで鉄道やバスの利用者は激減し、地方路線の廃止が進むだろう。その結果、車を持たない経済弱者やお年寄りは無料化の恩恵を受けられないばかりか、日常生活の足まで失うことになる。高齢化が進んでいること、車から排出される二酸化炭素(CO2)増加による温暖化問題など、様々な視点から将来の国の交通体系を考える必要がある。民主党は、この交通体系のあるべき姿をどのように考えているのか ― と。
〈公共交通中心の総合交通体系へ転換を〉
この投書が指摘するように高速道の無料化で経済を活性化させようとするのは適切な政策ではない。日本全体の総合交通体系の中で車社会をどう構造変革していくのかこそが重要なテーマである。具体策としては現在の自動車中心の交通体系から鉄道、路線バス、路面電車、コミュニティバスなど公共交通中心の交通体系への構造転換を急ぐ必要がある。
交通事故死は年間約6000人、負傷者は同100万人を超えている。毎年繰り返される車によるいのち軽視、暴力の横行に「明日は我が身」であるにもかかわらず、多くの人はいささか無感覚になってはいないか。これは精神的頽廃というほかない。無料化によって利用者が増え、渋滞が多くなり、しかも無謀運転によって交通事故が増加する懸念もある。
環境省のデータによると、一人が同じ距離を移動する場合、自家用自動車は、鉄道に比べ約6倍、バスに比べ約2倍の化石エネルギー(石油など)を浪費し、それだけ地球温暖化の原因である二酸化炭素(CO2)を大量に排出する。だから地球環境の保全と持続性のためにも公共交通中心への転換が急務といえる。
転換を促進させるためには自動車よりも公共交通の利用負担を下げて、割安にする必要がある。ところが自動車負担の方を軽くしようというのだから、本末転倒というべきである。
また地球環境保全優先時代にふさわしく、共生を重視し、知足と簡素な暮らしのためにも、自動車を降りて、自転車や徒歩による移動をできるだけ心掛けたい。そのためには自転車道、歩道の整備も欠かせない。高速道路ではなく、この分野の公共投資こそが重要である。
〈ご参考〉安原和雄のつぎの2論文がこの記事の下敷きになっている。
・「二十一世紀と仏教経済学と(上)― いのち・非暴力・知足を軸に」(駒澤大学仏教経済研究所編『仏教経済研究』第37号、2008年5月)
・「二十一世紀と仏教経済学と(下)― 仏教を生かす日本変革構想」(同『仏教経済研究』第38号、2009年5月)
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市場原理主義路線と縁を切れるか
安原和雄
衆院総選挙の結果は、民主圧勝、自公惨敗となった。戦後初めての政権交代であり、歴史的変化と評価できることはいうまでもない。しかしたしかに目先が変わる「変化」ではあるが、自公政権時代に比べて質的差異をもたらすような「変革」をどこまで期待できるのだろうか。質的差異の決め手となるのは、多くの災厄をもたらしているあの市場原理主義路線から180度転換することである。
世界的金融・経済危機は同時に市場原理主義路線の破綻を意味した。破綻はしたが、消滅したのではない。米国にも日本にも今なおしぶとく生き残っている。ここを認識したうえで、市場原理主義ときっぱり縁を切れるかどうかが新政権を担う民主党にとって最大の課題といえよう。(09年9月1日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
総選挙による党派別当選者数(定数480)は、民主308(公示前115)、自民119(同300)、公明21(同31)、共産9(同9)、社民7(同7)、みんな5(同4)、国民3(同4)、日本1(同0)、無所属など7(同8)。民主圧勝、一方自公の惨敗である。
▽大手紙は政権交代をどう論評したか
まず大手5紙(09年8月31日付)社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞=民主圧勝 政権交代 民意の雪崩受け止めよ
*毎日新聞=衆院選 民主圧勝 国民が日本を変えた 政権交代、維新の気概で
*読売新聞=民主党政権実現 変化への期待と重責に応えよ
*日本経済新聞=変化求め民意は鳩山民主政権に賭けた
*東京新聞=民主が圧勝 自民落城 歴史の歯車が回った
社説は「民主圧勝、政権交代」という厳然たる事実をどのように受け止めたか。
朝日=小選挙区制のすさまじいまでの破壊力である。民意の劇的なうねりのなかで、日本の政治に政権交代という新しいページが開かれた。
それにしても衝撃的な結果だ。小選挙区で自民党の閣僚ら有力者が次々と敗北。麻生首相は総裁辞任の意向を示した。公明党は代表と幹事長が落選した。代わりに続々と勝ち名乗りを上げたのは、政治の舞台ではほとんど無名の民主党の若手や女性候補たちだ。
毎日=まさに、怒濤(どとう)だ。自民党の派閥重鎮やベテランが、無名だった新人候補にバタバタと倒されていった。国民は断固として変化を選んだ。歴史に刻まれるべき政権の交代である。
選挙を通じ政権を担う第1党が交代する民主主義の常道が、日本の政治では長く行われずにいた。政権選択が2大勢力で正面から問われての政権交代は、戦後初めてである。
読売=自民党政治に対する不満と、民主党政権誕生による「変化」への期待が歴史的な政権交代をもたらした。(中略)30日投開票の衆院選で民主党が大勝し、自民党は結党以来の惨敗を喫した。野党が衆院選で単独過半数を獲得し、政権交代を果たしたのは戦後初めてのことである。
〈安原のコメント〉― 誇張とは言えない表現が並ぶ
「すさまじいまでの破壊力」、「民意の劇的なうねり」、「まさに怒濤だ」、「国民は断固として変化を選んだ」、「自民党は結党以来の惨敗」、「政権交代を果たしたのは戦後初めて」 ― などと非日常的な表現があふれている。事実上の自民党一党独裁制が実に半世紀以上も続いた後の政権交代であるだけに、この程度の言辞も決して誇張とはいえないだろう。
▽「民主圧勝、自民落城」の背景、要因は何か
東京新聞社説は見出しで「民主圧勝、自民落城」と形容しているが、その背景、要因は何か。
朝日=民意の劇的なうねりの原因ははっきりしている。少子高齢化が象徴する日本社会の構造変化、グローバル化の中での地域経済の疲弊。そうした激しい変化に対応できなかった自民党への不信だ。そして、世界同時不況の中で、社会全体に漂う閉塞感と将来への不安である。
毎日=財政赤字などのひずみが深刻化する中で登場したのが小泉改革路線だ。郵政民営化など「小さな政府」を掲げ05年衆院選に圧勝、自民党は再生したかに見えた。
しかし、医療、年金、格差や地方の疲弊を通じ国民の生活不安が急速に強まり、党は路線見直しをめぐり迷走した。(中略)現職首相が2度も政権を投げ出し、政権担当能力の欠如を露呈した。小泉政治を総括できぬまま解散を引き延ばす麻生政権に、国民の不満は頂点に達した。
読売=小泉内閣の市場原理主義的な政策は、「格差社会」を助長し、医療・介護現場の荒廃や地方の疲弊を招いた。
麻生首相は、小泉路線の修正も中途半端なまま、首相としての資質を問われる言動を続けて、失点を重ねた。
構造改革路線の行き過ぎ、指導者の責任放棄と力量不足、支持団体の離反、長期政権への失望と飽きが、自民党の歴史的敗北につながったと言えよう。
日経=半世紀余り続いた自民党政治への飽きとともに、前回の衆院選以降に顕著となった自民の統治能力の劣化が有権者の離反を招いたといえる。年金の記録漏れ問題などの行政の不祥事が相次いで表面化した。
東京=老後の年金や医療、雇用に募る不安、教育にも及ぶ格差社会の不公平に有権者は怒り、政・官のなれ合い、しがらみの政治との断絶を促した。自公に代わる民主の政権はそれに応える責務がある。
〈コメント〉― 自民惨敗の背景に市場原理主義
民主圧勝、自民惨敗の背景を的確につかまえなければ、今後の民主党政権への核心をついた注文も難しいだろう。5紙それぞれの指摘を拾いあげてみると ― 。
朝日=地域経済の疲弊、社会全体に漂う閉塞感と将来への不安
毎日=小泉改革路線と「小さな政府」
読売=市場原理主義的な政策
日経=自民の統治能力の劣化
東京=不安と不公平
背景を一つひとつ拾いあげてゆけば、きりがない。問題は構造的かつ根本的な背景は何かである。朝日は「閉塞感と将来への不安」を挙げている。その閉塞感と不安はどこから来ているのか、そこが問題である。日経の「自民の統治能力の劣化」にしても、自民はなぜ統治能力が劣化したのかが問われなければならない。東京の「不安と不公平」も同様で、不安や不公平をもたらしている背景、つまり元凶を追及する必要がある。
その元凶は毎日の「小泉改革路線」であり、読売の「市場原理主義」ではないか。この一点を軽視しては、それこそ画竜点睛を欠くことになるだろう。
▽民主党政権への信頼度と自民党の将来
民主大勝、自民惨敗の背景に「小泉改革路線」がもたらした多くの災厄があるのは間違いないとして、それでは新しい民主党政権への国民の信頼度はどの程度なのか。一方、自民党の再生は果たして可能なのか。
*民主党政権への信頼度は?
朝日=民意は民主党へ雪崩をうった。その激しさは「このままではだめだ」「とにかく政治を変えてみよう」という人々の思いがいかに深いかを物語る。
では、それが民主党政権への信頼となっているかと言えば、答えはノーだろう。朝日新聞の世論調査で、民主党の政策への評価は驚くほど低い。期待半分、不安半分というのが正直なところではあるまいか。
東京=全国各地の投票所に列をなして民主に大勝利を与えた民意が、政権担当の力量をこの党に認めたのかは怪しい。むしろ「よりましな政権」へ雪崩を打ったと見る方がいいかもしれない。
*自民党の再生は可能なのか?
読売=自民党は、これから野党時代が長くなることを覚悟しなければなるまい。民主党とともに2大政党制の一角を占め続けるには、解党的出直しが必要だ。
日経=かつてない敗北となった自民の今後はいばらの道だろう。党の有力者の落選が相次ぎ、人材難は深刻である。
この機会に党組織や候補者選考方法などを抜本的に見直し、新たな党の姿を探るしかない。政権交代可能な二大政党制を定着させるために、自民は文字通りの「解党的出直し」に取り組む覚悟が求められている。
〈コメント〉 ― 「よりましな政権」民主と「解党的出直し」迫られる自民
圧勝した民主だが、それでは国民の信頼度は? となると、朝日は「答えはノーだろう。世論調査では民主党の政策への評価は驚くほど低い」と断じている。また東京は「よりましな政権」という診断を下している。民主は圧勝したからといって、浮かれているときではないぞ、という戒めと受け止めるべきであろう。
一方、大敗した自民に再生の将来性はどこまで期待できるのか。読売、日経ともに「解党的出直し」の覚悟を求めている。この「解党的」の含意がはっきりしないが、自民党ではない新自民党、という意味なら、文字通り自民党を解党する以外に手はないだろう。
選挙運動中の自民候補の言動をテレビで観た限りの印象だが、時代感覚がずれすぎている。例えば、集まった聴衆に土下座している姿には、その卑屈さに失笑するほかなかった。また「守って下さい、助けて下さい」という哀願には「ここまで落ちたか」という以外に言葉を知らない。民主党若手候補の「歴史を動かそう、日本を変えよう」などと未来へのビジョンを語る姿勢との開きが大きすぎる。
自民の敗因は、長期間与党権力の座に安住し、自己鍛錬を怠ったゆえの人材枯渇(閣僚クラスがお粗末すぎる)、大衆増税と税金の無駄遣い、経済界との癒着(ゆちゃく)によるカネまみれ ― など構造的劣化というべきだろう。自民は民主に敗北したというよりも自滅したのだ。新政権を担う民主の面々も、この自民自滅に学ぶ必要があるだろう。「明日は我が身」を避けるためにも。
▽民主党新政権は市場原理主義路線を克服できるのか
自民惨敗の背景に市場原理主義(=新自由主義)路線があったことは否定できない。しかも自民の手で路線転換を図り、その災厄を繕(つくろ)う方策に着手するところまで進まなかった。それでは圧勝した民主はどうか。民主党新政権は果たしてこの市場原理主義路線とは無縁だと言い切れるのか、自公政権の悪しき遺産、市場原理主義から大きく転換できるのか、そこが気がかりである。
自民党のマニフェスト(政権公約)には市場原理主義路線と決別するという文言は見当たらなかったが、麻生太郎自民党総裁は選挙演説でこう述べた。
市場原理主義が世の中を席巻していた。結果として地域格差を生み、福祉にほころびが出た。行きすぎた市場原理主義とは決別する。最優先は景気対策 ― と。
「市場原理主義が世の中を席巻していた」という言い方は不適切である。自公政権が政策として席巻させていたのである。にもかかわらず天から降ってきた自然現象のような言い回しは無責任である。それにしても市場原理主義は自民にとって不利だと気付いたのだろう。反省の弁として「行きすぎた市場原理主義とは決別する」と演説して回った。ここで注意する必要があるのは「行きすぎた市場原理主義」という表現である。市場原理主義には正常な市場原理主義と行きすぎた市場原理主義の2種類があるという認識なのだろう。これもごまかしである。
市場原理主義は本来、行きすぎた政策路線である。米国主導の新自由主義=市場原理主義路線なるものは、1980年代初めの中曽根政権時代に日本に導入され、2001年に発足した小泉政権時代に本格化した。無慈悲な弱肉強食のすすめで、大企業、資産家を優遇する半面、自殺、失業、貧困、格差、不公平が広がり、特に自殺者は年間3万人の大台乗せとなり、今なお続いている。失業も悪化し、総務省(8月28日公表)によると、09年7月の完全失業者数は359万人(前年同月比103万人増で、増加数が初めて100万人を超えた)、完全失業率も5.7%と過去最悪を記録した。麻生氏が「行きすぎた市場原理主義とは決別」と言い訳をしながら全国遊説したが、時すでに遅すぎたのである。
さて民主党新政権はどうか。マニフェストには「市場原理主義は採用しない」とは一行も書いていない。率直に言えば、玉石混淆(ぎょくせきこんこう)の具体策(賛成できない典型例は高速道路の無料化)は盛り沢山だが、新政権を担うに足りる理念が不足している。マニフェストが強調している理念らしいところはつぎのようである。
・暮らしのための政治を
・国民の生活が第一
・ひとつひとつの生命を大切にする。他人の幸せを自分の幸せと感じられる社会。それが目指す友愛社会。
・税金のムダづかいを徹底的になくし、国民生活の立て直しに使う。それが民主党の政権交代 ― と。
鳩山由紀夫・民主党代表が目指す友愛社会の実現を本気で志向するのであれば、市場原理主義とはきっぱり縁を切ることが不可欠とはいえないか。この一点こそが自公政権との質的差異を浮き彫りにするはずである。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
衆院総選挙の結果は、民主圧勝、自公惨敗となった。戦後初めての政権交代であり、歴史的変化と評価できることはいうまでもない。しかしたしかに目先が変わる「変化」ではあるが、自公政権時代に比べて質的差異をもたらすような「変革」をどこまで期待できるのだろうか。質的差異の決め手となるのは、多くの災厄をもたらしているあの市場原理主義路線から180度転換することである。
世界的金融・経済危機は同時に市場原理主義路線の破綻を意味した。破綻はしたが、消滅したのではない。米国にも日本にも今なおしぶとく生き残っている。ここを認識したうえで、市場原理主義ときっぱり縁を切れるかどうかが新政権を担う民主党にとって最大の課題といえよう。(09年9月1日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
総選挙による党派別当選者数(定数480)は、民主308(公示前115)、自民119(同300)、公明21(同31)、共産9(同9)、社民7(同7)、みんな5(同4)、国民3(同4)、日本1(同0)、無所属など7(同8)。民主圧勝、一方自公の惨敗である。
▽大手紙は政権交代をどう論評したか
まず大手5紙(09年8月31日付)社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞=民主圧勝 政権交代 民意の雪崩受け止めよ
*毎日新聞=衆院選 民主圧勝 国民が日本を変えた 政権交代、維新の気概で
*読売新聞=民主党政権実現 変化への期待と重責に応えよ
*日本経済新聞=変化求め民意は鳩山民主政権に賭けた
*東京新聞=民主が圧勝 自民落城 歴史の歯車が回った
社説は「民主圧勝、政権交代」という厳然たる事実をどのように受け止めたか。
朝日=小選挙区制のすさまじいまでの破壊力である。民意の劇的なうねりのなかで、日本の政治に政権交代という新しいページが開かれた。
それにしても衝撃的な結果だ。小選挙区で自民党の閣僚ら有力者が次々と敗北。麻生首相は総裁辞任の意向を示した。公明党は代表と幹事長が落選した。代わりに続々と勝ち名乗りを上げたのは、政治の舞台ではほとんど無名の民主党の若手や女性候補たちだ。
毎日=まさに、怒濤(どとう)だ。自民党の派閥重鎮やベテランが、無名だった新人候補にバタバタと倒されていった。国民は断固として変化を選んだ。歴史に刻まれるべき政権の交代である。
選挙を通じ政権を担う第1党が交代する民主主義の常道が、日本の政治では長く行われずにいた。政権選択が2大勢力で正面から問われての政権交代は、戦後初めてである。
読売=自民党政治に対する不満と、民主党政権誕生による「変化」への期待が歴史的な政権交代をもたらした。(中略)30日投開票の衆院選で民主党が大勝し、自民党は結党以来の惨敗を喫した。野党が衆院選で単独過半数を獲得し、政権交代を果たしたのは戦後初めてのことである。
〈安原のコメント〉― 誇張とは言えない表現が並ぶ
「すさまじいまでの破壊力」、「民意の劇的なうねり」、「まさに怒濤だ」、「国民は断固として変化を選んだ」、「自民党は結党以来の惨敗」、「政権交代を果たしたのは戦後初めて」 ― などと非日常的な表現があふれている。事実上の自民党一党独裁制が実に半世紀以上も続いた後の政権交代であるだけに、この程度の言辞も決して誇張とはいえないだろう。
▽「民主圧勝、自民落城」の背景、要因は何か
東京新聞社説は見出しで「民主圧勝、自民落城」と形容しているが、その背景、要因は何か。
朝日=民意の劇的なうねりの原因ははっきりしている。少子高齢化が象徴する日本社会の構造変化、グローバル化の中での地域経済の疲弊。そうした激しい変化に対応できなかった自民党への不信だ。そして、世界同時不況の中で、社会全体に漂う閉塞感と将来への不安である。
毎日=財政赤字などのひずみが深刻化する中で登場したのが小泉改革路線だ。郵政民営化など「小さな政府」を掲げ05年衆院選に圧勝、自民党は再生したかに見えた。
しかし、医療、年金、格差や地方の疲弊を通じ国民の生活不安が急速に強まり、党は路線見直しをめぐり迷走した。(中略)現職首相が2度も政権を投げ出し、政権担当能力の欠如を露呈した。小泉政治を総括できぬまま解散を引き延ばす麻生政権に、国民の不満は頂点に達した。
読売=小泉内閣の市場原理主義的な政策は、「格差社会」を助長し、医療・介護現場の荒廃や地方の疲弊を招いた。
麻生首相は、小泉路線の修正も中途半端なまま、首相としての資質を問われる言動を続けて、失点を重ねた。
構造改革路線の行き過ぎ、指導者の責任放棄と力量不足、支持団体の離反、長期政権への失望と飽きが、自民党の歴史的敗北につながったと言えよう。
日経=半世紀余り続いた自民党政治への飽きとともに、前回の衆院選以降に顕著となった自民の統治能力の劣化が有権者の離反を招いたといえる。年金の記録漏れ問題などの行政の不祥事が相次いで表面化した。
東京=老後の年金や医療、雇用に募る不安、教育にも及ぶ格差社会の不公平に有権者は怒り、政・官のなれ合い、しがらみの政治との断絶を促した。自公に代わる民主の政権はそれに応える責務がある。
〈コメント〉― 自民惨敗の背景に市場原理主義
民主圧勝、自民惨敗の背景を的確につかまえなければ、今後の民主党政権への核心をついた注文も難しいだろう。5紙それぞれの指摘を拾いあげてみると ― 。
朝日=地域経済の疲弊、社会全体に漂う閉塞感と将来への不安
毎日=小泉改革路線と「小さな政府」
読売=市場原理主義的な政策
日経=自民の統治能力の劣化
東京=不安と不公平
背景を一つひとつ拾いあげてゆけば、きりがない。問題は構造的かつ根本的な背景は何かである。朝日は「閉塞感と将来への不安」を挙げている。その閉塞感と不安はどこから来ているのか、そこが問題である。日経の「自民の統治能力の劣化」にしても、自民はなぜ統治能力が劣化したのかが問われなければならない。東京の「不安と不公平」も同様で、不安や不公平をもたらしている背景、つまり元凶を追及する必要がある。
その元凶は毎日の「小泉改革路線」であり、読売の「市場原理主義」ではないか。この一点を軽視しては、それこそ画竜点睛を欠くことになるだろう。
▽民主党政権への信頼度と自民党の将来
民主大勝、自民惨敗の背景に「小泉改革路線」がもたらした多くの災厄があるのは間違いないとして、それでは新しい民主党政権への国民の信頼度はどの程度なのか。一方、自民党の再生は果たして可能なのか。
*民主党政権への信頼度は?
朝日=民意は民主党へ雪崩をうった。その激しさは「このままではだめだ」「とにかく政治を変えてみよう」という人々の思いがいかに深いかを物語る。
では、それが民主党政権への信頼となっているかと言えば、答えはノーだろう。朝日新聞の世論調査で、民主党の政策への評価は驚くほど低い。期待半分、不安半分というのが正直なところではあるまいか。
東京=全国各地の投票所に列をなして民主に大勝利を与えた民意が、政権担当の力量をこの党に認めたのかは怪しい。むしろ「よりましな政権」へ雪崩を打ったと見る方がいいかもしれない。
*自民党の再生は可能なのか?
読売=自民党は、これから野党時代が長くなることを覚悟しなければなるまい。民主党とともに2大政党制の一角を占め続けるには、解党的出直しが必要だ。
日経=かつてない敗北となった自民の今後はいばらの道だろう。党の有力者の落選が相次ぎ、人材難は深刻である。
この機会に党組織や候補者選考方法などを抜本的に見直し、新たな党の姿を探るしかない。政権交代可能な二大政党制を定着させるために、自民は文字通りの「解党的出直し」に取り組む覚悟が求められている。
〈コメント〉 ― 「よりましな政権」民主と「解党的出直し」迫られる自民
圧勝した民主だが、それでは国民の信頼度は? となると、朝日は「答えはノーだろう。世論調査では民主党の政策への評価は驚くほど低い」と断じている。また東京は「よりましな政権」という診断を下している。民主は圧勝したからといって、浮かれているときではないぞ、という戒めと受け止めるべきであろう。
一方、大敗した自民に再生の将来性はどこまで期待できるのか。読売、日経ともに「解党的出直し」の覚悟を求めている。この「解党的」の含意がはっきりしないが、自民党ではない新自民党、という意味なら、文字通り自民党を解党する以外に手はないだろう。
選挙運動中の自民候補の言動をテレビで観た限りの印象だが、時代感覚がずれすぎている。例えば、集まった聴衆に土下座している姿には、その卑屈さに失笑するほかなかった。また「守って下さい、助けて下さい」という哀願には「ここまで落ちたか」という以外に言葉を知らない。民主党若手候補の「歴史を動かそう、日本を変えよう」などと未来へのビジョンを語る姿勢との開きが大きすぎる。
自民の敗因は、長期間与党権力の座に安住し、自己鍛錬を怠ったゆえの人材枯渇(閣僚クラスがお粗末すぎる)、大衆増税と税金の無駄遣い、経済界との癒着(ゆちゃく)によるカネまみれ ― など構造的劣化というべきだろう。自民は民主に敗北したというよりも自滅したのだ。新政権を担う民主の面々も、この自民自滅に学ぶ必要があるだろう。「明日は我が身」を避けるためにも。
▽民主党新政権は市場原理主義路線を克服できるのか
自民惨敗の背景に市場原理主義(=新自由主義)路線があったことは否定できない。しかも自民の手で路線転換を図り、その災厄を繕(つくろ)う方策に着手するところまで進まなかった。それでは圧勝した民主はどうか。民主党新政権は果たしてこの市場原理主義路線とは無縁だと言い切れるのか、自公政権の悪しき遺産、市場原理主義から大きく転換できるのか、そこが気がかりである。
自民党のマニフェスト(政権公約)には市場原理主義路線と決別するという文言は見当たらなかったが、麻生太郎自民党総裁は選挙演説でこう述べた。
市場原理主義が世の中を席巻していた。結果として地域格差を生み、福祉にほころびが出た。行きすぎた市場原理主義とは決別する。最優先は景気対策 ― と。
「市場原理主義が世の中を席巻していた」という言い方は不適切である。自公政権が政策として席巻させていたのである。にもかかわらず天から降ってきた自然現象のような言い回しは無責任である。それにしても市場原理主義は自民にとって不利だと気付いたのだろう。反省の弁として「行きすぎた市場原理主義とは決別する」と演説して回った。ここで注意する必要があるのは「行きすぎた市場原理主義」という表現である。市場原理主義には正常な市場原理主義と行きすぎた市場原理主義の2種類があるという認識なのだろう。これもごまかしである。
市場原理主義は本来、行きすぎた政策路線である。米国主導の新自由主義=市場原理主義路線なるものは、1980年代初めの中曽根政権時代に日本に導入され、2001年に発足した小泉政権時代に本格化した。無慈悲な弱肉強食のすすめで、大企業、資産家を優遇する半面、自殺、失業、貧困、格差、不公平が広がり、特に自殺者は年間3万人の大台乗せとなり、今なお続いている。失業も悪化し、総務省(8月28日公表)によると、09年7月の完全失業者数は359万人(前年同月比103万人増で、増加数が初めて100万人を超えた)、完全失業率も5.7%と過去最悪を記録した。麻生氏が「行きすぎた市場原理主義とは決別」と言い訳をしながら全国遊説したが、時すでに遅すぎたのである。
さて民主党新政権はどうか。マニフェストには「市場原理主義は採用しない」とは一行も書いていない。率直に言えば、玉石混淆(ぎょくせきこんこう)の具体策(賛成できない典型例は高速道路の無料化)は盛り沢山だが、新政権を担うに足りる理念が不足している。マニフェストが強調している理念らしいところはつぎのようである。
・暮らしのための政治を
・国民の生活が第一
・ひとつひとつの生命を大切にする。他人の幸せを自分の幸せと感じられる社会。それが目指す友愛社会。
・税金のムダづかいを徹底的になくし、国民生活の立て直しに使う。それが民主党の政権交代 ― と。
鳩山由紀夫・民主党代表が目指す友愛社会の実現を本気で志向するのであれば、市場原理主義とはきっぱり縁を切ることが不可欠とはいえないか。この一点こそが自公政権との質的差異を浮き彫りにするはずである。
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総選挙後の公明党の去就に注目
安原和雄
初めての「政権選択」となる8.30総選挙の結果、民主党が勝利するとしても、もう一つの焦点は第三党公明党の去就ではないか。有り体にいえば、新政権の一翼を担うのか、それとも新政権から去らざるを得ないのか、である。元公明党委員長が明かした〈創価学会「日本占領計画」〉によれば、公明党は創価学会に操られて、「政権与党であり続けることが使命」となっている。「一度でも与党という権力を握ると、その蜜の味が忘れられなくなる」とも記している。
メディアの予想通り民主党が圧勝すれば、公明党が政権与党の一角に食い込むことは困難だろう。それにしても公明党の去就がどうなるか、その雲行きが気がかりな日本の秋ではある。(09年8月27日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ききゅう座」に転載)
▽ 元公明党委員長による内部告発
元公明党委員長・矢野絢也(注)著『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』(講談社刊・09年6月)を読んだ。本書のタイトル、「日本占領計画」からして刺激的である。まえがきの見出しも「池田大作名誉会長による独裁国家の建設」となっている。創価学会、さらに公明党の内情は一体どうなっているのか。これは元公明党委員長による内部告発とでも呼ぶにふさわしい内容である。
(注)矢野氏は、1967年衆議院議員になり、連続9回当選。1986年第4代公明党委員長に就任。1988年汚職事件で公明党議員が相次いで逮捕され、その責任を取って、翌89年委員長を辞任、最高顧問となる。1993年に政界を引退、政治評論家となる。
まず同書の「まえがき」の要点を紹介しよう。
本書では私(矢野)がこの数十年間に見聞きし、体験してきた事実を淡々と記し、創価学会と公明党の実態と事件、その底に流れる思想にアプローチしている。
今、(公明党、学会とも)距離を置いて振り返ってみると、恥ずかしながら、当時の私はマインドコントロールにかかっており、創価学会によって操られていたと思わずにはいられない。池田大作名誉会長の野望 ― 学会の「日本占領計画」、一言でいえば独裁国家の建設 ― を成就させるため、その計画のど真ん中で働いていたのではないか、との思いが日増しに強くなっている。
創価学会の意のままに動かされている公明党は、自民党と連立政権を組んできた。私の政治家時代などより、はるかに学会の政治への影響力が強まっている。「池田創価学会」によって、日本の民主主義は、今や危機に瀕しているのだ。「日本占領計画」はまさに民主主義にしのびよる「クーデター」といっても過言ではない。
▽ 公明党は政権与党であり続けることが使命
ここでは創価学会が小選挙区制導入のお陰で政権を操れるようになったそのからくりに触れて、「公明党は政権与党であり続けることが使命」「自民党が与党から転落すれば、創価学会は見放す」とまで言いきっている。その要点は以下の通り。
自民党候補者の基礎票が少なくなって、創価学会でも支えきれなくなり、自民党が与党から転落すれば、学会は見放す。
今後、政界再編成が行われ、政界地図が大きく変わろうが、一つだけはっきりしていることがある。どのような形になろうと、公明党は与党の一角に加わろうと必死の努力を続ける、ということだ。
「政権与党であり続けよ」「常に権力の一角に居座れ」は、一つには創価学会の組織防衛本能からでてくるものだろう。
昔は、野党であるがゆえに「是々非々」(ぜぜひひ)を貫けたともいえるが、一度でも与党という権力を握ると、その蜜(みつ)の味が忘れられなくなる。野党と与党とでは、権力に対するグリップが天と地ほど違うということなのだろう。公明党は今や、与党であり続けることこそが使命になっている。
二大政党時代といわれながら、第三党の公明党、そのバックにいる創価学会が政権を意のままに操れるような力を得ていることになる。
このような奇妙な現象を生みだした原因は、皮肉にも二大政党を意図した小選挙区制導入にある。小選挙区制が導入された後五年間、政界再編の渦のなかで翻弄(ほんろう)された公明党だったが、気がつけば、与党の立場を手に入れるとともに、学会は時の政権を動かし得るポジションを得ていた。なぜこのような不思議な現象が起こったのか。
小選挙区制では三〇〇の選挙区のうち公明党が勝てるのは一〇選挙区ほどで、あとの二九〇は空く。その選挙区では選挙協力によって二大政党のいずれかに学会票を回せる。いいかえれば、学会が選挙協力をした党が政権を握るという構図ができあがっている。(中略)それまで公明党の議席を通じてしか政治を支配できなかったが、学会票で政治を支配できる構図が生まれた。すなわち創価学会直営の政治が実現したのだ。同時に公明党は学会の傀儡(かいらい)でしかなくなってしまった。こうして自民党の派閥領袖(りょうしゅう)さえ、学会票の前にひれ伏すようになった。
自分たちに不利だと思っていた小選挙区制が実は、政権を牛耳れるほどの強大な権力を創価学会に付与してしまったのだ。これは小選挙区制が議論されたときには、ほとんどの人が気づかなかった。
▽ 日本占領計画のシナリオ ― 政権奪取の青写真
ここでは池田創価学会名誉会長の「日本占領」なるものの野望に言及している。池田会長の理想は自・公政権で、それはすでに実現した。さてそれではつぎは何を狙っているのか。日本占領、つまり政権奪取のために「クーデターもやりかねない怖さがある」という指摘は穏やかではない。要旨はつぎの通り。
池田氏は、私たちに「天下を取れ」「創価王国をつくる」とハッパをかけた。われわれは半分は夢物語としてしか聞いていなかったが、池田氏の頭の中には、政権奪取までの青写真が描かれていたようにも思える。その青写真によると、第一段階として自民党との連合政権をつくり、第二段階として大臣のポストを三つ(法務、文部、厚生)取る。
その後勢力を拡大し、総理大臣のポストを取り、政権を完全に掌握し、天下取りを現実のものにするという筋書きだったらしい。
三つの大臣のポストをまず握るというのもごく自然な発想である。
内向きの論理で進んでいった創価学会は、過去にたびたび裁判沙汰を起こし、世間から叩かれていた。創価学会への弾圧を阻止するためにも、学会が法務大臣のポストを握っておきたいと考えても不思議ではない。
宗教法人を管轄しているのは文部省(現文部科学省)の宗教課である。それだけではない。学会は創価学園、創価大学を擁し、学会員の子弟の洗脳教育にも力を注いでいる。文部省を支配下に置くという発想もうなずける。
公明党は福祉にとくに力を入れていたので、厚生(現厚生労働)大臣のポストを手中にしたいと考えたのも理解できる。
池田氏は、かつて「学会が自民党候補を応援することがあるのか」と記者に問われて、つぎのように語っている。
「もともと、私の理想としているのは自・公政権です。国民は自民だと安心します。保守中道なんてスタンスはポーズですよ。本質的にはやっぱり保守だ」
現在、自民・公明政権が現実になっていることを考えると、この池田発言は意味深長である。
自民党が分裂すればしたで、学会にはもっけの幸いである。自民党を飛び出した方と手を組み、政権を握る。あるいは過半数を割った自民党と手を組み、内閣に入るという道が開ける。まさにその通り事は進み、自公政権が続いた。
池田氏は、国家を転覆させても、自分が天下を取りたいという野望を抱いており、中国の『水滸伝(すいこでん)』『三国志』、ヒトラーの「第三帝国」を、公明党議員や青年部幹部に勉強させ、あらゆる権謀術数を会得させようとしているという話もある。いざというときには、日本占領のためにクーデターもやりかねない怖さがある。
実際、青年部最高幹部の間で過激なクーデター計画が話し合われていたという証言もある。学会の人材を密かに送り込んで、自衛隊と放送局、電波を全部押さえ、クーデターを決行するという内容だったらしい。
そこまではしまいと思いたいが、池田名誉会長の執念深さは、生やさしいものではない。「日本占領」という野望は決して諦(あきらめ)めることはないだろう。
▽総選挙後に問われる公明党の去就 ― 野望はどうなる?
私(安原)は部外者なので、上記の著作の内容がどこまで真相をついているのかを判断できる立場ではない。しかし元公明党委員長という要職にあった矢野氏が責任を持って書いた著作であるだろうから、十分評論するに値するものと考える。
読後の感想をいえば、8月30日に行われる衆院総選挙(定数480=小選挙区300、比例代表180)投開票後の公明党の去就はどうなるのかである。
毎日新聞(8月22日付)の党派別推定当選者数によると、民主が320議席(公示前115)を超す勢いであり、一方自民は100議席(公示前300)を割り込む可能性もある。公明は多くて27議席(公示前31)である。一方、朝日新聞(8月27日付)の総選挙中盤情勢調査によると、毎日新聞の予測とほぼ同じで、「民主、320議席獲得も」「自民激減 100前後」の大見出しが並んでいる。公明は「24前後」となっている。
このように民主が圧勝すれば、公明にとって政権に参加する機会はなくなる。つまり日本占領計画は挫折することになる。ただ民主が予測と違って、単独過半数(241議席)を若干上回る程度になった場合は、第三党の公明の出番である。しかし民主がそれを受け容れるだろうか、疑問である。
ここで気になるのは、矢野氏のつぎの指摘である。
池田名誉会長の執念深さは、生やさしいものではない。「日本占領」という野望は決して諦めることはないだろう ― と。
率直に言って、この種の野望は宗教家、特に仏教者の信条とは異質である。参考までに私(安原)が唱える仏教経済学(思想)で大切と考える八つのキーワードを挙げると、以下のようである。
生きとし生けるものすべてのいのち、非暴力、知足(貪欲を捨て、足るを知ること)、共生、簡素、利他、持続性、多様性の八つで、さらに慈悲心なども貴重だと考えている。これに反し、野望は貪欲、暴力、無慈悲などにつながりかねない性質のもので、大乗仏教の思想とは相容れないのではないか。
最後に著者、矢野氏が公明党に贈る忠言を紹介したい。
池田氏に面と向かって直言、諫言(かんげん)できる人はいまや見当たらない。
創価学会は社会から虐(しいた)げられた人、見捨てられた人の精神的支柱となって組織を拡大した。公明党もまた、庶民、大衆の政党として存立意義を保ってきた。今、格差社会が訪れ、無情な派遣切りや高齢者医療の切り捨てがまかり通っている。公明党もそれに手を貸してきた。
公明党は出来たての頃、小さくとも清流だった。汚濁した大河に、微力ながら清らかな水を注ごうと、われわれは懸命に働いた。決して自らが大河になることが目標ではなかった。今は、政界の汚れた大河と合流し、自身も濁流となって流れている。私は公明党が大きな清流となる日が来ることを信じている ― と。
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安原和雄
初めての「政権選択」となる8.30総選挙の結果、民主党が勝利するとしても、もう一つの焦点は第三党公明党の去就ではないか。有り体にいえば、新政権の一翼を担うのか、それとも新政権から去らざるを得ないのか、である。元公明党委員長が明かした〈創価学会「日本占領計画」〉によれば、公明党は創価学会に操られて、「政権与党であり続けることが使命」となっている。「一度でも与党という権力を握ると、その蜜の味が忘れられなくなる」とも記している。
メディアの予想通り民主党が圧勝すれば、公明党が政権与党の一角に食い込むことは困難だろう。それにしても公明党の去就がどうなるか、その雲行きが気がかりな日本の秋ではある。(09年8月27日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ききゅう座」に転載)
▽ 元公明党委員長による内部告発
元公明党委員長・矢野絢也(注)著『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』(講談社刊・09年6月)を読んだ。本書のタイトル、「日本占領計画」からして刺激的である。まえがきの見出しも「池田大作名誉会長による独裁国家の建設」となっている。創価学会、さらに公明党の内情は一体どうなっているのか。これは元公明党委員長による内部告発とでも呼ぶにふさわしい内容である。
(注)矢野氏は、1967年衆議院議員になり、連続9回当選。1986年第4代公明党委員長に就任。1988年汚職事件で公明党議員が相次いで逮捕され、その責任を取って、翌89年委員長を辞任、最高顧問となる。1993年に政界を引退、政治評論家となる。
まず同書の「まえがき」の要点を紹介しよう。
本書では私(矢野)がこの数十年間に見聞きし、体験してきた事実を淡々と記し、創価学会と公明党の実態と事件、その底に流れる思想にアプローチしている。
今、(公明党、学会とも)距離を置いて振り返ってみると、恥ずかしながら、当時の私はマインドコントロールにかかっており、創価学会によって操られていたと思わずにはいられない。池田大作名誉会長の野望 ― 学会の「日本占領計画」、一言でいえば独裁国家の建設 ― を成就させるため、その計画のど真ん中で働いていたのではないか、との思いが日増しに強くなっている。
創価学会の意のままに動かされている公明党は、自民党と連立政権を組んできた。私の政治家時代などより、はるかに学会の政治への影響力が強まっている。「池田創価学会」によって、日本の民主主義は、今や危機に瀕しているのだ。「日本占領計画」はまさに民主主義にしのびよる「クーデター」といっても過言ではない。
▽ 公明党は政権与党であり続けることが使命
ここでは創価学会が小選挙区制導入のお陰で政権を操れるようになったそのからくりに触れて、「公明党は政権与党であり続けることが使命」「自民党が与党から転落すれば、創価学会は見放す」とまで言いきっている。その要点は以下の通り。
自民党候補者の基礎票が少なくなって、創価学会でも支えきれなくなり、自民党が与党から転落すれば、学会は見放す。
今後、政界再編成が行われ、政界地図が大きく変わろうが、一つだけはっきりしていることがある。どのような形になろうと、公明党は与党の一角に加わろうと必死の努力を続ける、ということだ。
「政権与党であり続けよ」「常に権力の一角に居座れ」は、一つには創価学会の組織防衛本能からでてくるものだろう。
昔は、野党であるがゆえに「是々非々」(ぜぜひひ)を貫けたともいえるが、一度でも与党という権力を握ると、その蜜(みつ)の味が忘れられなくなる。野党と与党とでは、権力に対するグリップが天と地ほど違うということなのだろう。公明党は今や、与党であり続けることこそが使命になっている。
二大政党時代といわれながら、第三党の公明党、そのバックにいる創価学会が政権を意のままに操れるような力を得ていることになる。
このような奇妙な現象を生みだした原因は、皮肉にも二大政党を意図した小選挙区制導入にある。小選挙区制が導入された後五年間、政界再編の渦のなかで翻弄(ほんろう)された公明党だったが、気がつけば、与党の立場を手に入れるとともに、学会は時の政権を動かし得るポジションを得ていた。なぜこのような不思議な現象が起こったのか。
小選挙区制では三〇〇の選挙区のうち公明党が勝てるのは一〇選挙区ほどで、あとの二九〇は空く。その選挙区では選挙協力によって二大政党のいずれかに学会票を回せる。いいかえれば、学会が選挙協力をした党が政権を握るという構図ができあがっている。(中略)それまで公明党の議席を通じてしか政治を支配できなかったが、学会票で政治を支配できる構図が生まれた。すなわち創価学会直営の政治が実現したのだ。同時に公明党は学会の傀儡(かいらい)でしかなくなってしまった。こうして自民党の派閥領袖(りょうしゅう)さえ、学会票の前にひれ伏すようになった。
自分たちに不利だと思っていた小選挙区制が実は、政権を牛耳れるほどの強大な権力を創価学会に付与してしまったのだ。これは小選挙区制が議論されたときには、ほとんどの人が気づかなかった。
▽ 日本占領計画のシナリオ ― 政権奪取の青写真
ここでは池田創価学会名誉会長の「日本占領」なるものの野望に言及している。池田会長の理想は自・公政権で、それはすでに実現した。さてそれではつぎは何を狙っているのか。日本占領、つまり政権奪取のために「クーデターもやりかねない怖さがある」という指摘は穏やかではない。要旨はつぎの通り。
池田氏は、私たちに「天下を取れ」「創価王国をつくる」とハッパをかけた。われわれは半分は夢物語としてしか聞いていなかったが、池田氏の頭の中には、政権奪取までの青写真が描かれていたようにも思える。その青写真によると、第一段階として自民党との連合政権をつくり、第二段階として大臣のポストを三つ(法務、文部、厚生)取る。
その後勢力を拡大し、総理大臣のポストを取り、政権を完全に掌握し、天下取りを現実のものにするという筋書きだったらしい。
三つの大臣のポストをまず握るというのもごく自然な発想である。
内向きの論理で進んでいった創価学会は、過去にたびたび裁判沙汰を起こし、世間から叩かれていた。創価学会への弾圧を阻止するためにも、学会が法務大臣のポストを握っておきたいと考えても不思議ではない。
宗教法人を管轄しているのは文部省(現文部科学省)の宗教課である。それだけではない。学会は創価学園、創価大学を擁し、学会員の子弟の洗脳教育にも力を注いでいる。文部省を支配下に置くという発想もうなずける。
公明党は福祉にとくに力を入れていたので、厚生(現厚生労働)大臣のポストを手中にしたいと考えたのも理解できる。
池田氏は、かつて「学会が自民党候補を応援することがあるのか」と記者に問われて、つぎのように語っている。
「もともと、私の理想としているのは自・公政権です。国民は自民だと安心します。保守中道なんてスタンスはポーズですよ。本質的にはやっぱり保守だ」
現在、自民・公明政権が現実になっていることを考えると、この池田発言は意味深長である。
自民党が分裂すればしたで、学会にはもっけの幸いである。自民党を飛び出した方と手を組み、政権を握る。あるいは過半数を割った自民党と手を組み、内閣に入るという道が開ける。まさにその通り事は進み、自公政権が続いた。
池田氏は、国家を転覆させても、自分が天下を取りたいという野望を抱いており、中国の『水滸伝(すいこでん)』『三国志』、ヒトラーの「第三帝国」を、公明党議員や青年部幹部に勉強させ、あらゆる権謀術数を会得させようとしているという話もある。いざというときには、日本占領のためにクーデターもやりかねない怖さがある。
実際、青年部最高幹部の間で過激なクーデター計画が話し合われていたという証言もある。学会の人材を密かに送り込んで、自衛隊と放送局、電波を全部押さえ、クーデターを決行するという内容だったらしい。
そこまではしまいと思いたいが、池田名誉会長の執念深さは、生やさしいものではない。「日本占領」という野望は決して諦(あきらめ)めることはないだろう。
▽総選挙後に問われる公明党の去就 ― 野望はどうなる?
私(安原)は部外者なので、上記の著作の内容がどこまで真相をついているのかを判断できる立場ではない。しかし元公明党委員長という要職にあった矢野氏が責任を持って書いた著作であるだろうから、十分評論するに値するものと考える。
読後の感想をいえば、8月30日に行われる衆院総選挙(定数480=小選挙区300、比例代表180)投開票後の公明党の去就はどうなるのかである。
毎日新聞(8月22日付)の党派別推定当選者数によると、民主が320議席(公示前115)を超す勢いであり、一方自民は100議席(公示前300)を割り込む可能性もある。公明は多くて27議席(公示前31)である。一方、朝日新聞(8月27日付)の総選挙中盤情勢調査によると、毎日新聞の予測とほぼ同じで、「民主、320議席獲得も」「自民激減 100前後」の大見出しが並んでいる。公明は「24前後」となっている。
このように民主が圧勝すれば、公明にとって政権に参加する機会はなくなる。つまり日本占領計画は挫折することになる。ただ民主が予測と違って、単独過半数(241議席)を若干上回る程度になった場合は、第三党の公明の出番である。しかし民主がそれを受け容れるだろうか、疑問である。
ここで気になるのは、矢野氏のつぎの指摘である。
池田名誉会長の執念深さは、生やさしいものではない。「日本占領」という野望は決して諦めることはないだろう ― と。
率直に言って、この種の野望は宗教家、特に仏教者の信条とは異質である。参考までに私(安原)が唱える仏教経済学(思想)で大切と考える八つのキーワードを挙げると、以下のようである。
生きとし生けるものすべてのいのち、非暴力、知足(貪欲を捨て、足るを知ること)、共生、簡素、利他、持続性、多様性の八つで、さらに慈悲心なども貴重だと考えている。これに反し、野望は貪欲、暴力、無慈悲などにつながりかねない性質のもので、大乗仏教の思想とは相容れないのではないか。
最後に著者、矢野氏が公明党に贈る忠言を紹介したい。
池田氏に面と向かって直言、諫言(かんげん)できる人はいまや見当たらない。
創価学会は社会から虐(しいた)げられた人、見捨てられた人の精神的支柱となって組織を拡大した。公明党もまた、庶民、大衆の政党として存立意義を保ってきた。今、格差社会が訪れ、無情な派遣切りや高齢者医療の切り捨てがまかり通っている。公明党もそれに手を貸してきた。
公明党は出来たての頃、小さくとも清流だった。汚濁した大河に、微力ながら清らかな水を注ごうと、われわれは懸命に働いた。決して自らが大河になることが目標ではなかった。今は、政界の汚れた大河と合流し、自身も濁流となって流れている。私は公明党が大きな清流となる日が来ることを信じている ― と。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
農業と教育の危機から抜け出す道
安原和雄
わが国の食料自給率は4割程度で、米欧の先進諸国と比べて格段に低い。いのちの源の大半を海外に依存して、農業の自給力=自立力を失った状態が続いている。一方、若者たちの自立力の弱さも最近顕著になってきており、自立を促す教育を求める声が高まっている。わが国の土台ともいうべき農業と教育が直面しているこのような危機的状況から脱出する道は何か。
まず自立力を失った日本に希望の持てる未来はないことを認識しなければならない。しかもその背景に「いのち軽視」の風潮が広がっていることを理解する必要がある。自立力の再生をどう図っていくか。総選挙後の新政権が取り組むべき緊急かつ重要な課題となってきた。(09年8月23日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)
毎日新聞(09年8月21日付)に注目すべき記事が二つ載っている。一つは経済面のコラム「経済観測」で柴田明夫・丸紅経済研究所所長が論じいている〈日本は「農業」を捨てたのか〉、もう一つは総合面の「09衆院選 私はこう見る 教育改革」欄で尾木直樹・法政大キャリアデザイン学部教授が〈若者の自立を支えよ〉と求めている一文である。この農業と教育にかかわる二つの記事が指摘している問題点は相互に連関していると考える。またそういう風にとらえなければ、現下の日本が直面している農業と教育の危機的状況を的確に認識することは、むずかしいのではないか。まず二つの記事の大要を紹介する。
▽農業の危機 ― 日本は「農業」を捨てたのか
農林水産省は11日、08年度の食料自給率(カロリーベース)が41%となったと発表した。食料自給率は国内で消費している食料のうちどの程度国内生産でまかなったかを示す数字で、60年代に80%近かった自給率は98年には40%と半分になった。米国の128%、フランス122%、ドイツ84%、英国70%と比べ極端に低い。
主要国における食料・農業の位置づけを日本と比べると、改めて驚かされる。人口1億2700万人の日本の穀物生産量は1000万トン程度なのに対し、人口6000万人の英国は日本の3分の2の国土で3000万トンの穀物を生産している。工業国のイメージのドイツは8200万人の人口で5500万トンの穀物を生産している。日本の10倍以上の人口を抱える中国の穀物生産は日本の50倍の5億トンだ。しかもこれら諸国の国内総生産(GDP)は世界上位5カ国に入る経済大国だ。
「農業をおろそかにする国は滅びる」という考えが欧州には根付いているという。欧州の国々は農業を犠牲にしてまで経済大国になろうとはしなかった。改めて日本という国を振り返ると、ひたすら工業化による経済大国を目指す一方、「農業」を切り捨ててきたのではないかと疑いたくなる。それは自然に対する畏敬(いけい)の念や他人に対する思いやりの文化をも失ってきた道でもある。現在の世界的な経済危機と食料危機は日本にとって「農業」を根本的に立て直す好機といえよう。(以上引用)
ここで大事な指摘を拾いあげると、以下の諸点である。
・農業をおろそかにする国は滅びる
・日本は工業化による経済大国を目指す一方、農業を切り捨ててきた
・それは自然に対する畏敬の念や他人に対する思いやりの文化を失ってきた道でもある
▽ 教育の危機 ― 若者の自立を支えよ
多くの日本人は、高校の授業料を払うことを「当然」と思い込んでいるが、世界の大勢は無償化だ。日本は79年に国際人権規約の社会権規約を批准したが、「高等教育の無償化」を定めた条項の批准は留保いている。締約国160カ国で、留保しているのは、マダガスカルと日本だけだ。
すべての国民に高校卒業程度の教育を受ける機会を保障することは、国家の利益でもある。今回の衆院選で「高校の実質無償化」という政策が出てきたのは遅すぎるくらいだ。
今の政治からは「国が教育に責任を持つ」との強い意思を感じない。重要なのは、若者が精神的に自立し、常識を持った大人として生きていく力を高める教育の実践なのだ。
日本の若者の精神状態は危機的だ。「トイレにこもって食事する大学生がいる」という話を聞き、学生465人にアンケートしたところ、11人が「経験がある」と回答し、驚愕(きょうがく)した。「一緒に食事する友人がおらず、ひとりで食べている姿を見られると『友人がいないことの証明』になるから」だという。人として生きていく力が衰弱している、というほかない。
今の大学生の振る舞いは幼稚で、しばしば20年前の中学生と同じに見える。若者が自立して生きる力を失った国に未来はない。目先の学力を向上させる前に、自立を促す教育が求められている。(以上引用)
ここでの要点をまとめると、以下のようである。
・政治から「国が教育に責任を持つ」との強い意思を感じない
・日本の若者の精神状態は危機的で、人として生きていく力が衰弱している
・若者が自立して生きる力を失った国に未来はない
▽「自立力喪失」の背景 ― 「いのち」の軽視
以上、二つの主張に共通している点は、前者の「農業をおろそかにする国は滅びる」であり、後者の「若者が自立して生きる力を失った国に未来はない」である。どちらも日本という国の現状と未来に危機感を抱き、警告を発している。その共通のキーワードは「自立力の喪失」である。農業の自給率が他の先進国に比べて異常に低水準にあり、食の大半を海外に依存している状態は、農業の自給力=自立力の喪失にほかならない。
考えてみれば、農業も教育もともに「いのち」を育てる事業である。農業(畜産、水産、林業などを含む)はいのちある動植物を育て、一方、教育はいのちある人間を育てる。一国のあり方の土台を築くのが農業と教育である。それが危機的状況にあることは、いのちそのものが危機状態に陥っていることを意味する。しかも日本列島上にいのち軽視・無視の風潮がはびこってきたのは、昨日や今日のことではない。
その背景として指摘できるのは、いうまでもなく工業化の異常な肥大ぶりである。一口に言えば、工業は農業や教育と違って、いのちを削る産業である。いのちを育てる産業ではない。エネルギー源や原材料を見れば、いのちとは無縁であることは明らかだろう。
欧州が「農業をおろそかにする国は滅びる」と考え、工業化を進める一方、農業を厳然と保持してきたのは、恐らく「いのちの産業」への深い洞察に導かれたためではないか。
日本ではその洞察に無知であった。工業化に伴う目先の小利を優先させて、いのち軽視への道を進んできた。その結果、今、日本そのものが危機に陥っている。
外国産の食べものが安く買えるのであれば、輸入すればいいという安易な自由貿易推進の発想も背景にあるわけで、これには現代経済学者の市場原理主義的考え方にこだわる責任も大きい。もう一つ指摘すれば、市場原理主義的思考にはそもそも「いのちの尊重」という発想そのものが欠落している。
▽ 打開策は(1) ― 「田園価値」の尊重へ転換を
「いのちの尊重」を軸に据えて、日本の再生をどう図っていくかが総選挙後の重大な課題となってきた。
まず食料自給率を高めながら、「食と農」をどう再生・充実させていくか。地産地消(その地域の農産物をその地域で消費すること)、旬産旬消(季節感豊かな旬ごとの農水産品を大切にすること)を基本に国内・地域で「生産と消費」、「人と人」との相互結びつきの環を再生・拡大し、地域経済を発展させていくことが重要である。
そのためには「価格と所得の保障システム」も必要だろう。自然を相手の農業は、生産効率を高める余地のある工業とは質的に異なり、しかもわが国特有の国土地勢条件の制約を受けて、米国型の模倣にすぎない大規模農業には限界があるからである。つまり労働集約型産業であり、多くの労働力を吸収できる。「食と農」の分野こそこれからの成長産業という見方も十分成り立つだろう。
もう一つ、「田園価値」尊重へと転換していくことの重要性を強調したい。
水田、棚田、里山、森林、河川などからなる田園には米、野菜、果物、山菜、淡水魚など食料の生産・供給のほかに、多様な外部経済機能(=「外部経済」効果、つまり市場メカニズムを経ないで暮らしや経済活動に及ぼすプラスの影響、効果)があることを見逃してはならない。その主な柱はつぎの通り。
*国土・生態系の保全機能=自然のダム機能、地下水の補給、豊かな生態系の保全など
*自然・環境の保全機能=美しい田園、きれいな川の保全、大気の浄化、汚水の分解、静かな環境の形成と維持など
*社会的、教育的、文化的機能=都市と農山村の交流、児童農園での体験学習、コメ文化(日本酒と和食の文化=料理、食器などの多様性)など
米、野菜などの食料は市場メカニズムを経て、供給される市場価値であるが、後者の国土・生態系の保全機能など外部経済機能は市場メカニズムを経ないで、働いているので価格で表示されることはなく、非市場価値である。つまりいくらお金を積んでも購入できない貴重な資産である。私(安原)は、田園が持つこの多様な非市場価値を「田園価値」と呼んでいる。農水省の試算ではこの田園価値は、食料生産全体の価値(価格)よりもはるかに巨額なものである。
農業の衰勢と共に失ってきたとされる「自然に対する畏敬の念」や「他人に対する思いやり」の日本本来の文化もこの田園価値と重なり合っている。
このような日本の優れた田園価値は他国には例を見ないもので、日本国憲法9条(戦争放棄、非武装、交戦権の否認)と並んで世界に誇るべき「日本の宝」である。この日本の宝を尊重し、守り、再生する方向へどう転換していくか、総選挙後の大きな課題である。
▽ 打開策は(2)― 自立を促す教育へ
毎日新聞(09年8月22日付)にもう一つ、興味深い記事が載っている。「ひと」欄に登場した武藤敏郎さんの教育論である。武藤さんは1966年旧大蔵省(現財務省)入りし、事務次官、日銀副総裁を経て現在大和総研理事長。最近母校の開成学園の理事長に就任した。開成学園は東大合格者数日本一を続けている高校で、武藤さんが「私は教育のプロではないから」と謙遜して語った教育論はざっとつぎのようである。
・50年前の自分の中高時代について
「塾なんかには行かず、ボートレースや運動会など学校行事に明け暮れ、仲間と協力することの大切さや全体への貢献を学んだ。当時は質実剛健をたたき込まれた」
・最近の学生たちの印象について
「とても洗練されている。小学生から受験の準備をして、安定した生活を目指すのが現代。やりがいがあっても家庭を犠牲にするような職場を選ぶ、なんてはやらないね」(そんな風潮に不満もある)
・人材育成について
「青白い秀才を育てるのが教育ではない」(社会に貢献できる人材育成へのこだわりを見せる)
記事は「学ぶこと、自分を鍛えることの面白さを発見できる教育現場作りを目指している」と結んでいる。
教育の望ましいあり方への抱負として読むと、「仲間と協力することの大切さ」「社会に貢献できる人材育成」「自分を鍛えることの面白さ」など共感できる部分も少なくない。しかし相手の高校生は受験競争に勝ち抜くことを目指す秀才たちである。しかも社会へ出て「安定した生活」を目標にしているというわけだから、「質実剛健」「仲間との協力」「社会への貢献」「自分を鍛えること」が念頭にある理事長・武藤さんの期待とはどうかみ合うのか、そこが読みとれない。
一方、「若者の自立を支えよ」と唱えている尾木教授は、「目先の学力を向上させる前に、自立を促す教育」を求めている。つまり受験重点の教育に疑問を感じている。最近の若者の「トイレにこもって食事をする」という生態を見れば、自立を促す教育は必要不可欠である。とはいえ、大事な点は、その「自立力」とはどのような性質のものなのか。
私(安原)の直観だが、ここでも田園価値に関連して触れた「自然に対する畏敬の念」や「他人に対する思いやり」など日本本来の文化と重なり合う自立力が求められる。これは自然や他者との「共生のなかでの自立力」であるだろう。そうでなければ競争に打ち勝つ自己本位の実力を自立力と錯覚しかねない。自利本位の競争力という価値観は、あの新自由主義=市場原理主義の破綻とともに重視すべきものではなくなっている。この認識を共有したい。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
わが国の食料自給率は4割程度で、米欧の先進諸国と比べて格段に低い。いのちの源の大半を海外に依存して、農業の自給力=自立力を失った状態が続いている。一方、若者たちの自立力の弱さも最近顕著になってきており、自立を促す教育を求める声が高まっている。わが国の土台ともいうべき農業と教育が直面しているこのような危機的状況から脱出する道は何か。
まず自立力を失った日本に希望の持てる未来はないことを認識しなければならない。しかもその背景に「いのち軽視」の風潮が広がっていることを理解する必要がある。自立力の再生をどう図っていくか。総選挙後の新政権が取り組むべき緊急かつ重要な課題となってきた。(09年8月23日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)
毎日新聞(09年8月21日付)に注目すべき記事が二つ載っている。一つは経済面のコラム「経済観測」で柴田明夫・丸紅経済研究所所長が論じいている〈日本は「農業」を捨てたのか〉、もう一つは総合面の「09衆院選 私はこう見る 教育改革」欄で尾木直樹・法政大キャリアデザイン学部教授が〈若者の自立を支えよ〉と求めている一文である。この農業と教育にかかわる二つの記事が指摘している問題点は相互に連関していると考える。またそういう風にとらえなければ、現下の日本が直面している農業と教育の危機的状況を的確に認識することは、むずかしいのではないか。まず二つの記事の大要を紹介する。
▽農業の危機 ― 日本は「農業」を捨てたのか
農林水産省は11日、08年度の食料自給率(カロリーベース)が41%となったと発表した。食料自給率は国内で消費している食料のうちどの程度国内生産でまかなったかを示す数字で、60年代に80%近かった自給率は98年には40%と半分になった。米国の128%、フランス122%、ドイツ84%、英国70%と比べ極端に低い。
主要国における食料・農業の位置づけを日本と比べると、改めて驚かされる。人口1億2700万人の日本の穀物生産量は1000万トン程度なのに対し、人口6000万人の英国は日本の3分の2の国土で3000万トンの穀物を生産している。工業国のイメージのドイツは8200万人の人口で5500万トンの穀物を生産している。日本の10倍以上の人口を抱える中国の穀物生産は日本の50倍の5億トンだ。しかもこれら諸国の国内総生産(GDP)は世界上位5カ国に入る経済大国だ。
「農業をおろそかにする国は滅びる」という考えが欧州には根付いているという。欧州の国々は農業を犠牲にしてまで経済大国になろうとはしなかった。改めて日本という国を振り返ると、ひたすら工業化による経済大国を目指す一方、「農業」を切り捨ててきたのではないかと疑いたくなる。それは自然に対する畏敬(いけい)の念や他人に対する思いやりの文化をも失ってきた道でもある。現在の世界的な経済危機と食料危機は日本にとって「農業」を根本的に立て直す好機といえよう。(以上引用)
ここで大事な指摘を拾いあげると、以下の諸点である。
・農業をおろそかにする国は滅びる
・日本は工業化による経済大国を目指す一方、農業を切り捨ててきた
・それは自然に対する畏敬の念や他人に対する思いやりの文化を失ってきた道でもある
▽ 教育の危機 ― 若者の自立を支えよ
多くの日本人は、高校の授業料を払うことを「当然」と思い込んでいるが、世界の大勢は無償化だ。日本は79年に国際人権規約の社会権規約を批准したが、「高等教育の無償化」を定めた条項の批准は留保いている。締約国160カ国で、留保しているのは、マダガスカルと日本だけだ。
すべての国民に高校卒業程度の教育を受ける機会を保障することは、国家の利益でもある。今回の衆院選で「高校の実質無償化」という政策が出てきたのは遅すぎるくらいだ。
今の政治からは「国が教育に責任を持つ」との強い意思を感じない。重要なのは、若者が精神的に自立し、常識を持った大人として生きていく力を高める教育の実践なのだ。
日本の若者の精神状態は危機的だ。「トイレにこもって食事する大学生がいる」という話を聞き、学生465人にアンケートしたところ、11人が「経験がある」と回答し、驚愕(きょうがく)した。「一緒に食事する友人がおらず、ひとりで食べている姿を見られると『友人がいないことの証明』になるから」だという。人として生きていく力が衰弱している、というほかない。
今の大学生の振る舞いは幼稚で、しばしば20年前の中学生と同じに見える。若者が自立して生きる力を失った国に未来はない。目先の学力を向上させる前に、自立を促す教育が求められている。(以上引用)
ここでの要点をまとめると、以下のようである。
・政治から「国が教育に責任を持つ」との強い意思を感じない
・日本の若者の精神状態は危機的で、人として生きていく力が衰弱している
・若者が自立して生きる力を失った国に未来はない
▽「自立力喪失」の背景 ― 「いのち」の軽視
以上、二つの主張に共通している点は、前者の「農業をおろそかにする国は滅びる」であり、後者の「若者が自立して生きる力を失った国に未来はない」である。どちらも日本という国の現状と未来に危機感を抱き、警告を発している。その共通のキーワードは「自立力の喪失」である。農業の自給率が他の先進国に比べて異常に低水準にあり、食の大半を海外に依存している状態は、農業の自給力=自立力の喪失にほかならない。
考えてみれば、農業も教育もともに「いのち」を育てる事業である。農業(畜産、水産、林業などを含む)はいのちある動植物を育て、一方、教育はいのちある人間を育てる。一国のあり方の土台を築くのが農業と教育である。それが危機的状況にあることは、いのちそのものが危機状態に陥っていることを意味する。しかも日本列島上にいのち軽視・無視の風潮がはびこってきたのは、昨日や今日のことではない。
その背景として指摘できるのは、いうまでもなく工業化の異常な肥大ぶりである。一口に言えば、工業は農業や教育と違って、いのちを削る産業である。いのちを育てる産業ではない。エネルギー源や原材料を見れば、いのちとは無縁であることは明らかだろう。
欧州が「農業をおろそかにする国は滅びる」と考え、工業化を進める一方、農業を厳然と保持してきたのは、恐らく「いのちの産業」への深い洞察に導かれたためではないか。
日本ではその洞察に無知であった。工業化に伴う目先の小利を優先させて、いのち軽視への道を進んできた。その結果、今、日本そのものが危機に陥っている。
外国産の食べものが安く買えるのであれば、輸入すればいいという安易な自由貿易推進の発想も背景にあるわけで、これには現代経済学者の市場原理主義的考え方にこだわる責任も大きい。もう一つ指摘すれば、市場原理主義的思考にはそもそも「いのちの尊重」という発想そのものが欠落している。
▽ 打開策は(1) ― 「田園価値」の尊重へ転換を
「いのちの尊重」を軸に据えて、日本の再生をどう図っていくかが総選挙後の重大な課題となってきた。
まず食料自給率を高めながら、「食と農」をどう再生・充実させていくか。地産地消(その地域の農産物をその地域で消費すること)、旬産旬消(季節感豊かな旬ごとの農水産品を大切にすること)を基本に国内・地域で「生産と消費」、「人と人」との相互結びつきの環を再生・拡大し、地域経済を発展させていくことが重要である。
そのためには「価格と所得の保障システム」も必要だろう。自然を相手の農業は、生産効率を高める余地のある工業とは質的に異なり、しかもわが国特有の国土地勢条件の制約を受けて、米国型の模倣にすぎない大規模農業には限界があるからである。つまり労働集約型産業であり、多くの労働力を吸収できる。「食と農」の分野こそこれからの成長産業という見方も十分成り立つだろう。
もう一つ、「田園価値」尊重へと転換していくことの重要性を強調したい。
水田、棚田、里山、森林、河川などからなる田園には米、野菜、果物、山菜、淡水魚など食料の生産・供給のほかに、多様な外部経済機能(=「外部経済」効果、つまり市場メカニズムを経ないで暮らしや経済活動に及ぼすプラスの影響、効果)があることを見逃してはならない。その主な柱はつぎの通り。
*国土・生態系の保全機能=自然のダム機能、地下水の補給、豊かな生態系の保全など
*自然・環境の保全機能=美しい田園、きれいな川の保全、大気の浄化、汚水の分解、静かな環境の形成と維持など
*社会的、教育的、文化的機能=都市と農山村の交流、児童農園での体験学習、コメ文化(日本酒と和食の文化=料理、食器などの多様性)など
米、野菜などの食料は市場メカニズムを経て、供給される市場価値であるが、後者の国土・生態系の保全機能など外部経済機能は市場メカニズムを経ないで、働いているので価格で表示されることはなく、非市場価値である。つまりいくらお金を積んでも購入できない貴重な資産である。私(安原)は、田園が持つこの多様な非市場価値を「田園価値」と呼んでいる。農水省の試算ではこの田園価値は、食料生産全体の価値(価格)よりもはるかに巨額なものである。
農業の衰勢と共に失ってきたとされる「自然に対する畏敬の念」や「他人に対する思いやり」の日本本来の文化もこの田園価値と重なり合っている。
このような日本の優れた田園価値は他国には例を見ないもので、日本国憲法9条(戦争放棄、非武装、交戦権の否認)と並んで世界に誇るべき「日本の宝」である。この日本の宝を尊重し、守り、再生する方向へどう転換していくか、総選挙後の大きな課題である。
▽ 打開策は(2)― 自立を促す教育へ
毎日新聞(09年8月22日付)にもう一つ、興味深い記事が載っている。「ひと」欄に登場した武藤敏郎さんの教育論である。武藤さんは1966年旧大蔵省(現財務省)入りし、事務次官、日銀副総裁を経て現在大和総研理事長。最近母校の開成学園の理事長に就任した。開成学園は東大合格者数日本一を続けている高校で、武藤さんが「私は教育のプロではないから」と謙遜して語った教育論はざっとつぎのようである。
・50年前の自分の中高時代について
「塾なんかには行かず、ボートレースや運動会など学校行事に明け暮れ、仲間と協力することの大切さや全体への貢献を学んだ。当時は質実剛健をたたき込まれた」
・最近の学生たちの印象について
「とても洗練されている。小学生から受験の準備をして、安定した生活を目指すのが現代。やりがいがあっても家庭を犠牲にするような職場を選ぶ、なんてはやらないね」(そんな風潮に不満もある)
・人材育成について
「青白い秀才を育てるのが教育ではない」(社会に貢献できる人材育成へのこだわりを見せる)
記事は「学ぶこと、自分を鍛えることの面白さを発見できる教育現場作りを目指している」と結んでいる。
教育の望ましいあり方への抱負として読むと、「仲間と協力することの大切さ」「社会に貢献できる人材育成」「自分を鍛えることの面白さ」など共感できる部分も少なくない。しかし相手の高校生は受験競争に勝ち抜くことを目指す秀才たちである。しかも社会へ出て「安定した生活」を目標にしているというわけだから、「質実剛健」「仲間との協力」「社会への貢献」「自分を鍛えること」が念頭にある理事長・武藤さんの期待とはどうかみ合うのか、そこが読みとれない。
一方、「若者の自立を支えよ」と唱えている尾木教授は、「目先の学力を向上させる前に、自立を促す教育」を求めている。つまり受験重点の教育に疑問を感じている。最近の若者の「トイレにこもって食事をする」という生態を見れば、自立を促す教育は必要不可欠である。とはいえ、大事な点は、その「自立力」とはどのような性質のものなのか。
私(安原)の直観だが、ここでも田園価値に関連して触れた「自然に対する畏敬の念」や「他人に対する思いやり」など日本本来の文化と重なり合う自立力が求められる。これは自然や他者との「共生のなかでの自立力」であるだろう。そうでなければ競争に打ち勝つ自己本位の実力を自立力と錯覚しかねない。自利本位の競争力という価値観は、あの新自由主義=市場原理主義の破綻とともに重視すべきものではなくなっている。この認識を共有したい。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
自公政権退場は転換への第一歩
安原和雄
戦後初めての「政権選択」が焦点の衆院総選挙戦たけなわである。自民党が居残るのか、それとも民主党が新政権の座につくのか、といえば予測の大勢は民主の勝利と出ている。小泉政権時代に猛威を極めた新自由主義=市場原理主義路線の破綻とともに自民・公明政権の寿命は尽きているというべきである。無用な悪あがきはいい加減にして、政権を譲り渡す方が後世において評価されるかも知れない。
問題は民主中心の政権が誕生した場合、変革によって果たして新しい日本をつくることができるのか、である。かつての市民派企業経営者・堤清二、今、市民派文化人として活躍中の辻井喬さんが「自公政権の退場は転換への第一歩にすぎない」など総選挙後の日本の進むべき道について示唆に富む発言を行っている。(09年8月19日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽辻井 喬 「自公政権は退場するとき」
「しんぶん 赤旗」(日曜版・09年8月16日号)が「総選挙目前 作家 辻井喬さん語る」という特集記事を組んでいる。つぎの大きな見出しも並んでいる。
自公政権退場は第一歩です
次へ踏み出すために
憲法守る政党が伸びないと
的確な情勢分析と傾聴に値する問題提起が少なくないので、その大要を以下に紹介する。
*アメリカの一極支配は終わった
今回の経済危機でアメリカの一極支配は終わった。世界は多極化の時代を迎える。中国、EU(欧州連合)をはじめ、アメリカと並ぶ複数の極が生まれるだろう。そうなると、日本にとってアジアでどういう役割を果たすかが一番大きな問題だ。アジアには大きな発展の可能性がある。金融資本・独占企業中心のグローバリゼーションと対抗するためにもアジアの地域的な連携が必要だ。
一言つけ加えれば、私は日本を多極化時代の極の一つに考えていない。
*憲法を守る政党が伸びないといけない
現在の日本は中国、韓国などアジア諸国から信頼されていない。憲法「改正」を党是に掲げる政党がいつまでも政権についているのでは、信頼されるわけがない。自民党はマニフェスト(政権公約)で、いまだに「自主憲法の制定」を掲げている。総選挙でこの勢力を退場させるのが第一歩だ。共産党が言うように、いまの(自公)政権を倒すことがまず第一歩だ。
その後、第二歩、第三歩をどう踏み出すのか。民主党の中にも改憲志向がある。憲法をしっかり守る政党が伸びないといけない。平和主義に徹して、本当の意味で豊かな生活を送れる社会を実現する。憲法を掲げて、世界中にその道を示せるのは日本だけである。
*大事なのは平和と自然環境
日本経済は大きな転換期にある。転換期とは経済だけ考えていれば、経済がうまくいく時代は終わったということで、こういうときは、大事なものから押さえいかなければいけない。それは平和と自然環境だ。人間生活の根本は衣食住。日本の食料自給率40%は深刻だ。この点からみれば、日本は国際的な平和のなかでやっていくしかない。もう一つはきれいな水と空気。これを守ることは国民のためはもちろん、外国から来る人にも魅力だ。
*政治に問われるのは自民か民主かではない
政治に問われるのは深刻な不況で苦しんでいる人の側に立つか、それとも、前と同じもうけを維持しようという側に立つのかだ。あえていえば自民か民主かではない。
メディアは「大きい政府か小さい政府か」「バラマキか財政均衡か」と、すぐに短絡的な図式をつくるが、これは国民を誤誘導するものである。政府は必要なところは大きくしていいし、不必要なところは徹底的に減らす。その結果、全体として減ればいい。
共産党の政策をみると、反対するところがない。筋が通っている。私はどこに(一票を)入れたら日本のためになるかを考えて投票しようといっている。
▽堤清二 「〈市民の国家〉に改造を」
以上は作家・辻井喬としての発言であり、自公政権退場の必要性を明確に指摘している。私(安原)は財界担当の経済記者として市民派企業経営者・財界人としての堤清二とは30年以上も前の1970年代に何度も取材インタビューを含め対話する機会があった。当時すでに辻井喬のペンネームで作品を発表していた。
安原「最近のあの作品、読みましたよ」
辻井「そう、それは有難い」
この程度の会話はあったが、私の関心はやはり堤清二の方に向いていた。当時のインタビュー記事の一部を紹介したい。「〈市民の国家〉に改造を」などと語っている。
(毎日新聞経済部編『揺らぐ日本株式会社 政官財50人の証言』=毎日新聞社刊、1975年=参照)
〈安原〉:公正取引委員会の大企業分割論などを中心とする独禁法強化の動きに対し、経済界は「いまの自由主義経済にとって自殺行為だ」と反対している。独禁法強化は日本資本主義の延命策であるはずだが、経済界の目にはそうではないと映るらしい。どうも経済界はかつて公害反対運動を「目の敵」にしたのとよく似ている。同じ愚を繰り返すのではないか。
〈堤〉:その通りだ。公経済の分野がひろがって、それと私経済との混合による新しい資本主義になっているのに、日本の経営者はいまなおアダム・スミス当時の自由主義経済を頭に置いている。財界だけがタイム・カプセルに入って凍結されている。しかしスミスを読み直してみると、自由競争には限界があるとして、企業家の自己抑制の必要を強調している。とにかく自由にやらせるのが自由主義経済だといっていたのでは、大衆から見放される。
〈安原〉:公経済の分野がひろがっているということだが、どの程度の公権力の介入ならよいと考えるか。
〈堤〉:いまの国家は「市民社会のための装置」という認識を持つべきだ。市民社会のための政府であれば、介入も市民のための介入になるので、企業にとっても歓迎すべき介入になるはずだ。介入が是か非かではなく、介入する国家の体質が市民社会のためになっているかどうかが問題だ。しかしいまの政府はそうなってはいないので、市民社会のための国家に改造していく必要がある。そして介入の仕方、分野、度合について介入を認める立場で注文をつけていく。
▽市民派文化人として今なお健在
以上のインタビュー記事をまとめた1975年当時、堤さんは西武百貨店社長、西友ストアー会長、西武流通グループ代表などの地位にあった。そういう地位にありながら、財界に向かって苦言を呈することに極めて率直であった。だから「体制内反逆者」とでもいうべき特異な存在であった。
インタビューのなかで私(安原)が注目したのは、つぎの点である。これは市民派企業経営者・財界人と呼ぶにふさわしい。
国家は「市民のための装置」であるべきだが、現実はそうなってはいないので、市民社会のための国家に改造していく必要がある。そして国家による介入(行政による公的規制など)を認める立場で市民の側から注文をつけていく ― と。
こういう認識と発言について一面的な観察力しかない昨今の評論家たちは、恐らく「それは社会主義だ」と叫ぶに違いない。社会主義ではなく、市民第一主義ととらえるべきだろう。
もう一つ、私が「えっ?」と感じたのは、イギリスの経済学者アダム・スミス(1723〜90年、主著は『道徳感情論』『国富論』)への理解である。彼はこう語った。
「日本の経営者はいまなおアダム・スミス当時の自由主義経済を頭に置いている。しかしスミスを読み直してみると、自由競争には限界があるとして、企業家の自己抑制の必要を強調している」と。
この指摘に私自身もスミスを読み直してみなければならない、と受け止めたことを記憶している。
例えばスミスの国富論は、自由競争について「正義の法を犯さぬかぎり」という厳しい条件を付けている。いいかえればスミスは決して身勝手な「自由放任のすすめ」を説いたのではない。あの長編の国富論のなかで「自由競争」という言葉はあるが、「自由放任(レッセ・フェール)」は一度も出てこない。堤さんはそこに着目したが、日本の経営者たちで、これを正確に理解している者はごくまれである。むしろ「スミスすなわち自由放任説」という誤解がまかり通っている。
1980年代に入ってから中曽根政権の登場以来、米国主導のあの新自由主義=市場原理主義が導入され、小泉政権時代に猛威を極めることになるが、その基本的な考えは、企業利益を最優先にし、一方、大衆の生活を破綻に追い込む身勝手な「自由放任のすすめ」である。これでは当のスミスにとっては実にありがた迷惑な話そのものである。
堤さんはこうも指摘している。「とにかく自由にやらせるのが自由主義経済だといっていたのでは、大衆から見放される」と。
彼の予測通り、それから30年以上という歳月の経過は、いささか長すぎたとはいえ、新自由主義=市場原理主義は破綻し、その推進役を果たした自民・公明政権が今まさに総選挙によって大衆から見放され、退場を求められようとしている。
かつての市民派企業経営者は今では作家であり、同時に市民派文化人として、その健在ぶりは変わらない。その証(あかし)が「辻井さん語る」の「自公政権の退場」「憲法を守る政党が伸びること」「大事なのは平和と自然環境」などである。
▽二大政党制にこだわるメディアにもの申す
09年8月30日投開票の衆院総選挙が8月18日公示された。新聞メディアの大手紙社説は総選挙の意義をどうとらえているのか。まず5紙(8月18日付)の見出しを紹介する。
*朝日新聞=総選挙公示 「09年体制」の幕開けを
*毎日新聞=衆院選 きょう公示 日本の未来を語れ
*読売新聞=6党党首討論 有権者の疑問に率直に答えよ
*日本経済新聞=09衆院選 政策を問う 政権を選ぶ歴史的な選挙の幕が開く
*東京新聞=09年衆院選きょう公示 さあ本番 覚悟新たに
毎日社説はつぎのように指摘している。
歴史的な選挙戦のスタートである。「歴史的」なのは、言うまでもなく政権選択の選挙だからだ。外国では選挙による政権交代は何ら珍しくない、しかし日本では1955年の保守合同以来、もっぱら自民党を中心とする政治が続いてきた ― と。
「政権選択の選挙」という認識は各紙に共通している。この認識に異をはさむ余地はない。その通りである。ではどのような政権選択なのか。
朝日社説はつぎのように論じている。
健全な民主主義をつくるために2大政党による政権交代が望ましいという考え方は、昔からあった。(中略)せっかくの2大政党・政権交代時代の流れを逆戻りさせることは許されない ― と。
一方、読売、日経、東京の各社説はつぎのように連立政権に言及している。
読売=今回の選挙は、自民・公明の連立政権の継続か、民主・社民・国民新の連立政権か、を選ぶ性格を持っている。
日経=自民、民主のどちらが第1党になっても連立は不可避の情勢だ。「建設的野党」の立場を打ち出した共産党を含め、各党は選挙後の連立政権に臨む基本方針を示して、有権者の判断を仰ぐ必要がある。
東京=国民新、社民両党は民主との連立政権を見込み、共産と渡辺喜美氏らの新党は自民とも民主とも一線を画す。
毎日は外交、安全保障、日米同盟に重点を置き、2大政党制にも連立政権にも触れていない。
以上から分かるように2大政党制にこだわっているのは朝日である。また3紙の連立政権論も2大政党を軸にしたものである。問題は自民と民主の2大政党の間で政権交代を行う2大政党制の是非である。冒頭の辻井発言、「政治に問われるのは自民か民主かではない」、つまり2大政党制にこだわるのは疑問という説に賛成したい。
その理由は自民と民主は政策面で大差ないこと、この両政党の間の政権交代だけでは日本の現状打開にも未来にも希望が持てないこと、さらに小選挙区中心の現行選挙制度では死票が多すぎて、有権者の意思を正しく反映しないこと、などである。
ただ今回の総選挙では民主党が勝利を収めて、自公政権は退場するのが望ましい。それを第一歩として新しい日本への変革が始まることを期待したい。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
戦後初めての「政権選択」が焦点の衆院総選挙戦たけなわである。自民党が居残るのか、それとも民主党が新政権の座につくのか、といえば予測の大勢は民主の勝利と出ている。小泉政権時代に猛威を極めた新自由主義=市場原理主義路線の破綻とともに自民・公明政権の寿命は尽きているというべきである。無用な悪あがきはいい加減にして、政権を譲り渡す方が後世において評価されるかも知れない。
問題は民主中心の政権が誕生した場合、変革によって果たして新しい日本をつくることができるのか、である。かつての市民派企業経営者・堤清二、今、市民派文化人として活躍中の辻井喬さんが「自公政権の退場は転換への第一歩にすぎない」など総選挙後の日本の進むべき道について示唆に富む発言を行っている。(09年8月19日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽辻井 喬 「自公政権は退場するとき」
「しんぶん 赤旗」(日曜版・09年8月16日号)が「総選挙目前 作家 辻井喬さん語る」という特集記事を組んでいる。つぎの大きな見出しも並んでいる。
自公政権退場は第一歩です
次へ踏み出すために
憲法守る政党が伸びないと
的確な情勢分析と傾聴に値する問題提起が少なくないので、その大要を以下に紹介する。
*アメリカの一極支配は終わった
今回の経済危機でアメリカの一極支配は終わった。世界は多極化の時代を迎える。中国、EU(欧州連合)をはじめ、アメリカと並ぶ複数の極が生まれるだろう。そうなると、日本にとってアジアでどういう役割を果たすかが一番大きな問題だ。アジアには大きな発展の可能性がある。金融資本・独占企業中心のグローバリゼーションと対抗するためにもアジアの地域的な連携が必要だ。
一言つけ加えれば、私は日本を多極化時代の極の一つに考えていない。
*憲法を守る政党が伸びないといけない
現在の日本は中国、韓国などアジア諸国から信頼されていない。憲法「改正」を党是に掲げる政党がいつまでも政権についているのでは、信頼されるわけがない。自民党はマニフェスト(政権公約)で、いまだに「自主憲法の制定」を掲げている。総選挙でこの勢力を退場させるのが第一歩だ。共産党が言うように、いまの(自公)政権を倒すことがまず第一歩だ。
その後、第二歩、第三歩をどう踏み出すのか。民主党の中にも改憲志向がある。憲法をしっかり守る政党が伸びないといけない。平和主義に徹して、本当の意味で豊かな生活を送れる社会を実現する。憲法を掲げて、世界中にその道を示せるのは日本だけである。
*大事なのは平和と自然環境
日本経済は大きな転換期にある。転換期とは経済だけ考えていれば、経済がうまくいく時代は終わったということで、こういうときは、大事なものから押さえいかなければいけない。それは平和と自然環境だ。人間生活の根本は衣食住。日本の食料自給率40%は深刻だ。この点からみれば、日本は国際的な平和のなかでやっていくしかない。もう一つはきれいな水と空気。これを守ることは国民のためはもちろん、外国から来る人にも魅力だ。
*政治に問われるのは自民か民主かではない
政治に問われるのは深刻な不況で苦しんでいる人の側に立つか、それとも、前と同じもうけを維持しようという側に立つのかだ。あえていえば自民か民主かではない。
メディアは「大きい政府か小さい政府か」「バラマキか財政均衡か」と、すぐに短絡的な図式をつくるが、これは国民を誤誘導するものである。政府は必要なところは大きくしていいし、不必要なところは徹底的に減らす。その結果、全体として減ればいい。
共産党の政策をみると、反対するところがない。筋が通っている。私はどこに(一票を)入れたら日本のためになるかを考えて投票しようといっている。
▽堤清二 「〈市民の国家〉に改造を」
以上は作家・辻井喬としての発言であり、自公政権退場の必要性を明確に指摘している。私(安原)は財界担当の経済記者として市民派企業経営者・財界人としての堤清二とは30年以上も前の1970年代に何度も取材インタビューを含め対話する機会があった。当時すでに辻井喬のペンネームで作品を発表していた。
安原「最近のあの作品、読みましたよ」
辻井「そう、それは有難い」
この程度の会話はあったが、私の関心はやはり堤清二の方に向いていた。当時のインタビュー記事の一部を紹介したい。「〈市民の国家〉に改造を」などと語っている。
(毎日新聞経済部編『揺らぐ日本株式会社 政官財50人の証言』=毎日新聞社刊、1975年=参照)
〈安原〉:公正取引委員会の大企業分割論などを中心とする独禁法強化の動きに対し、経済界は「いまの自由主義経済にとって自殺行為だ」と反対している。独禁法強化は日本資本主義の延命策であるはずだが、経済界の目にはそうではないと映るらしい。どうも経済界はかつて公害反対運動を「目の敵」にしたのとよく似ている。同じ愚を繰り返すのではないか。
〈堤〉:その通りだ。公経済の分野がひろがって、それと私経済との混合による新しい資本主義になっているのに、日本の経営者はいまなおアダム・スミス当時の自由主義経済を頭に置いている。財界だけがタイム・カプセルに入って凍結されている。しかしスミスを読み直してみると、自由競争には限界があるとして、企業家の自己抑制の必要を強調している。とにかく自由にやらせるのが自由主義経済だといっていたのでは、大衆から見放される。
〈安原〉:公経済の分野がひろがっているということだが、どの程度の公権力の介入ならよいと考えるか。
〈堤〉:いまの国家は「市民社会のための装置」という認識を持つべきだ。市民社会のための政府であれば、介入も市民のための介入になるので、企業にとっても歓迎すべき介入になるはずだ。介入が是か非かではなく、介入する国家の体質が市民社会のためになっているかどうかが問題だ。しかしいまの政府はそうなってはいないので、市民社会のための国家に改造していく必要がある。そして介入の仕方、分野、度合について介入を認める立場で注文をつけていく。
▽市民派文化人として今なお健在
以上のインタビュー記事をまとめた1975年当時、堤さんは西武百貨店社長、西友ストアー会長、西武流通グループ代表などの地位にあった。そういう地位にありながら、財界に向かって苦言を呈することに極めて率直であった。だから「体制内反逆者」とでもいうべき特異な存在であった。
インタビューのなかで私(安原)が注目したのは、つぎの点である。これは市民派企業経営者・財界人と呼ぶにふさわしい。
国家は「市民のための装置」であるべきだが、現実はそうなってはいないので、市民社会のための国家に改造していく必要がある。そして国家による介入(行政による公的規制など)を認める立場で市民の側から注文をつけていく ― と。
こういう認識と発言について一面的な観察力しかない昨今の評論家たちは、恐らく「それは社会主義だ」と叫ぶに違いない。社会主義ではなく、市民第一主義ととらえるべきだろう。
もう一つ、私が「えっ?」と感じたのは、イギリスの経済学者アダム・スミス(1723〜90年、主著は『道徳感情論』『国富論』)への理解である。彼はこう語った。
「日本の経営者はいまなおアダム・スミス当時の自由主義経済を頭に置いている。しかしスミスを読み直してみると、自由競争には限界があるとして、企業家の自己抑制の必要を強調している」と。
この指摘に私自身もスミスを読み直してみなければならない、と受け止めたことを記憶している。
例えばスミスの国富論は、自由競争について「正義の法を犯さぬかぎり」という厳しい条件を付けている。いいかえればスミスは決して身勝手な「自由放任のすすめ」を説いたのではない。あの長編の国富論のなかで「自由競争」という言葉はあるが、「自由放任(レッセ・フェール)」は一度も出てこない。堤さんはそこに着目したが、日本の経営者たちで、これを正確に理解している者はごくまれである。むしろ「スミスすなわち自由放任説」という誤解がまかり通っている。
1980年代に入ってから中曽根政権の登場以来、米国主導のあの新自由主義=市場原理主義が導入され、小泉政権時代に猛威を極めることになるが、その基本的な考えは、企業利益を最優先にし、一方、大衆の生活を破綻に追い込む身勝手な「自由放任のすすめ」である。これでは当のスミスにとっては実にありがた迷惑な話そのものである。
堤さんはこうも指摘している。「とにかく自由にやらせるのが自由主義経済だといっていたのでは、大衆から見放される」と。
彼の予測通り、それから30年以上という歳月の経過は、いささか長すぎたとはいえ、新自由主義=市場原理主義は破綻し、その推進役を果たした自民・公明政権が今まさに総選挙によって大衆から見放され、退場を求められようとしている。
かつての市民派企業経営者は今では作家であり、同時に市民派文化人として、その健在ぶりは変わらない。その証(あかし)が「辻井さん語る」の「自公政権の退場」「憲法を守る政党が伸びること」「大事なのは平和と自然環境」などである。
▽二大政党制にこだわるメディアにもの申す
09年8月30日投開票の衆院総選挙が8月18日公示された。新聞メディアの大手紙社説は総選挙の意義をどうとらえているのか。まず5紙(8月18日付)の見出しを紹介する。
*朝日新聞=総選挙公示 「09年体制」の幕開けを
*毎日新聞=衆院選 きょう公示 日本の未来を語れ
*読売新聞=6党党首討論 有権者の疑問に率直に答えよ
*日本経済新聞=09衆院選 政策を問う 政権を選ぶ歴史的な選挙の幕が開く
*東京新聞=09年衆院選きょう公示 さあ本番 覚悟新たに
毎日社説はつぎのように指摘している。
歴史的な選挙戦のスタートである。「歴史的」なのは、言うまでもなく政権選択の選挙だからだ。外国では選挙による政権交代は何ら珍しくない、しかし日本では1955年の保守合同以来、もっぱら自民党を中心とする政治が続いてきた ― と。
「政権選択の選挙」という認識は各紙に共通している。この認識に異をはさむ余地はない。その通りである。ではどのような政権選択なのか。
朝日社説はつぎのように論じている。
健全な民主主義をつくるために2大政党による政権交代が望ましいという考え方は、昔からあった。(中略)せっかくの2大政党・政権交代時代の流れを逆戻りさせることは許されない ― と。
一方、読売、日経、東京の各社説はつぎのように連立政権に言及している。
読売=今回の選挙は、自民・公明の連立政権の継続か、民主・社民・国民新の連立政権か、を選ぶ性格を持っている。
日経=自民、民主のどちらが第1党になっても連立は不可避の情勢だ。「建設的野党」の立場を打ち出した共産党を含め、各党は選挙後の連立政権に臨む基本方針を示して、有権者の判断を仰ぐ必要がある。
東京=国民新、社民両党は民主との連立政権を見込み、共産と渡辺喜美氏らの新党は自民とも民主とも一線を画す。
毎日は外交、安全保障、日米同盟に重点を置き、2大政党制にも連立政権にも触れていない。
以上から分かるように2大政党制にこだわっているのは朝日である。また3紙の連立政権論も2大政党を軸にしたものである。問題は自民と民主の2大政党の間で政権交代を行う2大政党制の是非である。冒頭の辻井発言、「政治に問われるのは自民か民主かではない」、つまり2大政党制にこだわるのは疑問という説に賛成したい。
その理由は自民と民主は政策面で大差ないこと、この両政党の間の政権交代だけでは日本の現状打開にも未来にも希望が持てないこと、さらに小選挙区中心の現行選挙制度では死票が多すぎて、有権者の意思を正しく反映しないこと、などである。
ただ今回の総選挙では民主党が勝利を収めて、自公政権は退場するのが望ましい。それを第一歩として新しい日本への変革が始まることを期待したい。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
64回目の終戦記念日を迎えて
安原和雄
「戦争と平和」というテーマはこれまで戦争体験者たちの独占物となっていたきらいがる。しかしこれでは戦争を拒否し、平和を新たにつくっていくことはできない。なぜなら戦争体験者は少数派であり、戦争を知らない戦後世代が日本全人口の4分の3を超え、多数派となっているからである。こういう時代の変化を踏まえて、戦争を反省し、平和をつくっていくためには何をどうしたらいいのか。戦後世代の活躍に期待するほかない。
戦後世代の青年男女は青年らしく真剣に考え、行動を始めており、新しい感覚で平和の集いをあちこちで開催している。64回目の終戦記念日を迎えて、青年たちによる手づくりの平和イベントを紹介したい。(09年8月15日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽大手紙の社説は「戦争と平和」をどう論じたか
64回目の終戦記念日「8.15」を迎えて大手紙の社説(09年8月15日付)は平和について何を論じたか。5紙社説の見出しはつぎの通り。
*朝日新聞=あの戦争の記憶 世代を超え、橋を架ける
*毎日新聞=終戦記念日に際して 「打たれ強い日本」に 低エネルギー化急げ
*読売新聞=終戦の日 追悼めぐる論議を深めよ
*日本経済新聞=悲劇を繰り返さぬ決意を新たにしよう
*東京新聞=終戦の日に考える 九条とビルマの竪琴
見出しの多様さを競い合っている印象だが、多くは割愛して、朝日社説の一部のみを紹介する。つぎのように書いている。
神(じん)直子さん(31)は、学生時代にスタディーツアーでフィリピンを訪ねた。現地の集会で、一人のおばあさんに「日本人なんか見たくない」と言われたことが胸に突き刺さった。日本兵に夫を殺されたという。
フィリピンは太平洋戦争の激戦地だ。日米両軍の死闘のなかで、日本の軍人・軍属60万人中50万人が死亡した。フィリピン人も100万人以上が犠牲となった。
神さんにとって戦争の歴史は、モヤモヤとよどんでいる、という。
あの時代に近づき、戦争に携わった当事者に向き合わなければ、モヤモヤを埋めて先へと進めない ― 。
神さんは「ブリッジ・フォー・ピース」という団体を立ち上げた。若者たちが手分けして70人近い元兵士の話を聞いた。フィリピンの市民団体などの協力で、毎年のように上映会を開く。(以上、引用)
ここに出てくる「ブリッジ・フォー・ピース」が主催する集いに私(安原)自身、参加したので、その体験と感想を以下に報告する。
▽夏のイベント「平和をつくる・みんなと出会う」に参加して
「ブリッジ・フォー・ピース」、すなわち「BRIDGE FOR PEACE」(略語BFP、代表・神直子)主催の平和集会、「つながるBFP夏のイベント〜平和をつくる・みんなと出会う〜」が09年8月8日、東京メトロ日比谷線広尾駅脇の「JICA(国際協力機構)地球ひろば」で開かれた。BFPは、戦後30年以降生まれの世代の自主的な集団で、戦場体験者から生の非人間的な体験を掘り起こしながら、それを語り継ぎ、戦争を拒否し、平和をつくっていくことを目指している。イベントに集まったのは私(安原)を含めて老若男女合わせて100名余。
この集団は、テーマ「戦争と平和」やBFPそのもののあり方にどう向き合おうとしているのか。イベントに参加したBFPメンバーの声を紹介したい。
(『私たちの歴史認識〜戦後世代の声〜戦争について知らなくていいの?戦後世代だって考える!!』=企画・発行:ブリッジ・フォー・ピース〈BFP〉=を参照)
*代表・神直子さん(昭和53年生まれ)=BFP5周年を迎えて〜緩やかなネットワークであり続けたい
今年で活動も5周年を迎え、何らかのきっかけで戦争に関心をもつようになった人が共感し、どんどん輪に入ってくれている。外国で戦争被害者と出会ったり、戦争について日本人として意見を求められて戦争を考えるようになったり、本や映画がきっかけとなったり、家族や語り部の方から戦争体験を直接聞いて関心をもった者もいる。それぞれの原点は様々である。
同じ過ちが繰り返されないためにも戦争を語り継いでいきたい。私は、メンバー全員が同じ意見を持つ必要はないと思っている。違って当たり前である。私の掛け声のもと、皆が同じ方向を向くような集団だったら、戦時中と変わらないかも知れない。これからもそのような緩やかなネットワークであり続けたいと思っている。
*Mさん(開発コンサルタント・昭和51年生まれ)=日本はまた戦争になる
戦争放棄をうたった9条を含む日本国憲法がつくられた当時と比べて、現状、日本はまた戦争になるという危機感が大きくなっていると主張しても、それほど的外れではない。私にそう危惧させるのは、昨今の憲法改正の動きだけではない。
根本的かつ危機的な動きは、政府に対する主権を持っている国民の考えのなかにある。それは「平和のための戦争、戦争を終えるための戦争など、正当化される戦争もある」という理屈に納得する人々が増えていること。その原因は彼ら自身が戦争の悲惨さ、殺戮の恐ろしさ、人間が人間でなくなる悲しさを知らないこと、換言すれば、「戦争を知らない世代」が増えているためではないか。
*Aさん(イベントコーディネーター・昭和55年生まれ)=「戦争」から「平和」を考える
どれだけの人に平和に対する想いを伝えることができるか。
「何を言ってるの?日本は平和じゃない」「そんな過去のことを掘り返してどうするの?」「戦争はなくならないよ」など否定的なことを言われる。
ある時、『戦争』という単語を使うと、人は敬遠することに気づいた。BFPは「平和のための架け橋」で、戦争体験を語り継いでいくことは、平和を求める活動なんだと気づいた。「私たちの未来のために平和を守っていきたい」と言った時に違う反応が返ってきた。多くの人に広めていくためにも、伝え方を変えるべきだと気づいた時でもある。
〈安原の感想〉― 新しい平和人群像の登場
戦争を知らない戦後世代のなかでも若い世代に属する青年たちの平和イベントに参加して得た第一印象は、旧来の平和活動家とは異質の新しい活動家たちが育ちつつあるということである。平和人(へいわびと)群像とでも呼んだら適切だろうか。「戦争反対」のスローガンを叫び、スクラムを組み、あるいは拳を振り上げて「頑張ろう!」などと気勢をあげることはしない。日常感覚で「戦争と平和」について語り合う。しかも目を輝かせながら、である。
代表の神直子さんは「緩やかなネットワーク」を目指している。こういうネットワークは旧式の団結感覚とは合わない。多様な個性を集めるには「緩やかなネットワーク」が最上といえる。Mさんは、「戦争を知らない世代」が増えているからこそ、日本はまた戦争に走りそうだという危機感を抱いている。Aさんは『戦争』を語ると、敬遠されることに気づき、平和をどう伝えるかに苦心している。いずれも地に足がついている。考え、工夫している。今後の大いなる成長と発展に期待したい。
▽元日本兵・戦地体験者たちと膝を交えて語り合う
ゲストとしてつぎの元日本兵・戦地体験者4名が参加した。ゲストの中には90歳過ぎの高齢者もいる。(50音順)
*谷口末廣さん=フィリピンでの戦争・戦場の生き地獄を知る人。
*中谷孝さん=陸軍の特務機関要員として中国・南京周辺で活動。捕虜の斬首などに立ち会った。
*成川貞治さん=フィリピンでの戦争体験を告白する「フィリピン戦記」を執筆。
*松浦俊郎さん=1943年(昭和18年)学徒兵として召集され、フィリピンに送られる。
元日本兵4名と参加者との交流は、元日本兵1名をそれぞれ囲み、膝を交える形で4つのグループに分かれて行われた。私(安原)が参加したのは、中谷孝さんのグループで、印象に残ったのはあの南京大虐殺(1937年=昭和12年から始まった日中戦争初期に南京で行われた日本兵による大虐殺)のこと。中谷さんは要旨つぎのように語った。
中国で日本兵たちは、人には言えないほど残虐なことを数多くやってのけた。だから多くの元日本兵はいまなお本当のことを語ろうとしない。どうしても事実をそのまま語ることはできいないのだ。このように「言わない」状態が続いていると、事実を知らない人は「事実そのものがなかった」と誤解してしまう。これが問題である。
あの南京大虐殺の中国人犠牲者は12万人から10数万人に上ると思う。20万人以上という説もあるが、それは違うのではないか。逆に南京大虐殺そのものがなかったという人も自衛隊関係者の中などにいるが、そういう意図的な発言は事実に基づいていない。私(中谷)自身は手を下したわけでないが、自分で殺した当事者本人から直接話を聞いたのだから間違いない ― と。
こういう証言は戦争の残酷な真実を知る上で貴重である。
さて最近の自衛隊海外派兵に関連して、後方支援について私(安原)が中谷さんに質問したこと、それへの回答を紹介しておきたい。明白になったことは、自衛隊はすでに海外での戦争に参加しているという事実である。こういう事実に対する認識を共有して、今後の「戦争と平和」を考えるようにしたい。
〈安原〉「日本では憲法9条(戦争放棄)のお陰で戦争に参加していないし、また自衛隊員が海外で人を殺したこともないと考えている人が少なくない。これは後方支援は戦争への参加ではないと誤解しているためだと思う。例えば海上自衛隊がインド洋で米軍などに石油を補給しているのは軍事上の後方支援であり、明らかに戦争参加であると思うが、いかがですか」
〈中谷〉「その通りだと思う。石油など燃料のほかに弾薬や食糧の補給は後方支援であり、これらの後方支援がなければ前線での戦争は出来ないのだから」
▽「天皇陛下、お国のため」「上官の命令」は言い訳になるのか
なぜ戦争が始まってしまったのか、なぜ戦地では人殺しなど残虐なことが出来るのか―などが戦争を知らない戦後世代にとっては大きな疑問となっている。
フィリピン人や元日本兵たちが戦地での生々しい体験を語るビデオが会場で上映されたが、その中で元日本兵らは「天皇陛下のため、お国のためと言われたら、戦争に行くほかなかった」「捕虜らを殺せという上官の命令には逆らえない」などと語っている。
当時の侵略戦争を肯定し、推進する軍国主義教育によって国民一人ひとりが心身共に拘束されて、自由に考え、行動することができなくなっていたこと、さらに治安維持法(最高刑は死刑)によって戦争批判者らは逮捕され、牢獄に閉じこめられたこと、などの事情も大きい。
これに対し、年配の女性Bさんからつぎのような趣旨の問題提起があった。
「天皇陛下、お国のため」と言われたら、戦争に行くほかなかった ― などという言い訳をしていていいのだろうか。一例を挙げると、当時川柳を武器にして反戦に生きた若者がいた。鶴彬(つる・あきら)、本名は喜多一二(きたかつじ)。その若者を主役にした映画「鶴彬 こころの軌跡」(注)が最近出来上がった ― と。
大変重みのある問題提起であるが、話題はあまり発展しなかった。女性Bさんが言いたかったのは恐らくつぎのようなことではないか。
今再び戦争への流れが目立ち始めている。これにどう立ち向かうのか。日本国憲法9条は戦争放棄、非武装、交戦権否認を定めている。しかも生存権も自由も人権も民主主義も憲法上は保障されている。そこがかつて侵略戦争に突入していった明治憲法下とは180度異なっている。そういう恵まれた条件を生かさず、行動もしないで、再び悲惨な体験(戦後世代にとっては初体験)をしてから、またもや言い訳をあとになってするのか ― と。
有り体に言えば、「昔陸軍、今企業」である。「上官の命令」は今では、会社の上司の指示と同じようなものだと考えれば分かりやすい。上司の指示に対し、例えばそれは犯罪に相当するとか、企業の社会的責任に反するとか、の視点から疑問を感じたら、率直に指摘しなければならないはずだが、現在のサラリーマンたちはどれほど実行しているだろうか。そもそも疑問に感じない風潮もあるのではないか。「無自覚」「無批判」「無抵抗」が累積した結果、企業破綻に追い込まれるケースが少なくない。
「企業破綻」を「日本破綻」に置き換えてみると、根っこは、真実を見ようとせず、批判にも行動にも訴えようとしない点で同じだと分かる。Bさんの問題提起は単なる昔話ではなく、今日のテーマ「戦争と平和」にどう向き合うか、と深くかかわっている。
(注・安原)映画監督は『郡上一揆』などの作品で知られる神山征二郎さん。同監督は「人の子鶴彬が、戦争という暴力の、暗黒の時代を、平和とリベラリズムのためにどう生きたかを、とにかく描いてみようと・・・」と語っている。
鶴彬を演じた俳優の池上リヨヲマさんは「苦しい状況の中でも必死に命を燃焼させて生きようとしていた鶴彬や当時の人たちのパワーを感じてもらって、魂を燃やして生きようよ、ってみんながちょっとでも思ってくれるきっかけに、この映画がなってくれたら嬉しい」と期待をかけている。
なお鶴彬は1909年(明治42年)石川県生まれ、15歳の頃から川柳を作りはじめる。軍隊内での反戦活動で逮捕され2年間服役、さらに1937年(昭和12年)治安維持法違反で逮捕され、留置所で赤痢にかかり、翌38年29歳で亡くなった。短い生涯に1000を超える句と90余の評論、自由詩などを残した。(『鶴彬こころの軌跡』=シネ・フロント社刊「シネ・フロント」別冊37号、09年3月=から)
▽戦争はなぜなくならないのか(1)― 戦争勢力・軍産複合体に着目しよう
イベントの会場でつぎのような質問用紙が配られた。「なぜ戦争はなくならないのか? なぜなくせないのか? 自分の答えに近いものをつぎの中から三つ選んで下さい」とある。選択肢の主なものを紹介すると、以下の通り。
・過去の憎しみを消すことができないから
・「テロリスト」がいるから
・大国が自分の考えを押しつけようとするから
・戦争によって利益を得る人がいるから(国、企業があるから)
・差別され、抑圧されている人たちがいるから(地域、国があるから)
・宗教、民族、言葉などのちがいを人間は乗りこえることができないから
・平和を求めようとする(戦争に反対する)力が弱いから
・貧富の差があるから
・武器を持っているから(軍事基地・施設があるから)
・大国・豊かな国(に暮らす人)が資源や領土など自分の国の利益ばかりを考えているから
・メディアが人々を戦争へとあおるから
どの選択肢も、それぞれ戦争の背景となり得るが、私(安原)は戦争勢力・軍産複合体の存在を指摘したい。
広島市、広島平和文化センター、朝日新聞社主催の国際平和シンポジウム「核兵器廃絶への道」が朝日新聞(09年8月6日付)に掲載された。その中で基調講演者の平和運動家 ブルース・ギャニオンさん(米国の市民団体「宇宙への兵器と原子力配備に反対するグローバルネットワーク」のコーディネーター)がつぎのように語っている。
日本は憲法9条を守っていただきたい。北朝鮮の能力が過大評価され、恐怖をかき立てられることで、新たに多額の資金を軍拡競争、宇宙開発に振り向けることが正当化されている。私たちは、軍産複合体が何をしようとしているのかを吟味する必要がある ― と。
この発言の中で注目に値するのは、末尾に出てくる「軍産複合体」である。一般のメディアではこの軍産複合体に言及することは皆無といってもいいほどである。珍しく新聞記事に登場してきたが、軍産複合体とは何か、の説明がない。実は上記の選択肢のなかにヒントがある。つぎの諸点である。
・戦争によって利益を得る人、企業がいる
・武器を持っている
・大国が資源など自国の利益ばかりを考える
・メディアが人々を戦争へとあおる
これらを総合的にとらえないと、軍産複合体の素顔は描けない。その正体は、以下、戦争はなぜなくならないのか(2)、で明かしてみたい。念のため指摘すれば、この軍産複合体は第二次世界大戦後に新たに形成された戦争勢力であり、大戦前には存在しなかった。
▽戦争はなぜなくならないのか(2)― 日米軍産複合体の正体
1961年1月、アイクこと軍人出身のアイゼンハワー米大統領が、ホワイトハウスを去るにあたって全国向けテレビ放送を通じて、有名な告別演説を行った。
「アメリカ民主主義は新しい巨大で陰険な勢力によって脅威を受けている。それは軍産複合体(Military Industrial Complex)とでも称すべき脅威であり、その影響力は全米の都市、州議会、連邦政府の各機関にまで浸透している。これは祖国がいまだかつて直面したこともない重大な脅威である」と。
この警告から半世紀近くを経て、昨今の米国軍産複合体は、「政軍産官学情報複合体」とでも呼ぶべき存在に肥大化している。その構成メンバーは、ホワイトハウス内で影響力を行使する新保守主義者=市場原理主義者たちのほか、保守系議員、ペンタゴン(国防総省)と軍部、国務省、CIA(中央情報局)、兵器・エレクトロニクス・エネルギー・化学産業などの軍事産業群、さらに保守的な科学者・研究者・メディアからなっている。
ブッシュ前米大統領の「イラン、イラク、北朝鮮は悪の枢軸」という有名な言を借用すれば、「悪の枢軸・軍産複合体」と名づけることもできよう。
これがブッシュ大統領時代に覇権主義に基づく身勝手な単独行動主義を操り、イラク、アフガニスタンへの侵略戦争を行うなど世界に大きな災厄をもたらしてきた元凶である。オバマ米大統領はイラクからは米軍を撤退させるが、アフガニスタンへはむしろ米軍を増派することになっている。このような「終わりなき戦争」の持続は、戦争ビジネスを拡大し、国家財政を食い物にしようとする軍産複合体との妥協の産物というほかない。オバマ大統領が唱える「核兵器の廃絶」も、大統領自身が軍産複合体とどこまで戦うのか、その成否にかかっていると言っても過言ではない。
一方、地球上の発展途上国で多発している内戦(政府軍と反政府軍との戦争)は、米国主導の侵略戦争とは異質であるが、米国の軍産複合体が兵器輸出によってその内戦を煽っている側面もあることを軽視するわけにはいかない。ここには兵器輸出という名の戦争ビジネスがかかわっている。
米国版軍産複合体という権力集団に追随しているのが日本版軍産複合体である。米国ほど巨大ではないが、その構成メンバーは、首相官邸、国防族議員、防衛庁と自衛隊、外務省、エレクトロニクスを含む多様な兵器メーカー、保守的な科学者・研究者、さらに大手新聞・テレビを含むメディア ― などである。一口にいえば、日米安保体制=軍事同盟推進派のグループである。しかも日米安保体制=軍事同盟を軸に日米両国の軍産複合体が一体化しているところに特色がある。
アフガニスタンへの米軍増派と日本の対米協力、ミサイル防衛(米国向け長距離弾道弾をミサイルで撃ち落とす構想)、憲法9条の改悪(非武装平和の理念を放棄し、正式軍隊保持へ転換)、― などを狙う日米連合型軍産複合体の欲望をどう封じ込めることができるか。これは平和を求める戦後世代の青年たちにとって未経験で新しく、かつ巨大な挑戦的課題といえる。
〈ご参考〉軍産複合体に関連する掲載記事は以下の通り。かっこ内は掲載年月日
・国家破産に瀕するアメリカ帝国 軍事ケインズ主義の成れの果て(08年3月13日)
・MD「成功」こそ最大の「偽」 国民に大重税を強要する計略(07年12月24日)
・兵器の価格・原価を公開しよう 防衛利権の巨悪一掃のために(07年11月29日)
・防衛利権の構造的巨悪にメスを 軍需専門商社元専務らの逮捕で(07年11月10日)
・日米安保体制は時代遅れだ アメリカからの内部告発(07年5月18日)
・MDでほくそ笑む「軍産複合体」 北朝鮮ミサイル「脅威」の陰で(06年7月13日)
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
「戦争と平和」というテーマはこれまで戦争体験者たちの独占物となっていたきらいがる。しかしこれでは戦争を拒否し、平和を新たにつくっていくことはできない。なぜなら戦争体験者は少数派であり、戦争を知らない戦後世代が日本全人口の4分の3を超え、多数派となっているからである。こういう時代の変化を踏まえて、戦争を反省し、平和をつくっていくためには何をどうしたらいいのか。戦後世代の活躍に期待するほかない。
戦後世代の青年男女は青年らしく真剣に考え、行動を始めており、新しい感覚で平和の集いをあちこちで開催している。64回目の終戦記念日を迎えて、青年たちによる手づくりの平和イベントを紹介したい。(09年8月15日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽大手紙の社説は「戦争と平和」をどう論じたか
64回目の終戦記念日「8.15」を迎えて大手紙の社説(09年8月15日付)は平和について何を論じたか。5紙社説の見出しはつぎの通り。
*朝日新聞=あの戦争の記憶 世代を超え、橋を架ける
*毎日新聞=終戦記念日に際して 「打たれ強い日本」に 低エネルギー化急げ
*読売新聞=終戦の日 追悼めぐる論議を深めよ
*日本経済新聞=悲劇を繰り返さぬ決意を新たにしよう
*東京新聞=終戦の日に考える 九条とビルマの竪琴
見出しの多様さを競い合っている印象だが、多くは割愛して、朝日社説の一部のみを紹介する。つぎのように書いている。
神(じん)直子さん(31)は、学生時代にスタディーツアーでフィリピンを訪ねた。現地の集会で、一人のおばあさんに「日本人なんか見たくない」と言われたことが胸に突き刺さった。日本兵に夫を殺されたという。
フィリピンは太平洋戦争の激戦地だ。日米両軍の死闘のなかで、日本の軍人・軍属60万人中50万人が死亡した。フィリピン人も100万人以上が犠牲となった。
神さんにとって戦争の歴史は、モヤモヤとよどんでいる、という。
あの時代に近づき、戦争に携わった当事者に向き合わなければ、モヤモヤを埋めて先へと進めない ― 。
神さんは「ブリッジ・フォー・ピース」という団体を立ち上げた。若者たちが手分けして70人近い元兵士の話を聞いた。フィリピンの市民団体などの協力で、毎年のように上映会を開く。(以上、引用)
ここに出てくる「ブリッジ・フォー・ピース」が主催する集いに私(安原)自身、参加したので、その体験と感想を以下に報告する。
▽夏のイベント「平和をつくる・みんなと出会う」に参加して
「ブリッジ・フォー・ピース」、すなわち「BRIDGE FOR PEACE」(略語BFP、代表・神直子)主催の平和集会、「つながるBFP夏のイベント〜平和をつくる・みんなと出会う〜」が09年8月8日、東京メトロ日比谷線広尾駅脇の「JICA(国際協力機構)地球ひろば」で開かれた。BFPは、戦後30年以降生まれの世代の自主的な集団で、戦場体験者から生の非人間的な体験を掘り起こしながら、それを語り継ぎ、戦争を拒否し、平和をつくっていくことを目指している。イベントに集まったのは私(安原)を含めて老若男女合わせて100名余。
この集団は、テーマ「戦争と平和」やBFPそのもののあり方にどう向き合おうとしているのか。イベントに参加したBFPメンバーの声を紹介したい。
(『私たちの歴史認識〜戦後世代の声〜戦争について知らなくていいの?戦後世代だって考える!!』=企画・発行:ブリッジ・フォー・ピース〈BFP〉=を参照)
*代表・神直子さん(昭和53年生まれ)=BFP5周年を迎えて〜緩やかなネットワークであり続けたい
今年で活動も5周年を迎え、何らかのきっかけで戦争に関心をもつようになった人が共感し、どんどん輪に入ってくれている。外国で戦争被害者と出会ったり、戦争について日本人として意見を求められて戦争を考えるようになったり、本や映画がきっかけとなったり、家族や語り部の方から戦争体験を直接聞いて関心をもった者もいる。それぞれの原点は様々である。
同じ過ちが繰り返されないためにも戦争を語り継いでいきたい。私は、メンバー全員が同じ意見を持つ必要はないと思っている。違って当たり前である。私の掛け声のもと、皆が同じ方向を向くような集団だったら、戦時中と変わらないかも知れない。これからもそのような緩やかなネットワークであり続けたいと思っている。
*Mさん(開発コンサルタント・昭和51年生まれ)=日本はまた戦争になる
戦争放棄をうたった9条を含む日本国憲法がつくられた当時と比べて、現状、日本はまた戦争になるという危機感が大きくなっていると主張しても、それほど的外れではない。私にそう危惧させるのは、昨今の憲法改正の動きだけではない。
根本的かつ危機的な動きは、政府に対する主権を持っている国民の考えのなかにある。それは「平和のための戦争、戦争を終えるための戦争など、正当化される戦争もある」という理屈に納得する人々が増えていること。その原因は彼ら自身が戦争の悲惨さ、殺戮の恐ろしさ、人間が人間でなくなる悲しさを知らないこと、換言すれば、「戦争を知らない世代」が増えているためではないか。
*Aさん(イベントコーディネーター・昭和55年生まれ)=「戦争」から「平和」を考える
どれだけの人に平和に対する想いを伝えることができるか。
「何を言ってるの?日本は平和じゃない」「そんな過去のことを掘り返してどうするの?」「戦争はなくならないよ」など否定的なことを言われる。
ある時、『戦争』という単語を使うと、人は敬遠することに気づいた。BFPは「平和のための架け橋」で、戦争体験を語り継いでいくことは、平和を求める活動なんだと気づいた。「私たちの未来のために平和を守っていきたい」と言った時に違う反応が返ってきた。多くの人に広めていくためにも、伝え方を変えるべきだと気づいた時でもある。
〈安原の感想〉― 新しい平和人群像の登場
戦争を知らない戦後世代のなかでも若い世代に属する青年たちの平和イベントに参加して得た第一印象は、旧来の平和活動家とは異質の新しい活動家たちが育ちつつあるということである。平和人(へいわびと)群像とでも呼んだら適切だろうか。「戦争反対」のスローガンを叫び、スクラムを組み、あるいは拳を振り上げて「頑張ろう!」などと気勢をあげることはしない。日常感覚で「戦争と平和」について語り合う。しかも目を輝かせながら、である。
代表の神直子さんは「緩やかなネットワーク」を目指している。こういうネットワークは旧式の団結感覚とは合わない。多様な個性を集めるには「緩やかなネットワーク」が最上といえる。Mさんは、「戦争を知らない世代」が増えているからこそ、日本はまた戦争に走りそうだという危機感を抱いている。Aさんは『戦争』を語ると、敬遠されることに気づき、平和をどう伝えるかに苦心している。いずれも地に足がついている。考え、工夫している。今後の大いなる成長と発展に期待したい。
▽元日本兵・戦地体験者たちと膝を交えて語り合う
ゲストとしてつぎの元日本兵・戦地体験者4名が参加した。ゲストの中には90歳過ぎの高齢者もいる。(50音順)
*谷口末廣さん=フィリピンでの戦争・戦場の生き地獄を知る人。
*中谷孝さん=陸軍の特務機関要員として中国・南京周辺で活動。捕虜の斬首などに立ち会った。
*成川貞治さん=フィリピンでの戦争体験を告白する「フィリピン戦記」を執筆。
*松浦俊郎さん=1943年(昭和18年)学徒兵として召集され、フィリピンに送られる。
元日本兵4名と参加者との交流は、元日本兵1名をそれぞれ囲み、膝を交える形で4つのグループに分かれて行われた。私(安原)が参加したのは、中谷孝さんのグループで、印象に残ったのはあの南京大虐殺(1937年=昭和12年から始まった日中戦争初期に南京で行われた日本兵による大虐殺)のこと。中谷さんは要旨つぎのように語った。
中国で日本兵たちは、人には言えないほど残虐なことを数多くやってのけた。だから多くの元日本兵はいまなお本当のことを語ろうとしない。どうしても事実をそのまま語ることはできいないのだ。このように「言わない」状態が続いていると、事実を知らない人は「事実そのものがなかった」と誤解してしまう。これが問題である。
あの南京大虐殺の中国人犠牲者は12万人から10数万人に上ると思う。20万人以上という説もあるが、それは違うのではないか。逆に南京大虐殺そのものがなかったという人も自衛隊関係者の中などにいるが、そういう意図的な発言は事実に基づいていない。私(中谷)自身は手を下したわけでないが、自分で殺した当事者本人から直接話を聞いたのだから間違いない ― と。
こういう証言は戦争の残酷な真実を知る上で貴重である。
さて最近の自衛隊海外派兵に関連して、後方支援について私(安原)が中谷さんに質問したこと、それへの回答を紹介しておきたい。明白になったことは、自衛隊はすでに海外での戦争に参加しているという事実である。こういう事実に対する認識を共有して、今後の「戦争と平和」を考えるようにしたい。
〈安原〉「日本では憲法9条(戦争放棄)のお陰で戦争に参加していないし、また自衛隊員が海外で人を殺したこともないと考えている人が少なくない。これは後方支援は戦争への参加ではないと誤解しているためだと思う。例えば海上自衛隊がインド洋で米軍などに石油を補給しているのは軍事上の後方支援であり、明らかに戦争参加であると思うが、いかがですか」
〈中谷〉「その通りだと思う。石油など燃料のほかに弾薬や食糧の補給は後方支援であり、これらの後方支援がなければ前線での戦争は出来ないのだから」
▽「天皇陛下、お国のため」「上官の命令」は言い訳になるのか
なぜ戦争が始まってしまったのか、なぜ戦地では人殺しなど残虐なことが出来るのか―などが戦争を知らない戦後世代にとっては大きな疑問となっている。
フィリピン人や元日本兵たちが戦地での生々しい体験を語るビデオが会場で上映されたが、その中で元日本兵らは「天皇陛下のため、お国のためと言われたら、戦争に行くほかなかった」「捕虜らを殺せという上官の命令には逆らえない」などと語っている。
当時の侵略戦争を肯定し、推進する軍国主義教育によって国民一人ひとりが心身共に拘束されて、自由に考え、行動することができなくなっていたこと、さらに治安維持法(最高刑は死刑)によって戦争批判者らは逮捕され、牢獄に閉じこめられたこと、などの事情も大きい。
これに対し、年配の女性Bさんからつぎのような趣旨の問題提起があった。
「天皇陛下、お国のため」と言われたら、戦争に行くほかなかった ― などという言い訳をしていていいのだろうか。一例を挙げると、当時川柳を武器にして反戦に生きた若者がいた。鶴彬(つる・あきら)、本名は喜多一二(きたかつじ)。その若者を主役にした映画「鶴彬 こころの軌跡」(注)が最近出来上がった ― と。
大変重みのある問題提起であるが、話題はあまり発展しなかった。女性Bさんが言いたかったのは恐らくつぎのようなことではないか。
今再び戦争への流れが目立ち始めている。これにどう立ち向かうのか。日本国憲法9条は戦争放棄、非武装、交戦権否認を定めている。しかも生存権も自由も人権も民主主義も憲法上は保障されている。そこがかつて侵略戦争に突入していった明治憲法下とは180度異なっている。そういう恵まれた条件を生かさず、行動もしないで、再び悲惨な体験(戦後世代にとっては初体験)をしてから、またもや言い訳をあとになってするのか ― と。
有り体に言えば、「昔陸軍、今企業」である。「上官の命令」は今では、会社の上司の指示と同じようなものだと考えれば分かりやすい。上司の指示に対し、例えばそれは犯罪に相当するとか、企業の社会的責任に反するとか、の視点から疑問を感じたら、率直に指摘しなければならないはずだが、現在のサラリーマンたちはどれほど実行しているだろうか。そもそも疑問に感じない風潮もあるのではないか。「無自覚」「無批判」「無抵抗」が累積した結果、企業破綻に追い込まれるケースが少なくない。
「企業破綻」を「日本破綻」に置き換えてみると、根っこは、真実を見ようとせず、批判にも行動にも訴えようとしない点で同じだと分かる。Bさんの問題提起は単なる昔話ではなく、今日のテーマ「戦争と平和」にどう向き合うか、と深くかかわっている。
(注・安原)映画監督は『郡上一揆』などの作品で知られる神山征二郎さん。同監督は「人の子鶴彬が、戦争という暴力の、暗黒の時代を、平和とリベラリズムのためにどう生きたかを、とにかく描いてみようと・・・」と語っている。
鶴彬を演じた俳優の池上リヨヲマさんは「苦しい状況の中でも必死に命を燃焼させて生きようとしていた鶴彬や当時の人たちのパワーを感じてもらって、魂を燃やして生きようよ、ってみんながちょっとでも思ってくれるきっかけに、この映画がなってくれたら嬉しい」と期待をかけている。
なお鶴彬は1909年(明治42年)石川県生まれ、15歳の頃から川柳を作りはじめる。軍隊内での反戦活動で逮捕され2年間服役、さらに1937年(昭和12年)治安維持法違反で逮捕され、留置所で赤痢にかかり、翌38年29歳で亡くなった。短い生涯に1000を超える句と90余の評論、自由詩などを残した。(『鶴彬こころの軌跡』=シネ・フロント社刊「シネ・フロント」別冊37号、09年3月=から)
▽戦争はなぜなくならないのか(1)― 戦争勢力・軍産複合体に着目しよう
イベントの会場でつぎのような質問用紙が配られた。「なぜ戦争はなくならないのか? なぜなくせないのか? 自分の答えに近いものをつぎの中から三つ選んで下さい」とある。選択肢の主なものを紹介すると、以下の通り。
・過去の憎しみを消すことができないから
・「テロリスト」がいるから
・大国が自分の考えを押しつけようとするから
・戦争によって利益を得る人がいるから(国、企業があるから)
・差別され、抑圧されている人たちがいるから(地域、国があるから)
・宗教、民族、言葉などのちがいを人間は乗りこえることができないから
・平和を求めようとする(戦争に反対する)力が弱いから
・貧富の差があるから
・武器を持っているから(軍事基地・施設があるから)
・大国・豊かな国(に暮らす人)が資源や領土など自分の国の利益ばかりを考えているから
・メディアが人々を戦争へとあおるから
どの選択肢も、それぞれ戦争の背景となり得るが、私(安原)は戦争勢力・軍産複合体の存在を指摘したい。
広島市、広島平和文化センター、朝日新聞社主催の国際平和シンポジウム「核兵器廃絶への道」が朝日新聞(09年8月6日付)に掲載された。その中で基調講演者の平和運動家 ブルース・ギャニオンさん(米国の市民団体「宇宙への兵器と原子力配備に反対するグローバルネットワーク」のコーディネーター)がつぎのように語っている。
日本は憲法9条を守っていただきたい。北朝鮮の能力が過大評価され、恐怖をかき立てられることで、新たに多額の資金を軍拡競争、宇宙開発に振り向けることが正当化されている。私たちは、軍産複合体が何をしようとしているのかを吟味する必要がある ― と。
この発言の中で注目に値するのは、末尾に出てくる「軍産複合体」である。一般のメディアではこの軍産複合体に言及することは皆無といってもいいほどである。珍しく新聞記事に登場してきたが、軍産複合体とは何か、の説明がない。実は上記の選択肢のなかにヒントがある。つぎの諸点である。
・戦争によって利益を得る人、企業がいる
・武器を持っている
・大国が資源など自国の利益ばかりを考える
・メディアが人々を戦争へとあおる
これらを総合的にとらえないと、軍産複合体の素顔は描けない。その正体は、以下、戦争はなぜなくならないのか(2)、で明かしてみたい。念のため指摘すれば、この軍産複合体は第二次世界大戦後に新たに形成された戦争勢力であり、大戦前には存在しなかった。
▽戦争はなぜなくならないのか(2)― 日米軍産複合体の正体
1961年1月、アイクこと軍人出身のアイゼンハワー米大統領が、ホワイトハウスを去るにあたって全国向けテレビ放送を通じて、有名な告別演説を行った。
「アメリカ民主主義は新しい巨大で陰険な勢力によって脅威を受けている。それは軍産複合体(Military Industrial Complex)とでも称すべき脅威であり、その影響力は全米の都市、州議会、連邦政府の各機関にまで浸透している。これは祖国がいまだかつて直面したこともない重大な脅威である」と。
この警告から半世紀近くを経て、昨今の米国軍産複合体は、「政軍産官学情報複合体」とでも呼ぶべき存在に肥大化している。その構成メンバーは、ホワイトハウス内で影響力を行使する新保守主義者=市場原理主義者たちのほか、保守系議員、ペンタゴン(国防総省)と軍部、国務省、CIA(中央情報局)、兵器・エレクトロニクス・エネルギー・化学産業などの軍事産業群、さらに保守的な科学者・研究者・メディアからなっている。
ブッシュ前米大統領の「イラン、イラク、北朝鮮は悪の枢軸」という有名な言を借用すれば、「悪の枢軸・軍産複合体」と名づけることもできよう。
これがブッシュ大統領時代に覇権主義に基づく身勝手な単独行動主義を操り、イラク、アフガニスタンへの侵略戦争を行うなど世界に大きな災厄をもたらしてきた元凶である。オバマ米大統領はイラクからは米軍を撤退させるが、アフガニスタンへはむしろ米軍を増派することになっている。このような「終わりなき戦争」の持続は、戦争ビジネスを拡大し、国家財政を食い物にしようとする軍産複合体との妥協の産物というほかない。オバマ大統領が唱える「核兵器の廃絶」も、大統領自身が軍産複合体とどこまで戦うのか、その成否にかかっていると言っても過言ではない。
一方、地球上の発展途上国で多発している内戦(政府軍と反政府軍との戦争)は、米国主導の侵略戦争とは異質であるが、米国の軍産複合体が兵器輸出によってその内戦を煽っている側面もあることを軽視するわけにはいかない。ここには兵器輸出という名の戦争ビジネスがかかわっている。
米国版軍産複合体という権力集団に追随しているのが日本版軍産複合体である。米国ほど巨大ではないが、その構成メンバーは、首相官邸、国防族議員、防衛庁と自衛隊、外務省、エレクトロニクスを含む多様な兵器メーカー、保守的な科学者・研究者、さらに大手新聞・テレビを含むメディア ― などである。一口にいえば、日米安保体制=軍事同盟推進派のグループである。しかも日米安保体制=軍事同盟を軸に日米両国の軍産複合体が一体化しているところに特色がある。
アフガニスタンへの米軍増派と日本の対米協力、ミサイル防衛(米国向け長距離弾道弾をミサイルで撃ち落とす構想)、憲法9条の改悪(非武装平和の理念を放棄し、正式軍隊保持へ転換)、― などを狙う日米連合型軍産複合体の欲望をどう封じ込めることができるか。これは平和を求める戦後世代の青年たちにとって未経験で新しく、かつ巨大な挑戦的課題といえる。
〈ご参考〉軍産複合体に関連する掲載記事は以下の通り。かっこ内は掲載年月日
・国家破産に瀕するアメリカ帝国 軍事ケインズ主義の成れの果て(08年3月13日)
・MD「成功」こそ最大の「偽」 国民に大重税を強要する計略(07年12月24日)
・兵器の価格・原価を公開しよう 防衛利権の巨悪一掃のために(07年11月29日)
・防衛利権の構造的巨悪にメスを 軍需専門商社元専務らの逮捕で(07年11月10日)
・日米安保体制は時代遅れだ アメリカからの内部告発(07年5月18日)
・MDでほくそ笑む「軍産複合体」 北朝鮮ミサイル「脅威」の陰で(06年7月13日)
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
広島・長崎平和宣言が目指すもの
安原和雄
オバマ米大統領の「核兵器のない世界の実現を目指す」というプラハ演説以来、世界は核廃絶へ向けて急速に動き始めた。恒例の広島、長崎の平和宣言は、ともに年来の核廃絶への悲願を強調し、広島平和宣言は日本政府に対し、「2020年までの核兵器廃絶運動の旗手として世界をリードすべきだ」と訴えた。日本政府が旗手となるための必要条件は何か。
まず日米核密約によって事実上、「非核二原則」に変質している「非核三原則」を名実ともに本物の「非核三原則」に正常化することである。そのためには核容認派が執着している「核抑止力」論という迷妄から目を覚ます時である。さらに日本列島を覆っている米軍による「核の傘」に別れを告げなければならない。それが核廃絶を求めて止まない広島、長崎の被爆者たちや、平和を希求する世界の人々の期待に応える道である。(09年8月9日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
▽核廃絶へ前向きになってきた大手紙の社説
大手4紙の社説(09年8月6日付)の見出しを紹介する。カッコ内は前年の4紙の社説(08年8月6日付)の見出しである。
*朝日新聞=被爆64年 「非核の傘」を広げるとき (被爆63年 核廃絶は夢物語ではない)
*毎日新聞=広島・長崎 原爆の日 「核なき世界」へ弾みを 被爆者の救済を急げ (原爆の日 世界は核廃絶の頂を目指せ)
*読売新聞=原爆忌 オバマ非核演説をどう生かす (原爆忌 核拡散を止めねばならない)
*日本経済新聞=「核のない世界」へ日本は主導的役割を (核拡散への監視を緩めるな)
以上4紙の社説を見比べて分かることは、今年は4紙ともに核廃絶あるいは非核を主眼にした論調となっている。その背景にあるのは、いうまでもなくオバマ米大統領が今年4月行ったプラハ(チェコの首都)演説、すなわち「米国は核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として、核兵器のない世界の実現に向けて行動する道義的責任がある」である。だから核廃絶を軸にした社説を掲げるのは、当たり前であり、逆にオバマ演説を無視するとすれば、日本のジャーナリズムとしては鈍感であり、失格ということになる。
さて昨年の社説はどう論じたか。各紙のカッコ内の見出しから分かるように朝日と毎日は核廃絶に力点を置いたが、読売と日経は核廃絶ではなく核拡散をどう防ぐかに重点を置いていた。その背景は何か。
多くの人々の記憶は薄れているかも知れないが、08年1月の「核兵器のない世界に向けて」(米紙ウオール・ストリート・ジャーナルに掲載)と題するアピールが世界に大きな反響を広げたことを想い出したい。アピールの執筆者は、米国の核政策を推進してきたキッシンジャー元国務長官、シュルツ元国務長官、ペリー元国防長官、ナン元上院軍事委員長の4人である。かつての核政策推進者たちが「核不拡散」の主張にとどまらず、そこから大きく踏み出して、究極の望ましい「核廃絶」へと転換したのだから、その衝撃度は手応えがあった。
朝日と毎日はその変化を察知したから、昨年の社説ですでに核廃絶に言及したのだろう。しかし読売と日経は相変わらず従来の核不拡散にこだわった。核不拡散だけにこだわることは肝心の核保有大国の核廃絶を主張しないことを意味する。時代の新しい流れへの察知力の差が社説の質の差となったといえるのではないか。
もう一つ、指摘しておきたいことがある。読売の今(09)年の社説がつぎのように指摘している点である。
北朝鮮の核ミサイルなどに対して日本は、米国の「核の傘」に頼らざるを得ない。オバマ演説のあと、日本政府が、核抑止力の低下を懸念して「傘」の再確認に動いているのは当然のことだ ― と。
この核抑止力依存説は疑問である。核廃絶が実現できれば、核抑止力そのものが成り立たないし、無用の長物となる。逆に核抑止力に依存し続ける姿勢は「核廃絶はノー」とならざるを得ない。読売はいつまで核抑止力に執着するのか、いつまで核廃絶を疑問視するのだろうか。
秋葉忠利・広島市長は広島平和宣言(09年8月6日)、田上富久・長崎市長は長崎平和宣言(09年8月9日)でこもごも核廃絶への悲願を訴えた。読売新聞にはこの被爆地からの発信に真摯(しんし)に答えようとする意思はないのか。
▽核廃絶実現に必要なこと(1) ― こども代表の「平和への誓い」に学ぶ
秋葉忠利・広島市長は広島平和宣言で日本政府に対し、つぎのように要望した。
日本国政府は、今こそ被爆者たちの悲願を実現するため、2020年までの核兵器廃絶運動の旗手として世界をリードすべきだ ― と。
ここでの「2020年」には特別の意味が込められている。平和宣言はこう指摘している。
2020年が大切なのは、一人でも多くの被爆者と共に核兵器の廃絶される日を迎えたいからであり、また私たちの世代が核兵器を廃絶しなければ、次の世代への最低限の責任さえ果たしたことにはならないから ― と。
生存している被爆者たちの多くは75歳以上の高齢者である。だから10年以上はもう待てない、それがぎりぎりの期限だという悲痛な思いが「2020年」には凝縮しているのだ。
ともかく日本政府が核兵器廃絶の旗手として、その責任を果たすためには何が求められるのか。私(安原)はまず広島平和記念式典でのこども代表の「平和への誓い」から学ぶことを提案したい。
「誓い」の一節を紹介する。
話し合いで争いを解決する、本当の勇気を持つために、核兵器を放棄する、本当の強さを持つために、原爆や戦争という「闇」から目をそむけることなく、しっかりと真実をみつめます。そして世界の人々に、平和への思いを訴え続けることを誓います ― と。
この「誓い」のなかで注目すべきことは、つぎの二つである。
・話し合いで争いを解決する、本当の勇気
・核兵器を放棄する、本当の強さ
曇りのない眼(まなこ)で世の中の現実を見つめているこどもたちが唱えるこの「本当の勇気」と「本当の強さ」を念頭に置けば、大人(おとな)の核政策肯定論者たちがしがみついている「核による平和」、「核の抑止力」説なるものがいかに馬鹿げた妄想でしかないかが自ずから分かってくるのではないか。
▽核廃絶実現に必要なこと(2) ― 「核の傘」を棄て、「非核三原則」実現を
最近、日米核密約の存在が改めて浮上してきた。この核密約は、1960年の日米安保条約改訂時に日米政府間で合意された秘密協定で、その内容は、核兵器積載の米艦船・航空機がわが国政府との事前協議なしに日本国内に自由に出入りできることを日本政府が容認 ― となっている。これが現在の日本にとって何を意味するのか、核廃絶とどうかかわってくるのか、そこが問題である。
麻生太郎首相は広島と長崎の平和記念式典での挨拶でつぎのように述べた。
本日、私は改めて日本が、今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて、国際社会の先頭に立っていくことをお誓い申し上げます ― と。
この挨拶を額面通りに受け取れば、実に立派というほかない。ところが事実は言行不一致の見本のような挨拶である。
まず指摘したい点は、この挨拶の文言は歴代首相が毎年述べているもので、「非核三原則を堅持」「核兵器の廃絶と恒久平和の実現」「国際社会の先頭に立っていく」は判で押したように同じである。
重要なことは「非核三原則を堅持」は偽装であり、事実は核密約から明らかなように「非核二原則」に変質している点である。つまり非核三原則の「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のうち「持ち込ませず」が、実際には「米軍の持ち込み自由」に変わっている。これによって、米軍によるいわゆる「核の傘」が維持されるというのが日本政府の本音である。
麻生首相は広島市での記者会見(6日)で北朝鮮の核保有に言及した上で、「核抑止力を持っている米国と日本は同盟を結んでいる現実を踏まえる必要がある」という趣旨を述べて、米国の「核抑止力」と「核の傘」を容認する立場を示した。
しかし最近、核抑止力に対する疑問が元核政策推進者たちの間にも広がっていることを指摘したい。キッシンジャー元米国務長官ら4氏によるアピール「核兵器のない世界に向けて」は上述の08年だけでなく、07年1月にも発表されており、その際、「テロリストが核兵器を手にする危険がある状況下では核抑止力に依存することは危険であるだけでなく、有効でもなくなっている」と警告していた。これにはゴルバチョフ元ソ連大統領らも賛同していると伝えられる。
このように危険であり、有効でもないとされる「核抑止力」や「核の傘」に固執し続けているのが日本政府である。だから日本政府が唱える「核兵器廃絶」はしょせん口先だけの空宣伝でしかないことを承知しておく必要があるだろう。以上の背景事情を考えれば、日本政府が核廃絶のための本物の旗手になるためには、思い切って核密約を破棄し、「核の傘」を棄てて、正真正銘の「非核三原則」の実現をめざすことが不可欠となっている。
▽核廃絶実現に必要なこと(3) ― 国連のなかに市民の声が届く仕組みを
広島平和宣言は、「2020年までの核兵器廃絶」と並んでもう一つ、注目に値する提案を行っている。つぎのように述べている。
温暖化防止等、大多数の世界市民の意思を尊重し、市民の力で問題を解決する地球規模の民主主義が今、まさに発芽しつつある。その芽を伸ばし、大きな問題を解決するためには、国連のなかに市民の声が直接届く仕組みを創(つく)る必要がある。例えば、戦争等の大きな悲劇を体験してきた都市100、人口の多い都市100、計200都市からなる国連の下院を創設し、現在の国連総会を上院とすることも一案である ― と。
これはたしかに妙案というべきである。
一方、平和記念式典に寄せられた潘基文国連事務総長のメッセージはつぎのように指摘している。
核兵器と国連は同じ年(1945年)に生まれた。一方は、恐怖と破壊に基づく平和を象徴したのに対し、もう一方は議論、妥協、法の支配、人権、正義の追求そして経済の繁栄を通じ、各国が力を合わせてつくり出す平和を体現したのだ。
私たちは今、核兵器の廃絶によって安全を保障しようという新たな力強いアイデアの奔流を目の当たりにしている。市民社会による取り組みも次々と生まれている。
私たちは核兵器がない世界をつくりあげる力がある。私は全人類に対し、この理性的で達成可能な目標を支持するよう呼びかける ― と。
国連事務総長が指摘しているように、核兵器と国連が同じ年に生まれたという因縁があることに改めて着目したい。このことは国連は核兵器廃絶のために最大限の努力を払わなければならない責任があることを示唆していると受け止めたい。
その一つの具体例が広島平和宣言が提案する「国連に上下院の設置」である。重要なことは、政府代表だけでなく、政府とは異質の市民の声を汲み上げていく国連へと組織替えすることである。新しい時代の先駆けとなるのは、政府代表よりもむしろ核廃絶を希求する市民パワーである。世界の市民パワーとの連携なしには核兵器廃絶は困難であるだろう。国連に新しい時代の新しい役割を大いに期待したい。
▽核廃絶実現に必要なこと(4) ― 核保有国指導者の被爆地来訪を
長崎平和宣言(8月9日)は大要つぎのように訴えた。
核保有5カ国は、(中略)徹底して廃絶を進めるために、昨年、潘基文国連事務総長が積極的な協議を訴えた「核兵器禁止条約」(NWC)への取り組みを求める。インドやパキスタン、北朝鮮はもちろん、核兵器を保有するといわれるイスラエルや、核開発疑惑のイランにも参加を求め、核兵器を完全に廃棄させるのだ。
日本政府はプラハ演説を支持し、被爆国として、国際社会を導く役割を果たさなければならない。また、憲法の不戦と平和の理念を国際社会に広げ、非核三原則をゆるぎない立場とするための法制化と、北朝鮮を組み込んだ「北東アジア非核兵器地帯」の実現の方策に着手すべきである。
オバマ大統領、メドベージェフ・ロシア大統領、ブラウン・イギリス首相、サルコジ・フランス大統領、胡錦濤・中国国家主席、さらに、シン・インド首相、ザルダリ・パキスタン大統領、金正日・北朝鮮総書記、ネタニヤフ・イスラエル首相、アフマディネジャド・イラン大統領、そしてすべての世界の指導者に呼びかける。
被爆地・長崎へ来てください ― と。
以上、長崎平和宣言が訴えている要点はつぎの通りである。
*「核兵器禁止条約」への取り組みを
*日本政府は「非核三原則」の法制化を
*日本政府は北朝鮮を組み込んだ「北東アジア非核兵器地帯」の実現に着手を
*オバマ米大統領、金正日北朝鮮総書記ら核兵器保有国と開発疑惑国のすべての政治指導者は、被爆地長崎への来訪を
いずれも核廃絶のためには不可欠な対応策といえるが、特に核兵器保有国の指導者らは核廃絶への決意と誠意を被爆者たちに示すためにも広島・長崎を訪問することを期待したい。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
オバマ米大統領の「核兵器のない世界の実現を目指す」というプラハ演説以来、世界は核廃絶へ向けて急速に動き始めた。恒例の広島、長崎の平和宣言は、ともに年来の核廃絶への悲願を強調し、広島平和宣言は日本政府に対し、「2020年までの核兵器廃絶運動の旗手として世界をリードすべきだ」と訴えた。日本政府が旗手となるための必要条件は何か。
まず日米核密約によって事実上、「非核二原則」に変質している「非核三原則」を名実ともに本物の「非核三原則」に正常化することである。そのためには核容認派が執着している「核抑止力」論という迷妄から目を覚ます時である。さらに日本列島を覆っている米軍による「核の傘」に別れを告げなければならない。それが核廃絶を求めて止まない広島、長崎の被爆者たちや、平和を希求する世界の人々の期待に応える道である。(09年8月9日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
▽核廃絶へ前向きになってきた大手紙の社説
大手4紙の社説(09年8月6日付)の見出しを紹介する。カッコ内は前年の4紙の社説(08年8月6日付)の見出しである。
*朝日新聞=被爆64年 「非核の傘」を広げるとき (被爆63年 核廃絶は夢物語ではない)
*毎日新聞=広島・長崎 原爆の日 「核なき世界」へ弾みを 被爆者の救済を急げ (原爆の日 世界は核廃絶の頂を目指せ)
*読売新聞=原爆忌 オバマ非核演説をどう生かす (原爆忌 核拡散を止めねばならない)
*日本経済新聞=「核のない世界」へ日本は主導的役割を (核拡散への監視を緩めるな)
以上4紙の社説を見比べて分かることは、今年は4紙ともに核廃絶あるいは非核を主眼にした論調となっている。その背景にあるのは、いうまでもなくオバマ米大統領が今年4月行ったプラハ(チェコの首都)演説、すなわち「米国は核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として、核兵器のない世界の実現に向けて行動する道義的責任がある」である。だから核廃絶を軸にした社説を掲げるのは、当たり前であり、逆にオバマ演説を無視するとすれば、日本のジャーナリズムとしては鈍感であり、失格ということになる。
さて昨年の社説はどう論じたか。各紙のカッコ内の見出しから分かるように朝日と毎日は核廃絶に力点を置いたが、読売と日経は核廃絶ではなく核拡散をどう防ぐかに重点を置いていた。その背景は何か。
多くの人々の記憶は薄れているかも知れないが、08年1月の「核兵器のない世界に向けて」(米紙ウオール・ストリート・ジャーナルに掲載)と題するアピールが世界に大きな反響を広げたことを想い出したい。アピールの執筆者は、米国の核政策を推進してきたキッシンジャー元国務長官、シュルツ元国務長官、ペリー元国防長官、ナン元上院軍事委員長の4人である。かつての核政策推進者たちが「核不拡散」の主張にとどまらず、そこから大きく踏み出して、究極の望ましい「核廃絶」へと転換したのだから、その衝撃度は手応えがあった。
朝日と毎日はその変化を察知したから、昨年の社説ですでに核廃絶に言及したのだろう。しかし読売と日経は相変わらず従来の核不拡散にこだわった。核不拡散だけにこだわることは肝心の核保有大国の核廃絶を主張しないことを意味する。時代の新しい流れへの察知力の差が社説の質の差となったといえるのではないか。
もう一つ、指摘しておきたいことがある。読売の今(09)年の社説がつぎのように指摘している点である。
北朝鮮の核ミサイルなどに対して日本は、米国の「核の傘」に頼らざるを得ない。オバマ演説のあと、日本政府が、核抑止力の低下を懸念して「傘」の再確認に動いているのは当然のことだ ― と。
この核抑止力依存説は疑問である。核廃絶が実現できれば、核抑止力そのものが成り立たないし、無用の長物となる。逆に核抑止力に依存し続ける姿勢は「核廃絶はノー」とならざるを得ない。読売はいつまで核抑止力に執着するのか、いつまで核廃絶を疑問視するのだろうか。
秋葉忠利・広島市長は広島平和宣言(09年8月6日)、田上富久・長崎市長は長崎平和宣言(09年8月9日)でこもごも核廃絶への悲願を訴えた。読売新聞にはこの被爆地からの発信に真摯(しんし)に答えようとする意思はないのか。
▽核廃絶実現に必要なこと(1) ― こども代表の「平和への誓い」に学ぶ
秋葉忠利・広島市長は広島平和宣言で日本政府に対し、つぎのように要望した。
日本国政府は、今こそ被爆者たちの悲願を実現するため、2020年までの核兵器廃絶運動の旗手として世界をリードすべきだ ― と。
ここでの「2020年」には特別の意味が込められている。平和宣言はこう指摘している。
2020年が大切なのは、一人でも多くの被爆者と共に核兵器の廃絶される日を迎えたいからであり、また私たちの世代が核兵器を廃絶しなければ、次の世代への最低限の責任さえ果たしたことにはならないから ― と。
生存している被爆者たちの多くは75歳以上の高齢者である。だから10年以上はもう待てない、それがぎりぎりの期限だという悲痛な思いが「2020年」には凝縮しているのだ。
ともかく日本政府が核兵器廃絶の旗手として、その責任を果たすためには何が求められるのか。私(安原)はまず広島平和記念式典でのこども代表の「平和への誓い」から学ぶことを提案したい。
「誓い」の一節を紹介する。
話し合いで争いを解決する、本当の勇気を持つために、核兵器を放棄する、本当の強さを持つために、原爆や戦争という「闇」から目をそむけることなく、しっかりと真実をみつめます。そして世界の人々に、平和への思いを訴え続けることを誓います ― と。
この「誓い」のなかで注目すべきことは、つぎの二つである。
・話し合いで争いを解決する、本当の勇気
・核兵器を放棄する、本当の強さ
曇りのない眼(まなこ)で世の中の現実を見つめているこどもたちが唱えるこの「本当の勇気」と「本当の強さ」を念頭に置けば、大人(おとな)の核政策肯定論者たちがしがみついている「核による平和」、「核の抑止力」説なるものがいかに馬鹿げた妄想でしかないかが自ずから分かってくるのではないか。
▽核廃絶実現に必要なこと(2) ― 「核の傘」を棄て、「非核三原則」実現を
最近、日米核密約の存在が改めて浮上してきた。この核密約は、1960年の日米安保条約改訂時に日米政府間で合意された秘密協定で、その内容は、核兵器積載の米艦船・航空機がわが国政府との事前協議なしに日本国内に自由に出入りできることを日本政府が容認 ― となっている。これが現在の日本にとって何を意味するのか、核廃絶とどうかかわってくるのか、そこが問題である。
麻生太郎首相は広島と長崎の平和記念式典での挨拶でつぎのように述べた。
本日、私は改めて日本が、今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて、国際社会の先頭に立っていくことをお誓い申し上げます ― と。
この挨拶を額面通りに受け取れば、実に立派というほかない。ところが事実は言行不一致の見本のような挨拶である。
まず指摘したい点は、この挨拶の文言は歴代首相が毎年述べているもので、「非核三原則を堅持」「核兵器の廃絶と恒久平和の実現」「国際社会の先頭に立っていく」は判で押したように同じである。
重要なことは「非核三原則を堅持」は偽装であり、事実は核密約から明らかなように「非核二原則」に変質している点である。つまり非核三原則の「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のうち「持ち込ませず」が、実際には「米軍の持ち込み自由」に変わっている。これによって、米軍によるいわゆる「核の傘」が維持されるというのが日本政府の本音である。
麻生首相は広島市での記者会見(6日)で北朝鮮の核保有に言及した上で、「核抑止力を持っている米国と日本は同盟を結んでいる現実を踏まえる必要がある」という趣旨を述べて、米国の「核抑止力」と「核の傘」を容認する立場を示した。
しかし最近、核抑止力に対する疑問が元核政策推進者たちの間にも広がっていることを指摘したい。キッシンジャー元米国務長官ら4氏によるアピール「核兵器のない世界に向けて」は上述の08年だけでなく、07年1月にも発表されており、その際、「テロリストが核兵器を手にする危険がある状況下では核抑止力に依存することは危険であるだけでなく、有効でもなくなっている」と警告していた。これにはゴルバチョフ元ソ連大統領らも賛同していると伝えられる。
このように危険であり、有効でもないとされる「核抑止力」や「核の傘」に固執し続けているのが日本政府である。だから日本政府が唱える「核兵器廃絶」はしょせん口先だけの空宣伝でしかないことを承知しておく必要があるだろう。以上の背景事情を考えれば、日本政府が核廃絶のための本物の旗手になるためには、思い切って核密約を破棄し、「核の傘」を棄てて、正真正銘の「非核三原則」の実現をめざすことが不可欠となっている。
▽核廃絶実現に必要なこと(3) ― 国連のなかに市民の声が届く仕組みを
広島平和宣言は、「2020年までの核兵器廃絶」と並んでもう一つ、注目に値する提案を行っている。つぎのように述べている。
温暖化防止等、大多数の世界市民の意思を尊重し、市民の力で問題を解決する地球規模の民主主義が今、まさに発芽しつつある。その芽を伸ばし、大きな問題を解決するためには、国連のなかに市民の声が直接届く仕組みを創(つく)る必要がある。例えば、戦争等の大きな悲劇を体験してきた都市100、人口の多い都市100、計200都市からなる国連の下院を創設し、現在の国連総会を上院とすることも一案である ― と。
これはたしかに妙案というべきである。
一方、平和記念式典に寄せられた潘基文国連事務総長のメッセージはつぎのように指摘している。
核兵器と国連は同じ年(1945年)に生まれた。一方は、恐怖と破壊に基づく平和を象徴したのに対し、もう一方は議論、妥協、法の支配、人権、正義の追求そして経済の繁栄を通じ、各国が力を合わせてつくり出す平和を体現したのだ。
私たちは今、核兵器の廃絶によって安全を保障しようという新たな力強いアイデアの奔流を目の当たりにしている。市民社会による取り組みも次々と生まれている。
私たちは核兵器がない世界をつくりあげる力がある。私は全人類に対し、この理性的で達成可能な目標を支持するよう呼びかける ― と。
国連事務総長が指摘しているように、核兵器と国連が同じ年に生まれたという因縁があることに改めて着目したい。このことは国連は核兵器廃絶のために最大限の努力を払わなければならない責任があることを示唆していると受け止めたい。
その一つの具体例が広島平和宣言が提案する「国連に上下院の設置」である。重要なことは、政府代表だけでなく、政府とは異質の市民の声を汲み上げていく国連へと組織替えすることである。新しい時代の先駆けとなるのは、政府代表よりもむしろ核廃絶を希求する市民パワーである。世界の市民パワーとの連携なしには核兵器廃絶は困難であるだろう。国連に新しい時代の新しい役割を大いに期待したい。
▽核廃絶実現に必要なこと(4) ― 核保有国指導者の被爆地来訪を
長崎平和宣言(8月9日)は大要つぎのように訴えた。
核保有5カ国は、(中略)徹底して廃絶を進めるために、昨年、潘基文国連事務総長が積極的な協議を訴えた「核兵器禁止条約」(NWC)への取り組みを求める。インドやパキスタン、北朝鮮はもちろん、核兵器を保有するといわれるイスラエルや、核開発疑惑のイランにも参加を求め、核兵器を完全に廃棄させるのだ。
日本政府はプラハ演説を支持し、被爆国として、国際社会を導く役割を果たさなければならない。また、憲法の不戦と平和の理念を国際社会に広げ、非核三原則をゆるぎない立場とするための法制化と、北朝鮮を組み込んだ「北東アジア非核兵器地帯」の実現の方策に着手すべきである。
オバマ大統領、メドベージェフ・ロシア大統領、ブラウン・イギリス首相、サルコジ・フランス大統領、胡錦濤・中国国家主席、さらに、シン・インド首相、ザルダリ・パキスタン大統領、金正日・北朝鮮総書記、ネタニヤフ・イスラエル首相、アフマディネジャド・イラン大統領、そしてすべての世界の指導者に呼びかける。
被爆地・長崎へ来てください ― と。
以上、長崎平和宣言が訴えている要点はつぎの通りである。
*「核兵器禁止条約」への取り組みを
*日本政府は「非核三原則」の法制化を
*日本政府は北朝鮮を組み込んだ「北東アジア非核兵器地帯」の実現に着手を
*オバマ米大統領、金正日北朝鮮総書記ら核兵器保有国と開発疑惑国のすべての政治指導者は、被爆地長崎への来訪を
いずれも核廃絶のためには不可欠な対応策といえるが、特に核兵器保有国の指導者らは核廃絶への決意と誠意を被爆者たちに示すためにも広島・長崎を訪問することを期待したい。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
幸せは達成感よりもプロセスに
安原和雄
この世に生を受けたからには誰しも幸せを願うのが人情というものである。ただ人間にとって幸せとは何か。このテーマに頭を悩まし始めたらきりがない、永遠のテーマともいえるが、焦点は、物事を成し遂げたときの達成感なのか、それとも行為のプロセス(過程)そのものにあるのか、である。ここでは幸せはプロセスにあり、という視点から話題を提供したい。
話題の主の一人は、最近死去したあのマイケル・ジャクソンであり、もう一つは夏の夜の厄介者で知られる蚊(か)である。蚊がここでは人間様から感謝される生き物に早変わりして登場してくる。(09年8月4日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽人間は達成感で幸せになるのではない
「幸せはプロセスに」と題する海原純子さん(心療内科医)の「心のサプリ・一日一粒」(毎日新聞日曜くらぶ=09年7月26日付)を興味深く読んだ。まずその要旨を以下に紹介する。
才能があったらどんなに幸せだろう。お金があれば一生幸せなのに。と思うものだが、そうではないらしい。
マイケル・ジャクソンさん(米国のミュージシャン)の死で、それを強く感じた方も多いのではないか。
人は宝くじで数億円当たっても、その幸せに慣れ、お金があるのが当たり前になる。そして、満足度、幸せ度は目減りしてしまうというデータがある。達成感というのは一瞬のもので持続しない。すぐに、もっともっとと欲望が増えていく。
世界を巻き込む大ヒットを放ってしまい、かなえられないような目標を達成できたら、次の目標をどこへ置いたらいいのか。マイケルさんの場合も、その目標を設定できず、心のなかに膨れ上がった不安と焦燥をまぎらわすための浪費や薬だったのだろうか。
人間は達成感で幸せになるのではない。目標に向かって少しずつ登る努力のプロセスに幸せを感じるのだ。マイケルさんもコンサート動員などの数の目標ではなく、より内的、音楽の質的変容を目指していたら、違ったかもしれない。
さて、今、目標に向かって努力する楽しみをもっている人が少ないように思う。単に社会的地位やお金を目標にすると、限りがある。
私事だが、米国で研究することになり、これはどうやら一生やってもしつくせない学問テーマになった。やれやれ、これで死ぬまでプロセスを楽しめそうである。お金にはならないが。(以上引用)
上記一文の要点をまとめると ― 。
・達成感というのは一瞬のもので持続しない。
・人間は達成感で幸せになるのではない。
・目標に向かって努力するそのプロセスに幸せを感じる。
こう指摘されると、ハッとする。達成感がすなわち幸せ感につながると思っている人もいるはずである。ところがそれは、悪しき思い込みにすぎないというのだ。普通、達成感と幸せ感は同じ、それとも違う? ― などと深く考えてはいないので、改めて正面から突っ込まれると、「なるほど」とうなずくほかない。こういう幸せ感からみれば、大富豪(?)マイケル・ジャクソンも決して幸せではないという結論になる。
▽坐禅しながら六波羅蜜(ろくはらみつ)を行ずる
さて仏教の世界ではどうか。「幸せはプロセス(過程)にあり」といえるのかどうか。大乗仏教での修行に六波羅蜜(ろくはらみつ)がある。涅槃(ねはん)、すなわち「一切の悩みや束縛から脱した円満・安楽の境地、分かりやすくいえば幸せ」に至るためのつぎの六つの行(ぎょう)を指している。
・布施(ふせ・他者に施すこと)
・持戒(じかい・不殺生戒などを守ること)
・忍辱(にんにく・じっと我慢すること)
・精進(しょうじん・辛抱して努力すること)
・禅定(ぜんじょう・精神を集中すること)
・智慧(ちえ・真理を見きわめる認識力)
ここでのテーマは坐禅(本来は座禅ではなく、坐禅が正しい)しながら、この六波羅蜜を行ずる方法があるか ? である。
主役として夏の夜に飛び回るあの蚊(か)が登場してくる。じっと坐り続ける坐禅の最中に蚊に襲われたらどうするか、六波羅蜜とどのように関係してくるのか、それが問題である。答えは以下の通り。
・布施=蚊に食われるにまかせて、蚊に血を施す。
・持戒=痒(かゆ)くとも叩かない。これは蚊を殺さないという不殺生戒の修行である。
・忍辱=痒くともじっと我慢する。
・精進=痒くとも辛抱して坐り続ける。
・禅定=蚊に食われても、それに気づかないほどの心境になって坐り抜く。
・智慧=蚊に食われるのではない、食わしてあげるのだ、という智慧を磨く。
坐るだけで、六波羅蜜を行ずることができる。これほどありがたいことはないではないか。ちょっと発想の転換をするならば、蚊に食われることも、実に楽しいではないか。
(以上の答えは、臨済宗妙心寺派第31代管長の故西片擔雪老大師の『碧巌録提唱』=09年2月、岡本株式会社・明日香塾編集発行・非売品=から引用。『碧巌録』は、中国の唐から宋の時代に活躍した高徳の禅師の言行録から百話集めたもので、今日なお日本の禅宗では宗門第一の書とされている)
▽蚊にお布施を!という心境になれるか
田舎育ちの私(安原)にとって高校生の頃までは夏になると、室内でも団扇(うちわ)で蚊と格闘したものである。最近の都会では蚊の影も薄くなり、蚊を追い払ううちわも余り必要がなくなっているように思うが、そういう世の移り変わりはさておいて、蚊にお布施を!という心境にどこまでなりきれるか。凡夫としてはなかなか・・・、ということだが、だからこそあえてやり抜けば、その行為は「幸せはプロセスに」と相通じることになる。修行とはそういうものなのだろう。昔の禅僧は蚊の巣窟とも言える藪(やぶ)のなかであえて挑戦したという。これは蚊に食われて感謝する行為である。
夏の夜の怪談ならぬ小さな蚊のお話となってしまった。もしあなたが、多数の蚊に食われるままに坐禅を続ける人物から血を腹一杯吸い込んで、飛べなくなった蚊が、バタバタと落ちてくる光景を、目の当たりにしたら、どう感じるか。想うに夏の夜の怪談よりも「ぞーっと」身の縮む思いがするに違いない。
一口に「幸せはプロセスに」といっても、そのプロセスは、人の生き方、幸せ感と同様に様々である。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
この世に生を受けたからには誰しも幸せを願うのが人情というものである。ただ人間にとって幸せとは何か。このテーマに頭を悩まし始めたらきりがない、永遠のテーマともいえるが、焦点は、物事を成し遂げたときの達成感なのか、それとも行為のプロセス(過程)そのものにあるのか、である。ここでは幸せはプロセスにあり、という視点から話題を提供したい。
話題の主の一人は、最近死去したあのマイケル・ジャクソンであり、もう一つは夏の夜の厄介者で知られる蚊(か)である。蚊がここでは人間様から感謝される生き物に早変わりして登場してくる。(09年8月4日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽人間は達成感で幸せになるのではない
「幸せはプロセスに」と題する海原純子さん(心療内科医)の「心のサプリ・一日一粒」(毎日新聞日曜くらぶ=09年7月26日付)を興味深く読んだ。まずその要旨を以下に紹介する。
才能があったらどんなに幸せだろう。お金があれば一生幸せなのに。と思うものだが、そうではないらしい。
マイケル・ジャクソンさん(米国のミュージシャン)の死で、それを強く感じた方も多いのではないか。
人は宝くじで数億円当たっても、その幸せに慣れ、お金があるのが当たり前になる。そして、満足度、幸せ度は目減りしてしまうというデータがある。達成感というのは一瞬のもので持続しない。すぐに、もっともっとと欲望が増えていく。
世界を巻き込む大ヒットを放ってしまい、かなえられないような目標を達成できたら、次の目標をどこへ置いたらいいのか。マイケルさんの場合も、その目標を設定できず、心のなかに膨れ上がった不安と焦燥をまぎらわすための浪費や薬だったのだろうか。
人間は達成感で幸せになるのではない。目標に向かって少しずつ登る努力のプロセスに幸せを感じるのだ。マイケルさんもコンサート動員などの数の目標ではなく、より内的、音楽の質的変容を目指していたら、違ったかもしれない。
さて、今、目標に向かって努力する楽しみをもっている人が少ないように思う。単に社会的地位やお金を目標にすると、限りがある。
私事だが、米国で研究することになり、これはどうやら一生やってもしつくせない学問テーマになった。やれやれ、これで死ぬまでプロセスを楽しめそうである。お金にはならないが。(以上引用)
上記一文の要点をまとめると ― 。
・達成感というのは一瞬のもので持続しない。
・人間は達成感で幸せになるのではない。
・目標に向かって努力するそのプロセスに幸せを感じる。
こう指摘されると、ハッとする。達成感がすなわち幸せ感につながると思っている人もいるはずである。ところがそれは、悪しき思い込みにすぎないというのだ。普通、達成感と幸せ感は同じ、それとも違う? ― などと深く考えてはいないので、改めて正面から突っ込まれると、「なるほど」とうなずくほかない。こういう幸せ感からみれば、大富豪(?)マイケル・ジャクソンも決して幸せではないという結論になる。
▽坐禅しながら六波羅蜜(ろくはらみつ)を行ずる
さて仏教の世界ではどうか。「幸せはプロセス(過程)にあり」といえるのかどうか。大乗仏教での修行に六波羅蜜(ろくはらみつ)がある。涅槃(ねはん)、すなわち「一切の悩みや束縛から脱した円満・安楽の境地、分かりやすくいえば幸せ」に至るためのつぎの六つの行(ぎょう)を指している。
・布施(ふせ・他者に施すこと)
・持戒(じかい・不殺生戒などを守ること)
・忍辱(にんにく・じっと我慢すること)
・精進(しょうじん・辛抱して努力すること)
・禅定(ぜんじょう・精神を集中すること)
・智慧(ちえ・真理を見きわめる認識力)
ここでのテーマは坐禅(本来は座禅ではなく、坐禅が正しい)しながら、この六波羅蜜を行ずる方法があるか ? である。
主役として夏の夜に飛び回るあの蚊(か)が登場してくる。じっと坐り続ける坐禅の最中に蚊に襲われたらどうするか、六波羅蜜とどのように関係してくるのか、それが問題である。答えは以下の通り。
・布施=蚊に食われるにまかせて、蚊に血を施す。
・持戒=痒(かゆ)くとも叩かない。これは蚊を殺さないという不殺生戒の修行である。
・忍辱=痒くともじっと我慢する。
・精進=痒くとも辛抱して坐り続ける。
・禅定=蚊に食われても、それに気づかないほどの心境になって坐り抜く。
・智慧=蚊に食われるのではない、食わしてあげるのだ、という智慧を磨く。
坐るだけで、六波羅蜜を行ずることができる。これほどありがたいことはないではないか。ちょっと発想の転換をするならば、蚊に食われることも、実に楽しいではないか。
(以上の答えは、臨済宗妙心寺派第31代管長の故西片擔雪老大師の『碧巌録提唱』=09年2月、岡本株式会社・明日香塾編集発行・非売品=から引用。『碧巌録』は、中国の唐から宋の時代に活躍した高徳の禅師の言行録から百話集めたもので、今日なお日本の禅宗では宗門第一の書とされている)
▽蚊にお布施を!という心境になれるか
田舎育ちの私(安原)にとって高校生の頃までは夏になると、室内でも団扇(うちわ)で蚊と格闘したものである。最近の都会では蚊の影も薄くなり、蚊を追い払ううちわも余り必要がなくなっているように思うが、そういう世の移り変わりはさておいて、蚊にお布施を!という心境にどこまでなりきれるか。凡夫としてはなかなか・・・、ということだが、だからこそあえてやり抜けば、その行為は「幸せはプロセスに」と相通じることになる。修行とはそういうものなのだろう。昔の禅僧は蚊の巣窟とも言える藪(やぶ)のなかであえて挑戦したという。これは蚊に食われて感謝する行為である。
夏の夜の怪談ならぬ小さな蚊のお話となってしまった。もしあなたが、多数の蚊に食われるままに坐禅を続ける人物から血を腹一杯吸い込んで、飛べなくなった蚊が、バタバタと落ちてくる光景を、目の当たりにしたら、どう感じるか。想うに夏の夜の怪談よりも「ぞーっと」身の縮む思いがするに違いない。
一口に「幸せはプロセスに」といっても、そのプロセスは、人の生き方、幸せ感と同様に様々である。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
仏教思想を現代に生かした功績
安原和雄
仏教にいう「人生の四苦=生老病死」の最後の死はやはり誰しも避けられないのか ― 禅僧・松原泰道老師死去の知らせに静かに胸中に広がる感慨である。著作や講話から数え切れないほど多くのことを教わった。汲めども尽きぬ智慧の泉のような存在でもあった。しかも2000年以上も昔の仏教思想を21世紀という現代にどうつなぎ、生かしていくかが老師の終生のテーマであったに違いない。その功績は顕著である。
老師自身は仏教経済学(思想)を志向しているようにはみえなかった。とはいえ、その柔軟にして深い仏教思想を変革の思想、仏教経済学とどう融合させていくか。仏教経済学の構築を心掛けている者の一人として、今後に残された大きな課題である。(09年8月1日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
松原泰道老師の死去について朝日新聞(09年7月30日付)は、要旨つぎのように報じた。
わかりやすい仏教の本や講演で人気だった臨済宗龍源寺前住職の禅僧、松原泰道(まつばら・たいどう)さんが29日午前、肺炎のため死去した。101歳だった。葬儀は8月3日午後1時から東京都港区三田5の9の23の同寺で。
東京都生まれ。臨済宗妙心寺派教学部長や仏教伝道協会理事などを歴任。65歳のときに書いた「般若心経入門」がベストセラーに。著書は130册以上あり、100歳を過ぎてからも執筆や講演をこなしていた。76年には、多くの人に仏教に親しんでもらうため都内の喫茶店などで辻説法や講演をする「南無の会」を宗派を超えて結成し、会長を務めていた ― と。
私(安原)は老師の講話を身近に聴く機会に何度も恵まれた。その機知とユーモアに富んだ語り口にはいつもうなずきながら学ぶところが多く、感謝あるのみである。晩年はさすがに車椅子愛用となっていたが、語り口の妙味は衰えることがなかった。
▽松原老師の「経典入門シリーズ」に学ぶこと
死去のニュースを聞いて、私は無造作に書籍が積み上げられているわが家の本棚を探した。松原老師の著作である「経典入門シリーズ」(新書版、祥伝社刊)が埃(ほこり)を被ったまま並んでいる。15年ほど前に読んだつぎの6册である。
・『般若心経入門』(276文字が語る人生の知恵)
・『観音経入門』(もう一人の自分の発見)
・『仏教入門』(あなたの家は何宗か?)
・『法句経入門』(うつろう人生の意味を解く50詩句)
・『法華経入門』(七つの比喩に凝集した人間の真実)
・『わたしの歎異抄入門』(こころ豊かに生きる知恵)
ページをめくってみると、余白のあちこちに読んだときのコメントなどが書き込まれている。一例を紹介すると ― 。
『般若心経入門』の36頁に「本当に別個か?」という疑問符つきの短いコメントがある。これだけでは意味不明だが、そこの老師の文章はつぎのようである。
人間は、貧しければ悲しみのあまり消えたくなります。ところが、豊かになると、またそれがうとましくて蒸発したくなります。現代は、この両方の蒸発希望者を産みだしています。前者は政治や経済の責任だと一応は考えられても、後者の、豊かなる世界からの脱出は、自我の現実的満足にあきたらず、より高次なものを求めての自己の願いであるから、政治や経済とは別個の問題です ― と。
末尾に「政治や経済とは別個の問題」という文言があり、それへの疑問符であることが分かるが、さて何をどのように疑問に思ったのか。自分自身のコメントを読み解く、というのもおかしいが、15年ほども前のことだから、ここは記憶を辿りながら読み解く以外にない。多分つぎのようなことではないか。
私(安原)は当時、現役経済記者を辞めて、大学教員になったばかりで、政治・経済社会の真実に目を背ける既存の現代経済学に空しさを感じ、仏教経済学(思想)に関心を持ち始めていた。それなりの構想も頭の片隅に芽生え始めていた。いいかえれば現実の政治・経済と仏教との相互関係、融合のあるべき姿を考え始めていた。ちょうどその頃、上記の老師の一文を読んだ。そして何を考えたか。
今、読み返してみると、老師は「貧しさによる悲しみの責任は、政治や経済にあるといえるが、豊かでうとましい世界からの脱出は、政治や経済とは別個の問題だ」と指摘している。問題は後半の部分で、私の考えでは「豊かな世界」にも「量的な豊かさ」と「質的な豊かさ」がある。前者の量的豊かさは、貪欲な物的豊かさにつながるところがあり、うとましく感じもするが、後者の質的豊かさは、例えば簡素な暮らしのように持続性があり、決してうとましくはない。このように一口に「豊かな世界」といっても、その中身は政治や経済のあり方と深くかかわっている。そうとらえなければ、仏教経済学そのものが成り立たない。そこで「本当に別個か?」のコメントを書き込む気になったのだろう。
以上は私にとって仏教経済学的思考上の遍歴の一つといえるが、ここで強調したいのは、仏教経済学(思想)を構想していく上で、老師の著作に負うところが極めて大きいということである。今、「経典入門シリーズ」を改めて読み直してみたいと考えている。多少読み方も変わってくるだろうし、新たな発見がいくつも期待できるのではないかと楽しみにしている。
▽仏教を駆使して現代の諸問題に切り込む
もう一つ、老師の著作を紹介したい。松原著『「足るを知る」こころ ― 般若心経と仏教の智慧』(プレジデント社刊、1999年)も教えられるところが多く、つぎのように現代の諸問題、原子力発電から臓器移植までを多面的に論じている。
「自分だけでは決して自分というものはあり得ないんだという相互依存関係、縁起関係を突き詰めていって、初めて口をつく〈お陰様〉という言葉が、般若心経の最高の理想だと思う。(中略)〈お陰様〉がわかるということは、言葉を換えていえば、〈足ることを知ること〉である。しかし足ることを知るところで納まってしまってはいけないんで、そのポールを超えなければならない。それは〈与える〉ということだろう。マックス・ウェーバー(注)は、働け、儲けよ、蓄えよ、そして与えよといっている。儲けて与えることができれば、エコノミック・ヒューマンで、それを自分のポケットに入れたらエコノミック・アニマルになってしまう。〈与える〉は仏教の言葉ではお布施だが、それでは若い人たちはついてこないんで、今の言葉で〈貢献〉と言えばいい」
(注)マックス・ウェーバー(1864〜1920年)はドイツの社会科学者。ベルリン、フライブルク、ハイデルベルク、ミュンヘンの各大学教授を歴任。著書『プロテスタンチズムの倫理と資本主義の精神』が知られる。
「〈知足の英知〉を身につけること。今日の不況はそれを実行するいいチャンスではないか。今、人々の心は、ようやく〈倹約が美徳〉という風潮に少しずつ傾きつつある。だから例えば節電に務め、用が済めば電気器具のスイッチは必ず切ることを習慣づけるよう心がける。便利な機械のスイッチを切るというのは、欲望をコントロールすること」
「冷暖房完備、トイレの温水洗浄を当然のこととしながら、原子力発電反対を唱えるのは、道理が通らない。やはり〈足ることを知る〉ことによって、現在の高度な生活のレベルを下げる実践が必要である」
「仏教の思想からいうならば、欲が悪いんじゃなくて、とらわれることを非とする。だから人間、長生きしたいという欲望が悪いんじゃない。それにとらわれて他人の内蔵まで貰おうという執着、それも外国まで行ってカネに任せて臓器を貰ってくる。仏教徒として、それはいけませんというのが親切だと思う」
(以上は安原和雄著『足るを知る経済 ― 仏教思想で創る二十一世紀と日本』=毎日新聞社刊、2000年=から転載)
▽仏教の先達からの遺言と受け止めて
松原老師の文章や語り口は、やさしく分かりやすいが、それだけではない。仏(ほとけ)の教えを駆使しながら、現代のわれわれが直面している政治、経済さらに生き方に至るまで切り込んでいくところに特色がある。ここが葬式仏教に甘んじている多くの僧侶たちとの大きな違いである。
その具体例を上述の文章から引用すると ― 。
・〈与える〉は仏教の言葉ではお布施だが、それでは若い人たちはついてこないんで、今の言葉で〈貢献〉と言えばいい。
・冷暖房完備、トイレの温水洗浄を当然のこととしながら、原子力発電反対を唱えるのは、道理が通らない。やはり〈足ることを知る〉こと。
以上のように高齢を重ねながら、現代の現実的課題から逃げないで、絶えず創意工夫をこらすという精進ぶりにはただただ頭が下がるほかない。こういう生き方は、仏教の先達からの遺言と受け止めて胸中に納めておきたい。できることなら実践してゆきたい。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
仏教にいう「人生の四苦=生老病死」の最後の死はやはり誰しも避けられないのか ― 禅僧・松原泰道老師死去の知らせに静かに胸中に広がる感慨である。著作や講話から数え切れないほど多くのことを教わった。汲めども尽きぬ智慧の泉のような存在でもあった。しかも2000年以上も昔の仏教思想を21世紀という現代にどうつなぎ、生かしていくかが老師の終生のテーマであったに違いない。その功績は顕著である。
老師自身は仏教経済学(思想)を志向しているようにはみえなかった。とはいえ、その柔軟にして深い仏教思想を変革の思想、仏教経済学とどう融合させていくか。仏教経済学の構築を心掛けている者の一人として、今後に残された大きな課題である。(09年8月1日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
松原泰道老師の死去について朝日新聞(09年7月30日付)は、要旨つぎのように報じた。
わかりやすい仏教の本や講演で人気だった臨済宗龍源寺前住職の禅僧、松原泰道(まつばら・たいどう)さんが29日午前、肺炎のため死去した。101歳だった。葬儀は8月3日午後1時から東京都港区三田5の9の23の同寺で。
東京都生まれ。臨済宗妙心寺派教学部長や仏教伝道協会理事などを歴任。65歳のときに書いた「般若心経入門」がベストセラーに。著書は130册以上あり、100歳を過ぎてからも執筆や講演をこなしていた。76年には、多くの人に仏教に親しんでもらうため都内の喫茶店などで辻説法や講演をする「南無の会」を宗派を超えて結成し、会長を務めていた ― と。
私(安原)は老師の講話を身近に聴く機会に何度も恵まれた。その機知とユーモアに富んだ語り口にはいつもうなずきながら学ぶところが多く、感謝あるのみである。晩年はさすがに車椅子愛用となっていたが、語り口の妙味は衰えることがなかった。
▽松原老師の「経典入門シリーズ」に学ぶこと
死去のニュースを聞いて、私は無造作に書籍が積み上げられているわが家の本棚を探した。松原老師の著作である「経典入門シリーズ」(新書版、祥伝社刊)が埃(ほこり)を被ったまま並んでいる。15年ほど前に読んだつぎの6册である。
・『般若心経入門』(276文字が語る人生の知恵)
・『観音経入門』(もう一人の自分の発見)
・『仏教入門』(あなたの家は何宗か?)
・『法句経入門』(うつろう人生の意味を解く50詩句)
・『法華経入門』(七つの比喩に凝集した人間の真実)
・『わたしの歎異抄入門』(こころ豊かに生きる知恵)
ページをめくってみると、余白のあちこちに読んだときのコメントなどが書き込まれている。一例を紹介すると ― 。
『般若心経入門』の36頁に「本当に別個か?」という疑問符つきの短いコメントがある。これだけでは意味不明だが、そこの老師の文章はつぎのようである。
人間は、貧しければ悲しみのあまり消えたくなります。ところが、豊かになると、またそれがうとましくて蒸発したくなります。現代は、この両方の蒸発希望者を産みだしています。前者は政治や経済の責任だと一応は考えられても、後者の、豊かなる世界からの脱出は、自我の現実的満足にあきたらず、より高次なものを求めての自己の願いであるから、政治や経済とは別個の問題です ― と。
末尾に「政治や経済とは別個の問題」という文言があり、それへの疑問符であることが分かるが、さて何をどのように疑問に思ったのか。自分自身のコメントを読み解く、というのもおかしいが、15年ほども前のことだから、ここは記憶を辿りながら読み解く以外にない。多分つぎのようなことではないか。
私(安原)は当時、現役経済記者を辞めて、大学教員になったばかりで、政治・経済社会の真実に目を背ける既存の現代経済学に空しさを感じ、仏教経済学(思想)に関心を持ち始めていた。それなりの構想も頭の片隅に芽生え始めていた。いいかえれば現実の政治・経済と仏教との相互関係、融合のあるべき姿を考え始めていた。ちょうどその頃、上記の老師の一文を読んだ。そして何を考えたか。
今、読み返してみると、老師は「貧しさによる悲しみの責任は、政治や経済にあるといえるが、豊かでうとましい世界からの脱出は、政治や経済とは別個の問題だ」と指摘している。問題は後半の部分で、私の考えでは「豊かな世界」にも「量的な豊かさ」と「質的な豊かさ」がある。前者の量的豊かさは、貪欲な物的豊かさにつながるところがあり、うとましく感じもするが、後者の質的豊かさは、例えば簡素な暮らしのように持続性があり、決してうとましくはない。このように一口に「豊かな世界」といっても、その中身は政治や経済のあり方と深くかかわっている。そうとらえなければ、仏教経済学そのものが成り立たない。そこで「本当に別個か?」のコメントを書き込む気になったのだろう。
以上は私にとって仏教経済学的思考上の遍歴の一つといえるが、ここで強調したいのは、仏教経済学(思想)を構想していく上で、老師の著作に負うところが極めて大きいということである。今、「経典入門シリーズ」を改めて読み直してみたいと考えている。多少読み方も変わってくるだろうし、新たな発見がいくつも期待できるのではないかと楽しみにしている。
▽仏教を駆使して現代の諸問題に切り込む
もう一つ、老師の著作を紹介したい。松原著『「足るを知る」こころ ― 般若心経と仏教の智慧』(プレジデント社刊、1999年)も教えられるところが多く、つぎのように現代の諸問題、原子力発電から臓器移植までを多面的に論じている。
「自分だけでは決して自分というものはあり得ないんだという相互依存関係、縁起関係を突き詰めていって、初めて口をつく〈お陰様〉という言葉が、般若心経の最高の理想だと思う。(中略)〈お陰様〉がわかるということは、言葉を換えていえば、〈足ることを知ること〉である。しかし足ることを知るところで納まってしまってはいけないんで、そのポールを超えなければならない。それは〈与える〉ということだろう。マックス・ウェーバー(注)は、働け、儲けよ、蓄えよ、そして与えよといっている。儲けて与えることができれば、エコノミック・ヒューマンで、それを自分のポケットに入れたらエコノミック・アニマルになってしまう。〈与える〉は仏教の言葉ではお布施だが、それでは若い人たちはついてこないんで、今の言葉で〈貢献〉と言えばいい」
(注)マックス・ウェーバー(1864〜1920年)はドイツの社会科学者。ベルリン、フライブルク、ハイデルベルク、ミュンヘンの各大学教授を歴任。著書『プロテスタンチズムの倫理と資本主義の精神』が知られる。
「〈知足の英知〉を身につけること。今日の不況はそれを実行するいいチャンスではないか。今、人々の心は、ようやく〈倹約が美徳〉という風潮に少しずつ傾きつつある。だから例えば節電に務め、用が済めば電気器具のスイッチは必ず切ることを習慣づけるよう心がける。便利な機械のスイッチを切るというのは、欲望をコントロールすること」
「冷暖房完備、トイレの温水洗浄を当然のこととしながら、原子力発電反対を唱えるのは、道理が通らない。やはり〈足ることを知る〉ことによって、現在の高度な生活のレベルを下げる実践が必要である」
「仏教の思想からいうならば、欲が悪いんじゃなくて、とらわれることを非とする。だから人間、長生きしたいという欲望が悪いんじゃない。それにとらわれて他人の内蔵まで貰おうという執着、それも外国まで行ってカネに任せて臓器を貰ってくる。仏教徒として、それはいけませんというのが親切だと思う」
(以上は安原和雄著『足るを知る経済 ― 仏教思想で創る二十一世紀と日本』=毎日新聞社刊、2000年=から転載)
▽仏教の先達からの遺言と受け止めて
松原老師の文章や語り口は、やさしく分かりやすいが、それだけではない。仏(ほとけ)の教えを駆使しながら、現代のわれわれが直面している政治、経済さらに生き方に至るまで切り込んでいくところに特色がある。ここが葬式仏教に甘んじている多くの僧侶たちとの大きな違いである。
その具体例を上述の文章から引用すると ― 。
・〈与える〉は仏教の言葉ではお布施だが、それでは若い人たちはついてこないんで、今の言葉で〈貢献〉と言えばいい。
・冷暖房完備、トイレの温水洗浄を当然のこととしながら、原子力発電反対を唱えるのは、道理が通らない。やはり〈足ることを知る〉こと。
以上のように高齢を重ねながら、現代の現実的課題から逃げないで、絶えず創意工夫をこらすという精進ぶりにはただただ頭が下がるほかない。こういう生き方は、仏教の先達からの遺言と受け止めて胸中に納めておきたい。できることなら実践してゆきたい。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
「安心社会」をどう実現するか
安原和雄
民主党など各党が8.30総選挙を目指すマニフェスト(政権公約)を公表している。盛り沢山で、とかく焦点がぼけやすいが、有権者にとって一番気になるのは「安心社会」をどう実現していくか、ではないか。これは〈平和と暮らしを壊す「日米同盟」〉と並ぶ総選挙のもう一つの争点というべきである。
麻生太郎自民党総裁は8.30総選挙を「安心社会実現選挙」と名づけている。このスローガンが見当違いであるわけではない。しかし自民党にその実現能力を期待するのは無理ではないか。といって一方の民主党に十分な信頼を寄せてよいのかどうか。政権交代を意識するあまり、「現実的政党」として自民党ににじり寄るようでは期待薄である。望ましい「安心社会」実現へのシナリオを描いてみる。(09年7月29日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
自民党のホームページによると、麻生太郎総理(自民党総裁)は、衆院を解散した7月21日夕、総理官邸で記者会見を行い、今回の総選挙を「安心社会実現選挙」と位置づけた。「子供たちに夢、若者に希望、高齢者に安心」が目指す安心社会の姿である。同時に「景気回復後、社会保障と少子化に充てるための消費税率引き上げを」と述べた。
以下、望ましい「安心社会」実現のための必要条件を考える。
▽「成長で安心は得られぬ」は正論
毎日新聞の今松英悦・論説委員が社説の下段の「視点」(09年7月27日付)欄で「成長で安心は得られぬ」と題し論じている。これは7月24日に閣議報告された09年度経済財政白書に関連した「視点」で、なかなかの正論と評価できる。その大要を以下に紹介する。
日本が資源制約を実感することになった石油危機から35年余り、バブル崩壊からでも20年近く経過した。ともに経済のありようや成長の内容が問われた。環境制約や人口減少なども重なり、経済発展が最高段階に達している社会では量的拡大に限界があることは容易に想像できる。それにもかかわらず、日本はひたすら量的成長を追求してきた。小泉改革が「改革なくして成長なし」を旗印に、市場原理主義に基づく経済社会作りを目指したのも、企業部門の強化が国内総生産(GDP)拡大の早道と判断したからだ。
ただその顛末(てんまつ)は格差社会の定着や将来への不安増幅など惨憺(さんたん)たるものだった。ここ1、2年、国民の安全の実現や格差是正が政策課題となってきたことは当然である。
09年度経済財政白書は、今回の経済危機の背景には国際的な不均衡の拡大など外的要因と並んで、派遣労働者の解雇や雇い止めの急増、格差の拡大など国内要因があることを明確にした。
成長の中身に踏み込むべきなのだが、量的成長の魔力には勝てない。短期では景気の大幅な落ち込みをどうしていくかが課題であることは間違いない。しかしその先を展望すれば、経済社会の仕組みそのものを問題にしなければならない。09年1〜3月時点で企業内の余剰雇用は607万人と試算しているが、成長率が高まったからといって、すべては解消しない。こうしたところにこそ目配りしなければならない。
安心社会実現には、思い切った雇用対策や医療制度改革をやるしかない。今、必要なことは、大胆な歳出の組み替えとそれを支える歳入構造の構築だ。格差拡大に対しては所得再配分を大胆に実施すること、所得税を含め応能原則を回復することだ。
日本の1人当たりGDPは07年で、3万4326ドルだ。経済協力開発機構(OECD)加盟国中19位にばかり目を向けがちだが、なかなかの額なのだ。為替相場が円高に少し動けば、ドルベースの順位はすぐに上がる。量的拡大に踊らされる必要はない。
〈安原の感想〉市場原理主義を超えて
特定の論説記者の主張をわざわざくわしく紹介したのは、それが正論だというだけの理由ではない。昨今の新聞、テレビを含めたメディアにこの種の主張が少ないからである。
重要なことは、世界的危機の根因となった市場原理主義=新自由主義を強要した権力を批判する視点に立っていることである。市場原理主義をどう克服し、超えるかという視点が欠落し、単なる景気対策の枠に視野を限定した記事は今や読むに値しない。権力批判というジャーナリズムの原点を見失っているメディアが少なくない現状に私は危機感を抱いている。
▽「安心社会」を実現するには(1) ― 「経済成長」の正しい理解の共有を
ここでは「安心社会」実現のためには経済成長は必要不可欠なのかを考えたい。今なお経済成長へのこだわりがあちこちにみられる。例えば日本経済新聞(7月22日付)は企画記事「選択09衆院選 何が問われるのか」で「責任ある成長政策を」という見出しでつぎのように書いた。
次期政権は今春に続くもう一段の経済対策を念頭に置かざるを得ないだろう。それも急場をしのぐ需要追加だけでなく、成長戦略を立てて各種改革を進める必要がある。カネがカネを生む金融資本主義には限界が見えた。だが従来型の工業重視、もの作り信仰だけでは新興国の追い上げが激しい。米欧は環境・情報技術を軸とした産業革新を目指している。この潮流をどう受け止めて成長戦略を練り直すのか。このあたり、自民党政権も民主党もはっきりしない面がある ― と。
この例に限らず、一般に経済成長概念について誤解があるのではないか。技術革新に裏打ちされた産業革新、すなわち新産業の創出と経済成長とは異なっている。産業革新がそのまま経済成長につながるわけではない。
経済成長とは、GDP(国内総生産=個人消費、公共投資を含む財政支出、民間設備・住宅投資、輸出入差額など)の量的拡大を意味するにすぎない。いいかえればプラスの経済成長がそのまま暮らしの質的充実につながるわけではない。むしろ相反する場合も多い。
例えば生産の増大によって環境破壊が進めば、経済成長は実現するが、環境悪化によって生活の質は低下する。また経済成長によって雇用が保障され、貧困、格差が解決されるとは限らない。むしろあの市場原理主義=新自由主義路線の強行は、経済成長もそれなりに実現し、大企業の利益をふくらませたが、雇用の破壊と貧困・格差の増大をもたらした。このように経済成長は安心社会の実現に貢献するどころか、むしろ破壊しかねない。
かつてのモノ不足を背景とする高度経済成長時代は、日常生活に必要な新製品の普及によって成長の果実をもたらしたが、今日の成熟経済の域に達した日本経済は、もはや成長に伴って生活充実の果実を期待することはできない。経済成長への正しい理解を共有し、「経済成長こそが幸せの原点」などという幻想を棄てるときである。
▽「安心社会」を実現するには(2) ― 生活の質的充実へ転換を
日本経済の年間GDPは現在約500兆円で、米国に次いで世界第2位の巨大な経済規模となっている。もっとも近く中国に追い抜かれて第3位に下がるが、大騒ぎするようなテーマではない。いずれにしても人間で言えば、すでに熟年であり、もはや量的拡大つまり体重を増やすことが目標ではない。人間としての人格、品格、智慧を磨くときである。 同様に日本経済もむしろ「ゼロ成長、つまり500兆円の経済規模を毎年維持することで十分」と考えて、成長よりも経済や生活の質的改善・充実に専念するときである。
そのためには1980年代の中曽根政権から21世紀の小泉政権まで30年近くにわたって続いた米国主導の市場原理主義=新自由主義路線から根本的に転換する必要がある。
具体的には雇用対策、医療改革、財政・税制の思い切った組み替え、貧困・格差を是正するための所得再配分、税制面での応益負担原則(受益に応じた税負担で、所得の低い者の負担が重くなる)から本来の応能負担原則(所得や資産など能力に応じた税負担)への転換・回復 ― など。
ここでは「安心社会」実現のため、国レベルの財政・税制(歳出と歳入)の望ましい大幅な組み替えの大まかな事例を以下に挙げる。この程度の事例は、総選挙後の新しい時代を担うに足りる政党であるための必要条件にすぎない。これに満足すべきものではないことを指摘しておきたい。
〈歳入面での事例〉
*消費税は引き上げず、据え置く(自民党は「景気回復後に引き上げる」ことを公言しており、民主党も「4年間は引き上げない」として、その後の引き上げに含みを持たせている)
*大企業や資産家・金持ちへの優遇税制の廃止・見直し(応能負担原則の適用)
*温暖化防止など地球環境保全のための新政策の一つとして環境税(炭素税)の導入
〈歳出面での事例〉
*防衛費(年間約5兆円)、公共事業費(高速道路・ダムなど)の大幅な歳出削減
*「早くあの世へ往け」と言わんばかりの後期高齢者制度を廃止し、さらに高齢者と子どもの医療費無料化を図るなど年金、医療、生活保護など社会保障制度の充実
*教育、雇用・労働、中小企業などの分野の充実
*食料自給率向上、田園環境保全 ― など農業分野の充実と雇用の創出
*自然エネルギー(太陽光、風力、水力など)の開発投資の促進。従来の化石(石油・石炭など)・原子力エネルギー依存型からの大幅な転換
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
民主党など各党が8.30総選挙を目指すマニフェスト(政権公約)を公表している。盛り沢山で、とかく焦点がぼけやすいが、有権者にとって一番気になるのは「安心社会」をどう実現していくか、ではないか。これは〈平和と暮らしを壊す「日米同盟」〉と並ぶ総選挙のもう一つの争点というべきである。
麻生太郎自民党総裁は8.30総選挙を「安心社会実現選挙」と名づけている。このスローガンが見当違いであるわけではない。しかし自民党にその実現能力を期待するのは無理ではないか。といって一方の民主党に十分な信頼を寄せてよいのかどうか。政権交代を意識するあまり、「現実的政党」として自民党ににじり寄るようでは期待薄である。望ましい「安心社会」実現へのシナリオを描いてみる。(09年7月29日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
自民党のホームページによると、麻生太郎総理(自民党総裁)は、衆院を解散した7月21日夕、総理官邸で記者会見を行い、今回の総選挙を「安心社会実現選挙」と位置づけた。「子供たちに夢、若者に希望、高齢者に安心」が目指す安心社会の姿である。同時に「景気回復後、社会保障と少子化に充てるための消費税率引き上げを」と述べた。
以下、望ましい「安心社会」実現のための必要条件を考える。
▽「成長で安心は得られぬ」は正論
毎日新聞の今松英悦・論説委員が社説の下段の「視点」(09年7月27日付)欄で「成長で安心は得られぬ」と題し論じている。これは7月24日に閣議報告された09年度経済財政白書に関連した「視点」で、なかなかの正論と評価できる。その大要を以下に紹介する。
日本が資源制約を実感することになった石油危機から35年余り、バブル崩壊からでも20年近く経過した。ともに経済のありようや成長の内容が問われた。環境制約や人口減少なども重なり、経済発展が最高段階に達している社会では量的拡大に限界があることは容易に想像できる。それにもかかわらず、日本はひたすら量的成長を追求してきた。小泉改革が「改革なくして成長なし」を旗印に、市場原理主義に基づく経済社会作りを目指したのも、企業部門の強化が国内総生産(GDP)拡大の早道と判断したからだ。
ただその顛末(てんまつ)は格差社会の定着や将来への不安増幅など惨憺(さんたん)たるものだった。ここ1、2年、国民の安全の実現や格差是正が政策課題となってきたことは当然である。
09年度経済財政白書は、今回の経済危機の背景には国際的な不均衡の拡大など外的要因と並んで、派遣労働者の解雇や雇い止めの急増、格差の拡大など国内要因があることを明確にした。
成長の中身に踏み込むべきなのだが、量的成長の魔力には勝てない。短期では景気の大幅な落ち込みをどうしていくかが課題であることは間違いない。しかしその先を展望すれば、経済社会の仕組みそのものを問題にしなければならない。09年1〜3月時点で企業内の余剰雇用は607万人と試算しているが、成長率が高まったからといって、すべては解消しない。こうしたところにこそ目配りしなければならない。
安心社会実現には、思い切った雇用対策や医療制度改革をやるしかない。今、必要なことは、大胆な歳出の組み替えとそれを支える歳入構造の構築だ。格差拡大に対しては所得再配分を大胆に実施すること、所得税を含め応能原則を回復することだ。
日本の1人当たりGDPは07年で、3万4326ドルだ。経済協力開発機構(OECD)加盟国中19位にばかり目を向けがちだが、なかなかの額なのだ。為替相場が円高に少し動けば、ドルベースの順位はすぐに上がる。量的拡大に踊らされる必要はない。
〈安原の感想〉市場原理主義を超えて
特定の論説記者の主張をわざわざくわしく紹介したのは、それが正論だというだけの理由ではない。昨今の新聞、テレビを含めたメディアにこの種の主張が少ないからである。
重要なことは、世界的危機の根因となった市場原理主義=新自由主義を強要した権力を批判する視点に立っていることである。市場原理主義をどう克服し、超えるかという視点が欠落し、単なる景気対策の枠に視野を限定した記事は今や読むに値しない。権力批判というジャーナリズムの原点を見失っているメディアが少なくない現状に私は危機感を抱いている。
▽「安心社会」を実現するには(1) ― 「経済成長」の正しい理解の共有を
ここでは「安心社会」実現のためには経済成長は必要不可欠なのかを考えたい。今なお経済成長へのこだわりがあちこちにみられる。例えば日本経済新聞(7月22日付)は企画記事「選択09衆院選 何が問われるのか」で「責任ある成長政策を」という見出しでつぎのように書いた。
次期政権は今春に続くもう一段の経済対策を念頭に置かざるを得ないだろう。それも急場をしのぐ需要追加だけでなく、成長戦略を立てて各種改革を進める必要がある。カネがカネを生む金融資本主義には限界が見えた。だが従来型の工業重視、もの作り信仰だけでは新興国の追い上げが激しい。米欧は環境・情報技術を軸とした産業革新を目指している。この潮流をどう受け止めて成長戦略を練り直すのか。このあたり、自民党政権も民主党もはっきりしない面がある ― と。
この例に限らず、一般に経済成長概念について誤解があるのではないか。技術革新に裏打ちされた産業革新、すなわち新産業の創出と経済成長とは異なっている。産業革新がそのまま経済成長につながるわけではない。
経済成長とは、GDP(国内総生産=個人消費、公共投資を含む財政支出、民間設備・住宅投資、輸出入差額など)の量的拡大を意味するにすぎない。いいかえればプラスの経済成長がそのまま暮らしの質的充実につながるわけではない。むしろ相反する場合も多い。
例えば生産の増大によって環境破壊が進めば、経済成長は実現するが、環境悪化によって生活の質は低下する。また経済成長によって雇用が保障され、貧困、格差が解決されるとは限らない。むしろあの市場原理主義=新自由主義路線の強行は、経済成長もそれなりに実現し、大企業の利益をふくらませたが、雇用の破壊と貧困・格差の増大をもたらした。このように経済成長は安心社会の実現に貢献するどころか、むしろ破壊しかねない。
かつてのモノ不足を背景とする高度経済成長時代は、日常生活に必要な新製品の普及によって成長の果実をもたらしたが、今日の成熟経済の域に達した日本経済は、もはや成長に伴って生活充実の果実を期待することはできない。経済成長への正しい理解を共有し、「経済成長こそが幸せの原点」などという幻想を棄てるときである。
▽「安心社会」を実現するには(2) ― 生活の質的充実へ転換を
日本経済の年間GDPは現在約500兆円で、米国に次いで世界第2位の巨大な経済規模となっている。もっとも近く中国に追い抜かれて第3位に下がるが、大騒ぎするようなテーマではない。いずれにしても人間で言えば、すでに熟年であり、もはや量的拡大つまり体重を増やすことが目標ではない。人間としての人格、品格、智慧を磨くときである。 同様に日本経済もむしろ「ゼロ成長、つまり500兆円の経済規模を毎年維持することで十分」と考えて、成長よりも経済や生活の質的改善・充実に専念するときである。
そのためには1980年代の中曽根政権から21世紀の小泉政権まで30年近くにわたって続いた米国主導の市場原理主義=新自由主義路線から根本的に転換する必要がある。
具体的には雇用対策、医療改革、財政・税制の思い切った組み替え、貧困・格差を是正するための所得再配分、税制面での応益負担原則(受益に応じた税負担で、所得の低い者の負担が重くなる)から本来の応能負担原則(所得や資産など能力に応じた税負担)への転換・回復 ― など。
ここでは「安心社会」実現のため、国レベルの財政・税制(歳出と歳入)の望ましい大幅な組み替えの大まかな事例を以下に挙げる。この程度の事例は、総選挙後の新しい時代を担うに足りる政党であるための必要条件にすぎない。これに満足すべきものではないことを指摘しておきたい。
〈歳入面での事例〉
*消費税は引き上げず、据え置く(自民党は「景気回復後に引き上げる」ことを公言しており、民主党も「4年間は引き上げない」として、その後の引き上げに含みを持たせている)
*大企業や資産家・金持ちへの優遇税制の廃止・見直し(応能負担原則の適用)
*温暖化防止など地球環境保全のための新政策の一つとして環境税(炭素税)の導入
〈歳出面での事例〉
*防衛費(年間約5兆円)、公共事業費(高速道路・ダムなど)の大幅な歳出削減
*「早くあの世へ往け」と言わんばかりの後期高齢者制度を廃止し、さらに高齢者と子どもの医療費無料化を図るなど年金、医療、生活保護など社会保障制度の充実
*教育、雇用・労働、中小企業などの分野の充実
*食料自給率向上、田園環境保全 ― など農業分野の充実と雇用の創出
*自然エネルギー(太陽光、風力、水力など)の開発投資の促進。従来の化石(石油・石炭など)・原子力エネルギー依存型からの大幅な転換
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平和と暮らしを壊す「日米同盟」
安原和雄
8.30総選挙の争点をどこに見据えるべきか。目先の景気対策を含め、個別の政策を羅列すれば、多様であり、それこそ貨車一杯に積み込むほどあふれるだろう。だが、大局的に観察すれば、来年(2010年)、発足以来半世紀を迎える日米安保体制の是非こそが最大の争点であるべきだと考える。軍事・経済同盟としての日米安保体制が半世紀も続くこと自体がすでに異常であるだけではない。
軍事同盟としての日米安保は、今や「世界の安保」に変質し、軍事力中心主義を克服できない米国との共通戦略に踏み込み、憲法9条(軍備及び交戦権の否認)の空洞化をさらに進めつつある。一方、経済同盟としての日米安保は、米国主導の新自由主義路線によっていのちの軽視、貧困・格差の拡大などをもたらし、憲法25条(生存権)の理念を骨抜きにした。9条(平和)と25条(暮らし)の本来の理念をどうよみがえらせるかを問いただす総選挙にしたい。(09年7月23日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽大手紙社説は外交・安保・日米同盟をどう論じたか
まず大手4紙の社説(7月22日付)は総選挙に絡めて外交・日米安保・「日米同盟」についてどう論じたか。社説の見出しと主張の骨子を以下に紹介し、私(安原)のコメントをつける。
*毎日新聞=政権交代が最大の焦点だ ごまかさない公約を
自民、公明両党はこれまでの実績を強調するだろう。(中略)共産党や社民党、国民新党、新党日本、今後できるかもしれない新党も含め、大切なのはこの国をどんな形にするのかだ。未来に向けたビジョンを示してもらいたい。有権者の目は一段と厳しくなっている。何よりごまかさず、正々堂々と政策論争を戦わせることだ。それがむしろ支持を集める時代なのだ。
〈コメント〉
「大切なのはこの国をどんな形にするのかだ」という指摘はその通りである。しかし当の毎日新聞として「どんな形の国」を期待するのかにはほとんど触れない。なぜなのか。
*朝日新聞=大転換期を託す政権選択
日本が寄り添ってきた米国の一極支配はもうない。(中略)日米同盟が重要というのは結構だが、それでは世界の経済秩序、アジアの平和と繁栄、地球規模の低炭素社会化に日本はどう取り組んでいくのか、日本自身の構想と意思を示してほしい。それが多国間外交を掲げる米オバマ政権の期待でもあろう。
現実的な国益判断に立って、国際協調の外交を進めるのは、そもそも日本の有権者が望むところだ。
〈コメント〉
「日本が寄り添ってきた米国の一極支配はもうない」は国際情勢の現実認識としては正しい。しかしつぎの「日米同盟が重要というのは結構」という指摘は軽視できない。ここには日米同盟を無批判に肯定する姿勢がうかがえる。あの大東亜戦争の直前に日独伊3国軍事同盟を結んだことを当時のメディアははやし立て、戦争への道を煽った。その結末が日本人犠牲者310万人を数え、敗戦となった。その失敗に学ぶときではないか。
*読売新聞=政策本位で政権選択を問え
民主党は、インド洋での海上自衛隊による給油活動など国際平和協力活動に反対姿勢を示してきた。ただ、最近になって、鳩山代表は、給油活動を当面、継続する考えを表明した。政権交代を視野に入れ、外交の継続性から現実的方向に政策転換するのは当然のことだ。だが、社民党の福島党首は反発した。基本政策で隔たりがある社民党との連立政権は、極めて難しい運営を迫られるだろう。
〈コメント〉
民主党の鳩山代表が海上自衛隊による給油活動に賛成の態度に転じたことを「現実的方向」として評価している。いかにも自民党寄りの読売新聞らしい評価だが、ここで疑問が生じる。わざわざ社説の見出しにしている「政策本位で政権選択を問え」はいささか無理難題とはいえないか。同じ政策についてその是非をどのように選択できるのか。本音は自民党と同じ政策なら、民主党も悪くない、という判断なのだろう。
*日本経済新聞=政権選択選挙の名に恥じぬ政策論争を
民主党政権が実現した場合の大きな不安要素は、外交・安全保障政策だ。インド洋上での海上自衛隊の給油活動については、小沢一郎前代表当時に「憲法違反」と断じて反対した経緯がある。日米関係などに禍根を残す判断だった。
鳩山由紀夫代表は政権獲得後も即時撤退はしない考えを表明した。現実的な外交路線に修正する試みかどうかを注視したいが、社民党は反発し、波紋が広がっている。
〈コメント〉
読売の論調と大同小異である。給油反対は「日米関係などに禍根を残す判断」という認識は「日米同盟」を絶対視する姿勢である。読売同様に社説の見出しで「政策論争のすすめ」を説きながら、その実、論争を歓迎しないという矛盾がある。本音は「自民・公明政権の継続を」ではないか。
さて今日の外交・日米安保・「日米同盟」のあり方を考える上で示唆に富む孫崎 享(注)著『日米同盟の正体 迷走する安全保障』(講談社現代新書、09年3月刊)の趣旨を以下に紹介する。それを手がかりにして、変質する日米安保の実像とその意味するところを追跡したい。
(注)孫崎氏は1943年旧満州国生まれ。外務省入省後、米国ハーバード大学国際問題研究所研究員、外務省国際情報局長、駐イラン大使などを歴任。国際情報局長時代に各国情報機関と積極的に交流。2002年より防衛大学校教授、09年3月退官。著書に『日本外交 現場からの証言』(中公新書)など。異色の「安全保障官僚」と呼ぶにふさわしい存在である。
▽変質する日米安保(1) ― 「世界」の安保、国連の軽視へ
2005年10月日本の外相、防衛庁長官と米国の国務長官、国防長官は、「日米同盟:未来のための変革と再編」という文書に署名した。この「日米同盟」と1960年調印の現行「日米安保条約」とはどう異なっているのか。
*「日米同盟」で「極東」から「世界」の安保へ
日米安保条約は第6条の極東条項によって、あくまで活動の範囲は極東である。他方「日米同盟」では「地域及び世界における共通の戦略目標を達成するため」とされている。舞台を極東から世界に移した。全く新しい動きである。
*国連の役割を軽視
日米安保条約は前文で「国連憲章の目的及び原則にたいする信念・・・を再確認」と述べ、第1条で「国連の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎む」「国連を強化することに努力する」などと国連の役割を重視している。
しかし「日米同盟」には国連の目的、原則への言及はない。これは偶然ではない。国連憲章第1条「目的」に「国際的紛争・・・は解決を平和的手段によって、且つ正義及び国際法の原則に従って実現する」「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく」という2点が含まれている。
さらに第2条「原則」で、「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない」としている。
こうした原則、行動指針は、冷戦終結以降の米国戦略の流れと異なる。人民の同権及び自決の原則は、今日の米国戦略の考えにはない。民主化、市場化を目指す国と目指さない国とは、同等ではない。テロを保護する国は敵である。国際政治の構図は敵と味方に峻別されている。
何をなすべきかは米国が決める。国連が決めるのではない。この流れは国際協調を主張するオバマ政権でも変わらない。
*「国際的な安全保障環境の改善」と先制攻撃
「日米同盟」では、目的を「地域及び世界における共通の戦略目標を達成するため、国際的な安全保障環境を改善する上での二国間協力は、同盟の重要な要素となった。この目的のため、日本及び米国は、それぞれの能力に基づいて適切な貢献を行う」としている。「国際的な安全保障環境を改善する」という文言は、誰にでも受け容れられる雰囲気を持った表現である。しかし具体的な政策に置き換えると、深刻な意味合いを持つ。具体例は以下のようである。
・米国は冷戦後のイラン・イラク・北朝鮮等での核兵器など大量破壊兵器の拡散を防ぐため、この諸国に対する軍事力使用の計画を考えてきたこと。
・アフガニスタンにおけるタリバンのようなテロリストをかくまう政権を排除すること。
軍事力の使用は敵が軍事行動を行ったときに限らない。当然先制攻撃も選択肢としてある。オバマ大統領は変革というスローガンで、この流れを変えられるか。その際には叡智と既存勢力と戦う意思と力が必要になる。残念ながら、その動きはまだ見えない。
〈安原のコメント〉― 軍産複合体とどこまで戦うのか
オバマ米大統領はチェンジ(変革)を国民に訴えて多数の支持を得た。果たしてそのチェンジをどこまで期待できるのか。ここで重要なのは『日米同盟の正体』が指摘する次の2点である。
・何をなすべきかは米国が決める。国連が決めるのではない。この流れは国際協調を主張するオバマ政権でも変わらない。
・軍事力の使用は敵が軍事行動を行ったときに限らない。当然先制攻撃も選択肢としてある。オバマ大統領は変革というスローガンで、この流れを変えられるか。その際には叡智と既存勢力と戦う意思と力が必要になる。残念ながら、その動きはまだ見えない。
この指摘からも分かるように著作『日米同盟の正体』は、オバマ大統領の変革にはむしろ悲観的な診断を下している。
しかも真の変革のためには「叡智と既存勢力と戦う意思と力が必要」と指摘している。その意味するところは、今や戦争なしには生存できないあの軍産複合体(軍部、兵器メーカー、後方支援を担う民営企業などの複合体)という巨大な戦争マシーン勢力とどこまで戦う意思と力があるのかという問いかけであろう。私はオバマ大統領がイラクから米軍を撤退させ、その一方でアフガニスタンへ増派するのは、軍産複合体との妥協の産物と推察する。
▽変質する日米安保(2) ― 「日米同盟」への日本の対応
「日米同盟」に日本はどういう姿勢で対応しているのか。『日米同盟の正体』から紹介したい。その主な内容は以下の通り。
・日米同盟の戦略とは米国が提唱し、それに日本側が同意する以外にない。
・日本は、さしたる考察をすることなく、米国戦略イコール日米共通の戦略とすること、今日本はこの方向に動いている。
・いま自衛隊では、作戦、運用、訓練、教育などほぼすべての分野で日米一体化に向けて動き出している。なぜなのか。安全保障面で日米の価値観が接近したからか。そうではない。冷戦終結以降、米国は圧倒的な軍事力優勢の下、自分達の価値観を受け容れる者と、これに抵抗する者とを峻別し、両者に対する対応も変えた。これに対し、欧州は異なる価値観を持った。力を超えて、法律と規則、国際交渉と国際協力の世界を重視している。日本国民の価値観もヨーロッパ的であった。
日米一体化を進める理由が共通の価値観でないとすれば、何か。大野伴睦自民党元副総裁が述べた価値判断「政治は得か損かだ。理屈は貨車一杯であとからやってくる」ではないか。理屈が政策を決めるのではない。得か損かが政策を決める。力の強い者につくのが得、これが日本の政策決定の価値基準になっている。
・日本側からみると、米国が進める国際戦略が素晴らしいと確信して踏み切った結果ではない。損得を計算し、得だと判断したからである。この判断が問われるのは、日本が派遣した自衛隊員に死者が出たときであろう。
日本が自衛隊派遣の決断を迫られるアフガニスタンでは、西側各国軍の死者数は09年1月時点で米国574名、英国141名、カナダ107名、ドイツ30名、スペイン25名、フランス25名となっている。
・現在の日米関係の危うさは、損か得かで決めていることにある。(中略)日米安保関係は一気に崩れる危険性がある。
・日米共通の戦略には無理がある。米国は軍事力で国際的環境を変えることを志向しているが、この考えは伝統的な西側理念に反している。かつオバマ大統領が最も重視するアフガニスタンでのテロとの戦いは、誰がアフガニスタンを統治するかという土着性の強い問題であり、この政策は成功しない。
〈安原のコメント〉― 力の強い者につく選択は地獄への道
安全保障の分野に大野伴睦自民党元副総裁(故人)が登場してくるのには、アッと驚いた。それもあの有名な「政治は得か損かだ。理屈は貨車一杯であとからやってくる」という日本的セリフとともにである。しかも「力の強い者につくのが得、これが日本の政策決定の価値基準になっている」とすれば、先行き何が待ち受けているのか。
「力の強さ」には決して永続性はない。やがて必ず崩壊するときが来る。その場がアフガニスタンでのテロとの戦いであろう。著作『日米同盟の正体』はアフガニスタンでのテロとの戦いは「成功しない」と言いきっている。これではベトナムへ侵略して敗走した米軍の二の舞である。地獄の底知れぬ苦しみが広がって、その時やっと「日米同盟の正体」に気づくようでは遅すぎる。
▽変質する日米安保(3) ― 核兵器と北朝鮮と日本と
ここでは北朝鮮と日本の核兵器保有について考える。『日米同盟の正体』の主張は以下のようである。
*北朝鮮の核兵器開発について
われわれにとって北朝鮮の核兵器開発がどうなるかが、極めて重大な関心事である。われわれは通常西側の観点で考える。では北朝鮮側からはどう見えるだろうか。
「米国にとり、北朝鮮の核は過去10年ほど主要な問題であったが、北朝鮮にとっては米国の核の脅威は過去50年絶えず続いてきた問題であった。核時代にあって北朝鮮の独特な点は、どんな国よりも長く核の脅威に常に向き合い、その影に生きてきたことである。朝鮮戦争では核による殲滅(せんめつ)から紙一重で免れた。米軍はその後核弾頭や地雷、ミサイルを韓国の米軍基地に持ち込んだ。1991年核兵器が韓国から撤収されても、米軍は北朝鮮を標的とするミサイル演習を続けた。北朝鮮では核の脅威がなくならなかった。何十年も核の脅威と向き合ってきた北朝鮮が、機会があれば『抑止力』を開発しようと考えたのは驚くことではない」(ガバン・マコーマックの『北朝鮮をどう考えるか』平凡社・2004年=参照)。
北朝鮮がこの恐怖心を持っている際には、西側はどう対応すべきか。ヘンリー・キッシンジャー(元米国務長官)は、「核兵器を有する国は、それを用いずして無条件降伏を受け容れることはないであろう。一方でその生存が直接脅かされていると信じるとき以外は、核戦争の危険を冒す国もない」と判断した。同時に「無条件降伏を求めないことを明らかにし、どんな紛争も国家の生存の問題を含まない枠を作ることが米国外交の仕事である」と指摘している。これが北朝鮮の核兵器開発に対する西側の基本理念となるべきではないか。
*日本の核兵器保有の選択は正しくないし、米国の核の傘も万全ではない
孫崎氏は日本の核兵器保有に否定的であり、さらに米国の核の傘も機能しないとしている。その理由は以下の通り。
核を保有することは核戦争を覚悟せざるを得ない。
日本への核攻撃は東京など政治・経済の中心部への攻撃が主となる。日本はわずかな都市に政治・経済の集中が進み、核攻撃に極めて脆弱である。その一方で日本は、例えばロシア、中国の広大な地域に壊滅的な打撃を与えられない。日本が核保有の選択を模索する場合の最大の弱点である。
米国の核の傘も万全ではない。核戦略のなかで、核の傘は実は極めて危うい存在である。米国が核の傘を提供することによって、米国の都市が攻撃を受ける可能性がある場合、米国の核の傘は、ほぼ機能しない。
〈安原のコメント〉 ― 核廃絶への大道を進む時
北朝鮮の核兵器の開発は日本にとって脅威という認識はメディアの間にかなり広がっている。これは核保有国・米国に基地を提供しながら、その日本自身の真の姿を見ようとしないことに気づかないまま、あるいは気づかない風を装って、相手を非難する一つの具体例である。この種の一方的な見方を是正するためには何が必要か。
「何十年も核の脅威と向き合ってきた北朝鮮が、機会があれば『抑止力』を開発しようと考えたのは驚くことではない」という著作『日米同盟の正体』の認識をまずは理解することである。もちろん北朝鮮が核兵器を保有することは容認できないのだから、そのためにも米露英仏中国の核兵器保有5大国が核廃絶へ向けて大きく舵を切り替えるという大道を進む以外に妙手はない。
▽「日米同盟=日米安保体制」の変革を目指して
著作『日米同盟の正体』は「日米同盟:未来のための変革と再編」という文書についてつぎのように指摘している。「日本ではさほど注目されてこなかったが、これは日米安保条約に取って代わったものと言っていい」と。この表現では日米安保条約そのものが死文化したような印象もあるが、これにはいささか疑問なしとしない。結論から言えば、日米安保体制の質的変化が進んだのであり、安保条約そのものが死文化したのではない。安保条約は厳然として健在であり、日本の政治・経済・社会を支配している。
質的変化を遂げた日米安保体制そのものが平和と暮らしを壊す元凶となっており、諸悪の根源は日米安保体制にあるといっても過言ではない。だからこそ日米安保体制を丸ごと変革、つまり破棄しなければ、毎日新聞社説が指摘する「新しい形の国」を作ることは、およそ夢物語でしかないだろう。
といっても当面、日本政府の通告による安保破棄(注)のための政治的、社会的条件が熟しているわけではない。民主党が総選挙で勝利し、新政権の座についたとしても、この条件は変わらない。客観的な矛盾は噴出しているが、主体的な変革条件は未熟であり、途上半ばというほかない。しかし中長期の展望を見失うところに「新しい国の形」を作ることは困難である。
(注)日米安保条約(1960年調印)10条(条約の終了)は、「締約国は、他方に対し、条約を終了させる意思を通告することができ、その場合、この条約は通告後1年で終了する」と定めている。つまり一方的破棄が可能な規定である。
▽日米安保は平和(憲法9条)と暮らし(同25条)を壊す元凶
さて日米安保体制は平和と暮らしを壊す元凶であり、諸悪の根源ともいえる。なぜそういえるのか。
まず日本列島上を覆っている数え切れないほどの偽計、偽装、隠蔽、ごまかしの根因は憲法理念と日米安保体制とが矛盾しているところにある。周知のように憲法9条は理念として「戦争放棄、非武装、交戦権の否認」を明記している。一方、安保条約3条は、「自衛力の維持発展」をうたっている。日本の歴代保守政権は、この3条を忠実に実行し、今では自衛力という名の世界有数の軍事力を保有し、憲法9条の理念を骨抜きにしている。日本の最高法規、憲法に政府自らがごまかしを埋め込んでいる国柄である以上、日本列島上に偽装、ごまかしが溢れるのは避けがたい。
つぎに日米安保条約は「日米軍事同盟」と「日米経済同盟」という2つの同盟の法的根拠となっている点を指摘したい。
前者の軍事同盟は安保条約3条(自衛力の維持発展)、5条(日米共同防衛)、6条(在日米軍基地の許与)などによって成立している。特に巨大な在日米軍基地網は、米国の世界戦略上の前方展開基地として必要不可欠の機能を果たしている。かつてのベトナム侵略もそうだったし、昨今のイラク、アフガニスタンへの米軍事力の展開も在日米軍基地網の存在なしには不可能であるだろう。
「安保の変質」によって「極東の安保」から「世界の安保」へと自衛隊自体の行動範囲が地球規模に広がりつつある。最近のその具体例が東アフリカのソマリヤ沖海上での海賊対策という名の海外派兵である。状況によって武器使用も容認されており、従来の人道支援という名の海外派遣とは質的に異なってきている点は見逃せない。
しかし軍事力の行使によって平和(=多様な非暴力)をつくる時代では、もはやない。軍事力によるテロとの戦いに失敗していることから見ても、軍事力行使は平和を壊す結果しかもたらさない。
後者の経済同盟は安保条約2条(経済的協力の促進)によって規定されている。2条では「自由な諸制度を強化する」「両国の国際経済政策における食い違いを除く」などをうたっている。これを背景に日米安保体制は米国主導の新自由主義(=市場原理主義)を強要し、憲法25条(生存権、国の生存権保障義務)の理念を蔑(ないがし)ろにする装置として機能してきた。
周知のように憲法25条は「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とうたっているが、現実には新自由主義路線によって失業、貧困、格差の拡大、病気の増大、医療の質量の低下、社会保障費の削減、税金・保険料負担の増大などがもたらされ、生活の根幹が脅かされている。その上、いのちがあまりにも粗末に扱われている。
その打開策は、まず破綻した新自由主義路線と決別することである。新自由主義は破綻はしたが、死滅したわけではない。再生の機会をうかがっていることを見逃してはならない。
以上のように日米安保体制を背景に憲法9条と25条の空洞化が進んできたわけで、平和と国民の暮らしを守り、生かしていくためには日米安保の解体をこそ視野に入れる必要がある。従来型の自民・公明党政権では新しい時代の要請に応えられない。一方、民主党政権が誕生しても、政策面で自民党に接近するようでは期待できない。目先の景気対策を中心に政権選択を競い合うときではない。
〈ご参考:日米安保、日米同盟に関する主な記事一覧。かっこ内は掲載日〉
・「日米同盟強化」がめざすもの 日米安保体制50周年を前に(09年2月27日)
・目が離せない米国軍産複合体 オバマ的「変革」を阻むもの(同年1月23日)
・日米安保体制解体を提言する 安保後の日本をどう築くか(08年9月20日)
・憲法9条を「世界の宝」に 脱・日米安保体制へ質的転換を(同年7月23日)
・「ごまかし」満載の日本列島 根因は憲法と日米安保との矛盾(07年10月28日)
・日米同盟の見直しが必要な時 安倍政権破綻後の日本の針路(同年9月13日)
・日米安保体制の軌跡を追う 平和憲法9条を守る視点から(同年6月22日)
・日米安保体制は時代遅れだ アメリカからの内部告発(同年5月18日)
・日米首脳会談とミサイル防衛協力 「新世紀の日米同盟」の危険な選択(06年7月3日)
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安原和雄
8.30総選挙の争点をどこに見据えるべきか。目先の景気対策を含め、個別の政策を羅列すれば、多様であり、それこそ貨車一杯に積み込むほどあふれるだろう。だが、大局的に観察すれば、来年(2010年)、発足以来半世紀を迎える日米安保体制の是非こそが最大の争点であるべきだと考える。軍事・経済同盟としての日米安保体制が半世紀も続くこと自体がすでに異常であるだけではない。
軍事同盟としての日米安保は、今や「世界の安保」に変質し、軍事力中心主義を克服できない米国との共通戦略に踏み込み、憲法9条(軍備及び交戦権の否認)の空洞化をさらに進めつつある。一方、経済同盟としての日米安保は、米国主導の新自由主義路線によっていのちの軽視、貧困・格差の拡大などをもたらし、憲法25条(生存権)の理念を骨抜きにした。9条(平和)と25条(暮らし)の本来の理念をどうよみがえらせるかを問いただす総選挙にしたい。(09年7月23日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽大手紙社説は外交・安保・日米同盟をどう論じたか
まず大手4紙の社説(7月22日付)は総選挙に絡めて外交・日米安保・「日米同盟」についてどう論じたか。社説の見出しと主張の骨子を以下に紹介し、私(安原)のコメントをつける。
*毎日新聞=政権交代が最大の焦点だ ごまかさない公約を
自民、公明両党はこれまでの実績を強調するだろう。(中略)共産党や社民党、国民新党、新党日本、今後できるかもしれない新党も含め、大切なのはこの国をどんな形にするのかだ。未来に向けたビジョンを示してもらいたい。有権者の目は一段と厳しくなっている。何よりごまかさず、正々堂々と政策論争を戦わせることだ。それがむしろ支持を集める時代なのだ。
〈コメント〉
「大切なのはこの国をどんな形にするのかだ」という指摘はその通りである。しかし当の毎日新聞として「どんな形の国」を期待するのかにはほとんど触れない。なぜなのか。
*朝日新聞=大転換期を託す政権選択
日本が寄り添ってきた米国の一極支配はもうない。(中略)日米同盟が重要というのは結構だが、それでは世界の経済秩序、アジアの平和と繁栄、地球規模の低炭素社会化に日本はどう取り組んでいくのか、日本自身の構想と意思を示してほしい。それが多国間外交を掲げる米オバマ政権の期待でもあろう。
現実的な国益判断に立って、国際協調の外交を進めるのは、そもそも日本の有権者が望むところだ。
〈コメント〉
「日本が寄り添ってきた米国の一極支配はもうない」は国際情勢の現実認識としては正しい。しかしつぎの「日米同盟が重要というのは結構」という指摘は軽視できない。ここには日米同盟を無批判に肯定する姿勢がうかがえる。あの大東亜戦争の直前に日独伊3国軍事同盟を結んだことを当時のメディアははやし立て、戦争への道を煽った。その結末が日本人犠牲者310万人を数え、敗戦となった。その失敗に学ぶときではないか。
*読売新聞=政策本位で政権選択を問え
民主党は、インド洋での海上自衛隊による給油活動など国際平和協力活動に反対姿勢を示してきた。ただ、最近になって、鳩山代表は、給油活動を当面、継続する考えを表明した。政権交代を視野に入れ、外交の継続性から現実的方向に政策転換するのは当然のことだ。だが、社民党の福島党首は反発した。基本政策で隔たりがある社民党との連立政権は、極めて難しい運営を迫られるだろう。
〈コメント〉
民主党の鳩山代表が海上自衛隊による給油活動に賛成の態度に転じたことを「現実的方向」として評価している。いかにも自民党寄りの読売新聞らしい評価だが、ここで疑問が生じる。わざわざ社説の見出しにしている「政策本位で政権選択を問え」はいささか無理難題とはいえないか。同じ政策についてその是非をどのように選択できるのか。本音は自民党と同じ政策なら、民主党も悪くない、という判断なのだろう。
*日本経済新聞=政権選択選挙の名に恥じぬ政策論争を
民主党政権が実現した場合の大きな不安要素は、外交・安全保障政策だ。インド洋上での海上自衛隊の給油活動については、小沢一郎前代表当時に「憲法違反」と断じて反対した経緯がある。日米関係などに禍根を残す判断だった。
鳩山由紀夫代表は政権獲得後も即時撤退はしない考えを表明した。現実的な外交路線に修正する試みかどうかを注視したいが、社民党は反発し、波紋が広がっている。
〈コメント〉
読売の論調と大同小異である。給油反対は「日米関係などに禍根を残す判断」という認識は「日米同盟」を絶対視する姿勢である。読売同様に社説の見出しで「政策論争のすすめ」を説きながら、その実、論争を歓迎しないという矛盾がある。本音は「自民・公明政権の継続を」ではないか。
さて今日の外交・日米安保・「日米同盟」のあり方を考える上で示唆に富む孫崎 享(注)著『日米同盟の正体 迷走する安全保障』(講談社現代新書、09年3月刊)の趣旨を以下に紹介する。それを手がかりにして、変質する日米安保の実像とその意味するところを追跡したい。
(注)孫崎氏は1943年旧満州国生まれ。外務省入省後、米国ハーバード大学国際問題研究所研究員、外務省国際情報局長、駐イラン大使などを歴任。国際情報局長時代に各国情報機関と積極的に交流。2002年より防衛大学校教授、09年3月退官。著書に『日本外交 現場からの証言』(中公新書)など。異色の「安全保障官僚」と呼ぶにふさわしい存在である。
▽変質する日米安保(1) ― 「世界」の安保、国連の軽視へ
2005年10月日本の外相、防衛庁長官と米国の国務長官、国防長官は、「日米同盟:未来のための変革と再編」という文書に署名した。この「日米同盟」と1960年調印の現行「日米安保条約」とはどう異なっているのか。
*「日米同盟」で「極東」から「世界」の安保へ
日米安保条約は第6条の極東条項によって、あくまで活動の範囲は極東である。他方「日米同盟」では「地域及び世界における共通の戦略目標を達成するため」とされている。舞台を極東から世界に移した。全く新しい動きである。
*国連の役割を軽視
日米安保条約は前文で「国連憲章の目的及び原則にたいする信念・・・を再確認」と述べ、第1条で「国連の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎む」「国連を強化することに努力する」などと国連の役割を重視している。
しかし「日米同盟」には国連の目的、原則への言及はない。これは偶然ではない。国連憲章第1条「目的」に「国際的紛争・・・は解決を平和的手段によって、且つ正義及び国際法の原則に従って実現する」「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく」という2点が含まれている。
さらに第2条「原則」で、「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない」としている。
こうした原則、行動指針は、冷戦終結以降の米国戦略の流れと異なる。人民の同権及び自決の原則は、今日の米国戦略の考えにはない。民主化、市場化を目指す国と目指さない国とは、同等ではない。テロを保護する国は敵である。国際政治の構図は敵と味方に峻別されている。
何をなすべきかは米国が決める。国連が決めるのではない。この流れは国際協調を主張するオバマ政権でも変わらない。
*「国際的な安全保障環境の改善」と先制攻撃
「日米同盟」では、目的を「地域及び世界における共通の戦略目標を達成するため、国際的な安全保障環境を改善する上での二国間協力は、同盟の重要な要素となった。この目的のため、日本及び米国は、それぞれの能力に基づいて適切な貢献を行う」としている。「国際的な安全保障環境を改善する」という文言は、誰にでも受け容れられる雰囲気を持った表現である。しかし具体的な政策に置き換えると、深刻な意味合いを持つ。具体例は以下のようである。
・米国は冷戦後のイラン・イラク・北朝鮮等での核兵器など大量破壊兵器の拡散を防ぐため、この諸国に対する軍事力使用の計画を考えてきたこと。
・アフガニスタンにおけるタリバンのようなテロリストをかくまう政権を排除すること。
軍事力の使用は敵が軍事行動を行ったときに限らない。当然先制攻撃も選択肢としてある。オバマ大統領は変革というスローガンで、この流れを変えられるか。その際には叡智と既存勢力と戦う意思と力が必要になる。残念ながら、その動きはまだ見えない。
〈安原のコメント〉― 軍産複合体とどこまで戦うのか
オバマ米大統領はチェンジ(変革)を国民に訴えて多数の支持を得た。果たしてそのチェンジをどこまで期待できるのか。ここで重要なのは『日米同盟の正体』が指摘する次の2点である。
・何をなすべきかは米国が決める。国連が決めるのではない。この流れは国際協調を主張するオバマ政権でも変わらない。
・軍事力の使用は敵が軍事行動を行ったときに限らない。当然先制攻撃も選択肢としてある。オバマ大統領は変革というスローガンで、この流れを変えられるか。その際には叡智と既存勢力と戦う意思と力が必要になる。残念ながら、その動きはまだ見えない。
この指摘からも分かるように著作『日米同盟の正体』は、オバマ大統領の変革にはむしろ悲観的な診断を下している。
しかも真の変革のためには「叡智と既存勢力と戦う意思と力が必要」と指摘している。その意味するところは、今や戦争なしには生存できないあの軍産複合体(軍部、兵器メーカー、後方支援を担う民営企業などの複合体)という巨大な戦争マシーン勢力とどこまで戦う意思と力があるのかという問いかけであろう。私はオバマ大統領がイラクから米軍を撤退させ、その一方でアフガニスタンへ増派するのは、軍産複合体との妥協の産物と推察する。
▽変質する日米安保(2) ― 「日米同盟」への日本の対応
「日米同盟」に日本はどういう姿勢で対応しているのか。『日米同盟の正体』から紹介したい。その主な内容は以下の通り。
・日米同盟の戦略とは米国が提唱し、それに日本側が同意する以外にない。
・日本は、さしたる考察をすることなく、米国戦略イコール日米共通の戦略とすること、今日本はこの方向に動いている。
・いま自衛隊では、作戦、運用、訓練、教育などほぼすべての分野で日米一体化に向けて動き出している。なぜなのか。安全保障面で日米の価値観が接近したからか。そうではない。冷戦終結以降、米国は圧倒的な軍事力優勢の下、自分達の価値観を受け容れる者と、これに抵抗する者とを峻別し、両者に対する対応も変えた。これに対し、欧州は異なる価値観を持った。力を超えて、法律と規則、国際交渉と国際協力の世界を重視している。日本国民の価値観もヨーロッパ的であった。
日米一体化を進める理由が共通の価値観でないとすれば、何か。大野伴睦自民党元副総裁が述べた価値判断「政治は得か損かだ。理屈は貨車一杯であとからやってくる」ではないか。理屈が政策を決めるのではない。得か損かが政策を決める。力の強い者につくのが得、これが日本の政策決定の価値基準になっている。
・日本側からみると、米国が進める国際戦略が素晴らしいと確信して踏み切った結果ではない。損得を計算し、得だと判断したからである。この判断が問われるのは、日本が派遣した自衛隊員に死者が出たときであろう。
日本が自衛隊派遣の決断を迫られるアフガニスタンでは、西側各国軍の死者数は09年1月時点で米国574名、英国141名、カナダ107名、ドイツ30名、スペイン25名、フランス25名となっている。
・現在の日米関係の危うさは、損か得かで決めていることにある。(中略)日米安保関係は一気に崩れる危険性がある。
・日米共通の戦略には無理がある。米国は軍事力で国際的環境を変えることを志向しているが、この考えは伝統的な西側理念に反している。かつオバマ大統領が最も重視するアフガニスタンでのテロとの戦いは、誰がアフガニスタンを統治するかという土着性の強い問題であり、この政策は成功しない。
〈安原のコメント〉― 力の強い者につく選択は地獄への道
安全保障の分野に大野伴睦自民党元副総裁(故人)が登場してくるのには、アッと驚いた。それもあの有名な「政治は得か損かだ。理屈は貨車一杯であとからやってくる」という日本的セリフとともにである。しかも「力の強い者につくのが得、これが日本の政策決定の価値基準になっている」とすれば、先行き何が待ち受けているのか。
「力の強さ」には決して永続性はない。やがて必ず崩壊するときが来る。その場がアフガニスタンでのテロとの戦いであろう。著作『日米同盟の正体』はアフガニスタンでのテロとの戦いは「成功しない」と言いきっている。これではベトナムへ侵略して敗走した米軍の二の舞である。地獄の底知れぬ苦しみが広がって、その時やっと「日米同盟の正体」に気づくようでは遅すぎる。
▽変質する日米安保(3) ― 核兵器と北朝鮮と日本と
ここでは北朝鮮と日本の核兵器保有について考える。『日米同盟の正体』の主張は以下のようである。
*北朝鮮の核兵器開発について
われわれにとって北朝鮮の核兵器開発がどうなるかが、極めて重大な関心事である。われわれは通常西側の観点で考える。では北朝鮮側からはどう見えるだろうか。
「米国にとり、北朝鮮の核は過去10年ほど主要な問題であったが、北朝鮮にとっては米国の核の脅威は過去50年絶えず続いてきた問題であった。核時代にあって北朝鮮の独特な点は、どんな国よりも長く核の脅威に常に向き合い、その影に生きてきたことである。朝鮮戦争では核による殲滅(せんめつ)から紙一重で免れた。米軍はその後核弾頭や地雷、ミサイルを韓国の米軍基地に持ち込んだ。1991年核兵器が韓国から撤収されても、米軍は北朝鮮を標的とするミサイル演習を続けた。北朝鮮では核の脅威がなくならなかった。何十年も核の脅威と向き合ってきた北朝鮮が、機会があれば『抑止力』を開発しようと考えたのは驚くことではない」(ガバン・マコーマックの『北朝鮮をどう考えるか』平凡社・2004年=参照)。
北朝鮮がこの恐怖心を持っている際には、西側はどう対応すべきか。ヘンリー・キッシンジャー(元米国務長官)は、「核兵器を有する国は、それを用いずして無条件降伏を受け容れることはないであろう。一方でその生存が直接脅かされていると信じるとき以外は、核戦争の危険を冒す国もない」と判断した。同時に「無条件降伏を求めないことを明らかにし、どんな紛争も国家の生存の問題を含まない枠を作ることが米国外交の仕事である」と指摘している。これが北朝鮮の核兵器開発に対する西側の基本理念となるべきではないか。
*日本の核兵器保有の選択は正しくないし、米国の核の傘も万全ではない
孫崎氏は日本の核兵器保有に否定的であり、さらに米国の核の傘も機能しないとしている。その理由は以下の通り。
核を保有することは核戦争を覚悟せざるを得ない。
日本への核攻撃は東京など政治・経済の中心部への攻撃が主となる。日本はわずかな都市に政治・経済の集中が進み、核攻撃に極めて脆弱である。その一方で日本は、例えばロシア、中国の広大な地域に壊滅的な打撃を与えられない。日本が核保有の選択を模索する場合の最大の弱点である。
米国の核の傘も万全ではない。核戦略のなかで、核の傘は実は極めて危うい存在である。米国が核の傘を提供することによって、米国の都市が攻撃を受ける可能性がある場合、米国の核の傘は、ほぼ機能しない。
〈安原のコメント〉 ― 核廃絶への大道を進む時
北朝鮮の核兵器の開発は日本にとって脅威という認識はメディアの間にかなり広がっている。これは核保有国・米国に基地を提供しながら、その日本自身の真の姿を見ようとしないことに気づかないまま、あるいは気づかない風を装って、相手を非難する一つの具体例である。この種の一方的な見方を是正するためには何が必要か。
「何十年も核の脅威と向き合ってきた北朝鮮が、機会があれば『抑止力』を開発しようと考えたのは驚くことではない」という著作『日米同盟の正体』の認識をまずは理解することである。もちろん北朝鮮が核兵器を保有することは容認できないのだから、そのためにも米露英仏中国の核兵器保有5大国が核廃絶へ向けて大きく舵を切り替えるという大道を進む以外に妙手はない。
▽「日米同盟=日米安保体制」の変革を目指して
著作『日米同盟の正体』は「日米同盟:未来のための変革と再編」という文書についてつぎのように指摘している。「日本ではさほど注目されてこなかったが、これは日米安保条約に取って代わったものと言っていい」と。この表現では日米安保条約そのものが死文化したような印象もあるが、これにはいささか疑問なしとしない。結論から言えば、日米安保体制の質的変化が進んだのであり、安保条約そのものが死文化したのではない。安保条約は厳然として健在であり、日本の政治・経済・社会を支配している。
質的変化を遂げた日米安保体制そのものが平和と暮らしを壊す元凶となっており、諸悪の根源は日米安保体制にあるといっても過言ではない。だからこそ日米安保体制を丸ごと変革、つまり破棄しなければ、毎日新聞社説が指摘する「新しい形の国」を作ることは、およそ夢物語でしかないだろう。
といっても当面、日本政府の通告による安保破棄(注)のための政治的、社会的条件が熟しているわけではない。民主党が総選挙で勝利し、新政権の座についたとしても、この条件は変わらない。客観的な矛盾は噴出しているが、主体的な変革条件は未熟であり、途上半ばというほかない。しかし中長期の展望を見失うところに「新しい国の形」を作ることは困難である。
(注)日米安保条約(1960年調印)10条(条約の終了)は、「締約国は、他方に対し、条約を終了させる意思を通告することができ、その場合、この条約は通告後1年で終了する」と定めている。つまり一方的破棄が可能な規定である。
▽日米安保は平和(憲法9条)と暮らし(同25条)を壊す元凶
さて日米安保体制は平和と暮らしを壊す元凶であり、諸悪の根源ともいえる。なぜそういえるのか。
まず日本列島上を覆っている数え切れないほどの偽計、偽装、隠蔽、ごまかしの根因は憲法理念と日米安保体制とが矛盾しているところにある。周知のように憲法9条は理念として「戦争放棄、非武装、交戦権の否認」を明記している。一方、安保条約3条は、「自衛力の維持発展」をうたっている。日本の歴代保守政権は、この3条を忠実に実行し、今では自衛力という名の世界有数の軍事力を保有し、憲法9条の理念を骨抜きにしている。日本の最高法規、憲法に政府自らがごまかしを埋め込んでいる国柄である以上、日本列島上に偽装、ごまかしが溢れるのは避けがたい。
つぎに日米安保条約は「日米軍事同盟」と「日米経済同盟」という2つの同盟の法的根拠となっている点を指摘したい。
前者の軍事同盟は安保条約3条(自衛力の維持発展)、5条(日米共同防衛)、6条(在日米軍基地の許与)などによって成立している。特に巨大な在日米軍基地網は、米国の世界戦略上の前方展開基地として必要不可欠の機能を果たしている。かつてのベトナム侵略もそうだったし、昨今のイラク、アフガニスタンへの米軍事力の展開も在日米軍基地網の存在なしには不可能であるだろう。
「安保の変質」によって「極東の安保」から「世界の安保」へと自衛隊自体の行動範囲が地球規模に広がりつつある。最近のその具体例が東アフリカのソマリヤ沖海上での海賊対策という名の海外派兵である。状況によって武器使用も容認されており、従来の人道支援という名の海外派遣とは質的に異なってきている点は見逃せない。
しかし軍事力の行使によって平和(=多様な非暴力)をつくる時代では、もはやない。軍事力によるテロとの戦いに失敗していることから見ても、軍事力行使は平和を壊す結果しかもたらさない。
後者の経済同盟は安保条約2条(経済的協力の促進)によって規定されている。2条では「自由な諸制度を強化する」「両国の国際経済政策における食い違いを除く」などをうたっている。これを背景に日米安保体制は米国主導の新自由主義(=市場原理主義)を強要し、憲法25条(生存権、国の生存権保障義務)の理念を蔑(ないがし)ろにする装置として機能してきた。
周知のように憲法25条は「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とうたっているが、現実には新自由主義路線によって失業、貧困、格差の拡大、病気の増大、医療の質量の低下、社会保障費の削減、税金・保険料負担の増大などがもたらされ、生活の根幹が脅かされている。その上、いのちがあまりにも粗末に扱われている。
その打開策は、まず破綻した新自由主義路線と決別することである。新自由主義は破綻はしたが、死滅したわけではない。再生の機会をうかがっていることを見逃してはならない。
以上のように日米安保体制を背景に憲法9条と25条の空洞化が進んできたわけで、平和と国民の暮らしを守り、生かしていくためには日米安保の解体をこそ視野に入れる必要がある。従来型の自民・公明党政権では新しい時代の要請に応えられない。一方、民主党政権が誕生しても、政策面で自民党に接近するようでは期待できない。目先の景気対策を中心に政権選択を競い合うときではない。
〈ご参考:日米安保、日米同盟に関する主な記事一覧。かっこ内は掲載日〉
・「日米同盟強化」がめざすもの 日米安保体制50周年を前に(09年2月27日)
・目が離せない米国軍産複合体 オバマ的「変革」を阻むもの(同年1月23日)
・日米安保体制解体を提言する 安保後の日本をどう築くか(08年9月20日)
・憲法9条を「世界の宝」に 脱・日米安保体制へ質的転換を(同年7月23日)
・「ごまかし」満載の日本列島 根因は憲法と日米安保との矛盾(07年10月28日)
・日米同盟の見直しが必要な時 安倍政権破綻後の日本の針路(同年9月13日)
・日米安保体制の軌跡を追う 平和憲法9条を守る視点から(同年6月22日)
・日米安保体制は時代遅れだ アメリカからの内部告発(同年5月18日)
・日米首脳会談とミサイル防衛協力 「新世紀の日米同盟」の危険な選択(06年7月3日)
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
〈折々のつぶやき〉51
安原和雄
想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること ― などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は51回目。題して「囲碁本因坊戦を観て想うこと」です。(09年7月17日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)
▽当たるも八卦、当たらぬも八卦
毎日新聞(09年7月17日付)朝刊につぎのような見出しの大きな活字が踊っている。
羽根本因坊 初防衛
4勝2敗 高尾九段を降す
つぎのような記事が続いている。
第64期本因坊決定戦七番勝負の第6局は16日午後8時、276手で羽根直樹本因坊(32)が挑戦者の高尾紳路九段(32)に先番5目半勝ちし、4勝2敗で防衛した ― と。
要するに本因坊が勝って、本因坊の地位を守り、一方、挑戦者が敗れたというニュースである。囲碁ファンにとっては大きなニュースである。
実は私(安原)は前日の新聞(16日付)が伝える中盤戦の模様をみて、この第6局は、挑戦者の高尾九段が勝つのではないかと予測した。実は第5局の中盤戦の状況を見て、私は挑戦者が勝つ碁勢と予測し、結果はその通りになった。しかし第6局は予測が外れ、内心「あれっ、おかしいな」と思った。プロにしても勝敗の行方を正確に予測することはむずかしい。まして私のようなアマの棋力では、当たるも八卦(はっけ)、当たらぬも八卦であり、口惜しがるような話ではない。
ただ一言つけ加えておくと、毎日新聞(7月17日付)の局後の総括的な観戦記によると、「高尾の受けは巧妙を極め、一時は控室で〈白有望〉という声も上がった」とある。〈白有望〉とは、白石を持つ高尾九段が勝つ可能性も、という意味である。その高尾九段も局後に「少しいいかと思ったあと、どこかで悪くしてしまいました」と反省の弁を述べている。つまり高尾九段自身も一時「勝てるかも・・・」と思ったという意味だろう。そうだとすると、私の中盤戦を材料にした予測も見当はずれではなかったことになる。
▽羽根本因坊はどういう人柄なのか ― 恐るべき平常心
予測の当否はさておき、初防衛に成功した羽根本因坊はどういう人柄なのか。金沢盛栄・観戦記者は「ひと」欄(毎日新聞7月17日付)でつぎのように描いている。
・ニックネームは「忍の貴公子」。勝っても表情を崩さず、負けても腐らない。
・ある先輩棋士は「院生(プロの卵)の合宿で、小2の羽根直樹君が中3の上級生とけんかをしている場面に出くわした。小さな身体で何度も何度も突進し、決して音を上げない。穏やかな外見からはうかがえない強さを感じた」と語る。
・その内面の剛直さが真骨頂だ。どんな大一番であっても、慌てず、騒がず、いつも通り。恐るべき平常心だ。
日曜日放映のNHK教育テレビの囲碁番組で彼の対局姿勢は何度も観たが、上記のコメントの「慌てず、騒がず、いつも通り。恐るべき平常心」は決して誇張した表現とは言えない。この「平常心」は生涯の理想、目標を持つ人物の生き方には必要条件であるが、32歳の若輩にしては出来すぎている印象さえある。もっとも32歳という年齢は、昔の武士なら決して若輩ではない。幕末の志士、坂本龍馬も、たしか32歳で命を絶たれ、歴史に名を残した。
さて毎日新聞の金沢盛栄・観戦記者に触れておきたい。かれは学生本因坊を4回連続奪取しており、その分野では名物男である。毎年東京・千代田区の日本棋院会館(市ヶ谷)でマスコミ関係の囲碁対抗試合がある。私(安原)も現役記者の頃、参加し、最上級のチームのキャプテンとして出場した彼の碁を脇で観戦する機会があった。プロ並みの打ち回しに「これが学生本因坊の実力か」と舌を巻いた記憶があるが、それはそれとして、あの光景は今でも忘れがたい。
70手くらい打ち進んだころだっただろうか、相手が「負けました」といって投了したのである。少し早すぎるのではないかと思ったが、その時負けた相手が言った台詞(せりふ)が忘れられない。
こう言った。「あなたくらいに強くなると、負けるわけにはいかないから、つらいでしょう」と。もちろん相手が学生本因坊・金沢であることを承知した上での物言いである。言い方もいろいろだなあー、と思ったが、これは負け惜しみというものではないか。当の金沢氏も苦笑するほかなかった。
▽経済学者、財界人と碁を打って
さて囲碁にまつわる話題2つをここに再録(06年4月16日、ブログ「安原和雄の仏教経済塾」掲載の「囲碁にみる人それぞれ・〈折々のつぶやき〉14」から)しておきたい。
〈その一〉経済学者・都留重人氏
私の尊敬する数少ない経済学者のひとり、都留重人・元一橋大学長(06年2月、93歳で逝去)と日本記者クラブの囲碁月例会で一戦交えたことがある。朝日新聞論説顧問であったこともあり、日本記者クラブのメンバーだったのだろう、月例会にはしばしば顔をみせられた。
私との対戦では、50手くらい打って中盤に入ったばかりの局面で、「安原君、もう負けた、負けた」と勝負を投げられた。「まだまだ、これからでしょう」と応じたが、「いや、もういい」という潔さに驚いたことがある。
先生の最後の著作、『市場には心がない ― 成長なくて改革をこそ』(06年2月、岩波書店刊)も含めた多数の名著に共通している深い学識と透徹した洞察力さらに反国家権力的着想、その一方で持続力の不足ともいえる、この潔さとはどう並存しているのか。たどり着くだろう先行きがみえすぎるのだろうか。いまもなおひとつの謎のままである。
〈その二〉財界首脳・永野重雄氏
かつて経済記者として財界担当だった頃、今は亡き永野重雄・日本商工会議所会頭(新日本製鐵名誉会長)とお手合わせを願ったことがある。私が「2段程度です。何子置いたらいいですか」と聞いたら、即座に「4子でどう」といわれた。「そんなに強いの」と内心思ったが、打ち進むにつれ、その強さがわかってきた。早打ちで、それでいてつぼを外さず、当方の大敗に終わった。
永野さんは財界の重鎮として政界首脳とも緊密な関係にあり、しかも世界を股にかけた機敏な行動力と大局観で知られていた。「なるほど碁の世界と重なっているな」と感じ入った記憶がある。
囲碁は単に勝ち負けを競うだけの場ではない。人間同士が触れ合いながら、それぞれ人間探求を模索する機会でもある。いいかえれば、それぞれの人生観、生き方までが表現される場でもある―と私は考えている。参考までにいえば、私の棋力は現在アマ5段程度にすぎない。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
想うこと、感じたこと、ささやかに実践していること ― などを気の向くままに〈折々のつぶやき〉として記していきます。今回の〈つぶやき〉は51回目。題して「囲碁本因坊戦を観て想うこと」です。(09年7月17日掲載、公共空間「ちきゅう座」に転載)
▽当たるも八卦、当たらぬも八卦
毎日新聞(09年7月17日付)朝刊につぎのような見出しの大きな活字が踊っている。
羽根本因坊 初防衛
4勝2敗 高尾九段を降す
つぎのような記事が続いている。
第64期本因坊決定戦七番勝負の第6局は16日午後8時、276手で羽根直樹本因坊(32)が挑戦者の高尾紳路九段(32)に先番5目半勝ちし、4勝2敗で防衛した ― と。
要するに本因坊が勝って、本因坊の地位を守り、一方、挑戦者が敗れたというニュースである。囲碁ファンにとっては大きなニュースである。
実は私(安原)は前日の新聞(16日付)が伝える中盤戦の模様をみて、この第6局は、挑戦者の高尾九段が勝つのではないかと予測した。実は第5局の中盤戦の状況を見て、私は挑戦者が勝つ碁勢と予測し、結果はその通りになった。しかし第6局は予測が外れ、内心「あれっ、おかしいな」と思った。プロにしても勝敗の行方を正確に予測することはむずかしい。まして私のようなアマの棋力では、当たるも八卦(はっけ)、当たらぬも八卦であり、口惜しがるような話ではない。
ただ一言つけ加えておくと、毎日新聞(7月17日付)の局後の総括的な観戦記によると、「高尾の受けは巧妙を極め、一時は控室で〈白有望〉という声も上がった」とある。〈白有望〉とは、白石を持つ高尾九段が勝つ可能性も、という意味である。その高尾九段も局後に「少しいいかと思ったあと、どこかで悪くしてしまいました」と反省の弁を述べている。つまり高尾九段自身も一時「勝てるかも・・・」と思ったという意味だろう。そうだとすると、私の中盤戦を材料にした予測も見当はずれではなかったことになる。
▽羽根本因坊はどういう人柄なのか ― 恐るべき平常心
予測の当否はさておき、初防衛に成功した羽根本因坊はどういう人柄なのか。金沢盛栄・観戦記者は「ひと」欄(毎日新聞7月17日付)でつぎのように描いている。
・ニックネームは「忍の貴公子」。勝っても表情を崩さず、負けても腐らない。
・ある先輩棋士は「院生(プロの卵)の合宿で、小2の羽根直樹君が中3の上級生とけんかをしている場面に出くわした。小さな身体で何度も何度も突進し、決して音を上げない。穏やかな外見からはうかがえない強さを感じた」と語る。
・その内面の剛直さが真骨頂だ。どんな大一番であっても、慌てず、騒がず、いつも通り。恐るべき平常心だ。
日曜日放映のNHK教育テレビの囲碁番組で彼の対局姿勢は何度も観たが、上記のコメントの「慌てず、騒がず、いつも通り。恐るべき平常心」は決して誇張した表現とは言えない。この「平常心」は生涯の理想、目標を持つ人物の生き方には必要条件であるが、32歳の若輩にしては出来すぎている印象さえある。もっとも32歳という年齢は、昔の武士なら決して若輩ではない。幕末の志士、坂本龍馬も、たしか32歳で命を絶たれ、歴史に名を残した。
さて毎日新聞の金沢盛栄・観戦記者に触れておきたい。かれは学生本因坊を4回連続奪取しており、その分野では名物男である。毎年東京・千代田区の日本棋院会館(市ヶ谷)でマスコミ関係の囲碁対抗試合がある。私(安原)も現役記者の頃、参加し、最上級のチームのキャプテンとして出場した彼の碁を脇で観戦する機会があった。プロ並みの打ち回しに「これが学生本因坊の実力か」と舌を巻いた記憶があるが、それはそれとして、あの光景は今でも忘れがたい。
70手くらい打ち進んだころだっただろうか、相手が「負けました」といって投了したのである。少し早すぎるのではないかと思ったが、その時負けた相手が言った台詞(せりふ)が忘れられない。
こう言った。「あなたくらいに強くなると、負けるわけにはいかないから、つらいでしょう」と。もちろん相手が学生本因坊・金沢であることを承知した上での物言いである。言い方もいろいろだなあー、と思ったが、これは負け惜しみというものではないか。当の金沢氏も苦笑するほかなかった。
▽経済学者、財界人と碁を打って
さて囲碁にまつわる話題2つをここに再録(06年4月16日、ブログ「安原和雄の仏教経済塾」掲載の「囲碁にみる人それぞれ・〈折々のつぶやき〉14」から)しておきたい。
〈その一〉経済学者・都留重人氏
私の尊敬する数少ない経済学者のひとり、都留重人・元一橋大学長(06年2月、93歳で逝去)と日本記者クラブの囲碁月例会で一戦交えたことがある。朝日新聞論説顧問であったこともあり、日本記者クラブのメンバーだったのだろう、月例会にはしばしば顔をみせられた。
私との対戦では、50手くらい打って中盤に入ったばかりの局面で、「安原君、もう負けた、負けた」と勝負を投げられた。「まだまだ、これからでしょう」と応じたが、「いや、もういい」という潔さに驚いたことがある。
先生の最後の著作、『市場には心がない ― 成長なくて改革をこそ』(06年2月、岩波書店刊)も含めた多数の名著に共通している深い学識と透徹した洞察力さらに反国家権力的着想、その一方で持続力の不足ともいえる、この潔さとはどう並存しているのか。たどり着くだろう先行きがみえすぎるのだろうか。いまもなおひとつの謎のままである。
〈その二〉財界首脳・永野重雄氏
かつて経済記者として財界担当だった頃、今は亡き永野重雄・日本商工会議所会頭(新日本製鐵名誉会長)とお手合わせを願ったことがある。私が「2段程度です。何子置いたらいいですか」と聞いたら、即座に「4子でどう」といわれた。「そんなに強いの」と内心思ったが、打ち進むにつれ、その強さがわかってきた。早打ちで、それでいてつぼを外さず、当方の大敗に終わった。
永野さんは財界の重鎮として政界首脳とも緊密な関係にあり、しかも世界を股にかけた機敏な行動力と大局観で知られていた。「なるほど碁の世界と重なっているな」と感じ入った記憶がある。
囲碁は単に勝ち負けを競うだけの場ではない。人間同士が触れ合いながら、それぞれ人間探求を模索する機会でもある。いいかえれば、それぞれの人生観、生き方までが表現される場でもある―と私は考えている。参考までにいえば、私の棋力は現在アマ5段程度にすぎない。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
温暖化防止、核廃絶、反グローバリズム
安原和雄
イタリアで開かれた09年サミット(主要国首脳会議)が残した課題は何か。世界の多極化とともにサミット自体も大きく変質した。なによりも従来の先進国G8が主導する時代は終わったことを印象づけた。肝心の地球温暖化防止の長期目標では参加国の足並みが揃わず、今年末のコペンハーゲン会議に持ち越された。一方、世界の核廃絶へ向けて大きな一歩を踏み出すことで一致した。楽観はできないが、将来に希望を抱かせる。サミットで採択された共同宣言には例年のようにグローバリズム推進の旗が高く掲げられているが、反グローバリズムの根強い動きにも注目しなければならない。多極化時代の到来は、大国による覇権主義、単独行動主義の終わりをも告げている。(09年7月14日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽新聞社説はラクイラ・サミットをどう論じたか
09年7月8日から10日までの3日間、イタリアのラクイラで開かれた地球サミットについて新聞社説はどう論じたか。まず5紙の主なサミット社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞社説
11日=ラクイラG8 世界の変化まざまざと
10日=G8核声明 廃絶へ、歴史動かそう
*毎日新聞社説
11日=温暖化対策 「2度以内」の道筋作ろう。サミット 無用論退ける「首脳力」を ― の2本社説
10日=G8サミット 核廃絶へ日米の連携を。G8サミット 麻生外交 成果少なく ― の2本社説
*読売新聞社説
11日=地球温暖化交渉 先進国と新興国との深い溝
10日=G8経済宣言 世界景気の回復は道半ば
*日本経済新聞社説
11日=温暖化交渉の外堀を埋めたサミット
10日=G8だけでは引っ張れない世界の現実
*東京新聞社説
10日=温暖化対策 2度上昇に抑えるには
9日=サミット 新興国への対応が鍵に
さて肝心の地球温暖化防止策についてはどこまで合意できたのか。その骨子は以下の通り。
(1)G8首脳宣言では「気温上昇を産業革命前に比べ2度以内に抑えるべきだ」と「温室効果ガス排出を先進国全体で2050年までに80%以上削減する」との長期目標で合意。
(2)しかし主要経済国フォーラム(MEF)では「2度以内に抑える」ことでは一致したが、長期目標では一致できなかった。この関連で世界全体の排出を「50年までに相当量削減」する世界全体の目標を設定するため、09年12月のコペンハーゲン会議(COP15=国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議)までに取り組む。
以上から主要経済国として具体的にどう削減していくか、その目標については12月のコペンハーゲン会議が注目される。
▽日米欧8カ国(G8)が主役の時代は過去のものとなった
各紙社説の論調から浮かび上がってくるサミットの特色は、従来世界のリーダー役を果たしてきた日米欧8カ国が主役として世界を引っ張っていく時代はもはや過去のものとなったという冷厳な現実である。
朝日新聞は「世界の変化まざまざと」(7月11日付)と題して次のように書いた。
米欧日が合意すれば世界がついてくる時代ではない。ラクイラ・サミットは、そんな多極化時代のG8の限界をまざまざと示した。(中略)
温暖化問題ではG8と平行して開いた主要経済国フォーラム(MEF)が注目された。「先進国が50年までに温暖化ガスを80%以上削減する」とのG8合意をもとに、中国やインドなどに「50年までに全世界で半減」への同意を求めた。だが、反発されて「相当量削減する」との表現にとどまり、この点でも今後に宿題を残した ― と。
日経新聞(7月10日付)もつぎのように指摘した。
G8が世界秩序を主導する旧来の構図が大きく変化している事実を今回のサミットはまざまざと見せつけた。
3日間の日程で本来のG8による話し合いは最初の半日にすぎない。あとは中国やインド、アフリカ諸国などを含めた拡大会合が目白押しですっかり主従関係が逆転した。
米欧はこの流れに対応し始めた。オバマ大統領は9月に米国で開く20カ国・地域(G20)の金融サミットを、温暖化などを含む、より幅広い協議に衣替えしたい意向という。
米は来年3月に30カ国程度を招き「世界核安全保障サミット」を開くと発表した。国際テロ組織への核兵器流出といった現実の脅威を念頭に置くと、中国やインド、パキスタンなどの協力も欠かせない。
ドイツのメルケル首相も「G8体制ではもはや不十分なことが明白になる」と、英国などと同様、G20重視の姿勢に転換した。日本はなお慎重だが、より多くの国々で話し合うという流れは止まらないだろう ― と。
ここでサミットの多様な枠組みの変化とその意味について説明したい。
従来主役であったG8は1975年に6カ国(日、米、英、ドイツ、フランス、イタリア)で始まり、その後、カナダ、ロシアを含めたG8に広がった。これに新興5カ国(中国、インド、ブラジル、メキシコ、南アフリカ)と韓国、豪州、インドネシアの3カ国を加えた主要経済国フォーラム(MEF)が新たに登場してきた。さらにアルゼンチン、トルコ、サウジアラビア、欧州連合(EU)を加えた拡大会合がG20である。
先進8カ国合計の経済規模(GDP)は1992年には世界のなかで7割もあったが、現在は、世界の6割に満たない。一方、G20は世界経済の9割近くを占める。これがG8の地位が低下し、拡大G20が重みを増してきた背景である。
私(安原)自身の経験でいえば、直接取材する立場にあったのは、1978年の第4回ボン(旧西独)・サミット(日本から福田赳夫首相が参加、首相専用機で同行取材)と翌79年の第5回東京サミット(大平正芳首相)で、当時はサミットが始まって間もない頃で、世界における先進諸国の存在感も大きかった。30年前の当時からみると、今日の拡大サミットは隔世の感がある。
もう一つ、日経社説が指摘している「ドイツのメルケル首相も、英国などと同様にG20重視の姿勢に転換した。日本はなお慎重だが・・・」の含意をどう読みとるかである。各紙とも一様にわが日本国の麻生太郎首相のサミットにおける存在感が希薄だったことを伝えているが、麻生政権は時代が急速にしかも大きく変化しつつあることを認識できないためではないのか。このままでは日本だけが時代に取り残されかねないだろう。
▽核廃絶を実現していくためには核抑止力論への批判を
今回のサミットでの新しい動きは、やはり核廃絶である。毎日新聞社説(7月10日付)は「核廃絶へ日米の連携を」と題してつぎのように指摘した。
G8首脳会議は、核のない世界への条件整備に努めることで一致した。6日に米露首脳が新たな核軍縮条約の枠組みに合意したことも含めて、世界に核廃絶の機運が高まっていることを歓迎したい。(中略)
G8を構成する核保有国の米露英仏が同じ目標(核廃絶)に向けて足並みをそろえた意義は大きい。G8に属さない中国も同調してほしい ― と。
朝日新聞社説(7月10日付)も「廃絶へ、歴史動かそう」というタイトルで、「G8の指導者たちが(核軍縮を進めるための)協調を確認した意義は大きい」と歓迎している。
「歓迎」の主張は大いに評価したいが、指摘しておきたいことがある。それはこれまで各紙社説は繰り返し核不拡散を説いてきたが、核廃絶を正面から論じることは少なかったという点である。ブッシュ前米大統領時代にはその可能性がなかったためでもあるが、核拡散を防ぐためにも、米、露、英、仏、中国という核保有大国の核廃絶こそが本筋であることに変わりはない。
オバマ米大統領が「アメリカには核兵器を使った唯一の国として行動する道義的責任がある」と述べた上で、「核兵器のない平和で安全な世界を求める」宣言(09年4月)を行って以来、流れは核廃絶へ大きく変化しつつある。その流れに乗ることは決して悪いことではない。
ただ、オバマ大統領自身が核廃絶について「自分が生きている間にやりきれるかどうか分からない」とも指摘していることを見逃してはならないだろう。だからこそ被爆国日本のジャーナリズムとしては核廃絶への流れを加速させるよう努力する責任がある。
日本政府は従来から広島・長崎の平和記念式典(毎年8月)での首相挨拶のなかで核廃絶を唱えてきたが、これは建前にすぎず、現実にはアメリカの「核の傘」を前提にする核抑止力論を信奉する立場に固執している。最近外務省元次官らが「米国の核搭載艦船の日本寄港を認める日米間の密約」が存在していることを公然と語るようになっているが、その意図は何か。
密約の存在からも分かるように日本の非核3原則(核兵器を持たず、つくらず、持ち込まさず)のうち「持ち込まさず」は事実上空文化して、すでに非核2原則に変質しているわけで、この変質を公然と認めようという意図が「密約存在」発言には見え隠れしている。核廃絶を実現する条件として、こうした核抑止力論の迷妄を批判し、そこから脱出する必要がある。なぜなら核抑止力論に執着する以上、核廃絶は空疎なお題目にすぎないからである。この点でも日本ジャーナリズムの責任は大きいといわねばならない。
▽グローバリズムよりもローカリズム重視を
社説ではないが、朝日新聞(09年7月9日付)に「G8こそ災い ローマでデモ」という見出しの小さな一段記事が載った。その趣旨はつぎの通り。
地震被災地ラクイラでの主要国首脳会議(G8サミット)を控えた7日夜、反グローバリズムを訴える活動家や学生約5000人(主催者発表)がローマ中心部でデモをした。十数人が逮捕・拘束され、治安警察隊が進路を阻むなか、デモ参加者は「G8こそ地震、災いだ」などと訴えた。
社説だけでは真実が十分にはつかめないことを示す一例で、この小さな記事を見逃すわけにはゆかない。なぜデモ隊がローマの中心部で「G8こそ、災いだ」などと叫ぶことになったのか。
グローバリズムすなわち世界規模の市場開放、自由貿易の推進をうたう文言を首脳宣言などからいくつか拾い出してみると ― 。
・開放的な市場が経済成長と開発にとり、重要なことを強調し、保護主義に対抗する決意を再確認した。(G8議長総括)
・開放的な市場を維持・促進するとの約束を再確認し、貿易と投資におけるすべての保護主義的措置を拒否する。(サミット拡大会合共同宣言)
・(世界貿易機関=WTO)ドーハ・ラウンド(多角的貿易交渉)について2010年に野心的で均衡のとれた妥結を追求する。(同共同宣言)
・国際投資は成長、雇用、技術革新及び開発の主要な源泉だ。(同共同宣言)
ここで指摘されている「ドーハ・ラウンド」(農産物、鉱工業品、サービス取引の貿易自由化交渉)の交渉が始まったのは、約8年も前の01年11月のことで、これまで何度も決裂、そして交渉再開を繰り返してきた。その根っこには、農業をめぐって、一方に世界規模のグローバリズム、すなわち貿易自由化、相手国の市場開放を求める多国籍企業など大企業、他方に地域中心のローカリズム、すなわち地域経済の発展、食料と雇用の確保のために農業を守ろうとする農民など、との対立抗争がある。
日本の場合、「環境を守る豊かな水田は日本の宝」という認識も強い。水田を維持し、発展させるためには、価格の割安な農産品であれば、海外から輸入すればよいという自由貿易論を単純に受け容れるわけにはゆかない。グローバリズムに対し、ローカリズムの側から反旗をひるがえしているのが、ローマのデモ隊だったのではないか。地球環境の保全を重視する立場からは、むしろローカリズムこそが時代の先兵ともいえるだろう。ローカリズムは単純な保護主義とは異質である。大手紙の社説にこういう視点が皆無に近いのはどういうわけなのか。
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安原和雄
イタリアで開かれた09年サミット(主要国首脳会議)が残した課題は何か。世界の多極化とともにサミット自体も大きく変質した。なによりも従来の先進国G8が主導する時代は終わったことを印象づけた。肝心の地球温暖化防止の長期目標では参加国の足並みが揃わず、今年末のコペンハーゲン会議に持ち越された。一方、世界の核廃絶へ向けて大きな一歩を踏み出すことで一致した。楽観はできないが、将来に希望を抱かせる。サミットで採択された共同宣言には例年のようにグローバリズム推進の旗が高く掲げられているが、反グローバリズムの根強い動きにも注目しなければならない。多極化時代の到来は、大国による覇権主義、単独行動主義の終わりをも告げている。(09年7月14日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽新聞社説はラクイラ・サミットをどう論じたか
09年7月8日から10日までの3日間、イタリアのラクイラで開かれた地球サミットについて新聞社説はどう論じたか。まず5紙の主なサミット社説の見出しを紹介する。
*朝日新聞社説
11日=ラクイラG8 世界の変化まざまざと
10日=G8核声明 廃絶へ、歴史動かそう
*毎日新聞社説
11日=温暖化対策 「2度以内」の道筋作ろう。サミット 無用論退ける「首脳力」を ― の2本社説
10日=G8サミット 核廃絶へ日米の連携を。G8サミット 麻生外交 成果少なく ― の2本社説
*読売新聞社説
11日=地球温暖化交渉 先進国と新興国との深い溝
10日=G8経済宣言 世界景気の回復は道半ば
*日本経済新聞社説
11日=温暖化交渉の外堀を埋めたサミット
10日=G8だけでは引っ張れない世界の現実
*東京新聞社説
10日=温暖化対策 2度上昇に抑えるには
9日=サミット 新興国への対応が鍵に
さて肝心の地球温暖化防止策についてはどこまで合意できたのか。その骨子は以下の通り。
(1)G8首脳宣言では「気温上昇を産業革命前に比べ2度以内に抑えるべきだ」と「温室効果ガス排出を先進国全体で2050年までに80%以上削減する」との長期目標で合意。
(2)しかし主要経済国フォーラム(MEF)では「2度以内に抑える」ことでは一致したが、長期目標では一致できなかった。この関連で世界全体の排出を「50年までに相当量削減」する世界全体の目標を設定するため、09年12月のコペンハーゲン会議(COP15=国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議)までに取り組む。
以上から主要経済国として具体的にどう削減していくか、その目標については12月のコペンハーゲン会議が注目される。
▽日米欧8カ国(G8)が主役の時代は過去のものとなった
各紙社説の論調から浮かび上がってくるサミットの特色は、従来世界のリーダー役を果たしてきた日米欧8カ国が主役として世界を引っ張っていく時代はもはや過去のものとなったという冷厳な現実である。
朝日新聞は「世界の変化まざまざと」(7月11日付)と題して次のように書いた。
米欧日が合意すれば世界がついてくる時代ではない。ラクイラ・サミットは、そんな多極化時代のG8の限界をまざまざと示した。(中略)
温暖化問題ではG8と平行して開いた主要経済国フォーラム(MEF)が注目された。「先進国が50年までに温暖化ガスを80%以上削減する」とのG8合意をもとに、中国やインドなどに「50年までに全世界で半減」への同意を求めた。だが、反発されて「相当量削減する」との表現にとどまり、この点でも今後に宿題を残した ― と。
日経新聞(7月10日付)もつぎのように指摘した。
G8が世界秩序を主導する旧来の構図が大きく変化している事実を今回のサミットはまざまざと見せつけた。
3日間の日程で本来のG8による話し合いは最初の半日にすぎない。あとは中国やインド、アフリカ諸国などを含めた拡大会合が目白押しですっかり主従関係が逆転した。
米欧はこの流れに対応し始めた。オバマ大統領は9月に米国で開く20カ国・地域(G20)の金融サミットを、温暖化などを含む、より幅広い協議に衣替えしたい意向という。
米は来年3月に30カ国程度を招き「世界核安全保障サミット」を開くと発表した。国際テロ組織への核兵器流出といった現実の脅威を念頭に置くと、中国やインド、パキスタンなどの協力も欠かせない。
ドイツのメルケル首相も「G8体制ではもはや不十分なことが明白になる」と、英国などと同様、G20重視の姿勢に転換した。日本はなお慎重だが、より多くの国々で話し合うという流れは止まらないだろう ― と。
ここでサミットの多様な枠組みの変化とその意味について説明したい。
従来主役であったG8は1975年に6カ国(日、米、英、ドイツ、フランス、イタリア)で始まり、その後、カナダ、ロシアを含めたG8に広がった。これに新興5カ国(中国、インド、ブラジル、メキシコ、南アフリカ)と韓国、豪州、インドネシアの3カ国を加えた主要経済国フォーラム(MEF)が新たに登場してきた。さらにアルゼンチン、トルコ、サウジアラビア、欧州連合(EU)を加えた拡大会合がG20である。
先進8カ国合計の経済規模(GDP)は1992年には世界のなかで7割もあったが、現在は、世界の6割に満たない。一方、G20は世界経済の9割近くを占める。これがG8の地位が低下し、拡大G20が重みを増してきた背景である。
私(安原)自身の経験でいえば、直接取材する立場にあったのは、1978年の第4回ボン(旧西独)・サミット(日本から福田赳夫首相が参加、首相専用機で同行取材)と翌79年の第5回東京サミット(大平正芳首相)で、当時はサミットが始まって間もない頃で、世界における先進諸国の存在感も大きかった。30年前の当時からみると、今日の拡大サミットは隔世の感がある。
もう一つ、日経社説が指摘している「ドイツのメルケル首相も、英国などと同様にG20重視の姿勢に転換した。日本はなお慎重だが・・・」の含意をどう読みとるかである。各紙とも一様にわが日本国の麻生太郎首相のサミットにおける存在感が希薄だったことを伝えているが、麻生政権は時代が急速にしかも大きく変化しつつあることを認識できないためではないのか。このままでは日本だけが時代に取り残されかねないだろう。
▽核廃絶を実現していくためには核抑止力論への批判を
今回のサミットでの新しい動きは、やはり核廃絶である。毎日新聞社説(7月10日付)は「核廃絶へ日米の連携を」と題してつぎのように指摘した。
G8首脳会議は、核のない世界への条件整備に努めることで一致した。6日に米露首脳が新たな核軍縮条約の枠組みに合意したことも含めて、世界に核廃絶の機運が高まっていることを歓迎したい。(中略)
G8を構成する核保有国の米露英仏が同じ目標(核廃絶)に向けて足並みをそろえた意義は大きい。G8に属さない中国も同調してほしい ― と。
朝日新聞社説(7月10日付)も「廃絶へ、歴史動かそう」というタイトルで、「G8の指導者たちが(核軍縮を進めるための)協調を確認した意義は大きい」と歓迎している。
「歓迎」の主張は大いに評価したいが、指摘しておきたいことがある。それはこれまで各紙社説は繰り返し核不拡散を説いてきたが、核廃絶を正面から論じることは少なかったという点である。ブッシュ前米大統領時代にはその可能性がなかったためでもあるが、核拡散を防ぐためにも、米、露、英、仏、中国という核保有大国の核廃絶こそが本筋であることに変わりはない。
オバマ米大統領が「アメリカには核兵器を使った唯一の国として行動する道義的責任がある」と述べた上で、「核兵器のない平和で安全な世界を求める」宣言(09年4月)を行って以来、流れは核廃絶へ大きく変化しつつある。その流れに乗ることは決して悪いことではない。
ただ、オバマ大統領自身が核廃絶について「自分が生きている間にやりきれるかどうか分からない」とも指摘していることを見逃してはならないだろう。だからこそ被爆国日本のジャーナリズムとしては核廃絶への流れを加速させるよう努力する責任がある。
日本政府は従来から広島・長崎の平和記念式典(毎年8月)での首相挨拶のなかで核廃絶を唱えてきたが、これは建前にすぎず、現実にはアメリカの「核の傘」を前提にする核抑止力論を信奉する立場に固執している。最近外務省元次官らが「米国の核搭載艦船の日本寄港を認める日米間の密約」が存在していることを公然と語るようになっているが、その意図は何か。
密約の存在からも分かるように日本の非核3原則(核兵器を持たず、つくらず、持ち込まさず)のうち「持ち込まさず」は事実上空文化して、すでに非核2原則に変質しているわけで、この変質を公然と認めようという意図が「密約存在」発言には見え隠れしている。核廃絶を実現する条件として、こうした核抑止力論の迷妄を批判し、そこから脱出する必要がある。なぜなら核抑止力論に執着する以上、核廃絶は空疎なお題目にすぎないからである。この点でも日本ジャーナリズムの責任は大きいといわねばならない。
▽グローバリズムよりもローカリズム重視を
社説ではないが、朝日新聞(09年7月9日付)に「G8こそ災い ローマでデモ」という見出しの小さな一段記事が載った。その趣旨はつぎの通り。
地震被災地ラクイラでの主要国首脳会議(G8サミット)を控えた7日夜、反グローバリズムを訴える活動家や学生約5000人(主催者発表)がローマ中心部でデモをした。十数人が逮捕・拘束され、治安警察隊が進路を阻むなか、デモ参加者は「G8こそ地震、災いだ」などと訴えた。
社説だけでは真実が十分にはつかめないことを示す一例で、この小さな記事を見逃すわけにはゆかない。なぜデモ隊がローマの中心部で「G8こそ、災いだ」などと叫ぶことになったのか。
グローバリズムすなわち世界規模の市場開放、自由貿易の推進をうたう文言を首脳宣言などからいくつか拾い出してみると ― 。
・開放的な市場が経済成長と開発にとり、重要なことを強調し、保護主義に対抗する決意を再確認した。(G8議長総括)
・開放的な市場を維持・促進するとの約束を再確認し、貿易と投資におけるすべての保護主義的措置を拒否する。(サミット拡大会合共同宣言)
・(世界貿易機関=WTO)ドーハ・ラウンド(多角的貿易交渉)について2010年に野心的で均衡のとれた妥結を追求する。(同共同宣言)
・国際投資は成長、雇用、技術革新及び開発の主要な源泉だ。(同共同宣言)
ここで指摘されている「ドーハ・ラウンド」(農産物、鉱工業品、サービス取引の貿易自由化交渉)の交渉が始まったのは、約8年も前の01年11月のことで、これまで何度も決裂、そして交渉再開を繰り返してきた。その根っこには、農業をめぐって、一方に世界規模のグローバリズム、すなわち貿易自由化、相手国の市場開放を求める多国籍企業など大企業、他方に地域中心のローカリズム、すなわち地域経済の発展、食料と雇用の確保のために農業を守ろうとする農民など、との対立抗争がある。
日本の場合、「環境を守る豊かな水田は日本の宝」という認識も強い。水田を維持し、発展させるためには、価格の割安な農産品であれば、海外から輸入すればよいという自由貿易論を単純に受け容れるわけにはゆかない。グローバリズムに対し、ローカリズムの側から反旗をひるがえしているのが、ローマのデモ隊だったのではないか。地球環境の保全を重視する立場からは、むしろローカリズムこそが時代の先兵ともいえるだろう。ローカリズムは単純な保護主義とは異質である。大手紙の社説にこういう視点が皆無に近いのはどういうわけなのか。
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憲法9条は世界の人々のためにある
安原和雄
アメリカ合衆国国家の命令によって海外の戦場で「人殺し」を強要され、心に大きな痛手を受けて帰還した元米兵たちの間に反戦・平和への熱い思いを語る動きが広がりつつある。しかもそういう帰還米兵たちに共通しているのは、「日本国憲法9条は世界の宝であり、世界の人々のためにある」という認識と願いを持ち合わせていることである。これは同時に日本人には9条を守り、生かしてゆく責任があるという指摘であり、励ましともなっている点を見逃してはならないだろう。(09年7月8日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽9条を守るのは日本の人々にしかできない
「イラク帰還米兵アッシュ・ウールソンさんのお話しと尺八のつどい」が7月4日、「PAW2009プロジェクト・オブ・アッシュ・ウールソン」主催、「コスタリカに学ぶ会」(正式名称=軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会)協賛で東京・新宿区高田馬場のシロアム教会礼拝室で開かれた。
ウールソンさん(注1)が戦争と平和について語った内容のほんの一部を以下に紹介する。
(注1)ウールソンさんは1981年生まれ。米国シアトル在住。ウイスコンシン大学卒(専攻:グラフィック・アート)。学資を得るため州兵に志願し、イラクへ派遣された。帰国後「反戦イラク帰還兵の会」に所属し、平和活動にたずさわっている。
2008年5月、広島から千葉・幕張までの平和行進(ピースウォーク)に加わり、歩き通した。2008年夏、1か月半、平和の種まきキャラバンと称し、日本各地で平和の大切さを訴えた。昨年来日時に日本の民族楽器・尺八に出会い、すっかり気に入った。今回は、3度目の来日。
戦争は決して正当化され得ない。私はイラクの戦場で人間のいのちがいかに粗末に扱われるか、戦争がいかに人間性を破壊するかをみてきた。
私は州兵に志願した。州兵の任務は、災害の救助であり、国を守るためだけであり、対外戦争には参加させられないと聞いていたから。しかしイラク戦争には州兵までが駆り出されることになった。ルイジアナ州でのあの大ハリケーン(注2)の時、州兵はイラク戦争に出ていて、州の市民を守ることができなかった。
(注2・安原記)2005年8月約1週間にわたって米国南東部を襲った大型ハリケーン・カトリーナ(最大風速78叩ι誕)は甚大な被害をもたらした。直撃を受けたニューオーリンズ市の8割が水没、死者は総計2500 名(行方不明者を含む)を超えた。
州兵が到着したのが発生から1週間後のことで、銃口を市民に向けるほど混乱状態に陥っていた。復旧費用を含む518億ドル(約5兆円)の追加補正予算が成立したが、イラク戦争などのテロ対策費約50兆円に比べ、あまりにもわずかという印象が強く、世論調査によると、当時のブッシュ政権の支持率は最低の40%前後に低落した。
私は戦争体験を経て、物欲から切り離された生活をしたいと考えるようになった。学んだことは、平和がどれだけ大切なものか、暴力では平和は築けないということ。戦争、暴力によって平和をもたらすことができるなら、今、平和な世界に住んでいるはずである。
子どもの頃、小学校の先生から「お互いに憎んではいけない」と教えられた。しかし現在は国と国とでは憎み合ってもいいということになっている。インドのマハトマ・ガンジーも言っている。人と人との望ましい関係も、国と国との相互関係も同じことだ、と。
いつになったら小学校の先生が教えてくれたような平和な国と国との関係が実現するのだろうか。
日本国憲法9条は、大きな犠牲の上に成り立っている素晴らしい条文である。しかし悲しいことに日本政府は多くの犠牲の上に9条があることを忘れているのではないか。9条は世界の人々のためにある。しかしその9条を守るのは日本の人々にしかできないのだ。9条が多くの国に採りいれられることを願っている。なぜなら9条によってのみ持続的な平和を築くことができるからである。
参考までにウールソンさんが世界平和のために高く評価している日本国憲法9条の全文を掲載しておく。
[9条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)]全文
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
∩姐爐量榲を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
▽みんな、聞いてくれ これが軍隊だ!
イラク帰還兵、ウールソンさんの訴えを聞く会の会場で私(安原)はベトナム戦争の語り部、元米海兵隊員のアレン・ネルソンさん(注3)の小冊子『そのとき、赤ん坊が私の手の中に ― みんな、聞いてくれ これが軍隊だ! ― 憲法9条こそ世界の希望』(07年3月発行=編集:「憲法9条・メッセージ・プロジェクト」代表・安齋育郎:立命館大学国際平和ミュージアム館長)を買い求めた。
(注3)ネルソンさんは1947年ニューヨーク生まれ。アフリカ系アメリカ人。高校中退、海兵隊入隊。沖縄駐留を経て、1966年ベトナム戦争に従軍。除隊後、戦争後遺症に苦しむ。殺人という自らの罪を認めることにより「再生」。キリスト教フレンド派(通称「クエーカー」)の非暴力思想に共鳴し入会。1996年以来日本各地でも講演、とくに憲法9条の人類史的意義を強調。講演前後のブルースの弾き語りでも知られる。
小冊子の内容はかなり長文なので、主な小見出しを以下に紹介する。
・わがアメリカこそ「国際テロ」の帝王
・日本の頭上にはジョージ・ブッシュが君臨
・戦争とは国際テロそのもの
・「お前は私の息子じゃない!」― 帰還した私に母が叫んだ
・猫とホームレス生活に
・少女が尋ねた ―「ネルソンさん 人を殺したの?」
・人を殺すたびに、心のなかの大切なものが死んでゆく・・・
・アメリカは格差社会 ― 「貧困のアメリカ」を紹介したい
・アメリカの富は、軍備のためにある
・貧しさゆえに海兵隊に・・・そのとき母は怒って泣き崩れた
・戦場で殺し合いするのは、貧しい庶民同士
・軍隊の訓練と任務は「殺し」
・「構え、銃!」― 沖縄では「人型」の的だった
・本国では「射撃訓練」― 沖縄では「殺人訓練」
・「暴力」が兵士とともに街をゆく
・戦争にルールなんかありません
・戦場で一番苦しむのは女性、子ども、老人
・殺した死体の場面と悪臭が「悪夢の正体」
・私の手のなかに「新しい生命(いのち)」が生まれ落ちた
・国家は戦争相手を「人間じゃない」と思い込ませる
・いまも沖縄基地の状況は戦場そのもの
・「基地を閉鎖し米軍は本国へ」― そのために私は行動する
・地球上のすべての国に「9条」がほしい
・改憲は世界から「希望の光」を奪う ― 平和は一人ひとりの決意から
以上の小見出しを観察すると、その内容も自ずから想像できるのではないか。ただ一つ、小冊子のタイトルにもなっている《私の手の中に「新しい生命」が生まれ落ちた》は、若干の説明が必要だろう。概略、以下のようである。
海兵隊中隊がある村を通過しようとしていたとき、奇襲攻撃を受けて、逃げ回り、わたしは人家の裏手の防空壕に飛び込んだ。「だれかいるな・・・」と感じ、ふり返ると、若いベトナムの女性が荒い息づかいで苦しそうだった。やがてその女性がひときわ強く息(いき)んだとたん、私は思わず手を差し出していた。
驚いたことに彼女の体から出てきた赤ん坊が私の手のなかに生まれ落ちた。彼女は私から赤ん坊を取り返すと、逃げるように壕から、ジャングルに姿を消した。(中略)
壕を這い出した私は、別の人間に生まれ変わっていたのだと思う。赤ん坊誕生は、私にとって決定的な意味をもつ出会いだった。このことによって初めて「ベトナム人も同じ人間だ・・・」という思いを持った。
〈追記〉東京新聞(09年7月6日付)はつぎのように伝えている。
憲法9条の大切さを訴え続けたアレン・ネルソンさんは09年3月、61歳で死去し、遺骨は石川県加賀市の浄土真宗寺院に納められた。同寺の佐野明弘住職(51)と平和への思いで共感し、交流を深めたからだ。最期はキリスト教徒から仏教徒になって命を閉じた。去る6月しのぶ会が開かれ、170人が集まった。「遺志を継がなければ」「9条の大切さをこれからも訴え続けよう」などとネルソンさんへの思いを語り合った。(加賀通信局・池田知之記者)
▽〈安原の感想〉元米兵の思い ― すべての国に憲法9条がほしい
イラクそしてベトナムの戦場から帰還した元米兵2人がこもごも強調しているのが日本国憲法9条の存在価値である。
アッシュ・ウールソンさんの9条への思いを再録すると、つぎのようである。
9条は世界の人々のためにある。しかしその9条を守るのは日本の人々にしかできないのだ。9条が多くの国に採りいれられることを願っている。なぜなら9条によってのみ持続的な平和を築くことができるからである ― と。
一方、アレン・ネルソンさんは「英文の日本国憲法を日本の平和活動家から、見せて貰ってわが目を疑った」と前置きしてつぎのように語った。ネルソンさん亡き今となっては彼の遺言と受け止めたい。
9条の力強さ、美しさ・・・。まさにこれは「わが心の師、マハトマ・ガンジーかキング牧師が、日本人の生きる道を示すために書き与えたものではないか」とすら思ったほどだ。9条の持つ力強さはいかなる核兵器、いかなる軍隊も及ぶものではない。
いま危機に瀕する9条をみなさんが守るべきときである。9条はひとり日本を守っているだけではない。地球上のすべての人にとっての宝物である。
私はアメリカ人だ。アメリカにこそ9条がほしい。いや人類がこの核兵器、大量破壊兵器の時代を生きのびるために、地球上のすべての国に9条があってほしい。9条は人類の未来を指し示す「希望の灯」である ― と。
もう一つ、2人ともに「世界の宝、9条を守ることができるのは日本人しかいない」と指摘し、日本人として9条を守り、生かしていく責任とそれへの期待を表明していることも忘れてはならないだろう。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
アメリカ合衆国国家の命令によって海外の戦場で「人殺し」を強要され、心に大きな痛手を受けて帰還した元米兵たちの間に反戦・平和への熱い思いを語る動きが広がりつつある。しかもそういう帰還米兵たちに共通しているのは、「日本国憲法9条は世界の宝であり、世界の人々のためにある」という認識と願いを持ち合わせていることである。これは同時に日本人には9条を守り、生かしてゆく責任があるという指摘であり、励ましともなっている点を見逃してはならないだろう。(09年7月8日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽9条を守るのは日本の人々にしかできない
「イラク帰還米兵アッシュ・ウールソンさんのお話しと尺八のつどい」が7月4日、「PAW2009プロジェクト・オブ・アッシュ・ウールソン」主催、「コスタリカに学ぶ会」(正式名称=軍隊を捨てた国コスタリカに学び平和をつくる会)協賛で東京・新宿区高田馬場のシロアム教会礼拝室で開かれた。
ウールソンさん(注1)が戦争と平和について語った内容のほんの一部を以下に紹介する。
(注1)ウールソンさんは1981年生まれ。米国シアトル在住。ウイスコンシン大学卒(専攻:グラフィック・アート)。学資を得るため州兵に志願し、イラクへ派遣された。帰国後「反戦イラク帰還兵の会」に所属し、平和活動にたずさわっている。
2008年5月、広島から千葉・幕張までの平和行進(ピースウォーク)に加わり、歩き通した。2008年夏、1か月半、平和の種まきキャラバンと称し、日本各地で平和の大切さを訴えた。昨年来日時に日本の民族楽器・尺八に出会い、すっかり気に入った。今回は、3度目の来日。
戦争は決して正当化され得ない。私はイラクの戦場で人間のいのちがいかに粗末に扱われるか、戦争がいかに人間性を破壊するかをみてきた。
私は州兵に志願した。州兵の任務は、災害の救助であり、国を守るためだけであり、対外戦争には参加させられないと聞いていたから。しかしイラク戦争には州兵までが駆り出されることになった。ルイジアナ州でのあの大ハリケーン(注2)の時、州兵はイラク戦争に出ていて、州の市民を守ることができなかった。
(注2・安原記)2005年8月約1週間にわたって米国南東部を襲った大型ハリケーン・カトリーナ(最大風速78叩ι誕)は甚大な被害をもたらした。直撃を受けたニューオーリンズ市の8割が水没、死者は総計2500 名(行方不明者を含む)を超えた。
州兵が到着したのが発生から1週間後のことで、銃口を市民に向けるほど混乱状態に陥っていた。復旧費用を含む518億ドル(約5兆円)の追加補正予算が成立したが、イラク戦争などのテロ対策費約50兆円に比べ、あまりにもわずかという印象が強く、世論調査によると、当時のブッシュ政権の支持率は最低の40%前後に低落した。
私は戦争体験を経て、物欲から切り離された生活をしたいと考えるようになった。学んだことは、平和がどれだけ大切なものか、暴力では平和は築けないということ。戦争、暴力によって平和をもたらすことができるなら、今、平和な世界に住んでいるはずである。
子どもの頃、小学校の先生から「お互いに憎んではいけない」と教えられた。しかし現在は国と国とでは憎み合ってもいいということになっている。インドのマハトマ・ガンジーも言っている。人と人との望ましい関係も、国と国との相互関係も同じことだ、と。
いつになったら小学校の先生が教えてくれたような平和な国と国との関係が実現するのだろうか。
日本国憲法9条は、大きな犠牲の上に成り立っている素晴らしい条文である。しかし悲しいことに日本政府は多くの犠牲の上に9条があることを忘れているのではないか。9条は世界の人々のためにある。しかしその9条を守るのは日本の人々にしかできないのだ。9条が多くの国に採りいれられることを願っている。なぜなら9条によってのみ持続的な平和を築くことができるからである。
参考までにウールソンさんが世界平和のために高く評価している日本国憲法9条の全文を掲載しておく。
[9条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)]全文
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
∩姐爐量榲を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
▽みんな、聞いてくれ これが軍隊だ!
イラク帰還兵、ウールソンさんの訴えを聞く会の会場で私(安原)はベトナム戦争の語り部、元米海兵隊員のアレン・ネルソンさん(注3)の小冊子『そのとき、赤ん坊が私の手の中に ― みんな、聞いてくれ これが軍隊だ! ― 憲法9条こそ世界の希望』(07年3月発行=編集:「憲法9条・メッセージ・プロジェクト」代表・安齋育郎:立命館大学国際平和ミュージアム館長)を買い求めた。
(注3)ネルソンさんは1947年ニューヨーク生まれ。アフリカ系アメリカ人。高校中退、海兵隊入隊。沖縄駐留を経て、1966年ベトナム戦争に従軍。除隊後、戦争後遺症に苦しむ。殺人という自らの罪を認めることにより「再生」。キリスト教フレンド派(通称「クエーカー」)の非暴力思想に共鳴し入会。1996年以来日本各地でも講演、とくに憲法9条の人類史的意義を強調。講演前後のブルースの弾き語りでも知られる。
小冊子の内容はかなり長文なので、主な小見出しを以下に紹介する。
・わがアメリカこそ「国際テロ」の帝王
・日本の頭上にはジョージ・ブッシュが君臨
・戦争とは国際テロそのもの
・「お前は私の息子じゃない!」― 帰還した私に母が叫んだ
・猫とホームレス生活に
・少女が尋ねた ―「ネルソンさん 人を殺したの?」
・人を殺すたびに、心のなかの大切なものが死んでゆく・・・
・アメリカは格差社会 ― 「貧困のアメリカ」を紹介したい
・アメリカの富は、軍備のためにある
・貧しさゆえに海兵隊に・・・そのとき母は怒って泣き崩れた
・戦場で殺し合いするのは、貧しい庶民同士
・軍隊の訓練と任務は「殺し」
・「構え、銃!」― 沖縄では「人型」の的だった
・本国では「射撃訓練」― 沖縄では「殺人訓練」
・「暴力」が兵士とともに街をゆく
・戦争にルールなんかありません
・戦場で一番苦しむのは女性、子ども、老人
・殺した死体の場面と悪臭が「悪夢の正体」
・私の手のなかに「新しい生命(いのち)」が生まれ落ちた
・国家は戦争相手を「人間じゃない」と思い込ませる
・いまも沖縄基地の状況は戦場そのもの
・「基地を閉鎖し米軍は本国へ」― そのために私は行動する
・地球上のすべての国に「9条」がほしい
・改憲は世界から「希望の光」を奪う ― 平和は一人ひとりの決意から
以上の小見出しを観察すると、その内容も自ずから想像できるのではないか。ただ一つ、小冊子のタイトルにもなっている《私の手の中に「新しい生命」が生まれ落ちた》は、若干の説明が必要だろう。概略、以下のようである。
海兵隊中隊がある村を通過しようとしていたとき、奇襲攻撃を受けて、逃げ回り、わたしは人家の裏手の防空壕に飛び込んだ。「だれかいるな・・・」と感じ、ふり返ると、若いベトナムの女性が荒い息づかいで苦しそうだった。やがてその女性がひときわ強く息(いき)んだとたん、私は思わず手を差し出していた。
驚いたことに彼女の体から出てきた赤ん坊が私の手のなかに生まれ落ちた。彼女は私から赤ん坊を取り返すと、逃げるように壕から、ジャングルに姿を消した。(中略)
壕を這い出した私は、別の人間に生まれ変わっていたのだと思う。赤ん坊誕生は、私にとって決定的な意味をもつ出会いだった。このことによって初めて「ベトナム人も同じ人間だ・・・」という思いを持った。
〈追記〉東京新聞(09年7月6日付)はつぎのように伝えている。
憲法9条の大切さを訴え続けたアレン・ネルソンさんは09年3月、61歳で死去し、遺骨は石川県加賀市の浄土真宗寺院に納められた。同寺の佐野明弘住職(51)と平和への思いで共感し、交流を深めたからだ。最期はキリスト教徒から仏教徒になって命を閉じた。去る6月しのぶ会が開かれ、170人が集まった。「遺志を継がなければ」「9条の大切さをこれからも訴え続けよう」などとネルソンさんへの思いを語り合った。(加賀通信局・池田知之記者)
▽〈安原の感想〉元米兵の思い ― すべての国に憲法9条がほしい
イラクそしてベトナムの戦場から帰還した元米兵2人がこもごも強調しているのが日本国憲法9条の存在価値である。
アッシュ・ウールソンさんの9条への思いを再録すると、つぎのようである。
9条は世界の人々のためにある。しかしその9条を守るのは日本の人々にしかできないのだ。9条が多くの国に採りいれられることを願っている。なぜなら9条によってのみ持続的な平和を築くことができるからである ― と。
一方、アレン・ネルソンさんは「英文の日本国憲法を日本の平和活動家から、見せて貰ってわが目を疑った」と前置きしてつぎのように語った。ネルソンさん亡き今となっては彼の遺言と受け止めたい。
9条の力強さ、美しさ・・・。まさにこれは「わが心の師、マハトマ・ガンジーかキング牧師が、日本人の生きる道を示すために書き与えたものではないか」とすら思ったほどだ。9条の持つ力強さはいかなる核兵器、いかなる軍隊も及ぶものではない。
いま危機に瀕する9条をみなさんが守るべきときである。9条はひとり日本を守っているだけではない。地球上のすべての人にとっての宝物である。
私はアメリカ人だ。アメリカにこそ9条がほしい。いや人類がこの核兵器、大量破壊兵器の時代を生きのびるために、地球上のすべての国に9条があってほしい。9条は人類の未来を指し示す「希望の灯」である ― と。
もう一つ、2人ともに「世界の宝、9条を守ることができるのは日本人しかいない」と指摘し、日本人として9条を守り、生かしていく責任とそれへの期待を表明していることも忘れてはならないだろう。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
大規模近代化農業に未来はない
安原和雄
「自殺する種子」とはあまり聞き慣れないが、どういう種子かお分かりだろうか。世にも恐ろしい物語といえば、いささか夏の夜の怪談めくが、現実にそういう種子を武器に使って食の世界を支配しようという企みが進行しつつある。「食の安全」が危うくなってすでに久しいが、うっかりしていると、我が「いのち」がさらに危険にさらされるだけではない。いのちの源である「食」と「農」そのものが、その土台から掘り崩されるという到底容認できない現実に取り囲まれることにもなりかねない。
さてどうするか。一口に言えば、いわゆる大規模近代化農業にもはや未来はないことを察知して脱出口を探索し、変革を進める以外に妙策はない。(09年7月3日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
ここで紹介する安田節子(注)著『自殺する種子 ― アグロバイオ企業が食を支配する』(平凡社新書、09年6月刊)はなかなか読み応えのある作品である。その目次は、つぎの通り。
はじめに ― なぜ種子が自殺するのか
第一章 穀物高値の時代がはじまった ― 変貌する世界の食システム
第二章 鳥インフルエンザは「近代化」がもたらした ― 近代化畜産と経済グローバリズム
第三章 種子で世界の食を支配する ― 遺伝子組み換え技術と巨大アグロバイオ企業
第四章 遺伝子特許戦争が激化する ― 世界企業のバイオテクノロジー戦略
第五章 日本の農業に何が起きているか ― 破綻しつつある近代化農業
第六章 食の未来を展望する ― 脱グローバリズム・脱石油の農業へ
(注)安田節子さんは、1996年、市民団体「遺伝子組み換え食品はいらない」キャンペーンを立ち上げ、2000年まで事務局長。現在、食政策センター「ビジョン21」を主宰。日本有機農業研究会理事。著書に『消費者のための食品表示の読み方 ― 毎日何を食べているのか』、『遺伝子組み換え食品Q&A』(いずれも岩波ブックレット)、『食べてはいけない遺伝子組み換え食品』(徳間書店)など。
目次一覧からも分かるように、世界的視野に立って食と農に関する最新の情報が盛り込まれている。全容は割愛して、いくつかの要点に絞って以下に紹介し、私(安原)のコメントを述べる。
▽「自殺種子」の特許技術が世界の食を支配する
著作の「はじめに」で種子の自殺についてつぎのように書いている。
種子は、生命を育み、生命を次世代に伝えていくという、生物のもっとも大切な、最も根源的な存在のはずである。その種子が自ら生命を絶ってしまう! これはいったいどういうことなのか。生物の生命にかかわる部分でいま、私たちの想像もつかない大変なことが進行している。
アグロバイオ(農業関連バイオテクノロジー〔生命工学〕)企業が特許をかけるなどして着々と種子を囲い込み、企業の支配力を強めている。究極の種子支配技術として開発されたのが、自殺種子技術で、この技術を種に施せば、その種から育つ作物に結実する第二世代の種は自殺してしまうのである。次の季節に備えて種を取り置いても、その種は自殺してしまうから、農家は毎年種を買わざるを得なくなる。
この技術の特許を持つ巨大アグロバイオ企業が、世界の種子会社を根こそぎ買収し、今日では種子産業が彼ら一握りのものに寡占化されている。彼らは農家の種採りが企業の大きな損失になっていると考え、それを違法とするべく活動を進めている。
〈安原のコメント〉― 「いのちの源」の支配をたくらむ貪欲の群
本書によると、この自殺種子技術は、米国農務省と綿花種子最大手D&PL社(のちにモンサント社=米国の多国籍バイオ化学メーカー=が買収)が共同開発し、1998年米国特許を取得、さらにデュポン社(電子・情報から農業・食品までも含む米国の多国籍総合メーカー)も、翌年米国特許を取得している。
著者は「種(生命体)に特許と聞いて、違和感を覚えませんか」と疑問を提起している。同感である。従来は生命体には特許権は認められていなかった。それがバイオテクノロジー(生命工学)の商業化、つまり利益を追求するビジネスとなってから、従来なら非常識とされた企みがまかり通るようになっている。その背後に世界の「食」と「農」を支配しようとする野望が秘められていることは間違いないだろう。
「カネ」を貪欲に支配してきたマネー資本主義とそれを支えた新自由主義路線は破綻したが、今度は「いのちの源」の支配をたくらむ貪欲の群が動き始めているのだ。目が離せない新段階といえる。
▽豚インフルエンザの発生源は「高密度の養豚場」か
まだ記憶に生々しいあの豚インフルエンザについてつぎのように書いている。
2009年4月、メキシコで豚由来のインフルエンザウイルスが分離され、人から人に感染する新型インフルエンザと認定された。豚インフルエンザは本来、人には感染しにくいが、今回は感染しやすくなり、人から人への感染を起こしたのである。
メキシコの各新聞は、発生源を、世界最大の養豚会社、米国スミスフィールドフード社が経営する高密度の養豚場だと伝えている。最初に発生したとみられているラグロリア村に同社子会社の養豚場があり、ここでは5万6000頭の雌豚から、年間9万頭の豚が生産(08年度)されている。
この養豚場は、管理が不衛生だとして悪評が高く、住民やジャーナリストたちは、ウイルスがこの養豚場の豚で進化し、その後ウイルスを含む廃棄物(糞や死体)によって汚染された水やハエなどを介して人間に感染したと主張している。
密飼いから起こるストレスで豚は病気になりやすく、そのため抗生物質など薬剤が日常的に投与され、その結果、抗生物質耐性菌の出現やウイルスの変異が引き起こされる。
〈安原のコメント〉― あの豚インフルエンザ騒動から学ぶこと
日本列島にも上陸したあの豚インフルエンザの背景に何があるのかについてほとんどのメディアは伝えていない。感染者が何人に増えたかという単純な報道に終始した。しかし著者によると、発生源は「世界最大の養豚会社が経営する高密度の養豚場」であり、しかも「その養豚場は管理が不衛生だとして悪評」と指摘している。そう断じていいかどうかはともかく、「高密度の養豚場」に容疑があることは否定できないのだろう。
このことは日本にとっても決して他人事ではない。著者は「日本の家畜の6割が病気」というショッキングな事実を報告している。「疾病(尿毒症、敗血症、膿毒症、白血病など)や奇形が認められと、屠殺禁止、全部廃棄、内臓など一部廃棄となるが、その頭数は牛、豚ともに屠殺頭数の6割に達する。家畜の多くが病体だという現実はほとんど知られていない」というのだ。日本でも「高密度の生産現場に容疑あり」ということではないのか。これではいつ日本発の新型インフルエンザが発生するか、安心できない。
著者のつぎの指摘に耳を傾けたい。
「健康的な質のよいものを少し」という食べ方は、生活習慣病にならない健康を守る食べ方でもある。消費者の意識の変革とその選択が生産現場を変えていく― と。
▽究極のリサイクルシステムの中の近代養鶏
本書は日本農業が衰退しつつある現状を多様な側面から描き出している。その典型例が究極のリサイクルシステムの中の近代養鶏である。つぎのように指摘している。
近代化農業は農薬、化学肥料、飼料、機械、燃料、種子など必要な資材すべてを外部から購入しなければならない。そういう近代化農業の典型が養鶏で、何十万羽という単位の大規模ケージ(鶏舎)飼いが一般的である。
日本の場合、鶏卵の自給率は95%、鶏肉は69%だが、飼料はほとんど米国からの輸入で、これを勘案すると、自給率は鶏卵9%、鶏肉6%に落ちる。
現在、米国では致死率の高い新たな鶏白血病ウイルスが急速に広がり、すでに複数の養鶏企業が廃業に追い込まれている。日本にも種鶏の輸入から広がる懸念がある。鳥インフルエンザも世界各地で大混乱を引き起こしている。こうした出来事は反自然の工業的生産に対する自然の逆襲のように思える。
近代養鶏は、レンダリング(注)という究極のリサイクルシステムを生み出した工業化農業の最たるものである。これ以上の効率化はできないと思われるほどだが、さらにイスラエルでは遺伝子組み換え技術を駆使して、羽のない肉用鶏を作り出した。羽をむしる工程が省けるわけだが、肌むき出しの鶏の写真を見たとき、慄然とした。
倫理の歯止めを持たないまま、科学技術の商業的利用が進んでいく現状に懸念を覚えざるを得ない。
(注)レンダリング(rendering=廃肉処理)とは、肉以外の食用にならない頭、足、がら、羽毛、さらに病死家畜などをレンダリング工場で煮溶かすなどの処理を加え、それをまた家畜の餌として与える。膨大な肉食の普及とその効率化に伴って、レンダリングは今では不可欠の役割を担っている。
〈安原のコメント〉― 倫理なき工業化農業の行方
ここで見逃せない著者の指摘は、つぎの2点である。
・反自然の工業的生産に対する自然の逆襲
・倫理の歯止めを持たないまま、科学技術の商業的利用が進んでいく現状に懸念
工業がいのちを削る産業だとすれば、一方、農業はいのちを育てる産業である。だから工業と農業とは本質的に異質の産業である。ところが今、急速に農業の工業化が進行しつつある。いいかえれば農業自体がいのちを削る産業に急速に変化しつつある。だからこそ農業が自然の逆襲に見舞われ、いのちを育てるという倫理の歯止めが外れてきた。これでは肝心のいのちをだれが守り、育てるのか。工業化農業の堕落というほかないだろう。その堕落とともにいのち軽視の進行に無感覚になって、倫理なき経済社会が広がっていく。世は乱れるほかない。
▽加工食品と巨大なフードマイレージ、増大する食品添加物
現在、加工食品、冷凍食品、外食食材の原料はほとんどが輸入で、そのため日本は世界一巨大なフードマイレージ(注1)の国となっている。農林水産省の01年の試算では総量で9002億800万トン・キロメートルで、世界で群を抜いて大きく、国民1人当たりでも1位である。世界中からかき集めたさまざまな原料が、多数の中間業者を経て流通し、トレーサビリティ(注2)も困難で、監視も行き届かない。これは昨今の数々の食品汚染事件の大きな背景である。
加工食品の増大は、食品添加物の多様・増大と軌を一にする。戦後に始まった食品添加物の使用はうなぎのぼりに増大し、現在日本では1人当たり年間約24キログラムも使用されている。添加物の指定数も、約1500品目(化学合成の指定添加物は339品目)もある。
添加物の摂取は味覚障害、皮膚炎、子どもでは発育の遅れ、胎児への影響さらにイライラの原因でもある。
(注1)フードマイレージは「食料の輸送距離」のことで、食料輸送が環境に与える負荷の大きさを表す指標として使われる。海外の農場や漁場から消費者の食卓まで食料を運ぶ距離に食料の重量を掛け合わせて算出する。
(注2)トレーサビリティとは、英語の「トレース」(Trace:足跡をたどる)と「アビリティ」(Ability:できること)の合成語で、「追跡可能性」の意。
〈安原のコメント〉― 自然環境も健康も守れなくなった農業
自然環境に依存する農業は本来、その営みによって自然環境を守り、いのちの源を提供することによって人間一人ひとりの健康を支えるのがその役割である。しかしこの農業の社会的貢献度(自然環境や健康への貢献度)は極度に低下してきた。
自然環境に対する負の貢献度は、加工食品の原料を海外からの輸入に依存しているため、フードマイレージが不名誉にも世界一という事実に表れている。自然環境を汚染・破壊しながら、「食」の見かけの多様な豊かさを誇っても、決して自慢できる話ではない。
一方、加工食品の増大に伴う食品添加物の多用は健康を蝕む要因となっている。こういう農業 ― 加工食品の増大に対し、その未来は期待できるのかと問いかけないわけにはゆかない。
▽自給国家をこそ、日本は目指すべきだ
農林水産省と現代経済学が主張する日本農業生き残りのシナリオは、「大規模近代化農業こそ」と宣伝カーのようにやかましく聞こえるが、本書はそれに正面から異議を唱えている。つまり「大規模近代化農業に未来はない」という立場である。つぎのように主張している。
*オイルピークと近代化農業の行き詰まり
・米国の大規模企業型農場にとっては、なによりも収量増加が最優先であり、そのため大量の水を使う大規模モノカルチャー(単一作物の栽培)となっている。しかしいまや農業生産に使用できる水資源は減少し、地力は痩せ、遺伝子組み換え作物に対する国際的な逆風にも直面し、米国型近代農業は永続不可能な農業になりつつある。
・そもそも農業には、工業のような大量生産、規格化、効率化はなじまない。工業製品とは違う自然の理(ことわり)が中心にある生命産業である。大規模モノカルチャーは、気象変動が激しくなった昨今、その影響をもろに受けている。
・近代化農業は大型機械、施設栽培、農薬、化学肥料のどれも石油によって成り立っている。人類がオイルピーク(注)を迎えた今、近代化農業の先行きがあやしくなってきた。さらにグローバリゼーションによって拡大してきた食料貿易にも大きな影響を与えている。オイルピークの影響を一番受けるのは、近代化農業と国際フードシステムである。
(注)オイルピークとは、世界の石油生産量が頭打ちになって、減少に向かう事態を指している。世界の1人あたりの石油生産量は1979年にピークを迎え、それ以降減少を続けているという説もある。
*日本の風土に合った農業を
・自給国家をこそ、日本は目指すべきである。幸いにも主食の米は自給を保っている。先祖が営々と築いてくれた田んぼは日本の貴重な資源であり、これを徹底して守るべきである。輸入米の流入を許せば、日本の国土から水田風景が失われてしまう。
・南北に長く、山川が入り組み、高低差がある日本は、大規模単一生産には不利、不向きで、むしろ多品目生産ができる条件に恵まれている。多品目生産のメリットは、気象変動に強く、また価格暴落などのリスク分散もできる。
・農地集積のネックとされる日本田畑の分散も、水害などのリスク分散を考えた祖先の知恵である。平坦で広大な農地を有する大陸型の輸出国農業のものまねではなく、自国の風土に合った農業をこそ、食料生産基盤として維持・保護すべきではないか。
〈安原のコメント〉― 東洋思想の「身土不二」を生かしてこそ
著者の指摘に大筋では賛成である。
私は農家の生まれで、小学生時代(昭和20年夏の敗戦時は小学5年生)は農業の手伝いが暮らしの中心であった。毎年の梅雨時の田植えには裸足で水田に入って手伝った。当時はわが家で牛を飼っていたので、その牛を農業用水のため池の土手へ連れて行って草を食わせるのが日課でもあった。夏には沢山の蛍が、近くの田んぼを縫って流れる水の澄んだ小川で舞い踊り、小川にはフナやドジョウが泳いでいた。
こういう牧歌的な風景が一変したのは、戦後間もなく撒布され始めた農薬のせいである。やがて小川は三面コンクリートで固められ、澄んだ水は汚水に変わった。蛍も小魚も姿を消した。さらに減反時代を迎えて田んぼに雑草が生い茂る。
あれから半世紀以上の時を経て、いま近代化農業の行き詰まりに直面している。もちろん工夫努力を重ねて農業再生に取り組んでいる農家も少なくないことは承知している。ただ海外食料と石油に依存する農業(食品加工業なども含む)が生き残ることはむずかしい。
どうするか。著者も指摘しているように「脱グローバリズム・脱石油の農業へ」の転換を模索する以外に妙手は発見しにくい。その際、考えてみるべきことは、東洋思想の「身土不二」(しんどふに=自分の体と生まれた土地とは一体という意。だから四季に従って土地の生産物の旬のモノを食べること)をどう生かすかである。これは最近強調される「地産地消、旬産旬消」(土地の食べ物で旬のモノを大切にすること)の実践でもある。長い目で見れば、それこそが著者の唱える「自給国家」への道となるのではないか。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
「自殺する種子」とはあまり聞き慣れないが、どういう種子かお分かりだろうか。世にも恐ろしい物語といえば、いささか夏の夜の怪談めくが、現実にそういう種子を武器に使って食の世界を支配しようという企みが進行しつつある。「食の安全」が危うくなってすでに久しいが、うっかりしていると、我が「いのち」がさらに危険にさらされるだけではない。いのちの源である「食」と「農」そのものが、その土台から掘り崩されるという到底容認できない現実に取り囲まれることにもなりかねない。
さてどうするか。一口に言えば、いわゆる大規模近代化農業にもはや未来はないことを察知して脱出口を探索し、変革を進める以外に妙策はない。(09年7月3日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
ここで紹介する安田節子(注)著『自殺する種子 ― アグロバイオ企業が食を支配する』(平凡社新書、09年6月刊)はなかなか読み応えのある作品である。その目次は、つぎの通り。
はじめに ― なぜ種子が自殺するのか
第一章 穀物高値の時代がはじまった ― 変貌する世界の食システム
第二章 鳥インフルエンザは「近代化」がもたらした ― 近代化畜産と経済グローバリズム
第三章 種子で世界の食を支配する ― 遺伝子組み換え技術と巨大アグロバイオ企業
第四章 遺伝子特許戦争が激化する ― 世界企業のバイオテクノロジー戦略
第五章 日本の農業に何が起きているか ― 破綻しつつある近代化農業
第六章 食の未来を展望する ― 脱グローバリズム・脱石油の農業へ
(注)安田節子さんは、1996年、市民団体「遺伝子組み換え食品はいらない」キャンペーンを立ち上げ、2000年まで事務局長。現在、食政策センター「ビジョン21」を主宰。日本有機農業研究会理事。著書に『消費者のための食品表示の読み方 ― 毎日何を食べているのか』、『遺伝子組み換え食品Q&A』(いずれも岩波ブックレット)、『食べてはいけない遺伝子組み換え食品』(徳間書店)など。
目次一覧からも分かるように、世界的視野に立って食と農に関する最新の情報が盛り込まれている。全容は割愛して、いくつかの要点に絞って以下に紹介し、私(安原)のコメントを述べる。
▽「自殺種子」の特許技術が世界の食を支配する
著作の「はじめに」で種子の自殺についてつぎのように書いている。
種子は、生命を育み、生命を次世代に伝えていくという、生物のもっとも大切な、最も根源的な存在のはずである。その種子が自ら生命を絶ってしまう! これはいったいどういうことなのか。生物の生命にかかわる部分でいま、私たちの想像もつかない大変なことが進行している。
アグロバイオ(農業関連バイオテクノロジー〔生命工学〕)企業が特許をかけるなどして着々と種子を囲い込み、企業の支配力を強めている。究極の種子支配技術として開発されたのが、自殺種子技術で、この技術を種に施せば、その種から育つ作物に結実する第二世代の種は自殺してしまうのである。次の季節に備えて種を取り置いても、その種は自殺してしまうから、農家は毎年種を買わざるを得なくなる。
この技術の特許を持つ巨大アグロバイオ企業が、世界の種子会社を根こそぎ買収し、今日では種子産業が彼ら一握りのものに寡占化されている。彼らは農家の種採りが企業の大きな損失になっていると考え、それを違法とするべく活動を進めている。
〈安原のコメント〉― 「いのちの源」の支配をたくらむ貪欲の群
本書によると、この自殺種子技術は、米国農務省と綿花種子最大手D&PL社(のちにモンサント社=米国の多国籍バイオ化学メーカー=が買収)が共同開発し、1998年米国特許を取得、さらにデュポン社(電子・情報から農業・食品までも含む米国の多国籍総合メーカー)も、翌年米国特許を取得している。
著者は「種(生命体)に特許と聞いて、違和感を覚えませんか」と疑問を提起している。同感である。従来は生命体には特許権は認められていなかった。それがバイオテクノロジー(生命工学)の商業化、つまり利益を追求するビジネスとなってから、従来なら非常識とされた企みがまかり通るようになっている。その背後に世界の「食」と「農」を支配しようとする野望が秘められていることは間違いないだろう。
「カネ」を貪欲に支配してきたマネー資本主義とそれを支えた新自由主義路線は破綻したが、今度は「いのちの源」の支配をたくらむ貪欲の群が動き始めているのだ。目が離せない新段階といえる。
▽豚インフルエンザの発生源は「高密度の養豚場」か
まだ記憶に生々しいあの豚インフルエンザについてつぎのように書いている。
2009年4月、メキシコで豚由来のインフルエンザウイルスが分離され、人から人に感染する新型インフルエンザと認定された。豚インフルエンザは本来、人には感染しにくいが、今回は感染しやすくなり、人から人への感染を起こしたのである。
メキシコの各新聞は、発生源を、世界最大の養豚会社、米国スミスフィールドフード社が経営する高密度の養豚場だと伝えている。最初に発生したとみられているラグロリア村に同社子会社の養豚場があり、ここでは5万6000頭の雌豚から、年間9万頭の豚が生産(08年度)されている。
この養豚場は、管理が不衛生だとして悪評が高く、住民やジャーナリストたちは、ウイルスがこの養豚場の豚で進化し、その後ウイルスを含む廃棄物(糞や死体)によって汚染された水やハエなどを介して人間に感染したと主張している。
密飼いから起こるストレスで豚は病気になりやすく、そのため抗生物質など薬剤が日常的に投与され、その結果、抗生物質耐性菌の出現やウイルスの変異が引き起こされる。
〈安原のコメント〉― あの豚インフルエンザ騒動から学ぶこと
日本列島にも上陸したあの豚インフルエンザの背景に何があるのかについてほとんどのメディアは伝えていない。感染者が何人に増えたかという単純な報道に終始した。しかし著者によると、発生源は「世界最大の養豚会社が経営する高密度の養豚場」であり、しかも「その養豚場は管理が不衛生だとして悪評」と指摘している。そう断じていいかどうかはともかく、「高密度の養豚場」に容疑があることは否定できないのだろう。
このことは日本にとっても決して他人事ではない。著者は「日本の家畜の6割が病気」というショッキングな事実を報告している。「疾病(尿毒症、敗血症、膿毒症、白血病など)や奇形が認められと、屠殺禁止、全部廃棄、内臓など一部廃棄となるが、その頭数は牛、豚ともに屠殺頭数の6割に達する。家畜の多くが病体だという現実はほとんど知られていない」というのだ。日本でも「高密度の生産現場に容疑あり」ということではないのか。これではいつ日本発の新型インフルエンザが発生するか、安心できない。
著者のつぎの指摘に耳を傾けたい。
「健康的な質のよいものを少し」という食べ方は、生活習慣病にならない健康を守る食べ方でもある。消費者の意識の変革とその選択が生産現場を変えていく― と。
▽究極のリサイクルシステムの中の近代養鶏
本書は日本農業が衰退しつつある現状を多様な側面から描き出している。その典型例が究極のリサイクルシステムの中の近代養鶏である。つぎのように指摘している。
近代化農業は農薬、化学肥料、飼料、機械、燃料、種子など必要な資材すべてを外部から購入しなければならない。そういう近代化農業の典型が養鶏で、何十万羽という単位の大規模ケージ(鶏舎)飼いが一般的である。
日本の場合、鶏卵の自給率は95%、鶏肉は69%だが、飼料はほとんど米国からの輸入で、これを勘案すると、自給率は鶏卵9%、鶏肉6%に落ちる。
現在、米国では致死率の高い新たな鶏白血病ウイルスが急速に広がり、すでに複数の養鶏企業が廃業に追い込まれている。日本にも種鶏の輸入から広がる懸念がある。鳥インフルエンザも世界各地で大混乱を引き起こしている。こうした出来事は反自然の工業的生産に対する自然の逆襲のように思える。
近代養鶏は、レンダリング(注)という究極のリサイクルシステムを生み出した工業化農業の最たるものである。これ以上の効率化はできないと思われるほどだが、さらにイスラエルでは遺伝子組み換え技術を駆使して、羽のない肉用鶏を作り出した。羽をむしる工程が省けるわけだが、肌むき出しの鶏の写真を見たとき、慄然とした。
倫理の歯止めを持たないまま、科学技術の商業的利用が進んでいく現状に懸念を覚えざるを得ない。
(注)レンダリング(rendering=廃肉処理)とは、肉以外の食用にならない頭、足、がら、羽毛、さらに病死家畜などをレンダリング工場で煮溶かすなどの処理を加え、それをまた家畜の餌として与える。膨大な肉食の普及とその効率化に伴って、レンダリングは今では不可欠の役割を担っている。
〈安原のコメント〉― 倫理なき工業化農業の行方
ここで見逃せない著者の指摘は、つぎの2点である。
・反自然の工業的生産に対する自然の逆襲
・倫理の歯止めを持たないまま、科学技術の商業的利用が進んでいく現状に懸念
工業がいのちを削る産業だとすれば、一方、農業はいのちを育てる産業である。だから工業と農業とは本質的に異質の産業である。ところが今、急速に農業の工業化が進行しつつある。いいかえれば農業自体がいのちを削る産業に急速に変化しつつある。だからこそ農業が自然の逆襲に見舞われ、いのちを育てるという倫理の歯止めが外れてきた。これでは肝心のいのちをだれが守り、育てるのか。工業化農業の堕落というほかないだろう。その堕落とともにいのち軽視の進行に無感覚になって、倫理なき経済社会が広がっていく。世は乱れるほかない。
▽加工食品と巨大なフードマイレージ、増大する食品添加物
現在、加工食品、冷凍食品、外食食材の原料はほとんどが輸入で、そのため日本は世界一巨大なフードマイレージ(注1)の国となっている。農林水産省の01年の試算では総量で9002億800万トン・キロメートルで、世界で群を抜いて大きく、国民1人当たりでも1位である。世界中からかき集めたさまざまな原料が、多数の中間業者を経て流通し、トレーサビリティ(注2)も困難で、監視も行き届かない。これは昨今の数々の食品汚染事件の大きな背景である。
加工食品の増大は、食品添加物の多様・増大と軌を一にする。戦後に始まった食品添加物の使用はうなぎのぼりに増大し、現在日本では1人当たり年間約24キログラムも使用されている。添加物の指定数も、約1500品目(化学合成の指定添加物は339品目)もある。
添加物の摂取は味覚障害、皮膚炎、子どもでは発育の遅れ、胎児への影響さらにイライラの原因でもある。
(注1)フードマイレージは「食料の輸送距離」のことで、食料輸送が環境に与える負荷の大きさを表す指標として使われる。海外の農場や漁場から消費者の食卓まで食料を運ぶ距離に食料の重量を掛け合わせて算出する。
(注2)トレーサビリティとは、英語の「トレース」(Trace:足跡をたどる)と「アビリティ」(Ability:できること)の合成語で、「追跡可能性」の意。
〈安原のコメント〉― 自然環境も健康も守れなくなった農業
自然環境に依存する農業は本来、その営みによって自然環境を守り、いのちの源を提供することによって人間一人ひとりの健康を支えるのがその役割である。しかしこの農業の社会的貢献度(自然環境や健康への貢献度)は極度に低下してきた。
自然環境に対する負の貢献度は、加工食品の原料を海外からの輸入に依存しているため、フードマイレージが不名誉にも世界一という事実に表れている。自然環境を汚染・破壊しながら、「食」の見かけの多様な豊かさを誇っても、決して自慢できる話ではない。
一方、加工食品の増大に伴う食品添加物の多用は健康を蝕む要因となっている。こういう農業 ― 加工食品の増大に対し、その未来は期待できるのかと問いかけないわけにはゆかない。
▽自給国家をこそ、日本は目指すべきだ
農林水産省と現代経済学が主張する日本農業生き残りのシナリオは、「大規模近代化農業こそ」と宣伝カーのようにやかましく聞こえるが、本書はそれに正面から異議を唱えている。つまり「大規模近代化農業に未来はない」という立場である。つぎのように主張している。
*オイルピークと近代化農業の行き詰まり
・米国の大規模企業型農場にとっては、なによりも収量増加が最優先であり、そのため大量の水を使う大規模モノカルチャー(単一作物の栽培)となっている。しかしいまや農業生産に使用できる水資源は減少し、地力は痩せ、遺伝子組み換え作物に対する国際的な逆風にも直面し、米国型近代農業は永続不可能な農業になりつつある。
・そもそも農業には、工業のような大量生産、規格化、効率化はなじまない。工業製品とは違う自然の理(ことわり)が中心にある生命産業である。大規模モノカルチャーは、気象変動が激しくなった昨今、その影響をもろに受けている。
・近代化農業は大型機械、施設栽培、農薬、化学肥料のどれも石油によって成り立っている。人類がオイルピーク(注)を迎えた今、近代化農業の先行きがあやしくなってきた。さらにグローバリゼーションによって拡大してきた食料貿易にも大きな影響を与えている。オイルピークの影響を一番受けるのは、近代化農業と国際フードシステムである。
(注)オイルピークとは、世界の石油生産量が頭打ちになって、減少に向かう事態を指している。世界の1人あたりの石油生産量は1979年にピークを迎え、それ以降減少を続けているという説もある。
*日本の風土に合った農業を
・自給国家をこそ、日本は目指すべきである。幸いにも主食の米は自給を保っている。先祖が営々と築いてくれた田んぼは日本の貴重な資源であり、これを徹底して守るべきである。輸入米の流入を許せば、日本の国土から水田風景が失われてしまう。
・南北に長く、山川が入り組み、高低差がある日本は、大規模単一生産には不利、不向きで、むしろ多品目生産ができる条件に恵まれている。多品目生産のメリットは、気象変動に強く、また価格暴落などのリスク分散もできる。
・農地集積のネックとされる日本田畑の分散も、水害などのリスク分散を考えた祖先の知恵である。平坦で広大な農地を有する大陸型の輸出国農業のものまねではなく、自国の風土に合った農業をこそ、食料生産基盤として維持・保護すべきではないか。
〈安原のコメント〉― 東洋思想の「身土不二」を生かしてこそ
著者の指摘に大筋では賛成である。
私は農家の生まれで、小学生時代(昭和20年夏の敗戦時は小学5年生)は農業の手伝いが暮らしの中心であった。毎年の梅雨時の田植えには裸足で水田に入って手伝った。当時はわが家で牛を飼っていたので、その牛を農業用水のため池の土手へ連れて行って草を食わせるのが日課でもあった。夏には沢山の蛍が、近くの田んぼを縫って流れる水の澄んだ小川で舞い踊り、小川にはフナやドジョウが泳いでいた。
こういう牧歌的な風景が一変したのは、戦後間もなく撒布され始めた農薬のせいである。やがて小川は三面コンクリートで固められ、澄んだ水は汚水に変わった。蛍も小魚も姿を消した。さらに減反時代を迎えて田んぼに雑草が生い茂る。
あれから半世紀以上の時を経て、いま近代化農業の行き詰まりに直面している。もちろん工夫努力を重ねて農業再生に取り組んでいる農家も少なくないことは承知している。ただ海外食料と石油に依存する農業(食品加工業なども含む)が生き残ることはむずかしい。
どうするか。著者も指摘しているように「脱グローバリズム・脱石油の農業へ」の転換を模索する以外に妙手は発見しにくい。その際、考えてみるべきことは、東洋思想の「身土不二」(しんどふに=自分の体と生まれた土地とは一体という意。だから四季に従って土地の生産物の旬のモノを食べること)をどう生かすかである。これは最近強調される「地産地消、旬産旬消」(土地の食べ物で旬のモノを大切にすること)の実践でもある。長い目で見れば、それこそが著者の唱える「自給国家」への道となるのではないか。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
人生の四苦をどこまで癒せるか
安原和雄
私は先日、「仏教を生かす日本変革構想 ― 〈四苦〉緩和への必要条件」と題して講話する機会があった。仏教経済思想の視点に立って日本の政治、経済、社会をどう変革すべきかを述べたもので、変革構想の主な柱は、(1)平和憲法と仏教経済思想、(2)簡素な持続型社会をめざして、(3)非暴力(=平和)の世界を求めて ― である。
これらの変革構想が多くの人々の努力で実現すれば、「この世に生まれてきてよかったなあー」といえるだけの現世をつくることはできる。だから現状の変革はどうしても必要だが、釈尊が説いた「人生の四苦=生老病死」を変革によってどこまで癒すことができるか、そこが一人ひとりに遺された切実なテーマであることも指摘した。(09年6月28日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
私の講話は、東京・小金井市の高齢者の集い、「クリスタル」(森田萬之助会長)で行った。「クリスタル」は同市公民館主催の「シルバー大学」講座受講者の有志が「親睦と学習・意見交換を通じて自らを高め相互のコミュニケーションを深め合うこと」を目的に1996年に発足した。この学習会は今回の私の講話で230回を数える。
講話の内容は以下の柱からなっている。
▽仏教経済学の特質 ― 八つの柱と菩薩の精神
▽日本の変革構想(1)― 平和憲法と仏教経済思想
*石橋湛山が憲法9条の平和思想を絶賛
*21世紀版「奴隷解放宣言」が必要
▽日本の変革構想(2)― 簡素な持続型社会をめざして
*経済成長主義よ、さようなら
*病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革
▽日本の変革構想(3)― 非暴力(=平和)の世界を求めて
*自衛隊を非武装の「地球救援隊」(仮称)へ全面改組すること
*地球救援隊構想の概要 ― 非武装・「人道ヘリ」の大量保有を
▽変革プランの実現は人生の「四苦」を癒せるか ?
*「この世に生まれてきてよかったなあー」・・・
▽仏教経済学の特質 ― 八つの柱と菩薩の精神
まず仏教経済学の特質は以下の諸点である。
・一般の大学経済学部で教えられている現代経済学(新自由主義経済論など)への批判から出発している。
・仏教経済学は信仰に基づくものではなく、真理の追究であり、その実践である。
釈尊(仏教の開祖)は実在の人物であり、神ではない。キリスト教、イスラム教などが絶対神を想定して崇めるのとは本質的に異なる。仏教経済学は仏教思想を応用する実践学で、社会科学の新しい分野を切り開く思想である。
例えば仏教の説く「縁起論=空観」、すなわち(イ)諸行無常(万物流転=すべてのものは変化し、移り変わること)と(ロ)諸法無我(相互依存=宇宙をはじめ、地球、自然、人間、政治、経済、社会さらに様々な事物などすべては独自に存在しているのではなく、相互依存関係のもとでのみ存在していること)は、信仰ではなく、客観的な真理である。
・既存の現代経済学と違って、教科書が完成しているわけではない。ここでは私(安原)が構想する「仏教経済学・政策論」(骨子)を提示したい。
仏教経済学の八つの柱(キーワード)はつぎの通り。
一)いのち尊重(人間は自然の一員)
二)非暴力(平和)
三)知足(欲望の自制、「これで十分」)
四)共生(いのちの相互依存)
五)簡素(美、節約、非暴力)
六)利他(慈悲、自利利他円満)
七)持続性(持続可能な「発展」)
八)多様性(多様な自然、人間、社会、文化と個性)
ここでは八つ(漢数字の八は末広がりを意味しているので、あえて八を使っている)の柱のうちの「いのち尊重」と「利他」に限って若干の説明を加える。
・いのち尊重=現代経済学(いのち尊重という観念はない)とは異質であり、ここが仏教経済学の最大の特色でもある。人間と自然(動植物など)のいのちは平等対等であり、人間だけが特別上位にあるとは考えない。人間は自然の一員ととらえる。
・利他=「世のため人のため」の行動が回り回って自分のためにもなるという思想で、仏教経済学はこの利他主義的人間像を前提にして組み立てる。一方、現代経済学は私利、すなわち自分さえよければいいという利己主義的人間像を想定している。
・仏教経済学のいのち尊重と利他は、非暴力、知足、共生、簡素、持続性、多様性につながっていく。一方、現代経済学はいのち無視、私利重視であり、非暴力ではなく暴力(戦争など多様な暴力)、知足ではなく貪欲、共生ではなく孤立、簡素ではなく浪費、持続性ではなく非持続性、多様性ではなく画一性をそれぞれ特質とする。
(くわしい説明は08年10月13日付のブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載の「仏教経済学と八つのキーワード」=これは「仏教経済学・原論」に相当=を参照)
仏教思想にも深い理解を示したイギリスの歴史家、アーノルド・J・トインビー(1889〜1975年)は、「21世紀に要請される人間像は、大乗仏教で説く菩薩の精神を持った人間」、つまり「慈悲と利他」を実践する人間だと言っている。
▽日本の変革構想(1)― 平和憲法と仏教経済思想
21世紀は、地球環境保全を優先する地球環境時代であり、持続型社会、すなわち持続的発展を基調とする社会を創ること、同時に非暴力(=平和)の世界を構築していくこと ― が緊急の課題となっている。
仏教経済学の視点では、上記の課題を達成するための変革構想は、現下の「貪欲社会」、すなわち「暴力社会」から「非暴力・知足・共生社会」、すなわち「平和社会」へと転換していくこと。そのためには平和憲法に盛り込まれている以下の6項目の理念を生かす変革プランが求められる。
憲法前文の平和的共存権
9条「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」
13条「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」
18条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」
25条「生存権、国の生存権保障義務」
27条「労働の権利・義務、労働条件の基準、児童酷使の禁止」
*石橋湛山が憲法9条の平和思想を絶賛
特に前文の平和的共存権と9条「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」の平和理念は仏教の平和思想の反映ともいえる。
1946年3月幣原内閣が「マッカーサー草案」(2月)をもとに練り直し、公表した「憲法改正案要綱」の9条について日蓮宗の仏教者、石橋湛山(注)は、当時つぎのように述べて、9条を絶賛している。
独立国たるいかなる国もいまだかつて夢想したこともない大胆至極の決定だ。この一条を読んで、痛快きわまりなく感じた。我が国民が「全力を挙げてこの高邁なる目的を達成せんことを誓う」ならもはや日本は敗戦国ではない、栄誉に輝く世界平和の一等国に転ずる。これに勝った痛快事があろうか ― と。
(注)石橋湛山=1884〜1973年。日蓮宗の仏教哲学と欧米の自由主義思想を背骨とするジャーナリストの大先達。1956年12月首相の座につくが、わずか2か月間で、病のため首相の座を去った「悲劇の宰相」として知られる。
もう一つ、「9条の会」(憲法9条の改悪に反対する自主的な会で、その数は全国ですでに7000を超えている)に多くのお坊さんたちが参加している事実も指摘しておきたい。
*21世紀版「奴隷解放宣言」が必要
上記の6項目すべてに説明を加えるのは割愛して、ここでは18条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」について説明しておきたい。
18条全文は「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。また犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」
本条は「奴隷制または自由意思によらない苦役」を禁止するアメリカ合衆国憲法修正条項をモデルとして制定されたとされる。
ここでの「奴隷的拘束」(英文ではbondage)とは、「自由な人格を否定する程度に人間の身体的自由を束縛すること」、「苦役」とは、「強制労働のように苦痛を伴う労役」を意味している。
特に憲法で「奴隷的拘束」という文言を明記したこの条項をどれだけの人が自覚して認識しているだろうか。
新自由主義経済路線の下では長時間労働、サービス残業で酷使され、一方新自由主義破綻に伴う大不況とともに、大量の解雇者が続出する現状では奴隷同然、人権無視の扱われ方というほかないだろう。サラリーマンの場合、企業内で自由な批判的意見を表明することは歓迎されない現実がある。この18条の含意を玩味して尊重し、「奴隷的拘束からの自由」の精神を身につけなければ、何よりもわが身を守ることができないだろう。日本の現状では21世紀版「奴隷解放宣言」が必要ともいえるのではないか。
▽日本の変革構想(2)― 簡素な持続型社会をめざして
現代経済学は経済成長主義に今なお執着している。この「成長」には、石油などエネルギーの浪費が必要であり、アメリカのブッシュ前政権が2003年イラク攻撃に踏み込んだ狙いの一つは石油確保であった。
日本の自民・公明政権が自衛隊によるインド洋での米国艦船などへの給油に執着しているのも、また東アフリカのソマリヤ沖海上へ海賊対策の名の下に海上自衛隊を派兵しているのも、中東石油(日本の石油消費量の9割を依存)の確保につながっている。戦争を肯定し、石油をがぶ飲みするような「貪欲社会」に別れを告げるのが持続型社会とシンプルエコノミー(簡素な経済)をめざす変革プランである。
具体的な変革プランの主要な柱はつぎの通り。
イ)経済成長主義よ、さようなら
ロ)循環型社会づくり
ハ)自然エネルギー活用型へ
ニ)クルマ社会の構造変革
ホ)ワークシェアリングの導入
ヘ)「食と農」の再生と食料自給率の向上
ト)病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革
ここではイ)経済成長主義よ、さようなら、ト)病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革 ― に絞って以下に概略紹介する。
*経済成長主義よ、さようなら
経済成長とは経済の量的拡大を意味しているにすぎない。1960年代までのモノ不足の時代には経済成長も必要であった。また経済成長が必要な発展途上国は多い。しかしわが国のGDP(国内総生産)はすでに約500兆円で、米国(約1000兆円)に次ぐ世界第2の巨大な規模で、成熟経済の域に達している。
人間でいえば、熟年で、これ以上体重を増やす必要はない。むしろスリムになった方が健康によいし、なによりも人格、智慧を磨くべき熟年である。
21世紀の日本経済に必要なのは、量的拡大を目指す経済成長主義ではなく、環境も含む生活の質的充実である。
経済成長を万能と考える時代はとっくに終わり、脱「成長主義」の時代に入っている。にもかかわらず現実には政治家も企業経営者もサラリーマンたちも、その多くが今なお経済成長主義にこだわっている。有り体に言えば、「経済成長=豊かさ」という錯覚の奴隷となっている。
米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書二〇〇八〜〇九』はつぎのように指摘している。
時代遅れの教義は「成長が経済の主目標でなくてはならない」ということである。経済成長は自然資本(森林、大気、地下水、淡水、水産資源など自然資源のこと。人工資本=工場、機械、金融などの対概念として使われる)に対する明らかな脅威であるにもかかわらず、依然として基本的な現実的命題である。それは急増する人口と消費主導型の経済が、成長を不可欠なものと考えさせてきたからである。しかし成長(経済の拡大)は必ずしも発展(経済の改善)と一致しない。一九〇〇年から二〇〇〇年までに一人当たりの世界総生産はほぼ五倍に拡大したが、それは人類史上最悪の環境劣化を引き起こし、(中略)大量の貧困を伴った ― と。
*病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革
政府主導の医療改革は国が負担する医療費の削減が目的で、その結果、患者負担が増大する一方、病人はむしろ増えている。病人を減らし、健康人を増やすためには従来の薬・検査漬けの治療型医療から食事・暮らしのあり方の改善を含む予防型医療への転換が急務である。
そこで以下の医療・教育・社会改革案を提起したい。
・70歳以上の高齢者の医療費は、原則無料とする。高齢者の前・後期の差別を廃止する。
・健保本人の自己負担は1〜2割に引き下げるが、糖尿病など生活習慣病は、自己責任の原則に立って自己負担を5割に引き上げる。この引き上げには最低2年間の猶予期間をおく。
〈データ〉糖尿病患者は07年現在2210万人。20歳以上では3人に1人の割合となっている。なお遺伝子型の糖尿病に苦しむ人々には自己責任の原則を適用すべきではないので適切な配慮が必要である。
・一年間に一度も医者にかからなかった者には、健康奨励賞として医療保険料の一部返還請求の権利を認める制度を新設する。「健康に努力した者が報われる社会」づくりの一つの柱として位置づける。
・「いのちと食と健康」の密接な相互関連について小学校時代から教育する。
食事の前に「いただきます」を唱えるのがかつては普通だったが、今は少ない。「いただきます」は「動植物のいのちをいただいて、自分のいのちをつないでいる」ことへの感謝の心を表す言葉である。こういう意識が小学生の頃から社会に浸透すれば、いのちを尊重する風潮が広がり、犯罪も減るのではないか。
▽日本の変革構想(3)― 非暴力(=平和)の世界を求めて
第一回地球サミット(1992年)で採択した「リオ宣言」は「戦争は持続可能な発展を破壊する。平和、発展、環境保全は相互依存的であり、切り離すことはできない」とうたっている。これは地球環境保全のためには平和こそ不可欠であり、軍事力は有害であるという認識を示しているものと読みとることができる。
このリオ宣言の精神を生かして非暴力(=平和)の世界をつくるうえで日本が貢献するためには何が求められるか。
*自衛隊を非武装の「地球救援隊」(仮称)へ全面改組すること
私は自衛隊を非武装の「地球救援隊」へ全面改組することを提案したい。
日米安保=軍事同盟は、憲法の「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」という平和理念と矛盾しているだけではない。日米安保体制を「平和の砦」とみるのは錯覚であり、むしろ平和=非暴力に反する軍事力を盾にした暴力装置というべきである。だから日米安保体制=軍事同盟は解体すべきであり、それこそが平和への道である。
しかもいのち・自然を尊重し、多様ないのちの共生を希求する仏教思想から導き出される日本の政策選択が自衛隊の全面改組による非武装の「地球救援隊」創設である。このような地球救援隊の意義は何か。
第一は今日の多様な非軍事的脅威に対応すること。
脅威をいのち、自然、日常の暮らしへの脅威ととらえれば、主要な脅威は、地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威である。非軍事的脅威は地球温暖化、異常気象、大災害、疾病、貧困、社会的不公正・差別など多様で、これら非軍事的脅威は戦闘機やミサイルによっては防護できないことは指摘するまでもない。もちろん軍事力の直接行使は地球、自然、人命、暮らしへの破壊行為である。
第二は巨大な浪費である軍事費を平和活用すること。
世界の軍事費は総計年間1兆ドル(約100兆円)超の巨額に上っており、限られた財政資金の配分としては不適切であり、巨大な浪費である。この軍事費のかなりの部分を非軍事的脅威への対策費として平和活用すれば、大きな効果が期待できる。
以上から今日の地球環境時代には軍事力はもはや有効ではなく、むしろ世界に脅威を与えることによって「百害あって一利なし」である。武力に依存しない対応策、すなわち地球の生命共同体としてのいのちをいかに生かすかを時代が求めているというべきであり、そこから登場してくるのが非武装の地球救援隊構想である。
*地球救援隊構想の概要 ― 非武装・「人道ヘリ」の大量保有を
地球救援隊構想の概要(理念、目標、達成手段)は次の諸点からなっている。
・地球のいのち・自然を守り、生かすために平和憲法9条の理念(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)を具体化する構想であること。
・地球救援隊の目的は軍事的脅威に対応するものではなく、非軍事的な脅威(大規模災害、感染症などの疾病、不衛生、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援さらに復興・再生をめざすこと。
・活動範囲は内外を問わず、地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な人道的救助・支援の一翼を担うこと。
・自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、教育、訓練などの根本的な質の改革を進めること。
具体的には兵器類を廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品、建設資材などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠となる。それに備えて非武装の「人道ヘリコプター」を大量保有する。
特に教育は重要で、利他精神の涵養、人権尊重に重点を置き、「いのち尊重と共生」を軸に据える新しい安全保障を誇りをもって担える人材を育成する。
▽変革プランの実現は人生の「四苦」を癒せるか ?
釈尊は「人生は苦なり」と説いた。苦とは仏教では「四苦八苦」を指しているが、ここでは四苦〈=生(生まれること)、老、病、死〉について考える。
念のため指摘すれば、「苦」を「苦しみ」、というよりも「思い通りにはならないこと」と理解する方が分かりやすい。生老病死にしても何一つ思い通りにはならない。例えば自分の意志でこの世に生を享けた者は誰一人存在しない。老病死にしても、拒否したいと思っても、いつの日かは人それぞれであるにしても、必ずわが身に迫ってくる。
問題は仏教経済思想による日本の変革構想が四苦の解決にどの程度貢献できるのかである。結論からいえば、変革構想がそのまま実現したとしても、四苦が全面的に解決できるという性質のものではない。いいかえれば四苦を癒すうえで必要条件ではあるが、決して十分条件にはなりえない。
変革構想の実現は、私が提唱する仏教経済学の八つのキーワード(いのち尊重、非暴力、知足、共生、簡素、利他、持続性、多様性)の現世における実現を意味する。地球規模で混乱、破壊、殺戮が広がっている現状からみれば、いのち尊重、非暴力がそれなりに定着する未来社会ではそれぞれの人生は安穏、幸せに向けて質的な変化が生じるだろう。
貪欲(あるいは強欲)な資本主義的市場経済や貪欲な生き方が、2008年秋の世界金融危機、世界大不況の発生による新自由主義路線(私利追求を第一とし、弱肉強食の競争を強要)の破綻を境にして知足、すなわち「足るを知る」経済、生き方に変化し、それが広がっていくことを時代は求めている。
そういう社会では共生、簡素、持続性、多様性を尊重し、それを経済、日常の暮らしの中に生かしていくことも期待できる。貪欲な私利追求ではなく、利他、すなわち「世のため人のために」をモットーにして生きていく人、利他こそが結局は自分の幸せ、人生の充実感をもたらしてくれると思い直す人も増えてくる。
*「この世に生まれてきてよかったなあー」
こういう世の中になれば、「この世に生まれてきてよかったなあー」と感謝せずにはいられない人が増えることは間違いないだろう。こうして仏教経済学がめざす「現世での幸せ」に大きく歩み寄ることはできる。しかし四苦の生老病死のなかの老病死はどこまでも思い通りにはなりにくい。
それを承知の上でやはり仏教経済思想を生かす変革を進めなければならない。昨今の現世は地獄そのままの様相を呈しているからである。変革に精進を重ねるのが大乗仏教でいうところの利他の実践であり、衆生済度(しゅじょうさいど・人間に限らず、いのちあるもの一切の救済)への努力にほかならない。
ここで明恵上人(みょうえしょうにん・1173〜1232年、鎌倉時代初期の名僧、京都市の栂尾で高山寺を再興)の臨命終(りんみょうじゅう)説法に触れておきたい。これは今の一瞬一瞬がわが命が終わるときだと思って真剣に生きなさい、という教えである。臨命終に精進を重ねていれば、死も平常心で迎えることができると説いた。
〈ご参考〉今回の仏教経済学講話「仏教を生かす日本変革構想」と昨(08)年10月13日付でブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載されている講話「仏教経済学と八つのキーワード」の下敷きになっているのが、以下の私(安原)の論文である。
*「二十一世紀と仏教経済学と(下)― 仏教を生かす日本変革構想」(駒澤大学仏教経済研究所編『仏教経済研究』第38号、09年5月刊)
*「二十一世紀と仏教経済学と(上)― いのち・非暴力・知足を軸に」(同『仏教経済研究』第37号、08年5月刊)
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
私は先日、「仏教を生かす日本変革構想 ― 〈四苦〉緩和への必要条件」と題して講話する機会があった。仏教経済思想の視点に立って日本の政治、経済、社会をどう変革すべきかを述べたもので、変革構想の主な柱は、(1)平和憲法と仏教経済思想、(2)簡素な持続型社会をめざして、(3)非暴力(=平和)の世界を求めて ― である。
これらの変革構想が多くの人々の努力で実現すれば、「この世に生まれてきてよかったなあー」といえるだけの現世をつくることはできる。だから現状の変革はどうしても必要だが、釈尊が説いた「人生の四苦=生老病死」を変革によってどこまで癒すことができるか、そこが一人ひとりに遺された切実なテーマであることも指摘した。(09年6月28日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
私の講話は、東京・小金井市の高齢者の集い、「クリスタル」(森田萬之助会長)で行った。「クリスタル」は同市公民館主催の「シルバー大学」講座受講者の有志が「親睦と学習・意見交換を通じて自らを高め相互のコミュニケーションを深め合うこと」を目的に1996年に発足した。この学習会は今回の私の講話で230回を数える。
講話の内容は以下の柱からなっている。
▽仏教経済学の特質 ― 八つの柱と菩薩の精神
▽日本の変革構想(1)― 平和憲法と仏教経済思想
*石橋湛山が憲法9条の平和思想を絶賛
*21世紀版「奴隷解放宣言」が必要
▽日本の変革構想(2)― 簡素な持続型社会をめざして
*経済成長主義よ、さようなら
*病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革
▽日本の変革構想(3)― 非暴力(=平和)の世界を求めて
*自衛隊を非武装の「地球救援隊」(仮称)へ全面改組すること
*地球救援隊構想の概要 ― 非武装・「人道ヘリ」の大量保有を
▽変革プランの実現は人生の「四苦」を癒せるか ?
*「この世に生まれてきてよかったなあー」・・・
▽仏教経済学の特質 ― 八つの柱と菩薩の精神
まず仏教経済学の特質は以下の諸点である。
・一般の大学経済学部で教えられている現代経済学(新自由主義経済論など)への批判から出発している。
・仏教経済学は信仰に基づくものではなく、真理の追究であり、その実践である。
釈尊(仏教の開祖)は実在の人物であり、神ではない。キリスト教、イスラム教などが絶対神を想定して崇めるのとは本質的に異なる。仏教経済学は仏教思想を応用する実践学で、社会科学の新しい分野を切り開く思想である。
例えば仏教の説く「縁起論=空観」、すなわち(イ)諸行無常(万物流転=すべてのものは変化し、移り変わること)と(ロ)諸法無我(相互依存=宇宙をはじめ、地球、自然、人間、政治、経済、社会さらに様々な事物などすべては独自に存在しているのではなく、相互依存関係のもとでのみ存在していること)は、信仰ではなく、客観的な真理である。
・既存の現代経済学と違って、教科書が完成しているわけではない。ここでは私(安原)が構想する「仏教経済学・政策論」(骨子)を提示したい。
仏教経済学の八つの柱(キーワード)はつぎの通り。
一)いのち尊重(人間は自然の一員)
二)非暴力(平和)
三)知足(欲望の自制、「これで十分」)
四)共生(いのちの相互依存)
五)簡素(美、節約、非暴力)
六)利他(慈悲、自利利他円満)
七)持続性(持続可能な「発展」)
八)多様性(多様な自然、人間、社会、文化と個性)
ここでは八つ(漢数字の八は末広がりを意味しているので、あえて八を使っている)の柱のうちの「いのち尊重」と「利他」に限って若干の説明を加える。
・いのち尊重=現代経済学(いのち尊重という観念はない)とは異質であり、ここが仏教経済学の最大の特色でもある。人間と自然(動植物など)のいのちは平等対等であり、人間だけが特別上位にあるとは考えない。人間は自然の一員ととらえる。
・利他=「世のため人のため」の行動が回り回って自分のためにもなるという思想で、仏教経済学はこの利他主義的人間像を前提にして組み立てる。一方、現代経済学は私利、すなわち自分さえよければいいという利己主義的人間像を想定している。
・仏教経済学のいのち尊重と利他は、非暴力、知足、共生、簡素、持続性、多様性につながっていく。一方、現代経済学はいのち無視、私利重視であり、非暴力ではなく暴力(戦争など多様な暴力)、知足ではなく貪欲、共生ではなく孤立、簡素ではなく浪費、持続性ではなく非持続性、多様性ではなく画一性をそれぞれ特質とする。
(くわしい説明は08年10月13日付のブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載の「仏教経済学と八つのキーワード」=これは「仏教経済学・原論」に相当=を参照)
仏教思想にも深い理解を示したイギリスの歴史家、アーノルド・J・トインビー(1889〜1975年)は、「21世紀に要請される人間像は、大乗仏教で説く菩薩の精神を持った人間」、つまり「慈悲と利他」を実践する人間だと言っている。
▽日本の変革構想(1)― 平和憲法と仏教経済思想
21世紀は、地球環境保全を優先する地球環境時代であり、持続型社会、すなわち持続的発展を基調とする社会を創ること、同時に非暴力(=平和)の世界を構築していくこと ― が緊急の課題となっている。
仏教経済学の視点では、上記の課題を達成するための変革構想は、現下の「貪欲社会」、すなわち「暴力社会」から「非暴力・知足・共生社会」、すなわち「平和社会」へと転換していくこと。そのためには平和憲法に盛り込まれている以下の6項目の理念を生かす変革プランが求められる。
憲法前文の平和的共存権
9条「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」
13条「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重」
18条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」
25条「生存権、国の生存権保障義務」
27条「労働の権利・義務、労働条件の基準、児童酷使の禁止」
*石橋湛山が憲法9条の平和思想を絶賛
特に前文の平和的共存権と9条「戦争放棄、軍備及び交戦権の否認」の平和理念は仏教の平和思想の反映ともいえる。
1946年3月幣原内閣が「マッカーサー草案」(2月)をもとに練り直し、公表した「憲法改正案要綱」の9条について日蓮宗の仏教者、石橋湛山(注)は、当時つぎのように述べて、9条を絶賛している。
独立国たるいかなる国もいまだかつて夢想したこともない大胆至極の決定だ。この一条を読んで、痛快きわまりなく感じた。我が国民が「全力を挙げてこの高邁なる目的を達成せんことを誓う」ならもはや日本は敗戦国ではない、栄誉に輝く世界平和の一等国に転ずる。これに勝った痛快事があろうか ― と。
(注)石橋湛山=1884〜1973年。日蓮宗の仏教哲学と欧米の自由主義思想を背骨とするジャーナリストの大先達。1956年12月首相の座につくが、わずか2か月間で、病のため首相の座を去った「悲劇の宰相」として知られる。
もう一つ、「9条の会」(憲法9条の改悪に反対する自主的な会で、その数は全国ですでに7000を超えている)に多くのお坊さんたちが参加している事実も指摘しておきたい。
*21世紀版「奴隷解放宣言」が必要
上記の6項目すべてに説明を加えるのは割愛して、ここでは18条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」について説明しておきたい。
18条全文は「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。また犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」
本条は「奴隷制または自由意思によらない苦役」を禁止するアメリカ合衆国憲法修正条項をモデルとして制定されたとされる。
ここでの「奴隷的拘束」(英文ではbondage)とは、「自由な人格を否定する程度に人間の身体的自由を束縛すること」、「苦役」とは、「強制労働のように苦痛を伴う労役」を意味している。
特に憲法で「奴隷的拘束」という文言を明記したこの条項をどれだけの人が自覚して認識しているだろうか。
新自由主義経済路線の下では長時間労働、サービス残業で酷使され、一方新自由主義破綻に伴う大不況とともに、大量の解雇者が続出する現状では奴隷同然、人権無視の扱われ方というほかないだろう。サラリーマンの場合、企業内で自由な批判的意見を表明することは歓迎されない現実がある。この18条の含意を玩味して尊重し、「奴隷的拘束からの自由」の精神を身につけなければ、何よりもわが身を守ることができないだろう。日本の現状では21世紀版「奴隷解放宣言」が必要ともいえるのではないか。
▽日本の変革構想(2)― 簡素な持続型社会をめざして
現代経済学は経済成長主義に今なお執着している。この「成長」には、石油などエネルギーの浪費が必要であり、アメリカのブッシュ前政権が2003年イラク攻撃に踏み込んだ狙いの一つは石油確保であった。
日本の自民・公明政権が自衛隊によるインド洋での米国艦船などへの給油に執着しているのも、また東アフリカのソマリヤ沖海上へ海賊対策の名の下に海上自衛隊を派兵しているのも、中東石油(日本の石油消費量の9割を依存)の確保につながっている。戦争を肯定し、石油をがぶ飲みするような「貪欲社会」に別れを告げるのが持続型社会とシンプルエコノミー(簡素な経済)をめざす変革プランである。
具体的な変革プランの主要な柱はつぎの通り。
イ)経済成長主義よ、さようなら
ロ)循環型社会づくり
ハ)自然エネルギー活用型へ
ニ)クルマ社会の構造変革
ホ)ワークシェアリングの導入
ヘ)「食と農」の再生と食料自給率の向上
ト)病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革
ここではイ)経済成長主義よ、さようなら、ト)病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革 ― に絞って以下に概略紹介する。
*経済成長主義よ、さようなら
経済成長とは経済の量的拡大を意味しているにすぎない。1960年代までのモノ不足の時代には経済成長も必要であった。また経済成長が必要な発展途上国は多い。しかしわが国のGDP(国内総生産)はすでに約500兆円で、米国(約1000兆円)に次ぐ世界第2の巨大な規模で、成熟経済の域に達している。
人間でいえば、熟年で、これ以上体重を増やす必要はない。むしろスリムになった方が健康によいし、なによりも人格、智慧を磨くべき熟年である。
21世紀の日本経済に必要なのは、量的拡大を目指す経済成長主義ではなく、環境も含む生活の質的充実である。
経済成長を万能と考える時代はとっくに終わり、脱「成長主義」の時代に入っている。にもかかわらず現実には政治家も企業経営者もサラリーマンたちも、その多くが今なお経済成長主義にこだわっている。有り体に言えば、「経済成長=豊かさ」という錯覚の奴隷となっている。
米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書二〇〇八〜〇九』はつぎのように指摘している。
時代遅れの教義は「成長が経済の主目標でなくてはならない」ということである。経済成長は自然資本(森林、大気、地下水、淡水、水産資源など自然資源のこと。人工資本=工場、機械、金融などの対概念として使われる)に対する明らかな脅威であるにもかかわらず、依然として基本的な現実的命題である。それは急増する人口と消費主導型の経済が、成長を不可欠なものと考えさせてきたからである。しかし成長(経済の拡大)は必ずしも発展(経済の改善)と一致しない。一九〇〇年から二〇〇〇年までに一人当たりの世界総生産はほぼ五倍に拡大したが、それは人類史上最悪の環境劣化を引き起こし、(中略)大量の貧困を伴った ― と。
*病人を減らし、健康人を増やす医療・教育・社会改革
政府主導の医療改革は国が負担する医療費の削減が目的で、その結果、患者負担が増大する一方、病人はむしろ増えている。病人を減らし、健康人を増やすためには従来の薬・検査漬けの治療型医療から食事・暮らしのあり方の改善を含む予防型医療への転換が急務である。
そこで以下の医療・教育・社会改革案を提起したい。
・70歳以上の高齢者の医療費は、原則無料とする。高齢者の前・後期の差別を廃止する。
・健保本人の自己負担は1〜2割に引き下げるが、糖尿病など生活習慣病は、自己責任の原則に立って自己負担を5割に引き上げる。この引き上げには最低2年間の猶予期間をおく。
〈データ〉糖尿病患者は07年現在2210万人。20歳以上では3人に1人の割合となっている。なお遺伝子型の糖尿病に苦しむ人々には自己責任の原則を適用すべきではないので適切な配慮が必要である。
・一年間に一度も医者にかからなかった者には、健康奨励賞として医療保険料の一部返還請求の権利を認める制度を新設する。「健康に努力した者が報われる社会」づくりの一つの柱として位置づける。
・「いのちと食と健康」の密接な相互関連について小学校時代から教育する。
食事の前に「いただきます」を唱えるのがかつては普通だったが、今は少ない。「いただきます」は「動植物のいのちをいただいて、自分のいのちをつないでいる」ことへの感謝の心を表す言葉である。こういう意識が小学生の頃から社会に浸透すれば、いのちを尊重する風潮が広がり、犯罪も減るのではないか。
▽日本の変革構想(3)― 非暴力(=平和)の世界を求めて
第一回地球サミット(1992年)で採択した「リオ宣言」は「戦争は持続可能な発展を破壊する。平和、発展、環境保全は相互依存的であり、切り離すことはできない」とうたっている。これは地球環境保全のためには平和こそ不可欠であり、軍事力は有害であるという認識を示しているものと読みとることができる。
このリオ宣言の精神を生かして非暴力(=平和)の世界をつくるうえで日本が貢献するためには何が求められるか。
*自衛隊を非武装の「地球救援隊」(仮称)へ全面改組すること
私は自衛隊を非武装の「地球救援隊」へ全面改組することを提案したい。
日米安保=軍事同盟は、憲法の「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」という平和理念と矛盾しているだけではない。日米安保体制を「平和の砦」とみるのは錯覚であり、むしろ平和=非暴力に反する軍事力を盾にした暴力装置というべきである。だから日米安保体制=軍事同盟は解体すべきであり、それこそが平和への道である。
しかもいのち・自然を尊重し、多様ないのちの共生を希求する仏教思想から導き出される日本の政策選択が自衛隊の全面改組による非武装の「地球救援隊」創設である。このような地球救援隊の意義は何か。
第一は今日の多様な非軍事的脅威に対応すること。
脅威をいのち、自然、日常の暮らしへの脅威ととらえれば、主要な脅威は、地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威である。非軍事的脅威は地球温暖化、異常気象、大災害、疾病、貧困、社会的不公正・差別など多様で、これら非軍事的脅威は戦闘機やミサイルによっては防護できないことは指摘するまでもない。もちろん軍事力の直接行使は地球、自然、人命、暮らしへの破壊行為である。
第二は巨大な浪費である軍事費を平和活用すること。
世界の軍事費は総計年間1兆ドル(約100兆円)超の巨額に上っており、限られた財政資金の配分としては不適切であり、巨大な浪費である。この軍事費のかなりの部分を非軍事的脅威への対策費として平和活用すれば、大きな効果が期待できる。
以上から今日の地球環境時代には軍事力はもはや有効ではなく、むしろ世界に脅威を与えることによって「百害あって一利なし」である。武力に依存しない対応策、すなわち地球の生命共同体としてのいのちをいかに生かすかを時代が求めているというべきであり、そこから登場してくるのが非武装の地球救援隊構想である。
*地球救援隊構想の概要 ― 非武装・「人道ヘリ」の大量保有を
地球救援隊構想の概要(理念、目標、達成手段)は次の諸点からなっている。
・地球のいのち・自然を守り、生かすために平和憲法9条の理念(戦争放棄、軍備及び交戦権の否認)を具体化する構想であること。
・地球救援隊の目的は軍事的脅威に対応するものではなく、非軍事的な脅威(大規模災害、感染症などの疾病、不衛生、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援さらに復興・再生をめざすこと。
・活動範囲は内外を問わず、地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な人道的救助・支援の一翼を担うこと。
・自衛隊の全面改組を前提とする構想だから、自衛隊の装備、予算、人員、教育、訓練などの根本的な質の改革を進めること。
具体的には兵器類を廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品、建設資材などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠となる。それに備えて非武装の「人道ヘリコプター」を大量保有する。
特に教育は重要で、利他精神の涵養、人権尊重に重点を置き、「いのち尊重と共生」を軸に据える新しい安全保障を誇りをもって担える人材を育成する。
▽変革プランの実現は人生の「四苦」を癒せるか ?
釈尊は「人生は苦なり」と説いた。苦とは仏教では「四苦八苦」を指しているが、ここでは四苦〈=生(生まれること)、老、病、死〉について考える。
念のため指摘すれば、「苦」を「苦しみ」、というよりも「思い通りにはならないこと」と理解する方が分かりやすい。生老病死にしても何一つ思い通りにはならない。例えば自分の意志でこの世に生を享けた者は誰一人存在しない。老病死にしても、拒否したいと思っても、いつの日かは人それぞれであるにしても、必ずわが身に迫ってくる。
問題は仏教経済思想による日本の変革構想が四苦の解決にどの程度貢献できるのかである。結論からいえば、変革構想がそのまま実現したとしても、四苦が全面的に解決できるという性質のものではない。いいかえれば四苦を癒すうえで必要条件ではあるが、決して十分条件にはなりえない。
変革構想の実現は、私が提唱する仏教経済学の八つのキーワード(いのち尊重、非暴力、知足、共生、簡素、利他、持続性、多様性)の現世における実現を意味する。地球規模で混乱、破壊、殺戮が広がっている現状からみれば、いのち尊重、非暴力がそれなりに定着する未来社会ではそれぞれの人生は安穏、幸せに向けて質的な変化が生じるだろう。
貪欲(あるいは強欲)な資本主義的市場経済や貪欲な生き方が、2008年秋の世界金融危機、世界大不況の発生による新自由主義路線(私利追求を第一とし、弱肉強食の競争を強要)の破綻を境にして知足、すなわち「足るを知る」経済、生き方に変化し、それが広がっていくことを時代は求めている。
そういう社会では共生、簡素、持続性、多様性を尊重し、それを経済、日常の暮らしの中に生かしていくことも期待できる。貪欲な私利追求ではなく、利他、すなわち「世のため人のために」をモットーにして生きていく人、利他こそが結局は自分の幸せ、人生の充実感をもたらしてくれると思い直す人も増えてくる。
*「この世に生まれてきてよかったなあー」
こういう世の中になれば、「この世に生まれてきてよかったなあー」と感謝せずにはいられない人が増えることは間違いないだろう。こうして仏教経済学がめざす「現世での幸せ」に大きく歩み寄ることはできる。しかし四苦の生老病死のなかの老病死はどこまでも思い通りにはなりにくい。
それを承知の上でやはり仏教経済思想を生かす変革を進めなければならない。昨今の現世は地獄そのままの様相を呈しているからである。変革に精進を重ねるのが大乗仏教でいうところの利他の実践であり、衆生済度(しゅじょうさいど・人間に限らず、いのちあるもの一切の救済)への努力にほかならない。
ここで明恵上人(みょうえしょうにん・1173〜1232年、鎌倉時代初期の名僧、京都市の栂尾で高山寺を再興)の臨命終(りんみょうじゅう)説法に触れておきたい。これは今の一瞬一瞬がわが命が終わるときだと思って真剣に生きなさい、という教えである。臨命終に精進を重ねていれば、死も平常心で迎えることができると説いた。
〈ご参考〉今回の仏教経済学講話「仏教を生かす日本変革構想」と昨(08)年10月13日付でブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載されている講話「仏教経済学と八つのキーワード」の下敷きになっているのが、以下の私(安原)の論文である。
*「二十一世紀と仏教経済学と(下)― 仏教を生かす日本変革構想」(駒澤大学仏教経済研究所編『仏教経済研究』第38号、09年5月刊)
*「二十一世紀と仏教経済学と(上)― いのち・非暴力・知足を軸に」(同『仏教経済研究』第37号、08年5月刊)
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
あの江田ビジョンから学ぶこと
安原和雄
今から半世紀近くも昔の話だが、当時日本社会党書記長だった江田三郎氏が提唱した「社会主義の新しいビジョン」と題するいわゆる江田ビジョンが最近、時折話題に上っている。
その背景として、あの新自由主義路線破綻後の資本主義はどうあるべきか、さらには資本主義後の新しい体制として社会主義社会を展望できるのかどうかに関心が持たれつつあるという事情をあげることができる。これは21世紀の日本型社会主義のイメージを模索する新しい潮流ともいえるのではないか。今、あの江田ビジョンから学ぶことは何か。(09年6月19日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽再浮上してきた「江田ビジョン」
毎日新聞の企画記事「権力の館を歩く― 御厨 貴・東大教授」(09年5月20日付)は「フル回転した江田人脈 東京五輪の年、政権獲得に思いはせ」という見出しで、江田三郎・日本社会党書記長(注)が1962年に唱えた江田ビジョンに言及している。
江田ビジョンとは、.▲瓮螢の高い生活水準▲熟△療按譴靴深匆駟歉祗1儿颪竜腸饑民主主義て本の平和憲法 ― を掲げた望ましい日本型社会主義のビジョンを指している。
そのくわしい内容は江田三郎・日本社会党書記長名で「社会主義の新しいビジョン」と題して、毎日新聞社刊『エコノミスト』誌(1962年10月9日号)に掲載された。全文は当時の『エコノミスト』誌の9頁にも及ぶかなりの長文である。
(注)江田三郎(えだ・さぶろう、1907〜77年)。東京商大(現一橋大学)卒、1950年参院議員に当選。1960年の浅沼稲次郎暗殺後、委員長代行に就任、テレビ討論では柔和な語り口が人気を呼んだ。江田ビジョンは1962年の社会党大会で左派から批判される。63年衆議院に転じ、77年社会党を去り、社会市民連合を結成した。江田五月参院議長は長男。
江田ビジョンの要点を以下に紹介しよう。
1 なぜ新しいビジョンが必要か
*心をゆさぶる社会主義を
私たちの考えている社会主義について長洲一二教授(注)はつぎのように要約されている。「社会主義とは人間の可能性を未来に向かって開花させることだ。人間は歴史のなかで偉大な可能性をきずき上げてきた。(中略)人類史の成果はいま私たちの目の前に巨大な生産力として、(中略)存在する。こんにちの生産力は、本当に人間のために運営されるならば、やがて貧困を地球上から追放する可能性がある。(中略)飢えや抑圧や戦争を追っ払う可能性が、ようやく人間の未来に見えはじめた。社会主義はこの可能性を実現しようとするものだ。
社会主義が資本主義を批判するのは、資本主義がこの可能性の開花をじゃまするからである。(中略)社会主義は不満分子の陰謀ではない。絶望者の反抗ではない。それは希望ゆえの革新であり、人間の可能性を信ずるゆえの創造である。その顔は未来に向かっている」(月刊社会党1962年9月号)。
教授の指摘はあまりに当然のことかもしれない。しかし日本の社会主義者の間では、実はこの当たり前のことが忘れられている。党員をふるい立たせ、全国民の心をゆりうごかすような社会主義のビジョンがなければ、いくら組織の拡大・強化を唱えてみても、それだけではみのり少ないものになるだろう。
(安原注)長洲i一二(ながす・かずじ、1919〜1999年)。当時横浜国立大学教授で、構造改革派の理論家として知られていた。後に神奈川県知事選に出馬し、当選、1975年から20年間5期在任した。
*後進国型のソ連社会主義
日本で社会主義といえば、人々はすぐにいままでのソ連や中国型の社会を連想する。(中略)少なくともそこでは資本主義にもとづく人間による人間の搾取は一掃されている。だからといって、ソ連や中国の社会主義の建設方式がそのまま私たちのお手本になるわけではない。革命前のロシアや中国は後進国であり、革命方式も、社会主義建設のやり方も、後進国独特の性格をもたざるをえなかった。スターリンの独裁体制と政治的テロルの支配という、社会主義にあってはならないものまで生みだされた。
そこで私たちとしては、ソ連、中国型とは異なった近代社会における社会主義のイメージを明確にすることが必要になってくる。
わが党こそ社会主義のビジョンをあきらかにする責任をおわねばならない。
2 未来をきり開く社会主義 ― 人類の到達点と四つの成果
人類は、何千年の歴史のなかで多くの血を流し、汗を流して貴重な成果をきずきあげてきた。その基礎の上に人間のもつ可能性を最大限に開花させてゆくこと、これが社会主義である。人類がこれまで到達した主な成果として、米国の平均した生活水準の高さ、ソ連の徹底した社会保障、英国の議会制民主主義、日本の平和憲法の四つをあげてみた。
*高いアメリカの生活水準
第一にアメリカの現在の生活水準は、こんにちこの地上で人間の経験しているもっとも高い生活水準である。乗用車の普及率が二・五人に一台でほとんどの勤労者が自家用車をもっているという社会は、まだアメリカ以外にはない。
しかしアメリカではその生産力水準にそぐわない社会的不均衡がめだっている。社会保障のいちじるしい立ちおくれ、膨大な富が国防に浪費されるために生ずる学校や病院のいちじるしい不足と都市環境の悪化、教育の機会不均等、スラム街、黒人に対する人種差別、数えあげれば多くの欠陥を指摘できる。
しかしアメリカの勤労者の賃金水準の高さが、こんにち人類の到達した偉大な成果であることに変わりはない。今日、世界各国の国民がアメリカの生活水準を到達すべき目標と感じていることも間違いない。
*ソ連の徹底した社会保障
第二にソ連の徹底した社会保障をあげる。
この国では失業しても病気になっても、年をとって働けなくなっても心配が要らない。国民のすべてが最低の生活を保障されている。
生産手段の公有とか、搾取の一掃といった社会主義の理論はわからなくても、これはすべての国民がそのまま受けいれうることである。
かりに民主主義の面でおくれがあるにしても、この地球上で最初に社会主義をうちたて、失業や病気や老年についての社会的不安を一掃したというソ連国民の偉大な事業は否定できない。
*英国の議会制民主主義
第三に人類の到達した大きな成果として、イギリスの議会制民主主義を考えてみた。
イギリスの労働者は、獲得した民主主義と福祉国家的水準に一応満足して、さらに社会主義へ向かって前進するという気迫に欠けているといわれる。
しかしそれにしても、イギリスの国民がつくりあげた議会制民主主義は立派である。普通選挙権、言論・集会・結社の自由、そして国民のすべてが国の政治生活に参加し、自分の欲する政党を政権につけ、欲しない政党を政権から追い払う自由、これはいかなる場合にも否定できない人間の基本的な権利だと思う。
*日本の平和憲法
人類の到達した偉大な成果のひとつとして日本の「平和憲法」をあげうることは、日本民族の誇りである。
第二次大戦中に私たちが体験したものは、実に筆舌につくしがたいものであった。国民の多くは家を焼かれ、家族を失った。なによりも痛ましいものは、人類最初の経験である原子爆弾による非人道的な破壊であった。これらの苦しみと悲しみのなかからほとばしり出た人々の願い、二度と戦争はしたくないという国民の悲願、それが憲法九条にほかならない。
今日、人類は核兵器を廃止し、全面軍縮を実現して平和に生きるか、それとも人類史のおわりを記録しなければならないか、二つに一つしかありえない。このとき、わが憲法第九条は、まさに千金のおもみをもって燦然と輝いている。現在、世界に大きく高まりつつある核実験禁止と全面軍縮の行動は、言葉を換えていえば、憲法九条の規定を世界各国の憲法に書き込ませる運動にほかならない。
3 新しいビジョンをつくろう
*日本にふさわしい社会主義を
人類のきずきあげた偉大な成果を考えながら、日本の体質にあった、日本にふさわしい社会主義のビジョンをつくりあげてゆきたい。これが私の念願である。
人類が今日までになしとげた達成に比べると、日本の現実は、憲法第九条を別とすれば、あまりにも貧弱である。この九条でさえ、アメリカの沖縄占領や自衛隊の拡充、核兵器の持ち込みなどの動きによってふみにじられ、おびやかされている。
たしかに日本の工業生産力は、世界一流のものになってきている。世界レベルの工場,そこに世界最新の機械がすえつけられている。しかし一歩工場の外に出ると、交通事故の不安におののきながら道を歩く。晴天がつづけば、水飢饉におちいり、大雨が降れば、水害に見舞われる。住宅条件はあまりにもひどい。過剰設備になやむ世界一流の大工場と、世界三流、四流の消費生活と貧弱な社会施設、だれが考えてもあまりに極端なアンバランスである。
*豊かな生活を保障する物質的条件
しかしこの近代的な工業力は、それが合理的に管理され、利用されるなら、すべての日本国民にそうとう豊かな生活を保障する物質的条件となりうるであろう。これは戦前の軽工業中心の工業力ではとうてい期待できない条件であった。ソ連の社会主義のように、消費をきりつめて重工業を建設する必要は、いまの日本にはない。
労働者の権利の保障も、すべての労働組合が弾圧されていった戦前と比べてはるかに前進したことは事実である。国民は普通選挙権と言論・集会・結社の自由をもち、自分の支持する政党を政権につける権利をもっている。戦前の治安維持法のもとでの選挙とは大変な違いだといわねばならない。
私たちが日本国民のおかれている現実のなかに、深い苦しみと悩みをみるだけでなく、そこに未来への希望をもみいだすのは、こうした違いのなかに、社会主義へ向かって進むとどめがたい時代の流れ、歴史の歯車の動きを感ずるからである。
▽〈安原の感想〉(1)― 江田ビジョンにかかわった一人として
この江田論文が『エコノミスト』誌に掲載されるに至った舞台裏をまず紹介したい。当時の江田社会党書記長に原稿を依頼したのは、実は私(安原)である。私は1960(昭和35)年5月地方支局から東京本社社会部に配属になり、警察担当のかたわら「60年安保」すなわち日米安保反対闘争のデモ取材などに右往左往する駆け出し記者であった。
2年後の62年春、エコノミスト編集部に移って間もない頃、江田ビジョンなるものが浮上してきた。「高い米国の生活水準」などの四本柱は分かっていたが、それ以上のくわしい内容は分からない。
編集会議で「江田本人に書いて貰おうではないか」という話になって、依頼役を私が引き受け、国会の議員控え室へ出掛けた。江田氏は碁を打ちながら、「ああ、分かった」といって、あっさり承諾してもらえたのにはいささか拍子抜けした。
というのは当時エコノミスト編集部には社会党左派系に食い込んでいたベテラン記者(すでに故人)がいて、その記者が「江田は書かないよ」と私に忠告(?)してくれていたからである。社会党右派系の江田氏の論文を『エコノミスト』誌に載せるのは好ましくないという思惑があったのかも知れない。
それはさておき、後で分かったことだが、江田氏本人のほか、長洲一二教授、竹中一雄国民経済研究協会主任研究員(後に同協会会長などを歴任)ら当時の構造改革派の面々が月に一回程度集まっては江田ビジョンを練っていた。『エコノミスト』誌掲載の論文「江田ビジョン」を代理執筆したのは、その一人の竹中氏である。
江田論文が公表されてから、約一か月後の1962年11月開かれた社会党の党大会で「江田ビジョン」が左派からの猛反撃に遭い、書記長を辞任するという展開となった。そのニュースは一面のトップ記事で大きく報道された。駆け出し記者として江田ビジョンにかかわった私にとっては忘れがたい歴史の一断面である。
▽〈安原の感想〉(2) ― 「日本にふさわしい社会主義」と憲法九条、二五条
さて私自身として江田ビジョンを今の時点でどう評価するかに触れないわけにはゆかない。原稿を依頼してから半世紀近い時を経た今、改めて全文を再読してみて、つぎの二点は高く評価したいと考える。
第一は「日本にふさわしい社会主義」という視点である。
第二は日本国平和憲法の九条を高く評価している点である。
江田ビジョンがソ連型社会主義全体をモデルとして評価しなかったのは先見の明があったといえる。その後、ソ連型社会主義は崩壊し、すでにこの世に存在しないからである。他国の資本主義にせよ、社会主義にせよ、それをそのまま模倣したがるという日本的悪癖は返上したい。米国型の新自由主義路線に追随して、世界中が経済破綻と世界大不況に陥ったのが何よりの教訓である。社会主義も同様である。
では第一の「日本にふさわしい社会主義」とはどういう社会主義なのか。日本の社会主義を展望するとすれば、それは「日本にふさわしい社会主義」、つまり日本型社会主義以外にはあり得ない。問題は日本型社会主義を今の時点で展望することが可能かどうか、もし可能であれば、具体的にどういうイメージなのか、である。社会主義の決め手として資本(生産手段)の私的所有を社会的所有(あるいは共同所有)へと転換すること、ととらえるのは、従来型の発想で、あまり魅力的とはいえない。土地や一部の産業には適用できても、それ以上ではない。
私の目下の関心は、従来型の社会主義論よりも、むしろ第二の憲法九条を高く評価している点にある。結論からいえば、先駆的であり、「世界の宝」ともいうべき九条の理念(戦争放棄、非武装、交戦権の否認)を単なる理念にとどめないで、具体化していく必要がある。ソ連、それに今の中国もそうだが、巨大な軍事力を抱え込んだ社会主義国家は壮大な自己矛盾というほかない。社会主義の名に値しない。
資本主義社会とは、資本の私的利益を最大限尊重する社会であり、一方、社会主義社会とは、社会的利益、すなわち人権、自由、民主主義の尊重さらに地球と自然を土台とする国民生活の質的充実を最大限尊重する社会である。いいかえれば、市民、民衆が主役として責任を持ってつくっていく社会体制である。21世紀の新しい日本型社会主義をそういうイメージでとらえれば、これからの社会主義社会は、憲法九条のほかにもう一つ、二五条(生存権、国の生存権保障義務)を軸に据えた日本型を構想できないだろうか。
なぜ二五条も軸になるのか。江田ビジョンが描く「米国の高い生活水準」はもはやモデルにはなり得ない。なぜなら米国は所得格差の顕著な拡大によって貧困層が異常に肥大化し、先進国一番の貧困大国に転落しているからである。日本も今では先進国でビリ(米国)から二番目の貧困大国である。日米の経済大国がそろって貧困大国という不名誉な地位に墜(お)ちている。だから国民生活の質的充実を実現していくためには、生存権をどう実のあるものにしていくかが大きな課題となってきた。
▽〈安原の感想〉(3)― 日米安保破棄と九条、二五条の追加条項
もう一つ、日本型社会主義の前提として日米安保体制の破棄が不可欠である。日米安保は日米間の軍事同盟(安保条約三条=自衛力の維持発展、五条=共同防衛、六条=基地の許与=などで規定)と経済同盟(安保条約二条=日米間の経済的協力の促進=で規定)という二つの同盟の土台となっている。
しかも見逃せないのは、軍事同盟が憲法九条(非武装など)の理念を空洞化させ、一方、経済同盟が憲法二五条(国民の生存権の保障)の理念を骨抜きにしている点である。従って九条と二五条の理念を名実ともによみがえらせるためには、安保破棄が不可欠である。
日米安保破棄とともに憲法九条と二五条の理念を一段と強化する必要がある。具体案として「持続的発展」(第一回地球サミットが採択した「リオ宣言」の「持続可能な発展=Sustainable Development」)を軸とする憲法追加条項を提案したい。
これは『新・世界環境保全戦略』(世界自然保護基金などが1991年、国連主催の第一回地球サミットに先立って発表した提言)が「政府は憲法その他、国政の基本となる文書において持続可能な社会の規範を明記すべきである」と憲法条項追加論を提起しているのにヒントを得た。具体案(私案)は次の通り。
*九条に「国及び国民は、世界の平和と持続的発展のために、世界の核を含む大量破壊兵器の廃絶と通常軍事力の顕著な削減または撤廃に向けて努力する」を追加する。
*二五条に「国、企業、各種団体及び国民は生産、流通、消費及び廃棄のすべての経済及び生活の分野において、地球の自然環境と共生できる範囲内で持続的発展に努める」を新たに盛り込む。
以上のような九条と二五条を軸とする社会主義をイメージするのは、従来の社会主義論からみれば、おそらく異端である。しかし異端を理由に排するのは視野狭窄症である。いうまでもなく社会主義論 ― 社会主義への道と社会主義のイメージと ― は、国ごとに多様であっていいはずであり、また多様でなければ現実性をもたないだろう。
〈ご参考〉:「安原和雄の仏教経済塾」に09年6月8日付で掲載されているつぎの記事は日本型社会主義への模索の現状を報告している。
《「変革のアソシエ」が発足 資本主義体制の克服を目指して》
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
今から半世紀近くも昔の話だが、当時日本社会党書記長だった江田三郎氏が提唱した「社会主義の新しいビジョン」と題するいわゆる江田ビジョンが最近、時折話題に上っている。
その背景として、あの新自由主義路線破綻後の資本主義はどうあるべきか、さらには資本主義後の新しい体制として社会主義社会を展望できるのかどうかに関心が持たれつつあるという事情をあげることができる。これは21世紀の日本型社会主義のイメージを模索する新しい潮流ともいえるのではないか。今、あの江田ビジョンから学ぶことは何か。(09年6月19日掲載、公共空間「ちきゅう座」、インターネット新聞「日刊ベリタ」に転載)
▽再浮上してきた「江田ビジョン」
毎日新聞の企画記事「権力の館を歩く― 御厨 貴・東大教授」(09年5月20日付)は「フル回転した江田人脈 東京五輪の年、政権獲得に思いはせ」という見出しで、江田三郎・日本社会党書記長(注)が1962年に唱えた江田ビジョンに言及している。
江田ビジョンとは、.▲瓮螢の高い生活水準▲熟△療按譴靴深匆駟歉祗1儿颪竜腸饑民主主義て本の平和憲法 ― を掲げた望ましい日本型社会主義のビジョンを指している。
そのくわしい内容は江田三郎・日本社会党書記長名で「社会主義の新しいビジョン」と題して、毎日新聞社刊『エコノミスト』誌(1962年10月9日号)に掲載された。全文は当時の『エコノミスト』誌の9頁にも及ぶかなりの長文である。
(注)江田三郎(えだ・さぶろう、1907〜77年)。東京商大(現一橋大学)卒、1950年参院議員に当選。1960年の浅沼稲次郎暗殺後、委員長代行に就任、テレビ討論では柔和な語り口が人気を呼んだ。江田ビジョンは1962年の社会党大会で左派から批判される。63年衆議院に転じ、77年社会党を去り、社会市民連合を結成した。江田五月参院議長は長男。
江田ビジョンの要点を以下に紹介しよう。
1 なぜ新しいビジョンが必要か
*心をゆさぶる社会主義を
私たちの考えている社会主義について長洲一二教授(注)はつぎのように要約されている。「社会主義とは人間の可能性を未来に向かって開花させることだ。人間は歴史のなかで偉大な可能性をきずき上げてきた。(中略)人類史の成果はいま私たちの目の前に巨大な生産力として、(中略)存在する。こんにちの生産力は、本当に人間のために運営されるならば、やがて貧困を地球上から追放する可能性がある。(中略)飢えや抑圧や戦争を追っ払う可能性が、ようやく人間の未来に見えはじめた。社会主義はこの可能性を実現しようとするものだ。
社会主義が資本主義を批判するのは、資本主義がこの可能性の開花をじゃまするからである。(中略)社会主義は不満分子の陰謀ではない。絶望者の反抗ではない。それは希望ゆえの革新であり、人間の可能性を信ずるゆえの創造である。その顔は未来に向かっている」(月刊社会党1962年9月号)。
教授の指摘はあまりに当然のことかもしれない。しかし日本の社会主義者の間では、実はこの当たり前のことが忘れられている。党員をふるい立たせ、全国民の心をゆりうごかすような社会主義のビジョンがなければ、いくら組織の拡大・強化を唱えてみても、それだけではみのり少ないものになるだろう。
(安原注)長洲i一二(ながす・かずじ、1919〜1999年)。当時横浜国立大学教授で、構造改革派の理論家として知られていた。後に神奈川県知事選に出馬し、当選、1975年から20年間5期在任した。
*後進国型のソ連社会主義
日本で社会主義といえば、人々はすぐにいままでのソ連や中国型の社会を連想する。(中略)少なくともそこでは資本主義にもとづく人間による人間の搾取は一掃されている。だからといって、ソ連や中国の社会主義の建設方式がそのまま私たちのお手本になるわけではない。革命前のロシアや中国は後進国であり、革命方式も、社会主義建設のやり方も、後進国独特の性格をもたざるをえなかった。スターリンの独裁体制と政治的テロルの支配という、社会主義にあってはならないものまで生みだされた。
そこで私たちとしては、ソ連、中国型とは異なった近代社会における社会主義のイメージを明確にすることが必要になってくる。
わが党こそ社会主義のビジョンをあきらかにする責任をおわねばならない。
2 未来をきり開く社会主義 ― 人類の到達点と四つの成果
人類は、何千年の歴史のなかで多くの血を流し、汗を流して貴重な成果をきずきあげてきた。その基礎の上に人間のもつ可能性を最大限に開花させてゆくこと、これが社会主義である。人類がこれまで到達した主な成果として、米国の平均した生活水準の高さ、ソ連の徹底した社会保障、英国の議会制民主主義、日本の平和憲法の四つをあげてみた。
*高いアメリカの生活水準
第一にアメリカの現在の生活水準は、こんにちこの地上で人間の経験しているもっとも高い生活水準である。乗用車の普及率が二・五人に一台でほとんどの勤労者が自家用車をもっているという社会は、まだアメリカ以外にはない。
しかしアメリカではその生産力水準にそぐわない社会的不均衡がめだっている。社会保障のいちじるしい立ちおくれ、膨大な富が国防に浪費されるために生ずる学校や病院のいちじるしい不足と都市環境の悪化、教育の機会不均等、スラム街、黒人に対する人種差別、数えあげれば多くの欠陥を指摘できる。
しかしアメリカの勤労者の賃金水準の高さが、こんにち人類の到達した偉大な成果であることに変わりはない。今日、世界各国の国民がアメリカの生活水準を到達すべき目標と感じていることも間違いない。
*ソ連の徹底した社会保障
第二にソ連の徹底した社会保障をあげる。
この国では失業しても病気になっても、年をとって働けなくなっても心配が要らない。国民のすべてが最低の生活を保障されている。
生産手段の公有とか、搾取の一掃といった社会主義の理論はわからなくても、これはすべての国民がそのまま受けいれうることである。
かりに民主主義の面でおくれがあるにしても、この地球上で最初に社会主義をうちたて、失業や病気や老年についての社会的不安を一掃したというソ連国民の偉大な事業は否定できない。
*英国の議会制民主主義
第三に人類の到達した大きな成果として、イギリスの議会制民主主義を考えてみた。
イギリスの労働者は、獲得した民主主義と福祉国家的水準に一応満足して、さらに社会主義へ向かって前進するという気迫に欠けているといわれる。
しかしそれにしても、イギリスの国民がつくりあげた議会制民主主義は立派である。普通選挙権、言論・集会・結社の自由、そして国民のすべてが国の政治生活に参加し、自分の欲する政党を政権につけ、欲しない政党を政権から追い払う自由、これはいかなる場合にも否定できない人間の基本的な権利だと思う。
*日本の平和憲法
人類の到達した偉大な成果のひとつとして日本の「平和憲法」をあげうることは、日本民族の誇りである。
第二次大戦中に私たちが体験したものは、実に筆舌につくしがたいものであった。国民の多くは家を焼かれ、家族を失った。なによりも痛ましいものは、人類最初の経験である原子爆弾による非人道的な破壊であった。これらの苦しみと悲しみのなかからほとばしり出た人々の願い、二度と戦争はしたくないという国民の悲願、それが憲法九条にほかならない。
今日、人類は核兵器を廃止し、全面軍縮を実現して平和に生きるか、それとも人類史のおわりを記録しなければならないか、二つに一つしかありえない。このとき、わが憲法第九条は、まさに千金のおもみをもって燦然と輝いている。現在、世界に大きく高まりつつある核実験禁止と全面軍縮の行動は、言葉を換えていえば、憲法九条の規定を世界各国の憲法に書き込ませる運動にほかならない。
3 新しいビジョンをつくろう
*日本にふさわしい社会主義を
人類のきずきあげた偉大な成果を考えながら、日本の体質にあった、日本にふさわしい社会主義のビジョンをつくりあげてゆきたい。これが私の念願である。
人類が今日までになしとげた達成に比べると、日本の現実は、憲法第九条を別とすれば、あまりにも貧弱である。この九条でさえ、アメリカの沖縄占領や自衛隊の拡充、核兵器の持ち込みなどの動きによってふみにじられ、おびやかされている。
たしかに日本の工業生産力は、世界一流のものになってきている。世界レベルの工場,そこに世界最新の機械がすえつけられている。しかし一歩工場の外に出ると、交通事故の不安におののきながら道を歩く。晴天がつづけば、水飢饉におちいり、大雨が降れば、水害に見舞われる。住宅条件はあまりにもひどい。過剰設備になやむ世界一流の大工場と、世界三流、四流の消費生活と貧弱な社会施設、だれが考えてもあまりに極端なアンバランスである。
*豊かな生活を保障する物質的条件
しかしこの近代的な工業力は、それが合理的に管理され、利用されるなら、すべての日本国民にそうとう豊かな生活を保障する物質的条件となりうるであろう。これは戦前の軽工業中心の工業力ではとうてい期待できない条件であった。ソ連の社会主義のように、消費をきりつめて重工業を建設する必要は、いまの日本にはない。
労働者の権利の保障も、すべての労働組合が弾圧されていった戦前と比べてはるかに前進したことは事実である。国民は普通選挙権と言論・集会・結社の自由をもち、自分の支持する政党を政権につける権利をもっている。戦前の治安維持法のもとでの選挙とは大変な違いだといわねばならない。
私たちが日本国民のおかれている現実のなかに、深い苦しみと悩みをみるだけでなく、そこに未来への希望をもみいだすのは、こうした違いのなかに、社会主義へ向かって進むとどめがたい時代の流れ、歴史の歯車の動きを感ずるからである。
▽〈安原の感想〉(1)― 江田ビジョンにかかわった一人として
この江田論文が『エコノミスト』誌に掲載されるに至った舞台裏をまず紹介したい。当時の江田社会党書記長に原稿を依頼したのは、実は私(安原)である。私は1960(昭和35)年5月地方支局から東京本社社会部に配属になり、警察担当のかたわら「60年安保」すなわち日米安保反対闘争のデモ取材などに右往左往する駆け出し記者であった。
2年後の62年春、エコノミスト編集部に移って間もない頃、江田ビジョンなるものが浮上してきた。「高い米国の生活水準」などの四本柱は分かっていたが、それ以上のくわしい内容は分からない。
編集会議で「江田本人に書いて貰おうではないか」という話になって、依頼役を私が引き受け、国会の議員控え室へ出掛けた。江田氏は碁を打ちながら、「ああ、分かった」といって、あっさり承諾してもらえたのにはいささか拍子抜けした。
というのは当時エコノミスト編集部には社会党左派系に食い込んでいたベテラン記者(すでに故人)がいて、その記者が「江田は書かないよ」と私に忠告(?)してくれていたからである。社会党右派系の江田氏の論文を『エコノミスト』誌に載せるのは好ましくないという思惑があったのかも知れない。
それはさておき、後で分かったことだが、江田氏本人のほか、長洲一二教授、竹中一雄国民経済研究協会主任研究員(後に同協会会長などを歴任)ら当時の構造改革派の面々が月に一回程度集まっては江田ビジョンを練っていた。『エコノミスト』誌掲載の論文「江田ビジョン」を代理執筆したのは、その一人の竹中氏である。
江田論文が公表されてから、約一か月後の1962年11月開かれた社会党の党大会で「江田ビジョン」が左派からの猛反撃に遭い、書記長を辞任するという展開となった。そのニュースは一面のトップ記事で大きく報道された。駆け出し記者として江田ビジョンにかかわった私にとっては忘れがたい歴史の一断面である。
▽〈安原の感想〉(2) ― 「日本にふさわしい社会主義」と憲法九条、二五条
さて私自身として江田ビジョンを今の時点でどう評価するかに触れないわけにはゆかない。原稿を依頼してから半世紀近い時を経た今、改めて全文を再読してみて、つぎの二点は高く評価したいと考える。
第一は「日本にふさわしい社会主義」という視点である。
第二は日本国平和憲法の九条を高く評価している点である。
江田ビジョンがソ連型社会主義全体をモデルとして評価しなかったのは先見の明があったといえる。その後、ソ連型社会主義は崩壊し、すでにこの世に存在しないからである。他国の資本主義にせよ、社会主義にせよ、それをそのまま模倣したがるという日本的悪癖は返上したい。米国型の新自由主義路線に追随して、世界中が経済破綻と世界大不況に陥ったのが何よりの教訓である。社会主義も同様である。
では第一の「日本にふさわしい社会主義」とはどういう社会主義なのか。日本の社会主義を展望するとすれば、それは「日本にふさわしい社会主義」、つまり日本型社会主義以外にはあり得ない。問題は日本型社会主義を今の時点で展望することが可能かどうか、もし可能であれば、具体的にどういうイメージなのか、である。社会主義の決め手として資本(生産手段)の私的所有を社会的所有(あるいは共同所有)へと転換すること、ととらえるのは、従来型の発想で、あまり魅力的とはいえない。土地や一部の産業には適用できても、それ以上ではない。
私の目下の関心は、従来型の社会主義論よりも、むしろ第二の憲法九条を高く評価している点にある。結論からいえば、先駆的であり、「世界の宝」ともいうべき九条の理念(戦争放棄、非武装、交戦権の否認)を単なる理念にとどめないで、具体化していく必要がある。ソ連、それに今の中国もそうだが、巨大な軍事力を抱え込んだ社会主義国家は壮大な自己矛盾というほかない。社会主義の名に値しない。
資本主義社会とは、資本の私的利益を最大限尊重する社会であり、一方、社会主義社会とは、社会的利益、すなわち人権、自由、民主主義の尊重さらに地球と自然を土台とする国民生活の質的充実を最大限尊重する社会である。いいかえれば、市民、民衆が主役として責任を持ってつくっていく社会体制である。21世紀の新しい日本型社会主義をそういうイメージでとらえれば、これからの社会主義社会は、憲法九条のほかにもう一つ、二五条(生存権、国の生存権保障義務)を軸に据えた日本型を構想できないだろうか。
なぜ二五条も軸になるのか。江田ビジョンが描く「米国の高い生活水準」はもはやモデルにはなり得ない。なぜなら米国は所得格差の顕著な拡大によって貧困層が異常に肥大化し、先進国一番の貧困大国に転落しているからである。日本も今では先進国でビリ(米国)から二番目の貧困大国である。日米の経済大国がそろって貧困大国という不名誉な地位に墜(お)ちている。だから国民生活の質的充実を実現していくためには、生存権をどう実のあるものにしていくかが大きな課題となってきた。
▽〈安原の感想〉(3)― 日米安保破棄と九条、二五条の追加条項
もう一つ、日本型社会主義の前提として日米安保体制の破棄が不可欠である。日米安保は日米間の軍事同盟(安保条約三条=自衛力の維持発展、五条=共同防衛、六条=基地の許与=などで規定)と経済同盟(安保条約二条=日米間の経済的協力の促進=で規定)という二つの同盟の土台となっている。
しかも見逃せないのは、軍事同盟が憲法九条(非武装など)の理念を空洞化させ、一方、経済同盟が憲法二五条(国民の生存権の保障)の理念を骨抜きにしている点である。従って九条と二五条の理念を名実ともによみがえらせるためには、安保破棄が不可欠である。
日米安保破棄とともに憲法九条と二五条の理念を一段と強化する必要がある。具体案として「持続的発展」(第一回地球サミットが採択した「リオ宣言」の「持続可能な発展=Sustainable Development」)を軸とする憲法追加条項を提案したい。
これは『新・世界環境保全戦略』(世界自然保護基金などが1991年、国連主催の第一回地球サミットに先立って発表した提言)が「政府は憲法その他、国政の基本となる文書において持続可能な社会の規範を明記すべきである」と憲法条項追加論を提起しているのにヒントを得た。具体案(私案)は次の通り。
*九条に「国及び国民は、世界の平和と持続的発展のために、世界の核を含む大量破壊兵器の廃絶と通常軍事力の顕著な削減または撤廃に向けて努力する」を追加する。
*二五条に「国、企業、各種団体及び国民は生産、流通、消費及び廃棄のすべての経済及び生活の分野において、地球の自然環境と共生できる範囲内で持続的発展に努める」を新たに盛り込む。
以上のような九条と二五条を軸とする社会主義をイメージするのは、従来の社会主義論からみれば、おそらく異端である。しかし異端を理由に排するのは視野狭窄症である。いうまでもなく社会主義論 ― 社会主義への道と社会主義のイメージと ― は、国ごとに多様であっていいはずであり、また多様でなければ現実性をもたないだろう。
〈ご参考〉:「安原和雄の仏教経済塾」に09年6月8日付で掲載されているつぎの記事は日本型社会主義への模索の現状を報告している。
《「変革のアソシエ」が発足 資本主義体制の克服を目指して》
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
環境不熱心国・日本の汚名返上を
安原和雄
麻生首相が発表した日本の温室効果ガス排出削減に関する中期目標に批判が広がっている。欧州諸国が基準年(1990年)比で20%以上を削減させる中期目標を掲げているのに対し、日本は同年比8%削減といかにも低いからである。経済界の消極的な姿勢の反映であり、このままでは「環境不熱心国・日本」という汚名を着せられることにもなりかねない。そういう汚名をどう返上していくか、そのカギは温室効果ガス排出を大幅に削減し、低炭素社会づくりを急ぐことである。それは新たな機会創出という変革への挑戦でもある。(09年6月13日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
▽中期目標(90年比)― 日本8%減、ヨーロッパ諸国20%以上減
麻生首相が6月10日、発表した二酸化炭素(CO2)など温室効果ガスの排出削減の中期目標は以下の通りである。
・2020年までに、日本全体の排出量を05年に比べて15%削減する。
・上記の15%削減は従来基準の1990年比では8%減にとどまる。
15%削減と8%減という数字の開きはどこから生じるのか。1997年に採択された京都議定書では日本は「08〜12年に90年比で6%減」を約束していた。ところが実際には6%減どころか、約9%の増加となっている。このため基準年を、増えた後の05年に移動させれば、削減幅は見かけでは大きくなる。こういう操作で削減幅を大きく見せているが、他の先進国はどうなっているのか。日本も含めて各国の中期目標(削減幅)、基準年は以下の通り。
日本=15%(基準年2005年)、8%(基準年90年)
米国=14%(同05年)、4%(同90年)
欧州連合(EU)・基準年はいずれもみな90年=20%または30%、ドイツ=40%、イギリス=34%、スウェーデン=30%、フランス=20%、ノルウェー=30%
以上から分かるように日本の基準年は米国式の05年に同調しており、基準年を90年にとれば日米ともに削減幅は一ケタにとどまり、一方、欧州諸国は20%を超えている。
▽日本政府の中期目標をメディアはどう論じたか
大手メディアは中期目標についてどう論じたか。まず大手紙社説(6月11日付)の見出しを紹介する。
*日本経済新聞=国際交渉を主導できる中期目標なのか
*朝日新聞=15%削減 低炭素革命の起爆剤に
*毎日新聞=中期削減目標 意志と理念が伝わらぬ
*東京新聞=数値より大切なもの 温暖化対策の中期目標
*読売新聞=CO2中期目標 多難な国際交渉が待っている
一読した印象では日本経済新聞社説が批判・疑問点を指摘しており、一方、読売新聞社説は麻生太郎首相の立場と経済界の考え方を反映させようと努める社説となっていて、対照的である。そこで2つの社説(要点)を以下に紹介する。
〈日本経済新聞〉
麻生太郎首相が決断した2020年までに温暖化ガスの排出を05年比で15%削減するという中期目標でまず問われるのは論拠である。
中期目標は排出削減を比較する基準年をこれまで議論されてきた1990年から05年に移し、数値を米欧とそろえてみせている。だが、05年の排出量は欧州が90年比で減っているのに対し日本は約8%増。増加年を基準にして見かけの数値を高め、問題の本質をそらしていないか。
温暖化防止は将来の子孫に残すべき地球のありようを問うている。科学が予見している地球規模の気候変動と被害を抑える強い意志があるか。それが問題の本質である。目先の利益にとらわれず、将来をにらんで経済や社会を変える。その強い意志を示すのが政治の役割である。
中期目標からこの強い意志はほとんど見えてこない。欧州連合(EU)は2100年に産業革命以来の温度上昇を2度以下に抑えるとの理念のもと、20年に90年比20%減の目標を掲げている。EUと理念を共有できず、溝は深まったのではないか。
国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は気温上昇を2〜3度に抑えるには先進国が20年までに排出量を90年比で25〜40%削減する必要があると指摘している。次期枠組み交渉はこれを前提に議論を進めているが、日本の中期目標はそれとの整合性を問われるだろう。
〈読売新聞〉
大幅な削減には厳しい排出規制が必要だ。それは経済の停滞や国民の負担増につながる。14%の削減でさえ、国内総生産(GDP)を押し下げ、失業者が11万〜19万人増えるという試算がある。
削減率について、首相が「大きいほど良いという精神論を繰り返すのは、国民に対して無責任だ」と指摘したのは的を射ている。
忘れてはならないのは、公平性の視点である。首相は、「日本だけが不利になることがないように、国際交渉に全力で取り組む」と語った。
先進国間で省エネの進展に応じて削減率を割り当てる手法の導入などを訴えていく必要がある。
大量排出国の中国、インドの参加が、ポスト京都の絶対条件である。しかし、一方で、両国の要求を丸のみして、非現実的な削減率を負うことは避けねばならない。
日本の国益を維持しつつ、中国、インドを同じ枠組みに引き入れる。極めて難しい交渉となるだろうが、それができなければ、日本が不利な立場に追いやられた京都議定書の繰り返しとなる。
〈安原の感想〉― 目先の小利にこだわる国益論を排す
焦点は、「気温上昇を産業革命前に比べて2度に抑えるには先進国が20年までに排出量を90年比で25〜40%削減する必要がある」(IPCC報告)という点である。「次期枠組み交渉はこれを前提に議論を進めているが、日本の中期目標はそれとの整合性を問われる」という日経の指摘はもっともである。「90年比8%の削減」という日本案ではとても整合性があるとは考えにくい。
一方、読売の社説は、このIPCC報告の主張に反論することに主眼があると読める。「大幅な削減には厳しい排出規制が必要だ。それは経済の停滞や国民の負担増につながる」という指摘一つをみても明らかである。
読売は「日本の国益を維持しつつ、・・・」とも述べている。この国益とは何を意味しているのか。地球温暖化が一段と進行すれば、干ばつ、洪水、海面上昇、食料生産低下など計り知れない、しかも後戻りできない被害、災厄が予想されている。それを回避するためにも、CO2排出を大幅に削減し、低炭素社会づくりを急がねばならない。それは新たな機会創出という変革への挑戦でもある。こういう時代の要請に背を向けて、目先の小利にこだわるような国益論を振りかざしているときではない。
▽国際環境NGOの声明(1)― 麻生首相はヒーローになれない
国際環境NGOの発言・主張は一般紙ではあまり報道されないので、ここで紹介する。
その一つ、WWF(世界自然保護基金)ジャパンは6月10日、地球温暖化対策に向けた政府の中期目標に対する声明を発表し、《「05年比15%削減」=「90年比8%削減」ではヒーローになれない!》と指摘している。その要旨は以下の通り。
WWFジャパンは他のNGOと共同で、新聞の意見広告などを通じ、麻生首相に温暖化対策の「ヒーロー」になることを訴えてきた。しかし、この削減目標「90年比8%削減」では、国際市民社会のヒーローには、到底なることはできない。理由は、3つある。
その1)温暖化の影響を最小限に食い止めるためには不十分
京都議定書の目標は2012年までに90年比「6%削減」であり、2020年までに「8%削減」では、京都議定書以降に明らかになってきた温暖化問題の緊急性に応えているとは言えない。
京都議定書の「6%削減」については、「森林吸収源による3.8%削減」、「京都メカニズムによる1.6%削減」を計上できるので、実質的には「0.6%削減」でしかなく、そこからすれば進歩という主張も見受けられる。しかし、それは極めて内向きな理屈である。国際公約はあくまで「6%削減」である。それをどのように達成するのかは国内の議論でしかない。議定書採択から12年経った今、「6%削減は厳しい」という言い訳は通用しない。
その2)国際社会の一員としての日本が果たすべき責任を果たしていない
この目標では、国際社会の一員としての責任を十分に果たしていない。他の先進国の目標に関する意欲にも悪影響を与え、途上国の削減行動への参加意欲も削ぐ可能性がある。そうなれば、日本政府が度々主張している「全ての国々が参加する枠組み」の達成すら危うくなる。
その3)日本を低炭素社会に変革するためには不十分
この目標では、あくまで現状の延長線上にしか2020年を見ていない。経済危機、人口減少など、日本が転換期に来ていることは確かである。いずれにせよ、日本は今の経済社会構造を変革しなければならない。現状の延長線上におかれた目標では、変革は起きるはずがない。
日本が誇りにしてきたエネルギー効率も、90年以降は改善が滞っているのは統計から見て明らかである。また国際的にも、70年代以降に確保した優位性は失われつつある。今一度、刺激がなければ、いずれ追い抜かれてしまう。
WWFジャパン 自然保護室気候変動プログラム・グループリーダー 山岸尚之のコメント
「この中期目標に関するこれまでの議論は、そもそも、何のためにこの目標が必要なのか、という部分が抜けてしまっていた。温暖化対策の費用が高く、いかに難しいかという点は語られたが、温暖化によって、どのような被害が起きるのか、それをどうやって最小限に抑えるのかという観点が希薄だった。特に、日本のように食糧などを海外に頼っている率が高い国にとっては、日本だけでなく、世界全体に対する温暖化の影響をもっと重視すべきだった。京都議定書のホスト国が、次の枠組みへ向けての合意形成にリーダーシップを発揮できないことが残念である」
▽国際環境NGOの声明(2)― 先進国としての責任放棄
もう一つ、FOEJapan(Friends of the Earth Japan)は6月10 日、日本の中期目標の発表に関して《「90 年比ー8%」では先進国としての責任放棄》と題して以下の声明(要旨)を発表した。
この日本の発表は、京都議定書の次の国際枠組み合意に向けた交渉に大きく水を差すものであり、気候変動の深刻な影響を受ける途上国の人々の怒りを呼ぶものである。日本は、科学の警告に基づき、先進国としての責任を果たす中期目標として、1990 年比25%以上の削減を約束すべきである。
国際社会は、人類の生存を脅かす危険な温暖化の影響を回避することを目的として次期枠組み交渉を進めている。IPCC の第4次報告書の警告に基づき、先進国には2020年に少なくとも1990 年比25〜40%の削減が求められることは、交渉のベースとなる認識として確認されている。歴史的排出責任および技術力・経済力のある先進国が、率先した削減を約束することが、新興国、途上国を含む新たな枠組み合意のためには不可欠である。
しかし今回の中期目標検討作業は、この国際社会の常識を恣意的に無視し、経済界の思惑どおりの低い目標が着地点となるように進められた。シナリオ作成は、20 世紀型の産業構造からの変革なしの前提条件のもとに行われたため、選択肢はいずれも低い目標に留まった。京都議定書の次の目標であるにもかかわらず、これより増加、横ばいの選択肢が含まれていたことは、極めて恥ずべきものであり、本来であれば、30%、40%も選択肢に含めるべきであった。
さらに、産業構造変革なしの前提条件から家庭の負担が強調され、温暖化影響への対策コストや長期的な投資回収を含めずに経済へのマイナス影響が大きいと結論づけられていることで、国民を誤った判断に誘導するものであった。
今回の中期目標の検討は、国内における省エネ等の対策による化石燃料由来の排出削減等に限り、海外における排出枠購入や森林吸収を含まないとしている。その国内対策分が8%ではあまりに低すぎる。欧州がエネルギー消費に占める再生可能エネルギーの割合を2020 年までに20%に拡大することを明言しているように、国内における削減ポテンシャルへの取組みを最優先し、海外でのオフセット(埋め合わせ)を念頭に置くべきではない。国内対策の先延ばしは低炭素経済へのシフトにおいて、日本が他国に比べ大きく遅れをとることを意味し、日本の将来を担う世代にツケを負わせることになる。
日本政府は、12 月のコペンハーゲン会合に向けて、中期目標を再検討し、大幅に引き上げるべきである。先進国としての責任を放棄したに等しい「90 年比8%削減」では、日本は「世界の笑いもの」どころか「無責任な嫌われもの」になってしまうであろう。
〈安原の感想〉― 国際感覚からの批判
2つの声明からは国際環境NGOの面々が切歯扼腕(せっしやくわん)している姿が浮かび上がってくる。日本は「世界の笑いもの」どころか「無責任な嫌われもの」になってしまう ― という表現はその一例にすぎない。NGOのメンバーは、ドイツ・ボンで6月12日まで2週間にわたって開かれた「国連・気候変動に関する会議」の周辺に詰めかけており、会議の雰囲気を身近に感じとることができる位置にいる。
欧州連合(EU)は、温室効果ガスの削減に積極的であり、特にドイツは「先進国の中の環境先進国」という折紙つきだから、日本とはまるで雰囲気が違うだろう。そこで感じとる「国際感覚」からみれば、日本の中期目標は「我慢できない」、「恥ずかしい」という批判的気分になるのも無理はない。
しかし勝負はこれからである。環境問題では無視に近い姿勢だったブッシュ前米大統領とは違って、オバマ現米大統領はグリーン・ニューディールを掲げて積極的である。このままでは環境問題で日本が先進国の中で最後尾をもたもたしているということにもなりかねない。そういう「環境不熱心国・日本」という汚名を甘受するわけにはいかない。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
麻生首相が発表した日本の温室効果ガス排出削減に関する中期目標に批判が広がっている。欧州諸国が基準年(1990年)比で20%以上を削減させる中期目標を掲げているのに対し、日本は同年比8%削減といかにも低いからである。経済界の消極的な姿勢の反映であり、このままでは「環境不熱心国・日本」という汚名を着せられることにもなりかねない。そういう汚名をどう返上していくか、そのカギは温室効果ガス排出を大幅に削減し、低炭素社会づくりを急ぐことである。それは新たな機会創出という変革への挑戦でもある。(09年6月13日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
▽中期目標(90年比)― 日本8%減、ヨーロッパ諸国20%以上減
麻生首相が6月10日、発表した二酸化炭素(CO2)など温室効果ガスの排出削減の中期目標は以下の通りである。
・2020年までに、日本全体の排出量を05年に比べて15%削減する。
・上記の15%削減は従来基準の1990年比では8%減にとどまる。
15%削減と8%減という数字の開きはどこから生じるのか。1997年に採択された京都議定書では日本は「08〜12年に90年比で6%減」を約束していた。ところが実際には6%減どころか、約9%の増加となっている。このため基準年を、増えた後の05年に移動させれば、削減幅は見かけでは大きくなる。こういう操作で削減幅を大きく見せているが、他の先進国はどうなっているのか。日本も含めて各国の中期目標(削減幅)、基準年は以下の通り。
日本=15%(基準年2005年)、8%(基準年90年)
米国=14%(同05年)、4%(同90年)
欧州連合(EU)・基準年はいずれもみな90年=20%または30%、ドイツ=40%、イギリス=34%、スウェーデン=30%、フランス=20%、ノルウェー=30%
以上から分かるように日本の基準年は米国式の05年に同調しており、基準年を90年にとれば日米ともに削減幅は一ケタにとどまり、一方、欧州諸国は20%を超えている。
▽日本政府の中期目標をメディアはどう論じたか
大手メディアは中期目標についてどう論じたか。まず大手紙社説(6月11日付)の見出しを紹介する。
*日本経済新聞=国際交渉を主導できる中期目標なのか
*朝日新聞=15%削減 低炭素革命の起爆剤に
*毎日新聞=中期削減目標 意志と理念が伝わらぬ
*東京新聞=数値より大切なもの 温暖化対策の中期目標
*読売新聞=CO2中期目標 多難な国際交渉が待っている
一読した印象では日本経済新聞社説が批判・疑問点を指摘しており、一方、読売新聞社説は麻生太郎首相の立場と経済界の考え方を反映させようと努める社説となっていて、対照的である。そこで2つの社説(要点)を以下に紹介する。
〈日本経済新聞〉
麻生太郎首相が決断した2020年までに温暖化ガスの排出を05年比で15%削減するという中期目標でまず問われるのは論拠である。
中期目標は排出削減を比較する基準年をこれまで議論されてきた1990年から05年に移し、数値を米欧とそろえてみせている。だが、05年の排出量は欧州が90年比で減っているのに対し日本は約8%増。増加年を基準にして見かけの数値を高め、問題の本質をそらしていないか。
温暖化防止は将来の子孫に残すべき地球のありようを問うている。科学が予見している地球規模の気候変動と被害を抑える強い意志があるか。それが問題の本質である。目先の利益にとらわれず、将来をにらんで経済や社会を変える。その強い意志を示すのが政治の役割である。
中期目標からこの強い意志はほとんど見えてこない。欧州連合(EU)は2100年に産業革命以来の温度上昇を2度以下に抑えるとの理念のもと、20年に90年比20%減の目標を掲げている。EUと理念を共有できず、溝は深まったのではないか。
国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は気温上昇を2〜3度に抑えるには先進国が20年までに排出量を90年比で25〜40%削減する必要があると指摘している。次期枠組み交渉はこれを前提に議論を進めているが、日本の中期目標はそれとの整合性を問われるだろう。
〈読売新聞〉
大幅な削減には厳しい排出規制が必要だ。それは経済の停滞や国民の負担増につながる。14%の削減でさえ、国内総生産(GDP)を押し下げ、失業者が11万〜19万人増えるという試算がある。
削減率について、首相が「大きいほど良いという精神論を繰り返すのは、国民に対して無責任だ」と指摘したのは的を射ている。
忘れてはならないのは、公平性の視点である。首相は、「日本だけが不利になることがないように、国際交渉に全力で取り組む」と語った。
先進国間で省エネの進展に応じて削減率を割り当てる手法の導入などを訴えていく必要がある。
大量排出国の中国、インドの参加が、ポスト京都の絶対条件である。しかし、一方で、両国の要求を丸のみして、非現実的な削減率を負うことは避けねばならない。
日本の国益を維持しつつ、中国、インドを同じ枠組みに引き入れる。極めて難しい交渉となるだろうが、それができなければ、日本が不利な立場に追いやられた京都議定書の繰り返しとなる。
〈安原の感想〉― 目先の小利にこだわる国益論を排す
焦点は、「気温上昇を産業革命前に比べて2度に抑えるには先進国が20年までに排出量を90年比で25〜40%削減する必要がある」(IPCC報告)という点である。「次期枠組み交渉はこれを前提に議論を進めているが、日本の中期目標はそれとの整合性を問われる」という日経の指摘はもっともである。「90年比8%の削減」という日本案ではとても整合性があるとは考えにくい。
一方、読売の社説は、このIPCC報告の主張に反論することに主眼があると読める。「大幅な削減には厳しい排出規制が必要だ。それは経済の停滞や国民の負担増につながる」という指摘一つをみても明らかである。
読売は「日本の国益を維持しつつ、・・・」とも述べている。この国益とは何を意味しているのか。地球温暖化が一段と進行すれば、干ばつ、洪水、海面上昇、食料生産低下など計り知れない、しかも後戻りできない被害、災厄が予想されている。それを回避するためにも、CO2排出を大幅に削減し、低炭素社会づくりを急がねばならない。それは新たな機会創出という変革への挑戦でもある。こういう時代の要請に背を向けて、目先の小利にこだわるような国益論を振りかざしているときではない。
▽国際環境NGOの声明(1)― 麻生首相はヒーローになれない
国際環境NGOの発言・主張は一般紙ではあまり報道されないので、ここで紹介する。
その一つ、WWF(世界自然保護基金)ジャパンは6月10日、地球温暖化対策に向けた政府の中期目標に対する声明を発表し、《「05年比15%削減」=「90年比8%削減」ではヒーローになれない!》と指摘している。その要旨は以下の通り。
WWFジャパンは他のNGOと共同で、新聞の意見広告などを通じ、麻生首相に温暖化対策の「ヒーロー」になることを訴えてきた。しかし、この削減目標「90年比8%削減」では、国際市民社会のヒーローには、到底なることはできない。理由は、3つある。
その1)温暖化の影響を最小限に食い止めるためには不十分
京都議定書の目標は2012年までに90年比「6%削減」であり、2020年までに「8%削減」では、京都議定書以降に明らかになってきた温暖化問題の緊急性に応えているとは言えない。
京都議定書の「6%削減」については、「森林吸収源による3.8%削減」、「京都メカニズムによる1.6%削減」を計上できるので、実質的には「0.6%削減」でしかなく、そこからすれば進歩という主張も見受けられる。しかし、それは極めて内向きな理屈である。国際公約はあくまで「6%削減」である。それをどのように達成するのかは国内の議論でしかない。議定書採択から12年経った今、「6%削減は厳しい」という言い訳は通用しない。
その2)国際社会の一員としての日本が果たすべき責任を果たしていない
この目標では、国際社会の一員としての責任を十分に果たしていない。他の先進国の目標に関する意欲にも悪影響を与え、途上国の削減行動への参加意欲も削ぐ可能性がある。そうなれば、日本政府が度々主張している「全ての国々が参加する枠組み」の達成すら危うくなる。
その3)日本を低炭素社会に変革するためには不十分
この目標では、あくまで現状の延長線上にしか2020年を見ていない。経済危機、人口減少など、日本が転換期に来ていることは確かである。いずれにせよ、日本は今の経済社会構造を変革しなければならない。現状の延長線上におかれた目標では、変革は起きるはずがない。
日本が誇りにしてきたエネルギー効率も、90年以降は改善が滞っているのは統計から見て明らかである。また国際的にも、70年代以降に確保した優位性は失われつつある。今一度、刺激がなければ、いずれ追い抜かれてしまう。
WWFジャパン 自然保護室気候変動プログラム・グループリーダー 山岸尚之のコメント
「この中期目標に関するこれまでの議論は、そもそも、何のためにこの目標が必要なのか、という部分が抜けてしまっていた。温暖化対策の費用が高く、いかに難しいかという点は語られたが、温暖化によって、どのような被害が起きるのか、それをどうやって最小限に抑えるのかという観点が希薄だった。特に、日本のように食糧などを海外に頼っている率が高い国にとっては、日本だけでなく、世界全体に対する温暖化の影響をもっと重視すべきだった。京都議定書のホスト国が、次の枠組みへ向けての合意形成にリーダーシップを発揮できないことが残念である」
▽国際環境NGOの声明(2)― 先進国としての責任放棄
もう一つ、FOEJapan(Friends of the Earth Japan)は6月10 日、日本の中期目標の発表に関して《「90 年比ー8%」では先進国としての責任放棄》と題して以下の声明(要旨)を発表した。
この日本の発表は、京都議定書の次の国際枠組み合意に向けた交渉に大きく水を差すものであり、気候変動の深刻な影響を受ける途上国の人々の怒りを呼ぶものである。日本は、科学の警告に基づき、先進国としての責任を果たす中期目標として、1990 年比25%以上の削減を約束すべきである。
国際社会は、人類の生存を脅かす危険な温暖化の影響を回避することを目的として次期枠組み交渉を進めている。IPCC の第4次報告書の警告に基づき、先進国には2020年に少なくとも1990 年比25〜40%の削減が求められることは、交渉のベースとなる認識として確認されている。歴史的排出責任および技術力・経済力のある先進国が、率先した削減を約束することが、新興国、途上国を含む新たな枠組み合意のためには不可欠である。
しかし今回の中期目標検討作業は、この国際社会の常識を恣意的に無視し、経済界の思惑どおりの低い目標が着地点となるように進められた。シナリオ作成は、20 世紀型の産業構造からの変革なしの前提条件のもとに行われたため、選択肢はいずれも低い目標に留まった。京都議定書の次の目標であるにもかかわらず、これより増加、横ばいの選択肢が含まれていたことは、極めて恥ずべきものであり、本来であれば、30%、40%も選択肢に含めるべきであった。
さらに、産業構造変革なしの前提条件から家庭の負担が強調され、温暖化影響への対策コストや長期的な投資回収を含めずに経済へのマイナス影響が大きいと結論づけられていることで、国民を誤った判断に誘導するものであった。
今回の中期目標の検討は、国内における省エネ等の対策による化石燃料由来の排出削減等に限り、海外における排出枠購入や森林吸収を含まないとしている。その国内対策分が8%ではあまりに低すぎる。欧州がエネルギー消費に占める再生可能エネルギーの割合を2020 年までに20%に拡大することを明言しているように、国内における削減ポテンシャルへの取組みを最優先し、海外でのオフセット(埋め合わせ)を念頭に置くべきではない。国内対策の先延ばしは低炭素経済へのシフトにおいて、日本が他国に比べ大きく遅れをとることを意味し、日本の将来を担う世代にツケを負わせることになる。
日本政府は、12 月のコペンハーゲン会合に向けて、中期目標を再検討し、大幅に引き上げるべきである。先進国としての責任を放棄したに等しい「90 年比8%削減」では、日本は「世界の笑いもの」どころか「無責任な嫌われもの」になってしまうであろう。
〈安原の感想〉― 国際感覚からの批判
2つの声明からは国際環境NGOの面々が切歯扼腕(せっしやくわん)している姿が浮かび上がってくる。日本は「世界の笑いもの」どころか「無責任な嫌われもの」になってしまう ― という表現はその一例にすぎない。NGOのメンバーは、ドイツ・ボンで6月12日まで2週間にわたって開かれた「国連・気候変動に関する会議」の周辺に詰めかけており、会議の雰囲気を身近に感じとることができる位置にいる。
欧州連合(EU)は、温室効果ガスの削減に積極的であり、特にドイツは「先進国の中の環境先進国」という折紙つきだから、日本とはまるで雰囲気が違うだろう。そこで感じとる「国際感覚」からみれば、日本の中期目標は「我慢できない」、「恥ずかしい」という批判的気分になるのも無理はない。
しかし勝負はこれからである。環境問題では無視に近い姿勢だったブッシュ前米大統領とは違って、オバマ現米大統領はグリーン・ニューディールを掲げて積極的である。このままでは環境問題で日本が先進国の中で最後尾をもたもたしているということにもなりかねない。そういう「環境不熱心国・日本」という汚名を甘受するわけにはいかない。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
資本主義体制の克服を目指して
安原和雄
「変革のアソシエ」という名の新しい運動体が発足した。掲げるスローガンは「資本主義に対抗し、新しい地平を開く批判的・創造的知性の舫(もやい)を!」、「違いを結ぶ批判と創造の新機軸を構築しよう!」である。このスローガンからも分かるように「変革のアソシエ」は資本主義体制そのものに批判の目を向け、克服していくことを目指している。この資本主義体制の克服を視野に収めている点では従来の反戦反核・平和運動、憲法改悪反対運動、労働運動などとは性格を異にしているところに新鮮さがある。(09年6月8日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
▽「もう一つの世界への希望を育てること」
「変革のアソシエ」発足総会が09年6月6日、東京・千代田区神田駿河台の総評会館で開かれ、正式に発足した。共同代表に伊藤誠・東京大学名誉教授、本山美彦・京都大学名誉教授、足立眞理子・お茶の水女子大学准教授ら数名のほか、事務局長に大野和興・農業ジャーナリストがそれぞれ就任した。
総会では「変革アソシエ」の「呼びかけ文」(後述)と「会則」が採択された。「会則」は会の目的について「現代資本主義がもたらしている格差の拡大、生き甲斐の喪失、生活と労働の破壊、自然と人間の荒廃を深く憂慮し、それに対抗する批判的知性の広範な結集と展開をはかり、もう一つの世界への希望を育てること」と明記している。
また同会のあり方として「この目的を実現するために会員の平等な自発性を尊重しつつ、会員相互の知的な交流、啓発、連帯のために適切な諸活動を企画し、実行する協働組織として設立される」とうたっている。
なお同会の事務所所在地は以下の通り。
〒164−0001 東京都中野区中野2−23−1 ニューグリーンビル3F309号
TEL:03(5342)1395 FAX:03(6382)6538
▽「生きていてよかったなあー、という世の中にしたい」
総会に続いて発足記念講演とシンポジウムが行われた。会場には200人近い現代版「志士」たちが集まった。講演は本山美彦氏による「世界恐慌と危機の真相 ― わたしたちはどこへ向かうのか」で、つぎの柱からなっている。
はじめに ― GM破綻=金融資本主義終焉の象徴
1 現代資本主義の最終局面=証券化 ― 時間搾取システムとその変形
2 金融寡頭制 ― 資本主義精神の消滅
3 ソマリア ― システムからこぼれ落ちた民衆の惨状
4 辺野古新基地協定 ― 結集される沖縄民衆の怒り
おわりに ― 作ろう新しい世界を
内容の詳しい紹介は割愛して、ここでは「おわりに ― 作ろう新しい世界を」(全文)に限って以下に書き留めておく。
グローバリズムには、「普遍性強制」が決定的にまといついていた。それは西洋中心史観、最近では米国普遍性史観として人々の心をとらえていた。しかしいまや私たちは、公然と、米国的普遍性を「似而非(えせ)普遍性」、米国的グローバリズムを「虚偽の共同性」として拒否することができるようになった。
いまでは真の変革を生み出す人々の真の連合を生み出すことができる。「結」(ゆい)の共同作業による「舫」(もやい)の場を作り出すことができる。
人類は、「アソシエーション社会」の大道を紆余曲折を経ながらも確実に歩んできた。自然と人間、人間と人間、そうした折り合いが世界的に人類史的に実現されようとしている。私たちは、「資本の商品化」がもたらす金融の暴走を十分に経験してきた。いまや労働を人間の元に取り返すことが緊要である。国家と市場は残存させざるを得ないだろう。しかしそれには資本主義を廃棄させるアソシエの介在がなければならない。
人間には人間の行があり、動物には動物の行がある。植物にも、水土にも行がある。そうした「天地人三才の徳」を会得して、私たちは人間の行として「変革のアソシエ」を推し進めよう。
生きていてよかったなあー、という世の中にしたい。
末尾の「生きていてよかったなあー、という世の中にしたい」は配布された講演原稿にはなかったが、その場で講演者がつけ加えたものである。
▽「呼びかけ文」― 資本主義は内部から自己崩壊
発足総会で採択された「変革のアソシエ」の呼びかけ文(大要)を以下に紹介する。その主見出しは「違いを結ぶ、批判と創造の新機軸を構築しましょう」である。
社会の至る所でほころびが目立つようになった。一握りの金融資本家が、公の富を私物化し、むさぼり食っている。強欲資本主義の先頭を進むアメリカでは、社会の全資産の半分が、人口比にして100万分の1でしかない、一握りの金満家の手にある。彼らが世界を破壊してしまった。日本も例外ではない。日本の所得格差を基準とする貧困度もOECD諸国の中ではビリから3番目で、アメリカはメキシコに次いでビリから2番目だ。
社会から倫理性・責任感・安全性・生き甲斐が急速に失われてきた。その大きな要因は、想像を絶する経済格差の存在である。アメリカ型金融資本主義は、現代資本主義の究極の形で、このシステムこそが、私たちの生活と労働を破壊している。
サブプライム問題の深刻化に象徴されているように、金融恐慌の津波が世界を襲っている。資本主義は、内在的な不安定性を深刻なかたちで露呈し、あきらかに外的な力によってではなく、内部から自己崩壊現象を示しているのだ。いまや、ほんとうにスケールの大きな歴史の危機と転機とが共に訪れているのだ。
それとともに孤独な個人に分断されてストレスを内部にため込みながら、苦しむ人々が増えている。日本では15分に一人が自殺に追い込まれている。なかでも女性へのしわ寄せはこれ以上放置できないほどの過酷なもので、民間企業で生涯働いても、自らの生活を支えるだけの賃金を得る女性は、ごくわずかの人々にすぎない。
現実に進行しているのは、私たちが共に生きていくことの絶望的な困難さであり、社会そのものの存立基盤の破壊なのだ。
さらに地球温暖化、資源枯渇のおそれ、農村や山林の荒廃などから、人間の生存基盤となるべき自然環境破壊も深刻な問題になっている。いまや近代以降の資本主義市場経済の歴史的限界が人間と自然の深刻な荒廃・破壊に示されている。
にもかかわらず日本ではこの忌まわしい時代に反抗する批判的知性の力が強くなっているとはいえない。新自由主義イデオロギーが猛威を振るったこの30年間で、資本主義体制に批判的に対峙する思想、文化、理論の戦列から多くの人々が離れた。新自由主義の重圧のもとでの労働運動、社会諸運動の内部分裂がそうした情況を生み出した。
いま必要なことは、社会変革の新しい基軸を早急に構築することである。資本主義に反抗し、新しい地平を開く批判的・創造的知性の舫(もやい)を生み出すことである。違いを結ぶ批判と創造の星座を作り出すことが喫緊に重要なことである。
世界ではアメリカ流の資源略奪型グローバリズムへの抵抗が強くなり、アメリカの軍事力で圧殺され続けてきた民族の尊厳回復を目指す運動が燃えさかっている。
アメリカ帝国主義は急速に世界から孤立する様相を深めている。
日本では戦前には脱亜入欧の近代国家形成がアジア人民の犠牲の上に遮二無二進められた。戦後では日米安保体制の下で、日本の保守層は対米従属を国是としてきた。いまその構造が行き詰まったのだ。私たちはいまこそ、政治的、経済的、文化的に脱アメリカの自治・生活スタイルを構築しなければならない。
世界に吹き荒れるこうした抵抗の風を、私たちもしっかりと受け止め、もっと大きな風を起こすべく、謙虚な自己反省を忘れずに、批判的・創造的知性を結集すべきである。
人間の尊厳を踏みにじる労働力商品化の深化に抵抗し、反安保、反改憲、沖縄の解放を目指す従来からの反資本主義運動をもっと大胆に展開すべきである。そうした反資本主義の文化的・知的対抗運動の根底のひとつに、被差別部落民、先住アイヌ民族、琉球民族、在日朝鮮民族・アジア人などの人々の困難な闘いも大切に据えよう。差別と分断は、権力システムから打ち出されたものだが、私たちの心の中にも、差別と分断に呼応する一面もあるのではないか。
それぞれの違いを意識しつつも、連帯の可能性の絆でお互いが結ばれれば、そこには差別、分断、格差、貧困への強固な抵抗の地場が形成されるだろう。
こうした可能性の絆、新しい基軸の拡充と構築という営為の上に、農漁村の崩壊・都市における貧困の累積、様々な格差、因習・慣行と無自覚による女性差別、等々を食い止める広範な人々のアソシエが形成されるのだ。
現在は、危機の頂点である。それは、古代ギリシャの哲人、ヒポクラテスが喝破したクライシスである。究極の危機を迎えたとき、人間は劇的な回復力を発揮する。そうした極限状態がクライシスと呼ばれているものなのだ。
資本主義そのものを克服し、新しい価値観に基づく新しい時代の創造を目指して、それぞれの生活空間・運動空間で苦闘している現場の知を尊重しつつ、広く世界の批判的知性との交流・協力も大切に、志を新たにさまざまな分野での課題や知的作業を重ねあい、歴史の危機を突破する希望を育みたい。
こうした私たちの願いに、協力し結集してくださることを心からお願いする。
▽資本主義をどう克服していくのか
以上の「呼びかけ文」から資本主義の批判と克服に関する指摘、分析の要点を再録すると、以下のようである。
*資本主義は内部崩壊
資本主義は、内在的な不安定性を深刻なかたちで露呈し、あきらかに外的な力によってではなく、内部から自己崩壊現象を示している。
*資本主義市場経済の歴史的限界
人間の生存基盤となるべき自然環境破壊も深刻な問題になっている。いまや近代以降の資本主義市場経済の歴史的限界が人間と自然の深刻な荒廃・破壊に示されている。
*アメリカ帝国主義は世界から孤立
世界ではアメリカ流の資源略奪型グローバリズムへの抵抗が強くなり、アメリカの軍事力で圧殺され続けてきた民族の尊厳回復を目指す運動が燃えさかっている。
アメリカ帝国主義は急速に世界から孤立する様相を深めている。
*日米安保体制の構造的行き詰まり
日米安保体制の下で、日本の保守層は対米従属を国是としてきた。いまその構造が行き詰まった。私たちはいまこそ、政治的、経済的、文化的に脱アメリカの自治・生活スタイルを構築しなければならない。
*資本主義そのものを克服
資本主義そのものを克服し、新しい価値観に基づく新しい時代の創造を目指して、(中略)志を新たにさまざまな分野での課題や知的作業を重ねあい、歴史の危機を突破する希望を育みたい。
〈安原の感想〉脱「資本主義」と脱「日米安保」と
記念講演で本山美彦氏は「いまや労働を人間の元に取り返すことが緊要である。国家と市場は残存させざるを得ないだろう。しかしそれには資本主義を廃棄させるアソシエの介在がなければならない」と述べた。
資本主義廃棄後にも国家と市場は残るという指摘である。それはそうだろう。問題はそういう新しい社会は、旧ソ連型とは異質の社会主義社会なのか、それとも新しいタイプの共同体社会なのか。後者らしいが、その具体的イメージははっきりしないし、今後の課題である。
一方、上述の「呼びかけ文」の分析、指摘から再録した諸点は傾聴に値する。特に資本主義の内部崩壊、歴史的限界という客観的事実と、日米安保体制の構造的行き詰まりという現実とは日本では表裏一体の関係にあるととらえたい。いいかえれば日米安保体制下の日本資本主義が内部崩壊、歴史的限界に直面しているということではないか。しかもこの新しい歴史的事態はアメリカ帝国主義の世界での孤立によって加速されており、変革の可能性は現実味を帯びてきている。
日本の目指すべき戦略目標は脱「資本主義」と脱「日米安保」であり、この二つは車の両輪にたとえることができる。
しかしそれを担うべき主体の弱さは否定できない。呼びかけ文が「日本ではこの忌まわしい時代に反抗する批判的知性の力が強くなっているとはいえない」と指摘している通りであろう。反転攻勢にどう出るか。今後の注目点である。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
安原和雄
「変革のアソシエ」という名の新しい運動体が発足した。掲げるスローガンは「資本主義に対抗し、新しい地平を開く批判的・創造的知性の舫(もやい)を!」、「違いを結ぶ批判と創造の新機軸を構築しよう!」である。このスローガンからも分かるように「変革のアソシエ」は資本主義体制そのものに批判の目を向け、克服していくことを目指している。この資本主義体制の克服を視野に収めている点では従来の反戦反核・平和運動、憲法改悪反対運動、労働運動などとは性格を異にしているところに新鮮さがある。(09年6月8日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
▽「もう一つの世界への希望を育てること」
「変革のアソシエ」発足総会が09年6月6日、東京・千代田区神田駿河台の総評会館で開かれ、正式に発足した。共同代表に伊藤誠・東京大学名誉教授、本山美彦・京都大学名誉教授、足立眞理子・お茶の水女子大学准教授ら数名のほか、事務局長に大野和興・農業ジャーナリストがそれぞれ就任した。
総会では「変革アソシエ」の「呼びかけ文」(後述)と「会則」が採択された。「会則」は会の目的について「現代資本主義がもたらしている格差の拡大、生き甲斐の喪失、生活と労働の破壊、自然と人間の荒廃を深く憂慮し、それに対抗する批判的知性の広範な結集と展開をはかり、もう一つの世界への希望を育てること」と明記している。
また同会のあり方として「この目的を実現するために会員の平等な自発性を尊重しつつ、会員相互の知的な交流、啓発、連帯のために適切な諸活動を企画し、実行する協働組織として設立される」とうたっている。
なお同会の事務所所在地は以下の通り。
〒164−0001 東京都中野区中野2−23−1 ニューグリーンビル3F309号
TEL:03(5342)1395 FAX:03(6382)6538
▽「生きていてよかったなあー、という世の中にしたい」
総会に続いて発足記念講演とシンポジウムが行われた。会場には200人近い現代版「志士」たちが集まった。講演は本山美彦氏による「世界恐慌と危機の真相 ― わたしたちはどこへ向かうのか」で、つぎの柱からなっている。
はじめに ― GM破綻=金融資本主義終焉の象徴
1 現代資本主義の最終局面=証券化 ― 時間搾取システムとその変形
2 金融寡頭制 ― 資本主義精神の消滅
3 ソマリア ― システムからこぼれ落ちた民衆の惨状
4 辺野古新基地協定 ― 結集される沖縄民衆の怒り
おわりに ― 作ろう新しい世界を
内容の詳しい紹介は割愛して、ここでは「おわりに ― 作ろう新しい世界を」(全文)に限って以下に書き留めておく。
グローバリズムには、「普遍性強制」が決定的にまといついていた。それは西洋中心史観、最近では米国普遍性史観として人々の心をとらえていた。しかしいまや私たちは、公然と、米国的普遍性を「似而非(えせ)普遍性」、米国的グローバリズムを「虚偽の共同性」として拒否することができるようになった。
いまでは真の変革を生み出す人々の真の連合を生み出すことができる。「結」(ゆい)の共同作業による「舫」(もやい)の場を作り出すことができる。
人類は、「アソシエーション社会」の大道を紆余曲折を経ながらも確実に歩んできた。自然と人間、人間と人間、そうした折り合いが世界的に人類史的に実現されようとしている。私たちは、「資本の商品化」がもたらす金融の暴走を十分に経験してきた。いまや労働を人間の元に取り返すことが緊要である。国家と市場は残存させざるを得ないだろう。しかしそれには資本主義を廃棄させるアソシエの介在がなければならない。
人間には人間の行があり、動物には動物の行がある。植物にも、水土にも行がある。そうした「天地人三才の徳」を会得して、私たちは人間の行として「変革のアソシエ」を推し進めよう。
生きていてよかったなあー、という世の中にしたい。
末尾の「生きていてよかったなあー、という世の中にしたい」は配布された講演原稿にはなかったが、その場で講演者がつけ加えたものである。
▽「呼びかけ文」― 資本主義は内部から自己崩壊
発足総会で採択された「変革のアソシエ」の呼びかけ文(大要)を以下に紹介する。その主見出しは「違いを結ぶ、批判と創造の新機軸を構築しましょう」である。
社会の至る所でほころびが目立つようになった。一握りの金融資本家が、公の富を私物化し、むさぼり食っている。強欲資本主義の先頭を進むアメリカでは、社会の全資産の半分が、人口比にして100万分の1でしかない、一握りの金満家の手にある。彼らが世界を破壊してしまった。日本も例外ではない。日本の所得格差を基準とする貧困度もOECD諸国の中ではビリから3番目で、アメリカはメキシコに次いでビリから2番目だ。
社会から倫理性・責任感・安全性・生き甲斐が急速に失われてきた。その大きな要因は、想像を絶する経済格差の存在である。アメリカ型金融資本主義は、現代資本主義の究極の形で、このシステムこそが、私たちの生活と労働を破壊している。
サブプライム問題の深刻化に象徴されているように、金融恐慌の津波が世界を襲っている。資本主義は、内在的な不安定性を深刻なかたちで露呈し、あきらかに外的な力によってではなく、内部から自己崩壊現象を示しているのだ。いまや、ほんとうにスケールの大きな歴史の危機と転機とが共に訪れているのだ。
それとともに孤独な個人に分断されてストレスを内部にため込みながら、苦しむ人々が増えている。日本では15分に一人が自殺に追い込まれている。なかでも女性へのしわ寄せはこれ以上放置できないほどの過酷なもので、民間企業で生涯働いても、自らの生活を支えるだけの賃金を得る女性は、ごくわずかの人々にすぎない。
現実に進行しているのは、私たちが共に生きていくことの絶望的な困難さであり、社会そのものの存立基盤の破壊なのだ。
さらに地球温暖化、資源枯渇のおそれ、農村や山林の荒廃などから、人間の生存基盤となるべき自然環境破壊も深刻な問題になっている。いまや近代以降の資本主義市場経済の歴史的限界が人間と自然の深刻な荒廃・破壊に示されている。
にもかかわらず日本ではこの忌まわしい時代に反抗する批判的知性の力が強くなっているとはいえない。新自由主義イデオロギーが猛威を振るったこの30年間で、資本主義体制に批判的に対峙する思想、文化、理論の戦列から多くの人々が離れた。新自由主義の重圧のもとでの労働運動、社会諸運動の内部分裂がそうした情況を生み出した。
いま必要なことは、社会変革の新しい基軸を早急に構築することである。資本主義に反抗し、新しい地平を開く批判的・創造的知性の舫(もやい)を生み出すことである。違いを結ぶ批判と創造の星座を作り出すことが喫緊に重要なことである。
世界ではアメリカ流の資源略奪型グローバリズムへの抵抗が強くなり、アメリカの軍事力で圧殺され続けてきた民族の尊厳回復を目指す運動が燃えさかっている。
アメリカ帝国主義は急速に世界から孤立する様相を深めている。
日本では戦前には脱亜入欧の近代国家形成がアジア人民の犠牲の上に遮二無二進められた。戦後では日米安保体制の下で、日本の保守層は対米従属を国是としてきた。いまその構造が行き詰まったのだ。私たちはいまこそ、政治的、経済的、文化的に脱アメリカの自治・生活スタイルを構築しなければならない。
世界に吹き荒れるこうした抵抗の風を、私たちもしっかりと受け止め、もっと大きな風を起こすべく、謙虚な自己反省を忘れずに、批判的・創造的知性を結集すべきである。
人間の尊厳を踏みにじる労働力商品化の深化に抵抗し、反安保、反改憲、沖縄の解放を目指す従来からの反資本主義運動をもっと大胆に展開すべきである。そうした反資本主義の文化的・知的対抗運動の根底のひとつに、被差別部落民、先住アイヌ民族、琉球民族、在日朝鮮民族・アジア人などの人々の困難な闘いも大切に据えよう。差別と分断は、権力システムから打ち出されたものだが、私たちの心の中にも、差別と分断に呼応する一面もあるのではないか。
それぞれの違いを意識しつつも、連帯の可能性の絆でお互いが結ばれれば、そこには差別、分断、格差、貧困への強固な抵抗の地場が形成されるだろう。
こうした可能性の絆、新しい基軸の拡充と構築という営為の上に、農漁村の崩壊・都市における貧困の累積、様々な格差、因習・慣行と無自覚による女性差別、等々を食い止める広範な人々のアソシエが形成されるのだ。
現在は、危機の頂点である。それは、古代ギリシャの哲人、ヒポクラテスが喝破したクライシスである。究極の危機を迎えたとき、人間は劇的な回復力を発揮する。そうした極限状態がクライシスと呼ばれているものなのだ。
資本主義そのものを克服し、新しい価値観に基づく新しい時代の創造を目指して、それぞれの生活空間・運動空間で苦闘している現場の知を尊重しつつ、広く世界の批判的知性との交流・協力も大切に、志を新たにさまざまな分野での課題や知的作業を重ねあい、歴史の危機を突破する希望を育みたい。
こうした私たちの願いに、協力し結集してくださることを心からお願いする。
▽資本主義をどう克服していくのか
以上の「呼びかけ文」から資本主義の批判と克服に関する指摘、分析の要点を再録すると、以下のようである。
*資本主義は内部崩壊
資本主義は、内在的な不安定性を深刻なかたちで露呈し、あきらかに外的な力によってではなく、内部から自己崩壊現象を示している。
*資本主義市場経済の歴史的限界
人間の生存基盤となるべき自然環境破壊も深刻な問題になっている。いまや近代以降の資本主義市場経済の歴史的限界が人間と自然の深刻な荒廃・破壊に示されている。
*アメリカ帝国主義は世界から孤立
世界ではアメリカ流の資源略奪型グローバリズムへの抵抗が強くなり、アメリカの軍事力で圧殺され続けてきた民族の尊厳回復を目指す運動が燃えさかっている。
アメリカ帝国主義は急速に世界から孤立する様相を深めている。
*日米安保体制の構造的行き詰まり
日米安保体制の下で、日本の保守層は対米従属を国是としてきた。いまその構造が行き詰まった。私たちはいまこそ、政治的、経済的、文化的に脱アメリカの自治・生活スタイルを構築しなければならない。
*資本主義そのものを克服
資本主義そのものを克服し、新しい価値観に基づく新しい時代の創造を目指して、(中略)志を新たにさまざまな分野での課題や知的作業を重ねあい、歴史の危機を突破する希望を育みたい。
〈安原の感想〉脱「資本主義」と脱「日米安保」と
記念講演で本山美彦氏は「いまや労働を人間の元に取り返すことが緊要である。国家と市場は残存させざるを得ないだろう。しかしそれには資本主義を廃棄させるアソシエの介在がなければならない」と述べた。
資本主義廃棄後にも国家と市場は残るという指摘である。それはそうだろう。問題はそういう新しい社会は、旧ソ連型とは異質の社会主義社会なのか、それとも新しいタイプの共同体社会なのか。後者らしいが、その具体的イメージははっきりしないし、今後の課題である。
一方、上述の「呼びかけ文」の分析、指摘から再録した諸点は傾聴に値する。特に資本主義の内部崩壊、歴史的限界という客観的事実と、日米安保体制の構造的行き詰まりという現実とは日本では表裏一体の関係にあるととらえたい。いいかえれば日米安保体制下の日本資本主義が内部崩壊、歴史的限界に直面しているということではないか。しかもこの新しい歴史的事態はアメリカ帝国主義の世界での孤立によって加速されており、変革の可能性は現実味を帯びてきている。
日本の目指すべき戦略目標は脱「資本主義」と脱「日米安保」であり、この二つは車の両輪にたとえることができる。
しかしそれを担うべき主体の弱さは否定できない。呼びかけ文が「日本ではこの忌まわしい時代に反抗する批判的知性の力が強くなっているとはいえない」と指摘している通りであろう。反転攻勢にどう出るか。今後の注目点である。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)
脱クルマ社会への模索と実践を
安原和雄
米国最大手の自動車メーカー・GMの経営破綻に伴う「国有化」は大きな波紋を広げている。この経営破綻と国有化が示唆するものは何か。多くの関心は経営再建はどのようにして可能なのかに向けられているが、肝心なことを見逃しているとはいえないか。それはクルマ社会そのものの終わり、いいかえればガソリン大量消費の車依存型時代の終わりの始まりではないか、という視点である。温暖化防止の観点からも、移動手段としてのクルマはもはや時代遅れの感が深い。脱クルマ社会への模索と実践を時代は求めている。(09年6月4日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
▽大手紙社説はGM国有化をどう論じたか
大手5紙の社説(6月2日付)が今回のGM(ゼネラル・モーターズ)国有化についてどう論じたかを紹介する。各紙社説の見出しはつぎの通り。
朝日新聞=米GM破綻 クルマ文明変革の機会に
東京新聞=GM国有化 『緑の社会』に残れるか
毎日新聞=GM国有化 再生への道のりは長い
読売新聞=GM破綻 “売れる車”が再建のカギだ
日本経済新聞=自己変革怠った巨大企業GMの破綻
私(安原)は朝日の「クルマ文明変革の機会に」と東京の「『緑の社会』に残れるか」という見出しに興味を感じ、どのように新しい視点を打ち出しているのかと期待を抱いて読んだ。しかし両紙ともに見出しのテーマをくわしく論じているわけではない。
朝日はつぎのように言及しているにすぎない。
燃費のいい小型車やハイブリッド車、電気自動車などの新製品をいかに開発し、効率的につくるか。その鍵を握るのは、経営陣と働く人々の意識変革だ。日本や欧州の車づくりから謙虚に学び、新しいグリーンな歴史を作るのだという気概を持てるか。突破口はそこにある ― と。
モデルになるのは「日本や欧州の車づくり」ということらしい。
一方、東京新聞は以下のように書いている。
ガソリン大量消費のスタイルは既に終わった。GMはオバマ大統領の「緑の新政策」に沿った脱化石燃料・低炭素化への転換を求められている。
自動車産業は米国が目指す緑の新政策の重要な一角を占める。新政策は化石燃料の大量消費から脱却し、風力などの新エネルギーに移行する大胆な社会変革だ。GMは大型の多目的スポーツ車などを主力に据えたため、ガソリンが値上がりすると消費者に敬遠され途端に売れ行きが失速した。
(中略)保護ではなく、自力で環境技術などの魅力を際立たせ、堂々と競争してもらいたい ― と。
ここでも車社会そのもののあり方よりも環境技術の枠内で論じているにすぎない。
他の3紙も、魅力ある売れる車をどうつくるか、GMの経営再建をどう図っていくかに力点を置いて論じている。米国自動車3大メーカーのうちクライスラーに続いて最大手GMの経営破綻、そして国有化の直後だから、そこに焦点を合わせるのはやむを得ないとしても、果たしてそれだけで十分なのだろうか。端的に指摘すれば、車社会そのものが果たして生き残れるのか、と問い直すときではないのか。いいかえれば車依存型社会は、もはや時代遅れではないのか、である。
これに関連して若干気になるのは、毎日社説が「最近は若い人を中心に自動車への興味が薄れている」と指摘している点である。若者の意識変化は何を意味しているのかをもっと論じてほしかった。重要なことは、若者たちは車に乗ること自体をかっこ悪いと感じ始めているのかどうか、である。
▽未来予測 ― 高速道路で自家用車は走っているか
ここでクルマ社会に関するつぎのような未来予測を紹介したい。
問い:30年後の未来の日本の高速道路で果たして自家用車は走っているだろうか?
答え:なにしろSFの未来予測に属する部分もあるので、正直にいって正解は分からない。しかし可能性を考えてみると、マイカーは恐らく走っていないのではないだろうか。環境破壊とエネルギー浪費型の元凶である自家用車がなお走っているようでは、人間が生存していく基本条件である環境が相当破壊されていることになる。マイカーは健在だが、肝心の人間様が息も絶え絶えという状態では落語のネタにはなっても、様にならない。高速道路を走る車としては高速バスが主体になっている可能性が高い。そのバスもソーラーカーになっているのではないか。
また日曜日など休祭日には人間がマラソンで汗を流しているかもしれない。あるいは「歩け歩け大会」を緑の豊かな山間地の高速道路のあちこちで盛大に催しているだろう。瀬戸大橋が開通する前日、多くの人々が「翌日からはもはや歩けない」というわけで、一斉に歩いて渡った事実がある。
本来は、人間の歩行が禁止されている高速道路だからこそ、そこで歩いたり、走ったりすることは、なによりのレジャーといえるかもしれない。それだけではなく、人間性回復への試みであり、さらに環境保全にとどまらず、破壊された環境を再生させ、新たに創造していく営為であるということになるだろう。
以上は、実は私(安原)が2000年末に書いた講義用教科書『知足の経済学・再論(上)』(足利工業大学研究誌『東洋文化』第20号、2001年1月刊)の一節で、その時点から30年後といえば、2030年の未来予測である。書いてから8年経た今日、GMの「国有化」、つまり車が売れなくなったという事実を目の前にして、この未来予測は一段と現実味を帯びてきたように感じている。
▽クルマ社会がもたらす悲劇と災厄と非効率
クルマ社会がどれだけの悲劇と災厄と非効率をもたらしているか、ここで改めて整理しておきたい。
*大量の人命破壊が毎年続く
交通事故による死亡者はかつて多いときには年間1万7000人に上っていた。最近では減ってはいるが、それでも年間約6000人である。負傷者は毎年100万人を超えている。あの阪神・淡路大震災の犠牲者は6000人を超えた。阪神・淡路大震災級の犠牲者が毎年出ていると考えれば、理解しやすいかも知れない。大震災の死亡者一覧表は、当時新聞等に掲載されたが、交通事故死亡者一覧表も年末にでもまとめてみてはどうか。
私自身、信号待ちしていた交差点で2、3メートル先で発生した交通事故を目撃した体験がある。被害者は軽傷で済んだが、それ以来事故は他人事ではないと痛感している。
*温暖化など環境の汚染・破壊を進める元凶
クルマ社会は工場・事業場、航空機などと並んで二酸化炭素(CO2)の排出によって温暖化を進める元凶の一つである。
しかも温暖化に伴うマイナスの影響は多様であることが見逃せない。温暖化に伴う災害の増加(台風の大型化と頻発、激しい雷雨、豪雨など異常気象による被害の増大)、食料危機(異常気象や病虫害の増加による食料生産の低下と飢饉の増大)、生態系への悪影響(森林の生育・再生能力への悪影響など)、健康への悪影響(熱波の影響による死亡者の急増など)、海面上昇による沿岸地域の水没など。
*自家用乗用車はエネルギー多消費型で非効率
自家用乗用車(マイカー)は、エネルギー多消費型である。わが国の交通機関別のエネルギー消費比率をみると、ざっと次のようになっている。
[旅客輸送=鉄道1、バス2、自家用乗用車6]
これは旅客輸送では1人を1鼠∩するのに鉄道1に対し、バス2、自家用乗用車6の比率でエネルギー消費を必要とすることを示している。つまり自家用車は鉄道よりも6倍のエネルギーを浪費し、それだけエネルギー消費効率が悪いといえよう。
もう一つ自家用車は輸送効率が低いこともあげなければならない。つまり道路の占有空間(1人当たり)が大き過ぎる。これは多数の乗客を収容できるバスと比較すれば、明瞭であろう。
このことはわが国の総合的な交通のあり方として自家用車というエネルギー消費効率、輸送効率ともに悪い車への依存度が高くなった結果、エネルギーを浪費し、CO2を発生させ、環境を破壊していく構造が定着してきたことを意味している。
もはや今後とも車社会を推進していくことは大いなる疑問といわなければならない。GM破綻と国有化はこのことを示すシグナルと受け止める必要があるのではないか。どう対応したらいいだろうか。
▽マイカー中心から公共交通活性化へ ― 富山市のケース
対応策の中心テーマは車への依存度をどう低下させていくかである。変革の方向は、今日のマイカー中心社会から鉄道、路面電車、バス、自転車、徒歩への重点的移行が不可欠である。脱クルマ社会づくりへの模索と実践を開始するときである。
ここでは08年7月政府から環境モデル都市に認定された富山市(全国89都市の応募のうち富山市を含む6都市が認定)のケースを紹介しよう。
富山市のホームページによると、森雅志・富山市長は「環境モデル都市の覚悟」と題する「市長ほっとエッセイ」でつぎのように書いている。
「環境モデル都市」認定は、モデル都市の二酸化炭素の排出量が少なくて成績が良いというのではなく、将来に向けて二酸化炭素の削減が期待できる都市であるという意味の認定である。
富山市の現状は決してほめられるような状況にはなく、様々な取り組みによって二酸化炭素排出量の削減を目指さなければならない。特に極端に車に依存している暮らし方を改めることが効果的である。そのために、公共交通を活性化させながらコンパクトなまちづくりを進めることを計画の中心に位置づけたことが評価された。モデル都市に認定されたことによって(中略)しっかりと結果を出すという責任を負う。自動車一辺倒の暮らし方から公共交通も使う暮らし方へ転換し、車の相乗りやエコドライブを心がけるなどの変化が求められている ― と。
市長のエッセイの眼目は2つある。一つは二酸化炭素排出量の削減のためには、極端に車に依存している暮らし方を改めること、もう一つは公共交通を活性化させること、である。
具体策としては以下のような地域に密着した安心・快適で環境にやさしい公共交通「富山ライトレール」(全国初のLRT=次世代型路面電車)の開業(06年4月)である。
・バリアフリーの低床車両を導入。車椅子やベビーカーでも楽に乗り降りできる。
・地域に密着した公共交通をめざし、新しい停車場の設置、高頻度運行などでサービスを向上させる。
・路面電車は道路混雑の緩和や交通事故の削減、二酸化炭素や窒素化合物の削減などに効果がある環境にやさしい乗り物である。
もう一つ紹介したいのは、「まいどはや」という名のコミュニティバスの活用である。運賃は1回100円(小学生以上)、午前9時から午後7時まで20分間隔で1日31便運行し、路線バスや市電など既存の交通網に接続しており、通勤、通学、買い物などに手軽な足として利用できるようになっている。
マイカー依存から脱出するためには、小回りが利いて、使い勝手のいいコミュニティバスは欠かせない必需品である。富山市はそのモデルにもなり得るのではないか。
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安原和雄
米国最大手の自動車メーカー・GMの経営破綻に伴う「国有化」は大きな波紋を広げている。この経営破綻と国有化が示唆するものは何か。多くの関心は経営再建はどのようにして可能なのかに向けられているが、肝心なことを見逃しているとはいえないか。それはクルマ社会そのものの終わり、いいかえればガソリン大量消費の車依存型時代の終わりの始まりではないか、という視点である。温暖化防止の観点からも、移動手段としてのクルマはもはや時代遅れの感が深い。脱クルマ社会への模索と実践を時代は求めている。(09年6月4日掲載、インターネット新聞「日刊ベリタ」、公共空間「ちきゅう座」に転載)
▽大手紙社説はGM国有化をどう論じたか
大手5紙の社説(6月2日付)が今回のGM(ゼネラル・モーターズ)国有化についてどう論じたかを紹介する。各紙社説の見出しはつぎの通り。
朝日新聞=米GM破綻 クルマ文明変革の機会に
東京新聞=GM国有化 『緑の社会』に残れるか
毎日新聞=GM国有化 再生への道のりは長い
読売新聞=GM破綻 “売れる車”が再建のカギだ
日本経済新聞=自己変革怠った巨大企業GMの破綻
私(安原)は朝日の「クルマ文明変革の機会に」と東京の「『緑の社会』に残れるか」という見出しに興味を感じ、どのように新しい視点を打ち出しているのかと期待を抱いて読んだ。しかし両紙ともに見出しのテーマをくわしく論じているわけではない。
朝日はつぎのように言及しているにすぎない。
燃費のいい小型車やハイブリッド車、電気自動車などの新製品をいかに開発し、効率的につくるか。その鍵を握るのは、経営陣と働く人々の意識変革だ。日本や欧州の車づくりから謙虚に学び、新しいグリーンな歴史を作るのだという気概を持てるか。突破口はそこにある ― と。
モデルになるのは「日本や欧州の車づくり」ということらしい。
一方、東京新聞は以下のように書いている。
ガソリン大量消費のスタイルは既に終わった。GMはオバマ大統領の「緑の新政策」に沿った脱化石燃料・低炭素化への転換を求められている。
自動車産業は米国が目指す緑の新政策の重要な一角を占める。新政策は化石燃料の大量消費から脱却し、風力などの新エネルギーに移行する大胆な社会変革だ。GMは大型の多目的スポーツ車などを主力に据えたため、ガソリンが値上がりすると消費者に敬遠され途端に売れ行きが失速した。
(中略)保護ではなく、自力で環境技術などの魅力を際立たせ、堂々と競争してもらいたい ― と。
ここでも車社会そのもののあり方よりも環境技術の枠内で論じているにすぎない。
他の3紙も、魅力ある売れる車をどうつくるか、GMの経営再建をどう図っていくかに力点を置いて論じている。米国自動車3大メーカーのうちクライスラーに続いて最大手GMの経営破綻、そして国有化の直後だから、そこに焦点を合わせるのはやむを得ないとしても、果たしてそれだけで十分なのだろうか。端的に指摘すれば、車社会そのものが果たして生き残れるのか、と問い直すときではないのか。いいかえれば車依存型社会は、もはや時代遅れではないのか、である。
これに関連して若干気になるのは、毎日社説が「最近は若い人を中心に自動車への興味が薄れている」と指摘している点である。若者の意識変化は何を意味しているのかをもっと論じてほしかった。重要なことは、若者たちは車に乗ること自体をかっこ悪いと感じ始めているのかどうか、である。
▽未来予測 ― 高速道路で自家用車は走っているか
ここでクルマ社会に関するつぎのような未来予測を紹介したい。
問い:30年後の未来の日本の高速道路で果たして自家用車は走っているだろうか?
答え:なにしろSFの未来予測に属する部分もあるので、正直にいって正解は分からない。しかし可能性を考えてみると、マイカーは恐らく走っていないのではないだろうか。環境破壊とエネルギー浪費型の元凶である自家用車がなお走っているようでは、人間が生存していく基本条件である環境が相当破壊されていることになる。マイカーは健在だが、肝心の人間様が息も絶え絶えという状態では落語のネタにはなっても、様にならない。高速道路を走る車としては高速バスが主体になっている可能性が高い。そのバスもソーラーカーになっているのではないか。
また日曜日など休祭日には人間がマラソンで汗を流しているかもしれない。あるいは「歩け歩け大会」を緑の豊かな山間地の高速道路のあちこちで盛大に催しているだろう。瀬戸大橋が開通する前日、多くの人々が「翌日からはもはや歩けない」というわけで、一斉に歩いて渡った事実がある。
本来は、人間の歩行が禁止されている高速道路だからこそ、そこで歩いたり、走ったりすることは、なによりのレジャーといえるかもしれない。それだけではなく、人間性回復への試みであり、さらに環境保全にとどまらず、破壊された環境を再生させ、新たに創造していく営為であるということになるだろう。
以上は、実は私(安原)が2000年末に書いた講義用教科書『知足の経済学・再論(上)』(足利工業大学研究誌『東洋文化』第20号、2001年1月刊)の一節で、その時点から30年後といえば、2030年の未来予測である。書いてから8年経た今日、GMの「国有化」、つまり車が売れなくなったという事実を目の前にして、この未来予測は一段と現実味を帯びてきたように感じている。
▽クルマ社会がもたらす悲劇と災厄と非効率
クルマ社会がどれだけの悲劇と災厄と非効率をもたらしているか、ここで改めて整理しておきたい。
*大量の人命破壊が毎年続く
交通事故による死亡者はかつて多いときには年間1万7000人に上っていた。最近では減ってはいるが、それでも年間約6000人である。負傷者は毎年100万人を超えている。あの阪神・淡路大震災の犠牲者は6000人を超えた。阪神・淡路大震災級の犠牲者が毎年出ていると考えれば、理解しやすいかも知れない。大震災の死亡者一覧表は、当時新聞等に掲載されたが、交通事故死亡者一覧表も年末にでもまとめてみてはどうか。
私自身、信号待ちしていた交差点で2、3メートル先で発生した交通事故を目撃した体験がある。被害者は軽傷で済んだが、それ以来事故は他人事ではないと痛感している。
*温暖化など環境の汚染・破壊を進める元凶
クルマ社会は工場・事業場、航空機などと並んで二酸化炭素(CO2)の排出によって温暖化を進める元凶の一つである。
しかも温暖化に伴うマイナスの影響は多様であることが見逃せない。温暖化に伴う災害の増加(台風の大型化と頻発、激しい雷雨、豪雨など異常気象による被害の増大)、食料危機(異常気象や病虫害の増加による食料生産の低下と飢饉の増大)、生態系への悪影響(森林の生育・再生能力への悪影響など)、健康への悪影響(熱波の影響による死亡者の急増など)、海面上昇による沿岸地域の水没など。
*自家用乗用車はエネルギー多消費型で非効率
自家用乗用車(マイカー)は、エネルギー多消費型である。わが国の交通機関別のエネルギー消費比率をみると、ざっと次のようになっている。
[旅客輸送=鉄道1、バス2、自家用乗用車6]
これは旅客輸送では1人を1鼠∩するのに鉄道1に対し、バス2、自家用乗用車6の比率でエネルギー消費を必要とすることを示している。つまり自家用車は鉄道よりも6倍のエネルギーを浪費し、それだけエネルギー消費効率が悪いといえよう。
もう一つ自家用車は輸送効率が低いこともあげなければならない。つまり道路の占有空間(1人当たり)が大き過ぎる。これは多数の乗客を収容できるバスと比較すれば、明瞭であろう。
このことはわが国の総合的な交通のあり方として自家用車というエネルギー消費効率、輸送効率ともに悪い車への依存度が高くなった結果、エネルギーを浪費し、CO2を発生させ、環境を破壊していく構造が定着してきたことを意味している。
もはや今後とも車社会を推進していくことは大いなる疑問といわなければならない。GM破綻と国有化はこのことを示すシグナルと受け止める必要があるのではないか。どう対応したらいいだろうか。
▽マイカー中心から公共交通活性化へ ― 富山市のケース
対応策の中心テーマは車への依存度をどう低下させていくかである。変革の方向は、今日のマイカー中心社会から鉄道、路面電車、バス、自転車、徒歩への重点的移行が不可欠である。脱クルマ社会づくりへの模索と実践を開始するときである。
ここでは08年7月政府から環境モデル都市に認定された富山市(全国89都市の応募のうち富山市を含む6都市が認定)のケースを紹介しよう。
富山市のホームページによると、森雅志・富山市長は「環境モデル都市の覚悟」と題する「市長ほっとエッセイ」でつぎのように書いている。
「環境モデル都市」認定は、モデル都市の二酸化炭素の排出量が少なくて成績が良いというのではなく、将来に向けて二酸化炭素の削減が期待できる都市であるという意味の認定である。
富山市の現状は決してほめられるような状況にはなく、様々な取り組みによって二酸化炭素排出量の削減を目指さなければならない。特に極端に車に依存している暮らし方を改めることが効果的である。そのために、公共交通を活性化させながらコンパクトなまちづくりを進めることを計画の中心に位置づけたことが評価された。モデル都市に認定されたことによって(中略)しっかりと結果を出すという責任を負う。自動車一辺倒の暮らし方から公共交通も使う暮らし方へ転換し、車の相乗りやエコドライブを心がけるなどの変化が求められている ― と。
市長のエッセイの眼目は2つある。一つは二酸化炭素排出量の削減のためには、極端に車に依存している暮らし方を改めること、もう一つは公共交通を活性化させること、である。
具体策としては以下のような地域に密着した安心・快適で環境にやさしい公共交通「富山ライトレール」(全国初のLRT=次世代型路面電車)の開業(06年4月)である。
・バリアフリーの低床車両を導入。車椅子やベビーカーでも楽に乗り降りできる。
・地域に密着した公共交通をめざし、新しい停車場の設置、高頻度運行などでサービスを向上させる。
・路面電車は道路混雑の緩和や交通事故の削減、二酸化炭素や窒素化合物の削減などに効果がある環境にやさしい乗り物である。
もう一つ紹介したいのは、「まいどはや」という名のコミュニティバスの活用である。運賃は1回100円(小学生以上)、午前9時から午後7時まで20分間隔で1日31便運行し、路線バスや市電など既存の交通網に接続しており、通勤、通学、買い物などに手軽な足として利用できるようになっている。
マイカー依存から脱出するためには、小回りが利いて、使い勝手のいいコミュニティバスは欠かせない必需品である。富山市はそのモデルにもなり得るのではないか。
(寸評、提案大歓迎! 下記の「コメント」をクリックして、自由に書き込んで下さい。実名入りでなくて結構です。 なお記事をプリントする場合、「印刷の範囲」を指定して下さい)















